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 身体を引き摺るようにして辿り着いたマンションの部屋に灯りをつけても、棘だらけの心を優しく癒してはくれなかった。
 珍しくリビングに着くなり鞄を投げ出したアキラは、着替えもせずにソファにどかりと腰を下ろす。そのまま膝に肘をついて、項垂れた頭を抱えるように乱暴に髪に手櫛を差し込んだ。
 ――あんなこと、言うつもりじゃなかった。
 暴走し続けた心と身体を落ち着けてしまえば、出て来るのは後悔ばかりだった。

 二度の負けに、気持ちが昂っていたのは事実だ。
 二勝三敗――崖っぷちまで追い詰められた。あと一局落とせば、今期の本因坊のタイトル戦は緒方の防衛で幕を閉じる。
 苛立っている理由は負けたという事実ではなく、敗北の原因となった精神の揺らぎだった。
 一色碁を緒方に見せ、そこから導き出された緒方がかつてネットで打ったという棋譜。
 ばらまかれたヒントを繋げようと、頭は躍起になって謎を追った。そのため、集中力を欠いて負けた。
 分かりやすい、なんて愚かな結末。その予兆があったにも拘わらず、見たいと緒方に頼んだのはアキラ自身なのだから、完全に自業自得の黒星だった。
 敗北はもう覆せない。三敗の現実は容赦がなく、それが心に焦りを呼んだのも間違いない。
 しかし、アキラの胸を騒がせているものは、進藤ヒカルという謎の存在に他ならなかった。
 囲碁部の教師、分かっているのはそれだけ。ところが、一介の教師が持つ棋力にしてはあまりに彼の力は深すぎて、厳しいプロの世界に身を置くアキラでさえ感嘆するほど。
 もう一度対局したいという願いを突き詰めて、いつしか彼の秘密を追うことに必死になっていた。ちらほら見え隠れする彼の過去が、より謎を深めてアキラを惹き付ける。
 奇跡のような力だった。だからこそ不思議でたまらなかった。
 何処であんな碁を覚えたのか? 倉田や緒方と打った十数年前の碁もまた、本当にヒカルの碁なのだろうか?
 ――自分は彼のことを何も知らない。彼との再戦を叶えたい。それも、一度目のように手を緩められるのではなく、最初から最後まで神経を張り詰めて競い合う「真剣勝負」という形で。
 それなのに、願っても願ってもヒカルは応じてくれなかった。ひらりと躱され続け、アキラの胸に積もって行くのは疑問ばかり。
 本因坊のタイトルを獲ったら再戦を考えてもいい――かつて仄めかされたそんな理由のためだけに、由緒あるタイトルを心底欲しいという気持ちになっていたのも否めない。
 心を捕われたまま敗北を重ね、焦燥に包まれて辿り着いた棋院で会った彼は、更にアキラの神経を逆撫でした。
 いくら大会に挑む子供達が真剣であろうとも、ヒカルほどの棋力の持ち主にとっては取るに足らない対局ばかりであったはず。
 アキラがヒカルに望んでいるような石と石とのせめぎ合いとは掛け離れた場所で、ヒカルが拘束されるのを目の当たりにしたのが我慢ならなかったのだ。
 自分は再戦すら許してもらえないのに、あの子供達はいとも容易く彼の碁を肌で感じることができる――
 そんな醜い嫉妬が、耳を覆いたくなるような暴言をアキラに吐かせた。
 我ながら、最低なことを言った……アキラは今まで息をすることを忘れていたかのように、大きく深い溜め息をついた。
『棋士様ってのはそんなに偉いのか?』
 ヒカルの言う通りだ。アキラに彼の仕事を貶す権利などあるはずがない。職業に、優劣などないのだから。
 分かっているのに、言わずにいられなかった。あれだけの力を持ちながら、何故、と。
 囲碁のプロになるには険しい道程が待ち構えている。どれほど努力しようとも、入り口を潜るどころか門すら叩けなかった人間が数え切れないくらいに溢れているのだ。
 ヒカルならば、そんな彼らを乗り越えて頂点を目指せる力を持っている。それなのに彼はあの力を最大限に活かそうとしない――それは飽くまでアキラの判断であって、ヒカルがそう思っている訳ではないと理解しながら、つい言葉は口をついて出て来た。
 ヒカルが怒りに震える様を、初めて見た。長い付き合いではない。知らない一面がいくらあっても不思議ではないが、それでもあの表情は思い出す度アキラをどん底まで叩き付ける。
 酷いことを言ったのだ。視野の狭い、自分勝手なことばかりを。
 こうして一人の時間を迎え、静かな部屋で頭を冷やすと、つい数時間前の応酬があまりに恥ずかしくて胃が軋む。棋士として、人として言ってはならないことを、今アキラが一番真剣に向き合いたい相手に対して放ってしまった。
 謝罪しよう――アキラは顔を上げた。
 ここで一人で腐っていても事態は好転しない。今回は明らかに自分に非があることを認めたアキラは、のろのろと立ち上がって投げ出した鞄から唯一の連絡ツールである携帯電話を取り出した。
 何と打つべきか、かなりの時間を要して――結局、ありきたりな言葉しか送ることができなかった。

