- 寺 山 だ よ り -

浦佐からの便り
【No.310】 2004年11月04日

 きょう、10月25日の日記に記した浦佐のOさんから便りが届いた。

 お電話ありがとうございました。「中越地震」には、本当にこわい思いをしました。22日に退院をしてきて、23日に地震にあつてしまいました。車椅子に移ることも出来ず、部屋に二人で、じっとしていました。幸い怪我もなく、ここが一番安全だと思えます。 
 ここ数年、いろいろ病気になりまして、現在はベットにいます。電話での会話も出来ないので失礼しました。
 今年は、新潟に来てもらえると楽しみにしていましたが、残念なことでした。浦佐は「湯沢−長岡」の中間の震源地の近くということで、きついゆれが幾日も続きました。さすがの新幹線も、地震には勝てませんでした。今日もまだ余震があります。 
 皆さんにご心配をおかけしましたが、もう大丈夫、落ち着きました。訪問往診も、看護師さん、ヘルパーさんも、みなさん予定どおり来てくださいます。地震が落ち着きましたら、どうぞ新潟にお越しください。お会いしたいと思います。
  平成16年11月2日  

きょうは『十三夜』
【No.309】 2004年10月26日

 昨夜出かけたある会で、知人のAさんから「明日の晩楽しんでください」とプレゼントされたものがあった。帰ってきて開けてみたら『秋の宵』というラベルの日本酒が入っていた。
 そう、きょうは『十三夜』なのだ。昼過ぎ、雨の中を月見まんじゅうを買いに出た。いつもの和菓子屋さんに行く。この店は店先にススキをバケツに入れて置いている。それが「きょうは十五夜だよ」「十三夜のマンジュウがあるよ」という知らせになっている。「ススキを取りに行けないから」と言ってススキとフジバカマをもらった。女主人が店内の月見飾りのシュウメイギクを一本付けてくれた。
 我が家の月見飾りには庭の柿も一個供えた。お豆腐を買うのを忘れたけど、『秋の宵』があるから、お月さんは許してくれるだろう。さて「今宵は」残念ながら雨。

浦佐・小千谷
【No.308】 2004年10月25日

 今週の27・28日、大学時代の仲間のひとりOさんを新潟の浦佐に訪ねることになっていた。10年ぶりになるのだが、四国・今治からKさん、山形・尾花沢のSさん、東京のNさん、そして私の4人が体を不自由にしているOさんを見舞うことにしたのだった。 
 27日は4人で湯沢温泉の「雪国」の高半ホテルに泊まり、旧交を温めることになっていた。紅葉も見ごろかもしれない、と楽しみにしていた。ところが小千谷を中心にして起こった大震災。
 Nさんはその小千谷で育ったのだ。学生のころNさんの家に泊まり初めてスキーをした。浦佐のスキー場はOさんに連れて行ってもらった。その小千谷と浦佐に行けることになっていたのに。Nさんと話し「来春に」ということにした。きょう22日の消印のはがきが尾花沢から来た。「27日に逢えるのを楽しみにしています」とあった。

昨日のテレビに、村田防災担当大臣(だったと思うが)が新潟県知事と会っている画面が出た。二人とも防災服だった。この大臣を迎え握手をした人たちが数人いた。その人たちは背広だった。そして襟元にバッジが。 
 どこの局だったか、被災地の現場から背広ネクタイでその状況を報告しているレポーターがいた。

 浦佐にようやく電話が通じ奥さんと話が出来た。Oさんは22日に退院したところだとのこと。「二人がいる部屋だけは何とか動けるように整理が出来た。他の部屋は今は手をつけない。当分ほっときます」と比較的明るい声。「二人だけの生活だが、余震が続く中でも、看護師さんが見回ってくれる。みんなに助けられていますから安心です」とも。Oさんは3度目の脳梗塞を起こし、言葉を口に出せない。私の声だけは聞いてもらえたようだ。がんばって欲しい。

〇×クイズ
【No.307】 2004年10月21日

 秋は学校祭のシーズン。先週の土曜日、お隣の東中学校では校庭で、保護者も加わっての「〇×クイズ」が行われたようだ。(司会者の声がスピーカーを通して我が家にも届いた。)
 クイズの第1問は「東中学校が出来たのは昭和20年より前だった」。そして校歌の作詞者が問われたり、一番若い先生が尋ねられたり。 
 そんな問題が3つ続いた後(多分4問目だと思う)「東中新聞ができたのは昭和30年より後である」という問題が出された。
 東中の卒業生であり、東中新聞をつくってきた私は「へー、スゴイじゃない。やるじゃない!」という言葉が思わず口を突いて出た。学校新聞が全校生徒が答えるクイズとして出題される東中学校。『東中新聞』は学校生活の中で当たり前に生きているということだ。
 新聞づくりをしている中学校はたくさんあるだろうが、学校新聞の活動がクイズになるというのは、稀だと思う。
 『東中新聞』は9月30日で発行号数758を数えた。

ジョウビタキがもう帰ってきた
【No.306】 2004年10月16日

 高校の先生から手紙をもらう。「学校の改編が進みます。そうでなくても雑務ばかり増え、生徒と係わっているヒマ(おかしいですよねこの言い方、でも現実はそんな感じなのです)もありません。雑務の合間に授業に行っているという感じです。本校も三年後なのですが、状況によっては早まるかも知れず、先が見えない毎日です」。「来月、大山にフィールトワークに出かけれので」とのお誘い。ありがたいこと。
 教え子が進路相談?に来た。中学校は中間試験が終え、「あと一と月後に期末。ぴりぴりしている」らしい。「親子で浮き足立ってしまうのはいけないと思って」と2時間ほど話していった。 
 きょうの予報はまったくはずれ。秋日和のはずなのに、寒い。バアちゃんは寒がり、というより、右足に金属が入っているので血行がよくない。足先が冷たい。それで電気毛布にした。 
 こんな気候だからなのか、裏のしげみから「ヒッヒッ」とジョウビタキの声。もう帰ってきたのだ。

