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 それにしても、夕べのヒカルは意外に遅くまで付き合ってくれた。この点はアキラも反省しなければならなかった。
 教師である彼の朝は早いだろう。自分でさえ眠気を感じるのだから、ヒカルもまた起きるのが辛かったのではないか。
 できればその辺りのお詫びも含めてまたメールを送りたいのだが、何と送ったものか考え込む。
 またプロ試験の話を持ち掛ければ、昨日のような忙しない応酬になってしまうかもしれない。対局の約束もあまりしつこくすると逆効果になるかもしれないし……
 携帯片手に難しい顔をしていると、誰かに肩を叩かれた。振り向けば兄弟子の見慣れた笑顔があった。
「芦原さん」
「よーアキラ、久しぶり。何こんなとこに突っ立ってんの?」
 悪気なく尋ねてくる芦原の言葉で、アキラはようやく自分が棋院の出入り口の一歩手前、ドアのど真ん中で立ち止まっていることに気がついた。先ほどからやたらと風で髪が揺れると思ったら、中途半端な位置にいるアキラを避けながら、何度か人が出入りしていたためだった。
 アキラは慌てて脇に避け、見つめていた携帯電話をそそくさとポケットにしまった。
「ちょっとボーっとして」
 作り笑いでごまかしたが、にこやかな笑顔を崩さない芦原は何の遠慮もなく告げた。
「携帯睨んで何悩んでんの? 誰かからの電話待ち? それともかけようか迷ってる? メールかな? 彼女と喧嘩でもしたか? ってお前彼女いないもんね! 友達もろくにいないし、さてはそのささやかな友達に何かやらかしてどうやって謝ろうか考えてたな?」
 顔は笑っているのにべらべらと動く口から出てきたものには棘がびっしり刺さっていた。しっかりダメージを食らいながらも、芦原に悪気はないと信じたいアキラは何とか引き攣った笑顔で持ち堪える。
 酷い言われようだが、芦原の推理はあながち間違いではない。もし夕べの長いメールのせいで、ヒカルの中でのアキラの印象が悪くなっていたとしたら、できれば改善しておきたい。
「まあ、近いところです」
 アキラが白状すると芦原はやたらと嬉しそうな顔になった。幼少から付き合いのある兄弟子だが、他人のプライベートに顔を突っ込むのが大好きなのだ。二十年近く傍にいるアキラはそんな芦原の不躾さに慣れ切ってしまっていた。
「よし、まず何やらかしたんだ?」
 芦原はアキラから相談を受けたと曲解したらしく、アキラの腕を取っていそいそとロビーの端まで移動する。アキラも特に止める気はなかったので、彼のおせっかいに合わせてやった。
「ちょっとメールで自分の意見を押し付けすぎてしまって。朝の早い仕事をしている人なのに、遅い時間までやり取りしてしまったんです」
「あーもうお前頭固いもんね! 押し付けは良くないよ〜いろんな考えの人いるんだからさ。それにあんまりしつこいと嫌われるよ!」
「……ですよね」
 芦原の言うことはもっともだ。ただ、そこまではアキラだって言われなくても分かっている。
「それで、どうやってフォローしようか悩んでたんだな?」
 嬉々として結論を出してくれた芦原に、苦笑いで応えてみせた。芦原はどんと胸を叩き、「そういう時は話題を変えるんだよ!」と結論を出した。
「話題を変える?」
「ああ。お前、意見ごり押ししたんだろ? 相手はもうその話は聞きたくないって思ってるかもよ。だからここは全く違う話題で相手を喜ばせて、気分転換させるんだよ!」
「喜ばせてって……どうやって」
「そりゃ、相手の好きそうな話とか興味ありそうな話題を振ってやりゃいいんじゃないか?」
「興味のありそうな話題……」
 アキラは眉を寄せ、顎を掴んで天井を睨む。
 芦原の言うことも一理あるかもしれない――頷いたアキラは、芦原に軽く頭を下げてみせた。
「分かりました。そのセンで行きたいと思います」
「うん、頑張れ! あんまりウザくすんなよ! ウザいのは髪型だけで充分だからな! アハハ!」
「……ありがとうございます」
 本当に悪意がないのか怪しいところだが、笑顔だけは絶やさない芦原に手を振って、アキラは棋院を後にした。
 相手が喜びそうな話、というのはともかく、話題転換はいい方法かもしれない。何しろ、昨夜は本当に「対局してくれ」「プロになれ」としかやり取りしなかったのだから。
 さて、どんなメールを送ろうか。帰る道すがら、アキラはあれこれと文面を考えていた。