『今日はすまなかった。酷いことを言って……ボクが悪かった。あんなことを言うつもりじゃなかった。』

 どれだけ待っても、返信は来なかった。




 ***




 二通目、三通目と謝罪のメールを送っても、ヒカルから返事が来ることはなく翌日を迎えたアキラは、とうとう耐えかねて再びヒカルが働く学校へと足を向けていた。
 学校に顔を出すと嫌がられるのは百も承知だが、何とかして謝らなければ気が済まない。何度となく送ったメールは読んでもらえているかも分からない現状、じっとしていられないタチのアキラは行動に出たのだった。
 夏休みの時期、学校にいる生徒たちの数は少ないだろう。いつものように校門で待っていてもそれほど目立つまい。そう考えたアキラは、これまで粘った時と同じように、校門脇に背中を預けて腕組みをする長期戦のポーズをとった。
 こんなふうにこの場所でヒカルを待つのは何度目になるだろう。アキラは初めてヒカルを待ち伏せした時のことをぼんやり思い出す。
 あの時はストーカーか何かと勘違いされて、酷い待遇を受けたのだ。渡した連絡先も無視されて、歯噛みするばかりで再戦の願いは叶わずに。
『こんなことしてる暇あんのかよ』
 ヒカルから直接言われた言葉は、今のアキラにとっても耳が痛い。――そう、本当ならこんなことをしている暇などない。本因坊戦は残り二局。それも次を守り切れたらの話で、先勝されたらそこで今期の本因坊戦は緒方の防衛が確定する。
 後がない状況で、必死に碁盤に向かわずに何故一人の青年を待ち続けているのだろうか。
 昨日あまりに配慮にかけた言葉を投げ付けてしまったから――アキラはそれが建て前であることに気づいていた。
 あの不思議な力の正体を知りたい。アキラと互角に渡り合える棋力。十数年前に倉田と打ったという美しい棋譜。そして、恐らく緒方がネットで相手をしたというsaiという人物の鍵もヒカルに繋がっている。
 倉田と打った人間と、緒方と打った人間は同じ存在だと信じて間違いない。しかしあのふたつの棋譜と、アキラが一度手合わせしたヒカルの棋譜とは似た印象はあるものの、同一人物だと確証が持てない。
 いや、同一人物だとなるとますます謎は極まる。倉田も緒方も、対局したのは十数年前だと言った。子供のヒカルがあれだけ打てたのだとしたら、アキラの中の常識は粉々に崩れてしまう。
 バラバラに散らばる点を結びたいのに、気がそぞろになるばかりで謎はまとまらない。こんなことでは次の対局だって落としてしまう……奥歯を噛み締めたアキラは、ふと聞いたことのある声に顎を上げた。
 数人の生徒たちが、わいわいと話しながら校門を出て来た。彼らはアキラに気づかず、アキラがいる場所とは逆の方向へ足を向けた。その声と後ろ姿に覚えがあったアキラは、囲碁部の部活動が終わったのだと見当をつけた。
 ならばヒカルももうすぐ帰宅するかもしれない。アキラはごくりと喉を鳴らし、校門に凭れさせていた背中を浮かす。
 ヒカルが来る、と思っただけで脈拍が速度を増して行く。身体を流れる血液の音まで聞こえてきそうな緊張感。
 何故、こんなにも夢中になるのか。他のものが目に入らないほど、――大切な対局に集中するよりも謎を追うことを選んでしまうほど、何故彼に引き寄せられるのだろう。
 ヒカルの強さのせいだろうか。
 それだけではない気がする。
 ただ強い相手なら他にいくらでもいると、自分で何度も結論を出したのに、それでもなお追わずにいられない謎めいた力。
 その理由を知りたい。
 こうまで自分を捉えて離さない、不思議な魅力の正体を知りたい。
 ひとつ大きく息をついたアキラは、身体を揺さぶるような鼓動を宥めるようにゆっくり胸に手を当てる。
 ごちゃごちゃとまとまらない考えは一度忘れよう。
 何よりもまず、謝らなければ――いつしか乾いていた口唇をそっと舐めると、暑い風が濡れた皮膚を撫でていった。





アキラさんの後悔だけで一話分使ってしまった……
でもこういうとこはできるだけ時間かけたいなあ。
(とか言いつつ全体的に超駆け足……!)