RHAPSODY






 アキラは朝方携帯に入った電話について、どうしたものかと困っていた。
 今朝、学校に向かう前に棋院から連絡があり、今日の夕方にどうしてもアキラを指名したいという人の指導碁へ出向いてもらえないかと依頼があったのだ。
 指名してきたという老人のことはアキラも知っていた。これまでも何度か指導碁で家を訪れたことがある。アキラを孫のように可愛がってくれている穏やかな男性だった。
 予定の時間は午後四時。移動を考えると授業を早退しなければならないが、学校側もアキラのプロ棋士活動には理解を示してくれているので特に問題はない。
 問題は、今日がヒカルの家庭教師の日であるということだった。
 仕方がないので休ませてもらおうと、午前中にヒカルの家に電話を入れてみたのだが、誰も出ない。母親が買い物にでも行っているのだろうかと昼休みにもかけてみたが、相変わらず人が出る気配はなかった。
 無断で休んでしまうことは避けたい。しかし電話で伝えられないとなるとどうすればよいだろう? こんなことならヒカルの携帯電話の番号でも聞いておけばよかったと後悔する。
 仕方がない、とアキラは職員室に向かった。予定よりももう少し早めに学校を出て、ヒカルが通う高校へ立ち寄ろう。そうして直接本人に今日は行けない旨を伝えるのだ……アキラは担任教師に早退を申し出るべく足早に廊下を進んだ。



「ごめんね、急に頼んじゃって」
「いいのよ〜、アキラくんのお願いだったらいつでも聞いたげるわ」
 運転席でハンドルを握る市河が、助手席のアキラににっこり笑いかけた。
 アキラの父が経営する碁会所の受付嬢で、アキラも小さい頃から姉のように慕っている。基本的に女性と話すのは苦手だったが、市河だけは気兼ねなく接することができて、こうした頼みごともできる有り難い存在だった。
「葉瀬高なんだ、その進藤くんて子。確かにあんまり頭のいい学校じゃないわねえ」
「でも、進藤はそんなに出来が悪い訳じゃないよ。教えたらしっかり身につけてくれるし、ちゃんと宿題もやってるし」
 アキラの言葉にへえ、と市河が嬉しそうに眉を持ち上げた。
 その表情の理由が分からずにアキラはきょとんと首を傾げる。
「アキラくんが同じ歳の友達の話するの、初めて聞いたわ。良かったじゃないの、仲良くやってるんだ?」
「友達……というわけじゃあ……」
 市河の仲良く、という単語から、日頃過剰なまでにべたべたと触れ合っている自分たちのことをうっかり思い出してしまい、アキラの頬がかっと熱くなる。
 今ではすっかり慣れきってしまったとはいえ、人に言えるようなことではない。
「でも今までアキラくんの口から友達の話なんて聞いたことなかったからね〜。いい傾向じゃないの。たまにはそうやって学生の本分も楽しまないとね、碁ばっかりじゃなくて!」
 最後は若干耳が痛かったのでアキラは返事をしなかったが、それにしても市河の視点はこれまでアキラが気付ていなかったものだ、と窓の外の景色を眺めながらぼんやり考えた。
 世間的には友達、というものになるのだろうか。週に一度、勉強を教える間柄で、予定の二時間はほぼ授業。まあその間に例のごとくべたべたと触られまくっているわけだが、それを覗いてもプライベートな話はほとんどしていない。
 たとえば趣味がなんだとか。今日学校でこんなことがあったとか。そんな他愛のない話は全くといっていいほど出てこず、ヒカルはひたすらアキラに触り、アキラは淡々と勉強を教える。
 これって友達……? アキラは首を傾げた。
 そうこうしているうちに、市河の車は葉瀬高校の前で静かに停車していた。


