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 その顕著な変化をアキラはぼんやりと見ていた。ひょっとしたら見蕩れていたのかもしれない。ささやかな呟きに確かな反応を見せたヒカルの、泣き顔のようにも見える驚きの表情に。
 ヒカルは大きく見開いた目で、ややしばらくアキラを凝視していた。先程まで忙しなく瞬きを繰り返していた瞼は動くことを忘れてしまったのだろうか、こじ開けられたような瞼がようやく一度だけ瞬きを見せた時、ずっと固まっていた口唇が機会仕掛けのように不自然に開いた。
「知りたいか?」
 唐突な問いかけにアキラは耳を疑う。
 「何を」、と聞き返しても良いものか――最善の返答はどんな言葉かと、予想し選択する余裕はすでにアキラの頭には残っていなかった。
 戸惑うままに眉を顰めた仕草を、更なる追求と受け取ったのだろうか、ヒカルは抑揚のない低い声で問いかけを補充する。
「誰が……あの碁を打ってたのか」
 言葉を失い、それでもアキラの目は雄弁にヒカルに対して続きを促しただろう。
 知らず握り締めていた拳の中で、冷たくなった指先が湿った手のひらを掻いた時。


「――幽霊だよ」


 声になり切れない、吐息がそんな言葉を呟いた。
 アキラの切れ長の瞳が楕円を描く。ヒカルの頬はすっかり青白くなっていた。
「秀策の幽霊が俺に取り憑いて――碁を打ってたんだ」
 表情を凍らせ、目だけを大きく見開いたアキラは、そのまま時間を止めてしまった。
 思考が停止したために身体を動かす指令も出せず、血の気を失った指先も足先もまるで棒切れか枝のようで、生温く肌を撫で上げた風が開きっぱなしの瞳を刺したことで、痛みがようやくアキラの意識を取り戻してくれた。
 ヒカルもまた、アキラの向かいで息をしているかも怪しい程じっと固まっていた。
 透き通るように白くなった首筋には、果たして血が通っているのだろうか……まるでヒカル本人が幽霊のような顔色をして、立ち尽くしたままアキラを見つめている。やけに眼光だけが鈍く煌めいていた。
 幽霊。――そう、確かにそう言った。
 まさか、と喉を越えかけた言葉をそのまま告げるべきか、少しずつ落ち着きを取り戻して来たアキラは、ヒカルの発言をどのように受け止めるかを試案した。
 はぐらかそうとしているのか、それとも。ふざけている様子はない。黙り込む白い顔は、本気かどうか判断しかねるほど無に近い表情をしていた。
 貼り付いた喉が、第一声に迷う。ヒカルがどんな反応を望んでいるのか、アキラは背中に嫌な汗を感じながらも掠れた声を絞り出した。
「……、冗談、だろう……?」
 途端、それまでも充分乏しかった感情の欠片が、ヒカルの顏からすっと抜け出ていった。
 まるで能面のように硬く凍り付いたヒカルを真正面から見つめ、アキラは選択を誤ったことに気がついた。
「……冗談だよ」
 音と受け取るにはあまりに小さな呟きを最後に、ヒカルはふらりと身体を揺らす。
 生気のない様子はやはり幽霊じみている――愕然と立ち尽くすアキラがふとそんなことを思った時、ヒカルの背中はすでに遠離っていた。
 足は動かなかった。
 追い掛けることを拒むような背中だった。



 その夜、送ったメールは宛先不明でアキラの元に返って来た。
 ついに糸が切れた――弾けて散らばった謎の欠片が手の届かないところで輝くのを見上げ、最後のヒカルの灰色の瞳を思い出しながらアキラは項垂れた。






 ***






 一言ずつのメールをぽつぽつと送り、そのどれもが行き先を見失って虚しく戻って来る度、アキラは自分とヒカルとの繋がりはあまりに脆く他愛のないものだったことを改めて思い知らされた。
 多少の時間の経過などが事態を好転してくれるはずがないと分かっていながら、少し時を置いた後はひょっとしたらとささやかな望みをかけてみたくなる。結果、誰にも届かないメールの帰りを溜め息で迎えることになった。
 ヒカルとの意思疎通を図るための唯一の連絡手段、メールアドレスを遂に変更されてしまった。これで、彼に逢う手段は直接職場に押し掛ける他ない。
 伝えたいことは山ほどある。謝罪は中途半端に終わってしまったし、謎解きはまるで進展していないし、何よりもう一度対局したいという願いが宙ぶらりんになっている。
 メールでのやり取りが叶わなくなった今、何故アキラが先日のように強行手段を取らないのかと言うと――最後に見たヒカルの表情が、完全にアキラを弾き出していたからだった。

