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 ヒカルが姿を現したのは、それから三十分ほど経った頃だっただろうか。
 相変わらず教師の癖によれよれのシャツを着て、遠目で見ると夏休み中に私服で学校に訪れた生徒のようだ。肩に下げたバッグには教材でも入っているのだろうか、酷く重そうで身体が若干傾いている。
 重みを振り子のように、不思議なリズムで身体を揺らしながら近付いて来たヒカルの動きがぴたと止まる。
 校門から姿を見せたアキラを認めて、昨日のような激しい憤りこそ見せなかったものの、すっと冷たく目を細めたのがアキラにもよく分かった。
 温度の低い表情は、アキラの胸を情けなくも竦ませる。
 会話を拒むように口唇を結んだヒカルは、緩くアキラを睨み付けながら近付いて来た。当然ながら歓迎している様子はない……アキラは細く深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと吐き出した。
「……昨日は」
 声が届く位置までヒカルがやって来た時、そう話しかけたアキラに向かってヒカルは小さく眉を顰めた。
 ヒカルの眼差しに浮かんでいるものが嫌悪であると気づいたアキラは、改めて昨日の自分の振舞いを後悔しながら頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
 下げた頭をすぐには持ち上げることが出来なかった。
 ヒカルの声は聞こえて来ない。しかし、地面に写る黒い影はすぐには動かなかった。
 取付く島がない訳ではないのだろうかと、身体を起こしたアキラは正面からヒカルと対峙する。
 身体を斜に構えて顔だけをこちらに向けたヒカルが、黙ったままアキラを見据えていた。
「敗北を引き摺って苛々していた……そんなことが理由になるはずもないが……配慮に欠けていた。キミが怒ったのは当然だと思う。申し訳なかった」
 もう一度頭を下げた後、それほど時を待たずに「いいよ、もう」と呟きが落とされた。
 光を見つけたようにはっとして顎を上げたアキラだったが、続けられたヒカルの言葉はそんなアキラの甘さを突き放す。
「思ってもみない言葉が出て来るはずねえだろ。お前と関わる気はもうねえよ。」
「進藤……!」
 青ざめたアキラが思わず伸ばした腕が、自分に向かってくると予知したのだろうヒカルは一歩退いた。
 昨日アキラの胸倉を掴んだような激しさこそないものの、必死に怒りを噛み殺そうと苦い表情のまま顔を逸らしている。――怒鳴られたほうがマシだと、アキラは追い縋った。
「待ってくれ! 本当に悪かったと思ってるんだ!」
「お前に振り回されるのはもう真っ平なんだよ。強いヤツと打ちたいなら他を当たってくれ」
「他ではダメだ! キミでなければ……!」
 手拍子を受けたように、声は咄嗟に飛び出した。
 その自分勝手な叫びが僅かな隙間を縫ってヒカルの耳をこじ開けたのだろうか、ヒカルは小さく眉を揺らす。
 微かでも自分に注意を向けてくれた希望にしがみついて、アキラは感情に任せて胸のうちを吐き出し始めた。言葉の推敲を一切考えない、がむしゃらな訴えだった。
「強いだけの相手ならいくらでもいる……! だが、キミは……キミの強さは……闇雲に勝ちに行く訳でもない、技巧に走り過ぎる訳でもない、震え上がるようなバランスだった。プロでもない、囲碁部の顧問というだけであれほどの棋譜を生み出せるなんて――どれほど、驚異だったか……!」
 ヒカルは何も言わずに厳しい眼差しをアキラに向ける。
 苦し気に目を細めたアキラは、たった一度だけのヒカルとの対局を、混乱した頭に思い描いていた。
 そして、倉田と打ったという一色碁、緒方がネットで打ったというsaiという相手との対局の棋譜も、次々頭の中の碁盤に広げて行く。
 繋がるようで繋がらない、三つの棋譜がアキラの意識を支配した。
「倉田さんと打ったという棋譜……見事だった」
 ヒカルの眉が再び振れる。
 問い返すように瞬いた瞳が落ち着かなく揺れているのを、アキラは視界に捉えていた。
「あの一色碁……ボクの兄弟子に見せたら、彼が過去にネットで打ったという対局をその場で並べてくれた。もう、十数年も前の美しい棋譜だ」
