CHANGES






 風呂場にもヒカルの姿は見当たらず、部屋で一人その日の授業の復習をしていたアキラは、時計を見て目を丸くした。
「……過ぎてるじゃないか」
 消灯時間の十時をとっくに過ぎている。
 いつもはどんなに遅くなっても、口煩いアキラの攻撃を嫌ってか十時ギリギリには戻ってきたヒカルが、十時を十五分過ぎても戻ってこないのは初めてだった。
「何をしているんだ、一体」
 苦々しく呟いたアキラは、小さくため息をついて椅子から立ち上がる。
 ヒカルの交友範囲は大体把握している。教室であれだけ騒いでいるのだから当然だ。
 アキラはヒカルと一番親しい和谷の部屋に向かうべく、そっと部屋を抜け出して静かな廊下を忍び足で歩いた。
 和谷の部屋の前で、中の物音に聞き耳を立てると、まだガサゴソと音がする。どうやら誰かが起きていることは間違いないようなので、アキラは小さなノックをした。
 少しの間があり、扉が躊躇いがちに開いた。訝しげな表情で顔を覗かせた和谷が、そこに立っているのがアキラであることを認めて目を丸くする。
「塔矢? なんだよ、こんな時間に」
「遅くにすまない。……進藤は来ていないか?」
「進藤? 今日はずっと来てねえぜ」
 意外な返答に今度はアキラが目を丸くした。
 てっきり和谷のところにいると思っていたのに――アキラの驚きを感じ取ったのか、和谷は首を傾げながらそういえば、と続けた。
「今日、寮で姿見てねえな。飯ん時もいなかったし……アイツ何処行ったんだ?」
「……!」
 和谷の言葉に少なからず動揺したアキラは、ありがとう、と頭を下げて後退りした。
 姿が見えないのは気のせいではなかった。……ひょっとしたら、寮に戻っていないのだろうか?
(あの馬鹿……)
 アキラは舌打ちし、寮監に見つからないか周囲に注意しながら、寮をそっと抜けて外へ飛び出した。


 寮から校舎まではそれほど時間がかからない。グラウンドを照らす大きな照明の光を頼りに、アキラは夜の学校目指して走る。
 ――ひょっとしたら、あそこにいるのかもしれない。
 出るはずのない幽霊を探して、こんな時間まであんなところに?
 馬鹿げている、と自分の考えに呆れてしまうが、それでも昨日のヒカルの様子を思い出すと、その執念がおかしくないような気がしたのだ。
 ヒカルは真剣に幽霊を探していた。茶化したアキラの言葉に本気で怒鳴り返してきた。
『何にも知らねえくせに……っ!』
(彼は何故、あんなに真剣に幽霊を待っているんだ……?)
 たどり着いた校舎では、案の定正面玄関が施錠されていた。一瞬ヒカルの不在が頭を過ぎったが、教室内で点検をやり過ごすことは難しくない。
 アキラは確信して、校舎の裏手へ回った。
 ――なんでボクが、こんなことを。
 消灯後に抜け出したなんて、寮監に見つかったらただでは済まない。しかも自分はクラス委員長だというのに……それもこれも全てヒカルのせいだと苛立ちながら、アキラは視界の悪い校舎裏を早足に進む。
 真っ暗な校舎裏は芝生の草も伸び放題で、足が取られて歩きにくい。ざわざわと夜風に木々が揺れている。不気味さに顔を顰めつつ、アキラは外から校舎内部の位置におおよその見当をつけ、ある窓を目指して足を速めた。
 ここか――窓の外から教室の中を覗き込む。そこは理科室のはずだった。幸いカーテンがかかっておらず、しかし電気のついていない教室内はぼんやり机や棚の輪郭が見えるのみである。
 アキラは目を凝らした。そうして、……教室の真ん中で、ぽつんと椅子に腰掛けている人影らしいものを見つけて、安堵と怒りで大きなため息をついた。
「進藤!」
 呼びかけて、窓を叩く。
 中の影が動いたようだった。こちらに向かってくる。
 こんな時間まで何をやってるんだ――怒鳴ろうとしたアキラの声は、勢いよく開いた窓の音とヒカルの叫び声に潰されてしまった。






