棋院では、ギャラリーが集まって面倒なことになる。どこの碁会所を選んでもそうなるだろう。 人目を気にせず落ち着いて打てる場所――部活動が終わった後の校舎を指定したのは、好奇の目に晒されるのを避けただけが理由ではなかった気がする。 あの日のやり直しのつもりだろうかと、テーブルにひとつだけ置いた古ぼけた碁盤の木目を撫でながら、ヒカルはひっそり自嘲した。 太陽の角度が下がりつつある、日暮れの少し手前の校舎は酷く静かで厳かだった。 グラウンドから響いて来る野球部の生徒の声を耳にしながら、パイプ椅子に凭れたヒカルはゆっくりと時計を見上げる。――午後五時。あと数分で針が定刻を指すといった頃、控え目ではあるが軽快なノックの音がヒカルの顔を引き締めた。 「どうぞ」 教師らしくドアに声をかけると、躊躇いなく引き戸が開く。現れたアキラはノータイではあるがスーツを着込み、いつにも増して伸びた背筋が心地よい緊張感を伝えていた。 戸口に立ったままじっとヒカルを見るアキラと、しばし無言で睨み合う。牽制のようなものではなかった。相手の意志を確かめるような、合図にも似た眼差しが交差した。 ふと、少しだけアキラの目尻が和らいだ。ささやかな微笑を浮かべ、小さくヒカルに頭を下げる。 「呼んでくれて有難う」 改めて礼を言われると無性に恥ずかしくなり、ヒカルはアキラから顔を逸らす。そっぽを向いたまま、早く入れよとぶっきらぼうに答えた。 ところがアキラはちらりとドアの外に視線をやって、困ったように笑ってみせた。 「外にたくさんお客さんがいるようだけど……彼らはあのままでいいのかい?」 アキラの言葉に訝し気に眉を寄せたヒカルは、少し考えた後にあっと口を開けて立ち上がる。そして大股でドアに近付き、立ったままのアキラの脇から廊下に顔を出して――先程帰宅させたはずの部員たちがほぼ全員残って愛想笑いを見せている光景に、呆れて溜め息をついた。 「お前ら、帰れって言ったろ」 「だって、見たいもん!」 「そうだ、見たい!」 よくも喋ったなと、元凶である石田を見つけて睨み付ける。しかし石田は涼しい顔で、部員たちと同様に「見たい」コールにちゃっかり加わった。 弱って頭を掻くヒカルの隣で、苦笑したアキラがヒカルの様子を伺うように首を傾げる。 「ボクは構わないけれど……対局が始まってしまえば気にならなくなるし」 「……でも……」 「勿論、誰が見ていても容赦はしない。この前みたいに様子見の手なんか打たない……」 意味ありげに低くなった声色に釣られてヒカルが横目を向けると、アキラは不敵に微笑んでいた。 手は抜かない。ギャラリーがいようと手加減などせず、本気で潰しにかかる――そう言外に臭わせた自信の笑みにヒカルは軽く眉を持ち上げ、フンと鼻を鳴らした。 「……分かったよ。お前ら、静かにしてろよ」 お許しにわっと歓声が上がり、肩を竦めたヒカル、その後ろをアキラ、続いて部員たちが十数人どやどやと部室に流れ込んで来た。 テーブルの上に用意した碁盤はひとつだけ。 対面にそれぞれ腰掛けるヒカルとアキラの周りを、生徒たちがぐるりと囲む。 ――本当はギリギリまで迷っていた。 アキラと打って良いものか。石田に発破をかけられたとはいえ、この男と打ってみたいという欲だけで対局を受けるべきではなかったのではと。 十年以上も前に、自分のための力を封印した。腕だけは磨き続けたが、誰かと真剣勝負をすることはただの一度もなかった。――自らそれを禁じていた。 今、本因坊のタイトルを得たトップ棋士を呼びつけてまで、彼の希望通り対局する意味とは何なのか。そして今まで拒否し続けて来た意味は。 アキラはヒカルと打つことで、彼が盲目的に捕われ続けた謎の相手の力の程が分かって満足するだろう。 だが、ヒカルは――アキラと打つことで何かが変わるだろうか。もしくは、変わらずにいられるだろうか。 そんなことをずっと考え続けていた。 本気で打ってもいいのだろうか。 天に伺いを立てるように、宙を見上げた目を細めて―― 「ニギリはボクで?」 問いかけられ、夢から覚めたようにはっと瞬きする。とってつけたように頷くヒカルの正面で、アキラは軽く目を伏せながら碁笥に手を伸ばした。 「……ようやく、願いが叶う」 蓋を取りながら、独り言のように呟くアキラのしなやかな指先に一瞬見蕩れる。 「あの日……初めて打った時から、ずっと知りたかった。その力。隠さずに見せて欲しい」 ざら、と石の中に指を差し込み、掬い上げたアキラは視線を上げる。 勝負師の目をしていた。 思わず息を飲んだヒカルは、向かい風を受けたように頭を低くしてアキラを睨み返した。