CHANGES






 ヒカルがアキラ、夏目と理科室に到着してから数十分後。
 何をするでもなく、めいめいが違う方向を見てぼんやりと時間を過ごしていた教室の扉ががらりと開いた。
 誰かの来訪に驚く暇もなく、見覚えのない学生二人が後ろから突き飛ばされたように飛び込んで来る。ヒカルと夏目は呆気に取られて床に転がる二人を見た。
「よう、待たせたな、塔矢」
 低い声が響き、長身の男がずいと開いた扉から現れた。
「加賀……」
 ヒカルは思わず呟いた。
 三年生の加賀。ヒカルもよく見知っている彼は、校内ではちょっとした有名人だった。
 授業をしょっちゅうサボって教師に呼び出され、寮で堂々と煙草を吸って寮監に追い掛けられること多々、加えて着崩した制服のせいで見た目も真面目な学生とは言い難いが、成績は学年トップという意外さが人目を引く男だった。
 その上運動能力も高く、ヒカルのように体育系の部活に助っ人として呼ばれることも慣れているようで、去年のバスケ部の県大会予選では共にスコアラーとして味方同士でボールを取り合っていたものだ。
 理科室に飛び込んできた二人は、どうやら加賀に突き飛ばされたらしい。
 加賀はぽかんと自分を見ているヒカルに気付き、怪訝な顔をした。
「進藤? お前、なんでここにいる?」
「え……」
 加賀に問われて戸惑うヒカルに代わり、立ち上がってすっと前に出て来たアキラが口を開く。
「進藤はボクと同じく夏目くんに頼まれて一連の事件を調べていたんです、加賀先輩。――彼らが主犯ですか?」
 彼ら、と言いながら、アキラはちらりと青い顔で床に尻をついている二人の学生を見下ろした。
 加賀は頷いて、二人を顎でしゃくってみせる。
「ああ、お前の読み通りだ。ちょっとカマかけたらすぐに白状しやがった」
「ご協力有難うございます」
「ま、お前にゃ借りがあるからな」
 展開についていけないヒカルと夏目の前で、アキラと加賀は目配せしながらにやりと笑った。
 それからすぐに振り返ったアキラは、頭の上に疑問符を飛ばしているヒカルと夏目に説明をし始めた。
「そこに転がっている彼らが、幽霊の正体だよ。」
「え!?」
「幽霊が出た状況を聞いた時から、人間の仕業に違いないとは思っていた。あの新入生二人によれば、幽霊騒ぎがあった後に将棋部から勧誘を受けたと言うから、怪しいと思って調べていたんだ。去年の予算編成を見ると、囲碁部と将棋部はまとめて一括りにされていた。実績のない囲碁部に対して将棋部は県大会でも優秀な成績を残しているにも拘わらず、だ。囲碁部がなくなればメリットがあると考える将棋部の人間がいてもおかしくないだろう?」
 淡々と告げたアキラに、夏目は目を丸くしたまま言葉を失っていた。
 ヒカルは床を睨んで口唇を噛んでいる二人の将棋部員と、ドアのところで腕組みをしてアキラの話を聞いている加賀、そしてアキラを順番に見て、我慢できずに口を挟む。
「それって……こいつらが、囲碁部潰そうとしたってことか?」
「そういうことだ。新入部員さえ入らなければ、必然的に囲碁部はなくなるからね。不運にも入部希望の二人は心霊現象に弱くて、軽い脅し程度の悪戯を本物だと思い込んでしまった。揺らいでいるところに将棋部の勧誘をかけて、引き抜き完了さ」
「そんな……」
 呆然と呟いた夏目の声が理科室に響いた。
 加賀は腕組みをしたまま表情を変えずに、しかし薄らと目を細めて小さくなっている二人の囲碁部員を見据えた。
「こいつらの独断とは言え、部長の俺にも責任はあるからな」
「え、加賀って将棋部の部長なの?」
 ヒカルの言葉に加賀はフンと鼻を鳴らす。
「お前みたいに適当にフラフラしてるわけじゃねえんだよ。ほら、お前ら入って来い」
 加賀がそう言って背後を振り返ると、加賀の後ろからおずおずと見覚えのある生徒二人が中に入ってきた。
 夏目が思わず「矢部くん、岡村くん」と声をあげる。
「こいつら、囲碁部に返すぜ。元々囲碁部に入りたかったんだろ、お前ら?」
 バツが悪そうに視線を泳がせていた二人だったが、加賀のドスのきいた声で促され、びくりと竦み上がって「は、はい!」と答えた。どうやらこの様子を見る限り、彼らの意志というよりは加賀の脅しの威力が物を言ったようだ。
「もう二度とこんなバカなことしでかさないよう、こいつらは俺が根性叩き直す。すまなかったな、囲碁部。悪いがこれで手を打ってくれねえか」
 いい加減な口調の割には真剣な目で夏目を見る加賀に対して、夏目は戸惑いながらも上目遣いに頷いた。
 幽霊は偽者と分かり、辞めた二人の新入部員も囲碁部に戻って来る。囲碁部にとっては全ての問題が解決し、これでヒカルとアキラが囲碁部として名前を貸す必要もなくなった。
 しかし、ヒカルの表情は晴れなかった。
 一縷の望みが失われてしまったかのような、明らかな落胆に眉尻を垂らしたその淋し気な様子に、表向きには冷静に場を取り仕切っていたアキラは、しかし内心の動揺を否定できなかった。


