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「お前も、時間大丈夫なのか」
 今更だとは思いながら、打ったままの碁盤をまだ見つめているアキラに声をかける。
 アキラは時計を振り返りもせず、薄く笑って頷いた。
「もっとかかるかと思っていたよ。それこそ、本因坊戦の最終局並みに」
「一日で終わんねえ対局は勘弁してくれよ」
 苦笑して、再び椅子を引いたヒカルは改めて腰を下ろす。
 対局中と同じ構図で向かい合った二人は、複雑な笑みを交わした。相手の意志を汲み取ろうとして、それが正しいのかどうか分からない……そんな笑みだった。
「……満足したか?」
 ヒカルの問いかけに、アキラはすぐに口を開きかけ、ところが少し迷った素振りを見せて笑いながら首を振った。
「打ってる最中は、本当に幸せだったよ。楽しくて楽しくて、満足しかけた。でも」
「でも?」
「あれだけ打たれたら、……どうしても先を期待してしまう。キミはまだ完成されていない。今より強くなったキミと、また打ちたい」
 ヒカルは微笑んだまま眉を下げる。肯定も否定もできない、そんな顔だった。
 再戦をあれだけ渋っていたというのに、これきりだと断言できない自分にヒカルは呆れるしかなかった。照れ臭くて言葉にするつもりはないが、ヒカルにとっても非常に楽しい時間だったのだ。
 本気で打つ真剣勝負の心地よい緊張感。指導する立場ではなく、挑戦者として大きな力に立ち向かうことへの怖れと面白さ……ずっと閉じ込めていた一人の碁打ちとしての闘争心が、天を焦がすような炎となってヒカルの身体から燃え上がっていた。アキラはそれだけの力を持っていた。
 トップ棋士としてのアキラの実力はヒカルも分かっているつもりだった。その上で、勝てると見込んで向かった対局だった。そんなヒカルを飲み込む勢いで、タイトルホルダーは手を抜かずに応戦して来たのだ。
 そのことにこれほどまで悦びを覚えるだなんて、爽やかな疲れにだらりと肩を下げたヒカルは今まで知らなかった。
 だからすぐに返事ができなかった。できないまま、独り言のようにぽつりと呟く。
「厳しい手ばっか打たれたな……。上辺はボロボロだ。もうちょい食い込めると思ってたんだけどな」
「……経験の差だろう。キミの碁は素晴らしいが、駆け引きに慣れていない。……今までに本気で対局したことは?」
「……十年以上も前に、な」
「倉田さんと? それとも……」
「あれは、俺じゃない」
 以前は濁した言葉を、ヒカルははっきり告げていた。アキラも驚く様子は見せなかった。
 追求して来ないアキラを軽い上目遣いで見つめ、ヒカルは少し悪戯っぽい表情になった。
「石を置いたのは俺だけど、打ったのは俺じゃない」
 おどけるようなヒカルの口調に微笑んだアキラは、動じることなくさらりと尋ねた。
「秀策の幽霊?」
「冗談だと思ってんだろ?」
「いや。……そうでなければ納得できない。あの時のキミは、冗談を言っているような顔じゃなかった」
「『冗談だろ?』って言った癖に」
「思わず出たんだよ。許してくれ、ボクはリアリストなんだ」
 困ったように笑うアキラを見て、ヒカルは思わず吹き出す。
「リアリストが、幽霊なんて信じんのかよ」
「倉田さんとの棋譜。今の対局。同じ人間の手で打たれたものだというのに、あの棋譜の打ち手と、キミの碁は明らかに違う。紛れもない現実だよ。似てはいるが……違う」
 きっぱり断言したアキラに、ヒカルは両手を軽く上げて降参のポーズを取る。どこかほっとしたような笑顔は、何かから解放されたように穏やかだった。
「それだけで、幽霊だなんて戯言に食い付くヤツはお前くらいだよ」
「そう考えるのが一番しっくりくるんだよ。キミでありながら、キミではない……秀策のキーワードは人からもらったものだが、幽霊はキミが教えてくれた。キミの身体を借りて、秀策の幽霊が碁を打ったと考えると、あの棋譜の完成度の高さも納得できる」
「とんだリアリストだな」
 声に出して笑ったヒカルは、立ち上がって大きく背伸びをした。
 そして、観念したように肩の力を抜いて、「正確には、秀策じゃない」と呟き、懐かし気に軽く目を伏せる。
「秀策に取り憑いた幽霊だったんだ。俺は、二番目」
 ヒカルのとんでもない発言にもやはり驚かなかったアキラは、逆にヒカルを試すように軽く首を傾げて囁いた。
「それが……sai?」
 ヒカルは、今度こそ参ったと肩を竦めた。




