「――では、時間になりましたので塔矢先生、次の手を封じてください」 紙をペンを受け取ったアキラが封じ手を記入すると、張り詰めていた空気がほっと息をつくように緩んだ。 アキラは対面の緒方に一礼し、肩の力を抜いて一度深く目を閉じた。 ――やれる。いい形だ。明日もこのまま押しきれる―― その日の内容に手ごたえを感じたアキラは、明日の後半戦に向けて意気込み新たに小さく頷く。そして目を開き、緒方の様子を伺った。 緒方は軽く伏せた目で碁盤を見つめていたが、やがてすいと視線を逸らして立ち上がる。その横顔には動揺のようなものは見られなかった。 「塔矢先生も、どうですかこの後」 ふいに脇から話しかけられて慌てて振り向き、そこに邪気のない関係者の顔を見つけたアキラは申し訳なさそうな愛想笑いを見せた。 「すいません、疲れているので。ルームサービスで済ませようと思っていたんです」 「そうですか……残念だ。でもまあ大勝負ですから、ゆっくりお休みください」 「有難うございます」 食い下がらない相手にほっとしながら頭を下げ、恐らく一緒に外へ出るのだろう緒方の背中を見送って軽く息をつく。 緒方も昔は地方に行くたび連れ回されるのが面倒だったと言っていた――前夜祭の義務は果たしても、その合間の付き合いにはまだ気を削がれたくないアキラは、いつか自分も慣れた調子で彼らと出かけることになるのだろうかと苦笑いした。 前日から使用している部屋に戻ったアキラは、スーツのジャケットをハンガーにかけて軽く首を回しながら、窓際のテーブルに碁盤が置かれているのを確認してほっと表情を和らげた。 昨夜到着した時は碁盤がなく、前夜祭が終わった後では随分と遅い時間になっていたため、朝方対局前にフロントに電話をして頼んでおいたものだった。大変申し訳ありませんと電話越しに謝られたのだから、恐らくホテル側のミスなのだろう。 どうせ夕べはろくに触る暇もなかったのだから構わないと、アキラはソファに腰掛けて碁笥を手元に引き寄せた。今日の対局を初手から並べようと蓋を開き、中に白石が入っているのを見てもうひとつの碁笥に手を伸ばす。 ふたつめの蓋を開いて、アキラははっとした。 ――どちらも白石だった。 「あ……」 咄嗟に浮かんだのは、再びホテルがミスをしたということだ。誤って白石の碁笥をふたつ揃えてしまったのだから、電話一本で取り替えてもらえるはずだ。 しかしアキラは白石しか入っていないふたつの碁笥を前にして、険しい顔で息を呑んだ。 頭にある棋譜が広がる。――鋭く目を細めたアキラは、そのまま白石を手に取って碁盤に初手を放つ。 二手目も白石。その次も白石。次も。次も。 白石だけで形成されていく棋譜が少しずつ大きくなっていく。 盤上を覆っていく白に、アキラは背中が薄ら汗ばんでいくのを感じていた。 本来なら黒であるはずの白石の陣地を形で頭に刻み込む。そこに本当の白石が応戦していく。できない訳ではない。 ――しかし、十二年前にこの棋譜は描けない。 無理だ、と口唇は勝手に呟いていた。いくらヒカルが類稀な素質を持っていたとしても、囲碁を始めてほんの僅かの人間がこんな碁を打てるはずがない。 出鱈目に打つだけならできるかもしれない。ところがこの打ち筋はあまりに洗練されすぎていて、プロである倉田のほうが翻弄されているように見える。 本人に問い質せば、この前のように逃げられてしまうだろう。何故だか彼は追及されるのを嫌がっているようだった。 ではこの謎は一体どうしたら解けるのか――大事なタイトル戦の真っ最中だというのに、アキラは白石しか並んでいない碁盤を睨んで口唇を噛む。 もしも当時、自分がこの打ち手と出会ったら。いや、今だって……確実に勝ちを得られるかは分からない。 これを十三歳のヒカルが打ったのだとしたら、彼は本物の天才少年だろう。しかし…… 「……?」 ふと、アキラは石の並びに既視感を覚えて目を凝らした。白い塊に紛れて見過ごしていたが、見たことのある癖を倉田の相手の棋風に感じるのだ。 中盤の石の動きをいくつか目で追って、はっとした。 ――秀策。 瓜二つという訳ではないが、これまで目を通してきた膨大な彼の棋譜と同じような癖がある。いや、癖というべきか……気配か、と幾分しっくりくる表現に気づいたと同時に、アキラは以前緒方に言われた言葉を思い出した。 『……秀策のようだな』 ヒカルの打ち筋からヒントを得て流れを作ったあの時。緒方は確かにそう言った。 ……ならば緒方は、この一色碁の棋譜を見て何と言うだろう? 厳しい表情で立ち上がったアキラは、鞄に入れっぱなしだった携帯電話に駆け寄って――ほんの少しだけ躊躇ってから、勢い任せにボタンを押した。 「お呼び出しとは。いいご身分だな」 開いたドアの向こうに立っていた緒方はそう言って、苦々しくもアキラの様子を探るような用心深い目を向けた。 