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 送信ボタンを押すまでに躊躇った時間は僅かなものだった。
 しかしその一瞬の躊躇にはあらゆる複雑な感情が込められていた――ヒカルは送信完了、と表示された携帯電話の液晶画面を見下ろし、荷物を下ろした後のような息をつく。
 返事がすぐに来るという予測はなかった。寧ろ、こんな時にメールを寄越すなんてと憤慨されるかもしれない。
 ヒカルが少なからず不安を感じているメールの宛先は、奇妙に自分に付きまとうトップ棋士の塔矢アキラだった。
 つい昨日、本因坊戦の第四局目が終局した。結果はアキラの中押し負け。ヒカルがそれを知ったのは、今日の部活動で部員がネットから拾って来た棋譜を見せてくれたからだ。
 勝った時は必ずアキラから勝利報告のメールが届いていた。それが昨日はなかったことから、薄々勘付いてはいたのだが――棋譜を見て、らしくないと眉を顰める。
 前半に比べて後半の崩れ方が著しく、初日と二日目では別人のようだった。一晩で心を乱す何かがあったのだろうかと、彼の落胆ぶりを想像するとヒカルの顔色も曇る。
 ――出発前は、危なげない目をしていたのに。
 対局前日、またも校門前に現れたアキラの様子を思い出しながら、ローテーブルに置いた一枚の用紙へと手を伸ばす。
 アキラが手渡してくれた棋譜。
 この棋譜への礼もろくに伝えていなかった。
 アキラと知り合うことがなければ、恐らく一生見ることのなかった懐かしい打ち筋。その端々に、確かに今の自分の中に根付いている彼の人の呼吸を感じて、初見ではただただ胸がいっぱいになってしまった。
 できれば勝利に対するおめでとうと一緒にありがとうを贈りたかったが、こうなっては仕方がない。
 ヒカルが先ほどアキラに送ったメールは、迷いに迷って第四局については触れないままだった。

 愛おし気に棋譜を見つめ、優しく手のひらの力を抜く。
 ひらりと舞った紙が再びテーブルに落ち着くのと、しばらく鳴らないだろうと諦めていた携帯電話が音を立てたのはほぼ同じだった。
 ヒカルが若干驚きながら開いた画面には、やはりアキラの名前が踊る。随分早く返事が来たなとメールを覗くと、ヒカルが送った内容に対して律儀な返答が書かれていた。

『棋譜を喜んでもらえたのなら良かった。見学の件も了解した。棋院側に学校と君の名前を伝えておく。君のほうでも、当日僕の名前を出せばすぐに話が通るようにしておこう』

 仕事もプライベートも同じとしか思えない、一見すると朴訥な返信。ヒカルは肩を竦め、さらなるお礼をしたためる。
 アキラが了解したと伝えた「見学」の文字に、複雑に胸が騒ぐ。
 きっと、断ることになるだろうと予測していた。
 県大会で敗北した時の部員たちの落胆ぶりは、新たな勉強の機会よりもまず傷を癒す時間が必要ではと、らしくなくヒカルを心配させるに充分なものだったから。
 しかし彼らはヒカルが思うよりも、ずっと逞しく成長していたらしい。
 ――行くよ、俺。全国の碁、見たい。みんなも行こうぜ。
 部長の石田の躊躇いない問いかけに、残りの五人の部員は迷わずに頷いてみせた。彼らのはっきりとした意志は、驚いたヒカルが、自分の目尻が薄ら潤みかけたことに動揺するほど頼もしかった。
 ならば早速とアキラに伝えたところ、すぐにこうした返事が返ってくるところはさすがである。無駄に生真面目な印象が強いが、メールの文面も全く本人そのままだった。

『サンキュ。行くメンバーは県大会に出た6人だけど、名前とか必要?』

『いや、代表者の名前で充分だ。ただ、前日まで本因坊戦の第五局なんだ。韓国での対局だから、局面によってはその日のうちに帰れないかもしれない。もし大会当日に帰国することになっても、昼過ぎには到着する予定だ』

