RHAPSODY






 何とも不可思議な人間だと、アキラはつくづく呆れたようなくたびれたような目を向けてしまう。本日もへらへらと締まりのない笑顔でアキラを迎えた、進藤ヒカルに対してだ。
 家庭教師も三度目となった今日、ヒカルはアキラが来るなり嬉々としてノートを差し出してきた。
 何事かと受取ったノートを見ると、先週アキラがやっておくよう指示していた英語と数学の問題が汚い字で解かれている。
 きちんと宿題をやったことに対して気持ちばかりアキラが感心に目を見開こうとしたが、
「ほら、合わせて二十問! な、な、これで二回分ご褒美もらってもいいだろ〜?」
 ……どうやらご褒美ならぬ「お触り」のために頑張っただけのようだ。
 全く、訳の分からない男である。スキンシップが大好きだなんて、気味の悪い嗜好の持ち主だ。
 アキラはミミズのような字が並ぶノートを疲れた顔で眺め、ため息をついてヒカルに突き返した。
「……ダメ。二十問中正解は七問。やればいいってもんじゃない、正解しないとキミの言うご褒美とやらは却下だ」
「ええ〜ケチ!」
「ケチじゃない。当然だろう」
「なんだよ、頑張ったのにさあ」
 ぶつぶつ文句を言いながらもそれ以上駄々をこねるつもりはないようで、ヒカルは冴えない表情をして大人しく今日の勉強範囲となる教科書のページを開いた。
 どうやら三度目ともなると、アキラがどのようなことで腹を立てるのかを飲み込んだらしい。あまりに勉強と外れたことで騒ぐとアキラの機嫌を損ねると思ったのか、様子を伺うような上目遣いをちらちら向けながら本日の授業開始を待っているようだ。
 まあ、このくらい素直だったら……とアキラも気を取り直して授業を始める。先週に引き続き、実に簡単な数式のおさらいをして、一番最初の顔合わせの時にアキラが絶句したテストの問題をもう一度解かせた。
 ヒカルは意外なほど真剣に問題に取り組んだ。思わずアキラがまじまじとその横顔を眺めても気づかないくらい、珍しい集中力を見せている。
 こうして真面目な顔をしていると、初対面の時に感じたあの不快感も随分薄らぐのだが。
 何しろ第一印象は酷かった。住む世界が違う不良だと思って家庭教師の話をどれだけ後悔したことか。
 しかし今、シャープペンシル片手に難しい顔で数式とにらめっこをしているヒカルは、あの時のようにふざけた顔つきではない。寧ろ凛々しささえ感じる横顔に思わず見惚れ、アキラははっとして小さく首を横に振った。
 勉強するのに集中するなんて至極当たり前のことだ。その当たり前がヒカルには似つかわしくないために、思いがけなく興味を引かれてしまった。
 アキラはそんな安易な自分を恥じながら、なるべくヒカルから目を逸らして彼の汚い字を追った。何だかこのきらきらした前髪は奇妙に目を惹くというか、変な存在感がある。
 ヒカルはそんなアキラの内心の動揺など気づいた様子もなく、無邪気に「できた!」と声を上げた。
 アキラは解答を覗き込んだ。ヒカルが解いた十五問中、ギリギリで十問、正解にしてあげられるだろう。仕方なくアキラは赤いボールペンでマルをつけてやった。
 マルの数をひとつひとつ数えながら、ヒカルの目が輝いた。
「やった! 十問!」
 アキラはため息で認めてやった。
 ヒカルはいそいそとアキラの右側に移動して、アキラが最後の抵抗のように拳に刺していたシャープペンシルをひょいっと抜き取ると、「では」とわざとらしい一礼をしてその右手をべたべたと触り始めた。
 手の甲を撫で、指先を優しく擦り、指の股をうっとりとなぞるヒカルに、さすがにアキラも不安を感じ始めた。
「お前の指、キレ〜だなあ……長くて……細くて……」
 指フェチか何かなのだろうか、ヒカルのとろんとした目がまさしく恍惚のそれで、ざわっと背筋が寒くなったアキラは無意識に手を引こうとしたが、ヒカルは餌に釣られるように追い縋ってくる。
 まるで壊れ物に触れるかのように優しく、そのくせ遠慮のない執拗な撫で回し方は、ヒカルが言っていた「スキンシップ」という言葉からは充分はみ出る行為のような気がする。
 いい加減にしろと怒鳴りかけた時、アキラはふとヒカルがある一部分をやけに熱心に擦っていることに気づいた。
 アキラの右手人差し指。碁石を挟むせいですっかり磨り減ってしまった薄い爪を、ヒカルは何度も何度もいとおしそうに指の腹で撫でている。
 減った爪が珍しいのだろうかと眉を寄せたアキラは、更にアキラの手を捕まえているヒカルの右手を見てはっとした。
 ヒカルの右手人差し指もまた、……爪が擦り減って見えるのだ。
 見咎めたアキラが思わずいいようにされている右手でヒカルの手首を掴もうとした瞬間、トントンと階段を上がってくる軽やかな足音が聞こえてきた。
 ヒカルの母親だ――アキラは慌ててヒカルの手を振り解く。ヒカルは途端に名残惜しそうな顔になったが、冗談じゃない、ヒカルの母がドアをノックしたのはその直後だった。こんな妙な光景を見られたら何を思われるか分かったもんじゃない。
「どうぞ」
 頬を膨らませているヒカルに代わってアキラが答えると、ドアが開いて予想通りのヒカルの母が盆を手に現れた。
「頑張ってるかしら? 少し休憩したら?」
「わお、これ駅前のシュークリームじゃん! お母さん奮発したな〜」
「ちょっとヒカル、余計なこと言わないで。さ、召し上がってくださいね」
 紅茶のカップとサクサクした生地に薄ら粉砂糖がかかった美味しそうなシュークリームをテーブルに並べて、ヒカルの母はにこやかに部屋を出て行った。
 また気を遣わせてしまったとアキラは恐縮しきりだが、ヒカルは気にした様子もなく早速とシュークリームに手を伸ばす。
 アキラは思わずその手の甲をぺしんと叩いた。
「痛っ! 何すんだよ〜」
「今間違った五問、やり直し。食べるのは正解してからだ」
「ええ〜? でも休憩にしたらって言ってたじゃん〜」
「キミには時間がいくらあっても足りない」
 きっぱり言い放ったアキラの言葉にヒカルは目を据わらせたが、へいへいとシャーペンを手にとって問題に向かい始めた。
 アキラはその右手につい視線を向けてしまう。
 ヒカルは落ち着きなくシャーペンを指で回したり揺らしたりしているので、指先がよく見えない。
 あれは見間違いだろうか? ほんの一瞬、薄っぺらな爪が見えたような気がしたが……
 そしてアキラはさりげなく部屋の中を見渡した。雑誌、漫画、ゲーム、アキラにとっては不要なものばかりが散らばっているこの部屋に、碁盤らしきものは見当たらない。
 やはり気のせいか。そう思おうとしているのに、目は自然とヒカルの指先を気にしてしまっていた。



