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 その数日後、いつものように部室にヒカルが訪れると、窓の外を覗いていた女子部員の一人がヒカルの元に駆け寄って来た。
「進藤、校門んとこ! 塔矢先生が来てる!」
「なに!?」
 嬉々とした報告とは裏腹にヒカルは目を剥いて、慌てて窓から校舎の外を見下ろした。……校門に凭れる特徴的な髪型の男が小さく見える。
「アイツ、来るなって言ったのに……!」
 思わず呟いたヒカルは、周りで囃す生徒たちを黙らせる余裕もなく部室を飛び出した。
 ――なんだ、今度は何しに来やがった。
 メールの返事は返してやっている。つい昨日だってやり取りをしたのに、押しかけられるような展開になった覚えはない。
 しかも、昨日のメールの内容と言えば――ヒカルは舌打ちし、全速力で校門まで駆け抜けた。
「……おいっ!」
 息を切らして怒鳴りつけると、涼しい顔で校門に凭れていた男がひょいと振り向いた。そしてヒカルを見つけて穏やかに微笑む。
「やあ」
「やあじゃねえよ、お前何してんだ! 明日手合いだろうがっ!」
 そう、アキラは昨日メールで「明後日が本因坊戦の第四局だ」と知らせていたのだ。前夜祭があるとかで現地に前日入りするらしいアキラが、何故こんなところでのんびりヒカルを待っているのか。
 ヒカルの形相にアキラは多少たじろいだようだが、すぐに苦笑を浮かべた。
「ああ、夕方の新幹線で向かうから。挑戦手合いの後もしばらく予定が詰まっていて、今日この時間じゃないと都合をつけるのが難しかったんだ」
「だから何の都合だよ! ここには来るなって言っただろ!」
 怒鳴り続けるヒカルに取り付く島がないと判断したのか、アキラは黙って胸元に手を入れて封筒を取り出し、ヒカルにすいと差し出した。
 差し出されるがままに受け取ってしまったヒカルは、封筒とアキラの顔を見比べて眉を寄せる。
「この前のお寿司代。奢るって言ったろ」
 ヒカルの疑問に答えたアキラの言葉がピンと来ず、ヒカルは一瞬固まった。しかしすぐに先日の一件を思い出したヒカルは、手にした封筒を突き返すようにアキラに押し付ける。
「い、いらねえよ、こんなもん」
 本音を言えば給料日まであと一週間、先日県大会後に負けた部員たちを慰めるため気前良く(といってもラーメンを)奢った身としては、プライドを立てるよりも飛びつきたい気分だったのだが。
 そんなヒカルの内心の葛藤を知ってか知らずか、アキラは押し付けられた封筒をぐいっと押し返した。
「ボクが余計な詮索をしたせいで気分を悪くさせたんだろう。ボクはあそこの寿司屋が本当に旨いのを知っていたし、キミに気持ち良く食べてもらいたかった。それなのに食事で釣るような真似をしたのはボクだ。悪かった」
 真っ直ぐな目でそんなことを言われると、ヒカルもそれ以上噛み付きにくくなってしまう。口をへの字に結んだまま黙るヒカルに、アキラは駄目押しの一言を続けた。
「返すのが遅くなってすまない」
 降参、とばかりに肩の力を抜いたヒカルは、分かったと頷いて素直に封筒を受け取ることにした。
 変なところが生真面目なこの男相手に、プライドがどうのと意地を張ること自体馬鹿馬鹿しい。
 しかしこれだけは言っておかねばと、ヒカルは再びきゅっと眉を吊り上げる。
「お前な、ちゃんとした理由があるならこんなとこでぼけっと待ってんじゃねえよ。事務室通して俺を呼び出すなり、せめて事前にメールくらい寄越せばいいだろ」
「ああ、メールは失念していた。呼び出すのも迷惑がかかるかと」
「ここで待たれて目立ちまくってるより迷惑かかんねえよ」
 毒づくヒカルにアキラはきょとんとし、素直に頭を下げてくる。
「そうか、それはすまなかった」
「……もういいよ。わざわざどうも」
 きっとこのやり取りも、四階の部室から部員たちが物珍しげに眺めているに違いない。戻るのが億劫だと内心げんなりしながら、後は別れの挨拶だけだろうと会話を締め始めたつもりのヒカルだったが。
「それから、もうひとつ」
 アキラは次に肩にかけていたショルダーバッグの中から、先ほどよりもずっと大きい書類サイズの封筒を取り出し始めた。
 アキラは薄っぺらい封筒の中身を告げずに、再びヒカルに受け取れと言わんばかりに差し出してくる。
 二つ目の封筒に、今度こそ思い当たるものがなかったヒカルが躊躇していると、アキラはじっとヒカルの目を見つめたまま静かに告げた。