昨夜の我が家のできごと
【No.305】 2004年10月13日

 バアちゃんの部屋から声が聞える。駆けつけてみると、ベッドの上に起き上がりテレビを見ている。イヤホンを着けているし、視界がたいへん狭くなっているので、私たちがそばにいることに気が付かない。
 「一生懸命生きている」。バアちゃんのしっかりとした言葉が口から出た。「ああ、また何か言いたいのだな」と思った。
 3か月くらい前だったろうか。「私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と、ベッドで天井を見据えて発した怒声。介護の仕方が気に入らないとも取れるこの言葉に、二人はうろたえた。悲しかった。
 今夜もまた何か言いたいのだろう、と耳元に口を近づけようとしたら、バアちゃんの口から続きの言葉が…。「あなたの姿が道しるべ」。
 テレビには歌っている川中美幸の姿。そしてその歌詞がテロップで画面の下を流れている。それを大声で読んでいたのだ。妻とうなづきあった。   「バアちゃん 歌を歌ってたのか」と聞いた。「そう、この歌 知ってるから歌った」。 
 どうヒイキめに聞いても、それは歌にはなっていなかった。バアちゃんの愛唱歌は「りんご村から」(三橋美智也)と「星影のワルツ」(千昌)。川中美幸の歌なんか知らないはず。それとも、ライフプラザで覚えたのだろうか。 
 昨夜の我が家のできごとでした。

台風22号
【No.304】 2004年10月11日

  台風22号の我が家の被害。建物はなんとか無事。実は「屋根が飛ぶ」のではないかと恐れていたのだった。築35年の日本建築、まだ持つとは思っているのだが。近所の土地が分譲住宅になり、風除けの立ち木が全部切り倒された。だから我が家は南西の風の通り道。
  その風に何とか耐えた二階家に代わり、庭の藤棚がひっくり返った。甘夏の成木も3本倒れた。5メートルくらいのハナミズキが傾いた。庭続きの畑の大根や菜っ葉類は吹きちぎられ、影も形も無い。庭の隅々、軒下に大量の木の葉が吹き寄せられている。どうする? 乾くまでガマン。
  今日は藤棚をつくり直し。スチールのパイプを全部組みなおした。絡ませる藤の枝を思い切り切詰め妻に叱られる。この春、枝垂桜の枝打ちをして、枯らしてしまったからだ。「桜切るバカ」だったのだ。この藤は5年前に植え替えたのだが、動かすのに大変なので、直径10センチほどの根を、地中30センチほどのところで切って移植した。それでも見事に根付き、紫の房を数十垂らした。バカみたいな話だが「この藤は根を切られたことを知らないんだ」と、そのとき思った。
  延び延びの幼稚園の運動会が11時ごろから始まった。何とかきょう終えたいのだろう。音楽が流れてくる。ソーラン節が踊られているらしい。隣の小学校も、裏の中学校もソーラン節を踊った。はっぴ姿の踊りになぜか惹かれる。のぞきに行った。退場の音楽が「ねぶた」のお囃子。津軽は22号の影響は少なかっただろうか。

「エコー」のHPは4年目に入りました
【No.303】 2004年10月08日

 ホームページをアップして昨日で丸三年が経ちました。おかげさまでアクセスは3万を超えています。数字だけを意識しているわけではありませんが、カウンターの数字が変わることは確かに励みになります。 
 アクセス数を稼げる内容ではない「ECHO」。でも、その編集姿勢だけは一貫したものでありたいと願っています。

 これからも時々お寄りいただければ幸甚です。そして、ご声援をいただければいっそう嬉しくなります。

日本全国日刊新聞盛衰順序番附
【No.302】 2004年10月05日

3日、さいたま市で開かれる「関東パピルス」の総会に出かけた。午後3時集合なので、うらわ美術館でおこなわれている『創刊号のパノラマ』という展覧会をのぞいた。雑誌類の創刊号が2900点あまりが岩波書店で保管されているのだそうで、その中から「表紙の美しいもの、目をひくレイアウト、時代を映すカットや挿入写真に着目」して1500冊がここで展示されたようだ。
 昭和34年、私は『新しい青年』(文化堂出版)という雑誌の創刊にかかわった。もしかしたら『新しい青年』に会えるかもしれないと思ったのだったが。慶応3年から昭和31年までのものしか展示されなかった。
 会場の人影はまばら。ゆっくり眺めることができた。閲覧用の雑誌もあったので何冊が広げてみた。その中の一冊に宮武外骨が昭和6年に創刊した『面白半分』があった。奇人とも言われているこの人の雑誌である。パラパラとめくっているうちに「度胸満点」、私には興味津々の「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」という特集が載っていた。それでノートを取り出し、それを写し始めた。すると監視の女性がおずおずと近づいて来て「ペンをお使いになるのはご遠慮ください」「すみません、それじゃあコピー…、もちろんだめですね」「はい、受付にいらっしゃれば鉛筆と紙はご用意いたしますが」とてうわけで、その番附表を彼女の視線を浴びながら書き写したのでした。展覧会や展示会で座り込んでメモを取ったのはこれが初めて。     「パピルス」の会は新聞教育の会。その会に出かける途中でよい取材ができた。雨もなんのその、けっこう心は弾ずみ会場に到着。「動かなければ…」です。
 「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」とは新聞のランク付け。外骨氏のこの評価は、後日ホームページに載せます。乞うご期待!

イチローくん
【No.301】 2004年10月02日

 去年ひそかに思った。生きているうちにドラゴンズの優勝は見られないな、と。だから昨夜優勝が決まったことに喜びを感じなければいけないのに、そうにはならなかった。とにかくテレビ中継が観られなかった。パ・リーグのプレイオフと巨人・ヤクルト戦、たしかにヤクルトが負ければドラゴンズの優勝が決まるのだから、アナウンサーが興奮してしゃべったように「世紀の戦い」の放映なのだろうが。 
 テレビ中継なし、しかも負けたのだからドラゴンズフアンとしては、喜びは中途半端。ビールかけは見る気がしなかった。それでも、今朝スポーツ紙を買いに走った。それは『報知』が何をトップに置くかに興味があったから。『報知』、『ニッカン』、『スポニチ』などスポーツ紙全紙が「ドラゴンズの優勝」がトップだった。つまらなくなった。昔の『報知』は、こうではなかった。
 2001年10月1日、「高橋尚子がベルリンマラソンで世界最高タイムで優勝」したことを「報知」以外の全スポーツ紙はトップにした。だが『報知』は「長嶋監督引退」で1面全ページを埋めた。これが『報知』だったのに。

 イチローをここ数日追いかけていた。今日は11時20分まで庭で草取りをして、家に上がってテレビを見たら、イチローの登場、そこでヒット。運がよかった。その瞬間が見られた。258本目のヒットのとき、イチローが穏やかな笑顔を見せ、フアンにあいさつした。ジーンときた。 
 イチローといえば秦野にもイチローがいる。行列のできるラーメン店『なんっ亭』の古谷一郎さん。西中で彼に英語を教えた。その、彼の店が売り出している即席めんを今日の昼に食べた。店の看板に「うまいぜベイビー」とあるが、けっこういける。だが、まだ店に行ったことはない。1時間も並ぶ我慢が私にはできない。 

