Determine







 閉息感のあるエレベーターから解放され、真っ先に棋院の出口を目指したヒカルたちは、入れ違いにドアを開いて中に入って来たアキラの姿を認めて思わず足を止めた。
 アキラもすぐにヒカルに気づいた。軽く顔を持ち上げたアキラと目が合う。
 疲れた顔をしている――ヒカルが一瞬感じたアキラの額の影は、アキラが軽く顎を引くと共に消えてしまった。消した、というのが正しいのかもしれない。
 アキラは目線を外さずに、軽く会釈をした。慌てたように頭を下げ返す部員たちの頭上を通り越し、アキラの視線が真直ぐヒカルを捕らえていた。
「遅くなってすまなかった。間に合えば直接案内できたんだが」
「いや、話通してくれてたから助かったよ。忙しいのに気ぃ使わせて悪かったな」
 ヒカルは不必要に明るい声を出していた。アキラの第一声がやけに低く硬かったためだった。
 負け戦の後なのだから、機嫌が悪くても仕方がない……ヒカルは不穏な波を察知して、早めにこの場を切り上げようとやや早口になった。
「午前中たっぷり見学したから、もう帰るとこだったんだ。すげえいい勉強になったよ」
「帰る? もう?」
 アキラの片眉がぴくりと持ち上がる。その神経質な仕草にヒカルは思わず舌打ちをした。
 もう五分早く棋院を出ていれば、アキラに会わずに学校へ戻れたかもしれない。せめて路上なら挨拶もそこそこに別れられただろうに、出入り口で捕まってしまうとは不運だった。
 生憎、真剣勝負に大敗した後の棋士の精神をうまく浮上させられるような話術など持っていないヒカルは、とにかくこの場を切り抜けることを最優先に考え始めた。
「ああ。見てるのも勉強になるけど、こいつら触発されちまったみたいで……これから打つ予定なんだ」
「ならば一般対局室を使えばいい。急いで帰る必要はないだろう」
 「行くな」と言っているとしか思えないアキラの強い態度に、ヒカルは舌をもつれさせながら何故か言い訳するようにやんわりと断る。
「あー……、ま、そうだけど、部室のほうがこいつらも落ち着くだろうから。せっかくやる気になってっから、がっつり見てやりたいし……」
 そこまでヒカルが説明したところで、怒りすら薄ら感じられたアキラの眉間の皺がふっとなくなり、代わりにぞっとするほど冷たい笑みが表情に表れた。
 初めて見る影だった。ヒカルは当然、ヒカルとアキラに挟まれた場所で二人の会話を聞いていた部員たちも、怯えたように身体を竦めている。
「勉強になった……ね。確かに子供たちにはそうだろうが、キミには物足りなかっただろう」
 アキラの呟きにははっきりとした嘲笑が含まれていた。
 悪意を感じる台詞をすんなり飲み込めなかったヒカルは、思わず「……何だって?」と問い返していた。
 アキラは口元の笑みを消し、厳しい目つきでヒカルを睨み据える。
「キミほどの腕を持つ男には、レベルの低い場所だっただろうと言っているんだ」
「……どういう意味だ。レベルが低いって? ……馬鹿言えよ。あいつらみんな真剣だったぞ」
「碁盤に向かう気構えのことを言っているんじゃない。対局のレベルそのものが、キミにとっては今更得られるものなどない未熟なものだと言っているんだ」
「おい、ふざけるなよ」
 堪え切れずに一歩踏み出し、アキラに近付いたヒカルの声が低くなる。
 聞き捨てならない言葉だった。棋士という職業であるアキラが、対局のレベルに高低をつけることも腹立たしいが、何よりやる気を見せた部員たちの前で、彼らを発奮させた対局を貶すような発言が許し難かった。
 しかし、凄んでみせたヒカルに怯むことなく、アキラの眼光が更に鋭さを増した。
「それはこっちの台詞だ」
「何だと?」
「キミこそ、ふざけるな。それだけの棋力を持ちながら、何故表の舞台に出て来ない。何故教師なんかに甘んじている? キミほどの力があれば、そこらのプロなんか目じゃない、充分世界のトップと争える!」
 ヒカルの顔が強張る。そして、アキラを睨む視界の端で、部員たちが驚いたようにヒカルを振り返ったことにも気づいた。
 直感が「まずい」と告げていた。この会話は、子供達に聞かせて良いものではない――ヒカルは咄嗟に近くにいた副部長の肩を掴み、押し出した。
「くだらねえ話するんじゃねえよ。俺とくっちゃべってる暇なんかねえだろう……じゃあな」
