Determine






 夕食を取りながら一時間ほど待っても音沙汰はなく、失敗してしまったと肩を落として時計を見ると、時刻はすでに九時を回っている。
 メールにばかり気を取られていないで自分の生活もこなさなければ――アキラは落胆しつついつも通りの行動を取り始めた。夕食の後片付けをして、バスルームで身体を清めて。
 洗面所で髪を乾かしながら、眠る前の時間を碁盤に向かうことに費やそうと考えていた時、ドライヤーの風の音に混じって電子音が聴こえてきたような気がした。
 思わずドライヤーを止めたアキラは耳を澄ます。……リビングから確かに聞こえる甲高い音。
 アキラはドライヤーを放り投げてリビングに駆け込んだ。音の出処を探すまでもなく、ローテーブルの上に置いてあった携帯電話に飛びつく。
 手に取った時はすでに音が止まっていたが、背面でライトがピカピカ光っているのは着信があった証拠だ。急いで開いた画面に、ヒカルからのメールが表示された。

『まあ、そうだけど』

 たった一言、一瞬何に対しての言葉か分からずにアキラは瞬きしたが、アキラの「キミが囲碁部を作った?」という質問への答えだと気づいて思わず頬を紅潮させる。
 随分時間が経ったが、律儀にも返信をくれた。一言だけのメッセージがこんなに嬉しかったのは初めてだ。

『すまない、不躾な質問をしたので怒らせてしまったかと思った』

 思わずそんな余計な言い訳を送ってしまっても、

『テストの採点してたんだよ。お前も碁の勉強したほうがいいんじゃないの』

 そんな返事を返してくれる。
 ひょっとしたら本当に怒っていたのかもしれないが、顔の見えないメールのやり取りでは見えやしない。その効果が今のアキラにはうまく働いてくれたようで、返事が来るのをいいことにアキラはメールを送り続けた。
 ヒカルが答えにくくならないよう、なるべく質問形式のメールを避けて、無理に囲碁の話をしないように心がけた。――後から振り返れば、そこまでして雑談をしなければならない理由などどこにもなかったのに、何故だか返事が来ることが無性に嬉しくて、アキラはせっせとメールを打つ。
 やがてこんなメールが届いた。

『悪い、俺もう限界。寝るわ。おやすみ』

 アキラははっとして時計を見上げる。――すでに日付変わって午前一時。
 また、やってしまった……愕然と時計の針を見つめ、全く昨夜の反省が活かされていない自分を呪った。



 ***



 人目も憚らず大きなあくびをしてみたら、後ろから同僚教師に出席簿でぱこんと頭を叩かれた。
「内臓が飛び出るぞ、進藤。また遅くまでゲームでもやってたのか?」
「そんなんじゃねーよ、ちょっとメールしてたら寝るの遅くなって」
 さほど痛くもない後頭部を擦り、むくれて口唇を尖らせる。その口唇はすぐに緩み、再び大きなあくびが漏れた。
「彼女と?」
「だったら眠気も吹っ飛ぶんだけどなー」
 ヒカルの返事に同僚は苦笑して、生徒の前ではしゃきっとしてろよ、とあまり効果のない呪文を唱えて去っていく。
 職員室に続く廊下で追い越されたヒカルは、彼を追いかけるために歩幅を広げるのも面倒で、それまでと同じようにとぼとぼとだらしなく歩き続けた。
 通勤に多少時間がかかるため、ヒカルの朝はそれなりに早い。それなのに本人は早起きが苦手とあり、目覚まし時計は毎朝ふたつ、最後に携帯電話のアラームもフル活用して何とかベッドからずり落ちている有様だ。
 ここ二日連続で夜更かしを強いられ、さすがに今朝はなかなかシーツの温もりから抜けだせなかった。あの後すぐに眠ったものの、起床は五時――四時間以下の睡眠が二日続くとやはり頭はボーっとする。
 途中で無理矢理終わらせてしまえば良かった、と昨日のメールのやり取りを恨めしく思うものの、ぽんぽんと送られてくるメールには邪気がなくてついつい相手をしてしまっていた。
 今まで雑誌やテレビの中でしか知らなかった塔矢アキラという男、意外に生真面目で頑固で不器用らしい。
 こちらがきっぱり断っていることに対して異常なまでの執着を見せたかと思えば、ころりと謝ってきたりする。夕べはどうやらヒカルの機嫌を損ねないように努めていたのだろう、端々に不自然な話の飛躍があったりした。
 その癖夢中になると時間を忘れるのか、こちらがどんな素っ気ない返事を返そうと素早く食らいついてきて、暇などないだろうに結局数時間びっちりメールするハメになってしまった。
 悪い男ではないようだ。が、ちょっと扱いにくい。
 まあ、最初の時のように突然プロになれだなんて言い出さないだけマシだったけれど……