 「並ぶ」と言えば、お隣の小学校は今日は運動会。朝6時半の開場を待って午前2時ごろから行列ができたようだ。それを確かめに朝5時半ころ、正門まで見に行ってきた。(野次馬根性ではなく新聞記者魂からなのです)50人以上が並んでいた。おじいちゃんおばあちゃんの一組も。母親の姿はちらほら。先頭のグループはキャンピングテーブルを囲んで、どうやら前夜祭をしたようだ。私の姿を見て「武先生じゃんか」と手を振ってくれた教え子たち。「こうして並ぶのも子どものため」と彼らは笑っていた。東小運動会の風物詩「校庭の場所取り行列」。

9月の終わりの日
【No.300】 2004年09月30日

 庭の桜の梢が透けて見えるようになった。タコーチ山の色がほんの少しだけ変わり始めた。ゴルフ場の取り付け道路のガードレールの白がはっきり見る。だが、これは台風のせいだけではない。今日で9月は終わり。たしかに秋の気配が感じられる。
 今日は台風が持ち込んだ30度の気温。午前中は入浴サービス。イチローのバッティングを昼休みに観た。午後は往診の日。木曜日はバアちゃんで一日が終わる。
 『HP・エコー』のアップ。印刷版『エコー』を受け取ったが、封筒に切手を貼っただけ。封入は明日から。前から気になっていたの食堂の蛍光灯のシェードの汚れ。急にその気になって洗った。秋灯下、読書でもするのならいいが、晩酌をするとすぐ眠くなる。テレビも観るものはない。今夜だって、ドラゴンズが優勝するかもしれないのに放映はされない。ヤクルトはフジテレビ系ではないか。放映したっていいだろうに。優勝が決まったら、明日のスポーツ紙は全種類買う。

『広報はだの』の取材で丹沢へ
【No.299】 2004年09月26日

  25日の午後、『広報はだの』の取材で丹沢ホームに中村道也さんを訪ねた。その一行は9名で、「丹沢と秦野の名水」をメインテーマにした4面を担当する鎮西、野中、相原、高橋、浦田、谷津さんの6編集委員、そして私と中学生新聞の記者のSさん。車2台なので野中さんのお父さんにドライバーとして協力してもらった。記者Sさんの同行は「野中、相原、高橋、浦田の4中学生記者の取材活動」を取材するため。
 森と水の話をたくさん聞かせてもらった。「川をキレイにする活動はもちろんして欲しい。だけど若い皆さんにもっともして欲しいことは、森と水のことを正しく勉強することです」という中村さんの言葉が私たちの心に強くひびいた。 
 帰り道、中村さんに教えてもらった湧水を見に回った。山肌から湧き出す湧水は滝のようだった。傍らにある橋の名は「清滝橋」だった。

足長きのこ
【No.298】 2004年09月22日

 金木犀の花は突然咲く。昨夜その香りはかすかだったが、今朝はもうこの部屋にまでさわやかな風に乗って流れ込んでくる。「ある日突然自己主張をはじめる花」(『花おりおり』)とある。金木犀が香ると、その傍らにある椿の木の下にミョウガが紫色の芽を出し始める。
 昨日、教え子のKさんが『足長きのこ』をたくさん持ってきてくれた。富士の裾野まで採りに行ったのだそうな。このあたりの山でも『足長』は生えるのだが、特定の人しか採ることはできない。毎年出る場所は同じなので、その場所は他人には教えないからだ。『足長』の季節になると「利一っあんは『足長』の出る場所を教えねえで逝っちゃったよな」と残念がるのが清水庭の年配者たち(私くらいの年齢の者)。  
 そういうわけで、夕飯は急きょ『足長』の「きのこそば」になった。台所に立ったのは私。「そば」のときは私の出番。『足長』をナスと玉ねぎと一緒に油で炒める。それをそばつゆに入れる。ミョウガも刻んで使った。水煮の『足長』は売っているが、天然物は我が家には10年ぶりくらいか。うまかった。Kさんに心から感謝。みのりの秋だ。

 ◇「お弁当の思い出」 投稿がありました。
 お弁当といえば、鮮明に浮かんでくるのは小学校四年の頃の手作り「いなり寿司」。母が2週間ほど東京に出かけて留守中、妹の校外学習(太宰府辺りに遠足)に当り、じゃあ、いなり寿司でもと、初めての試み。四角いアゲを対角線上に切り、薄味でよく煮こんで、味はなかなか。寿司飯もまあまあの味。さて、ご飯を詰め始めたところ、どんどん入りなかなかしっかりまとまらない。かなり大きくなってやっとまとまり、これを2個作り深みのある箱に紅生姜やパセリ、蜜柑の輪切り等で綺麗に飾り詰めた。しかし、その大きさたるや我ながら驚いた。 その日、妹が帰ってきて「お姉ちゃん、あんまり大きいので恥ずかしいから隠れて食べたよ!」とのこと。もっと小さいアゲを買えばよかったのに、その時大きいのしかなかったのか、一辺が14cm位の四角いアゲを三角に二つに切っただけ。ご飯は五合炊いたのにかなり減っていた。料理の本を見てやるわけでもなく、いい加減な私を物語っています。この時以来一度も「いなり」を作ってない私です。
 
  S.Sさん、ありがとうございました。

 

彼岸入り
【No.297】 2004年09月19日

 朝から秋空に百舌の声が鋭くひびきわたっている。
 彼岸の入り、墓参りに行く。いつものとおり、隣近所の家の墓にも線香をあげて回る。あらためて各家の墓碑を読んだ。Tさん享年59歳、Rさん61歳、Mさん62歳、Sさん64歳、Yさん68歳。みなさん同じ組内で、朝夕言葉を交わし、道普請など一緒にした人たち。私も鬼籍に入っておかしくない年齢。 
 昨夜NHKの「最長片道切符の旅」を見た。
 「遠回り、遠回りをしても、結局終着駅はあるのだ。旅の途中で出会った人と再び会うことはない。人生は旅」そんなことを思った。

