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 倉田は先ほど十年以上前だと言った。仮に十年前だとしても十五歳……ガキ、という言葉を連発していることを考えるともう少し下かもしれない。
 つまりその頃、ヒカルは碁を始めてまだ数年といったところだ。そんな素人が当時から評価の高かった倉田に勝負を仕掛けただけでなく、一色碁で打っただなんて。
「それで……どちらが勝ったんです」
「……」
「倉田さん?」
「……あークソッ、思い出すんじゃなかった! 俺もガキだと思って手ぇ抜いたし、まぐれだとは思うけどな!」
 アキラは愕然と目を見開き、そんな馬鹿な、と口の中で呟いた。
 ――彼が勝ったというのか。恐らく中学生程度だろう子供の彼が……
「アイツ、塔矢の友達? プロじゃないよな? 今も碁やってんのか?」
「あ……、それは……」
「ちょっとアイツにリベンジさせろって言っとけよ。今度は本気でやってやるって」
「……はい、伝えておきます」
 ――冗談! ボクでさえ再戦が叶わないのに!
 心の中では裏腹に毒を吐き、アキラはそれでは、と倉田の横をすり抜けようとした。顔はすでに倉田ではなく、人込みの向こうにいるだろうヒカルに向けて。
「あ、おい、塔矢! アイツ、名前何て――」
 最後の倉田の問いかけを振り切って、アキラは走り出す。多少肩がぶつかろうが、よろめきながら人を掻き分けた。
 ――キミは……、キミは一体何者なんだ……!
 ヒカルとの間を隔てる人々を一人一人躱して、これから始まるレースを今か今かと、天井から吊られたモニタを見上げているヒカルの後頭部を見つけた。
 その瞬間、金色の前髪が見えないことが不安となってアキラを襲い、アキラは乱暴にヒカルの腕を掴んで強く引いた。
 驚いたヒカルが振り返り、前髪がきらきら揺れる。
 無性にほっとした。
「……んだよ、痛えよ」
 腕を掴まれたことへの非難というより、純粋に驚きを表したヒカルの呟きにアキラは顔を赤らめ、ごめんと小さく謝罪して手を放す。ヒカルは呆れたように言った。
「なんだよ、だからついて来ても面白くねえって言ったのに。これだけ人が多けりゃはぐれたって仕方ないだろ?」
「あ……いや、その……」
「もーレース始まんだよ。今回は手堅くいったからな〜……、あ、スタートだ」
 ヒカルの声に弾かれるようにモニタを見上げた。周囲の人々もいっせいに同じく首を動かし、まるで光を追う鳥のように揃った動きがアキラにちょっとした羞恥心を与えた。
 隣のヒカルは真剣な顔でモニタを睨み、ぶつぶつと何事か口にしているのは目当ての馬でも応援しているのだろうか。
 真剣な目だけれど、あの対局の時とは違う――不思議の断片だけを見せつけるヒカルを前に、もどかしさを堪えてアキラは静かに奥歯を噛んだ。




「あー、負けだ負け! 全敗!」
 競馬場を出てからずっと負けを悔しがるヒカルの後ろに続きながら、アキラは話を持ちかけるタイミングを伺っていた。
 ここまで酷い負けは初めてだと嘆くヒカルは、恨めしげにアキラを振り返って半眼を向ける。
「お前、厄病神だろ。今までこんなことなかったんだからな」
「そんな……」
 無茶苦茶な、と言い返しかけたアキラは、空が夕暮れで赤く染まりつつあることに気づいて、タイムリーな懐柔策を思いつく。
「……それじゃあ厄病神からお詫びさせてくれ。時間があるなら食事でもどうだ? 旨い寿司屋を知っているんだが」
「……スシ……?」
 ぴくんと揺れた目の輝きは、決して悪い反応ではないだろう。
 アキラはにっこり笑い、「奢るよ」と駄目押しした。


