CHANGES






 あれだけ無駄な動きを繰り返していたヒカルが、囲碁部で使われいるのだろう碁盤を見つめてその場に立ち尽くしている。
 口唇を硬く結んで、僅かに細めた目がなんだか寂しそうなその表情に、アキラは眉を寄せた。
「進藤?」
 声をかけると、びくっとヒカルの肩が揺れて慌てたようにアキラに顔を向けた。その目が一瞬赤く潤んでいたように見えたのは気のせいだろうか? アキラが首を傾げる前で、ヒカルは怒ったように目を吊り上げる。
「なんだよ、気安く呼ぶなよ」
 その言葉にむっとしたアキラは、不機嫌を隠さない刺のある声で言い返した。
「キミがぼうっとしているからだろう。ボクのほうはもう検証が終わった。キミは何かわかったのか?」
 ヒカルがぐっと言葉に詰まる。
 ――馬鹿馬鹿しい、とアキラは呆れたようにため息をついてみせた。
 こんなくだらない騒動、端からまともに捉える必要はない。状況からして大体の予想がつくだろうに、素直に教室中を探し回っているヒカルはなんて単純なのだろう。
 そんなことを淡々と思いながら、アキラはヒカルに見せた顔とは対照的な笑顔で夏目を振り返り、用は済んだのだからと退室を促そうとした時。
「なあ夏目、その幽霊……どんな格好だったんだ?」
 ヒカルがまた余計な質問を始めてしまった。
「え? い、いや、僕は見ていないし……それに、話では声しか聞かなかったみたいだけど」
「声? それってどんな声?」
 アキラは内心舌打ちしつつ、不毛なやり取りに目を閉じる。
(ひょっとして、彼は幽霊なんてものを本当に信じているのか?)
 からかう様子を微塵も見せずに、ヒカルは実に熱心に幽霊のことを夏目に尋ねている。
 つきあっていられない、とアキラが先に寮へ戻るといいかけた時、ヒカルがとんでもないことを言い出した。
「俺、その幽霊が出るまでここで待つ!」
 アキラと夏目がぎょっとして目を見開いた。
「ま、待つって、今から?」
「ああ」
「で、でも、出るとは限らないけど……。」
「じゃあ出るまで毎日待てばいいだろ。放課後来るからよろしくな」
 ぶっきらぼうに夏目にそう告げたヒカルの目は真剣だった。
 自分勝手な使命に燃えるヒカルを呆然と眺めているアキラの横で、夏目が困ったような声を出した。
「ま、毎日って、でももうあの二人が辞めちゃったから、囲碁部は活動できないよ。空き教室を使う許可がもらえないから……」
「そんなもん、黙ってりゃ分かんねえだろ」
「そ、そんな……」
 乱暴な言葉に夏目が狼狽える。
 アキラがヒカルを嗜めようと口を開きかけると、
「分かったよ、囲碁部が潰れなきゃここ使えんだろ! 俺とコイツが入部すれば問題ない」
 ヒカルの指先がついとアキラに向けられて、アキラの思考が一瞬停止する。
 夏目はヒカルとアキラを交互に見比べて、「ええ!?」と驚きの声をあげた。
 固まっていたアキラは、はっと我に返って首を横に振る。
「な、何を勝手な!」
「どうせお前何の部活も入ってねえだろ。名前貸すくらいでグダグダ言うなよ」
「なんだその言い方は! 大体、なんでキミが決めたことに従わなければならないんだ!」
「おい夏目、顧問の先公に言っとけ。新入部員二人入ったから、囲碁部続けますって」
「進藤!」
 噛み合わないヒカルとアキラの前で夏目はおろおろと視線を行ったり来たりさせていたが、ヒカルの提案は夏目にとっても魅力的なものだったらしく、アキラを見る目に何やら縋るようなものが含まれ始めた。
 弱者には優しくをモットーに今までやってきたアキラは、分かりやすい視線の意図にぐっと声を詰まらせる。そして降参するように持ち上げた両手のひらを夏目に向けた。
「……分かった! ただし、無事に問題が解決して、新しく部員が入ったらボクは退部させてもらう。それでいいね?」
 観念したアキラの言葉に、夏目の顔がぱあっと輝いて、胸の前で両手を組みながらうんうんと何度も頷いた。
 アキラは忌々しくヒカルを睨みつけてから、喜びに涙ぐんでいる夏目に対して気まずそうに付け足した。
「……それから、貸すのは名前だけだ。ボクは囲碁部の活動に参加するつもりはないから……」
 勝手に入部させられる身としての正論を説いていると、ぼそりとヒカルの声が耳に届いた。
「……の息子のくせに碁も打てねえのかよ」
(え?)
 アキラは思わず髪を翻してヒカルに目を向けるが、ヒカルはぷいと顔を逸らしてしまう。
(今、彼はなんて……? まさか……何故そんなことを知って……)
 アキラが何か言おうと口を開きかけたのと同時に、校内に朗らかなチャイムの音が響き渡った。
「あ……お昼だ」
 夏目の呟きに、アキラは問いただすタイミングを失って口を噤んでしまう。
 日曜日の今日は授業がないため、寮の食堂で昼食が用意されている。午後の一時で容赦なく締め切られてしまうため、遅刻すると食いっぱぐれてしまうのだ。
 消化不良気味ではあったが、三人はあまり友好的ではない雰囲気のまま寮に戻ることになった。