お弁当と言えば
【No.296】 2004年09月18日

 この四月から、市内の4つの中学校で注文弁当システムが取り入れられた。そんなこともあって、ある中学校のPTA広報が、先生たちに「お弁当といえば」という題で書いてもらっている。それぞれ思いいれがある言葉で興味深い。そのいくつかを紹介すると
 「母はいつも朝早くから畑仕事に出ていましたので、祖母がお弁当を作ってくれました。母に『たまにはお母さんのお弁当がたべたい』と無理を言ったことを思い出します」
 「今のように食生活が豊かでなかった時代のお弁当。鯨カツ、魚肉ソーセージが思いでのおかず」
 「お弁当と言えば、私は揚げ玉子。中学生のとき、一度好きといって以来、毎日続いた一品。『もう勘弁!』と思っていたのに、今は食べると涙が」
 「週に一度、部活の仲間とお弁当のおかずを取替えて食べた。友達の好きなおかずをわざわざ作ってもらった」
 「お弁当一面にノリがあるとうれしかった。それに煮カツがおかず、最高でした」
 「腐ったもの以外残したことはありませんでした。大好物は玉子焼きでした」
 「テニスの大会のために朝5時に起きて作ったお弁当。それなのに試合場で会った娘は『おかあさん、お弁当落とした!』」
 「子どものお弁当作りを14年間も続けなければいけないと気づいたとき、ため息がでちゃいました」
 「私にとってのお弁当は、結婚以来欠かせない毎朝のお仕事。2個から6個、そして3個、我が家の歴史を語る数です。心を込めて『愛の宅急便』
を…、でもあと何年続くのでしょう」
 「できるかぎり手作り弁当を心がけています。お弁当を開いたとき、作った私を思い出すように心をこめて。でも子どもたちはたまにあげるお弁当代の方がうれしいようです。悲しい」
 さて私の「お弁当といえば」は、
 小学校の校庭の通用口まで10メートルだった我が家。だからお弁当は作ってもらえなかった。お昼の時間になると「弁当食べに行ってきます」と先生に断って家に帰った。正月明けの昼ご飯は朝の雑煮を温め直したもの。我が家では、焼きざましの水餅を二月中ごろまで食べていた。そんな食生活を思い出します。
 あなたのお弁当の話を聞かせてください。

30000
【No.295】 2004年09月14日

笠井さんからこんなメールが入りました。

「29999番目の来訪者でした。記念すべき30000番目はどなたでしょうか?現在1名来訪中。一度抜けてまたアクセスすれば、私がなれるかも。」
30000番の方、よろしかったらお声をください。

私の心は揺さぶられる
【No.294】 2004年09月14日

 10日に大井町で行った広報クリニック、その参加者からのメールをもらった。
「今日は有り難うございました。久々に広報の事を思い出して、とても楽しい2時間を過ごさせて頂きました。また今回は2年前と違って、余裕をもって他校の作品を見ることが出来、また違った観点を発見する事が出来ました。それにしても、先生の飽く無き広報への情熱は、素晴らしいものですね。人との出会い、文章に込められた人の思い、沢山の家族のエピソード、声、そして沢山の人たちの広報に対する思い、情熱が、先生のパワーの源なのだなと強く感じました。私も今日の経験を今後の広報活動に生かせるよう、頑張っていきたいと思います」
 
 前教育長さんから碑建立のお祝いの手紙をいただいた。『高清水』のSさんから「219号を大切にします」とメール。Oさんから『地名から歴史を読む方法』という新刊のプレゼント。
 Nさんから自宅近くにある大山道の道標についての情報がメールで届く。この道標には地名「金目」を「かない」と、ひらがなで書いてある貴重な
資料の道標。しかも地元のお年寄りはその「かない」を「かねえ」と発音するという、そんな内容のメールだった。
 「碑で一段落」という『寺山ものがたり』への私の心は、皆さんのこうしたご厚意で揺さぶれら、高められていく。

幼稚園のお母さんたちのPTA広報発行にかける思い
【No.293】 2004年09月07日

 明日は秦野、金曜日は大井町での広報クリニックの準備ため、昨日今日でPTA広報を36紙を読んだ。年度第1号の発行には、苦しみや戸惑いはあったのかもしれないが、どの紙面も委員の一生懸命さが伝わってくる。既に2回の発行を終えているところも4PTAあった。その中の一紙、『なかよし』という幼稚園の広報紙の編集後記にこんなことが書かれていた。
 「広報委員の仕事も内容もわからず始まった『なかよし』の準備。どんな内容にしようかと、今まで発行された55号の『なかよし』を読み返してみた。第1号から半分くらいまでは、先生が書いて発行。それ以降は、父母に原稿依頼したりして広報委員が先生に替わり発行するようになったようだ。ここ数年の『なかよし』は、広報紙から離れ文集のようなものになってきていると思った。このまま流されていいのか。広報委員は、毎年広報づくりの研修会に参加し、広報の意義を教わった。今年はその教えに沿った広報づくりをしようと思う。父母のみなさん、職員のみなさん、ご理解とご協力のほどよろしくお願いします」
 そして、6月1日に40ページの文集形式のものが、7月1日には10ページの号外が発行された。

 昨日の神奈川新聞の『自由の声』欄に私の投稿「湧水の地をしのぶ記念碑建立」が掲載された。8人から反応があった。

9月4日 ちはるさんの結婚式
【No.292】 2004年09月05日

 「エコー」219号を今朝投函。8月の後半は記念碑のことがあって、編集作業は大幅に遅れた。
 10時10分、ちはるさんの結婚式のために横浜に向けて出発。東名・横横・首都高と走るので時間の余裕をみて出かけた。ところが「みなとみらい」まで50分強で行ってしまった。1時から挙式。このホテルは一階ロビーをキリスト教式の結婚式場にしている。だから、ホテルに出入りする人は誰でもその式が眺められる。式の最中、吹き抜けの階を見あげたら100名くらいのギャラリー。同じフロアにはオープンカフェもあり、お茶を飲みながらの見物人もいた。眺めているのは、老いも若きも、ほとんど女性。なんとなくうなづける。31階のレストランで食事をとるのだろう団体さん数十名の好奇心もそそったようだ。ちはるさんも新郎も見栄え十分だったのでここで式を挙げたかったのだろう。それにしても、こんなに衆目に晒される中で式を挙げるなんてリッパ。そして、そして「親は大変だ」と思った。

これでいいの 新聞社のみなさん
【No.291】 2004年09月03日

 PTA広報クリニックで松田町へ。幼稚園から中学校まで5つのPTA広報委員会が参加。1学期に発行された広報の全ページについて診断した。「広報は初めての経験」という委員たちが一生懸命作っていることは十分読み取れる。でも「もっといいものに」という思いから、知らず知らずのうちに辛口になってしまった。それが次号につながってくれることを願うのみ。
ある幼稚園の広報はイラストいっぱいの楽しい紙面だった。こういう特技をもっている人たちが広報づくりに興味を持ってくれると、あたらしい形の広報が生まれそうだ。これから、に期待していいのだろう。
 今年の新聞週間の標語は「一面から 読むようになった 十五の夏」。「新聞は? そこから始まる 家族の会話」が新聞配達標語。
 NIEそのもの標語だと思う。新聞の使命感などいまさら言う必要はないのでしょうか、新聞社のみなさん。

