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 部室の前に立つと、薄い扉の向こうからパチパチと碁石の音が聞こえてくる。毎日耳にしている音だというのに、何度聞いても心地良い。
 ヒカルは微笑を浮かべて、勢い良くドアを開いた。
「うーっす! 頑張ってるか〜」
「遅せーよ進藤!」
 挨拶の前に遅いと怒鳴られ、ヒカルの笑顔が渋く歪む。むっと下口唇を突き出しながら、後ろ手にドアを閉めた。
「お前らなあ、年上を敬うっつう気持ちはないのかよ」
「だって進藤だもんなー」
「なー」
 顔を見合わせて頷きあう部員たちは悪びれず、ヒカルはぴくぴくとこめかみをヒクつかせる。しかしいつものことだと軽く咳払いをした後は、彼らの打ちかけの碁盤を見回り始めた。
 碁盤は今のところ十二面揃っている。そのほとんどがヒカルのポケットマネーで購入したものだった。予算の都合で折り畳みが八面、後の三面はリサイクルショップを走り回って見つけた古い足つき碁盤である。
 唯一、真新しさが目立つ綺麗な碁盤は、囲碁部開設当時に校長が寄付という名目でプレゼントしてくれたものだ。さすがに三年以上も使い込まれて傷が増えたが、他の碁盤に比べると高級感が全く違う。
 先日アキラと行った対局はこの碁盤を使用した。今は部長と副部長が囲んで険しい顔をつき合わせている。なかなか難しい局面のようだ。
 ヒカルは彼らの横から盤面を覗き込み、目を細めて小さく頷いた。
 ――うん、ちゃんと気ぃつけてるな。
 すぐに石を取りに行きたがる副部長の悪いクセを指摘して以来、無茶な石の運びが少なくなって棋譜もぐんと綺麗になった。成果は今見下ろしている盤面にも現れているが、まだ部長の石田のほうが一枚上手なようだ。
 後で検討に付き合おうと決めて、他の生徒たちの対局も見て回る。彼らの棋風には性格が見えて面白い。やたらと攻める者、怖がって中に踏み込めない者、とにかく綺麗に石を並べる者。
 部員の数だけ違った対局があるのだと思うと、ここは何て素晴らしい空間だろうと胸がときめく。口は悪いが可愛い子供たちは、あれこれ言いつつ囲碁を純粋に楽しんでくれていた。
 彼らの一生懸命な姿を満足げに眺めていると、ふいに女子部員の一人がヒカルに声をかけた。
「ねえ進藤、今日は塔矢先生来てないみたいだけどホントにフッちゃったの?」
 明け透けに誤解混じりの質問をされて、つい言葉を詰まらせたのが悪かった。
 不思議とこういう話題には食いつきのいい、他の女子部員たちがわっと集まって来た。
「え〜勿体無い! 塔矢先生カッコイイのに〜!」
「あんなに進藤のこと待ってたのに〜! カワイソー!」
「お、お前らなあ……」
 うんざりしながら、何度も繰り返した説明を再びもう一度繰り返す。
「だから違うっつってんだろが。俺もアイツもホモじゃねえ。もっかい対局したいんだと」
「でも、ビビって「俺のことは諦めてくれ」って伝言頼んでたじゃん」
「だー、もう、俺も勘違いしてたんだよ!」
 部室で派手に怯えたのは大失敗だったと、ヒカルは自分の浅はかな行動を呪った。
 大体、冷静に考えればそんなことがあるはずなかったのだ。あの粘着質な待ち伏せにすっかり誤解してしまったが、二冠のトップ棋士が男色家だなんて聞いたことがない。
 俺って年の割にカワイイもんな、なんて鏡を見ながら震えていたのが馬鹿馬鹿しくて格好悪い。――彼は生粋の碁打ちのようだから、ヒカルの内に秘めた力を嗅ぎ取ってしまった。そして、更に引き出そうとしている。
 それがアキラの目的である以上、二度目の対局を引き受けるわけにはいかなかった。
「でもさー、ホントに対局したいって言ってんなら凄くない? だって塔矢アキラだよ? 進藤、なんで返事しないの?」
 もっともな質問をストレートにぶつけられると、ヒカルとしても苦笑するしかごまかしようがない。
「あのなあ、相手はプロだぞ。プロ中のプロ。気紛れに決まってんだろ」
「そうかなあ〜、あんなに熱心にラブコールしてるのにい?」
「ラブコール言うな!」
 全くお前たちはすぐ変な方向に話を持っていく、とぶつぶつヒカルが文句を言っていると、それまで怪しい話の流れを傍観していた男子部員の一人がおもむろに口を開いた。
「だけどさ、進藤と塔矢先生の一局凄かったよな。俺、去年だったら絶対棋譜見ても意味分かんなかった」
「あ、そうそう! 正直私もアレ途中から全っ然分かんないんだよね。細かすぎんだもん」
「初めて進藤をスゲエと思った」
 初めてかよ! と突っ込んだヒカルの言葉を合図に、部室がどっと沸く。
 笑いながら、ふざけ調子で別の男子生徒も話に乗ってきた。
「ひょっとしてあの対局で「コイツ意外とやるな」って見込まれたのかもよ。進藤、プロなれんじゃねーの」
 ヒカルはその生徒の頭を押さえつけるように、がばっと開いた手のひらでぐしゃぐしゃと髪をかき回してやった。
「くだらねーこと言ってねえでおまえら真面目に打てよ。特に三年、大会近いんだからな!」
「はーい」
「へーい」
 脱力するような生返事だが、それでも彼らが来月に控えた県大会を前に気合を入れているのは知っているのでそれ以上は怒鳴らない。
 ヒカルは胸を反らして腰に手を当て、偉そうなポーズで部室を見回る。すでに対局が終わっている組には検討を手伝い、相手がいなくてあぶれている生徒には詰め碁の問題を出してやる。
 この時間が好きだ、と心から思う。囲碁を全く知らなかった子供たちがこんなに熱心に碁盤に向かっている。そんな彼らを導くことができる喜び。

