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 部活動の監督を早めに切り上げ、夏期講習の講師として九十分の授業を終えた後、職員室で書類を整理してようやく校舎を出ることができたヒカルの前に、見覚えのあるシルエットが佇んでいた。
 特徴的な髪型のお陰ですぐに分かった。分かった途端、数日前から胸に燻り続けていたものが一気に熱を孕んだ。
 あれだけ言ってもまだ懲りないのかと、怒りを通り越して呆れて仕方がない。校門傍に影を作る男の横を通り過ぎなければ帰宅することはできず、渋々ヒカルは顔を逸らして前進を続けた。
「進藤」
 呼び止められても返事をするつもりはなかった。眉ひとつ動かしてやるものかと、しかし視界の端にちらりと入り込む気配に意識を引かれながら、足早に進むヒカルの耳にこんな言葉が飛び込んできた。
「これで、最後だ。最後に、伝えたいことがあって来た。キミは、謝罪は聞いてくれないだろうから」
 思わず肩を揺らしたヒカルは、横目を僅かに声のする方へ向けてしまった。
 そこには、つい先週縋るような目で頭を下げ続けた男の面影はなく、はっきりした意志が宿る目でじっとヒカルを見つめる精悍な顔つきのアキラがいた。
 顔を見てしまうと、足を止めざるを得なくなる。一瞥して通り過ぎるほどヒカルは非情になり切れず、また足を留めさせるだけの気迫がアキラから滲み出ていた。
 アキラも決死の思いでここまでやって来たのだろうか、ヒカルが意識を向けてくれたことに少し表情を和らげ、ぶつけるような勢いだった最初の言葉よりスピードを僅かに緩めて口を開く。
「……礼を言いたくて。……それだけ、伝えに来たんだ」
「……礼?」
 無視して通り過ぎようとしていたことを忘れ、うっかり聞き返したヒカルの動揺を掬うようなこともなく、大きく頷いたアキラはしっかり顎を上げた。
 真直ぐな目をしている――ヒカルが驚いて瞬きする前で、アキラは丁寧に話し始める。
「キミの力に惹かれて、キミの謎を追った。……ボクはいつしかその力の強さだけに気を取られて、何故キミともう一度打ちたいと思ったのか……その本当の理由を忘れかけていた」
 ヒカルはごくりと喉を鳴らす。
「ボクは、楽しみたかったんだ。キミのような相手と……はっとするような一手をやり返して来る、ワクワクする相手と、純粋な勝負を楽しみたかった……」
「……」
「キミとなら、自分がプロだという肩書きを忘れて、ただの碁打ちとして囲碁を楽しめる――それが本当の目的だった」
 横目だけで伺っていたアキラの顔が、今でははっきりヒカルの正面に映っている。
 気づかないうちに背けていた顔をアキラへと向けていたヒカルは、その足先までもじりじりとアキラに向けようとしていた。
 楽しみたかった、という言葉に反応した目が細くなる。――昔、そんなふうに碁を打っていた存在が傍にあったことを思い出しながら。
 ふと、真直ぐにヒカルを見つめていたアキラの視線が軽く伏せられた。
「……ネットでキミに似た打ち手がいたことを話したね。ボクの兄弟子が過去に打った……」
「……それは」
「sai、という名前だそうだ」
 ヒカルは明らかに言葉を詰まらせた。その不自然な挙動を悟られまいとすればするほど、焦りが顕著に表れる。
 しかしアキラはヒカルの不審な様子を追求することなく、淡々と続きを語る。
「あれから、その存在が気になって仕方がなくてね。ボクなりに調べてみた……知人の棋士の伝でかつてsaiと打ったことがあるという人から、棋譜を見せてもらった」
「え?」
「面白い対局だった……」
 うっとりと呟いたアキラは、伏せた目を閉じて軽く天を仰いだ。
「対局相手と棋力の差があるせいか、白熱した勝負ではなかった。しかしsaiという打ち手の丁寧な導き方……実に美しい模様を創り出している。ずば抜けたヨミの深さも見事だった。たった二枚、新しい棋譜を手に入れただけだが――その二枚であれほど大きな世界の入り口に立たせてもらえるなんて、思いもしなかった。時間を忘れて何度も石を並べたよ」
 最初はゆっくりと、感情が入っていくに従って少しずつ早口になっていったアキラの口調に合わせて、ヒカルの心臓もとん、とんとリズムを速めて胸を叩く。
 saiに対する賞賛の言葉が胸を高鳴らせている。緩みたくなる口元にぐっと力を込めて堪え、それでもまだ疼く身体を押さえ切れずに拳を固く握り締めた。
「そうしてsaiの世界に没頭していくうちに、……どうでも良くなった。キミが何者だろうが、saiが何者だろうが、倉田さんと打った少年が今のキミやsaiと繋がるのかさえも。そんなことより、素晴らしい棋譜を楽しむことに集中したほうがずっといい碁が打てる」
 微かに口唇を震わせるヒカルの前で、アキラはしっかりと目を開く。
 そしてひとつひとつの音をはっきりと、「ありがとう」とヒカルに向かって告げた。
「キミというきっかけがなければ、囲碁が好きだから碁を打つという本当の理由をおろそかにするところだった。ボクが棋士を選んだ理由……碁を愛していて、その道を究めたい。それがどれほど自分にとって尊いものだったか、思い出すことができて良かった。――明日は本因坊戦の最終局だから」
 あ、と呆けたように口を開いてしまったヒカルに対し、アキラは不敵に微笑む。
「今度はキミに恥じない碁を打ちたい。ボクに気づかせてくれたsaiのためにも。キミに出逢わなければずっと忘れたままだったかもしれない……今なら何の不安もなく碁盤に向かえる」
 そしてアキラは浅く頭を下げる。
 つい先週、謝罪のために深々と下げた頭に比べて、ヒカルが見る光景は実によく似ているのに全く印象が違っていた。
「ありがとう。逢えて良かった。」
「……塔矢」
「明日は全力で打ってくる。……ボクが勝っても、約束は反故にしてくれていい。無理矢理に取り付けた、約束とは言えないものだったから」
「塔矢」
「……でも、キミの本気の碁を見たかったのも本音だ。打ちたかったよ、とても。キミが手控えた百五十四手目、本気で打ってくれたら一体どんな攻防になっただろうと」
「塔矢……」
 顔を上げたアキラは、もう一度だけありがとうと口唇を動かし、改めて軽く頭を下げた。
 そしてヒカルが小さな声で名前を呼び続けるのにも構わず、潔く背を向けて敷地の外へと一歩踏み出す。
 伸びた背筋は夕暮れの逆光を受けて黒く厚く、迷いなく前に進んで行く。
 ヒカルはぼんやりとその背中を見ていた。いつかと逆の光景であることにその時は気づかなかった。




