がらりと扉が開いて、ヒカルとアキラは同時に振り返った。 「ごめん、遅くなって」 ひょいと扉の隙間から顔を出した夏目が、悪びれない笑顔で理科室に入ってくる。そして、教室内に漂う微妙な空気に気づかずに、いそいそと碁盤の置いてある教室後方へ向かっていった。 「名前だけの部員でも、なんだか人数がいると部活動にも活気が出るよ。二人ともありがとう」 実に素直な口調でそんなことを言われると、ヒカルもアキラも気まずげに目を泳がせて何と答えたら良いか分からなくなってしまう。 夏目にとっては、名ばかりの部員と言えど囲碁部を存続させるための大事な蜘蛛の糸なのだ。そんな夏目の一生懸命さが分かるだけに、ヒカルは少し申し訳ない気持ちになった。 「二人とも囲碁はやったことない? 少しだけでも打ってみない?」 足付きであるが、四つの足のうち一つが折れてしまっている古い碁盤を運びながら、夏目がにこにこと二人に話しかけた。ヒカルは返事に困り、ちらりとアキラを横目で見る。 アキラは額に薄ら影を落とし、静かに立ち上がった。 「……悪いけど、今日はもう失礼するよ。最初に言ったように、部活動に参加する気はないから……」 そうぼそりと呟いた後、明らかに表情を曇らせて、ヒカルとも夏目とも顔を合わせないように俯きながら理科室を出て行く。 がらがら、と扉の閉まる音の後、教室が一瞬静かになった。 「……やっぱ囲碁なんて好きじゃないかな。そうだよね……」 その場を取り繕うように苦笑いして呟いた夏目は、すぐに気を取り直したようにヒカルに期待の笑顔を向けた。 「し、進藤くんは……? ちょっとだけやってみない?」 ヒカルは夏目が手にしている碁盤を見て、少しだけ目を細める。それから数秒間を置いて、静かに首を横に振った。夏目ががくりと肩を落とす。 そんな夏目から視線を外し、ヒカルはアキラが出て言った扉を見つめて口を開いた。 「……夏目っていつから碁やってんだ?」 「え? ぼ、ぼくは去年から……先輩に誘われて始めたから、まだ全然ヘボなんだ」 「去年からか……なるほどな」 「?」 ――だから知らないのか。 ヒカルの小さな呟きは、夏目の耳には届かなかった。 恐らく、棋界の実力者塔矢行洋の名くらいは夏目でも知っているだろう。引退したとはいえ、今でも世界中の棋戦で忙しく飛び回っていると聞く彼は、全ての棋士の憧れの存在なのだから。 しかし、ここ一年程度の囲碁歴では、アキラがその息子であることを知らないのも無理はない。 隠れた天才棋士と言われながら、結局プロ試験を受けずに高校に進学してしまった。その実力は未知数で、アマチュア大会の経歴もないため実際にどれほど強いのかも分からないまま。 ヒカルはこの高校に入学する前から、アキラのことを知っていた。塔矢行洋の息子として。 そしてそれが、ヒカルがアキラを嫌う理由だった。 消灯間近に開いた扉の音は、机に向かっていたアキラにヒカルが戻ってきたことを知らせたようだった。 「……」 「……」 振り向こうとせず無言でいるアキラに、当然ヒカルも声をかけようとはしない。 元々友好的ではなかったとはいえ、何一つ言葉を交わさないなんてことは滅多になかった。お互いに理科室での一件が胸に燻っているようだった。 ヒカルはアキラにわざとらしく背中を向けたまま着替えを済ませ、さっさとベッドに潜り込んだ。 アキラも開いていた教科書を閉じ、椅子から立ち上がって部屋の灯りを消すべくドアの傍に近付く。 アキラは一度だけ人の形に毛布が盛り上がっているヒカルのベッドに目を向け、ぱちんと電気のスイッチを切った。 う……、っく……ひっく…… (――また) ……ひっく、……さ……ううっ…… (また、泣いてる……) ひっく……ひっく、……い…… (どうして……?) どうして泣いているのだろう。 淋しそうで、辛そうで、聞いていると胸が痛む。 どうしたら、泣き止んでくれるのだろう…… これは夢なのだろうか……? *** 翌日の放課後、鞄を肩に乱暴に引っ掛けて教室を出て行くヒカルの背中を見たアキラは、ご苦労なことだと溜め息をついた。 恐らくまた理科室へ向かったのだろう――出るはずがない幽霊を待つために。 (幽霊などいないと言っているのに……) あの真剣さはなんなのだろう。 アキラが事情を説明しようとしても、耳を貸さない集中ぶり。 (人の話も聞かないで。少し考えればすぐ分かることだろう……) 幽霊を否定したアキラの言葉に、酷い剣幕で掴み掛かってきたヒカルの目は本気だった。 怒りの中に色濃く浮かんでいた――あれは哀しみ……? (――くだらない) アキラは教室を出て、寮に向かわずに図書室へと足を運んだ。 図書室には生徒が自由に使えるパソコンが設置されている。アキラは空いているパソコンの前に腰を下ろし、ブラウザを立ち上げてこの学院のホームページを表示させた。 