 くすんだ瞳に自分の姿が映っていないと分かった途端、足はその場に縫い付けられた。
 追えなかった。
 はっきり自分は彼を傷つけ、我が儘でずっとしがみついていた手をいよいよ振り解かれてしまったのだと、理解しなければならなかった。
 ――もう一度、打ちたかった。
 ただそれだけで、何度も学校に押し掛けた。自分勝手に問いつめた。思い掛けなく手に入れた情報で一人舞い上がり、情けなくも自滅した屈辱をそのまま彼に投げ付けた。
 さぞや迷惑だっただろう。今更のようにアキラはそんなことをぼんやり考え、出逢ってから一度もヒカルが自分を歓迎した様子を見せなかったことに自嘲の笑みを浮かべる。
 気味の悪い人間だと警戒され続け、他意があるのではと誤解もされたが、その割に彼は真面目にアキラの相手をしてくれていたように思う。
 大雑把な性格のようだが、意外に律儀な面も目立っていた。彼の棋風にもそれが表れている。力よりも技が冴える巧みな打ち筋は、究めればどんな展開を見せてくれたのだろうと胸が騒ぐ。
 可能性の断片をそこら中にちらつかせて、しかしヒカルはそれ以上を開いてくれようとはしなかった。
 不完全燃焼で終わった対局。まだ、彼のほんの一部分しか知らない。その他にアキラが知り得たのは、ヒカルと繋がっているという確証がない棋譜二枚。
 いや、とアキラは首を振る。――確証はあるのだ。

 ヒカルは倉田と打ったことを認めた。ネット、という単語にも過敏に反応していた。
 確信し切れないのはアキラの気持ちが問題だった。アキラが尊敬する一流棋士たちをも唸らせた、あの打ち手が本当にヒカルであるのかどうか? アキラは未だ答えを出せずにいる。
 ――秀策、と。呟いたのは、緒方の一言がきっかけだったかもしれない。
 確かに似通った雰囲気があった。ヒカルも、ヒカルかどうかも分からないあの二枚の棋譜を作り出した人間も、何らかの形で秀策の影響を受けていることは間違いがないだろう。
 しかし、曖昧な呟きは、繰り返すことでやけにしっくりとアキラの思考に馴染み始めていた。

 不思議な手応えだった。秀策と口にしたアキラに呼応するように、ヒカルもまた秀策の名前を挙げたことが原因だろうか。
『秀策の幽霊が俺に取り憑いて――』
 幽霊だよ、と風のように囁いたヒカルは、本当に冗談であの言葉を告げたのだろうか。
 そもそも、冗談であんなことを思い付くだろうか。
 アキラの脳ならば決して導き出されなかった突拍子もない話だ。だからこそ、どう反応すべきか戸惑って判断ミスを犯した。
 あの時、肯定しないまでも、否定の意志を見せさえしなければ、ヒカルの表情はもっと違ったものになっていたのではないかと、そんな予感を捨て切れない。
 「俺じゃない」、と。
 かつて呟きかけたヒカルの言葉は、そういう意味だったのだろうか。
 本当にそんなことがあり得るだろうか。自分はその答えを受け入れられるのだろうか……

 糸が切れた今、どうすべきか。
 アキラは自分なりに集めた謎のひとつひとつを思い起こし、返事の来ない携帯電話を一睨みしてから、決心したようにゆっくりと目を閉じる。
 ――追い続けようか。自分なりに。
 最早ヒカルの碁に出逢う前の自分には戻れまい。
 ここまで入り込んでしまったのだ。
 誰に聞かせるでもなく呟いて、静かに開いた瞼の向こう、アキラの瞳には好奇心が小さな炎を燃やしていた。





 手始めに行ったことは、秀策の棋譜を片っ端から見直すことだった。
 緒方が秀策、と呟いたのは出鱈目ではない。読みの深さ、一手の潔さ。特に倉田との一色碁は、まるで現代の秀策ではと唸るほどによく似た癖を見せていた。
 あらゆる棋譜を見比べて、実際に盤上に石を並べてみた。何度となく碁の勉強に参照した棋譜ではあるが、意識して石を打つとかつては気づかなかった新たな発見がいくつもある。
 ヒカルと関わりがあるかもしれないという期待のためだろうか。
 百五十年近くも昔の棋士が打った棋譜だというのに、改めて学ぶことがたくさんある。今なお師事する人間が多い名局を見直す機会は、大勝負を前にしながら集中力の欠けていたアキラの背筋を正してくれた。

 もしも本当に秀策の幽霊がヒカルに碁を打たせていたら……
 そんな非科学的な想像に努めようと、無理をしていた肩から力が抜けて行く。
 読みに優れた棋士の棋譜は、眺めているよりも打つほうが面白さが伝わる。アキラはしばし、純粋に棋譜並べを楽しんだ。そこから何かヒントを掴もうと躍起になることなく、秀策という棋士の軌跡を辿ることに意義を求めた。

 しかし手持ちの棋譜をあらかた並べ終えると、やはり倉田と緒方から得た相手不明の棋譜の存在が気になった。
 秀策の後でその二枚の棋譜を並べてみると、やはり酷似した世界観を持っている。違いを指摘するとしたら、過去にはない定石の使用と更に磨かれたセンスだろうか。
 できればもっと比較する棋譜が欲しい。とはいえ、入手できるルートなどあってないようなものだった。
 倉田がヒカルと打ったのはその一度きりだと言うし、ヒカル本人から新たな棋譜を得ることは不可能だろう。
 それでは緒方の対局相手は? 分かるのはネット上での対局だったということ、対局相手が「sai」と名乗っていたということ――
 アキラはそこに望みを見い出した。





アキラさんなりの精一杯の反応でした。