RHAPSODY






「あら、アキラくん!」
 予定の時間よりも一時間以上早く現れたアキラを、ヒカルの母は驚いた顔で出迎えてくれた。
 アキラはこんにちはと優雅に頭を下げる。その肩にかかっている重そうなショルダーバッグを見たヒカルの母は、困ったように手のひらを頬に当てた。
「まあ、今日は何時の予定だったかしら? ごめんなさいね、あの子、まだ帰ってきていなくて」
「いえ、ボクが早く来てしまったんです。……あの、ちょっとお伺いしたいことがあるのですが……」
 いつも通りの営業スマイルを浮かべたまま控えめにそう告げたアキラに対し、ヒカルの母は不思議そうに首を傾げた。




 ***




 こつんと蹴飛ばした石ころが、アスファルトの上で不規則に跳ねながら数メートル先に転がって行った。
 ヒカルは憂鬱を顔いっぱいに表して溜め息をつく。
 ――帰りたくない。
 家に帰れば、否応無しにやってくる最後の日。
 ポケットの携帯電話を取り出し、時間を確認した。まだ予定の時間までは少し余裕がある。いつも時間きっちりに現れる彼の事だから、今日もまた六時ちょうどに玄関のチャイムを鳴らすだろう。
 だから、六時までには必ず帰らなければならない。それなのに足は動きたがらない。
 学校を出てから随分遠回りして、どうでも良い道草を食いながら、それでも少しずつ少しずつ自宅に近付いている自分の足が情けなく、恨めしい。
 右肩に背負っていたリュックを無意味に左肩に持ち替えて、ヒカルは再び溜め息をついた。
 ――今日で終わりなんだ……
 ぼんやりと見上げる茜色の空に、恐らく今日で逢うのは最後になるだろう、同い年の家庭教師の顔を思い浮かべる。
 塔矢アキラ。彼が家庭教師としてやってくるのは神様が与えてくれた奇跡のような偶然だった。
 ヒカルは、その話を母親に聞かされるずっと前から、アキラのことを知っていた。
 アキラはヒカルにとって憧れの人だったのだ。


『見ろよ〜、佐為〜。カッコイイよなあ〜、髪なんかツヤツヤだぜぇ〜』
『ヒカルは本当に塔矢アキラが大好きなんですねえ。彼に一局打ってもらうようお願いしに行ったらどうです?』
『かーっ、ムリムリ、無茶言うなよ〜! 俺なんか相手にしてもらえる訳ねえじゃん! 大体俺、ホンモノ見たら舞い上がって何するか分かんねえよぉ……』
 週間碁や雑誌に載っているアキラの記事を部屋で広げ、うっとりと悦に入っていた数年前。
 ヒカルの傍らには、平安時代に帝の囲碁指南役をしていたという幽霊が常にあった。
 藤原佐為と名乗った幽霊は、まるで囲碁などに興味のなかったヒカルにある日突然取り憑いて、とにかく囲碁が打ちたい打ちたいと喚いた。
 仕方なく佐為につき合うようになって囲碁の面白さを知ったヒカルは、祖父に碁盤を買ってもらって日々囲碁に親しみながら、それまで気にも留めなかった棋界のニュースにも耳を傾けるようなり、棋士の塔矢アキラの存在を知ったのだった。
 凛々しい眼差し、意志の強さを表す引き締まった口唇。顎で揃った特徴的な髪型は端正な顔立ちによく似合い、長さがあるのにちっとも女性的に感じさせなかった。
 写真の中の彼に、半ば一目惚れ状態だった。さすが平安時代の人間、男色に抵抗のない佐為は、「確かに綺麗な少年ですね」とヒカルを異端扱いすることなく良き理解者であったが、その佐為も数カ月前に消えてしまった。
 ずっと一緒にいた相棒が消えてしまったことへのショックは大きく、打つ相手がいなくなってしまった碁盤の前でぼんやりする日々が続いてしばらく経った頃。
 母親が、全く勉強しようとしないヒカルに家庭教師をつけると言い出したのだ。
 最初はそんな面倒なものいらないと抵抗したヒカルだったが、よくよく話を聞くと……まさか、夢にまで見た塔矢アキラその人だと言うではないか。
 ――マジ、ウソ!? ええ、ちょっと俺、まだ寝惚けてんの!?
 そういえば佐為が消える少し前、「ヒカルは独りじゃありませんよ」と意味深な台詞を残していた。
 ひょっとして、佐為はアキラがやって来ることを予感していたのだろうか?
 ときめく胸を押さえて天を仰いだら、佐為の声が聴こえてきた気がした。
『ヒカル、頑張るんですよ。せっかく塔矢アキラがやってくるんです、私は邪魔しませんから。』
 ――ああ、佐為。お前、俺に気を遣って消えちまったのか? ごめんな……俺のせいで……
 また少し涙が零れそうになったが、いやいやここで萎んでいるばかりでは佐為の心遣いが無駄になってしまう。ヒカルは立ち上がった。何とか塔矢アキラにアタックするのだ――決意を固めたヒカルは、母親に家庭教師の話を是非進めてくれと平伏した。


