CHANGES






 持ち時間も何も決めてはいなかったが、勢いは早碁そのものだった。
 ヒカルにとっては久しい対局だった。もっとも、自分の力だけで誰かと実際に碁盤を囲んで碁石を打つのは初めてのことで、その上今までの対局と言えば佐為の分の石も自分で置いていたのだから、打つとすぐに打ち返される碁石の感覚に奇妙な興奮を感じていた。
 アキラもまた碁石に触れるのは久しぶりだった。高校に入学してからというもの、触れるどころか碁盤を見る機会さえほとんどなかったのだ。懐かしい滑らかな石の感触は、胸の奥底に隠していた欲求不満をじわじわと刺激して解していく。
 最初こそ相手を憎らしく思い、憎悪のパワーを碁石に叩きつけていたが、やがて二人は盤上で繰り広げられる絶妙の攻防に純粋に惹き付けられていった。
 ――なんだこの手は……深い!
 アキラがヒカルの一見不可解かつ巧妙に罠を仕掛けた一手にやり返すと、
 ――こいつ……口だけじゃない、強い!
 ヒカルもアキラの大胆に切り込んでくる一手に必死の思いで応戦する。
 いつしか頭から自分たちの師匠の存在が消え、二人はただひたすら目の前の相手を倒すことだけに集中し始めた。
 盤面は二転も三転もし、整地をするまでどちらに軍配が上がったのか読みきれないほど細かくなっていた。
 神妙な顔つきで整地を行い、アキラの半目勝ちが判明した頃、空は薄らと白んでいた。



 二人はしばらくの間、何も言えずにじっと碁盤を見つめていた。
 一心不乱に打った碁盤。例えようのない高揚感に身体が支配されて、胸を震わせる感動を否定することができない。蒸気した頬がそれを物語っていた。
 放心したような表情で碁盤を見つめていた二人は、ふと、対面に座る相手に気づいておずおずと顔を上げる。
 ぶつかった視線には、対局前のような憎しみの色はなく、たった今初めて会ったような、不思議そうな戸惑いの色に変わっていた。
 あの醜い言い争いが嘘のように毒気を抜かれた目を向け合って、二人は気まずそうに顔を伏せてしまう。
 ヒカルは俯いたまま口唇を尖らせ、アキラもヒカルから目を逸らしながら親指の爪を噛んだ。

 ――負けちゃった……
 ヒカルは眉を寄せたが、何故だかあまり悔しい気持ちが沸いてこない。あんなに佐為の代わりに勝ってやると意気込んでいたというのに。
 悔しさよりも、久々の、しかも始終興奮しっぱなしの素晴らしい対局に心が奪われてしまっていた。初めて佐為以外の人間と打った、手に汗握る一局……それはヒカルにとって、認めたくはなかったけれど、とてもとても楽しい時間だったのだ。

 ――勝ちはしたけれど……
 アキラもまた、自分の中で渦巻く感覚に戸惑っていた。
 父の名に恥じない碁をと挑んだこの対局は、思いがけなく胸躍らされる好局だった。公式の大会こそ参加したことはないが、父の門下生たちと何度も打ったアキラにはヒカルの実力がよく分かった。
 こんなところで埋もれているような棋力ではない。何度ヒヤリとさせられたか分からない。
 ギリギリまで追い詰められながらも、活路を見出すことへの飽くなき探究心をくすぐられ、悦びに胸ときめくのを抑えられなかった。
 囲碁の面白さ――今まで目を背けていた本質を思い知らされたような気がして、アキラは思わず頬を赤らめる。

 二人がそうしてもじもじと小さくなっている間に、太陽はどんどん高いところへ昇って行こうとしていた。ヒカルが目線に困って見上げた場所で時計を捕らえ、短針が「6」を指していることに気づいてぎょっとする。
「やべ、もう朝だ……っ」
 ヒカルの声に釣られてアキラも壁の時計を見て、あっと口を開けた。
 二人は急いで碁盤の上の碁石を選り分け、碁笥と碁盤を片付ける。それから開きっぱなしだった窓からそっと外へ飛び降りて、辺りを見渡しながら寮への道をひた走った。



