帰宅途中の新幹線の中で、アキラは携帯を取り出しメールを打ち始める。 『二局目、勝ったよ。あと三勝で本因坊が獲得できる。その時はキミからも良い返事をもらいたい』 すっかり慣れた手つきでヒカルにメールを送信すると、ふっと小さなため息をついて二つ折りの携帯電話をパタンと閉じた。 適度に弾力のあるシートに深く背中を預け、軽く目線を窓の外へと移した。東京まではあと三時間以上、一眠りするには充分な時間だろう。 夕方のこの時間、恐らくヒカルは部活動の真っ最中で、すぐにはメールに気づくまい。もしも返信が来たら振動で起こしてもらえるようにと、ジャケットの内ポケットに携帯電話をしまったアキラはそのまま瞼を下ろした。 あれから一日一度はヒカルにメールを送るようにしている。不確かな繋がりだが、これが途切れてしまえばヒカルと連絡を取るのは難しくなる。最悪また学校に押しかけるという選択もあるが、随分迷惑がられたのでやらずに済むならそのほうがいい。 アキラが送るメールに、ヒカルは大体律儀に返信を寄越してくれた。前のようにあまり遅くならないよう気をつけてはいるが、時々らしくなくやりとりに夢中になって時間を忘れてしまうこともある。 彼からのメールは素っ気ない一言が多いというのに、こんなふうに誰かとリアルタイムでメールを交わすことが今までなかったからだろうか、やけに楽しんでいる自分をアキラは自覚していた。できるだけヒカルが乗ってきやすいような話題を選んだり、うるさく質問しすぎないようにしたり…… すっかりあの得体の知れない力に魅入られてしまったのだ。彼ともう一度対局できるなら、何を投げ打ってでも――というのは大袈裟かもしれないが、近いものを感じているのは確かだった。 『秀策のようだな』 緒方の言葉を思い出す。 深い意図なく発せられた言葉だとすぐに分かった。思ったままの感想を述べた緒方の一言が、それなのに何故だか胸に引っかかっている。 ――確かに、似た雰囲気はあるかもしれない。 緒方に打った一手のみならず、アキラは実際にヒカルと対局した。完全に暗譜したあの棋譜を初手から頭の中で追えば、なるほど秀策の影響を受けているような石の運びがちらほら見られる。 彼とは連日雑談を交わせる程度の仲になったが、実際彼自身のことについてはあまり深く追求していない。さりげなく話を振っても、やんわり避けられているふしがある。 彼は一度もアマチュアの大会には出たことがないと言う。碁会所も何年も行っていないようだし、プロ棋士の知り合いもいないと断言した。 ならば彼はあの棋力をどうやって身につけたのか? 「誰かから囲碁を教わったのか」という質問には、かろうじて肯定の返事があった。しかし、それは誰かと尋ねると、「お前の知らないやつだ」としか返って来ない。 もしもヒカルが本当に碁会所に行ったりプロと打ったりしているのではないとしたら、彼はアキラの知らない誰かに囲碁を教わった他はずっと独学してきたことになる。それはにわかには信じ難い想像だった。 確かに棋譜を並べたり詰め碁を解くのも大事な勉強だが、実戦から学ぶものの大きさは計り知れない。たとえ学生たちと日々対局をしていたとしても、発展途上中の彼らがヒカルの力を引き出すだなんてまずあり得る話ではない。 完全な独学でこの自分が慄くほどの棋力を身につける――日頃努力を怠らないアキラにとって、それは不可能だと結論づけたい内容だった。しかし実際にヒカルは迫ってきたではないか。 ヒカルの棋力の謎を知りたい。……彼に囲碁を教えた人物とは誰なのだろう? 『秀策のようだな』 再び緒方の言葉を思い出し、アキラは薄ら瞼を開く。 ――今度緒方さんに彼との棋譜を見てもらおうか。 ひょっとしたら、ヒカルのクセに似た棋風の人物を緒方が知っているかもしれない。彼に囲碁を教えたというのだから、恐らくプロか、プロ並の腕の持ち主のはずだ。 その相手と今でも打っているのだろうか。だとしたら、相手が羨ましい……もう一度瞼を閉じると、そこから思考はおぼろげに揺れた。 うとうとと夢の中を彷徨い始め、呼吸が規則的な寝息に変わってから少し後、突然びくっと身体を竦めたアキラが飛び上がるように身体を起こした。 アキラは胸の辺りでぶるぶると震えるものを見下ろし、内ポケットに手を突っ込む。携帯にメールの着信があったようだった。 携帯を開くと着信はやはりヒカルからだった。寝入りばなを起こされたというのに、アキラは不快な顔をちらとも見せずにメッセージに目を通す。 『おめでとう。まあ、残りもがんばれよ。』 随分と気のない返事に思えるが、アキラにとってはこれだけで充分だった。 その気になればいつでも変更できるメールアドレスに、呼びかけると返事がある。それがどれだけアキラを安心させるか知れない。 自分でも可笑しいとは思う――アキラはヒカルの素っ気ないメールに『ありがとう』と返信をしつつ、自らの異様な執着に苦笑いする。 