 そうして迎えた家庭教師初日。
 あまりに浮かれ過ぎ、完全に舞い上がったヒカルはじっと床に座っていることさえ耐えられず、奇声を発しながらベッドでごろごろと転がっていた。
 現れたアキラは雑誌の中の写真以上に麗しく、おまけに上品な良い匂いがした。
 とても冷静でいられない! ――テンパったヒカルは悪ふざけの延長のフリをして、辛抱たまらず彼の髪にべたべた触れるという暴挙に出た。幸せだった――ホンモノ! 動いて喋ってる! そして自分はそのホンモノに触れている!
 さすがに行動が怪しすぎたのか、アキラにすっかり警戒されてしまった。平謝りして勉強を続けてくれるようお願いしたが、あれだけの変態的な行為に出た後だというのにアキラは実に真剣に教師役を引き受けてくれ、この男は本当に真面目な人間なのだと感心してしまうほど、その真直ぐさが新鮮で魅力的だった。
 それからは毎週待ち遠しくてたまらなかった。勝手なご褒美制度を押し通して、堂々と触れるチャンスを手に入れたヒカルは燃えた。
 アキラの長くて綺麗な指。棋士らしくすり減った右手の人さし指の爪。肌はキメ細やかで、どれだけ撫でていても飽きない。ああ、なんて至福の時。
 アキラが帰宅した後も、興奮は冷めなかった。アキラが使ったティーカップにこっそり口唇を寄せてみたりして……自分でも変質者じみていると重々承知の上だったが、若い衝動は止められない。ふわりと漂うアキラの香りに酔って、ついつい下肢に手を伸ばしてしまったり……


 そんな幸せな日々の中、ヒカルにチャンスが訪れた。
 ちょうど家庭教師の予定の日に両親が旅行に出かけるというのだ。
 ――アキラと二人きり。
 それはヒカルの妄想を一気に加速させるに充分なものだった。
 これはきっと、神様が、佐為が与えてくれた最大のチャンスに違いない――ヒカルは決心した。アキラに告白しよう。最近はアキラもどれだけべたべた触ろうと嫌がる素振りも見せなくて、案外ヒカルに対して満更でもないのでは? なんて甘い期待を抱いていたところだった。
 ひょっとしたら良い返事がもらえたりして……そして、そのまま二人きりの部屋で……
 上にも下にも駆け巡る血を堪えながら、ヒカルはその日を悶々と指折り数えた。当日はとても落ち着いていられず、ついつい授業をサボって早退してしまった。
 母親がいないのだから、自分がアキラをお持て成しせねば……何か上等な茶菓子でもと制服姿のまま街をぶらついていた時、しかしヒカルは見てしまったのだ。
 アキラが綺麗な女の人の運転する車の助手席に座っているのを。
 トンカチか何かで頭をぶん殴られたような気分だった。
 親し気に微笑みあう二人を乗せた車は、本当に偶然ヒカルの前を横切ったのだろう。助手席のアキラはヒカルの存在に気付かない。そのまま行ってしまった車を呆然を見送った。
 ――でも、今日は家庭教師の日のはずなのに。なんで女の人と?
 急ぎ帰った家の郵便受けに、少し右上がりではあるが丁寧な字でアキラからのメモが残されていた。
 そこに書かれていた「急用」が何なのか、ヒカルはすぐにピンときた。
 ――あの女の人と逢うためだ。
 何て事だろう。まさに告白を決意した当日にこんな形でフラれようとは!
 フラフラと部屋に戻り、ベッドに俯せに倒れ込んで、しばらくそのまま動けなかった。
 朝から張り切っていた自分があまりに馬鹿らしい存在に思えて、いまいち涙もきょとんと戸惑っているような感じだった。
 ――綺麗な人だった。年上だよな。そうだ、アイツは落ち着いてるから年上が似合うなあ……二人は今頃何処で何をしてるんだろう。
 穏やかな微笑みがチラつく。いつもこの部屋で隣に座っているアキラはむすっとしていて、あんな顔を見せたりしない。
 そりゃそうだ、俺なんかただの頭の悪いガキだもん……勉強を教えてもらう、なんて大義名分に縋り付いてたけど、その他にアイツの気を引くようなものなんか何一つ持っちゃいなかった――そう納得した途端、無性に佐為に逢いたくなった。
 ――佐為、俺フラれちまったよ。せっかくお前が頑張れって気を利かしてくれたのにさ、ごめんなあ。
 佐為、すげえ辛いよお。俺、自分で思ってたよりずっと、アイツのこと……――
 今はもういない幽霊に泣き言を呟くと、ぼろぼろと涙が溢れてきた。
 フラれてしまった。彼はとっくに他の人のものだったのだ。哀しい、哀しい、哀しい……


 そうして随分泣き続けて。
 親のいない家はすっかり暗くなり、泣き疲れて腹が減っても誰も食事なんか用意してくれなくて。
 ひもじくカップラーメンを啜りながら、ヒカルはこの哀しい恋に終止符を打つことを決めた。
 ――だって勝てねえもん。あんな綺麗な人相手に。俺、笑っちゃうくらいタイプ違うし。
 幸か不幸か次のテストももうすぐだった。あれだけがっちり教えてもらったのだ、今度のテストはそれなりに自信がある。
 次のテストで成績が上がっていたら、もう家庭教師は終わりにしてもらおう……。
 毎週二時間のとてもとても幸せな時間だったけれど、もうすでに他の誰かのものである彼を近くで見ているのはあまりに辛い。
 いい思い出にするんだ。さよなら、俺の情けない恋……


 ……と自分で納得したはずだったのに。
 いざ最後の日がやってくると、こうもぐじぐじと怖じ気付いている自分の意気地のなさに呆れてしまう。
 どれだけ家に帰る時間を引き延ばそうとも、その時間は必ずやって来る訳で。
 そして、二時間経てば完全にお別れだということも頭では理解しているのに……
 ヒカルは何度目か分からない溜め息をついた。
 俯いた顔をゆるゆると持ち上げる。
 目の前には見慣れた自宅の玄関。もう何処にも逃げ場はない。
 遂に観念したヒカルは、ドアノブをゆっくりと握り締め、思い切って回した。






ヒカル視点に切り替わりました。
ピュアな変態を目指してみました……