宝蓮寺三十三世慶雲明和尚禅師
【No.290】 2004年08月30日

 東島光明師の津送がきょう行われた。平成元年、東島さんが秦野市PTA連絡協議会の会長に就いたとき、事務局を私が担当した。東島会長のこの年の市P連は、秦野市PTA連絡協議会に新しい風を起こした。各PTAの委員の交流を図る委員研修会を年2回開いた。市PTA広報コンクールを始めたのも東島会長の年だった。このときの本部役員10名は今も年2回集まって、交流を続けている。今年で16年になる。「寺山ものがたり」の発行の折にも「ちょうづかのお婆」のことで教えを乞うた。
 檀家総代が捧げた弔辞の中で、東島さんの仏道に帰依する心を知った。すでに数年前から重い病を患っていた師だった。この7月退院されたとき「200年後の本堂の建て直し」のためにと、100本の欅を植樹されたという。宝蓮寺三十三世慶雲明和尚禅師 合掌

8月28日のこと
【No.289】 2004年08月29日

 5月に手入れをして以来、放っておいた栗畑に草刈りに行った。例年9月の1週あたりから落ち始めるので、その前に拾いやすくするために草を刈る。畑に近づいて「こりゃ大変だ」と思った。1メートル以上も伸びているカラムシの群落、ヤブガラシの広がりもカゴイ。「今日は一日の仕事だ」と覚悟をして畑に入る。栗の木の下に鎌を入れると、栗の実が続々と顔を出す。普段の私の畑仕事は11時には家に戻っている。それなのに、今日は12時のチャイムを畑で聞いた。10キロ強の収穫、草刈は樹下だけで終わる。
 夜、私を鶴巻中から送りだしてくれた当時のPTAの役員さんたちの会。毎年この時期に集まる。今年は鶴巻駅前の寿司屋さんが会場。8人が集まる。Iさんが「この9月で会社を辞めることにした」と話す。今52歳、「走りすぎた。自分の時間が欲しいから」と言う。みんな同感なのだが、その決断に驚くばかり。新しい名刺をくれた。肩書きの部分が大きく空白になっている。「ここにどんな文字が入るのかな」と私。「そのうち何か入るかもしれません。今は空欄」とIさん。 
 二次会をスナックで。Iさんがトップバッターで「酒よ」を歌う。「今度退職祝いの会を開こうよ」という声に「今夜がそれでいいですよ。次は復活祭にしましょう」とIさん。多分Iさんの退職の影響なのだろう、セリフ入りの歌を2曲も歌った私。

オリンピック
【No.288】 2004年08月24日

今日までで金メダルは15個。「東京オリンピック」と同じ史上最高の16目を取るのは野球か、シンクロか。そう期待される両者は大変だ。
 ほとんど毎夜、夜中に起きてテレビの前に座っている。私でさえこうなのだから、熱心なフアンや地元の人たちの燃えようはスゴイのだろう。
 NHKにもファックスでの応援がたくさん寄せられているようだ。
 入賞者のイラストは見事な出来だと感心する。だけどメッセージが「感動をありがとう」では“興ざめ”、「感動した」ことが伝わらない。「それじゃあお前、何と言うの」と聞かれても、答えに窮するのだが…。
 「感動をありがとう」では、野口みずきのがんばりは表せないと思う。「逃げろ、逃げろ、危ない」「逃げきった、よかった」と応援したのが私。
 その野口選手のレース後の言葉
 「スタジアムに入って歓声が聞こえました。全員が私を応援してくれていると思いました。すごく幸せでした。」
 レスリングの浜口選手が準決勝で敗れたとき、お父さんが判定に抗議して騒いだら「もういい、おとうさん、静かにして。五輪で負けても、うちの家族は幸せなんだから。」 
 この二人の言葉を聞くと「金メダルの数」を気にする私が恥ずかしい。

もう秋です
【No.287】 2004年08月20日

  柔道の井上選手が負けた。敗者復活戦でも完敗。井上選手にとって、敗者復活戦は残酷な試合だ。常に勝者でなければにらなかった彼に、そして『金』しかなかった彼に、『銅』を獲りに行けというのはかわいそう。棄権すれはよかったのに。それができないのがオリンピックか。
 アーチェリーの山本選手の言葉「『銅』から20年かかって『銀』、20年後は『金』かな」41歳の見事な生き方。
 日刊スポーツ(8/18)が26、27ページの両面を横断して付けた見出し。トップが「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」。脇見出しが「体操実況も金メタルNHK刈屋富士雄アナ」。体操の冨田選手がフィニッシュに入ろうと鉄棒を勢いよく回っているとき、その着地を待ちきれないように刈屋アナが発した言葉が「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」。
 小田原出身のタレント・柳沢慎吾の言葉(朝日新聞)「応援している学校が負けるとさみしいなあ。勝った駒大苫小牧は立派。優勝してほしい。でも、僕の夏はもう終わった」 毎年、神奈川の高校を応援して、途中で負けると、私にはそのときから秋が始まる。この夏の甲子園には秦野出身のレギュラーが3人出場した。
 涌井投手について思うこと。テレビの画面からは、彼の表情に感情の大きな動きは見えなかった。「横浜高校の野球」が彼の姿勢に見えた。負けても「横浜は強い」。

  台風が青森の深浦町あたりに上陸した。リンゴや稲に被害が大きくなければいいが。10年前のちょうど今頃、五能線を旅したことがあった。川部から板柳町あたりになると沿線はリンゴ畑が広がっていた。そのリンゴ畑に夏の陽を射るものがあった。アルミ箔が広けられている。リンゴの色着きが均等になるように、夏の陽光を下から反射させていた。板柳町は、あの高見盛のふるさとだ。
 五能線の駅名は魅力的なものが多い。「驫木・トドロキ」は「馬が三頭で木を運ぶ」とき音がトドロク。ウチの近くは「車が三台」で「トドロク・轟」とあらわす「轟坂」という地名がある。ここは矢倉沢往還につながる坂道。
 五能線でもっとも魅かれる駅名は「風合瀬」。二つの風が合わさって静かな瀬を作るので「風合瀬」。「カソセ」というやさしい言葉の響き。その「風合瀬」に暴風雨が吹き荒れているのか。