 業務連絡が混じったとはいえ、ヒカルがあえて触れないようにしていた本因坊戦について、アキラが自ら話題に乗せてきた。
 思わず短く唸ったヒカルは、なんと返信すべきか考え倦ねて後頭部をがりがりと掻く。
「……ったく、わざとやってんじゃねえだろうな」
 ただ「分かった」と返信するほど鈍感になりきれず、次のメールでヒカルは渋々、できれば避けたかった第四局の単語を出した。
 らしくなかった負けっぷりが思い起こされる。本人もさぞや不本意だっただろう。

『忙しい時に悪いな。第四局は残念だったな』

 たったこれだけの言葉に、ヒカルなりの労いと気遣いを全てこめた。とはいえ文字だけを見てもアキラに伝わるとは思えず、送った瞬間からやはり触れるべきではなかったかと早速後悔し始めた。
 こんな時、自分は案外小さい男だなと溜め息をつくことになる。どう柔軟に捉えても知人レベルの相手に対して、いちいち悩む必要はないだろうにと。
 しかし、不思議とあの奇妙な男の悔しがる表情が目に浮かぶのだ。はっきりと性格の出る碁を打つ男だからだろうか。負けても仕方がない、と思わせるような名局であったなら、ここまで悶々とすることもなかったと言うのに……
 そんなヒカルの葛藤など知ったことかと言うように、携帯電話は淡々と振動を伝える。素早い返信からして大体の内容に予想がついたが、メールを開いてやはりヒカルは複雑に息をついた。

『問題ない。次は勝つ』

 きっぱりとした返答。これ以上の返信は不要だろう。
 ヒカルは携帯電話を片手で閉じた。指先で無理に押し込んだせいか、パンとやけに大きな音を立てた携帯電話は小さな塊に変わる。
 その塊を握り締めて、あぐらをかいていた右膝の上に、とん、と拳を力なく下ろした。
 強がりや負け惜しみの類いではないことは分かる。次は勝つ、と宣言できるだけの実力があることは間違いないし、今回の対局だって恐らく勝てる碁であったはずだ。
 そう頭では理解しているのだが、どこか割り切れない思いがヒカルの胸をじわりと包んだ。
 次は勝つ。次は。
「……次、か」
 独り言の囁きは、自分の耳を不愉快にくすぐった。

 負け戦で口唇を噛んでいた教え子たち。
 何故あの大会を最後のチャンスにしてしまったのだろう。
 三年生の彼らには、次なんてなかったのに。


 ――全国の碁、見たい――

 そう言って、何かを決意したかのように石田は一人頷いた。
 その仕草がやけに気になったヒカルが、思わず彼の表情を確認するように身体を屈める。途端、顔を上げた石田と目が合って、何故だかヒカルは気まずさを感じた。
『なんだよ、もう凹んでねーよ』
 余程ヒカルの表情が心配げだったのか、石田はからかうように告げてにっと笑う。その笑顔が逆に危なっかしくて、ヒカルはますます渋い顔になった。
 石田は、今度は呆れたように笑った。
『せっかくハイレベルな碁を見るチャンスだってのに、何で進藤が泣きそうな顔してんだよ。自分の力で行けなかったのは悔しいけどさ。俺、まだまだ囲碁やるからな。大学入っても囲碁サークル探す』
 その前に大学受かるかな、と茶化すように笑った石田を見て、ヒカルは少なからず驚きを感じていた。
『石田、お前……』
『やっと楽しくなってきたんだ。やめねーよ、俺』
 ヒカルは思わずバツが悪そうに顎を引く。
 ひょっとしたら、このまま囲碁部を辞めてしまうのでは――そんな内心を十近くも年下の生徒に見透かされた気がして、ヒカルは自らの浅はかな考えを恥じた。
 石田は碁笥の中をざらざらと掻き回し、指先に挟んだ黒石を小気味良く、目の前の碁盤に叩き付けた。
『もうちょい早く囲碁やってりゃなー』
 大会の帰り道、同じような響きを聞いたヒカルは、誰に向けたものでもない石田の呟きを複雑に受け止めた。



 ――もっと早く進藤に会ってたらなー……


 それでも石田は最短でここまで来てくれたのだ。
 今の自分が、彼らのためにできることはなんだろう。


 さい、と僅かに動いた口唇は、次の瞬間硬く引き締められた。





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