『ひょっとして、キミが囲碁部を作った?』

 あのメールにはドキッとした。
 つい、三年以上も前のこと――赴任当時の頃を思い出して、一生懸命だった当時の必死な想いが何だか甘酸っぱく甦ってきた。


 ――おい、囲碁やらないか。囲碁だよ、囲碁。

 ――年寄り臭いだと? お前、このフレッシュな俺を捕まえていい度胸じゃねえか!

 ――要するに石を使った陣取りゲームだよ。面白いぞ。ワクワクする。

 ――女子も入っていいぞ。人数が多いほうが教えがいがあるからな!

 ――校長先生、俺、囲碁部作りたいんです――


 がむしゃらに、ひたむきに、夢へと向かった第一歩。
 そう、夢だったのだ。ささやかでもいい、自分の力を使って囲碁の道を説く。
 できるだけ多くの人に囲碁の面白さを知ってもらいたい――それはかつてこの身に宿った優しい魂の夢でもあった。

 ――俺……間違ってないよな?

 今は聞こえない声に囁きかけても、もう返事が返ってくることはない。



 職員室に荷物を置いて、近くの席の教師と軽い雑談を交わした後、ぼちぼちかなと呟いたヒカルは囲碁部の部室に向かった。
 四階の小さな資料室。無理を言って貸してもらったその場所は、今では立派な囲碁部部室に変わっている。人数も増えて、あの部屋では少々手狭になってきたくらいだ。
 三年前の春に新任教師として赴任してすぐに、友達感覚で寄ってくる生徒たちを捕まえては片っ端から囲碁をやらないかと勧誘した。あまりに無節操だと批判する年配教師もいたが、幸いにも校長に理解があってやんわりと味方になってくれたため、何とか囲碁部設立までこぎつけることができた。
 スタート当時の部員は五人。部として活動できる最低限の人数だったが、そのうちヒカルの親しみやすさに惹かれた帰宅部の生徒たちが一人二人と増えていき、今では二十人を越えている。
 ただ、彼らの中に囲碁の経験がある生徒はほとんどいなかった。
 素人たちの集まりなのだから途中で飽きてしまわないように、面白可笑しくゲーム感覚で一からルールを教え込んで、個人差はあれども一年と少しで全員十九路盤で一局打ち切れるくらいには成長した。中にはこちらが嬉しくなるほどのセンスを持つ部員もいる。
 彼らがもっと早く囲碁に触れる機会があったら――そんな想像に歯噛みしかけて、いいや、と何度も首を振った。
 ――自分が囲碁を教えなければ、一生碁石に触ることもなかったかもしれない。自分のできることを精一杯やろう――
 ささやかなきっかけのひとつであればいいと、今の自分を否定しないよう決意を新たに碁盤に向かう。この道を選んだのは間違ってはいないはずだと。





教師なので教師の仕事をしてる訳ですが……
やっぱりヒカがテスト採点してるの違和感ありますな。