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「おーし、そんじゃ軽く対局やって最後にするか。二年、一年の相手してやって――」
 部室の中を歩き回り、並んだ部員たちの顔を振り返りながら明るい声をかけていたヒカルは、ふと廊下から聞こえる騒々しい足音に言葉を区切った。
 ドアを振り向くと、ノックもなしに開いた扉の向こうから石田が顔を出す。
「石田」
「良かった、まだやってた!」
 ヒカルが名前を呼び終わる前に、ほっとした表情でそう告げた石田は、重そうなショルダーバッグを抱え直してどかどかと部室に入って来た。ヒカルは時計を見上げて、不思議そうに首を捻る。
「お前、今日夏期講習じゃなかったか?」
「さっき終わった。こっちも終わっちゃってるかと思って慌てて来た」
「三年は夏休み中の部活は強制じゃないって言っただろ?」
「分かってるよそれくらい。進藤に用事あって来たんだよ」
 俺に? と眉を顰めるヒカルの前で、空いた机にどんとバッグを置いた石田は、何やらがさがさと中を漁り始めた。
 唐突な石田の行動に部員たちもぽかんとしている。それに気づいたヒカルは、慌てて対局の準備途中で動きを止めてしまった彼らに続けるよう指示した。
「あった!」
 夏期講習の教材と思しき本やノート類の中から一枚の紙を取り出した石田は、嬉々としてヒカルに突き付けた。驚いて思わず受け取ったヒカルに、石田がこう告げる。
「本因坊戦第六局。塔矢先生、勝ったぜ」
 塔矢、の名前に思わず目を見開いたヒカルは、次の瞬間その目をすっと細めた。
 同時にくっきり眉間に皺を刻み、渡された紙が恐らくアキラの棋譜であることを勘付いて、そのまま石田に突き返す。
「俺の前でアイツの話するなって言っただろ」
「いいからちょっと見てみろって! 塔矢先生、いい碁打って――」
「その名前は聞きたくねえ!」
 狭い部室に怒号が響き渡る。ぴりっと張り詰めた空気が漂い、対局途中だった部員たちは全員凍り付いた表情でヒカルと石田に顔を向けた。
 目の前で怒鳴られた石田もまた一瞬顔を強張らせたが、すぐに目に力を込めてヒカルを睨み返してくる。
「なんでだよ! 何いつまでも引き摺ってんだよ!」
「お前には関係ねえだろ」
「まだムカついてんのか? あんだけ言われて、何一人でキレてんだよ! 進藤がすげえって、だからもっかい打ちたいって言ってんだろ!?」
「うるせえぞ」
 高さを一段落とした声で凄みを利かせると、石田が怯えたように声を詰まらせる。
 しん、と静まり返った部室は、少しの間全ての音が消えてしまったようだった。ヒカルはふっと短く息をついて、極端に狭くなった眉と瞼の隙間をふわっと緩め、固まっている石田の頭に優しく手のひらを置いた。
「……くだらないこと気にしてるんじゃねえ。模試、もうすぐだろ……明日も講習頑張れよ。」
 不自然さは残ったが、優しさが戻ったヒカルの声に、部室の空気もほっと緩む。石田は納得できない目をしていたが、それ以上言い返そうとしなかった。
 いや、させなかったのだ――ヒカルはこんな時ばかり大人の武器を使う自分に嫌気がさした。
 日頃友人同士のように接している関係ではあるが、やはり大人と子供。ヒカルが彼らに合わせているからこそ成り立っている構図だった。
 碁のことで真摯に向かって来る生徒に対し、こんなふうに力ずくでやり込めるのはヒカルとしても好きな手段ではない。しかし、無理にでも黙らせなければ、真直ぐな正義でアキラの名前を連呼されることに耐えられなかっただろう。
 子供たちの前であんな言い争いを見せたことだって苦しいのに、これ以上醜い姿を見られたくはない……ヒカルは石田に気づかれないよう、口内の肉を噛み締めた。そして、渡された棋譜を裏返し、改めて石田に返した。
 石田は黙って受け取ったが、棋譜を睨む目は赤々と燃えている。無邪気な情熱を見下ろして、ヒカルはもう一度石田の頭を優しく叩いた。




