CHANGES






 ひっく……ひっく……、っく……

(……?)

 うっ……うう、ひっく……

(……なんだ……?)

 ひっく、……い、……ううっ……

(泣いてる……?)

 微睡みの中、か細い声の嗚咽が聴こえる。
 弱々しい啜り泣きはそれは淋しそうで、瞼を下ろしたまま眉間に皺が寄ってしまうほど。

 泣いているのは誰?
 何故泣いているの?

 声を出したくても、まだ夢と現実の境目で彷徨っているアキラの身体は動かない。
 そんなに哀しそうな声で泣かないで欲しい。
 なんだか、慰めてあげたくなる……






 ***






 ホームルーム終了後に担任教師が教室を出て行くと、一斉に生徒たちは身体の力を抜いてめいめいの行動をとり始めた。
 さっさと教室を出る者、固まって他愛のない会話に興じる者、ヒカルもいつものように鞄を肩にひっかけて立ち上がったところ、和谷がその日も声をかけてきた。
「今日はどこの部活に出んだよ」
 すっかりお馴染みになった質問だが、ヒカルがいつものように軽快な返事を寄越すことはなかった。
「……囲碁部」
 ぼそりと呟いたヒカルの返答に、和谷が一瞬目を点にする。
「……は?」
「だから、囲碁部だって」
 投げやりなヒカルの言葉に和谷は明らかに眉を顰め、「……イゴブ?」と聞き返してきた。苛々したヒカルは大声で怒鳴り返す。
「囲碁部で悪いかよっ! 俺は昨日囲碁部に入部したんだ!」
 教室中に響き渡る声に、残っていた生徒が一斉にヒカルと和谷を振り向いた。
 四方からクラスメートの注目を浴び、ヒカルははっと口を押さえる。
「ええ!? 進藤、お前囲碁部に入ったの!?」
「おいおいマジかよ、あんだけサッカー部が勧誘してたのに!」
「陸上はどうなったんだよ!」
「何でよりによって囲碁部!?」
「先輩に報告しないと〜!」
 生徒たちは様々な悲鳴を上げて、ヒカルに詰め寄ったりヒカル獲得に躍起になっていた三年生に報告に行ったりと、教室は一気に騒然となった。
 まずった、とヒカルは口唇を噛む。今まで特定の部活に所属することがなかったため、今回の囲碁部入部もあまり人には言わないでおこうと思っていた矢先。
「おい進藤、マジで囲碁部に入ったのか? なんで急に?」
 まだ呆然としている和谷の問いかけにヒカルは言葉を濁し、ついには返事に困って取り巻くクラスメートたちを強引に掻き分けた。
「もう、俺が何の部活やろうが勝手だろ! おい夏目、行くぞ!」
 教室の隅でノートを持ったまま唖然と成り行きを見守っていた夏目は、ふいにヒカルに話し掛けられてひっと身体を竦ませた。
「あ、あの、ボク今日日直で……まだ日誌が……」
 頼りない声を漏らす夏目にヒカルは舌打ちする。
 じゃあ先に理科室へ、と顔を逸らしかけた時、視界の端に涼しい顔で教科書を整理している男の姿が映った。
 ヒカルの右斜め前方の席で、アキラが我関せずといった様子で淡々と帰り支度を整えている。その素知らぬフリが無性に腹立たしく、ヒカルははっきりした声でアキラの背中に声をかけた。
「おい塔矢! お前も部活サボんなよ!」
 ぴく、とアキラの肩が揺れ、振り返ったその顔は険しい。
 ヒカルを囲んでいたクラスメートたちは、目を丸くしてヒカルとアキラの顔を交互に見た。
「マジかよ!? 塔矢も囲碁部!?」
「お前ら、仲悪いんじゃなかったっけ!?」
 また騒ぎ立て始めたクラスメートを押しのけて、ヒカルは構っていられるかと教室を飛び出した。まだ後方から興奮冷めやらぬ大騒ぎの声が聞こえてくる。
 ――ざまあみろ。これであいつも質問攻めだ。
 べっと舌を出して、廊下を軽やかに駆け抜ける。目指すは理科室。ひょっとしたら現れるかもしれない幽霊を待つために……
(……)
 走りながらヒカルは表情を曇らせた。
 成りゆきとはいえ、しかもあの嫌なヤツと一緒に囲碁部に入部することになるなんて。
(……こんなとこに来てまで、また碁盤を見るとは思わなかったな……)
 昨日久しぶりに眺めた十九路の盤にうっかり目を奪われてしまった。思わず、脇にひっそり並べられた碁笥の蓋を開けて、滑らかな碁石に触れてみたいと指が疼いた。
(でも……)
 きゅっと口内の肉を噛んだ時、背中に怒りを含んだ声が投げつけられた。
「進藤っ!」
 この声は――ヒカルが走りながら振り向くと、廊下の向こうからアキラが猛スピードで追ってくる。物静かな彼の見慣れぬ姿にぎょっとしたが、恐らくクラスメートに囲まれて苦労の末に逃げてきただろうことを想像すると笑いがこみ上げた。
「進藤、待てっ! よくも余計なことを……!」
「なんだよ、本当のこと言って何が悪いんだよ! 委員長さんが廊下走っていいのかあ!?」
 振り返ってからかうようにそう告げると、アキラの顔色がまた一段と赤くなった。
 単純なヤツ! ――ヒカルは吹き出し、前方を向いて速度を速める。足には自信があるのだ、あのお坊ちゃんに追いつかれるはずがない。
 そうして前を向いた後、ヒカルは笑顔を消して僅かに眉を寄せた。
(……塔矢行洋の息子なんだ。アイツ)
 塔矢行洋。元五冠の最強棋士。
(アイツの親父のせいで、……佐為は……)
 自然と歯を食いしばっていたヒカルは、階段を一気に駆け下りて一度後方を振り返った。アキラの姿はまだ見えない。
 フンと鼻を鳴らし、理科室目指してヒカルは再び走り始めた。