 帰りはタクシーを拾うと言ったが、待っているわとにこにこ笑う市河を断わりきれず、アキラは足早に校舎の中へ入っていった。
 すれ違う学生が皆振り返る。無理もない、アキラは真っ白な海王高校の制服姿で異様に目立つ。早くヒカルを探そうと廊下を小走りに通り抜けた。
 ヒカルのクラスも知らないため、手前から順に攻めていこうと決めたアキラは、一年A組の戸口傍に集まっていた女子生徒にヒカルのことを尋ねた。
 進藤という名と前髪が金髪ということを伝えたらすぐにヒカルだと分かってくれたらしく、アキラは礼を言って教えてもらったC組へと急ぐ。
 次の授業が始まるまでの僅かな休み時間、アキラは時計を気にしながらC組の教室を覗いた。しかし軽く視線を巡らせた教室内にヒカルの姿は見当たらない。
 困ってしまったアキラは、教室後方の扉近くの座席で漫画を読んでいた男子生徒に声をかけた。
「あの、すいません」
 振り向いた男子生徒はぎょっとした顔になった。突然の他校生の訪問に驚く彼に構わず、アキラはヒカルについて尋ねた。
「このクラスに進藤くんはいませんか? 前髪が金髪の……」
「進藤? 進藤なら今日早退したよ」
「え!?」
 思わず大声を出したアキラに、教室中の目が向けられた。ざわざわと騒がしかった生徒たちが一気に静まり返ってアキラを注視している……アキラは気まずさを感じながらも、声を潜めて男子生徒に聞き返した。
「早退、ですか? 具合でも悪かったんですか?」
「いーや、元気だったけど。たぶん仮病。朝からそわそわしてたから、いつもの女だと思うけど」
「女?」
 早退と結びつかない単語にアキラは眉を寄せる。
 男子生徒は胡散臭そうにアキラを横目で見た。
「つーか、あんた何? 進藤になんか用?」
「あ……、えーと、ボクは……ちょっとした、知り合いで」
 年も変わらない自分のことを家庭教師だと自己紹介するのもヒカルに悪い気がして、ついぼかした表現になる。
 男子生徒はまだ疑うような目を見せていたが、開きっぱなしだった漫画を閉じて椅子ごとアキラに身体を向けてくれた。
「まあ知り合いでもなんでもいいけどさ、とりあえずアイツ帰ったから。昼飯食ってからすぐ行っちまったから、もう随分前だぜ?」
「そう、ですか……。それなら……」
 仕方がない、と続けようとしたアキラは、先ほど彼がぽろりと漏らした単語がやはり気になり、更に声を潜めて尋ねた。
「その、女、というのは?」
「あ? アイツ、最近できた彼女がムチャクチャいい女らしくてさ〜、自慢しまくってんの。今日の落ち着きのなさから言って、女に逢いに帰ったね、あれは」
「そ……そうなんですか」
「すっげえ美人なんだってよ。俺らの前で惚気まくり。ムカつくよな〜」
「……はあ」
 何だか脱力してしまったアキラの耳にチャイムの音が鳴り響く。
 騒いでいた生徒たちがガタガタと自分の席に戻り始めた。アキラも慌てて男子生徒に礼を言って、教師がやってこないうちにと廊下を戻っていった。


「お帰りなさい。どうだった? 会えた?」
「……、いえ……」
 にこやかに尋ねてくる市河に首を振り、アキラは再び助手席に乗り込んだ。
「会えなかったの?」
「早退したらしくて。……すいません、ちょっと彼の家まで向かってもらってもいいでしょうか?」
「私は全然構わないけど。早退してたんだ? 具合でも悪いのかしら」
 市河は心配そうに眉を顰めながら車を発進させた。
 エンジン音で紛らわして、アキラは返事をしなかった。
 そうだ、誰だって「早退した」なんて言ったらまずは体調を疑う。それなのに……
『女に逢いに帰ったね、あれは』
 クラスメートがあっさりそんなことを言うほど、分かりやすくそわそわと早退していったのだろうか。
 何て不真面目な……なんだかもやもやと嫌な気分が胸に広がり、アキラは自然と仏頂面になっていた。
 わざわざ今日の家庭教師は無理だということを伝えようと出向いたのに、会えないばかりか醜聞まで耳に入れることになろうとは。
(第一、今日はボクの家庭教師の日じゃないか)
 ひょっとして勉強の時間に間に合わせるために早退して、その彼女とやらのところに逢いに行ったのだろうか。
 彼女と楽しく過ごした後に悪びれずアキラを迎えるつもりだったのかと思うと、その片手間具合にだんだん腹が立ってきた。
(こっちは壊滅的な成績を少しでも何とかしてやろうと努力しているんだ。それなのに女と遊び呆けるなんて……)
 そもそもアキラはヒカルに彼女がいたことなど初耳だった。
 授業中は勉強ばかり、それ以外の時間はヒカルがべたべたアキラに触っているものだからプライベートな話なんてろくにしたこともない。
 彼女がいながら他人にスキンシップを求めるヒカルの行動に純粋な嫌悪を感じたし、その彼女と会った後でもなおアキラに触りたがったのだろうかと思うと気分の悪さは加速する。
 今日は家庭教師が流れてよかった……心底そう思いながらアキラは市河に道案内をし、ヒカルの家までたどり着いた。
 チャイムを鳴らすが人の気配はない。ヒカルも彼の母親もまだ帰っていないようだった。
 女と逢っている――クラスメートの言葉が裏付けされたような気がして、アキラはむすっとしながら自分のスケジュール長のメモページを破り取る。
『今日は急用が入って予定の時間に伺えなくなりました。お電話してもお留守のようでしたので、走り書きで失礼致します。 塔矢アキラ』
 ヒカルの母親が見ても構わないような内容をさらさらと書き連ねると、郵便受けにメモを落とした。
 さあ、もう充分とばかりにアキラは進藤家に背を向ける。
 全く不愉快だ。今まで一生懸命教えてやっていた自分が馬鹿みたいだ……
 むすっとした顔を改めないアキラを、運転席の市河が心配そうに伺っていた。






中途半端に原作を齧りつつ……
高校生パラレルですけど、制服は原作のままでご想像ください〜