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 帰宅してすぐメールのやり取りをしたせいですっかり調子が狂ってしまった。
 腹減った、と呟いて何か口にしようと冷蔵庫を物色する。大学時代から自炊してはいるが、料理をするのは週末に気が向いた時くらいで、普段はもっぱらレトルトやインスタントに頼っていた。
 今日もいつものように温めた冷凍食品とビールを用意したヒカルは、BGM代わりにつけたテレビのチャンネルを適当に変えながら黙々と腹を満たしていると、放置していた携帯電話がまた音を立てた。
 冷凍のチャーハンが喉に詰まって慌ててビールで流し込み、どんどん胸を叩きながらもヒカルは乱雑に携帯電話を掴んだ。
「ったく、なんだってんだよ!」
 咽せながら悪態をついたヒカルが画面を開くと、やはりアキラからの着信メールだった。

『すまない、キミの年齢を聞いてもいいだろうか。ボクは二十五だが、せめてそれより上か下かだけでも』

 ヒカルは奇妙に眉を寄せ、どう返信したものか首を捻る。
 まあ、年くらい教えても問題ないかと「俺も二十五だよ」と律儀に返信してやると、少し間を置いて今度はこんな質問が返ってきた。

『誕生月は?』

 これにはヒカルも背中に寒いものを感じてしまった。
 やはりそっちの気があるのだろうかと、しばらく返信しないでいると、再び携帯にメールが届く。

『不審に思ったのならすまない。変な意図がある訳じゃない。ボクが聞きたいのは、来年の四月はキミが二十五歳なのか二十六歳なのかということだ。それだけ教えて欲しい』

「……なんだ、これ」
 アキラからのおかしなメールに首を傾げ、ヒカルは数えるまでもない来年の四月の自分の年を思い浮かべる。
 九月生まれのヒカルは、今年が半分以上終わった秋の入口に二十六歳になる。したがってアキラが尋ねている来年の四月は二十六歳となる訳だが、それを知ってどうするというのか。
 また放置していたら続々メールが届きそうなので、渋々ヒカルは返信を打った。

『来年の四月は二十六になってるよ。それがどうしたんだよ』

 返事が来るまでやや長めの間があった。
 余計な質問ばかり反応が早くて、こちらが尋ねた途端に返信がやむとはどういう了見だとヒカルが口を尖らせると、その様子を見ていたかのようにメールが届く。
 なんだか気恥ずかしくなりながらもヒカルが開いたメールの中身は突拍子もないものだった。

『来年、プロ試験を受けてみないか』




 ――とんでもない男に見込まれてしまった。

 ヒカルは目を擦りながらその日の授業を適当にこなし、生徒の野次の中大あくびをしつつ一日を終えて、部員たちが待つ囲碁部部室へ足を運ぶ。
 夕べは随分遅くまでアキラとメールのやり取りをするハメになった。あのしつこさは尋常じゃない。たった一晩でずっしりメールを受け取ってしまった携帯電話が、今度はいつ震えるのか怯えるほどだ。
 アキラの言い分はこうだった。――プロ試験の受験資格は、四月時点で二十六歳以下の男女。来年を逃せばプロ試験を受けるチャンスがなくなる、だから受けろ――
 そう言われて、分かりましたと頷く理由などあるはずがない。第一、自分は教師としてすでに三年以上も働いているのだ。そう言い返したら、教師は辞めてプロになれと寝ぼけた返事を寄越してくる。
 冗談じゃないと何度断っても、アキラはすんなり引き下がらなかった。対局したいというのが治まったらプロになれだなんて、話が飛躍するにも程がある。
 ヒカルは何度も返事を打った。思えば、電源を切って無視してしまえば良いだけのことだったのに、何故かムキになって何度も何度も同じ事をアキラに説明した。

『俺は教師としてあいつらに碁を教えるので満足してるんだ。プロになって戦いたいわけじゃない』

 何だかそれは自分に言い聞かせている言葉にも感じられて――遠い昔に痛めた胸がちくんと疼いた。
 部室の前、ヒカルは扉に手をかけようとして動きを止める。
 この向こうにいるのは、プロの卵でもなんでもない子供たち。だけど囲碁を楽しむ心はプロにも負けない、純粋ないい生徒たちだ。
 彼らのような子に囲碁の面白さを伝える。そのために苦労して教職についたのだ。この道は自分で選んだ。後悔はしていない。
 たとえ本気の対局がこの先一生打てなくても。
 きっと顎を上げたヒカルは、扉に手をかけてがらりと一気に開け放つ。和やかな空気に迎えられ、友達同士のような会話に顔を綻ばせながら、碁石を持つ指先には全神経を集中させた。