 ***




 研修の報告書をようやくまとめ終えた頃、すっかり太陽は西の空に傾いていた。職員室の窓から美しい夕陽を眺め、やれやれと回した首の骨がパキポキと小さな音を立てる。ヒカルは帰り支度をするべく荷物を整理し始めた。
 夏休みの真っ最中ではあるが、普段と変わらず、いやひょっとしたらそれ以上に仕事が多いかもしれない。立ち上がると軽い頭痛を感じて顔を顰めたヒカルは、同僚に声をかけて早々に帰路につくことにした。
 鈍った身体が軋む度、自分はデスクワークに向いていないと思い知らされる。教師のくせに相変わらず字は汚いし、書類の提出はいつもギリギリ、もしくは期限オーバーだ。
 ――先生目指すっつったら、みんなムチャクチャ驚いてたっけな……。
 グラウンドからは、大会が近い部もあるせいか、こんな時間でも野球部やサッカー部に所属する生徒たちの声が響いて来ている。気合いの入った歓声にそっと微笑み、校門を後にした。
 囲碁部の部員たちは午後の早い段階で帰宅させている。夏の大会以降、受験が優先の三年生は都合のつく時以外は顔を出すことがなく、一、二年生も次の大会が秋とあってそれほど厳しい内容にはしていない。
 しかし、全国大会を目にした先輩から良い刺激を受けた後輩たちは、いじらしくなるほど真剣に碁盤に向かってくれている。他の文科系の部活では夏期休暇中の活動をしていないところも多いというのに、彼らは暑い中率先して学校へ碁を打ちにやって来るのだ。
 教師として、顧問として、これほど嬉しい状況があるだろうか。指導に熱が入らないはずがない。彼らの力をもっと伸ばしたい、それだけに集中したいと願う反面、心のどこかでチクリと棘が刺さる。
 今日、石田に言われた言葉を流せなかった。つい本気で怒鳴ってしまった自分の余裕のなさを恥じながら、それでも素直に受け入れることは絶対にできなかったと口唇を噛む。
 アキラを許せなかった。――いいや、そうではない。
 アキラに僅かな期待を抱いた、自分が許せなかったのだ。
 ひょっとしたらと勝手に望みを賭けて、それが裏切られたことに落胆した自分自身が、何より許せなかった。



 おかしな男だと思った。たった一度の対局でヒカルが隠した力の兆しを見つけ、しつこく再戦を迫る良くも悪くも一直線な男。
 困った男ではあったが、そこまで悪い気がしていなかったのも事実だ。でなければもっときっぱりと拒絶していた。――最初からそうすべきだった。
 メールのやりとりなどを経て情に絆されたのか、あの厄介な男をそこまで疎ましく思わなくなっていた。いつの間にか、気を許していたのだ。初めて顔を合わせた時から、僅かな時間で驚くほど近くまで存在が近付いていた。
 だから、本気で腹を立てた。
 後から冷静に考えれば、アキラにあの時どれだけ余裕がなかったか良く分かる。大事なタイトル戦、無惨な敗北を掴まされ、崖っぷちまで追い詰められた後にタイミングの悪い遭遇を果たしてしまったのだ。翌日の謝罪の気持ちは本物なのだろうと、理解はできる。
 ただ、ヒカルは気づいていなかった。アキラがあそこまでヒカルの秘密に辿り着いていたということに。
 いつの間に調べたのか、いや、関係があると判断することさえ困難だったはずのネット碁の話題を耳にするとは思わなかった。倉田との一色碁まで行き着いて棋譜を突き付けてきた男だ。ヒカルが知らないところで、ずっと真実に近付こうとしていた。
 そうして心が動いてしまったのだ。
 「もしかしたら」と、まず普通の人間ではここまで追ってこれないヒントを着実に拾い集めて来たアキラに、僅かな望みを抱いてしまった。
 もしかしたら、この男なら。
 突拍子のない、だけど本当に起こった夢のような出来事を、受け入れてくれるのではないかと……

『冗談、だろう……?』

 躊躇いながら戸惑いながら、聞きたくない言葉を告げたアキラもまた言いにくそうな顔をしていた。
 そこでやっと目が覚めた。
 ああ、自分はなんて馬鹿なことを口にしてしまったのかと。
 誰が信じるだろう、こんな馬鹿げた空想の世界の出来事を。
 ひょっとしたらこの記憶も、自ら作り出した妄想の何かではないか――いや、それだけは違う。「彼」は確かに存在した。
 ただ、それはヒカルだけが知っていれば良いことだった。
 他の誰かと共有すべきものではなかった。
 最初から分かっていたのに、ついぐらついてしまった自分が全て悪いのだと、ヒカルはようやく完全に道を閉ざす決心をした。もう誰もテリトリーに入り込んで来ないように。迂闊にも大切な力の断片を二度と晒したりしないように。
 囲碁を愛する気持ちは共感できる。ヒカルもまた、アキラとは違う方法で囲碁を愛しているから、彼とは離れて違う道を邁進するのだ。
 だからもう逢わない。アキラの存在はヒカルには必要無い。
 そして、アキラがもう一人のヒカルの影に辿り着いたのだとしたら、――彼もまた必要としているのは「ヒカル」ではないはずだった。
『いいからちょっと見てみろって! 塔矢先生、いい碁打って――』
 良い碁を打っているのならそれでいい。
 アキラはプロとして己の腕を磨き続けるだろう。
 ヒカルもまた、自分の信念を貫くために、違う形で碁に関わり続けていく。だから、それでいい。






もうちょっと意地になっててもらいます。