『進藤、なんで返事しないの?』

 ――今のままでいいんだ。
 力のあるプロと打てなくていい。上なんか目指さなくていい。
 ささやかだけれど、まだ囲碁の魅力を知らない人たちに面白さを伝える手伝いができればいい。
 それ以上は望まない。
「おっし、じゃあ一年から順番に多面打ちやるぞ! 手加減しねえからな、碁盤並べろ!」




 ***




 本因坊挑戦手合い第二局――
「ありがとうございました」
 対面の緒方に頭を下げたアキラは、ほっと安堵の息をついた。
 先番アキラの三目半勝ち。終始落ち着いた碁を打つことができ、確実な勝ちを狙った淡々とした流れを緒方に譲らなかった。
 やはりヒカルとの対局の可能性が出たことが弾みになったのかもしれない。
 それだけではない、何度となく彼との対局を想像してイメージトレーニングを積んでいたのも良い方向に働いたようだ。あの時はっとさせられた彼の一手を、自分なりにうまく取り入れることができたらしい。
「やられたな」
 緒方が自嘲気味に呟き、軽く口唇の端を吊り上げた。
 アキラも控えめに微笑み返し、軽く頭を下げる。
「二局目で持ち直すとはつまらんヤツだ。まあいい、三局目が楽しみになってきたぜ」
「ボクも楽しみですよ。このまま連勝させて頂きます」
「期待してやるよ。……別室で検討するか?」
「ああ、いえ、今日は……」
 すぐに帰宅しようかと、と続ける前に、断りの雰囲気を緒方が察したらしい。肩を竦め、それじゃあお開きにするか、と一度は呟いた緒方だったが、浮かしかけた腰をふいに下ろすとおもむろに盤上に指を伸ばした。
 アキラが目で追った緒方の指先は、アキラが後半に打ったある黒石を指していた。
「……この黒はいい手だった。お前にしては珍しいところに目をつけたな」
 ああ、とアキラが瞬きする。
 緒方が示した一手はまさしくヒカルをイメージして打ったものだった。わざわざその石を指摘されたことが嬉しくなり、アキラは思わず微笑んで頷く。
「少し、勉強する機会があったので」
「……そうか。秀策のようだな」
「え?」
「まさに今争ってるタイトルの代表者だよ。本因坊秀策の棋譜を思い出した」
「……、秀策……」
 緒方は立ち上がり、脱いでいたスーツのジャケットを傍らから拾い上げて、関係者に言葉をかけながらアキラと碁盤に背を向ける。
 アキラは緒方が指差した一手を、じっと見つめたまましばらく動かなかった。





ちょっとずつ本題?に近付いてきました……