見下ろす盤上には、昨日確かに手ごたえを感じた構えがそのまま広がっている。 この手で紡いだ白石の軌跡。思惑通りの道筋だった。 読み上げられる、アキラが封じた次の一手。 その声が耳を刺激し、機械的に指で挟んだ白石を碁盤に打ち付けたが、石を追う自分の視線が昨日と違って酷く散漫であることに、アキラは気づいていた。 ――ネット……? ああ、と緒方が頷く。 「だから相手が男なのか女なのか、年も国籍も何も分からん。分かるのは、――圧倒的な強さを持っていたということだけだ。俺でさえ歯が立たないほどな」 「……緒方さんが……」 愕然としたアキラの呟きに、緒方は軽く口唇の両端を吊り上げた。 「酒に酔って幻でも見たんじゃないかと思っていたが。この黒がもしアイツだとしたら、やはり夢じゃなかったのかもしれんな」 「……間違い、ないんですか。その相手とこの黒は、同じ人物だと?」 「分からんさ。しかし打ち筋はよく似ている。隙のない構え……一色碁でこれだけ打たれたらたまったもんじゃないな。これはいつの棋譜だ」 アキラが言葉に詰まる。十二年前、とあっさり答えるには、この棋譜を緒方に見せるに当たってぼかした内容が怪しすぎた。 できることなら、ヒカルの力に繋がるヒントを緒方に説明したくはなかった。 この棋譜は魅惑的すぎる。緒方ほどの棋士がその価値に気づかないはずがなく、下手に興味を引かれた彼が万が一ヒカルにまで辿りついてしまったらと思うと、嫉妬にも似た焦燥感が胸を吹き荒れた。 子供じみた発想だが、一人占めしたい、それに尽きた。 謎の強さを持つヒカル。アキラが一度だけ打った彼と、十二年前に倉田と打った彼が、同じ打ち手かも分からない――その強さの秘密を知りたい。誰よりも先に。 だからこそ曖昧に話したこの棋譜の背景を、掘り下げられたくはない。自分でさえ未だ解きあかすことが出来ない謎を、他の人間に暴かれるのはご免だった。 アキラは微かに身構えた。その些細な動きに気づいたのか、眼鏡の奥で緒方の目が光る。 あの目は、狙った獲物に食い付くかどうか見定めている最中だ。動揺を気取られないよう、アキラの口唇が引き締まる。 何かの弾みでボロを出して、ヒカルの存在が緒方に知れたら―― ふと、緒方が喉を詰まらせるように笑った。 はっとして、いつしか俯いていた顔を上げたアキラは、何が可笑しいのか肩を揺らす緒方を見て眉を顰める。 緒方はアキラの鋭い視線に気づいたのだろう、悪い、と悪びれずに呟いて軽く髪を掻き上げた。 「酷い警戒ぶりだな。俺にはあれこれと聞く癖に、俺の質問にはノーコメントか」 「……そういうつもりでは」 「まあいい。なんだってこんな時に、俺にこんなものを見せる気になったのかは分からんが……俺が何か知っているかと期待していたのなら、恐らく外れだ。何しろ俺がソイツと打ったのは」 もう、十年以上も前の話だ――…… 指は動く。視線もついていく。黒と白のせめぎ合いを、しかし頭が追い切れていない。 本因坊戦第四局。この一局を獲れば三勝目、あと一勝で本因坊の椅子に手が届く。その自信は充分にあった。 それなのに、集中し切れない自分がいる。 なんだってこんな時に――緒方の言葉はもっともだ。タイトル戦の真っ最中に、他のことに気を取られながら碁盤に向かうだなんて、そんな余裕を与えてくれる相手ではない。 もっと意識の深い部分に潜り込んで、目の前の相手を根元から揺さぶるような手を打たなければ、自信はただの過信にしかならなくなってしまう。 分かっていながら、少しずつ離れて行く。 じりじりと、脳が、昨夜の記憶に引き戻されて行く。 十年以上。アキラははっきりと息を呑んだ。 そして頭の中ではすでに答えを出していた。――それはヒカルだ、と。 ヒカルであってヒカルではない。アキラにも正体が分からない、倉田と打った十二年前のヒカルの碁。 緒方がネットで対峙した相手もまた、十二年前のヒカルだと――アキラは直感に支配された。 