 びくびくとアキラの後をついてきたヒカルは、そのほうが落ち着くだろうとアキラが指定した小上がり席に腰を下ろして、ようやくほっと一息ついた。
 そしておしぼりで手を拭いているアキラに、ぼそっと小声で訴えてくる。
「おい、ここ幾らすんだよ。バカ高いとこじゃねえのか?」
「奢るって言っただろう? 心配しなくていい」
「いや、そんなこと言ったって、一応俺だって社会に出てますし」
「いいよ、ボクが誘ったんだ。それにボクのせいで大負けしたんだろ?」
「……、お前、ホント変わってるよな」
 顰めっ面で呆れるヒカルを前に、アキラは優雅に微笑んでみせた。
 ここしばらくアキラの頭を支配し続けている謎の一端でも掴めれば、これくらいどうってことはない。
 アキラは馴染みの主人に適当にお勧めを、と頼み、それではと臨戦態勢を整えた。
 食事に誘ったのも、立ち上がりにくい小上がり席を選んだのも、――簡単に逃がさないためだ。ついさっき倉田から得たヒントをとことん追求しなくては――アキラは目の前に並んだ寿司にヒカルが手をつけたのを確認してから、質問という名の攻撃を開始した。
「……キミはしばらく碁会所には行っていないと言っていたね。しばらく、ということは以前は利用していたということか?」
 穴子を口に入れたヒカルがぐっと喉を詰まらせた。すかさずアキラが差し出したお茶を取ったヒカルは急いで湯呑みに口をつけ、大きく息をついて憮然とする。
「……なんだよ、いきなり」
「ただの質問だよ。回答は?」
「……、そんなに行ったことねえよ。ホントにガキの頃に数回……数えるぐらいしか」
「ガキの頃っていつ頃?」
「どうでもいいだろ」
「キミがさっき食べた大トロ、時価だから」
 さらりと告げたアキラの言葉に、もうとっくに食べ物は胃の中だろうに、ヒカルは喉を詰まらせたようにうぐっと前屈みになった。
「主人に値段を聞いて来ようか?」
「お、お前……卑怯だぞ」
「言ったろう、ただの質問だって。……それで、答えは?」
 ヒカルの鋭い視線が痛いほどアキラを刺すが、この程度の威嚇なら何と言うことはない。碁盤を挟まずに対峙している相手など、アキラにとっては敵ですらなかった。
 ヒカルはしばらく渋い表情で口唇をへの字に結んでいたが、やがて不機嫌な顔はそのままに口を開き始めた。
「……碁会所行ってたのは中学ん時だよ。十三くらいの頃。なんでそんなこと知りたいんだよ」
「では、キミは碁を初めて間もない頃か?」
「……ああ」
「数えるぐらいしか行ったことがないなら覚えていないか? どこかの碁会所で、倉田王座と打っただろう。キミが勝負を仕掛けたと……しかも一色碁で」
 ヒカルがゆっくり眉を寄せる。それから黒目をぐるっと上に向け、過去の記憶を掘り起こしているようだ。
 一色碁、と口の中で一言呟いたヒカルは、その直後大きく目を見開いてあっと声をあげた。
「一色碁! あれか! なんだよ、あのオッサン倉田だったのか!」
「やはりキミか!」
 ヒカルの反応に同調するように身を乗り出したアキラは、十三年前とはいえヒカルが人と対局し、しかも一色碁などという高度な碁を打ったことに嫉妬した。
「さっき、競馬場で倉田さんと会ったんだ。キミのことを覚えていた。一色碁で、子供に負かされたと今でも悔しそうにしていたよ」
「んなこと言ったって、あれは俺じゃな……」
 何かを言いかけたヒカルが口を押さえる。
 そのわざとらしい仕草がアキラの目に留まらないはずがなかった。
「俺じゃない?」
「……、いや、なんでもない」
「なんでもないことあるものか。今、俺じゃないと言わなかったか? どういうことだ」
「なんでもねえって」
「キミじゃない人が打ったというのか? しかし倉田さんは確かにキミと……」
 早口でヒカルを追い詰めていたアキラはそこで絶句した。ヒカルが突然並んでいた寿司を片っ端から口の中に詰め込み始めたからだ。
 そんなに一気に飲み込んだら、味など分かりもしないだろうに……呆気に取られているアキラの前ですっかり寿司を平らげたヒカルは、ずずっと茶を啜ってふっと大きく息をつくと、尻に挿していたらしい財布を取り出して中から一万円札を抜いた。
 ふわっとテーブルの上に舞った紙幣に思わず気を取られた時、ヒカルはすでに小上がり席から立ち上がって靴に足を突っ込んでいるところだった。
「あ、進藤!」
「ごちそうさん。俺、もう行く」
「ちょっと待っ……」
 アキラが止める間もなくヒカルは手早く準備を整え、勢い良く店を飛び出してしまった。アキラも腰を浮かしかかっていたが、たとえ追いかけても追いつけそうにないヒカルのスピードを目の当たりにし、仕方なく腰を下ろす。
 ――しまった。少し性急すぎたか――
 どうやら触れられたくない部分を突いてしまったようだ。躍起になって追求してしまった自分を反省しながら、アキラはヒカルが残して行った一万円札を手に取る。
「……奢るって言ったのに」
 貸し借りなし、という意味だろうか。
 競馬で大敗した後だというのに、かえって悪いことをしてしまった――アキラはとっくにヒカルが消えてしまった店の出口をぼんやり見つめながら、更に深まった謎にため息をひとつついた。





うっかり餌に釣られました。