 無事に戻ってきた寮の部屋では何ら変わりが無く、昨日アキラが出て行ったそのままに電灯もついていた。電灯を消しても、薄いカーテンはしっかりと夜明けの太陽の光を部屋に通し、充分な明るさがあった。
 二人は気まずく相手の様子を伺いながら、それぞれのベッドに腰掛ける。もう、眠り直すにも時間がない。あと三十分もすれば起床のチャイムが寮中に鳴り響くだろう。
 まだ胸はどきどきと興奮していた。
 あの一局は本当に対面の相手と創り上げたものなのだろうか? ――それがにわかには信じ難いほど、感動で指先が痺れたまま元に戻らない。
 奇妙な空気は続いたが、ふと静寂にぐう〜と地の底から響くような音が漏れた。
 ヒカルが顔を真っ赤にする。……どうやら彼の腹の虫のようだった。
 その音に一瞬緊張が解けて、アキラは思わず苦笑いを浮かべた。
「……夕食を食べていないんだ、仕方ないだろう」
 アキラの言葉に、ヒカルは気恥ずかしそうに口を尖らせた。
「……あそこに居たら、メシのこと忘れてたんだ……」
 ぼそりと呟くヒカルの声を何とか拾って、アキラはその内容に眉を寄せた。
 やはりヒカルは理科室で、ずっと幽霊が現れるのを待っていた。そして、外から窓を叩いたアキラに向かって、確かにこう言ったのだ。『sai――!?』と。
 何故、幽霊を待っていたはずのヒカルが、saiの名を呼んだのだろう……?
『何にも知らねえくせに……っ』
『saiは消えちまったんだ……っ!』
 幽霊を見たことがあるのかと尋ねたアキラに対し、否定しなかったヒカル。
 まさか、とアキラは浮かびかけた考えを即座に打ち消そうとした。しかし幽霊のことになるとあんなにも真剣になっていたヒカルの目は、夕べまさしくsaiのことでやりあった時のものと同じ。
 アキラは息を呑み、一呼吸置いてそっと口を開く。
「……saiとは何者だ?」
「……!」
 ヒカルがさっと顔色を変えた。弾かれるようにアキラを見て、それからすぐに顔を逸らす。
「進藤」
「……」
「……答えてくれ」
「……、話したって、お前は信じやしない……」
 寂しげに呟いたヒカルは、それだけ言うとひょいと両足をベッドの上に持ち上げて、そのまま毛布を被ってしまった。
「進藤!」
「俺、起床時間まで寝る」
「もう時間はほとんどないぞ」
「それでも寝る!」
 毛布の中からそう怒鳴ったヒカルは、そうして大人しくなった。眠ってしまったのかどうかは分からないが、寝ると言われた以上無理に起こすことも出来ず、アキラはため息をつく。
 昨夜だったら、何を聞いても端から馬鹿にしてかかったかもしれない。
 しかし、今は。ヒカルとの一局を終えた今は、何だか何を聞いても納得できるような気がしていた。
 あの棋力。すぐにでもプロに通用する――アキラも一度はプロを目指した身として、ヒカルの力を正しく理解していた。
 saiが師匠だと彼は言った。しかし、saiはネット上にしか現れたことがなく、その正体は知れないまま。強さだけは確かだったが、その彼に弟子が、それもアキラのすぐ近くにいるだなんて。
(キミは……一体……)
 アキラは人の形に大きく毛布が盛り上がったヒカルのベッドを見つめ、混乱する頭を抱えて顔を曇らせた。





 ***





 その日の授業はまるで頭に入って来なかった。
 ヒカルもアキラも、あくびを堪えるどころか何度も船を漕いで、ヒカルはいつものことと周りから黙認されたものの、アキラがそんな失態を見せたことは未だかつてあり得ない出来事だと教室が騒然となった。
 それも当然だった。アキラは昨夜一睡もしていない。なんとか気力で意識を保とうと努力はするが、気合いだけでは克服できない睡魔が何度となく襲って来る。机の下でぎゅっと手の甲を捩りながら、それでも時折首をがくりと落としては顔を赤らめる、そんな繰り返しだった。
 ヒカルは今朝ほんの三十分ほど眠ったとは言え、やはり圧倒的に睡眠時間が足りず、ほとんどの授業ですやすやと寝息を立てることになった。何度かチョークが頭に飛んできたが、白い粉にまみれても気付かないほどの熟睡ぶりで、ようやく放課後を迎えることになった。


 チャイムに混じって大きなあくびをしたヒカルは、目を擦りながらまだ眠たそうな顔で溜め息をついた。
 理科室に行くべきかどうか、迷う。
 朝までアキラと打っていたあの場所で、再び佐為を待つべきだろうか?
 現れるはずがないと頭の中では理解していながら、それでもまだ一縷の望みをかけて……?
『消えた人間が、どうやってその力を証明するというんだ!?』
 あれだけ酷い言葉を受けたというのに、いざ対局を始めたらすっかり佐為のことが頭から消えてしまっていた。
 目の前にいる相手を倒そうというよりは、アキラと創り出す盤上の世界に酔いしれてしまったのだ。
 佐為に申し訳ないと思いながら、対局が楽しくて仕方がなかった。証拠に、アキラに対して前ほどの嫌悪感を感じていない自分がいて、ヒカルは自分の現金さに顔を顰める。
「進藤」
 難しい表情で机とにらめっこをしていたヒカルの頭上に声がかかり、ヒカルは顎を上げた。
 そこに立っていたアキラを認めてバツが悪そうに目を逸らす。
「理科室に来てくれないか」
 意外な提案に瞬きしたヒカルは、もう一度顔を上げてアキラを見た。アキラの後ろからは夏目も恐る恐るヒカルの様子を伺っていて、どうやら理科室――囲碁部の部室で何かがあるらしいことを想像させた。
 ヒカルは嫌な予感に胸を竦ませながらも、ぎこちなく立ち上がって頷いた。






揺らぐの早えなヒカル!
この軽いノリのままラストまで突っ走ります。