Determine







 いつもならアパートの近くのコンビニで済ませる夕食の買い物だが、少し足を延ばしてスーパーマーケットまで出向いたのは理由があった。
 ……金がなかった。
「……クソ」
 夕方のスーパーに並び始めた見切り品の弁当を、主婦たちと対抗しながら購入することに若干の羞恥を感じつつ、なんとかその日の夕食を調達したヒカルは力なくアパートに帰宅した。
 給料日までまだ随分日があるというのに、競馬で負けるは予定外の高級寿司に一万円払うは何とも不毛な出費がかさんでしまった。せめてもっと味わって食うべきだったか――数日前の出来事を思い出し、ヒカルは渋く顔を顰める。
「なんなんだ、あの男は」
 脛の高さほどのテーブルにビニール袋に入ったままの弁当を下ろし、その正面にどっかり座って息をつく。
 まだ弁当が買えるうちはいい。来週はせいぜいおにぎりくらいしか……財布の中身を思い出すと気持ちが暗くなるが、払ってしまったものは仕方がない。最初に食い物に釣られた自分が悪いのだ。
 ガサガサと袋から弁当を取り出し、備え付けの割り箸をぱりんと割って、温め直しもしない冷えた弁当をもそもそと口に運ぶ。値段はともかく、口に入れてしまえばスーパーもコンビニも変わらない。
 あの寿司は確かにうまかった。あんな艶々したネタは初めて見た。一万円置いて来たが、もしも足りなかったらどうしよう……元々さらっと「奢る」と告げていた男だから困ることはないだろうが、自分のささやかなプライドが傷つく。
 たかが寿司ごときでうっかり大切な存在のことを喋ってしまうだなんて、洒落にならないしきっとあの世から怒られる。
 それにしても、十三年前。
「……よく覚えてんなー……」
 自分でさえ言われなければ思い出すことのなかった碁会所での一悶着。とりあえず強い奴を、と客に囲まれていた棋士を掴まえ、一局打とうと誘ったのは確かに自分だ。
 だけどそれは、他の人には見えないもう一人が望んだから。
 あの碁を打ったのはヒカルではない。まだ、あの頃のヒカルには棋士と対等に渡り合う力なんてなかったし、初めて見る一色碁はかなり早い段階でさっぱり分からなくなった。
 ただ、言われるがままに石を置いていただけ。
 まだ棋譜を覚える力もなかった当時の自分は、碁盤の上に広がっていく白石を目で追うことしかできなかった。――今あの対局を見ることができたら、どれだけ魅力的な展開だったのか理解できるのだろう。倉田がたった一度の対局を覚えていたのも、きっと負けたからというだけではなく、碁の内容が素晴らしかったからだ。
 それにしても、まさかあの男が現在の王座とは。
 せがまれるまま碁を打っていた頃は棋界にも興味がなく、プロの名前もろくに知ろうとしなかったから気づかなかった。
 さすがに今は囲碁部の顧問でもあるのだし、それなりに棋界のニュースはチェックしている。棋戦の結果だって新聞記事などで目を通すし、部員たちと棋譜を検討したりもする。
 子供たちがいたずらに騒ぐため、最近はあまりアキラの棋譜は使っていないのだが……つい昨日行われた本因坊挑戦手合いの第三局、思わず唸る巧みな攻めは見事だった。あの緒方から中押しで勝ちをもぎ取ったのだから大したものだ。
 アキラからは変わらずにメールが届いている。第三局に勝利した後も「勝った」と報告が来たので、渋々おめでとうと返してやった。
 本当におかしな男だ。競馬場にくっついて来たことも驚いたが、寿司を餌に釣り糸を垂らしていただなんて侮れない。
 そこまでして自分の過去を掘り返したところで、きっと彼が望むような答えは得られまい。突拍子もない大法螺話と呆れられるか、からかうつもりかと憤るかのどちらかだ。
 自分が手にした強さの秘密は自分だけのもの。そしてこの力は無闇にひけらかすものではない――だから彼との対局は受けられない。
 そんなふうに使う力ではないのだ。かつてこの身に宿った儚い存在がそうだったように。

 ――ヒカル、私も打ちたいです――

 「彼」の望むままに打てば勝利と言う名の優越感を得ることができたが、同時に騒ぎもついてきた。
 天才だと囃す大人から逃げ出したヒカルに、「彼」は申し訳なさそうに告げたのだ。

 ――ごめんなさい。もう、打ちたいなどと言いませんから――

 その時の「彼」があまりに淋しそうだったので、ヒカルは彼に囲碁を教わることにした。彼は活き活きと囲碁の魅力をヒカルに伝え、眠りについてから千年後の世界に出来た弟子を心から愛してくれた。

