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 静まり返ったマンションのリビングに灯りをつけると、背負っていた廊下の光が作り出した黒く長い影がふっと消えた。
 同時に、胸に沸き起こる落ち着かなさまでもが煌々としたライトの下に具現化されてしまったようで、戸口に突っ立ったままアキラは口唇の端を噛む。
 時刻はすでに夜中の九時を回っている。遅くとも七時には帰宅予定で、その後締め切りが迫っているコラムの原稿に取り掛かるつもりだったのが全て駄目になってしまった。
 大きなため息をひとつ、過ぎてしまった時間を悔やみながらも、頭では夕方の邂逅のことばかり考えている。
 ――進藤ヒカル。彼は一体何者なのか――
 スーツのジャケットを脱いで肩の力を抜くと、アキラはリビングに置いてある碁盤に近づき、立て膝をついてじっと上から見下ろした。
 やがて碁笥に手を伸ばしたかと思うと、ゆったりとした動きで黒石、白石を並べていく。その動作は石が進むごとに徐々に速くなり、パチパチと静かな室内に軽快な音が鳴り響く頃、アキラの目には盤上の世界しか写らなくなっていた。
 ――このツケも。ここの二段構えも……
 素人があてずっぽうに打ったものとはレベルが違う。読みの力も備わっている。不用意な罠にはかからない用心深さもある。
 置石もなしで、自分がここまで追い詰められたのだ。信じ難い展開だった。タイトルを二つ持ち、今なお新しいタイトルに挑戦しようとしている自分が。
 進藤ヒカルという名は聞いたことがない。アマチュアの大会だって、あれだけのレベルの人間が出場すればどこかで話題に上るはずだ。
 見たところ、年はアキラとあまり変わらないくらいだろう。二十代半ばでプロ並みの棋力を持つアマチュアの話を耳にした覚えはない。となると、彼は大会などには参加していないのだろうか。
 職業は教師。その他に知っているのは名前だけ。それから、教育機関に勤めていながら人目を引く明るい前髪を持つことと、どうやら時間にはかなりルーズらしいということ。
 それしか分からない。……正確に言えば、それしか教えてもらえなかったのだ。