「この前ボクが尋ねた……十三年前のキミと倉田さんの対局を倉田さんに再現してもらった。その棋譜だ」
「……!」
「もし、よければと思って。十三年も経てば記憶はおぼろげだろう」
「……」
 ヒカルはごくりと唾を飲む。
 迷いはあった。この棋譜は、あまり嗅ぎまわられたくない過去の一欠片でもある。アキラが密かにヒカルのことを調べようとしていることに、抵抗を感じないわけではない。
 しかし興味と懐かしさが勝った。アキラの言う通り、十三年前の自分はまだ力が足りなくて、あの時の一局を再現するどころではないのだから。
 「彼」の碁を見たい――その気持ちは、自然とヒカルに腕を伸ばすよう囁いた。
 紙一枚しか入っていない頼りない封筒を受け取り、ヒカルは胸がじんと熱くなるのを感じる。
 こんな形で彼に触れられる日が来ようとは。分からないものだ、と淋しげに目を細めた。
 そんなヒカルをじっと見ていたアキラは、あらかじめ言葉を用意していたのだろうか、まるで脈絡のないことを告げてきた。
「残念だったな、生徒さんたち。棋院で会えるのを楽しみにしてたんだが」
 棋譜を手にした余韻でぼうっとしていたヒカルは、一瞬きょとんとしてすぐに意識を取り戻す。
 そういえば県大会の結果をメールで尋ねられていたのだった。残念ながらダメだった、と伝えてあったのでそのことだろう。
「あ、いや、まああいつら頑張ったし。相手のが勝負慣れしてたから、しょうがねえよ」
 慌てて教師の顔を取り戻す。あまり棋譜に気を取られていると、どうも気持ちが落ち着かなくて余計なことを言いかねない。
 アキラはそんなヒカルを静かな瞳で見つめながら、もしよければ、と切り出し始めた。
「全国大会、見学に来ないか? 部員全員では人数が多すぎるが、県大会に出た六人だけでも連れて。棋院にはボクが話を通しておこう」
「え……」
「全国レベルの碁を見せるのも勉強になると思うよ」
 ヒカルは瞬きし、アキラの提案をどう受け止めて良いのか判断に迷った。
 見学は考えてもみなかった。確かに対局を棋譜だけでなく実際に見ることで、その場の緊張感も含めて得られるものは多いだろう。
 しかし、同じくらいの年の学生たちが集って碁盤に向かう様を見せつけるのは酷では、と甘い気持ちも産まれてくる。まだ一度しか大会経験のない彼らは、来年は卒業していて二度目のチャンスがないのだから。
「……、あいつらに聞いてみるわ。有り難いけど、まだ結構ヘコんでっから」
「そうか。もし来るなら連絡してくれ。ボクも都合をつけるから」
「ああ」
 返事をしつつ、県大会での部員たちの様子を思い出す。
 ――もっと早く進藤に会ってたらなあ……
 たとえ話にならない腕でも、力がつくまでと言わず、弱いうちから大会を経験させてやればよかった。
 せめてもっと打ってやれば。……もっと早く教えてやれたら……
「進藤?」
 呼び掛けにはっとする。
 ヒカルは無意識に険しい表情を作っていたことに気付いて、ふっと顔の力を抜いた。
 アキラが不思議そうにヒカルを見ていた。
「どうかしたのか?」
「あ……いや、」
「そろそろ行くよ。会えて良かった。見つけてくれてありがとう」
 様子のおかしいヒカルを気にした素振りを見せながら、アキラは別れを口にする。
 じゃあ、と手を上げたアキラを、ヒカルは思わず呼び止めていた。
「あ、あのさ……!」
 背を向けかけていたアキラが振り向いた。何?と首を傾げるアキラに、ヒカルは目を泳がせながら尋ねた。
「お前って……、いくつから碁、始めたんだっけ?」
「ボク? 聞いた話では二歳から石には触れていたらしいが」
「それって、親父の影響だよな……」
「……まあね。日常に碁があるのが当たり前だったから」
 それがどうかしたのかと言わんばかりのアキラの目から僅かに目線を逸らし、ヒカルはぎこちなく続けた。
「その……、囲碁って、やっぱガキの頃からやってるほうが有利かな……」
 ヒカルの質問にアキラはすぐに答えず、少し考えるように眉を揺らした。
 そのささやかな仕草を見ただけで、ヒカルは自分の問いかけを後悔して顔を赤らめる。
「まあ、確かに早いうちから基本を身に着けたほうが……」
「ごめん、なんでもない。深い意味はねーんだ、引き止めて悪かったな」
 アキラの言葉を途中で遮って、ヒカルは無理に笑顔を作った。そのまま手を振ってしまえば、アキラとしては立ち去るしかなく、ヒカルを気にして振り返りながらもやがて姿は遠くなる。
 残されたヒカルは、アキラが見えなくなってからそっと笑顔を無に変えた。





さらりと待ち伏せする男です。