Determine







 発車ギリギリに新幹線に乗り込んだアキラは、指定の席に身を滑り込ませた途端にどっと吹き出た汗と疲れに顔を顰め、ふうと大きく息をついた。
 会える確率が高くないことは分かっていたが、どうやら賭けには勝ったようだ。
 事前にメールでもしろとのヒカルの言葉は至極もっともだった。今度からはそうしようと思うと共に、また校舎前で彼を待つような事態があるかどうかは分からなくて、アキラはひっそり苦笑する。
 ――お前何してんだ! 明日手合いだろうがっ!――
 彼は口は悪いが、意外に気遣いのできる男のようだ。
 余計な心配をさせただろうかと軽く自惚れて、明日の第四局にますます力が入る自分を静かに諌める。
 勝ったよと報告できたら、多少なりとも笑顔を見せてくれないだろうか。
(……さっきは見たことのない顔をしていたな)
 ヒカルに棋譜を手渡した時、彼の瞳をふわっと優しい光が包んだ。
 驚いたような、戸惑ったような表情は少しだけ幼く、アキラの知らない十二年前のヒカルを垣間見たような気がした。
 倉田と打ったという一色碁。――改めて棋院で見つけた倉田を捕まえて、並べてもらった棋譜はアキラを唸らせるに充分な内容だった。
『な、とんでもねえガキだろ? 俺もさあ、コイツよくついてくるなって思っていろいろ揺さぶってたんだけどさ、ふっとした瞬間に石が分かんなくなっちまって』
 倉田でさえ混乱した、盤上に広がった白い石の群れ――それを彼は最後まで見極めていたと言うのだ。
 僅か十二歳の彼が。……碁を始めて少ししか経っていない頃だとは、倉田には告げていない。
 そんなはずはない、とアキラの頭がすぐに否定をした。しかし倉田は確かにヒカルと打った、ギャラリーはいたが彼に指示をするような人物はいなかったときっぱり主張した。
(……そんなはずはない)
 碁を始めて僅かの人間が、ここまでの碁を打てるはずがない。
『あれは俺じゃな……』
 思い出すのはヒカルのあの呟きだ。
 何かを言いかけた――「俺じゃない」。
 俺じゃない、とは? ……言葉をそのまま受け取るとしたら、「打ったのは俺じゃない」というのが一番しっくりくるだろう。
 ヒカルは明言せずに口を噤んだ。倉田はヒカルと打ったとはっきり告げた。
 でも、それでは辻褄が合わない。
 彼には何か秘密がある。
(常識的に考えたらあり得ることじゃない。囲碁を始めてせいぜい一年程度の子供が、当時からプロ棋士として活躍していた倉田さんに勝つだなんて)
 それも一色碁。プロでさえ、集中力を欠けばすぐに自滅する。素人ならば石の形を記憶することだけでも困難なはずだ。
 倉田がアキラに並べてくれた石は、分かりやすいように黒と白に分かれていた。その二色の盤面ですら相当にレベルの高いものであったのに、これが白一色となると……
 ――十二年前の自分でも無理だ。
 軽く下口唇を噛んだアキラは、目線を落としてそっと眉を寄せた。
 倉田の相手はかなりの打ち手だった。……ヒカルではない、とアキラは直感した。
 ヒカルと打ったのは一度きり、それも恐らく本気ではない対局だったが、倉田と打ったという人物の棋風とは違うもののように感じる。似てはいるが、違う。
 十二年もの間に変化したと考えられなくはないが、あの時点ですでに完成されかかっている空気が、いくら時間をかけたと言ってもそう簡単に変わるだろうか?
 倉田と打ったのはヒカルで、ヒカルもそれを認めた。
 だけどヒカルじゃない。――そんな矛盾があってたまるか。
 ふいに、ぶるっと胸ポケットに入れていた携帯電話が震えて、アキラははっと身体を起こした。乗り込んだ時は背凭れに身体を預けていたはずなのに、いつの間にか膝に肘をつくほどの前傾姿勢になっている。
 夢から覚めたような顔をして、取り出した携帯電話には芦原からのメール着信があった。明日から始まる第四局への激励だった。
 なんだか自分一人で煮詰まりかかっていた気持ちがふっと解れたようで、アキラは再び背凭れに背中をつけて簡単な返信を送る。
 ――どうも力が入り過ぎているな。
 倉田というきっかけのおかげでヒカルの過去の一部に触れることができたが、余計に謎が深まってしまった。自分はその謎を解こうと躍起になっている。
 せめて一局打てたら、と思うのだ。もう一度対局できたら、彼が本気で向かってきてくれたら、彼の今の力も分かるだろうし、一色碁の打ち手が本当に彼なのかも分かるかもしれない。
 たった一局、些細な再戦を彼は何故渋るのか。部室でのあの時だって、今思えばそこまで乗り気ではなく、部員たちに強請られたから、という雰囲気だった。
 あれだけの腕を持ちながら、何の大会にも出てこない。囲碁の初心者を集めて指南役に専念しているヒカルの意図が分からない。
 プロを目指せる力がありながら。
 下口唇に痛みを感じ、そこでアキラは自分が口唇をかみ締めていることに気づいた。
 また無駄に力を入れてしまった身体を、ふうっと息を吐くことで緩めてやる。
 頭の中でどれだけ追求しようと返事が返ることはない。
 今できることは、謎を秘めた彼との繋がりが絶たれないよう、細々とでも交流を続けていくこと……そう自分を納得させたアキラは、今度こそ身体を休めようと目を閉じた。到着まではまだあと二時間以上ある。