 ヒカルは確かに成績は良くないが、根っから頭が悪いというわけではなさそうだった。
 早合点してさっさと進もうとするのを窘めて、ひとつひとつ絡まった理解の糸を丁寧に解いてやると、意外なほどすんなりと問題を解いてみせたりする。
 発想力の勝利だろうか、ある公式を指差し、「これって要するにこういうこと?」と独自の公式を作り出した時には驚いた。確かに考え方は合っているし、ヒカルが作った公式のほうが計算は簡単になると、思わず唸ってしまった。
 そんなふうにこなれてくると、当然と言うか正答率もぐんと上がり、ヒカルへの「ご褒美」も回数が増えていく。
 アキラの手や髪を嬉しそうに触っているヒカルの顔は実にだらしないが、とても幸せそうでもあった。
 べたべたと触り続けられるうちに、最初こそかなりの抵抗を感じていたアキラも、そのうち慣れてしまったのかなんとも思わないようになってしまった。
 人間の適応力とは恐ろしい。正解が増えるにつれてどんどん遠慮なくアキラにべたべたしてくるようになったヒカルを、特に気にすることなく淡々と授業を進めていくアキラ。傍目から見るとまるで手を繋いで勉強をしているような異様な光景が、珍しいものではなくなっていった。
 それに、教えれば教えるだけ飲み込んでくれるヒカルの吸収の良さが小気味良かった、というのもあるかもしれない。
 アキラは現状に疑問を持たないようになった。毎週ヒカルの家に通い、勉強を教えながら不自然なスキンシップを許して、ヒカルの母の差し入れに恐縮しながらも帰り道に鬱々としていることはない。
 それこそヒカルが手を撫で回そうが、髪を手櫛で何度も梳かれようが、肩にこめかみを乗せられようが、動揺ひとつ見せずに当たり前の事態として受け入れるようになっていたのだ。
 唯一、擦り減って見えたヒカルの爪だけがアキラの心に引っ掛かっていたが、それも帰り道にふと「今日も確かめるのを忘れた」と思い出す程度で、半ば見間違いだったことを肯定しようとしているようだった。
 そうして、家庭教師を始めてから早二ヶ月が経過しようとしていた頃――






変態というか変質者の域に近付いてしまったような……
アキラさん疑問持ってください!<そしたら話が成り立たないけど