たった一度の、しかも恐らく相手は本気ではなかった対局が何故ここまで興味を引くのか。 彼の強さは確かだった。しかし他に強い棋士などいくらでもいるし、アキラは日々身震いするような猛者たちと戦える贅沢な場を与えられている。 彼でなくてはならない理由などないような気がするのに、何故か。 何故だか惹きつけられてやまない。たった一度の対局で終わらせたくない。その本当の理由は――ひょっとしたら、再戦が叶った時に分かるのかもしれないと、閉じた携帯を握り締めたアキラは目を細めた。 ――秀策を、調べてみようか…… じっとしていられない自分が、また少し可笑しかった。 *** 日曜に休日が当たるのは久しぶりだった。 身体の休息はさておき、普段やりたくてもやれないことをやろうと早々に家を出たアキラは、まとめて購入予定だった本のメモを手に行きつけの本屋へ向かっていた。 大きなビルの一階から三階までを本屋が占領したビルを道を挟んだ向かいで仰いだ時、視界の端にちらりと何か気になるものが映ったような気がした。 ひとつ目的を決めたらそれしか目に入らないはずの自分が珍しいと、目線を下ろしてアキラははっとする。 金色の前髪。――ヒカルがまさにビルの前をのんびりと歩いている。 ヒカルだと脳が認識した途端、アキラは点滅していた青信号が赤になるのも構わず横断歩道を駆け出していた。 「進藤さん!」 大声で呼びかけると、それまでぼんやりとしていたヒカルの顔がぴくんと持ち上がり、声の出所を探してきょろきょろと首を回す。そしてアキラを見つけた途端、表情は「げっ」という悲鳴が漏れそうな勢いで引き攣った。 そんなあからさまな様子に構わず、アキラはずかずかとヒカルに近づいていく。 「久しぶり。こんなところで偶然会えるなんて」 「……塔矢先生」 本屋の入り口のまん前で立ち止まったヒカルはそれだけぽつりと呟いた。その違和感のある呼ばれ方にアキラが眉を寄せる。 「先生はよしてくれ。キミに言われると変な気分だ」 普段メールでやりとりしている文面が砕けすぎているせいか、敬称がむず痒い。しかしアキラの抗議にヒカルはむっと顔を顰める。 「冗談言うな、二冠の棋士相手に何て呼べって言うんだよ」 「塔矢でいい」 「お前なあ」 「お前呼ばわりしている相手に先生も何もないだろう」 さらりと返してやると、ヒカルは苦虫を噛み潰したような顔になって頭をがりがり掻いた。 「〜〜、分かったよ、じゃあお前も進藤「さん」はナシだ。なんか気持ち悪りぃ」 「……随分な言い方だな」 よく考えれば顔を合わせたのはこれでたったの三度目だというのに、メールの文体と変わらないあっけらかんとしたヒカルの口調はアキラに苦笑をもたらした。 あれから日に一度はメールで会話していたせいで、それほど久しぶりという気はしなかった。しかし教師にしてはやや乱雑なヒカルの言葉遣いも、文字で見るのと声で聞くのとでは受け取る感覚が違ってくる。 やはり顔を見て話すほうが良いなと、アキラは偶然に感謝した。一方、微笑むアキラを前にしたヒカルは明らかに「まいったなあ」という顔をしている。 うるさい奴に見つかったとでも思っているのだろうか――アキラはヒカルの心中を察し、苦笑の表情のまま話しかけた。 「今日はお休み?」 「……まあ、日曜だからな」 「どこか行く予定なのか?」 尋ねても答えてもらえる確率は五分だろうか、とアキラは望み薄な質問をしてみたが、 「……馬」 意外にも答えが返ってきた。 しかしその単語はアキラの首を傾げさせるだけで、ヒカルの言わんとすることは伝わらない。 「……馬、とは?」 「……、馬っつったら競馬しかねえだろ。レース見に行くの!」 強い調子で語尾をきっぱり告げたヒカルは、じゃあ、と軽く手を上げてアキラの前を通り過ぎようとする。 ぽかんとしていたアキラは、振り向いた先にヒカルの背中しか見えなくなっていることに気づいて慌てて後を追った。 「待って、レースって……ひょっとして馬券を買ったりするアレか?」 「他に何があんだよ。もういいだろ、バイバイ」 「一人で行くのか? 誰かと約束してるわけではなく?」 「誰と待ち合わせして馬券握り締めろってんだよ。一人だよ、一人」 斜め後ろをぴったりついてくるアキラを気味悪そうに振り返りながら、ヒカルは嫌々返事をくれていた。その様子からして鬱陶しがっていること間違いなしだったのだが、アキラはヒカルの言葉を勝手にいいように解釈して決断した。 「ボクも連れていってくれないか」 ぴたっとヒカルの足が止まったせいで、アキラは危うくヒカルの肩に突進しかけた。急ブレーキをかけたアキラが体勢を整えていると、振り向いたヒカルが心底うんざりした顔でぽつりと漏らした。 「お前……懲りないヤツだな……」 |
すっかりメル友……?
今回はホントいろんなものごちゃ混ぜでいきます。