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「以前先輩棋士から競馬の予想に関するデータベースの重要性について話を伺ったことがあってね。なかなか興味深いものだった」
「へえ」
 競馬場へ行く道すがら、ヒカルが喜ぶだろうかと自分の知っている限りの競馬の知識を披露してみたのだが、彼は「普通はそんな難しく考えねえよ」とだけ渋く呟いて黙ってしまった。どうやらあまり有用な情報ではなかったらしい。
 ついて来ることまでは否定されなかったものの、アキラの付き添いをヒカルが歓迎している様子はない。やはり強引過ぎただろうかと若干の反省はするものの、ほんの少しだ。後悔はしていなかった。
 せっかく会えたのだ、普段メールで遠慮がちに尋ねていることも、こうして面と向かってなら顔色を伺いながらもっとうまく聞けるかもしれない。
 何しろ知りたいことは山ほどある。本屋は逃げやしないのだから、今日の予定を返上したって構わなかった。
 ヒカルはちゃっかりついて来たアキラという存在に戸惑っているようだが、アキラが会話が成り立つと思われる質問を選んで尋ねればきちんと答えてくれた。無条件でとにかく拒否されないだけ有難いと、アキラは話し続ける。
「部活の調子はどう? 部員たちは頑張ってる?」
「ああ、もうすぐ大会だからな。来週は土日も部活やるんだとさ。張り切ってるよ」
「県大会で優勝したら、棋院主催の全国大会に来られるな。その時はボクも見に行こうかな」
「優勝かあ、まだちょっと厳しいだろうな。まあ、去年は出られたもんじゃなかったこと考えたら、かなりあいつらも伸びたけど……」
 どんな話題よりも、生徒たちのことを話している時のヒカルが一番饒舌で穏やかな顔をしていた。
 教育者らしからぬ風貌のヒカルだが、やはり教師なのだなとアキラも顔を綻ばせていた。



 軽い気持ちで足を踏み入れたその場所は、人が多くて空気が煙で濁っていた。
 目をチカチカさせているうちに先導しているヒカルがどんどん進んでしまうものだから、アキラは必死で金色の前髪を目印に、離れていくヒカルを追いかけた。
 馬券の買い方も知らないし、どの馬が強いかもさっぱり分からない。アキラはヒカルが何やら難しい顔をしてオッズを睨んでいるのを横から覗き込むのが精一杯だった。
「よし、今日はコイツに決めた」
 呟いたヒカルが再び大幅に移動するのを慌てて追いかけるアキラだったが、あちこちで人々が新聞や雑誌を広げて煙草を吹かしているので邪魔なことこの上ない。
 すいません、ちょっと通して、と障害物をすり抜けている間に、身のこなしが違うのかヒカルの姿はどんどん離れていく。
「進藤!」
 たまりかねて名前を呼ぶと、ふいに目の前にいた恰幅のいい男が立ち止まった。予期していなかった男の動きに対応しきれず、アキラは柔らかい背中にどんとぶつかってしまった。
 かろうじて尻餅をつくまでには至らなかったものの、よろめいたアキラはバランスを整えながら条件反射のように頭を下げた。
「す、すいません……」
「あ、やっぱり塔矢だ」
 謝罪に対しておかしな返事が返ってきた――不審に思ったアキラが顔を上げると、そこにはよく見知った丸い顔があった。
「倉田さん」
 アキラの先輩棋士であり、王座のタイトルを持つ倉田が、アキラより頭ひとつ分低い位置から不思議そうにアキラを見上げていた。
「なんか塔矢っぽい声だなあと思って立ち止まったら、ホントに塔矢だな。こんなとこで何してるんだ?」
 実に珍しいものを見た、というように目を丸くしている倉田に、倉田さんこそと聞き返す必要はなかった。
 先ほどアキラがヒカルに話して聞かせた競馬の予想云々を語って聞かせてくれたのが倉田だったからだ。
 棋士になる前は毎日のように競馬にのめりこんでいたという倉田だが、今は二、三ヶ月に数回息抜き程度に馬券を買って楽しむのだと話していたのを確かにアキラは耳にしていた。成る程、倉田がこの場にいることに不審な点はなく、妙だと言われるのなら自分のほうだろうと、アキラは倉田の探るような視線を受けてため息をつく。
