Determine







 パチパチ、ざらざらと石を打つ音選り分ける音が響く部室の端で、ぼうっとした目をしながら座り込んでいるヒカルに対して部員たちがひそひそと囁き合う。
 いつもはうるさいくらい元気な顧問が、呆けたように宙を見つめながら動かない。今日も部活動の時間は終盤だというのに、顔を出したのも遅かったし、来たら来たで詰め碁をいくつか提示した後は対局するように指示だけ出して、後はずっと上の空――
 そんな生徒たちの囁きは耳に入って来ないまま、ヒカルは気を抜けばすぐに持って行かれてしまう意識を、大した抵抗もできずに碁盤の宇宙に浸らせていた。
 並ぶ黒石と白石の基盤となるのはあの棋譜だ。――本因坊戦第七局、塔矢アキラと緒方精次の最終戦。
 紙の上でさえあれだけ唸らされた対局を、実際に石を持って打つという感覚はどのようなものなのだろうか。あの、地合いを抉られるような石の切り込みに、もしも自分が対岸に座っていたとしたらどう受けてたつか……
「……藤、進藤!」
 呼ばれただけでは覚醒できず、腕を引かれてようやくヒカルは自分が部室にいたことを思い出した。
 ヒカルの腕を掴んだ女子生徒が怒ったような困ったような顔で、恐らく何度も呼んでいたのだろう、彼女と似たような表情の部員たちが並ぶ方向を指差した。
「みんな対局終わっちゃった。ねえ、今日は全然見てくれないの?」
 やって来てから一度も顧問らしい振舞いを見せないヒカルに、不満というより不安を露にした部員の心情を悟って、ヒカルは頭を掻きながら立ち上がる。
「あーわり。ちょっとぼーっとして。見る見る、見るよ」
「飲み過ぎかよ」
 男子部員の突っ込みにバカ、とだけ返し、ヒカルの指導を待つ部員が造り上げた盤上の宇宙を見るべく腰を屈めて歩き回る。
 ここはこう、こっちはもっと丁寧に……といつも通りの態度を心掛けているつもりなのに、ほんの僅かでも似た石の並びを目にした途端、呆気無く視界はあの棋譜が並ぶ空想の碁盤にすり変わった。
 難しい顔で立ち尽くすヒカルの目の前で、部員が呆れた声を出す。
「進藤、寝惚けてんのかよ?」
「……あ。悪い」
 申し訳程度に謝罪はするものの、まだ頭がはっきりと現実に戻って来ていない。もう一度派手に後頭部を掻き毟ったヒカルは、部員たちに謝罪して今日の部活動の終わりを告げた。


 どうもダメだ、と誰もいなくなった部室で一人溜め息をつく。
 あの棋譜を見てからもう三日も経つのに、気づけば心が完全に飲み込まれてすぐに意識を飛ばしてしまう。夏休みの最中だというのに、部活のために学校までやってきた部員たちにとってはいい迷惑だろう。
 指導に集中できないだなんて、教師失格ではないか……肩を落としながらも、頭を切り替えることはできないままだった。
 棋譜に目を通した時の、電流にも似た衝撃がまだ指先に痺れとして残っている。頭も痺れたまま……力強く勝ちをもぎ取りに行ったアキラの碁に、緒方の繊細かつ執念深い抵抗が絡み合って、見る者を震え上がらせるような緊張感のある碁がヒカルの心を虜にしていた。
 拮抗した力を持つ者同士だけが創り得る、勝負の産物。それは、ヒカルが久しく忘れていた世界でもあった。
 忘れていた――忘れようとしていた。思わずそんなことを考えそうになって、ヒカルは誰が見ている訳でもないのに否定のために首を振る。
 住む世界が違う、進む道が違う。だからアキラが見せたような場所はヒカルが行きつけるはずはなく、逆にヒカルが目指す場所もアキラには無用のものであるはずだ。
 それなのに、あの力強さがヒカルの腕を引こうとする。
 今にも棋譜の向こうから手が伸びて、そのまま勝負の世界に引きずり込まれてしまいそうな錯覚が、ずっと頭に纏わりついたまま――

