「おい!」 荒い息で声をかけると、一週間前と同じように校門に背をつけて佇んでいた男が悠然と振り向く。ヒカルの姿を認めてどこかほっとしたような表情になった。 対して不機嫌を丸出しにしたヒカルは、ずかずかと大股でアキラに近づいていく。人二人分ほど手前で立ち止まり、両腰に手を当てて凄んでみせた。 「ここには来んな! 迷惑なんだよ。不審者以外何者でもねーだろが!」 ヒカルの怒声にアキラは引く素振りも見せず、それどころか胸を張って言い返してくる。 「キミが連絡をくれないからだ。電話番号は渡しただろう? ボクはずっと待ってたんだ。ここに来るしかキミとコンタクトをとれないんだから仕方がないだろう!」 開き直った男はタチが悪い。ヒカルはアキラの勝手な言い分にげんなりと肩を落としたが、軽く首を横に振って目元を引き締めた。 「……あんた、こんなことしてる場合じゃないだろう。この前……落としたんだろ」 低く告げると、アキラがぐっと声を詰まらせた。 一瞬顔色が青くなったが、一度目線を下に落として気持ちを切り替えたのか、きっと顎を上げたアキラはまたいつもの凛とした表情になっていた。 「それとこれとは関係ない。ボクの力が足りなかっただけだ」 「自信満々だったじゃねーか。棋譜見たぜ。終始ばらついて終わっちまったな」 「たまたま、だ。次は勝つ」 「だったら、こんなことしてねえで勝負に集中しろよ」 アキラはぎゅっと口唇を結んだが、一歩も引く気はなさそうなのがその目つきから読み取れた。 ヒカルは苦々しく眉を寄せる。――三日前に行われた本因坊挑戦手合いの第一局、挑戦者であるアキラは現本因坊の緒方相手に中押し負けを喫していた。 ついこの前指導を受けた棋士の敗北に囲碁部員は落胆し、女子部員からは何故かヒカルのせいだなどと理不尽に責められ、ヒカルとしても気分が良くなかったのだ。 仮にもプロが、しがない高校囲碁部の顧問から連絡が来なかっただけで対局に集中できなかっただなんて、あまりに情けなくてそうとは信じたくない。アキラ自身の不調もあったかもしれない。 しかしアキラの棋譜も緒方の棋譜も見たことがあるヒカルは、今回の本因坊戦はアキラに分があるのではと踏んでいた。そのアキラが終始ペースを奪えずに中押しで負けたとなると、もしや自分のことが何らかのきっかけになったのではと、しなくてもいい心配に頭を悩ませていたのは事実だ。 「あんたがしっかりしてくれないと、俺のせいで調子が出なかったんだってガキどもに怒られんだよ。……気ぃ引き締めていけよ。プロだろ。俺みたいな素人に構ってる余裕なんかないはずだ」 「キミは素人じゃない」 せっかくの忠告部分を全て無視して、おかしなところにだけ食いついてくる。ヒカルは分かりやすく舌打ちした。 「囲碁部の連中に教えてやれるくらいの棋力なら持ってるよ。だけどあんたが相手にするほどのもんじゃない」 「嘘だ。キミの力は部活動の顧問レベルを遥かに超えている……こんなところに埋もれているのが信じられないくらいだ。頼むから、もう一度ボクと打ってくれ。本気でやり合いたいんだ」 「本気になる相手が違う」 「違わない。キミだ」 真っ直ぐな目に射抜かれ、怯んだのはヒカルのほうだった。 なんの迷いもない、見開いた目の中に捕らえた姿を決して離すまいとする強烈な意思がぶつかってくる。 どれだけ説得しようと、たとえ脅しても、アキラは絶対に引かない。そう確信したヒカルは、困ったように大きなため息をつき、その顔を隠すようにぐしゃっと前髪を握り潰した。 「……、分かった、連絡してやる。後で絶対に連絡するから。だからもう帰ってくれ。それでもうここには来ないでくれ」 はっとしたアキラの瞳に光が射す。 「本当に? 絶対だな?」 「……ああ、約束する。ちゃんと連絡するから……」 「――分かった、信用する。その代わり、連絡がなければまたここに来るからな」 強い口調で宣言したアキラに、ヒカルは黙って頷く。 しっかり顎を落としたヒカルの首の動きをじっと見ていたアキラもまた満足したのか頷いて、それから丁寧に一礼を見せてからくるりとヒカルに背中を向けた。 どこかでタクシーでも拾うつもりか、ぴんと背筋を伸ばして学校から離れていく後姿は実に凛々しい。 しかしその凛々しさに当然見惚れるようなことはなかったヒカルは、もう一度大きなため息をついてがっくり肩を落とした。 