腹が立つほどの快晴に見回れた全国大会の当日。 集合場所にした校門前は強すぎる日射しがアスファルトを睨み付けていて、五分遅刻で現れたヒカルもさすがに部員たちの鬼の形相の意味を理解した。 つい先週夏休みに入ったばかりの部員六名と早々に顔を合わせることになったヒカルは、休みの日だと言うのにきっちり制服を着てやってきた彼らに感心するように息をついた。 「お前ら、偉いな」 「進藤がだらしなさすぎ! 引率でしょ? シャツよれよれじゃん!」 気の強い女子の主将に怒られ首を竦めつつ、それではと大会が開かれる日本棋院の市ヶ谷本院へ出発する。 三日間に渡って開催される全国高校囲碁選手権大会、初日。メニューは団体戦の予選リーグから準決勝まで。 団体戦の決勝は二日目である明日に行われるが、部員たちに表彰式を見せるより数多くの対局に触れさせるほうが良いだろうと、ヒカルが初日を選んだ。 各地の高校トップレベルの囲碁が集まるのだ。部員たちはもちろん、ヒカル自身も楽しみな大会だった。 総勢七名でぞろぞろと地下鉄の駅を目指し、自然と額に浮かぶ汗を拭いながらアスファルトを蹴って行く。 最初の話題は今日の大会に対する想像や期待だったが、徐々に昨日行われた本因坊戦第五局に移っていった。 「塔矢先生、まだ調子悪いのかな」 「なんか第四局から変だよなあ」 部員たちが口にする通り、アキラは昨日の第五局をも落としていた。一昨日の前半戦からあまりキレがなく、終始主導権を掴めずにずるずると敗北したようだった――そんな感想を部員たちから聞いて、ヒカルは黙って目を細める。 『次は勝つ』 あの宣言は自分へのまじないでもあったのだろうか。 勝ちに行きながらも破れた背景には何があるのだろう。 乗り込んだ地下鉄の中、やや混雑した車内で手すりに掴まりながら、石田は肩にかけていたショルダーバッグの中を漁り始めた。 「進藤、棋譜見る? 俺ネットから落として来た」 「あー……」 はっきり返事ができずにいると、石田は勝手に紙切れをヒカルへ押し付けて来る。仕方なく受け取ったヒカルは、無言で棋譜に目を通した。 調子が悪い、という一言で片付けても良いものか。冴えない打ち筋に思わず眉間が狭くなる。 アキラの実力がこんなものでないことは分かっている。公式戦の棋譜はいくつも目にしたし、加減はあったが実際に打ってもいる。部員たちに教えて回った指導碁でさえ、そのずば抜けたセンスがよく分かる説明ぶりだった。 やはり、何かがあったのだろう――ヒカルは棋譜の向こうにぼんやり現れるアキラの苦渋の表情を読み取った。彼らしくない碁が続くのは、何らかの迷いを整理し切れていない証拠だ。 ヒカルは溜め息をつきながら石田に棋譜を返した。気分がぐんと重くなる。こんな棋譜を見た後で、今日顔を合わせた時に何と声をかければ良いのだろう。 「石田……これ、昨日何時くらいまでやってた?」 「何時だったかな……、確か、結構時間ギリギリまで使ってたよ。」 「そっか……じゃ、帰国は今日かな……」 最後は独り言のように呟いて、昼頃に棋院に駆け付けるだろうアキラの到着を待つべきか否か、ヒカルは迷いに揺れていた。 九時過ぎから始まっている開会式をスキップするため、十時を目標に辿り着いた日本棋院。ヒカルたちのように見学で訪れた人も多く見られたが、受付で名前を出すと確かにアキラの言った通り、すんなり担当者が現れて丁寧に案内をしてくれた。 会場にずらっと並んだテーブルと椅子、そこに真剣な眼差しで碁盤に向かう高校生が腰掛けて、パチパチと石を打つ音が響き渡る。県大会とは違った空気の密度に、部員たちは息を飲んでいた。 時間的にはまだ予選リーグの一回戦目。