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「進藤ー、ホモに告られたんだって〜?」
「なんかおかっぱの人にストーカーされてるってマジー?」
 廊下で生徒とすれ違う度に同じような台詞でからかわれ、すっかり辟易したヒカルは、昼の休み時間に誰にも邪魔されない屋上を選んだ。
 普段は安全上の理由から屋上には鍵がかかっている。勝手に出入りできるのは、鍵の保管場所を知っている用務員と教師たちだけだ。
 晴天の下、暖かそうなコンクリートの上にごろんと寝そべり、頭の下に組んだ腕を敷いて雲の流れを追いかける。
 静かな時間を手に入れると、自然と口からため息が漏れた。
「……なんなんだ、アイツは」
 立っているだけで目立つ男が連日校門前で待ち構えているものだから、すっかり学校中に噂が広まってしまった。昨日、我慢しきれなくなって自分が飛び出したのがとどめだ。あの怒号の交戦を盛大な告白だと受け取るのだから、十代の思考は恐ろしい。
 とはいえ、自分も最初は勘違いしていたのだ。あまりに脈絡なくこちらのプライベートを探ってくるものだから、もしやこの男はその道を行く人なのだろうかとしっかり怯んでしまった。
「誤解されるような行動を取るなっつーの」
 ストーカーよろしく待ち伏せされていたのだから、こちらが怖がるのも無理はないと思うのだが……彼はそこまで頭が回らなかったらしい。
『キミと再戦したいんだ。今度は……お互いに本気で』
 きっぱりと告げたあの男の目は勝負師のそれだった。
『あの終わり方はボクは納得できない。理由は……キミなら分かるだろう。連絡先を教えてもらえないのなら、キミから連絡してほしい。いつでも構わない。待っているから』
 そこまでがタイムリミットだったようで、苦々しく腕時計を睨んだアキラは律儀に一礼してからその場を立ち去った。
 呆然と取り残され、まあ誤解は解けたものの、ハイそうですかと連絡を取る気にはなれなかった。
「……やっぱ、打ったのは失敗だったな」
 悠然と空を横切る雲の切れ間から太陽が容赦なくヒカルを見下ろし、眩しさに目を細める。
 「対局」なんて久しぶりだった。
 もう長いこと、学生相手に指導碁しか打っていない。それはそれで有意義な日常だけれど、あんな力を見せ付けられてしまっては指が疼いたって仕方がない。
 仕掛けられた時にムキにならなければよかった。いや、それ以前にもっと気づかれないように打つべきだった――後悔しかけて、ヒカルは目を閉じる。
 そういうレベルの問題ではない。あれほどの腕を持つ男だ、どれほどヒカルがごまかそうと潜在的な力を嗅ぎ分けるに違いない。
 だから、やはり打つべきではなかったのだ。打てば暴かれる。日本の棋界でトップと謳われる棋士と打つだなんて、そんな名誉そうそう転がっているものではないだろうに……
「……なんだって、囲碁部なんかに顔出すかなあ……」
 今回の話は、部員たちにとってもヒカルにとっても半信半疑のビッグニュースだった。
 生徒の父親の口利きで招くことになった塔矢二冠。部員たちは当然、ヒカルだって名前くらい知っている。
 若くて見目が良く、おまけにずば抜けた強さを持つ彼は囲碁部の間でもちょっとしたアイドル的存在だ。
 そんな雲の上の人が下界に下りてくるというのだから、部員たちはすっかり興奮してしまった。
 ヒカルとしても、断る理由はなかった。間近でプロの指導を目にすることができるのは、学生だけでなく自分にとってもいい経験になるだろうと思った。
 対局することになったのは完全に想定外だった。忙しいプロが指導碁の後に時間のかかる対局を引き受けてくれるだなんて考えもしなかったし、彼だってそんな気は恐らくなかっただろう。
 はしゃぐ生徒たちの顔を立ててくれたのだと思うと有難い。しかし彼が了承したことにより、ヒカルが断るという選択は消えたも同然だった。
 置石はなしで、と申し出たのはせめてもの足掻きだ。こちらにハンデなどもらってしまったら、……うまく負けることは正直難しい。
 ヒカルは瞼の向こうの明るさに影が落ちたのを感じて、ゆっくりと目を開く。雲の薄い部分から太陽の光が僅かに零れている。
 その微かな光に向かって、ヒカルは開いた右手を掲げた。手のひらを空に。見上げた人差し指の爪の先はすっかり磨り減って、くすんで薄っぺらくなっている。
 ―― 一日だって欠かしたことはない。十年、毎日打ち続けてきた……一人で。
 もしもあの対局、最初から全力で打っていたとしたら。
 彼もまた、様子見の緩い手など打たずに本気でヒカルを迎え撃ったとしたら。
 ――だとしても、負けない自信はあった――
 空に掲げた手のひらを握り締め、ゆるゆると拳を下ろして胸に当てた。思わず燃え上がりそうになった炎を宥めるように。
 ――よそう。俺の力はそのためにあるんじゃない……
 細く息をつき再び目を閉じると、雲の支配下から逃れた太陽の光が瞼を通して射し込んでくる。 
 真っ赤に染まった暗い世界で、ヒカルは風に流されていくチャイムの音をぼんやりと聴いていた。