 ――ありがとう、ヒカル。私の碁が、貴方の中で生きている――
 ――願わくば、更なる千年先の未来に繋がりますように――

 「彼」は消えて、ヒカルには囲碁が残った。
 ……誰も信じるまい。最強の師匠は自分に取り憑いた幽霊で、もう十年も昔に消えてしまっただなんて。
「……俺が選んだんだ」
 せめて一人でも多く、彼の碁を伝えようと選んだ道。特別な誰かのために打つのではない。だから個人的な対局は受けない。
 彼が消えたあの日から、本気で碁盤に向かうのは対面に誰もいない自室でのみ――簡素な夕食を終えたヒカルは、傍らに控えている碁盤を引き寄せ、だらけていた背筋を伸ばしてきっちり一礼した。
 碁石を指に挟み、見えない相手を見据えて碁盤に放つ。
 唯一全ての力を解放できる時間。いまはもういない人とのイメージトレーニングに全神経を集中させたヒカルは、その後携帯電話がメールの着信を知らせて震えているのにも気づかずに数時間没頭し続けた。




 ***




 全国高校囲碁選手権の県大会会場にやって来た部員たちは、一様に顔を強張らせて緊張感を分かりやすく放出している。
 引率のヒカルは苦笑しながら、会場に集った学生たちの真剣な眼差しを見て静かに目を細めた。
 ――ああ、いい場所だ。みんなあんなに一生懸命碁盤に向かってる……
 微笑んだヒカルは、団体戦に出場予定の部員たちの背中をばしばしと叩いていった。
「お前ら、気合入れすぎてガチガチだぞ! リラックスして楽しんで来い! な?」
 部員たちは硬い表情のままぎこちなく頷く。いつも強気な部長の石田も、随分と口唇に余分な力が入ってようだ。
 初めての大会だから無理もない――ヒカルは、彼らが囲碁部に所属する前は、特に打ち込むものもなく帰宅部でぶらぶらしていたことを思い出した。
 たった二年と少しでよくここまで、と感慨深くなる。団体戦に男女三名ずつ、六名の可愛い部員たちをヒカルは力強く送り出した。
 午前中を勝ち抜き、昼を挟んで午後の部の後半に、ヒカルは沈んだ表情の部員たちを優しく迎えることになった。


「お疲れ。お前らよくやったな。大健闘じゃねえか」
 男子は団体戦の決勝で、女子は準決勝でそれぞれ破れ、棋院で行われる全国大会の切符を手にすることは叶わなかった。しかし彼らの戦いぶりを見ていたヒカルは、この結果に充分すぎるほど満足していた。
 彼らは碁を始めて二年ちょっと。しかし打たれた碁の内容は期待以上で、高校入学前から碁を打っていただろう他校の生徒たちに引けを取らないものだった。
 石の打ち方から教えた生徒たちが自分の力で立派に戦い、負けたことに対して悔し涙を滲ませるほど真剣になっている。それだけでヒカルには彼らが充分誇らしかった。
「マジでお前ら頑張ったよ。女子は三位、男子は二位、よくやった! 帰り、なんか食ってこうぜ。俺が奢るから」
 ヒカルの言葉に、部員たちの沈んだ表情にも少しずつ笑顔が戻り始める。よし行くぞ! と彼らに発破をかけ、会場を出た時、ヒカルの隣を歩いていた部長の石田がぽつりと漏らした。
「……俺さ、決勝の後、相手に聞いたんだ。いつから碁やってたんだって」
 ヒカルは石田に顔を向ける。
 彼は一年生の時にヒカルが勧誘して渋々碁を始めた少年だったが、その卓越したセンスであっという間に当時の二、三年生を抜き、部長の名を任せるに相応しい囲碁部のトップとなった。
 大将を務めた彼の決勝戦、実にいい勝負をしていたが、最後は経験の差で押し切られたような惜しい黒星だった。実力だけならそう大差はないだろうにと思うと彼の悔しい気持ちはよく分かったのだが……
「そしたらアイツ、「小学生の頃から」って答えたんだぜ。俺なんか、まだ三年も経ってないのに」
「……お前……」
「俺だって小学生の頃から碁やってたら、アイツにも負けなかったかなって……すげえ悔しいよ」
 ヒカルは息を呑む。石田は茶化すように声に笑いを滲ませているが、無理をしていることはすぐに分かった。
「な、負けねえよな?」
 ふいに強がった笑顔で見上げられ、ヒカルは戸惑いそうになる自分をぐっと抑える。できるだけ落ち着いた表情で、ゆっくり頷いて「ああ」と答えた。
 石田は安心したように笑い、あーあ、と道端の石ころを蹴っ飛ばす。
「もっと早く進藤に会ってたらなー……」
 ヒカルは彼の背中に何と声をかけるべきか躊躇い、結局何の言葉も思いつかなくて、彼の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。やめろよーと騒ぐ二人に呼ばれるように、他の部員たちも何事かと楽しげに寄ってくる。
 先ほどの暗いムードを吹き飛ばした、賑やかな帰路となった。
 しかしヒカルの頭からは石田の言葉が離れなかった。子供たちと一緒に笑いながら、その胸の奥はざわざわとさざめいて息を詰まらせた。





ちょっと青春に挑戦……
いろいろと苦しいな。