僅かに背中に震えが来る。……本因坊戦最終局のアキラの棋譜を思い出し、ぞくぞくと身体を駆け抜けた興奮がヒカルを後押しした。 あれだけの棋譜を創り出した男と、真剣勝負ができる―― きゅっと口唇を結び、ヒカルもまた碁笥に手を伸ばす。やや乱暴に蓋を開け、黒石をふたつ掴むのと、アキラが握った石を碁盤にざらりと落とすのはほぼ同時だった。 白石は偶数――ヒカルの先番。 「お願いします」 厳粛に頭を下げたアキラの対面で、ヒカルも神聖な一礼を返す。 ――悪い。本気でやらせてくれ、佐為―― 自分の中のスイッチが入る音が聞こえた。 一手目に手を伸ばした瞬間、周りの景色も余計な雑音も、全てヒカルの世界から弾き飛ばされた。 *** 音が途切れてしばらく経った。 始めは緩やかに、中盤で間を置かずに激しく、ヨセでは一手一手確かめるように響いていた碁石の音が、ヒカルとアキラのどちらの指からも放たれなくなった。 空気はピンと張り詰めたままだった。二人を見守る生徒たちも、息をすることさえ忘れたような強張った表情で、ただ碁盤の上に描かれたモノトーンの世界をじっと見つめている。 最後の一手はすでに打たれている。整地しなくとも、対局した二人にはすでに結果が分かっていた。 しかし余りに盤面が細かすぎて、二人を囲むギャラリーには勝敗の判断が出来ずに居た。徐々に広がる困惑の雰囲気を、潔いヒカルの一言がようやく打開してくれた。 「負けました」 そしてゆっくりと頭を下げる。対するアキラも恭しく頭を下げ返した。 本当は言わなくても良い言葉だった。最後まで打ち切ったのだから。結果が出ていても、自分の敗北を認めて宣言したのはヒカルのけじめだった。 口を開いて気が抜けたのか、ヒカルは粗末なパイプ椅子にやや前のめりになっていた背中をどかっと預け、両肘を天に突き出すようにして手のひらで顔を覆う。 端から見たら泣くのを堪えているように思えたかもしれない。――そうではなかった。内側で爆発しそうな感情が表情に出てしまうのを、押さえ付けるための行動だった。 誰も何も言わなかった。生徒たちは戸惑った顔を見合わせて、その場を離れることもできずに狼狽えている。 迂闊に物音を立ててはいけないような激闘の余韻の中、口唇を真一文字に結んでいたアキラが押し殺した声で呟いた。 「……素晴らしかった」 その言葉に、そこにいた全員がアキラに顔を向ける。ヒカルも、顔を覆っていた手のひらをゆっくり外し、指の隙間からアキラを見た。 普段は青白く見えるアキラの頬が、はっきりと紅潮しているのが分かった。両手で膝に爪を立て、肩に力を入れたままの格好で穴が飽くかと思うほど碁盤を見つめている。 「キミに感謝する。本気で応えてくれた。本当に……感謝する」 声を詰まらせながらもう一度頭を下げたアキラの頭頂部をぼんやり眺めながら、ヒカルは額の上で手を組んだ。何かに祈るように瞼を下ろし、そして静かに微笑する。 「……そりゃこっちの台詞だ。とんでもねえ手バシバシ打ちやがって……参ったよ。完敗だ。」 「冗談じゃない。完敗なものか……ボクはプロだ。その意味が分かっているのか」 「俺は勝つ気でやったよ。でも負けた。全力でやって負けたんだ、俺にとっちゃ完敗だ」 一言二言会話を交わしたことで身体の力も抜けたのか、ヒカルもアキラも勝負の最中に見られた引き締まった空気を少しずつ緩めて行った。丸きり音のなかった部屋に二人の声が響くことで、固まっていた生徒たちもぽつぽつと囁き合い始める。 ようやく数十人の人間が集っていた部室らしく、適度にざわついた雰囲気が戻って来た。ヒカルは腕を下ろし、死闘を見守っていた部員たちに優しく細めた目を向ける。 「立ちっぱなしで疲れただろ。遅くまで突き合わせて悪かったな、お前ら」 窓からの景色はすっかり暗くなり、壁に掛かる時計の針はもうすぐ八時を示そうとしていた。ヒカルに何やら感想をぶつけようとしていた面々は、時刻の遅さに気づいてあっと口を開ける。 立ち上がったヒカルは、教師の顔に戻ってさあさあと生徒たちを促し始めた。 「さ、お前らもう帰れ。つうか親御さんに怒られないか? 大丈夫か? 男子、なるべく女子送ってやってくれよ」 追い立てるヒカルに対し、部員たちはそれぞれ振り返り振り返りして「凄かった」「明日また並べてみせて」と自分達が見た感動を伝えて行く。名残惜しそうに振り返る彼らをやんわり受け流し、廊下で集団を見送ったヒカルは、大きな溜め息をつきながらアキラが残る部室に戻っていった。 |
どこかで何度も見たような対局っぷりです。
開始→間→決着、のパターン……