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 まずは身近な棋士仲間からスタートした。
 ネット碁の経験があるかと問いかけ、頷いた相手に更なる質問をする。
 十数年ほど前、ネット碁で強い打ち手と対局しなかったか。もしくは、その話題を聞いたことがないか。
 不思議な問いかけに、首を捻る棋士たちは不審げにアキラを見た。

「やり始めたのは最近だから、十年以上も前の話はちょっと分からないね」

「強い打ち手ねえ……他のプロとなら対局したことがあるけど……『sai』? 知らないなあ」

 地道すぎる調査だろうかと自嘲しつつ、会う人間全てにアキラは根気強く尋ねて回った。
 誰もが首を横に振る。無理もない、十数年も昔の話だ。記憶もおぼろげになるだろう。
 二日と経たず、アキラは良い返事を期待しなくなった。どうせ「知らない」が返って来る――そう思い込んでいた耳に、聞き慣れない響きが飛び込んで来た時、待ちかねていた言葉だったというのにアキラはいつものように答えを流そうとしていた。

「ああ、『sai』? 懐かしいなあ、何年前だろう?」

 日頃あまり会話を交わす機会が少なかった森下門下の白川八段が、実ににこやかにそう答えた。
 一筋の光を見た気分だった。






「当時はちょっとした騒ぎになってね。研究会でsaiの棋譜を使ったこともあるんだよ」
 穏やかな口調で語りながらアキラを先導する白川は、時折懐かしそうに目を細めて当時の様子を思い浮かべているようだった。
 棋院五階の廊下での軽い会釈から一転、共にエレベーターに乗り込んだ二人は二階を目指していた。saiを知っていると言う白川に見事に食い付いたアキラは、saiの棋譜を何でも良いから知らないかと詰め寄ったのだ。
 白川の答えはこうだった。――実際にsaiと打った人間を知っているから、彼に聞いてごらん。
 その場で電話をかけてくれた白川は、一般対局室にいるという相手に今から会う約束を取り付けてくれた。白川と同じ森下門下の和谷五段……あまりピンとこない名前だったが、ようやく見つけたsaiを知る人物。できれば棋譜をと鼻息荒く白川の後について行く。
 院生時代の友人と一般対局室で打っていた和谷は、アキラと変わらない年の頃だった。
 彼は白川と共に現れたアキラを見て、酷く訝し気な顔を見せた。当然だろう、会話すら交わしたことのないアキラが、白川を介して話があると訪ねてきたのだから。
 saiの名前を切り出すと、和谷は更に分かりやすく驚いた表情になった。
「sai……? なんでまた急に……」
「saiの話を聞く機会があってね。興味があるんだ。キミが打ったことがあると白川先生に伺ったものだから」
「まあ。打ったけどさ。すっげえ昔のことだぜ。プロんなる前」
「いいんだ、それで。もし、もし内容を覚えているなら……ボクに教えてもらえないか」
 和谷はぽかんと口を開け、すぐに眉を寄せて半歩後退した。真剣すぎるアキラの目つきが強烈すぎたのかもしれない。
 戸惑いながらも、せっかく目の前に碁盤があるのだからと、和谷はアキラの様子をちらちら伺いながらその場で石を並べてくれた。初手のみ数秒考えたようだったが、数手が打たれた後の和谷の指は、実にスムーズに石を運び続けた。
「よく覚えてるよ。その時院生でさ、プロ試験前に気晴らしでネット碁やってたらムチャクチャ負かされたんだ。プロかと思ったくらい強かったぜ」
「プロでは、ないのか?」
 和谷が打つ石の軌跡を睨み付けて目を離さないまま、アキラは短く尋ねる。
「プロじゃねえよ。昼間っから毎日打ってんだ。俺の他にも何人か打ったヤツがいたけど……あんなプロは知らないってみんな言ってたな」
 和谷は淡々と石を置いて行く。迷いの見られない動きは、彼が完全に棋譜を記憶している証拠だった。
 ふと、和谷の指先がふわりと速度を緩めた。少し名残惜し気に放った一手が最後の石。
 碁盤に広がった黒と白の道が途切れる。和谷の白石が投了した瞬間だった。
 アキラはごくりと喉を鳴らした。さすがに十数年前、和谷の手に拙さが目立つものの、素人レベルではない和谷をこうまで翻弄するsaiの打ち筋は見事としか言い様がない。
 緒方や倉田が打った相手と同じ強さ……肌寒さを覚えるような、美しさもまた同じだった。
 アキラが無言で碁盤を見つめている間、和谷は軽く腕組みをして頭上を見上げた。何かを思い出す時の彼の癖のようだった。
「saiかあ、懐かしいな。あん時、すげえ強いって俺の周りは結構騒いで、研究会で棋譜検討したりしたもんなあ。お前、知らないの?」
「ああ……、ボクは、当時はあまりネットは」
「ふーん。でも、ほんの一カ月くらいでいなくなっちまったからな、未だに誰だったのか分かんねえ。プロじゃねえし、アマチュアにもあんなのいないし、子供にしちゃ強すぎるしな……」
「子供?」
 不自然な単語が混ざったことに気づいたアキラは、思わず碁盤から顔を上げて和谷に聞き返す。
 和谷は軽く肩を竦め、気にするなというようにとぼけた表情を見せた。
「子供かなって、思ったことがあってさ」
「これだけ打つ相手を、何故子供と?」
「……俺な、対局した後にsaiにチャットで話しかけられたんだよ。『ツヨイダロ オレ』って……ガキっぽいだろ? ま、からかわれただけかもしんねえけどな……」
 遠くを見つめるように目を細めて、最後は自分に言い聞かせるように呟いた和谷の言葉が、アキラを愕然と凍り付かせる。