涙腺
【No.286】 2004年08月17日

Kさんから次のようなこんな「エコー」が返ってきた。

 昨日の寺山日記に登場のAさんの話に昨年の事を思い出しました。私の故郷山形でも42歳の同窓会は決まり事で、友達とは2年も前から「絶対に出るんだぞ!」と年賀状で約束していました。子どもたちのスケジュールの合間を縫って無理やり都合を付けての帰省でした。中学の頃さんざん反抗した先生もいて、挨拶を聞きながら、昔と変わらない話し口に「あ、やっぱり私とは合わない」と感じました。子どもなりに正しい判断だったのか、私が成長していないのか…。好きだった先生は担任を持ってなかったのでいらっしゃってなく、ちょっと淋しかったな。まぁ、そんなものですよね。体が丈夫な方ではなかったので、お元気なのか気になっていたのですが…。

 
 ここ数日は未明のテレビにかじりついている。(おかげで明け明星が昇ってくるのを見ることができる。)
 アテネは14年前の1990年8月の下旬に旅した。アクロポリスの丘が画面に映しだされると「あそこに立ったのだ」と懐かしく思う。当時はアテネは1992年の第25回がオリンピックの開催地に立候補していた。だからナショナルフラッグの「オリンピック航空」が日本にも定期航路を持っていた。機体に五輪をつけたそのオリンピック航空を往復使った。機内のテレビでは「アテネで100年目のオリンピックを」とその招致の映像が何回も放映された。近代オリンピック発祥の地アテネが100年を記念してオリンピックを開催するのはふさわしいと思った。ところが、25回の開催地はバルセロナになった。オリンピック航空は、今は日本の期航路から撤退している。

 大事なことへの感情移入(典型的なことで言えば『8月15日という日』)はあまりないのに、他人の涙を見ると、たちまち私の目は涙があふれる。オリンピックの柔道の勝者敗者、どちらの表情からも私の炉緯線は緩みっぱなし。横浜高校の野球を観ても同じだ。


 《1990年8月20日の日記》                  
 イラクの一挙手一投足に世界中が緊張感をたかめている中、私は今度の旅行に出掛けた。族の意義は『日常性からの脱却』にある、とばかり普段はよく目を通す新聞も、旅に出ると読む心を持たないことにしている私。今度の族は『外つ団』、外国語を通して情報を得ようとするような、そんな積極的な姿勢を持たない私にとっては、中近東のようすは日本を発った時に得ていたものだけ。まして、それ以降の日本の動きなど全く分からない。まさにタイムスリッアをした、のんぴりとした時を持ったのだが…、だが否応無しに目に入ってくる『今の世界』があった。
 アテネのエリニコン空港の西ターミナルは、ギリシャのオリンピック航空専用のターミナルである。私たちが今度の族行に使ったのは、そのオリンピック航空だった。日本に帰る日、タタシーを降りると、目の前に装甲車が止まっている。傍らには自動小銃を構えた兵士が立っている。この国の要人の出発でもあるのかと思った。空港ロビーに入ると、搭乗手続きをするカウンターの近くに、陸軍と空軍の二人の兵士が同じように、銃を手に警戒している。気をつけて見ると、ロビーのバーのあたり、トイレの近くにも兵士の姿があった。
 私たちの便の前の二便は、カイロとテルアビブに向かうものだった。搭乗手続きの放送が入り、この中近東行き・二便の乗客のためにロビーの中央に特設されたカウンターで荷物の倹査が始まった。成田でもロンドンでも、そこで目撃きれるような厳しい出国の検査はされなかった。私の遇去の、わずか数カ国の経験でも無い調べ方である。
 先程の、自動小銃をもった兵士二人による徹底的なチェック。小さなバッグの隅までひっくり返して調べている。テルアビブに向かう乗客の中に20歳前後の青年のグループがあった。リュックサックから見ればテントをホテルとする旅行者だろう。彼らの一人がオレンジと缶詰を持っていた。両方とも直ちに、しかも無言で没収きれた。抗議の声を出せるような雰囲気ではなかった。グルーフの青年たちは、次々に自ら没収きれるべき物を提出して通過していった。 
 私たち乗るOA447便はアラビア半島を縦断する。一触触発の地域の上を飛ぶのだ。私の目の前で進められている搭乗チェックに、その緊張感・緊迫感を感ぜざるを得なかった。
 

お盆です
【No.285】 2004年08月11日

  きのう来訪してくれたAさん。家族3人は秦野に残して、13日にいなかに帰ると言う。中学校の同窓会が開かれるからだ。  
  「厄年の33歳、41歳、42歳、43歳と同窓会を開く約束なんです。今年は男子が42歳だから本厄。それで女子が幹事。すごい同窓会なんです、開会が午前10時半。まず神事で厄払いをして懇親会が始まる。午後4時ごろまで宴会。その後、会場をわざわざ母校近くの料理屋に移してまた飲むんです。終わりは多分夜中。この日のために、町を出た同級生がみんな戻ってくる。秦野もお盆だから13日に準備をして、午後にいなかに向かいます。新幹線を使っても6時間くらいかかります。秋田なのに新庄で新幹線を降りて、後は在来線。だから駅についたら弟に迎えに来てもらいます」。
『エコー』に岩井さんが、ふるさとを秋田の山の中と書いていたけど、私の方がもっと不便なところです」と話す彼女のふるさとは、西馬音内盆踊りの町、秋田県羽後町だった。
  「あの盆踊りの町の…。それじゃあ秦野の商店街で踊ったら…、阿波踊りもいいけど、西馬音内盆踊りの方が今の秦野には似合いそうだから」と私。「高校を終えたら羽後を出てしまっから、教えるほど踊ってないです。あれ“幽霊踊り”っていうんですよ」とAさん。「町にも合併の話があって、一時は『小町市』に、とか言っていたけど、話は消えたみたい」とホッとしたようす。  
  今年の西馬音内盆踊りは16〜18日。「風の盆」と、この「西馬音内盆踊り」は見てみたい。Aさんが、その踊りの中に入るかどうかは聞かなかった。

