「――っ!」 声にならない悲鳴を上げてアキラは飛び起きる。 カーテンを閉め切っている部屋は薄暗かったが、隙間から差し込む光が夜明けを知らせてくれていた。 畳の部屋の中央に敷いた布団の中で上半身を起こしたまま、アキラははあと息をつく。 ……嫌な夢だった。 昨日あまりに印象が強烈だったせいか、夢の中でもヒカルがキスを迫ってきたのだ。 走って逃げ続けたが、とうとう追いつかれ、顔を掴まれてあわや――というところで目が覚めた。全く酷い目覚めである。 アキラはなんだかまだヒカルの手が近くにあるような気配を感じて、ばさばさと髪を払う。何を考えているのか分からない、あの不躾で無遠慮で調子の良い男…… 男のアキラにまでキスを仕掛けてきたということは、ひょっとして誰にでもあんなことをしているのだろうか? 「とんでもない奴だ」 見るからに遊んでいそうな風体だったから、お遊びのキスなんてしょっちゅうなのかもしれない。 冗談じゃない、一緒にされてたまるかと憤るアキラは、普段より早い目覚めだったにも拘わらず布団から這い出て着替え始めた。 昨日はその家庭教師のせいですっかり疲れて囲碁の勉強もろくに出来なかった。満足にできなかった分、今から少し打っておこう。そう決めたアキラは、布団を押入れに片付けて碁盤を部屋の中央に運ぶ。 軽く石を並べて心を落ち着けたら、お父さんに一局打ってもらおう……アキラは軽く深呼吸して精神を集中させると、棋士の目になって碁笥に手を伸ばした。 家庭教師の約束は週に一度、土曜日の午後。 成績が上がったかどうかの目安は今度の試験まで。 友達の息子だからということで、美津子が申し出た謝礼は明子が丁重に断っていた。その代わりという訳でもないだろうが、初日に美津子が用意してくれたお茶菓子は量も質もなかなかのもので、アキラが逆に恐縮してしまうほどだった。 実は勉強の後に夕飯も誘われたのだが、それはアキラが断った。疲れてしまって早く帰りたかったというのが本音だが、毎回そう気遣われるのもやりにくさを感じる。 どうしたものかと思案しながら、二回目の家庭教師の日がやってきた。 *** 「いらっしゃい、今日もよろしくお願いしますね」 玄関でアキラを出迎えてくれたヒカルの母に、アキラは涼やかな笑顔を向けた。 ヒカルの第一印象は酷いものだが、その母親は穏やかで華美なところもなく、息子と同じ年のアキラに対して実に丁寧に対応してくれる。気配りも充分で、どうして息子がああなったのか首を傾げたくなるほど。 「ヒカル、部屋にいますから。今お茶とお菓子持っていきますね」 「いえ、お気遣いなく。たった二時間ですから」 「遠慮しないで、こちらこそ忙しいのにわざわざ来てくれてありがとう」 にっこり笑われてしまうと、それ以上拒むことはかえって失礼だと察したアキラは、申し訳なさそうに頭を下げる。 内心また山のように茶菓子が出てくるのかと思うとうんざりだったが、好意でしてくれていることをうまく断る話術はまだ未熟だった。 アキラは二階へ続く階段を上りながら、今度は別なことを案じてため息をつく。 前回、後半は何とかまともな勉強体制になったとはいえ、ヒカルが今日もふざけない保障はない。おまけに成績表が示している通り、どうしてこんなことも知らないのかと呆れるくらいの学習レベル。一から教えれば何とか理解する素振りは見せるものの、今まで学校で何を習ってきたのか不思議でたまらない。 ちゃらんぽらんな外見からして日頃遊んでばかりいるのだろう。これから二時間、あの空っぽの頭に詰め込めるだけ詰め込んでやらなければと、アキラは気の重い任務に気合を入れた。 コンコンと二回ノックをすると、先週と変わらない緊張感のない声で「はいはーい」とふざけた返事が返ってきた。