 やがて床に手をついて項垂れていた将棋部二人は加賀に引っ立てられ、少し気まずそうにしていた新入部員二人も夏目の気遣いによって改めて囲碁部への入部を承諾し、一件落着とばかりにめいめいが理科室を出た。
 アキラは教室を出る前に名残惜し気に振り返って窓を見ていたヒカルの様子が気になったが、何も言わずに寮へ向かった。
 その後の夕食時、きょろきょろと食堂を見渡したアキラは、端の席にぽつんと座る金色の前髪を見つけて安心はしたものの、普段と違ってやけに大人しい雰囲気が遠目にも分かって顔を曇らせる。
 今朝の短い会話が胸に引っ掛かって仕方がなかった。
 ――話したって、お前は信じやしない……
 ヒカルは何を抱えているのだろう。
 幽霊のことと、saiのことになると途端に過剰なまでの反応を示したヒカル。
 理科室に現れた幽霊がはっきり偽者だと証明されて、ヒカルは確かに落胆していた。
 そして、saiが師匠だと語った言葉通りの衝撃的な棋力。
 短い期間でアキラが見た様々なヒカルの側面が、どうしようもなくアキラの胸を揺さぶっている。
 昨夜の対局が大きく影響していることは間違いがなかった。
 碁を打つのが久方ぶりだった上、あれほどまでに実力の拮抗した相手と接戦を繰り広げたのだ。その興奮は今でも指に宿っている。
 しかし、それだけではない何かがアキラを悶々と悩ませた。
 部屋で一人ヒカルを待つ間、アキラはこれまでのヒカルとのやりとりを思い起こして何も手につかなかった。



 その晩、ヒカルは相変わらずの消灯真際に戻っては来たが、いつものような不貞腐れた表情とは違って、理科室で見たような淋し気な影を引き摺ったままアキラと目を合わせずにベッドへと潜り込んだ。
 アキラは何かヒカルに声をかけようか迷ったが、結局何も言えずに溜め息をついて自身もベッドに横たわった。
 その瞬間、ふいに頭に淋し気な泣き声が甦った。
(――……!)
 今まで思い出せなかった夢の音が耳に戻って来る。
 そうだ、確かに何度か哀しい泣き声を耳にした。あれは夢だったのだろうか、それとも……
 アキラは暗闇の中、ヒカルのベッドに顔を向けた。
(あの泣き声は……キミ……?)







 ***







 ……ひっく……うう……っく……

 うっ、……い、……ひっく……


 また、何処かで泣き声がする……





(……?)
 眉間に皺を寄せたまま、アキラは瞼を震わせる。
 頭の中だけで反響するようなぼやけた音ではない。
 はっきりと耳に届く泣き声をしっかり感知して、アキラは自分が眠りから覚めかかっていることを自覚した。
 そう、泣き声だ。
 だれかが泣いている。
 ――夢じゃない。
「……」
 気怠い吐息をつきながら、アキラはゆっくりと目を開いた。
 視界は未だ闇だった。厚みの少ないカーテンは夜明けが近づくと日の光をふんだんに通してしまうため、まだ明け方には程遠い時間なのだろう。
 暗がりに瞬きを繰り返していると、先程よりも覚醒が進んだ耳に再び声が届いた。
「……っく……」
 しゃくりあげる音。
 アキラはすっかり目が冴えたことを理解し、静かに上半身を起こした。そうして対面のベッドに眠っているヒカルへ顔を向ける。
 大分闇に慣れた目に、人の形に大きく盛り上がった毛布が見えた。その輪郭が声に合わせて揺れているようにも見えるが、部屋が薄暗くてよく分からない。
 アキラは目を凝らしたままの険しい顔つきでベッドを降りて、静かにヒカルの元へと歩いていった。
 近くで見下ろした毛布の塊は、やはり声に合わせて不規則に揺れていた。物悲しい泣き声は何度か夢で聞いたものと同じで、アキラは今までのも恐らく夢ではなかったのだろうと眉根を寄せる。
「うっ……、……佐為……」
 ふと、くぐもった声がアキラも知る名前を呼んだ。
 押し殺した声がぎゅっとアキラの胸を鷲掴み、堪えきれなくなったアキラは腕を伸ばして肩と思われる部分に触れた。
「進藤」
 そっと声をかける。
 しかし、触れた部分からはまだ泣き声に合わせた震えが伝わってきて、焦れたアキラは少し強めにヒカルの肩を揺さぶった。
「進藤……」
 もう一度声をかけると、不自然に泣き声がやんだ。
 それから、少しだけ間があって、そろりと毛布がめくれてヒカルが顔を出す。
 ヒカルが気づいてくれたことにほっとしつつ、闇で表情がよく見えないことに僅かな焦りも感じながら、アキラはヒカルを刺激しないように静かな声で囁きかけた。
「……大丈夫か?」
「……?」
「ボクだ。その……魘されていたみたいだったから」
 ヒカルはぱちぱちと瞬きをして、睫毛に触れる水滴が気になったのだろう、おもむろにぐいと腕で顔を拭った。
 それからもぞもぞと身じろぎし、状況を理解したのかがばっと身体を起こす。そのばねのような動きに、アキラも思わず肩に置いていた手を離してしまった。
「あ……俺……」
 ヒカルは慌てたように目を擦りながら、アキラから顔を背けようとする。
 恐らく気まずい顔をしているのだろう。この暗さでは顔色は分からないが、雰囲気からヒカルの心情は何となく察知できた。
 アキラはごくりと唾を飲み込み、ごしごし顔を擦りつづけるヒカルにそっと問い掛けた。
「進藤。……saiとは何者だ?」






無駄に加賀登場でした。
いや、ホントはもっと無駄にたくさんキャラを出したかったんだけど……
(それがBLの醍醐味と勘違いしているらしい)
そしてものっすごくあっさり幽霊事件解決です。
アキラへの「借り」に関しては作中では明かされずに終わります〜
(って考えてないだけですけどね……!)<いつも適当です