 8月8日 健康的な一日
【No.284】 2004年08月09日

  寺山の戸数は420あまり。その寺山自治連合会主催のソフトボール大会がきのう開かれた。数年前は私も出場した。(チームには60歳以上か女性が1名入らなければならなかったから)。 
  軽装で応援に中学校の校庭に行ってみた。清水自治会のベンチに行くと「長老、長老 こちらへ」とデッキチェアーをTさんが私に勧める。そう、現役の自治会員では、私は三番目の高齢者。  
  清水自治会は67戸の会員でできている。この日集まった人は2チームを超える人数。加えて女子の参加者が7名。そのうち女子高生2人と中学生男子一人が選手として出場してくれた。親・子・孫三代の参加もあった。
  会員数70を超える自治会がチームが組めず棄権、3自治会でやっと混成チームを編成など、難しさが現れてきているこの自治会行事。そんな中、清水自治会は「来年は2チーム出よう」という元気。
  大会の後、1000円会費で恒例の懇親会もあった。こちらも今年は女性、子どもの参加もあって40人を超えた。さらに近くのスナックに流れての二次会。ここは男子だけで15名。この地に終の棲家を求めた人たちの参加が多くなっている。30、40代の参加も増えている。はうれしいこと。 「碑の建立」から、地域への関心が高まったと思っていが“手前味噌”かなあ。22日の除幕式にも大勢出席してくれるだろう。
  開会式は8時30分、そしてスナックで三本締めをしたのが午後7時だった。健康的な一日。
 

HPの書き換え ギャラリーに「葵祭」をアップ
【No.283】 2004年08月05日

8月4日 
 きょう、川崎市立小学校社会科教育研究会の臨地研修会が秦野で開かれた。「自然条件を生かした秦野の人々のくらし」が主題。JA・はだの「じばさんず」で秦野の野菜を買い、カーネーション栽培の農園を見学。昼食後「秦野の地下水について」市の職員の講演を聴き、東田原地区の井戸水で生活をしている家を訪問。最後に東公民館で「水と人々のくらし」という私の話を聞いてもらった。強い日差しの中を歩いての研修だったが、皆さん元気で明るかった。この研修を担当されたU先生は、この日までに8回来秦、我が家にも3回来ていただいた。そうしたご苦労が今日の参加人数に表れたと思う。自費による研修らしいが定員100名のところに110名の参加。市制50周年を迎える秦野の私たちにとって、このように大勢の先生方が秦野について知ってくださることはうれしいことだ。
 

8月5日
 全国新聞教育研究大会・水戸大会について、吉成先生からメールをもらった。私の思うところ、感じたこととまったく同じ。子どもたちがつくる新聞は「集団生活の向上を目指す」ものだと私は思っている。交流会でイイ機嫌になっている写真も添付されていた。あの交流会の後、Yさんと久しぶりに「新聞教育」を語りあった。就寝は12時ちょっと前だった。現場を離れた二人の話は、もはや「老いの繰言」でしかないのだが。

 不具合だったインターネットがようやく平常にもどった。それで今日HPの書き換え。H先生からお借りした『葵祭』の写真をギャラリーにアップした。

市民が作る「広報はだの」第2回企画委員会
【No.282】 2004年07月22日

「広報はだの」の二回目の集まり。16名がそれぞれ企画を持ち寄ることになっていた。「夢いっぱい 出会い・ふれあい 秦野(まち)みらい」が市制50周年事業のメインテーマ。たくさんの企画が出された。「写真がたくさんあるとて読んでもらえる。50年前の写真の特集を組んだら」「小学生も関心をもって読める紙面に」「読者に行動を起こせるような記事を」「大勢の人を紙面に登場させたい」「ずっと秦野を支えてきた人を取り上げたい」「秦野は葉タバコによって育ったまち。そのことを検証したい」など。市民にアンケートをしよう、という壮大な案も出された。これでは1〜4面を通してのテーマを作らなければ企画は決まらない。それで、「50 元気 水」をその基本テーマに、と提案した。
  司会役の私が力不足なので、3時間近く話し合ったが第1面のテーマが決まらなかった。記念号となればそれらしい表情を1面では見せたい。私たちがつくる『広報はだの』は「市勢要覧」や「秦野の観光パンフレット」とは違う、ということを確認した。
 企画小委員会をつくり、次回までに素案(企画とレイアウト)をつくることで解散。

生涯で最高の出来ごと
【No.281】 2004年07月20日

「石のカワサキ」庭先で、夏の朝日を浴びて『清水湧水池跡』の碑が私を待っていた。『寺山ものがたり』がこんな形で清水自治会の皆さんに受けとめていただけるとは思ってもみなかった。東小・中の校歌の発祥地を記録にとどめておきたい、という思いは確かにあった。その思いを、自治会長の敏明さん、先輩の完さんや洋造さんが受け止めてくれた。俊さんの応援も大きな力になった。
四国産の石だそうで、青みを帯びているので背面が白い壁なので引き立つ。重さは約1トン。裏面に私が書いたこの碑のいわれが刻まれている。まったく言うことなし。8月に披露の式を行う。この日記を読んだ人だけでもぜひ見てもらいたい。私の生涯で最高の出来ごとにちがいない。

19日に記念碑の据えつけ
【No.280】 2004年07月18日

 7時から清水自治会の集会。議題は(1)寺山の納涼大会の準備の件、今年の清水の担当は「フランクフルト売り」で、わが家は売り子の役。(2)8月に開かれるソフトボール大会の選手の選出。清水は「三年連続優勝を狙う」。
 (3)とうとう「清水湧水池跡」の記念碑が建つときが来た。19日に記念碑を中井町までとりに行き、みんなの手で据え付けることになった。「経費削減」からでもあるが、自分達で最後までやり遂げたいという思いが強いからだ。
 除幕式は8月15日に行うことになった。その日までもう一カ月もない。それで式典と祝賀会の計画を実行委員7名で立てることになった。「これから席を変えて話し合おう」ということになり、9時ごろに『花小路』に。ところが、カラオケの会の例会日とかで、喉自慢が入れ替わり立ち代り…。とても話など無理。結局こちらの会は単なる二次会になってしまった。11時過ぎにご帰還のわれわれ。
 きょうは東地区の納涼大会が小学校の校庭で。東田原の朝日神社の宵宮で祭り太鼓が聞こえてくる。そして三連休。すっかり夏休みの気分。

浅からぬ因縁
【No.279】 2004年07月17日

 今年が創立80周年の大秦野高校。その同窓会が記念誌を発行するので助言が欲しいと招かれた。会長さん宅で夜6時半からの会議。前身が女学校だったので、集まった企画委員3名は女性。
 80年という膨大な時の流れをどのように収めるかが難題。その80年の歴史の会の会長さんが、現在で4代目とか。まず年表をつくること。勤続年数が長かった先生から教え子の現在の動向を聞き出すことが次の作業。その二つができたところで、全体の構想を考えることにする。
 会員でもない、PTA会員でもなかった、もちろん勤務したこともない私に、声が掛かったのは、多分次のような因縁からだろう。
 会長Tさんの弟さんは私と大学の同期。彼は58歳の現役新聞記者で病魔に襲われ他界した。彼への弔辞を読ませてもらった。10年まえのことだ。 30年も昔、PTA広報づくりでお目にかかったのが副会長Eさん。Eさんのご主人とは「秦野市P連だより」を創刊した。
 そして書記のMさん。彼女はボランティア団体の広報発行の責任者としての知り合い。「最後までお付き合いください」と頼まれた。