 ***




 それから二日後、部活動を終えて後片付けをする生徒たちを見守るヒカルの耳に、先日と同じように騒々しい足音が届いた。
 薄々勘付いていたヒカルは振り返り、ドアを乱暴に開けて飛び込んで来た相手が石田だと認めると、腕を組んで溜め息をつく。
 石田は渋い表情のヒカルに見下ろされ、一瞬気まず気に動きを止めた。が、すぐにヒカルが
「……持って来たんだろ。棋譜。……見せろ」
 暗号のような短い言葉を並べると、ぱっと顔を輝かせてバッグの中を漁り出す。
 慌てて探されたために皺だらけになった紙切れを受け取って、しかしヒカルは微かに眉を揺らしたに留まった。その場ではすぐに棋譜に目を通さずに、片付けを終えた部員たちに帰宅を促す。
 ヒカルの反応を気にしている石田も部室から押し出して、一人きりになった室内で手近な椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。
 本気で打つと言った男の棋譜を、片手間に眺める訳にもいくまい。
 さすが、少し前からヒカルの様子を気遣ってアキラの棋譜を届けていた石田は、この日もしっかりと本因坊戦最終局の棋譜を用意してくれていた。おせっかいな生徒は、あの日の棋院でのヒカルとアキラの諍いを今でも気にしているらしい。
 ネットからプリントアウトされた無機質な棋譜。しかしそこに描かれる黒と白の世界には紙ごしでも伝わる気迫がこもっている。
 ヒカルは眉間に軽く皺を寄せ、棋譜を睨み始めた。その瞬間から外界の音が全て遮断され、チャイムの音も夕暮れのサイレンの音も何一つヒカルの耳には入らなかった。
 先番は緒方。白石が鋭く黒を追い込み、攻め立てる。無謀さではない、絶対の自信による渾身の踏み込み――





 ――いい碁だ!





 時間を忘れて紙を追う目が乾いても、何度となく舐めたために水分が乾いて口唇がカサカサになっても、ヒカルは頭に並べた黒と白の石の海に深く深く潜り込んだまま浮上しようとはしなかった。
 本因坊戦最終局、見事な勝利を収めたアキラは緒方からタイトルを奪取することに成功した。





言葉よりも行動で……。