RHAPSODY






 そんな微妙な家庭教師の中止を経て更に一週間後、アキラは憂鬱ながらも進藤家に出向いた。
 またいつものようにへらへらとアキラを迎え、汚い字で問題を解いたと騒いでべたべたしてきたりするのだろうか。
 今日こそは言ってやろう。こんなご褒美制度はもう終わりだと。それが嫌なら別の家庭教師を探せば良い、とはっきり言ってやるのだ。
 こっちは碁の勉強時間を削って教えにきてやっているのに、女のために学校の授業をサボるヤツになんか付き合いきれない!
 ……そう怒鳴ってやろうと思ったのだが。
 部屋でアキラを迎えたヒカルに、いつもの能天気な雰囲気が感じられない。
 それどころかなんだかどんより暗い表情をして、アキラが部屋に入ってきてもぺこりと頭を下げるだけだった。
 うつろな目で教科書を見下ろし、アキラの指示に合わせて緩く握ったシャープペンシルを機械的に走らせる様子は、今までアキラが見たことのないものだった。
 ぼんやりした眼差しとは裏腹に、口唇だけはきゅっと結んでしまっているために一言も声を聞いていない。こんなことは初めてだと、さすがにアキラも心配になってきた。
 ひょっとして、例の彼女と何かあったのだろうか? この消沈ぶりはもしやフラれたとか。しかし直接そんなことを聞くわけにもいかず、アキラもやきもきと落ち着かない時間を過ごす。
 黙々とアキラに言われるがまま問題を解いていたヒカルだったが、その日十問目の正解が出ても、いつものように触らせろと要求をしてこなかった。
 あれだけしつこかったのに――驚いたアキラは思わず尋ねてしまう。
「……今日は、いいのか?」
 ヒカルがちらりと目だけをアキラに向けて、何が? というように首を小さく傾けた。
 改めて問われるとアキラも返し難くて戸惑ったが、やはり気になる気持ちが勝った。
「その……いつも、十問正解したら、ご褒美を要求していただろう……?」
「……」
 ヒカルは俯き、なんだか哀しげに眉を垂らす。
 その横顔に不覚にもどきんと心臓を鳴らしたアキラは、慌てて服の上から胸を押さえた。
 そんなアキラの慌てぶりなど気づいてもいないようで、ヒカルはぽつんと呟く。
「……もう、いいんだ。悪かったな、今まで無理につきあわせて……」
「え……」
「……これ、できた。次、どれやればいい?」
 ヒカルにずいと問題集を突きつけられて、アキラは狼狽えつつも次の問題を示す。ヒカルはそれを黙々と解き始めた。
 途中でヒカルの母が差し入れの菓子を持ってきても騒いだりせず、それどころか手をつけようともしない。普段ならおかわりを要求する勢いでがっついているというのに、まさか病気ではないだろうかとアキラもいよいよ不安になってくる。
 かといって、「どうかしたのか」なんて聞くのも躊躇われた。これまでプライベートについてほとんど追求したことがないものだから、突っ込んだ質問がしにくくて、アキラはなんとも居心地の悪い時間を過ごすことになった。
 ヒカルは淡々と問題を解き、間違えたところはアキラが解説をする、実にあっさりした二時間の授業を終えて。
 いつもなら玄関まで見送ってくれるヒカルが、その場から立ち上がろうとしなかった。
 釈然としないものを感じながらも、じゃあ、とアキラがドアに向かおうとした時、
「――あのさ。」
 ヒカルの声に呼び止められ、アキラは弾かれるように振り返った。
 その反応の大きさに、ヒカルが少し困ったような顔をしていた。アキラもまた、まるでヒカルからの呼びかけを待ちかねていたような態度を取ってしまったことを恥じて顔を赤らめる。
「あの……、その、再来週、」
 ヒカルは言いにくそうにぼそぼそと口を尖らせ、途中で口ごもってしまい、数秒黙った後に力なく首を横に振った。
「……ごめん。なんでもない」
 それだけ言うと再びだんまりを決め込んだヒカルに、アキラも返事のしようがない。
 しばらくヒカルから新たな反応がないかドアノブを握ったまま待ってみたが、変わらないヒカルの様子にため息ひとつ、静かに部屋を出た。
 お邪魔しましたと居間に声をかけ、玄関で靴を履いているとヒカルの母がエプロンで手を拭きながら現れた。
「いつもありがとうね、アキラくん。その、あの子ちょっと変じゃなかったかしら?」
「え……」
 靴から手を離して顔を上げたアキラの前で、ヒカルの母は心配そうに手のひらを頬に当てる。
「なんだか先週から元気がないのよ。アキラくん、何か知らないかしら」
「いえ、ボクは何も……」
 アキラが気まずく答えると、そうよねえとヒカルの母は大きなため息をついた。
「まあ、あの子のことだから大したことじゃないと思うんだけどね。ああそうそう、それから家庭教師のことだけど、ヒカルから聞いたかしら?」