 アキラから顔を逸らし、戸惑う子供達を庇うように、ドアの外へと向かったヒカルの肩に、はっきりとした意志を持った手のひらが制止を求めて乗せられる。肩に食い込んだ指先は、薄手のシャツなど関係ないようにヒカルに痛みを与えて来た。
 ヒカルは、今度ははっきりと舌打ちした。最後のつもりで振り返った視線の先で、アキラが憎悪すら感じさせる赤い目を燃やしている様を見て、険しく歪めていた瞳を少しだけ見開いた。
「理解し難い……! 上を目指せる力があるというのに、子供の遊びに付き合うキミの神経が! 一生教師で終わるつもりか? 無駄に力を持て余したまま!?」
「遊びだと……? てめえ、黙って聞いてりゃ……!」
 ヒカルの腕が副部長の肩から外れる。部員たちがあっと息を飲んだ瞬間、アキラの手を振り払ったその手はそのままアキラの胸倉を掴み上げていた。
「お前に俺の何が分かる? こいつらの真剣な気持ちが分かるのか! 棋士様ってのはそんなに偉いのか? 人が命かけてやってる仕事に、ケチつける権利がてめえにはあるってのか!」
 アキラが下口唇を噛んだ。ヒカルの言葉に声を詰まらせたのか、胸を締め上げられて苦しいのか、どちらによる仕草なのかは怒りで血が昇ったヒカルには判断できなかった。
「俺は誇り持って教師やってんだ! てめえから見りゃレベルの低い子供の遊びだろうが、こいつらみんな真剣なんだよ! 生半可な気持ちでこいつらのひたむきさ受け止められると思ってんのか!? 俺には自分の力より、こいつらの希望に応える義務があるんだよ!」
 吐き捨てると同時に、突き飛ばすように握り締めたシャツから手を放す。
 吊り上げられていた身体が解放され、胸元を押さえながらふらついて足元を整えるアキラに背を向け、完全に硬直してしまった部員たちを無言で促し、ヒカルは二度と後ろを振り返らなかった。
 制止を求める声はかからなかった。たとえ待てと言われても、足を止めるどころか歩調は更に速まっただろう。駅までの道程、不自然に足早な一向は黙ってアスファルトを蹴って行く。
 アキラと、そしてヒカルの剣幕にすっかり怯えた部員たちは、ヒカルの様子を伺いながらも声をかけて来ようとはしなかった。ヒカルもまた、彼らのためにすぐに穏やかな表情を造ることが出来なかった。
 胸に燃え盛るものは怒りだった。アキラが否定したものは、全てヒカルが大切にして来たものばかりだったから。
 力を認めてもらえたことは嬉しかった。彼の碁に対する真摯な態度には尊敬の念すら抱いた。しかし、先程アキラが吐いた暴言の数々は、最早罵倒としか受け取れない堪え難いものだった。
 ――それだけの棋力を持ちながら――
 あれは、ヒカルだけではない、ヒカルに碁を授けてくれた大切な存在をも傷つける、暴力的な発言だ。
 お前に何が分かる、と怒鳴り返したところで、彼に何かが分かるはずもないことは理解している。
 そもそも、アキラはヒカルの力ばかりに興味を示し、執念を感じさせる行動力でヒカルを追って来た。もう一度、対局したいという願いのためだけに……
 しかしヒカルの力はアキラのためにあるのではない。無駄に力を持て余しているだなんて、そんなつもりは毛頭ない。
 この力で、今周りにいる子供たちに応えることはできるのだ――それは棋士の道を進むことより劣っていることだなんて思わない。
 勝負の世界に生きるアキラと、自分の目指すものは違う。そう、住む場所が違うのだ。ならば忘れよう。あの存在は、今の自分に必要なものではない――
 ヒカルは一度きつく口唇を結び、ふっと力を抜く。
 そして、吊り上がっていた眉を楽にしようと努めた。
 地下鉄に乗り込んだ後も、口を利かずに戸惑っている部員たちの緊張を解すように、ようやくヒカルは柔らかい声を出した。
「……地下鉄下りたら、メシ食いに行こうな。」
 数十分ぶりに聞こえたヒカルの声に、部員たちは安堵の表情を隠さなかった。そして、先ほどの険悪な雰囲気を呼び戻すまいと、健気にも明るく振る舞いだす。
 昼食に何が食べたいかの話題で盛り上がろうとしてくれている部員たちを見つめ、ヒカルは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 彼らに、あんな会話を聞かせたくなかった……。
 地下鉄の小刻みな振動に身体を揺らし、べたつく手すりに視線を移して、ヒカルは静かに瞼を伏せる。
 もう、アキラのことは忘れよう。これからも、信じた道を追えばいい。





この回書き終えるの時間かかりました……