 ***




「お疲れですか、塔矢先生」
 心配そうに気遣われ、アキラは慌てて背筋を伸ばして笑顔を取り繕った。
 つい、気を緩めて小さくあくびをしてしまった。普段隙など見せないアキラが僅かとはいえ眠そうにしているのを見て、棋院の職員も驚いたのだろう。
「いえ、……夕べ少し遅かったもので」
「お忙しいですもんねえ。棋戦もびっしりだし、たまにはお身体休めたほうが良いですよ」
「ありがとうございます」
 なんとか苦笑いでごまかして、必要な書類を受け取って用事を済ませた後、事務局を出たアキラはふっと小さく息をついた。
 遅くまで、というのは本当だが、仕事のせいではない。我ながらくだらないメールの応酬にムキになって、つい真夜中まで熱中してしまったのだ。
 ヒカルから連絡が来た時、事実待ち構えていたアキラは携帯電話に飛び付いた。対局の申し込みは相変わらずの反応だったが、多少なりとも約束できたのだからアキラとしては満足だった。
 集中しろ、というのは実は今のアキラには耳の痛い話だった。
 三日前の本因坊戦第一局、調子が出なかった理由にヒカルの存在が全く関係ないかと言うと……決してそんなことはないという、アキラ自身も自覚があった。
 あれから何度もヒカルとの対局を並べ、あれこれ最善の道を考えてみるものの、相手のいない検討にはどうしても行き詰まりが見えてくる。あの一局だけでは、彼の癖も戦法もはっきりとは分からない。
 アキラが変えた道筋の続きを、ヒカルならどんなふうに紡ぐか――想像すると胸が震え、そのくせ本人がいないもどかしさに歯噛みして、精神が散漫気味だったことは否めない。
 しかしそれをヒカルのせいにするわけにはいかなかった。プロとして恥ずかしい結果を残したとしたら自分の責任で、そのことで彼に負い目を感じられるのも困る。
 だから、アキラにとっては好都合の提案でもあったのだ。本因坊を取れば、ヒカルとまた対局できるかもしれない。
 由緒あるタイトルを疎かに考えているつもりはないが、すでにアキラの中ではタイトルもヒカルとの対局も同じだけ価値あるものになっていた。
 勝負の世界に生きる棋士としての直感だった。
 彼は本物だ、と。

 一通りのやりとりを終えた後、アキラははたと気付いた。
 あれだけの腕があればすぐにでもプロとして通用する。もう応募が間に合わないが、来年どころか今年の試験だって問題ないはずだ。彼の年齢が規定の二十六歳以下であればの話だが……
 そして慌ててヒカルの年を尋ねたのだ。運良く資格内の年だったヒカルに勢いそのままプロ試験の受験を提案したアキラだったが、にべもなく断られてしまった。
 一晩経って落ち着いた今の頭で考えれば、確かに自分の言い分はムチャクチャだ。教師など辞めてしまえは言い過ぎだった。ろくに顔も合わせていない相手なのに、何故か彼のことになるとすぐカッとなってしまう。
 しかし、埋もれさせるには勿体ない力だった。ヒカルと公式戦で戦えたら――その時の緊張感を想像し、心地よさに身体が震える。
 何故だろう、と。
 棋会に強い棋士がいないわけではない。自分が未熟であることを思い知らされる相手は一人や二人じゃない。
 それでもヒカルとの対局は何か違ったのだ。上に立つものを追う気分ではない。下から来るものを迎え撃つのとも違う。
 この不自然な高揚感は何なのかと。
 できることなら、必死で掴んだヒカルと繋がる頼りない糸の先端を、放すことなくこの手に縫い付けてしまいたいと思うほど。





懺悔ふたつめ。
「採用時・平成20年4月1日現在、23歳未満の男女で心身健全な方」
棋士受験資格があるのは23歳未満なのです……。
平成19年度は26歳未満だったのですが、それでもギリでアウト。
というわけで、この世界の棋士受験資格は27歳未満でお願いします!<無茶苦茶