「えっ?」
 ヒカルの母の声のトーンが変わり、アキラも上がり調子で聞き返す。
 何のことだろう? ――アキラは先ほど部屋を出ようとした時、ヒカルが何か言いかけたことを思い出した。
「再来週にテストがあるでしょう。もしそのテストで前よりもいい成績がとれたら、そろそろアキラくんに来てもらうのも悪いかしらって」
「……と、おっしゃいますと……」
「ええ、あの子も随分やる気を出してくれたみたいで、もう一人で勉強できるって言い出したのよ。アキラくん、囲碁のお勉強も大変なんでしょう? おばさんそんなこと全然気づかなくて、ごめんなさいね」
 コン、と頭を小突かれた気分だった。
 要するにお役ごめんということか――自嘲気味にそんなことを思ったアキラは、先ほどヒカルが言おうとしていたことはこのことなのだと確信した。
 確かにヒカルの学力は最初の頃に比べれば随分上がった。自力で解ける問題はぐんと増えたし、アキラの解説の内容もきちんと理解している。
 劇的に成績が上がるかは微妙なところだが、前より悪いということはないだろう。つまり、再来週のテストはほぼ間違いなく前回を上回るだろうから、アキラの家庭教師の期限が確定したも同じことだった。
 何と答えたものか困ったアキラは、その場繕いにぎこちなく笑みを浮かべた。
 面倒な家庭教師がもうすぐ終わると分かったのに、素直に喜べないのはヒカルの態度の変化のせいだ。
 ヒカルがいつも通りなら、こんなに微妙な気持ちにはならなかった。あんなふうに、まるでアキラを避けるような余所余所しい素振りを見せられてからの知らせだったため、必要以上に戸惑ってしまっている……アキラはヒカルの母に頭を下げて玄関を出た。
 外の冷たい風を頬に受けながら、自然と顔がむくれていくのを止めようもなかった。
 ――もう一人で勉強できるなんて、そんな偉そうなことを言って。
 本当はアキラへの気遣いなんかじゃなく、ただ単にヒカルがアキラを必要としなくなったからではないだろうか。そんなことを思いながら、とぼとぼと帰路についた。





 ***





 碁盤の前に正座して、先日行われた一局を黙々と並べる。勝利した対局だが、途中で冷や汗をかくほど追い詰められた展開が納得いかず、より良い防御を求めてアキラは石の動きを変えて行った。
 しかし石は必ず行き詰る。何度やり直しても、最善の道どころか逃げ場を失って、実際の対局よりも悪い手しか頭に浮かんでこない。
 集中できない……アキラはとうとう石から指を離した。
 はあ、とため息をついて正座を崩す。畳に尻をついて天井をぼんやり見上げてみたが、誰もいない静かな自室だというのにとてもだらしないことをしているように思えて、アキラは苦い表情で再びきっちり正座した。
 どうも先日の家庭教師の日以来、ヒカルの変貌が気になって仕方がない。今までがあまりに極端だったせいか、あの日に狂わされた調子は数日経った今でも元には戻っていなかった。
 家庭教師を突然休むことになったその前までは、ヒカルは全く変わりなくはしゃいで騒いでアキラにべたべたとくっついてきた。
 それがたった二週間であの変わりよう。何かあったのだろうが、そんなことを気軽に聞けるほどの間柄ではない。
 加えて唐突な解雇宣言だ。次の家庭教師を終えたら、実質アキラの任務はそれで完了となる。ヒカルがあまりに悪い点数を取ってくれば別だろうが、まずそれはないだろう。
 間違いなく、ヒカルはそれなりの結果を出す。それを自覚しているだろうヒカルが自分で「一人で勉強する」と言い出したということは、ヒカルの意志でアキラを切るつもりだということだ。
 何故だろう。最近では勉強も面白いと感じているような素振りを見せたり、ひとつ難しい問題を解く度に嬉しそうに笑っていたりして、うまく授業を進められていると思っていたのに……
 ――別に、いいじゃないか。これで面倒な仕事がひとつ終わるんだ……
 何度も自分にそう言い聞かせようとしている。それなのに集中できないのは……ヒカルの様子が明らかにおかしかったからだ。
 冴えない表情、やけに大人しい態度。一度もアキラに触れなかった。あんなにしつこいくらいくっついてきたヒカルが、ちらともアキラを見ようとせず、指一本触れようとしなかった。
 アキラは口唇を噛む。いつの間に、彼に触れられないことが落ち着かないと感じるようになってしまっていたのだろう。
 あれだけ触られまくっていたのだから無理もない――と思い込もうとしているが、どうにも荒れた胸はそれだけではないと訴えているような気がする。
『……もう、いいんだ。悪かったな、今まで無理につきあわせて……』
 ――もう、いいって。「もう」とは何だ……?