このまま回れ右したくなったアキラだが、仕事だと言い聞かせてドアを開く。 アキラはそのまま固まった。 ヒカルは先週のようにベッドに寝そべってはいなかった。あらかじめきちんとテーブルを出して、その前に座っているのは良かったのだが……何故だか前髪が女の子がつけるようなピンでとめられて額が全開になっている。 そんな髪をしてにこにこ笑っているものだから、アキラはなんだか部屋に入る前から脱力してしまった。――もう、本当にやる気があるのかないのか分からない。 「何ぽかんとしてんだよ、入れよ」 ドアを開いた格好のまま顔を引き攣らせて凍っているアキラに、ヒカルが焦れたような声を出した。 アキラは小さなため息ひとつ、彼はこういう人間なのだと言い聞かせてようやく部屋の内側に足を踏み入れる。ぱたんと扉が閉まってしまえばもう逃げ場はない訳で。 「センセイ、今日もよろしくお願いしま〜す」 相変わらず軽い調子で、ヒカルはおどけたように頭を下げた。サイドの髪がはらりと落ちるが、ピンでとめられた前髪は崩れず、アキラは無自覚にその蛍光ピンク色のピンを凝視してしまっていた。 ヒカルもその視線に気づいたのだろう、見えるはずもないだろうに上目遣いにピンへ視線を向け、 「あ、これ、カワイイ?」 そんなことを悪びれず尋ねてくる。 「可愛いって……キミは男だろう」 「そうだけどさ、いいじゃん可愛くても。ね、これ似合う?」 「……知らないよそんなの」 「え〜不評〜?」 ヒカルは不満げに口を尖らせた。 アキラは顔を逸らしてため息をつく。可愛いかどうかは置いておいて、いたたまれなくなるほどその姿は似合っていた。 男のくせに、女の子みたいなピンをつけて恥ずかしさはないのだろうか? 冗談で済むならともかく、似合ってしまっているのだから洒落にならないではないか。 ちえー、とわざとらしい声を出したヒカルは、アキラの反応が小さかったことにがっかりしたのかピンを外しだした。ぱちん、と音を立てたピンの音にアキラがはっとし、気を取り直して教科書を広げだす。 「さあ、先週の続きだ。ちゃんと問題は解いてあるんだろうな」 出鼻をくじかれたせいで狂ったペースを取り戻さなければ――アキラはできるだけ淡白な口調でヒカルを促し、渋々ノートを出すヒカルに何処か忌々しげな視線を向けていた。 今までになかったタイプだ、と素直に思う。少なくともアキラの小さな世界で、これまでつきあってきた中にこんな人間はいなかった。 先週もそうだったが、行動が予測できないのだ。先を読むのが仕事の囲碁棋士であるというのに、ヒカルはアキラが常識的に考えることを全て綺麗に無視してくれる。 ……こんなふうに。 「……もうしないんじゃなかったのか」 アキラの低い声が部屋に響く。 ヒカルはアキラの左手を握り締めたまま、はた、と動きを止めた。 「あ、あはは、ちょっとスキンシップ……」 無駄口を許さない勢いで淡々と問いの説明をしていたというのに、いつの間にかヒカルは相槌を打ちながらもアキラの左手にそっと触れ出し、緩く撫でたかと思うと軽く持ち上げて指を絡めたりして弄び始めた。 先週の反省が全然活かされていない。アキラは小さく舌を鳴らしてヒカルを睨みつけた。 「先週言っただろう。勉強に関係ないことはしないと。帰るぞ」 「ご、ごめん、帰るのはナシ。な、俺マジで今度のテストダメだったらヤバイから」 「だったら今すぐ手を離せ」 しかし今回は、ヒカルはすぐに手を離そうとしなかった。眉を寄せるアキラに上目遣いを見せて、あのさ、と懇願するような声を出す。 「俺さあ、勉強好きじゃないっつーか……いまいちこう、やる気になんなくてさあ」 「だったら好きなだけ遊んでいればいい。ボクは帰る」 「あ、待てって! ……それでさ、ちょっとご褒美制度とか作る気ありません?」 「ご褒美制度?」 