初戦とあって挑戦者の人数もかなりのもので、見学者の通路は狭く、外から遠巻きに眺めることしかできない。背伸びをして様子を伺う部員たちに対し、担当者はこちらへ、と道を示してくれた。 案内されるがままぞろぞろついて行くと、今大会の優勝候補が打つ場所の真後ろに通された。どうやらアキラが手引きしてくれていたらしい。ヒカルは引率者らしく担当者に頭を下げると、部員たちの背中を前のほうに押し出した。 石田を筆頭に、きゅっと口唇を結んだ部員たちは目の前の対局を食い入るように見つめている。ヒカルも彼らの背後から碁盤の様子を伺って、確かにいい碁を打つと納得した。 そして顔を上げ、目には見えない引き締まった緊張感を肌で感じ、成る程、と呟く。 学ぶにはこれ以上ない環境だった。全国レベルの技術に加え、真剣勝負の研ぎすまされた息遣い。 ただ部室で碁を打つだけでは得られない、大きな海の一端がここにある。 ――去年の自分がそのことに気づいていたら、今回彼らにあそこまで悔しい思いをさせずに済んだかもしれない。 高校生として来年この経験を活かす場はもうないというのに、熱心に全国の碁を目で追う部員たちをいじらしく、誇らしく思ったヒカルは、自らもまた久しく感じていなかった熱気の籠る会場の雰囲気に、痺れるような心地良さを感じていた。 ――ヒカル、すごい! これだけの子供達が、みんなあんなに真剣に碁を楽しんで―― 喜びの声が今にも後ろから聴こえてきそうな、なんて素晴らしい景色。 ヒカルは目を細めた。 予選リーグの二回戦が終了したところで、昼の休憩が訪れた。 どこかぼうっとしている部員たちに苦笑しながら、ヒカルは彼らの肩をばんばん叩いて行く。 「おい、どっかで飯食おうぜ。なんだお前ら、当てられたような顔して」 ところが、その声に振り返った石田は意外なことを言い出した。 「進藤……学校、戻ろうぜ」 「え?」 まだ興奮の冷めない瞳を大きく開き、どこかもどかし気に口を開いた石田に目を瞠ったヒカルは、他の部員たちも皆石田と同じような表情をしていることに気がついた。 彼らもまた石田と同意見なのだと分かり、驚いたヒカルは思わず時計を確かめる。 「戻るって、昼過ぎたらまた午後も続きあんだぞ? 今日は夕方まで観てくって張り切ってたじゃねえか」 「観てるだけじゃ足りなくなったんだよ。もう充分空気は掴んだ。俺、観てるよりも打ちてえんだよ」 ヒカルは一瞬言葉を失った。 何か答える代わりに、残りの五人の顔を見渡した。誰一人、石田に異論を唱える者はいなかった。それどころか、石田に加勢して他の部員も口々に訴え始めたのだ。 「私も学校戻りたい。今日部活休みだけど、開けられるんでしょ? さっきの対局、自分なりに検討したいよ」 「俺も。進藤、付き合えよ。県大会でうまくやられたとこ、今ならなんかいい手浮かびそうなんだ」 「お前ら……」 ひな鳥が餌を強請って喚くように囲まれて、しかし彼らの要望がヒカルが想像していたものよりずっと崇高なものであることに、一指導者として胸が熱く高鳴る。想像もしていなかった反応は、ヒカルの声を詰まらせるのに充分な威力を持っていた。 なんて贅沢な手応えだろう。彼らが純粋に自分達の棋力を上げたいと願っていること、そしてそんな彼らに自分が必要とされていること。 熱く湿った手のひらを握り締め、ヒカルは大きく頷いてみせた。 「よし。じゃ、学校戻るか」 「おっしゃ!」 ヒカルの同意を得た部員たちが争うようにエレベーターを目指す背中を見つめながら、ヒカルはアキラに会えず終いだったことをちらと思い出した。 が、すぐにメールで謝罪すれば良いと割り切り、熱気の余韻を振り切るように風を切って歩き出した。 |
いろいろと無理がある部分は捏造の世界なので
生暖かくスルーしていただければ……!