 ひょっとして、ヒカルのクラスメートが話していた「彼女」とやらがいるから、アキラは「もういい」ということだろうか?
 本当は誰にでもあんなことをできる訳ではなくて、本当に触れたい相手ができたから――アキラの存在ごと切り離してしまおうとしているのだろうか?
 ゆら、と胸の内で小さな炎が揺れた気がした。内側から焼かれるような嫌な感触だった。
 ――なんでボクは、こんなことで。集中できないばかりか、変に不愉快になったりして……これではまるで……
 ……嫉妬しているようではないか。
 アキラはカッと頬を染めた。
 馬鹿馬鹿しい。何故ボクがあんなやつに――ぶんぶんと首を振ったアキラは邪念を追い出そうと再び碁笥に手を突っ込んだが、頭の中には絶えずヒカルの顔が浮かんで来る。屈託のない笑顔。初めて逢った時からついこの前まで変わらずに見せてくれた無邪気な表情……
 くるくるとシャーペンを回す器用な指先や、不貞腐れた時の尖った口唇、悪戯っぽい丸い目とにこっと笑った時の白い歯。前髪を可愛らしいピンで止めたりしていたこともあった。
 掻き消そうと碁盤を睨んでも、次々と浮かんでは消える些細な出来事がアキラを苦しめた。どれもこれも他愛のないワンシーンばかり。仕方がない、ろくに勉強以外の話もしなかったのだから。
 ぎゅっと目を瞑ったアキラは遂に碁石から手を離す。
 こんな状態で碁盤に向かうのは囲碁に対して失礼だ。真摯な気持ちを向けられない以上、いくら打っても無駄だろう。
 家庭教師が原因で囲碁の成績が落ちたと言われるのだけは避けたい。それはいつも気遣いを見せてくれたヒカルの母にも申し訳ないことになる。
『アキラくん、囲碁のお勉強も大変なんでしょう? おばさんそんなこと全然気づかなくて、ごめんなさいね』
 別れ際の言葉を思い出してアキラは深く溜め息をついた。
 ……が、次の瞬間ぴくりと眉を揺らす。
 アキラは一度もヒカルの母に囲碁の話をしたことがない。恐らく明子がアキラが棋士であることを事前に説明していたのだろうが、
 ――おばさんそんなこと全然気づかなくて――
 では、ヒカルの母に囲碁の勉強が大変だと気付かせたのは……誰だ?
 明子ではないだろう。母親はああいう性格だ、棋士活動と日々の生活は完全に切り離して考えるようアキラにも説いている。その明子が自ら息子の境遇を大変だなどと友人に説明するはずがない。
 それでは一体誰が……?
「……」
 アキラはそっと指先を顎に添えて考え込んだ。
 そういえば、最近は気にしていなかったけれど。
 かつてちらりと見たヒカルの右手……、人指し指の爪が、擦り減って見えたことがあった……。






この辺りまではほぼ瞳さんから戴いたプロット通りです。
ここからちょこちょこっとアレンジさせて頂きました〜。
ほとんど共同製作状態ですな!