「あれ? もう終わってた?」

 不意打ちに響いた声が、ヒカルの身体を弾かせた。
 大袈裟なほど大きく振り返ると、講習を終えた後だろうか、いつものように石田がドアから顔を覗かせていた。見知った顔にほっとして、ヒカルは咄嗟に教師の顔を作る。
「なんだお前、また来たのか? 無理して毎回顔出さなくてもいいって言っただろ?」
 そんなんで受験大丈夫か? とからかうように笑ったヒカルに対し、石田は軽く辺りを見渡して、不思議と神妙な表情を浮かべた。ヒカルも思わず眉を寄せると、石田はヒカルの顔色を伺うような目で口を開く。
「なあ……みんな、もう帰った?」
「……ああ。今日は早めに部活終わったから……」
「そっか。……じゃ、丁度いいや」
 躊躇いがちに言葉を区切る石田に釣られて、ヒカルもまた途切れがちに答えた。不自然な空気が流れる中、石田が意を決したように切り出し始めた。
「進藤。――棋譜、見たんだろ?」
「……」
 真直ぐな石田の視線を正面から受けて、ヒカルはただ頷くだけで良いはずの返事を一瞬詰まらせた。
 他でもない、ヒカルに棋譜を渡したのは石田自身だ。ヒカルが見ていない、と答えるはずがないことを分かっているだろうに、あえてこの質問をしたのには彼に何らかの意図があるからだろう。
 ヒカルは慎重に顎を引き、ああ、と短く答えた。
「なら……分かってんだろ。塔矢先生、勝ったんだぜ。――本因坊獲ったら対局するって、約束したんだろ?」
「え?」
 椅子から腰を浮かしたヒカルは、以前部員たちにそんな話をしただろうかと記憶を辿った。しかしすぐに、そんなはずはないと探索を打ち切り、勝負に挑むような目をしている教え子に一歩近付く。
「お前……誰から聞いた? 俺は話した覚えねえぞ」
「……誰でもいいだろ」
 誤魔化すのが下手な石田を見下ろして、ヒカルはふっと短い溜め息を漏らした。このやり取りを知る人間は、ヒカルの他にはもう一人しかいないはずだった。
「……アイツに会ったのか」
 尋ねてすぐに、アイツ呼ばわりできるほど親しい間柄でも何でもないことを思い出し、ヒカルはバツが悪そうに視線を泳がせる。そんなヒカルの挙動には目もくれず、石田は犯人を追い詰めた刑事よろしくヒカルを睨み付けた。
「塔矢先生、言ってた。進藤が本気出したらそこらのプロなんか目じゃないって。塔矢先生だってやってみないと分からないって……だから進藤ともう一回打ってみたかったって」
「……お世辞を間に受けてどうすんだよ。プロの先生の気紛れにいちいち付き合えるほど俺も暇じゃねえんだ」
「気紛れじゃねえよ!」
 声を荒げた石田にヒカルは驚いて息を飲んだ。
 はぐらかそうとしたヒカルの態度に反発するように、石田の両の拳は固く握り締められていた。
「あんだけ認められてんだぞ! なんで打たねえんだよ。あの時、本気じゃなかったんだろ? なんで本気で打たなかったんだよ!」
「……本気だったよ。それで負けた。それだけだ」
「嘘つけ! 進藤、いっつも俺らに本気なんか見せてねえじゃねえか!」
 ヒカルが目を見開いた。
 次の言葉が出て来ないヒカルに向かって、石田は口元を歪めて嘲笑を見せる。
「それとも、本気でやって負けんのが怖いのかよ?」
「なんだと?」
 ショックで声を失ったヒカルは、分かりやすい挑発によって逆に気を取り直すことができた。
 つい喧嘩腰に言い返してしまったことに後悔したが、石田は怯まず受けて立ったようだった。
「怖いんだろ? 俺らの見てる前でボコボコにされんのがよ。だからわざと手ぇ抜いて、うまく負けたつもりだったんだろ?」
「おい、あまり調子に乗るなよ」
「調子に乗ってんのはそっちだろ! ただの囲碁部の顧問の癖に、プロの先生からのお誘いお断りだって? 何お高くとまってんだよ。負けんのが怖いからやりませんって、正直に言ったらいいだろ!」
「負けるかよ!」
 相手が自分の教え子だということも忘れて、同じ目線で怒鳴り返したヒカルの息は微かに掠れていた。
 石田の口唇が僅かに吊り上がる。その思惑にハマったことにヒカルは気づいていた。しかし、ここまではっきり挑発されて、すんなり引き下がれるほど自分が大人になり切れていないことも分かっていた。
 ましてや原因はあの男。思い出すと今も震えが来るような棋譜を創り上げた、アキラを引き合いに出されて「負けるのが怖いから打てません」と流す余裕はない。
 あれだけの碁を打った相手とはいえ、――ヒカルは自分が劣っているつもりは毛頭なかった。
「塔矢が相手だろうが、負ける気はさらさらねえよ」
「言ったな。じゃあ、打てよ。打ちゃ分かんだろ」
「……それは」
「やっぱり怖いのかよ」
 ぐっと口唇を噛んだヒカルは、何かを吹っ切るように頭を大きく振って、そして正面から石田を見据えた。
「……分かったよ。打てばいいんだろ。打ってやるよ」
 その眼力に怯みかけていた石田だが、ヒカルの言葉を確認してぱっと顔を明るくさせた。
「絶対だな! お、俺、塔矢先生に言うからな!」
「いらねえよ。……自分で伝える」
「ホントかよ? ごまかすつもりじゃねえだろうな」
「連絡先は知ってる。……自分で言うよ。約束する」
 きっとだな、絶対だぞと繰り返す石田の目には、先ほどの剣幕が削がれて嬉しさと申し訳なさがいっぱいに溢れていた。
 何故自分のために、こうまで一生懸命になれるのか――教え子の決死の覚悟を受け入れざるを得なかったヒカルは、しかし彼の大胆な行動に、胸のどこかで感謝している自分がいることに勘付いていた。
 打たないと断言した手前、――打ちたいなどと言えるきっかけをどう探せば良かったのか。
 後押しがなくては踏み出せなかった。言い訳になってくれた石田が、これほど必死でヒカルにアキラとの対局を勧めた理由は分からないが……
 ともかく、約束は交わされた。その事実が、ヒカルの心を少し軽くしてくれた。





 しばらくやり取りがなかった、それでも消すことができなかったアドレスに、たった一言届けるだけで充分だった。

『打とうぜ』

 短いメッセージを送った後、指先が碁石を挟んだ時のように痺れていることに気づいた。






こういうところをオリキャラに頼らずに
書ければ良かったのですが……難しい。
ヒカル、アキラさんのアドレスは消してませんでした。