 対局後、静まり返った部室の神妙な雰囲気を破ったのは他でもないヒカル本人だった。
『やっぱ強えな〜! 二冠の棋士と打ってもらえて光栄だよ。ありがとうございました』
 あっけらかんとした大声で礼を告げられ、屈託ない笑顔が持ち上がると、二人を囲んでいた生徒たちもほっとしたように顔を綻ばせた。
『進藤、負けたのかよ〜! 途中全然分かんなかった!』
『なんで進藤が投了したのか分かんない! すっごく細かくない?』
『進藤もうちょっと粘れよ〜!』
 彼らの野次ならぬ労いの言葉を、ヒカルはうるせえうるせえと笑いながらあしらう。
 しかし碁盤の向こうに座るアキラは、その和やかな空気に溶け込むことができなかった。
『遅くまでお付き合いありがとうございました。今、職員室でタクシー呼んできますから。ホラお前ら、塔矢先生にお礼言え!』
 少しだけ真面目な顔で教師らしい言葉を伝えると、ヒカルは立ち上がって部員たちを整列させた。並んだ部員たちに礼儀正しく頭を下げられると、アキラも椅子から立って敬意を受けるしかない。
『じゃあ、塔矢先生こちらへ。お前ら後片付け終わったらさっさと帰れよ! もう時間遅いからな〜!』
 ハーイ、と元気な返事に合わせてアキラが部室の時計を振り返ると、確かに時刻はすでに七時を回っていた。文化系の部活動にしては長引きすぎだろう。
 部員たちが部室の片付けに散らばったのを確認したヒカルは、アキラに目配せして部屋を出て行く。アキラは柄にもなく慌てながらヒカルの後を追った。
『……進藤先生!』
 すでに廊下の前方を歩き出しているヒカルを呼び止めると、立ち止まったヒカルは申し訳なさそうに振り返った。
『ああ、速かったですか? すいません、職員室あっちですから』
『いえ、そうではなくて……、進藤先生、あなたは』
『先生はよしてくださいよ。棋界のスターに先生なんて言われたらバチが当たりそうで』
 先生と呼ばれる職業であるくせに、おどけたようにそう笑ったヒカルは再び軽やかに身を翻して前を向く。アキラは小走りに近寄り、ヒカルの隣を同じ歩幅で歩き出した。
『では、進藤さん。あなた、囲碁を始めてどのくらいですか』
『俺ですか? ……そうだな、もう結構経ったかな。でも塔矢先生も小さい頃からやってらしたんでしょ。うちの部員たち、塔矢先生が来るってんで興奮して、先生の特集雑誌作れるくらいにいろいろ調べてたんですよ』
 アキラは質問をはぐらかされたことに気がついた。
 ヒカルの口調は飄々としているが、真っ直ぐ前を向いた目線を決してアキラに合わせようとはしていない。
 アキラは確信した。――やはり、先ほどは手加減されたのだ。
 手加減と言う表現が当てはまるかは分からない。ヒカルが手を抜かなくとも勝つ自信はある。実力が拮抗していると言っても、最後にはプロとしての経験が押し勝つだろう。しかしその差はほんの僅かなものだ。
 あのまま本気で打ち合えば、恐らくそんなエンディングを迎えたのだろう。ところがヒカルは後半力を緩めた。固唾を飲んで見守っている部員たちに気づかれないように、できればアキラにも分からないように。
 その意図を読み取れないほど愚鈍ではない。
『置石置いて負けたらコイツラに散々バカにされますから』
 冗談ではない。気遣われたのは自分だ。
 仮にも二冠のプロ棋士が、一介の囲碁部顧問に接戦の末何とか競り勝っただなんて、不名誉もいいところだ。……彼がその結果を良しとしなかった。
 あの対局がいかにハイレベルだったか、プロの世界に身を置くアキラには身震いするほど実感できた。
 部活動の余興めいた時間でなければ、最後まで真剣に打ち合えたのだろうか――そう思うと、あの尻切れの結末が歯がゆくてならない。
 再戦したい。何より、この教師の正体を知りたい。
 アキラは大股で進むヒカルを追い越す勢いでぴったり脇について歩いた。
『アマチュアの大会に出たことは? どこか、通ってる碁会所でも』
『教師って職業は案外休日が少ないんですよ。部活以外で碁石に触ることはあんまり』
『ずっと教師をやってらっしゃるんですか? おいくつですか』
『ま、まあ……大学出てからずっとだけど。……年聞いて何か参考になるんすか』
 ヒカルが若干気味悪げにアキラに横目を向け始めた。
 そのあからさまな不快感を示す動作にも、怯まないアキラは構わず質問を続ける。
『では、お住まいはどちらに。連絡先を教えて頂けませんか』
『れ、連絡先? そんなこと言われても……』
 ぎょっとした顔のままヒカルが立ち止まる。
 見ればヒカルの後ろに職員室の扉が覗き、ヒカルは顔を引き攣らせながらじりじり扉側ににじり寄っていた。
 そのヒカルに食いつかん勢いでアキラはなおも詰め寄った。
『電話番号でもいい。メールアドレスでも何でもいい! プライベートでお会いしたいんだ。そして再せ――』
『お、俺、そっちの趣味ねーから!』
 アキラの言葉を遮って悲鳴混じりに叫んだヒカルは、言いかけたまま固まったアキラの目の前で素早く職員室の扉の向こうに消えてしまった。
 あ、と伸ばした手は届くことなく、無情にも引き戸が勢い良く閉まる。
 咄嗟に扉を開けようと手をかけた途端、再びがらっと開いた扉の向こうからヒカルの顰めっ面が現れた。
『関係者以外立ち入り禁止!』
 そう吐き捨てると、再びぴしゃりと扉が閉まった。
 呆然と立ち尽くすアキラが中途半端に手を浮かせたまま動けずにいると、しばらくして恐る恐るといった様子で教師らしき若い女性がするりと廊下に現れた。
『あの、タクシーお呼びしましたから。まもなく校舎の外にまいりますので……』
 ヒカルに何を吹き込まれたのか、女性教師は怯えたようにちらちらと意味深な視線を寄越しながら伝えてきた。
 完全に誤解されたことにアキラは苦々しく眉を寄せたが、ここで粘っても妙な騒ぎを引き起こすだけだろうと自分に言い聞かせ、渋々校舎を後にすることになった。


 ……それが一時間ほど前の出来事。
 結局、私的にヒカルと連絡を取るための情報は何一つ得られなかったが、勤務先が分かっていることは大きい。
 彼は何者なのか。何故あれほどの棋力を身につけていながら、表舞台に現れないのか。
 聞きたいことがたくさんあった。そして、誰にも邪魔されないところで是非もう一度対局してみたい――アキラは先ほどの一局を並べ終えた碁盤を睨みながら拳を握り締めた。





一目惚れです。
棋力に……