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 その翌日から、アキラは忙しいスケジュールの僅かな隙間をヒカルの待ち伏せに費やし始めた。
 午前中や真っ昼間では彼にも大事な仕事があるのだから意味がない。夕方、部活動の最中から生徒たちがほとんど下校する時間内で少しでも自由な時間を手に入れたら、すかさずヒカルが勤める学校に出向き、校門に背中を預けてひたすら待つ。
 帰宅する生徒たちが振り返り、ひそひそと囁き合う。そんな好奇の視線を全く気にせず、ぴんと背筋を伸ばしたアキラは不自然なまでの潔さを見せて、堂々とヒカルを待ち構えていた。
 アキラとしては、直接学校に電話をかけたり職員室に押しかけたりするよりも、勤務時間が終わってやってくるヒカルを捕まえるほうが仕事の邪魔にならなくて良いだろうとの心遣いのつもりだった。
 がしかし、待ち伏せされている本人はそうとは受け取らなかったらしい。

 初日は囲碁部の部員の一人が申し訳なさそうにやってきた。
「あの、進藤……進藤先生から伝言があって。……「そこにいられると迷惑だから帰ってくれ」って……」
 どうやら四階の囲碁部部室から、校門に陣取るアキラの姿が丸見えだったらしい。アキラはきっぱりと返答した。
「進藤先生に伝えて欲しい。連絡先を教えてもらえたらすぐに引き取るからと。電話番号だけでいいんだ」
 その返事に部員の顔が恐怖に引き攣り、アキラから逃げ出すようにして校舎に戻っていった。
 やがて再び走って校門までやってきた部員は、先ほどよりも離れた位置から怯えたように肩を竦めて、二つ目のヒカルからの伝言を告げた。
「あの、「警察呼ぶぞ」って……言ってました」
 これにはアキラも唸らざるを得なかった。