 ネット、という言葉に確かにヒカルが目を見開いた。
 すぐに険しく表情を歪めたが、薄ら青ざめた額の色ははっきりとした焦りをアキラに伝える。アキラはその動揺を隠し切れないヒカルの表情に、頭の中で展開する棋譜を重ねて眩し気に目を細める。
「寒気がするような美しさだった……」
 囁きに、ヒカルは息を飲む仕草を見せた。
 そして薄らと口唇を開き、乾いた皮膚を何事か呟きかけるように擦り合わせ、躊躇いながら漏れた言葉には驚愕が滲み出ていた。
「……、ネット……?」
 思わず、といった調子で小さく尋ねたヒカルに向かって、アキラは黙って頷く。
 ヒカルはまたも瞬きを繰り返し、まるで真偽を確かめているような素振りだった。ネット、という単語にここまで反応するヒカルを見つめて、アキラはやはりあの美しい棋譜とヒカルとの関連性を想像せずにはいられなかった。
 ヒカルが小さく舌を出し、乾き切った口唇を控え目に舐めた。それから一度喉を上下させて、意を決したようにアキラに問いかけて来る。
「なんで……そんな昔のネットの対局を、その人は並べたんだ……?」
「……一色碁を見て思い出したそうだ。……似た打ち手がいると」
「十年以上も前の棋譜を?」
「あんな棋譜、一度打ったら忘れない」
 ヒカルが言葉に詰まる。
 まるで自分が打ったかのように語るアキラに目を瞠り、青白い額に微かな皺を見せて立ち尽くしている。
 一度打ったら忘れない――アキラは無意識に切り返した台詞を、噛み締めるように口の中で再び呟く。
 それほど見事な一局だった。まるで構図を計算され尽くした一枚の絵を描くような。
 ヒカルはアキラを凝視したまま、次の言葉を切り出しかねている様子だった。ネットというキーワードに心当たりがまるでない人間の態度ではなかった。
 アキラの中で、謎の欠片が近付き合い重なり合おうと躍起になるが、それらを決定的に繋げるものは見つからない。
 お互いもどかしく相手の目を探り合う沈黙がしばらく続き、その時間に堪えかねたのか――ふいにヒカルが、薄く開いていた口唇から躊躇いながらも声を漏らした。
「……お前は……、お前は、どう……思った……?」
「……ボク?」
 ヒカルの瞳がどんな答えを期待しているのか、道を逸れないようにアキラも慎重になる。
「お前も……、俺が、それを打ったと……思うのか?」
「――……いや……」
 アキラはすぐに返事をすることができなかった。
 黙り込むアキラの正面で、同じように神妙な顔つきをしたヒカルがじっとアキラの反応を待っている。
 不確かなものばかりなのだ、とアキラは頭の中に広げた棋譜をもう一度辿る。
 最初の棋譜は、紛れもなくアキラが実際にヒカルと打った一局。相手がヒカルであるということに疑いを持ちようもない。
 しかし次の棋譜を、十数年前のヒカルが打ったとすんなり信じるには難しい。倉田は確かにヒカルを見て「アイツだ」と言った、たったそれだけ、しかしやけに確信を持っていた倉田の態度にアキラはすっかり混乱した。
 そして最後の棋譜――緒方の対局相手がヒカルであると繋げることに迷いはある。だが、倉田と打った相手と緒方の相手は確かに同じ癖と同じセンス、同じ強さを持つ一流の棋士。そして倉田は対局相手がヒカルだと断言した――
 果たしてこれら三枚の棋譜は、全てヒカルが作り出したものなのだろうか?
 アキラはそれにすぐに頷けない。確かに同じ気配を感じるような気はする。しかし、そんなことがあり得るだろうか? 十数年前、まだ中学生であるヒカルがあれ程までに優れた碁を打っただなどと?
 気配。そう、気配はあるのだ。どこかしら似た雰囲気がある、足の速さ、攻め方、読みの深さ……
 いや、似てるというならもう一人。ヒカルが打ったとされる棋譜のそこかしこにちらりと引っ掛かる独特の古い定石――


『秀策のようだな』


 緒方の呟きが頭に閃いた瞬間、アキラは無意識にその名前を口にしていた。
「……秀策……」
 微かな音は空気に溶けるように自然に零れ、そしてはっきりとヒカルは顔色を変えた。






たぶん不審気に二人を眺めて通り過ぎる生徒が
複数人いたんじゃないかと……