 ***




 さよならー、と邪気のない声をかけられる度に反射的に笑顔を向け、気ぃつけて帰れよ〜といつもの返事で見送る。
 普段と変わらない放課後の校舎は騒々しく、一日が終わった達成感に浸る余韻もない。もっともこれから部活があるのだから、まだ今日という日が終わりを迎えたわけではないのだが。
 職員室に足を向けていたヒカルは、ホームルームで回収したプリント類を自分の机に置いてから部室に顔を出す予定だった。いや、その前に今日のレースの結果を確かめてから……
「進藤ー」
 上の空で歩いていると、後ろから生徒に声をかけられた。滅多に先生などと呼ばれることのないヒカルが慣れた様子で振り向くと、ちょくちょくヒカルに話しかけてくる二年生の女生徒が含み笑いを見せて立っていた。
「なんだよ」
 そのニヤニヤした口元が気になってヒカルが尋ねると、女生徒は少しだけ声を潜めて囁いた。
「あのおかっぱの人、また来てるよ。校門とこ。いい加減オッケーしちゃえば?」
「!!」
 びしっと顔を引き攣らせたヒカルは、女生徒を押しのけて正面玄関に向かって駆け出した。
 ――あの野郎、一週間が限度かよ。
 「連絡してくれ」と言われてから七日、部員経由で渡された連絡先は一応持ってはいたが、関わるまいと思ってそのままにしておいた。忙しい男だろうから、いずれ忘れてくれるかと高を括っていたのは間違いだったようだ。
 あれだけ連日張り込まれていたのだから、囲碁部以外の生徒たちにもすっかりアキラは有名人だ。ヒカル自身も勘違いしていたのだから文句は言えないが、噂好きな生徒たちにはアキラがヒカルに一目惚れして追いかけている、と周知されているらしい。
 おかげでアキラが校門に待ち伏せを始めた日以来、あらゆる生徒から夜道に気をつけろだのどっちが上だの本作っていいですかだの鬱陶しいからかいを受け続けていたのだ。何も知らない生徒たちはまだいい。囲碁部の部員たちなんて、可哀想に尊敬する棋士がホモだったと誤解してショックを受けている。
 芸能人ではないから一般人の認知度はそれほどでもないとはいえ、時折雑誌などにも取り上げられているのだから少しは考えて行動して欲しい。彼の立場を思いやって警察沙汰にはしなかったが、あれがただの凡人ならとっくに連行してもらっているところだ。
 いい加減、諦めてもらわなければ……ヒカルは口唇を噛みながら全速力で校舎の外に飛び出した。
 ――そりゃ、認めてもらったのは嬉しいけどさ――
 顔を歪めるのはその一瞬だけに留めた。





この話、恐らくOne more time〜のポジティブヒカル版です。
ちょいちょい被っておりますが素敵なスルーを希望します。