 その日は仕方なく引き下がったものの、その翌日も指導碁前の僅かな時間を見つけてアキラは校門前で張り込みをした。
 ヒカルからの伝言を携えてやってきたのは、昨日とは違う生徒だった。
「えっと……進藤が、「頼むから帰ってくれ」って。「俺のことは諦めてくれ」って言ってます」
 すっかり誤解されていることに頭を痛めたアキラは、仕方なくショルダーバッグからスケジュール帳を取り出し、破り取ったメモ欄に自身の携帯番号とメールアドレスを走り書きした。
 それを生徒に手渡し、とにかく連絡が欲しいことを伝えて祈るようにそれから数十分校門前にいたが、ヒカルが出てくることも携帯電話が震えることもなかった。
 そうしているうちに指導碁の時間が迫り、渋々アキラは二度目の待ち伏せも断念することにした。
 こちらの連絡先を教えればいくらか警戒も解けるかと期待を抱いたが、三日過ぎてもヒカルからは何の連絡も入らない。焦れたアキラは四日目に再び校門前を占拠した。
 高校名が書かれた門に上質のスーツを着込んだ背中をつけ、腕組みをして厳しい視線で宙を睨む。遠巻きに下校していく生徒たちの目が、好奇から恐怖に変わっている自覚はアキラにもあった。
 このままだと本当に不審者として警察を呼ばれてしまうかもしれない。――構うものか、とアキラは半ば開き直っていた。
 身元は確かだし、やましい理由がある訳ではない。この学校の教師と純粋に対局したいことを告げればすぐに解放されるだろう……そんな自分勝手な自信に溢れたアキラは、ヒカルが出てくるのを待ちながら手持ち無沙汰な時間を有効活用するべく頭の中で棋譜を並べる。
 本因坊の挑戦手合い一局目は来週。本来ならば少しの時間も惜しんで囲碁の勉強に励むべきだが、どうしてもあの謎の存在が気になって仕方がない。
 プロという肩書きのない人間にあそこまで苦しめられたのは初めてだった。それもアマチュア同士で腕を磨いてきた様子も見られない、同じくらいの年の相手に。
 彼はどうやって今の棋力を身につけたのか。独学だとしたらとんでもないことになる。恐らく師事する人間がいるのだろうが、その相手は一体誰なのか。
 おまけにあれだけ打てるというのに、何故教師などに収まっているのか。プロの道を目指すことは考えなかったのだろうか。彼がもしアキラよりも年下なら、来年すぐにでもプロ試験を受けて合格するチャンスがある。彼はそういったことを考えたことはないのだろうか?
 脳裏に浮かぶ黒と白の並びは、あの日の対局だ。――ああ、もう少し早く本気になっていたら、もっと面白い模様が描けたのではないだろうか。
 こちらの全力にヒカルもまた応えてくれたのではないか。心躍る石の流れはもっともっと突き詰めていけるはずだ。再戦もしたいけれど検討もしたい。そのためにはゆっくりと話す時間が欲しい。
 あまりにも拒否されるようなら、申し訳ないとは思うがやはり校長に話を通したほうがいいだろうか。怪しい用件ではないと分かってもらえればこんな苦労はないだろうに、彼が勝手に勘違いするものだから……
 はあ、と自分のため息が届いた耳に、どかどかと地面を蹴る騒々しい足音が聞こえて来た。思わず校門に凭れ切っていた背中を浮かし、振り向いたアキラの目に、こちらに向かって走ってくるヒカルの姿が飛び込んできた。
 その様だけ見れば囲碁部というより陸上部の顧問のようだ――アキラが間の抜けたことを考えていると、両目を吊り上げて鬼のような形相をしたヒカルが数メートル手前でざっと立ち止まり、叫んだ。
「帰れっつってんだろ! 何なんだお前は! マジで警察呼ぶぞ!」
 あんまりな言われようにカチンときたアキラは、同じ調子で言い返す。
「キミが悪いんだろう! 連絡先を教えてくれと言うのに教えてくれないし、こっちが伝えた連絡先には音沙汰がないし! 他にキミとコンタクトをとれる場所が分からないからここで待ってるんじゃないか!」
「何でお前みたいなストーカーに連絡先教えないとなんねーんだよ! 冗談じゃねえよ!」
「なんだと!? 誰がストーカーだ!」
「お前だろ!」
 カッと頭に血が昇ったアキラが、不名誉な称号を払拭しようと大きく息を吸い込んだ時、胸ポケットに入れていた携帯電話がうるさく震えだした。
 無視しようかと思ったが、仕事の電話ではまずい。アキラはヒカルがいなくならないように横目で睨みつけながら、相手の確認もせずに携帯を耳に当てた。
「もしもし」
『アキラか? 俺だ』
 聞き慣れた低い声を耳にして、相手には届かないようアキラは小さく舌打ちする。
『ここ数日、注意力散漫だって芦原が心配していたぞ。大丈夫なのか? 来週、楽しませてもらえるんだろうな?』
 過分に嫌味を含んだ挑発に対し、アキラはヒカルを睨んだまま吐き捨てた。
「ご心配には及びません。緒方さんこそ弟弟子に盤外戦を仕掛けるより、待ちぼうけの女性たちに連絡したほうがいいんじゃないですか。この前派手に立ち回りされたとか。芦原さんから聞きましたよ」
 受話器から、隠し切れなかったか隠す気がなかったのか、チッと大きな舌打ちが聞こえて来た。
「お互いベストを尽くしましょう。来週楽しみにしていますから」
『……望むところだ。お前に立場ってものを思い知らせてやる』
「その台詞をそっくりお返ししますよ」
 フン、と鼻を鳴らして通話が切れると、アキラはヒカルから目を離さずに携帯の電源を切り、素早く胸ポケットに押しこめた。そして先ほど怒鳴りかけていた言葉を続けようと口を開けかけた時、険しい顔で今のやりとりをずっと見ていたヒカルがおもむろに告げた。
「……あんた。来週、大事な対局あんだろ。こんなことしてる暇あんのかよ」
 痛いところを突かれてアキラはぐっと口唇を噛む。
「……暇潰しにキミを待ち伏せしているわけじゃない」
「だったらさっさと帰れよ。暇ねえんだろ。俺だってあんたくらいのプロ棋士がどんだけ忙しいか知ってるよ。俺になんか構うなよ」
「キミでなければならないんだ。ボクはただ」
「あ、あんたみたいなイイ男なら、他に絶対イイヤツ見つかるから! 俺、マジでそういうのダメだから! だからもう勘弁してくれ、頼むからもうここに来ないでくれ!」
 若干仰け反り気味に言い放ったヒカルに、アキラは極限まで顔を顰めてみせた。
「……誰が「キミ」個人に興味があると言った! ボクは、もう一度キミと対局したいだけだっ!!」
 その大声はグラウンドを走り抜け、校舎の隅々にまで響き渡るようだった……と下校途中の生徒たちの間で後々まで語られた。





ストーカー健在です。
潔いからタチが悪いのだろうなあ……