部活動の項目をクリックすると、各部活動の名前がずらりと並んでいる。それには目もくれず、生徒会で承認された部活動の予算配分が公開されているページを見つけたアキラはぴくりと眉を揺らした。 「将棋部・囲碁部」とひとくくりにされた予算のおおよその額を確認し、日曜日の新入生の言葉を思い出す。 『俺ら、将棋部入ることにしたんで……』 続いて部活動の具体的な活動内容が掲載されているページを開いたアキラは、囲碁部に比べて輝かしい実績を誇る将棋部の成績に目を細めた。 (なるほど……どうやら当たりみたいだな) 将棋部の部長として掲載されている名前に目をとめて、ああ、と小さく声を漏らしたアキラは、満足げな表情でブラウザを閉じた。 それからすぐに立ち上がり、もう用はないとばかりに足早に図書室を出て行く。 (「彼」なら話がつけやすい……手を貸してもらおう) 数日と経たないうちに夏目に良い報告ができそうだと、アキラは僅かに微笑した。 しかしすぐに表情は曇る。 ――何の因果か、囲碁部に入部させられようとは。 売り言葉に買い言葉で、冷静に対処すれば切り抜けることは難しくなかったはずだったのに。ヒカルの勢いと、夏目の懇願に負けてしまった。 (囲碁なんて……) もう触れないと決めたからこそ、こんな山奥にある全寮制の高校までやってきたのだ。家にいれば、嫌でも囲碁の話題が耳に入ってしまうだろうから。 『塔矢行洋の息子のくせに』 「……っ!」 ヒカルの言葉が心の中で渦を巻く。 まだ、彼にあの言葉について問い質すことができていない。 (彼は何故知っているんだ……?) まるで囲碁になど興味のなさそうなヒカルが、父の存在を、ましてやその息子が自分であることを知っているだなんて。 彼は一体何者なんだ――アキラは口唇の端を噛み締めながら、大股で廊下を通り過ぎていった。 その日の夕食時、アキラは夕飯の乗ったトレイを手にして座席を確保した後、何気なく食堂内を見渡した。 あの目立つ金色の前髪が見当たらない。 ヒカルが戻ってくるのはいつも消灯間際だが、夕食の時は必ず姿が見えていた。前髪もそうだが、地声が大きいので何処にいてもすぐに所在が判明する。 しかし今日はどこにもヒカルの姿が見えなかった。まだ来ていないだけかと思って入口を気にしてみたが、やってくる気配はない。夕食の時間は午後六時から七時までの一時間。これを過ぎたらその日は食事抜きになってしまう。 「塔矢? 食わないの?」 隣に座っていたクラスメートに不思議そうな顔をされ、アキラは慌てて作り笑顔で箸を手にとる。 (……別に気にする必要はないじゃないか) 無意識のうちに、食堂でヒカルを探すことが日課になってしまっていた。 四月から彼と同室になってからというもの、部屋で顔を合わせることが極端に少ないアキラがヒカルの存在を確認できる機会のひとつだったから。 食事しながら馬鹿騒ぎをしているヒカルとその友人の笑い声を耳にしては、何故自分に対してだけはあのように嫌悪の眼差しを向けるのだろうと理不尽に思っていた。 何か悪いことをしたのだろうか。気付かないうちにどこかで会っていただろうか…… 最初こそ関係を改善しようと奔走したが、ヒカルは理由を告げずに突っぱね続けた。もう諦めようと思っていたが、今回の騒動で思いがけなくヒカルとの会話が増え、彼の心が少しだけ見えてきたような気がする。 ――塔矢行洋の息子のくせに―― 刺のある言い方だった。 ヒカルが何故棋士である父の存在を知っていたのかは分からないが、彼がアキラに抱く嫌悪の理由に関わっているのではないかと思わせるような口ぶりだった。 だとしても、理由が分からないことに変わりはない。 何かで偶然そのことを知って、囲碁を拒否した自分に対して軽い嫌味のつもりで言っただけかもしれないが…… そこまで考えて、アキラはおもむろにこみ上げてきたあくびを噛み殺した。 夕べ、なんだかよく眠れなかった気がする。 (……何か夢を見ていたような……) あまり覚えていないけれど、ずっと眠りが浅かったような気がするのだ。目覚めてからずっと身体がだるくて、今も気をつけていないとこうしてあくびが漏れてしまう。 今日は早めに眠りたいが、ヒカルは相変わらず消灯間際に戻ってくるのだろうか。 別に起きてヒカルの帰りを待っていなくてもいいのだが、それは半ばアキラの意地でもあった。なんとしても顔を合わせまいとするヒカルへのささやかな抵抗といったところだろうか。 なるべく早く戻ってこいと願いながら、アキラはもうすぐ夕食時間が終了するというのに未だ現れないヒカルのことを気にしていた。 |
予算関連のデータをHPに載せてる学校なんてあるか……?と
いろいろ検索してみたら、ないことはなかったんですが……
堂々と載せてるところはかなり少数派のようでした。そりゃそうか。
フーンって感じで読み流して頂けると有り難いです〜