 少年だったヒカルに取り憑いたのは、平安時代の幽霊だった。
 藤原佐為と名乗った幽霊は、当時の帝の囲碁指南役を勤めていたと語り、とにかく囲碁を打ちたいという一心で現世に留まり続けているのだと言う。
 しかしヒカルは囲碁には全く無関心で、当然ながら佐為の相手をすることなど不可能だった。碁を打ちたいとさめざめ泣く幽霊が不憫に、というよりは鬱陶しく思ったヒカルは、誰かと碁が打てる場所――いくつかの碁会所へ渋々足を運んでやった。
 佐為の言う通りに打てば必ず勝った。ヒカルは勝ち負けの判断もさっぱりだったが、相手をした大人が全員呆気に取られていたので佐為の腕は相当なのだろうと見当だけはついた。
 それどころか、徐々に天才少年だと騒がれるようになってきたヒカルは、碁会所に顔を出すのが苦痛になってきた。
 倉田との対局がとどめだった。たまたま碁会所に置かれた石が両方白石だったため、一色碁に挑んだ佐為は、やはり鮮やかに勝ちを奪ったらしい。
 勝敗など分かるはずもない真っ白な碁盤を見つめたヒカルは、周囲の興奮から一人仲間はずれになったような気がして、碁会所を飛び出した。それきり碁会所には二度と行かなかった。
 次に目をつけたのはインターネットでの対局だった。これならば子供が打っているとバレることはない――そう思って対局を重ねたが、佐為の強さが評判を呼んだらしく、次々と対局を申し込まれるようになった。
 終局後には延々と「何者なのか」とチャットで語りかけて来る、数々の対局者の相手をすることに疲れたヒカルは、とうとう自ら佐為の相手をしようと決心した。

「相手にならなかったけどな。当たり前だけどさ。それでもアイツ、嬉しそうに一から教えてくれたよ。じいちゃんに碁盤買ってもらって……アイツと打った。何十局も、何百局も……」

 佐為の指導でヒカルは囲碁の面白さに目覚めた。
 佐為は優秀な教師だった。ヒカルの力を着実に伸ばし、褒め上手でもあり、優しく、時に震えるほど厳しく、素人だったヒカルに囲碁の魅力を叩き込んでくれた。
 ところが腕が上がるにつれて、ヒカルに自我が目立ち始めた。打ちたいという気持ちが勝り、佐為のことを気遣えなくなってきた。
 中学で囲碁部に入り、自分の足で歩き始めたヒカルに対し、佐為は淋しそうに微笑んだ。

 ――私の碁が、貴方の中で生きている――

 そうして佐為は消えていった。


「随分後悔したよ。俺が打ちたがったせいだ……ってな。でもアイツ、笑ってた。俺に力を託して笑ってくれたんだ」
 ヒカルは目を細め、すっかり薄くなった人指し指の爪先を見つめながら話し続ける。
「だったら、俺もこの力を誰かに繋げないとって思ったんだ。それで、教師になった」
「……何故、教師に? 棋士になるとか、せめて普及指導員とか……もっと囲碁に関係する道があっただろう」
 途中で口を挟むことなく静かに話を聞いていたアキラだったが、思わずと言った調子で尋ねてきた。
 ヒカルは頭を掻きながら苦笑を見せる。
「なーんも知らなかったんだよ。モノを教えるなら先生だろって、単純な俺はそれしか思い付かなかった。赤点ばっかだったのにさ、ギリギリで高校入って……大学行くためにムチャクチャ勉強したんだぜ。歴史なんか全然興味なかったのに、アイツの影響で調べ始めて……」
 昔を思い出しながら感慨深気に語るヒカルが「歴史」という単語を口にした時、アキラがはっとしつつも納得した表情になった。
「それで……日本史の教師に?」
「よく覚えてんな」
「ああ。てっきり体育教師だろうと思ったから、意外で」
 ヒカルが吹き出す。確かにな、と同意して何度か頷いたヒカルは、またどこか遠い目をして真っ暗になった窓の外を見つめた。
「何とか私立の高校に赴任できたけど、囲碁部がなくてさ。自力で作ったよ。少しでもいい、俺が教えることによって囲碁の面白さに気づくヤツが増えたらって……」
「……、部活動で、子供たちに囲碁を教えることがキミの答え?」
「……ああ」
 低く答えたヒカルは窓に顔を向けたまま、背中に届くアキラの視線を感じていた。
 しばらく沈黙が流れた。決して居心地の悪い感じではなかったが、思い出話で柔らかかった空気が少しだけ張り詰めたようだった。
 気を悪くしないでほしい、と前置きをしたアキラが静かに意見する。
「それまで囲碁に興味のなかった子が、高校で部活動に囲碁を選ぶ機会は多くはないだろう。たとえ経験者が入部したとしても、その年で実力のある子なら院生になっているはずだ。キミが貢献できる範囲は、とても狭いものじゃないか……?」
 言葉を選びながら、アキラが丁寧に問いかけた内容は、ヒカルを不快にさせるものではなかった。が、分かってると言いたげに緩く口唇を噛んだヒカルは、まるで言い訳するように答える。
「それでも良かったんだよ。少しでも、囲碁が好きになってくれれば」
「本当に? キミはそれで満足できる?」
「……当たり前だろ。俺がきっかけになって、囲碁が楽しいって言ってくれたら……嬉しいし、教えて良かったって心から思ってる」
「そうじゃない。……キミ自身は、それで満足できるのか?」
 一言ずつ、区切るように問われたその言葉の意味に、ヒカルは思わず返答に詰まった。
 ゆっくりと振り向いた先で、腰掛けたままのアキラが射抜くような視線をヒカルに向けていた。





この図式もよく見るパターンですな……