 寮の入口で夏目と別れてそのまま食堂へ向かおうとしたヒカルを、アキラは咄嗟に呼び止めた。
「進藤!」
 ぴたと動きを止めたものの、振り向くのも嫌そうにちらりと後方を見やったヒカルが「なんだよ」と低く返す。
 アキラは険しい表情で、やや声を落として先ほど言いそびれた問いかけをした。
「さっき……なんて言った?」
「……」
「ボクが……誰の息子だって?」
「……別に」
 短く吐き捨てたヒカルはすぐに正面を向いて、そのまま走り出す。
「おい、進藤!」
 アキラの呼びかけにも反応せず、背中はあっという間に遠くなった。
 アキラは口唇を噛み、理科室でヒカルが呟いただろう言葉を反芻する。
『……塔矢行洋の息子のくせに……』
 ――確かにそう言った。
(なぜ、彼がそんなことを……?)
 アキラは顔を渋く顰め、ヒカルが消えた方向をじっと見据えていた。




 その後、昼食を終えて寮に戻ったアキラは、囲碁部に入部するはずだった二人の新入生の部屋を尋ねた。
 渋る二人から、幽霊を見たという状況の詳細と、その前後に変わったことがなかったかを聞き取り、有効なキーワードを集めて行く。
 そうしてアキラなりの調査に手ごたえを感じ、頭の中に浮かんでいた仮説に自信を深めた消灯間近、ようやくヒカルが部屋に戻ってきた。
 思いがけなく会話(という名の言い争い)をして、何の因果か同じ部活動に名前だけとはいえ所属することになったとんでもない一日を振り返り、アキラはわざとらしい溜め息をつきながらヒカルにちらと視線をやった。
 ヒカルは無言のまま、アキラと目を合わせないように寝る支度をしている。狭い空間にいながら自分という存在を無視しているヒカルが無性に腹立たしく、アキラは棘のある声でちくりとヒカルを刺す。
「またこんな時間までうろついていたのか?」
「……」
「ひょっとして、今まで幽霊でも探していたんじゃないだろうな」
 揶揄の含まれたその言葉に、ヒカルがきっとアキラを睨み付けた。
 目つきの鋭さにアキラが一瞬怯む。その目の色の赤さは、夏目から初めて幽霊の話を聞き、過敏に反応したヒカルを茶化したアキラに対して向けられたものと同じだった。
 何故そんなに真剣になるのだろう? ――アキラは理解できない、というように肩を竦めてみせる。その仕草がますますカンに障ったのだろう、ヒカルがつかつかとアキラに近寄ってきた。
「お前、どうせデタラメだって思ってるんだろ?」
「なんだ? ひょっとして、キミは本気で幽霊なんか信じているのか?」
 鼻で笑いながらアキラがそう言うと、ヒカルの顔がかっと怒りで赤く染まった。
 今にも胸倉を掴んできそうな勢いに若干身を仰け反らせ気味にして、アキラはなおも続けた。
「よく考えろ。あれだけ人の出入りが激しい理科室で、今まで幽霊が出るなんて噂を一度も聞いたことがないんだぞ。実際に体験したのは囲碁部の新入生二人だけだ。おかしいだろう?」
「何が言いたいんだよ」
「あまりに限られた条件の中でしか出て来ない幽霊なんて、不自然極まりないと言っているんだ。それに……」
 更に口を開こうとしたアキラに向かって、ヒカルの目がぐっと威力を増す。
 熱気で赤らんだ顔に比べ、急激に温度の下がった冷たい目つきに、アキラは思わず息を飲む。
 ヒカルは忌々し気に、しかしどこか淋し気な目でアキラを一瞥すると、ふいとアキラに背を向けた。
「……何にも知らねえくせに」
 吐き捨てられた言葉に、アキラは憮然としつつも動揺で脈が速まったことを実感した。
 狼狽えたまま言い返すことも出来ずにぎゅっと口唇を結んでしまったアキラを振り返ること無く、ヒカルは自分のベッドに潜り込んでしまう。アキラはすっぽり毛布に隠れてしまった塊を睨み、結んだ口を軽く尖らせた。
 ――何が、「何にも知らねえくせに」だ。
 知らないのはそっちじゃないか。馬鹿げた話を信じ込んで、幽霊が出るまで待つだなんて……おまけに無理矢理囲碁部に入部させるし、無茶苦茶だ。
 言いたいことは数あれど、一方的に喚くのは癪なのでぐっと堪え、アキラは部屋の電気を消した。ベッドに足を潜らせながら、低い声で呟かれたヒカルの言葉を思い出してまた顔を顰める。
『塔矢行洋の息子のくせに』
(――キミこそ、何も知らないくせに……)
 思い掛けなく飛び出した父親の名前が、過去の記憶を揺さぶり出す。


 ――何故ですか! 何故、お父さんが引退しなければならないんですかっ……!

『アキラ。この身さえあればいつでも本気の碁は打てる。碁が、打てなくなるわけではないのだ』

 父の決心に迷いはなかった。
 きっぱりと、その上晴れやかささえ覗くその目には、自分の力などまるで及ばない力強さがあった。
 ああ、自分の存在は父の碁にとっては何ら影響を与えるものではなかったのだ。
 父との公式戦を夢見て日頃励んできた自分よりも、たった一度の見知らぬ相手との対局のほうが父の心を動かしたのだ……


 ぶるぶると首を振り、余計なことを頭から追い出そうと努めたアキラは、ヒカルのように毛布を被ってぎゅっと目を閉じた。
 猛スピードで羊を数え、嫌がる睡魔を強引に引っ張り込んで、半ば無理矢理眠りについた。






今回はひたすら軽い調子(ふざけてるわけじゃなく)を目指して
どんな重い内容もさらりと流してしまっているので
12話もあるのにあんまり濃さはないと思います……
と、言い訳してみる(毎回ここには言い訳しか書いてないくせに)