 タイトル戦のたびに行われる開催地での前夜祭が、それほど苦痛ではなくなってきたのはごく最近だ。
 以前は大勝負の前の一仕事が面倒で、ついピリピリした態度を見せてしまうことも少なくなかった。
 一度緒方に諭されたことがある。これも大きな棋戦のスケジュールのひとつだ、と。
 要するにプロ意識を持てということだったのだろうが、決められた仕事の一部だと思えばソツなくこなす術を率先して身につけるようになり、今ではこうして人当たりの良い笑顔を浮かべられるようになっている――アキラは強さだけでは勝ち残れない棋界において、できるだけ長くこの身を置く覚悟を決めていた。
 地元記者の取材も終わり、歓談も終盤という頃になって、ようやく対局相手である緒方がアキラのほうを見ていることに気がついた。
 そういえば着いてすぐに挨拶して以来、ろくに話もしていなかった――明日の敵とはいえ同門の兄弟子である緒方の元へ、若干表情を和らげながら近づいていった。
「ここに来る途中、芦原さんから応援メールが来ましたよ。緒方さんにも届きましたか」
 話のタネにと芦原の名前を出し、語りかけたアキラに対して緒方は軽く鼻で笑った。
「アイツはお前贔屓だからな。俺にはそんな涙が出そうな有難いことはしてくれん」
「芦原さんは緒方さんも応援していますよ。ただ、ボクが挑戦する側だから発破をかけてくれているだけです」
 笑いながら答えると、緒方は皮肉めいた笑みを浮かべて肩を竦める。アキラは相変わらずの兄弟子の仕草に、不思議と気持ちが和んでいくのを感じていた。
「四局目か。――今度は譲れんな」
 手にしていた煙草を咥えて、ふっと白煙を吐き出しながら緒方が呟く。
 アキラは笑顔を引き締め、静かに緒方を見つめた。
「……それはボクの台詞です」
「威勢がいいな。そうそう好き勝手はできんぞ」
「勝ちますよ。勝たなければならない理由もありますから」
「……ほお」
 ちらりと横目でアキラを見た緒方は楽しげにその目を細め、緩んだ口元に再び煙草を咥えた。
 煙がアキラの顔をくすぐっていく。
「今からでも一局打とうと言いたげな目だな。注意しろよ。冷静さを欠いたお前は粗も目立つからな」
「余裕ですね、アドバイスまでいただけるなんて」
「相手がお前じゃ身構える必要もないだろう?」
「それで先の二局を譲っていただけたんですか?」
「だから今度は譲らんと言ってるんだ」
 静かな火花が二人の間で音もなく散った。
 睨み合いの均衡を先に崩したのは緒方だった。緒方は先ほどのように軽く肩を竦めて、明日が楽しみだと笑ってアキラに背を向けた。
 アキラはその大きな背中を静かな目で見据えていた。





緒方さんのキャラはどの話でも変わりませんな……