訝しげに顰めた顔でヒカルを睨みつけると、肩を竦めたヒカルはそれでもしぶとくアキラの左手を握り締めたまま説明を始めた。 「その、ひとつ問題解けたら触らせてくれるとか……」 アキラの顔がみるみる強張っていく。一体何を言い出すのかと思ったら。 「断わる」 「即答!? なんで、いいじゃんちょっとくらい!」 「何故不必要に触りたがるんだ! 理由を言え!」 アキラが凄むと、ヒカルは少し照れくさそうにアキラから逸らした目を軽く据わらせた。 「お、俺さ、なんちゅうか……甘ったれってやつ? こう、人に触ってると落ち着くんだよ……人肌のぬくもりってやつが……」 アキラは実に分かりやすく戸惑いと疑問と呆れを表情に出した。 もじもじと肩を揺らしながらもしっかり握ったアキラの左手を離さないヒカル。彼の言葉の大半はアキラには理解不能なものだった。 「お前の髪とか手とか、なんかスゲーキレイだし……キレイなものって触りたくなるじゃん。毛並みいい犬とかさ、撫でたくなんね?」 ボクは犬か。そう突っ込む気力も沸かない。 答えないアキラに慌てたように、ヒカルは必死で説得を試みる。 「だ、だからさ、ちょっと触るだけだから、それ以上のことはしないから、ご褒美制度、作って?」 それ以上のことって何だろう……アキラは思考に蓋をした。 「ね、一問解いたらスキンシップタイム」 「嫌だ」 「じゃ、じゃあ二問! 二問解いたら!」 「ダメだ」 「三問は? 三問も頑張って解くんだぜ、いいだろ?」 「……ダメ」 「五問! これ以上は譲れないぜ、五問だ、五問解く!」 「……」 「……くっ、分かった、十問解くよ! 頼むから、うんって言って!」 アキラは根負けした。 訳の分からない要望に必死になるヒカルが哀れになったのか……それとも、この正答率では十問も正解するまい、と冷静に分析していたからかは分からないが、押されるがままに頷いてしまったのだ。 ヒカルの顔がぱあと輝いた。そして先ほどまで人質のように握り締めていたアキラの左手をぱっと離すと、代わりにシャーペンを持って「やるぞー!」と意気込んでいる。 分からない、とアキラは音もなく呟いた。 思考の働き方が全く理解不能である。大喜びしている心情もそうだ。 何かをくれ、というのならまだ褒美として分かるのだが、何故要求が「お触り」なのだろうか…… 『こう、人に触ってると落ち着くんだよ……』 どこの赤ん坊の台詞だと呆れてしまう。 高校生にもなって人肌恋しいだなんて、おまけにアキラは触っても柔らかくもない男の身体だというのに、あまりに節操がなさすぎではないだろうか。 俄然やる気になってうんうん問題を解き始めたヒカルを胡散臭そうに眺めながら、アキラは恐々尋ねてみた。 「キミは……いつもこうなのか?」 「ん? こうって?」 「その、誰彼構わず触りたがったり。初対面でも馴れ馴れしかったり……」 アキラにその自覚は無かったが、ヒカルはしっかり言葉面から覗く棘を感じたらしい。少し渋い表情になり、それでもどこかふざけたように「そう」と答えた。 「俺、誰にでもこうなの。べたべたすんの好きなの!」 そう言ってにっと笑ったヒカルの笑顔にあまりに邪気がなく、アキラはなんだか毒気を抜かれたようにぽかんとしてしまった。 天真爛漫とはこういう人間を指すのだろうか…… すっかり調子が狂ってしまったアキラを置いて、ヒカルは別人のように真面目に問題を解き続けている。数分後、「できた!」と叫んだヒカルは、十問の解答を埋めた問題集のページをアキラに突き出した。 アキラは何だかすっかり疲労を感じてしまっていたが、やれやれと目を通す。 さて、肝心の問題の出来は。 「……三十点」 「マジ!?」 |
スキンシップ過剰なヒカルです。
セクハラもお題に入っているのでがっつり実行です。