「佐為――!?」






 ***






 こんなふうにぼんやりと待っていても、無駄だということはなんとなく分かっている。
 でも、ほんの僅かな期待が未練がましくあの優しい面影を追っていた。
 理科室に現れた幽霊。――囲碁部の部室に。
 ひょっとしたら、アイツが囲碁に惹かれて顔を出したのかも――胸の中で生まれた微かな希望が、ヒカルをこの場に留めていた。
 理科室で一人、何をするでもなく、ただ椅子に腰掛けて待つ。時折、教室の後方に置かれた碁盤に淋しげな目を向けながら。
 そうして思い出していた。
 佐為という名の幽霊と暮らした二年半の出来事を。
 誰にも話しておらず、誰に話したって信じてはもらえないだろうけど、彼は確かにヒカルの中にいたのだ。
 何より囲碁が大好きだった、とても綺麗な幽霊が。
(佐為)
 佐為に囲碁を習い、自分もまた囲碁に魅了されて、楽しい日々はあっという間に過ぎていった。
(佐為)
 ずっと続くと思っていたそんな毎日が、ある日突然消えてしまうなんて考えもしていなかった。
(佐為)
 「あの」一局の後から――佐為の様子がおかしくなって、とうとう消えてしまった。
 あれから、佐為は一度も姿を見せていない。
(佐為……)
 会いたいのに、どんなに呼びかけても佐為は現れなかった。
 何処に行ってしまったのか、どうして消えてしまったのか、何ひとつ答えを残さずに。