「その……友達についてきたんです。こういうところは初めてで、ちょっと見失って」
「友達?」
 倉田がアキラの視線を辿ってきょろきょろ首を動かす。
 友達、と勝手に称したことに少なからず罪悪感もあったが、他に表現のしようもない。アキラは半ば観念したように、人一倍探究心の強い倉田を満足させるために、遠くに見える頭を指差した。
 随分距離が離れてしまったが、あの目立つ前髪のおかげですぐに見つけることができる。どこかほっとしながら、アキラは倉田にヒカルの姿を示した。
「彼ですよ。分かりますか? あの……前髪だけ金髪の」
「前髪だけ金髪……?」
 倉田が訝しげに眉を寄せる。アキラの指先に沿うようにぐぐっと身を乗り出した倉田は、その目にヒカルの姿を捕らえたのだろうか、寄せていた眉をぴくんと動かした。
「アイツ?」
「ええ」
 倉田に突き止められたからと言ってまずいことはないだろうと、アキラは軽い気持ちで頷いた。ところが倉田は顎に指を当て、何か考え込むように顔を顰めている。
「倉田さん?」
「アイツ……どっかで見たことあるぞ」
「え?」
 倉田の呟きを聞き逃さなかったアキラは、思わずヒカルがいる方角に顔を向け、すぐに倉田を振り返った。
 棋士である倉田がヒカルを見たことがあるだなんて――アキラは掴みかかる勢いで倉田の丸みのある肩に手をかけた。
「見たことあるって、どこでですか!」
「いっ、痛い、何すんだよ〜塔矢!」
 がくがくと揺さぶられながら抗議する倉田の声で我に返り、アキラは慌てて手を離す。
 自分よりずっと年上の先輩を力任せに揺するだなんて、まずアキラの中の常識ではありえないことだった。
「す、すいません、つい……」
「なんだよ、塔矢らしくないなあ。何の話してたっけ……? あ、そうだ、アイツだ! ええと……どこで見たんだったかなあ……」
 がっしり肉を掴まれた肩をさすりながら、倉田は上目遣いに考え始めた。アキラは再び揺さぶりたい気持ちをぐっと堪えて、倉田の様子を悶々と見守る。
 しかしう〜んと首を捻るばかりで倉田はなかなか思い出さない。焦れたアキラはあてずっぽうにヒントを与え始めた。
「いつ頃ですか。最近ですか?」
「ん? いや〜随分前だった気がするけどなあ……」
「場所は何処です」
「それを思い出せたら苦労してないぞ」
「〜〜〜、碁は……、碁は打ちましたか?」
「!」
 倉田の目がぽんと丸くなった。
 そして天を睨んでいた目をぎょろっとアキラに向けて、「それだ!」と人差し指を突き出しながら晴れ晴れと叫ぶ。
「そうだ、打ったんだよ! もう……十年以上前じゃないかな? あの頭! 変な前髪が珍しかったから覚えてたんだ。うわ、ひょっとしてアイツあの時のガキか?」
 自分だけで取り戻した記憶を独り占めする倉田は、再び身を乗り出してヒカルの姿を探し始めた。アキラはそんな倉田の肩をもう一度掴んで、ぐるんとこちらを振り向かせる。
「どこで……どこで打ったんです!」
 アキラの剣幕に倉田は目をぱちぱちさせたが、元々度胸のある男だからか、すぐにいつもの顔になって説明を始めた。
「碁会所だよ。ほんの気紛れで寄ったとこだからもう場所は忘れたけど。あの頃俺は期待の若手だったからさ、顔出しただけで店にいた客がもう一気に集まってきて。サイン攻めでまいったねー」
 長々と引っ張る倉田自らの栄光の日々はアキラにとってはどうでも良いことだったが、下手に遮ると機嫌を損ねてしまう。倉田は単純な性格である故に時々扱いにくくもあった。
「それでな、ガキが一人俺に勝負しかけてきたんだよ。『この中で一番強いのおじさん?』ってな。まだあの時俺は二十代そこそこのお兄さんだったのに!」
「……彼が対局を持ちかけたんですか?」
 微かに表情を強張らせたアキラには気づかず、倉田は憤りながらそうだよ、と続けた。
「しかもさ、座った席の碁笥がふたつとも白石でさ。先番はくれてやったけど、勝負ふっかけたんだからこれくらいはって一色碁にしてやったんだ」
「一色碁!?」
 アキラは思わず大声を上げた。





ホントにごちゃ混ぜです……