緒方を部屋に招き入れたアキラは、言い返す言葉もなくすいませんと頭を下げる。 「まあ、はしごを断るいい理由になったがな。で、火急の用事ってのは何だ」 「見て頂きたい棋譜があるんです。……こちらに」 アキラは先ほど自分が並べたままの碁盤が置いてあるテーブルを手のひらで示した。緒方は訝しげな顔をしながらも、黙って部屋の奥に入ってくる。 不審がられるのは仕方がないだろう。何しろ今はタイトル戦の真っ最中、今日戦った相手と明日決着をつけるのだ。言わば休戦状態の時間に突然呼び出されたとなれば、緒方が身構えるのも無理はない。 アキラは自分でも唐突だった行動に若干戸惑ってはいた。が、極力顔には出さず、湧き上がってきた衝動そのままに緒方に電話をかけたのだ。 他のことが考えられなくなってしまう。深まるばかりの謎を前にじっとしていることができない。 アキラはテーブルの上の碁盤の傍らに立ち、これを見ろと緒方に目で合図した。 緒方が眉を顰める。 「……なんだ、これは」 白石だけが並ぶ碁盤を見下ろし、緒方が低く呟いた。 アキラは「一色碁です」と小さく答え、一度石を全て崩す。そして初手から再び白石のみで並べ始めた。 「……知人が過去に打った一色碁です。緒方さんのご意見を伺いたくて」 簡潔にそれだけ告げながら、迷いのない速さで石を打っていく。緒方は返事をせずに、黙ってアキラが並べる石を見つめていた。 テーブル脇に立ったままの、無言の時間がややしばらく続いた。 「……ここで白が投了です」 アキラは最後の石から手を離し、碁盤を睨む緒方を見据えた。 白が投了、とは言ったが盤上ではどちらも白。なんとも不可思議な展開を、きっと緒方は理解しているだろうことが分かっていたので、アキラは静かに緒方の反応を待つ。 緒方は眉を顰めたまま碁盤を見ていたが、やがて顔を上げてアキラに向き合うとこう告げた。 「……以前お前が言っていた「勉強する機会があった」とは……これのことか?」 アキラは緒方の言葉の意味がすぐに分からず数回瞬きしたが、挑戦手合いの二局目が終わった後の会話を思い出してはっとした。 ――お前にしては珍しいところに目をつけたな ――少し、勉強する機会があったので ――……そうか。秀策のようだな―― 何か言おうと一旦開きかけた口を閉じ、軽く目線を落としたアキラは、すぐに顎を上げて力を込めた瞳で緒方を見る。 「……そうです」 きっぱり告げた言葉はアキラの中では真実となっていた。 ヒカルが打ったものかどうかの確証は持てない。しかしこの棋譜がヒカルと繋がっているのは間違いない。 ならばすでにこの一色碁も、アキラを無性に駆り立てるものの一部である――アキラの判断は早かった。 緒方はアキラの返事に眉ひとつ動かさなかったが、もう一度碁盤を見つめ、何事か考えるように目を細めて口を開く。 「……で。お前は俺にこれを見せてどうしたいんだ?」 率直に尋ねられ、一瞬言葉を詰まらせたアキラだったが、最初に断った言葉をもう一度繰り返した。 「ご意見を伺いたいんです。これを見て、どう思ったか」 「どう思ったかって? 大したもんだと思ったよ。一色でこれだけ打てりゃプロでもかなりのトップレベルだ。白は倉田か?」 緒方の目が静かに光る。 倉田の名前を出されたことに動揺を感じないわけではなかったが、緒方を相手にごまかすことはできないだろうとアキラは頷いた。 「はい」 「……黒はプロじゃないな。少なくとも、俺が知るプロの中にはいない。しかし」 意味ありげに言葉を区切った緒方に、詰め寄るようにアキラは身を乗り出した。緒方はそんなアキラにちらりと視線を寄越し、まるで試すような目をして囁くように告げる。 「俺の記憶が確かなら。……この黒と打った覚えがある」 「!」 アキラは目を見開いた。 大袈裟だと取られかねない顔の引き攣り方を、緒方は不自然には思わなかったらしい。含みのある視線は変わらずに、じっとアキラの目を見たまま淡々と続けた。 「勿論、同一人物かは分からない。たった一度打ったことがあるだけだ」 「それは……、それは、いつです」 「……」 「どこで、……誰と……?」 アキラの問いかけに緒方が眉を揺らす。 「アキラ。お前、この黒が誰なのか知っているんじゃないのか?」 「……」 アキラは口を噤む。 知っている、とは言い難い。倉田は確かにヒカルだと言っていたが、……信じ切れない自分がいる。 アキラの様子をどう受け取ったかのか、緒方はふっと肩の力を抜くように息をついて、碁盤を見つめながら話し始めた。 「お前が知りたがっている情報かどうかは分からんが。この黒らしき相手と打ったのは、もう十年以上も前だ。……気まぐれに繋いだネットの中でな」 |
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