 俯くヒカルの目尻にじわりと涙が滲む。
 ぐいと目を擦った時、ふいにガタンと大きな音がした。
 弾かれたように窓を見ると、――人影。
 誰かが窓を叩いている。
「……佐為……?」
 思わず呟いたヒカルは、もうその瞬間には走り出していた。
 窓に飛びついて乱暴に鍵を外し、勢いよく開放する。
「佐為――!?」
 ヒカルの目に、窓の外で驚きに固まっている見覚えのある顔が映った。
 は、と息を呑む。夜風に長い髪を揺らし、しかしその長さは佐為ほどではない、憎たらしい塔矢行洋の息子。
 そこにいるのがアキラだと分かって、ヒカルは哀しみを押さえきれずにくしゃと顔を顰めた。そうしてアキラに背を向けた。
 ――分かってる。佐為が、現れるはずがないってことは。
 あの日突然消えてしまった佐為は、もうこの世にはいないような気がしていたのだ。二度と会えないことを、認めたくなくて強がってきたけれど。
 それでも希望を捨てきれなくて、無駄に佐為を待ち続ける自分が滑稽で哀れだった。
 こんな姿を見られたくない――何しに来たんだ、とっとと寮に戻って寝てろ、そう言おうとしたヒカルが口を開くより早く、呆然とした表情のままのアキラがぽつりと呟いた。
「sai……だと……?」
(え?)
 ヒカルが思わず振り返ると、アキラは目を見開いたままヒカルの姿を凝視している。今までに見たことがないアキラの様子にヒカルが怯むと、アキラはきっとヒカルを睨みつけて鋭く問い詰めてきた。
「今、saiと言ったな? キミは……saiを知っているのか?」
「お前……佐為のこと、知って……?」
「忘れるものか! saiのせいで……saiのせいで父は引退させられたんだ!」
「!」
 二人の間にびゅうと風が吹く。
 はらはらと葉が舞い、雲の向こうに見え隠れする月の光が二人の顔に不気味な陰影を作り出していた。
「佐為の……せいで……?」
 ヒカルはアキラの言葉を繰り返し、そしてぶるぶると眉を震わせて眉間に皺を刻み込んだ。
「ふ……ざけんな! そんなの、佐為のせいじゃねえよっ!」
「いいや、saiのせいだ! たった一度ネット碁で勝ったくらいで、再戦も受け入れずに行方をくらまして……っ! 父が、五冠のあの父が、まぐれ勝ちした得体の知れない相手のために何故引退しなければならなかったんだ!」
「まぐれ勝ちだと!?」
 ヒカルは窓枠に爪を立て、ぎりと奥歯を噛んだ。
「あれは佐為の実力だ! お前の親父なんかより佐為のほうがずっと強かったんだ!」
「なんだと!? 父を愚弄するな! 勝ち逃げした卑怯者のくせに!」
「……!」
 ヒカルはぐいと手を伸ばし、昨日の放課後のようにアキラの襟元を乱暴に掴み上げた。息が苦しいのか、ぐ、とアキラの顔が歪む。しかしヒカルは力を緩めなかった。
「佐為は……卑怯者じゃねえっ……!」
「くっ……」
「佐為のせいで引退させられた? こっちのセリフだ……! お前の親父のせいで、佐為は……佐為は消えちまったんだ!」
「!?」
 驚きと共に襟元が開放され、アキラはその反動で芝生に尻をついた。ごほごほと咽せ、そのままの体勢で目つきだけは鋭くヒカルを見上げる。
「父のせいで消えた……? どういうことだ!」
「こっちが知りてえよ……! でも、あの一局から佐為は確かにおかしくなった……!」
 ヒカルは声を震わせて、黒い芝生に座り込んだ格好のままのアキラを上から睨みつけた。
「お前の親父と打ったせいで! それで、佐為は消えたんだっ!」
「意味の分からないことを言うな! 消えただって? 逃げたの間違いじゃないのか!」
「佐為が逃げるもんか! お前の親父こそ、負けて引退した負け犬じゃねえかっ!」
「……もう一度言ってみろ!」
 がばっと起き上がったアキラは、窓枠に飛びつくようにして足をかけた。そのまま胸程度の高さをよじ登り、理科室に靴のまま降り立った。
 至近距離で対峙した二人は激しく睨み合い、一触即発という言葉が似合う雰囲気でじりじりと間隔を詰めていく。
「……負け犬」
 ヒカルの挑発に、アキラも言い返す。
「卑怯者」
「負けたのはそっちだろ」
「たまたまだ。一度勝ったくらいでいい気になるな。次は父が勝つ」
「何度やったって同じだ。佐為が勝つに決まってる」
「父だ!」
「佐為だ!」
 一歩も譲らない言い合いに、ふとアキラが冷笑を浮かべてヒカルを蔑むような視線を向けた。
「……キミがどれだけ意地を張ろうと、saiなんてネット上でしか力を誇示できないじゃないか。父は誰もが認める最強棋士だ。消えてしまっただって? 消えた人間が、どうやってその力を証明するというんだ!?」
「……!!」
 ヒカルは歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った後、おもむろに踵を返して教室後方へと早足で向かった。アキラが目を瞠る中、ヒカルは囲碁部の古ぼけた碁盤を持ち上げ、くるりとアキラに向き直る。
 その瞳に込められた気迫を全身で感じとり、アキラは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「……親父の教え受けてんだろ。俺が、佐為の力を証明してやるよ」
「……なんだと」
「佐為は俺の師匠だ! 俺の碁は佐為の碁でもあるんだ! 勝負しろよ。それとも親父みたいに尻尾巻いて逃げるのか?」
 アキラの頬がかっと赤く染まった。
「いいだろう……! 思い知らせてやる!」
「こっちのセリフだ!」
 ぶつかり合う視線の交点で小さな火花が弾け散った。
 ヒカルは碁盤を中央の机に下ろし、アキラはその対面に移動する。
 ヒカルが白石の碁笥を掴んで軽く碁石を握り、アキラも対抗するように黒石の碁笥を手に取り黒石をひとつ落とした。
 白石は偶数。――先番はヒカル。
 いざ、勝負――ヒカルとアキラはそれぞれの師を背中に背負って対峙した。






アキラさん土足です……!窓乗り越えてしまいました……
ほっときゃいいじゃん、という至極当然な考えが
何故か頭に浮かばなかったようです……