ごくりと喉を鳴らし、いつしかカラカラに渇いていた口内を申し訳程度に湿らせる。言おうか言うまいか迷っていた言葉を、アキラは恐る恐る口にした。 「……緒方さん。……その時の、対局……覚えていますか」 「……ああ」 低い肯定がアキラの目を輝かせる。純粋な光ではなかった。怖れを多分に含んだ怪し気な瞳の色に、緒方も気づいたのだろうか。 訝し気に眉を寄せながら、顎を突き出すように軽く首を傾げてちらりとアキラを見遣った。 「覚えているが……それを聞いてどうする?」 「……」 「――見たい、と言い出すつもりか?」 アキラはぴくりとも動かなかった。ただ、じっと睨み付けるように緒方から視線を外さず、どちらの返事を下すべきかをギリギリまで考える。 緒方の口元に冷笑が浮かんだ。何かを悟った、含みのある目だった。 「いいのか?」 「……」 「見せてやってもいい。今ここですぐに並べてやれる。だが、いいのか?」 「……」 緒方の質問の意図をアキラは理解した。 冷静さをあまりに欠いている。このまま緒方がかつて打ったという棋譜を見てしまえば、そちらに引きずり込まれて明日の対局に支障が出るかもしれない。 一度魅入られたら、抜け出すことは容易ではない。それは誰よりもアキラ自身がよく分かっていることだ。 本因坊戦という大事な棋戦の最中に、こうまで自分の集中力を削ぐような誘惑の棋譜に目を通してしまっても良いものか…… 今でなくともいい。 また日を改めて、緒方に再現してもらえばいい。 分かり切っていることなのに、いいえと首を横に振ることができない。 ――謎の一端にまた触れられるかもしれない―― アキラはぎゅっと目を瞑った。 すでに思考と理性は別々の場所にいた。 黒の囲みが厳しくなった。 いつの間にここまで追い込まれていただろう。前日までに培っていた砦は最早意味を成さず、大きく荒らされた地の中で頼り無い白石が震えるように揺れていた。 いけない――必死で意識を引き戻そうと、アキラは記憶に呼び掛ける。鮮明に再生を繰り返す昨夜の棋譜から心を剥がし、今まさに対峙している碁盤の上に集中しなければならないと、分かっているのに何もかもバラバラだった。 この部屋には白石しかないからと、一色碁で並べられた見知らぬ棋譜。 頭の中で鮮やかな白と黒に分かれた石の道筋が、寒気を伴う美しさでアキラの胸を揺さぶって行った。 (――ダメだ。考えるな。) 間違いなかった。 倉田と打ったヒカルその人の打ち筋だった。 アキラの知らない、過去のヒカルの碁だった。 (集中しろ。今はそんなことを考えている場合じゃない――) たった二色、白と黒の宇宙が、心を捉えて離さない。 そして、ヒカルが――彼は一体何者なのかと―― (やられる――) カチャ、と濁った音が合図だった。 アキラは白石を挟みかけた指先から力を抜き、そのまま背中を丸めるように頭を下げる。 「――負けました……」 終局図はすでに見えてしまった。 対局中にアキラを絶えず惹き付けた、美しくも恐ろしい棋譜には遠く及ばない惨めな結末だった。 関係者に何かしら声をかけられたはずだが、自分が何と答えたかもよく覚えていない。 夜の暗がりに紛れて新幹線に飛び乗ったアキラは、険しい表情で薄ら窓ガラスに映る自分の瞳を睨みながら、口唇の端を噛み続けた。 勝てる碁を落とした。これで二勝二敗―― 五局目は一週間後。それまでに頭を完全に切り替えなければ、ずるずると悪い方向へ引き摺られる可能性もある。 しっかり目を見開いて、アキラは疲れた身体から力を抜こうとしなかった。 負けた碁と、残像のように脳をひらひら舞う昨夜の景色を思い浮かべながら、強く拳を握り締めた。 ――その……、その、相手の名前は……何と言ったか覚えていますか―― ――……『sai』――とか言ったかな――…… |
やっぱりsaiにも出て来てもらいました。