 理科室に到着し、誰もいない教室内を一度ぐるりと見渡して、何ら変化がないことを認めると適当な机に鞄を放り出した。
 それから、昨日と同じように窓に近づいて外の様子を確かめたり、カーテンをめくったり、机の下を覗き込んだりして小さな声でそっと呼びかけてみる。
「……佐為」
 その声に応えはなく、分かっていたというようにヒカルはため息をつきながらも、落胆の表情を隠せなかった。
 ヒカルがもう一度ため息を落とした時、がらっと勢いよく理科室の扉が開かれた。驚いて振り返ると、髪を乱し息を切らせたアキラがそこに立っていた。
 その様相の凄まじさにヒカルは思わず吹き出した。
「何が可笑しい!」
 いつもの穏やかな様子は何処へやら、そう怒鳴ったアキラは乱暴に扉を閉め、ツカツカ靴を鳴らして教室の中に入ってくる。
 そうして手ごろな椅子を引き、その上にどっかり座り込んだ。
「何しに来たんだよ? 部活動には参加しないんじゃなかったのか?」
 嫌味っぽい口調でヒカルがそう言うと、アキラはきつくヒカルを睨みつけてきた。
「キミが部活をサボるなと言ったんだろう!」
 アキラは手櫛で髪を整えながら、荒い呼吸を隠せずに肩で息をしている。
 こんなに余裕のないアキラの様子を見たのは初めてで、ヒカルはついつい顔が笑ってしまいそうになった。
(コイツ、案外単純なんだ)
 今までろくに口を聞いたこともない。もちろんこの高校に入るまでは、顔を合わせたこともない。
 しかしヒカルは一方的にアキラの事を知っていた。塔矢行洋の息子として。
 新聞やテレビで見た記憶の中の行洋の顔を思い浮かべ、その面影をアキラに見るたびに、胸の燻りが激しく心の内側を焼く。
 この顔をずっと見ていたくない――ヒカルは笑顔を消してアキラから目を逸らし、再び窓の傍できょろきょろと首を動かし始めた。
「まだそんな無駄なことしているのか?」
 ふいにアキラの声が届き、その明らかに馬鹿にしたような口調に思わずカチンときたヒカルは振り向いたが、言い返したい気持ちをぐっと堪えた。
 ――こんなヤツに分かるはずがない。
 説明するだけ無駄だと、ヒカルはアキラを無視してまた窓に顔を向ける。
「幽霊などいないと昨日から言っているだろう? 今回の件は、明らかに人間の仕業だ」
「……」
「あの後例の新入生二人にも話を聞いた。彼らは物音に驚いただけで、実際に何か姿を見たわけじゃない。おまけに彼らはその後――おい、聞いているのか進藤!」
 無視を決め込むヒカルに焦れたのか、アキラがまた大声を出した。
 ヒカルは渋々振り返る。昨日から思っていることだが、この男、冷静沈着なんで嘘っぱちではないだろうか。
 おまけに頭ごなしの言い方がやけに偉そうで、ますます気に入らない。
「お前ははなから幽霊なんて信じちゃいないんだろ。……だったら話すことは何もねえよ」
 それだけ言って再び背を向けようとしたのだが、アキラの顔がみるみる呆れた表情に変わるのを見てぐぐっと頭に血が昇りそうになる。
「キミは幽霊なんて信じているのか?」
「……」
「呆れた……一体いくつになったんだ」
「黙れ!」
 ぷちんと切れたヒカルは、大股でアキラに近寄った。そうして驚いているアキラに構わず、制服の胸元をぐっと掴む。
「何にも知らねえくせに……っ!」
 右手の拳を握り、突き出したい衝動を何とか抑制した。
(コイツを殴ったって何にもならない……)
 分かったような口で「幽霊などいない」と説明するアキラ。その目は始めから幽霊の存在など微塵も信じておらず、夏目が最初に話を持ってきた時だって実に胡散臭そうな顔をしていた。
 それらの様子がまるで大切な存在を全否定しているようで、腹が立って仕方が無かった。
 ヒカルしか知らない、優しい存在。
 今はもう姿が見えなくなってしまったけれど――
(……確かにいたんだ……)
 「あの日」が来るまでは……。
 ヒカルは舌打ちして、乱暴にアキラから手を離した。胸倉を掴まれていたせいで無理に立ち上がらされたアキラは、その弾みでガタンと椅子に尻を打つ。
 アキラは突然のヒカルの行動にしばし固まっていたが、やがて意識を取り戻したように胸元を正し、咎めるような口調で問いかけた。
「何をそんなにムキになっているんだ?」
「……」
「まさかキミ、幽霊を見たことあるとか言い出すんじゃないだろうな」
 ヒカルは応えずに窓を見た。
 ざわざわと揺れる新緑が目に映り、今日は風が強いのだろうことを予想させる。
 ……あの日も風が強かった。
(どこに行ったんだよ……佐為……)
 どんなに目を凝らしても、あれから姿は見えず、声さえ聞けなくなってしまった大切な存在――






「One more〜」の後なので佐為関連は避けようと思いつつ
見事に被ってしまいましたが……重さが全然違いますので。
さらりと。あくまでさらりと……