『ツヨイダロ オレ』


 子供の姿をしたヒカルが、ふざけた口調で和谷を翻弄する――そんな様子が、鮮やかな映像として頭の中に浮かび上がった。
 それは全くの想像でしかなかったけれど、まるで自分の目で見たもののようにしっくりと嵌まる光景だった。




 ***




 騒々しく帰宅したアキラは、食事も取らず、着替えも忘れて、それでも手だけはしっかり洗ってから碁盤に齧り付いた。
 和谷に実際に並べてもらったsaiの対局は、その場で頭に記録した。他にsaiの棋譜は知らないかと尋ねると、和谷は過去に研究会で使ったという別の棋士がsaiと打った一局も並べることができると答えた。
 アキラは興奮で記憶が飛んでしまわないよう、その内容をスケジュール帳に即席で書き留めてきた。そのスケジュール帳を鞄から引っ張り出し、左手に抱えて右手を碁笥に伸ばす。
 見返すと我ながら酷い走り書きだと呆れつつ、石を打って行くアキラの胸は、局面が進むごとに鼓動を速めて行った。
 新しく得たsaiの棋譜。まさか一度に二枚も手に入るなんて。
 二局目のsaiの相手は和谷よりも強い。和谷の話では、その頃からプロだった棋士だと言う。
 だからなのだろうか、saiの強さは揺るぎないが、少し攻め方に遊び心が伺える。応えられる余裕があると踏んだのだろう。saiは相手の力量を正確に見極めることもできるようだ。
 緒方との対局で見せたような、唸るほどの手堅さが若干和らいで、実験的な一手を放り込んだりしている。思わず乗せられたくなる、やけに気になる上辺への一手。 
 ――この前の部活で、進藤がやってみろって。
 ふいに、初めてヒカルの囲碁部に指導碁に訪れた日のことを思い出した。
 囲碁部員がヒカルから教わったというあの一手……あの手もまた、こんなふうに「化ける」ことを見越した面白い手だった。
 彼の力量では化かすところまでは導き切れなかったが、この棋譜ではsaiがうまく相手を面喰らわせている。気持ち良く嵌まった手を自ら打って確かめた瞬間、アキラは思わず微笑んだ。
 決して長い一局ではない。結果はsaiの中押し勝ちで、ぱっと見た印象では圧倒的な強さでsaiがあっさり勝利を得たように思えるが、深く読み取れば新たな一面が、saiがただ強いだけの相手ではないことがアキラには理解できた。
 saiは囲碁がとても好きな人だ――それがよく分かる、とても魅力ある一局。
 実際に並べて、saiの意識を感じて行けば狙いが見えて来る。相手の力を引き出しながら、より心躍る棋譜を描こうと導いている巧みさ。
 きっと一手一手を楽しんでいたに違いない。saiの思惑を想像しながら、アキラは何度も何度も今日得たばかりの棋譜を並べ続けた。
 並べ始めた当初に頭にあった、ヒカルに対する不審や疑問が徐々に形を変えて行く。
 アキラが生徒たちに指導していた時、実に楽しそうに後ろから覗き込んで来た無邪気な表情――あの時のヒカルと、きっと今自分は同じような顔をしている――アキラはふと、盤上から目を離して誰もいないはずの対岸へ顔を上げた。
 たった一度だけ碁盤を挟んで対峙した、あの時のヒカルの姿が浮かび上がってくる。
 アキラの鋭い手に、静かだった表情をふいに険しく引き締めてやり返したヒカルの眼差し。
 ほんの一瞬だけ見えた彼の本気。

 ――ああ、そうか。

 何故、こんなにもヒカルの碁に惹かれるのか――もう一度彼と打ちたいと願うのか、分かった。
 アキラの誘いに乗ったヒカルが、その眼光を確かに煌めかせたあの瞬間。
 淡白だった仮面が剥がれ、勝負に挑む男の顔になった。殺気さえ感じさせるような緊張感のある表情……
 その表情が、何故だか酷く幸せなものに見えたのだ。
 夢でも見ているように、幸せな表情に見えたのだ。



 ――ボクは、あの夢の続きを見たいんだ…… 





 アキラは夢中になりすぎて荒くなった呼吸のため、カサカサに乾いてしまった口唇を無意識に一舐めし、湿って光る口唇の両端を思わず緩く持ち上げる。
 自分で並べたsaiの棋譜を見下ろして、音もなく呟いた。



 ――面白い。







 その夜、アキラは時間を忘れて碁盤に向かい続けた。
 いつしかヒカルとsaiの関わりについての探究心よりも、最善の一手を追求することがアキラの中で勝り、純粋に碁の世界に没頭していた。
 初めて囲碁の面白さを覚えた子供の頃のようだった。
 赤味を帯びた瞳が朝日を見つけた時、アキラの中で何かが心地よく吹っ切れていた。





アキラさんの浮上です。