古ぼけたアパートに帰り着き、スイッチを入れてから数秒待たないと明かりのつかない部屋に入ったヒカルは、テーブルに置きっぱなしだったメモ帳の切れ端をひょいと拾い上げて目を細めた。 つい昨日、傍に置いたままカップラーメンを食べたので汁が飛び散って汚れた紙切れ。書いてあるのは電話番号とメールアドレス。 軽く上目遣いに少し迷って、ヒカルは気乗りしない様子で自分の携帯電話を取り出した。 荷物を下ろすと同時にどかっとその場に腰を下ろす。ワンルームの狭い部屋は雑然として、脱ぎ捨てた服や雑誌や競馬新聞がそこら中に散らばっていた。 あぐらを掻いて左手を膝に置き、右手で携帯電話を操作する。アルファベットを打ち込んでいく……長くも短くもないメールアドレスを宛先に打った後、サブジェクトもつけずに本文を打ち込み始めた。 『進藤です。とりあえずこれがメアドだから。マジでもう学校には来ないでくれ』 素っ気なくそれだけ打ったヒカルは、ろくに中身の確認もせずにえいっと送信ボタンを押した。送信完了画面を見下ろし、放り投げるように携帯から手を放す。脱ぎっぱなしの服の上に落ちた携帯電話は、ぼすんと服の皺に紛れた。 電話して直接話す気にはなれなかった。自分は少しも間違っていないと主張しているかのような声を聞かされ続けたら、言いたくないことまで白状させられそうで面倒だったのだ。 メールアドレスならいつでも変更可能だし、時間を問わない。奇妙なメル友が出来たと思うことにするか、とヒカルがささやかな仕事を終えたとばかりに立ち上がろうとした時、服に飲み込まれた携帯電話が軽快な音を立てた。 ぎょっとして振り返り、慌てて拾い上げた携帯電話にはメールの着信一件。 早すぎだろ、と呟いたヒカルが恐々中を覗いてみると、案の定差出人はアキラだった。 『連絡ありがとう。早速だけれど、都合の良い日はないだろうか。是非もう一度対局したい。』 ボクは来週なら何日と何日の何時からなら、何曜日はこの時間が、再来週の予定は…… ずらずらとスケジュールの穴が並んだ画面を見てヒカルは顔を顰めた。かなり自己中心的な男のようだ。 ヒカルはそれらの日程が自分の都合に合うかどうかも確認せず、苛立たしげに返信を打った。 『こっちもそこそこ忙しいし、あんただってそうだろう。俺なんかとの対局に時間取られてまた負けたりしたらシャレにならないぞ』 対局する気はない、と臭わせたつもりだったのだが、 『では次の一局で勝ったら相手をしてもらえるのか』 ……相手はなかなか頭が悪かった。 『そうじゃねえって。プロ棋士同士で打つほうがよっぽど有意義だろ。俺のことはもう忘れろ』 『忘れられない。もう一度だけでいい。』 『ダメ。忘れろ』 なんだか本当に別れ話が縺れているようになってきたメールのやり取りに、心底うんざりしたヒカルは頭をがりがりと掻き毟った。 全く話が通じないこの男に諦めてもらうには、一体どうしたら良いのだろう。しつこく返信を送ってくるアキラがあまりに鬱陶しくなり、ヒカルはとうとうこんな返事を送ってしまった。 『分かった、じゃあお前が本因坊取ったら考えてやるから。だから余計なこと考えないで、棋戦に集中しろ』 返事はすぐに返ってきた。 『本当だな。必ず本因坊は獲る。一番にキミに連絡する』 渋く歪めた表情で文字を追ったヒカルは、そのまま二つ折りの携帯電話を閉じて再び服の上に放り投げた。 ――俺は「考えてやる」って言ったんだ。打ってやるとは言ってねえからな―― そう心の中で屁理屈を呟きながら、壁に無造作にぶら下げていた一年分のカレンダーをぼんやり見上げた。 つい数日前に第一局が終わった本因坊挑戦手合い。今月中に二局目が行われ、最終局までもつれ込んだとしても――八月には結果が出る。 アキラの自信はハッタリではない。緒方に競り勝つ力と勢いがあることは、彼らの棋譜を見てきたヒカルもよく知っていた。 だからこそ、こんなつまらないことで時間を取られたりしないで、大事な対局に集中して欲しいという気持ちが強かった。 ……仮にも本因坊だ。半端な気持ちで向かってもらっちゃ困るんだよ…… カレンダーを睨む目を切なげに細めたヒカルは、そのまま軽く目を伏せて立ち上がり、気分を切り替えるために大きく両手を広げて背伸びをした。 |
変なメル友ができました……