『昨日は遅くまですまなかった。授業に支障はなかっただろうか? ちなみにキミの担当教科は?』

 帰宅するなり、アキラは頭の中で散々推敲した文章をメールに打ち込んでヒカルに送信した。
 簡単ではあるが謝罪の言葉を添え、そして囲碁から話題を離した。思えばヒカルと顔を合わせたのはたった数回で、彼のこともろくに知らない。これ幸いとばかりに、さり気なさを装ってヒカルのことを調査し始めたアキラだった。
 メールに気づいていないのか、昨日のように打ってすぐ返事が来ることはなかった。三十分以上も経過した頃、ようやく携帯電話が震えてアキラはどきっと胸を揺らす。
 恐る恐る取り上げた携帯電話の画面には、ヒカルからの返信が届いていた。

『眠いのは毎度のことだから。教科は日本史』

 意外な答えにアキラは目を丸くする。てっきり体育教師あたりだろうと思っていたため、彼がややこしい日本の歴史を教えている姿はすんなりイメージできなかった。
 それでもきちんと返事をくれたことが嬉しくて、アキラはほっとしながら返信を送る。

『そうなんだ。ボクも中学の頃歴史の授業は好きだった』

『高校は?』

『行っていない。中学でプロになったから』

 送った後で、しまったとアキラは携帯電話を握り締めた。
 せっかく囲碁から離れた話題だったのに、自ら囲碁に持っていくとは何という失態。
 また返事が来なくなるかも、と恐れていたが、それは杞憂に終わった。

『ガキの頃から囲碁やってんだもんな。親父さんも凄いし人だし、ずっと囲碁漬けならプロも当たり前だったんだろうな』

 それほど間もなく届いたヒカルからのメールに、きょとんとしながらもアキラは安堵の息をつく。
 メールの言葉は昔から何度となく言われ続けてきたものと同じだった。――さすが塔矢名人のお子さんだ――自分が二世であることを強調されているようで以前は反発したものだが、恐らくヒカルは嫌味でも何でもなくこのメッセージを送ってくれたと分かったアキラは、特に不快感を感じなかった。
 ひょっとしたら、頭の中にあの砕けた口調で再生されたからかもしれない。まだ数度しか顔を合わせていない相手に向かって酷く乱雑な言葉を使う、あの型破りな教師。
 それが不愉快でなく親しみを持ってしまうだなんて、すっかりあの不思議な棋力に魅入られてしまったのだろうか……アキラは苦笑いして返信を打ち始めた。

『楽な道ではなかったけどね。今はもう囲碁のない人生は考えられないから…キミも囲碁歴は長いんだろう?』

 思い切って囲碁の話題でヒカルに質問をしてみた。
 ひょっとしたら返事が来なくなってしまうかもしれないと危惧したが、先ほどよりは少し間が空いたものの、メールは無事に返ってきた。

『12、3年ってとこかな。たぶんお前の半分くらいだ』

 アキラはすばやく逆算する。
 ヒカルは現在二十五歳。来年の四月時点で二十六歳ということは、今年これから誕生日を迎える年齢――つまりアキラと同い年である可能性が高い。
 そこから十二、三ばかり数を引くと、ヒカルが囲碁を始めたのは小学校六年生から中学にかけて、ということになる。

『囲碁を始めたのはやっぱり部活で?』

『いや、部活はちょっとやってみたくらい』

『じゃあ、囲碁教室に通ってたとか?』

『そういうんじゃない』

 ヒカルの返事がだんだん曖昧になってきた。ひょっとしたら囲碁の話題を引っ張り過ぎて気分を悪くさせただろうか。
 アキラは慌てて話を変えてみた。

『囲碁部、随分人数がいたね。なかなかセンスのある子もいたよ』

 囲碁からは離れられなかったが、全く違う話を振るのも不自然だろうとあえて留まった。その代わり、矛先をヒカルではなく彼の生徒に向けてみた。
 どうやらその判断は当たりだったようだ。

『うん、結構見込みのあるヤツが何人かいる。今年は大会に出られそうだ』

 その返信をさらりと読み流しかけて、アキラは何かが引っかかることに気づく。

『今までは大会に出ていなかったの?』

『囲碁部は新しいから、大会に出られるほどの力はなかったんだ』

『そうなんだ。新しいってどのくらい?』

『今年で四年目。全員素人だったから形になるまで時間がかかった』

 アキラはまたも素早く計算し始める。
 今年で四年目、ということはヒカルが二十三歳になる年に囲碁部が発足したことになる。
 もしもヒカルが高校卒業後、留年も浪人もなく四年制の大学を出たとしたら、彼が教師として初めて赴任した年に囲碁部が出来たということだ。

『ひょっとして、キミが囲碁部を作った?』

 奇妙な確信を質問として送った。
 ……返事は返ってこなかった。





困った時に頼りになるのは社と芦原さん……
場面転換を助けてくれる重要な存在……
(無理矢理だけど!)