7月13日 お盆です
【No.278】 2004年07月14日

お盆の支度をした一日。お墓の掃除。帰って盆棚を飾り、辻を作る。ことしの辻は美しくできた。5時前に迎え火を焚く。6軒の辻にお線香を上げに回る。
 浦田さん母子が家族新聞ができたと持ってきた。4年生の夏子さんが清書している。公民館に展示してもいい、と夏子さん。「学期に1回は出したい」とも。
 東中のF先生が先月の授業『東地区の歴史と文化』の生徒の感想文集を持ってきてくれた。印象に残ったことを書いてくれた。聞いてもらえてよかった。
 高校野球の予選が始まった。その結果を報じている神奈川新聞のスポーツ欄に記者の署名入りのコラムがある。そのコラムを担当する記者の一人が「小林剛」さん。鶴巻中での教え子。剛さんはこの4月に入社した新人記者。お母さんは「エコー」の読者。だから「エコー」から生まれた新聞記者だと思っている私。

園芸愛好会で揚げたてのキスのてんぷら
【No.277】 2004年07月10日

 東公民館を拠点に16名で活動している「秦野園芸愛好会」。きょうは14人の参加で久保寺さんの「菊の挿し芽」の実習。そのあと守屋さんが、きのう東京湾で釣ってきたメゴチとキスを目の前でてんぷらに揚げ、食べさせてくれた。とろけるような柔らかさと甘さ。ビールがないを誰もが残念がる。後片付けになると皿洗いの手つきがイイ中川さんが目だった。「この会の人はホントにみんな多才だね」と植木さん。そう言った植木さんから「暑気払い」の計画が発表された。
本日の出席者 望月、久保寺、守屋、稲毛、矢野恒、矢野直、高橋宣、横尾、尾上、高橋庄、植木、古木、中川、武。

畑の雑草
【No.276】 2004年07月09日

 「今日までの暑さ」とのこと。この四日間、待ち望んでいた?畑仕事をした。もちろんがんばっても午前中だけ。露のあるうちは蚊がまとわりつくので蚊取り線香を腰に下げる。烈日を背追いながらの草取り。 
 四月から放ってあった畑。30センチも伸びているのがアキメヒシバ。カヤツリグサもそろそろ茎が太り始めている。ハキダメギクは2センチたらずのものでも花をつけている。だからたちまち畑中に広がってしまう。ツユクサは天日に数日当てておいても一雨降れば生き返るという厄介な代物。
 畑はあと三日くらい。そのあと垣根の刈り込み。そして庭の草取りと体力勝負の日が続く。それが終わるころ「お盆」になる。今夜もビールがうまく飲めるだろう。

秦野だからこそこの記念事業 「市民が作る広報はだの」
【No.275】 2004年07月07日

 「エコー」の印刷版 きょう発送。少し忙しかったので遅れた。

 秦野市の市制50周年記念の事業のの第1回編集委員会が6日の夜、本町公民館で開かれた。二宮市長も出席して編集委員の委嘱式なるものが行われた。思いがけないことで全員緊張気味。
 委員は16名で中学1年生から私の年代まで。男性5名とやや寂しい。私は一応全員面識がある。中学生の4名のうち3人は公民館の「家族新聞講座」の出席者。他の一人は東中学校の学校新聞の委員長。大学生が一人、彼女は停滞気味の高校新聞を再生させた。他の女性・いずれもお母さんだが・は全員PTA広報づくりを楽しんだ人たち。異色は現役の中学校教師。住まいは市外だが、あえて参加してきた。編集委員長に推された。
 1月15日に発行のこの記念号。「新聞教育の秦野」でなければ浮かびあがらない企画だ、と思っている。
 市長も市の広報広聴室も「企画・編集について特別な条件はありません。市民の発想で自由に作って欲しい」とのこと。「楽しんで作らなければ、読んでもらえない」を確認した。 
 2回目の集まりは今月中旬。それぞれが企画を持って来ることを宿題にして解散。散会後、中学生が「務まるかなあ」と心配げに話し合っていた。

二つの新聞講座
【No.274】 2004年06月25日

6月23日  
 1:30pmから保健福祉センターで広報作りの講座。秦野市民生委員児童委員協議会の広報部会から招かれた。協議会が発行している『はだの民児協だより』が4月に50号に到達したのをを契機に、紙面の充実を図りたいということ。編集委員は12名で、お見受けしたところ40代から70歳台までいらっしゃるようだ。その内女性が5名。「部内報」とはいえ800部刷られているとなると、この紙が果たす役割は大きいはず。企画の視点をどこに置くかがたいへん難しい。活発な論議。2時間でも終わらなかった。12月発行号の企画会議に顔を出させてもらうことになった。10数年前、PTA広報講座で私の話を聞いたというFさんががんばっていた。

6月24日
 秦野市中学校新聞研究部会の研究会で講演。
 29年前に行った、実態調査「学級新聞活動による生徒の変容」と市内全学級担任への意識調査「学級新聞は学級に必要か」について説明をした。
 今、さまざまな条件から中学校での子どもたちの活動はジリ貧状態になっている。学級新聞づくりのような「労多くして実り少ない(絶対、そんなことはない!)」活動に取り組む教師は少ない。学級新聞活動は「実り多い活動」であることを数的評価で示し、きょう集まった先生達の勇気付けをしたいと思ったからだ。
 研究討議で。
 「子どもたちの書く力の低落が著しい。一人で書くのではなく数人が集まって記事を書くことは、書くことへの抵抗を和らげると思う。だから学級新聞をつくらせたい」はT先生の言葉。
 「教育的効果は見えない」からと新聞活動を頭から否定する先生がいるらしい。「これに対応する言葉がありますか」と尋ねられた。私の答え「『教育の効果は今日明日にでるものではない。』といって他からのその責めを逃れる先生がいらっしゃる。一方では「教育的効果が見えないからやらない」とも言う。どちらも実践の苦労を避ける口実。子どもと一緒にやろうとする労を惜しんでいる。今日のプリントをその先生によんでもらってください  「老いの繰言」「前世紀の遺物」「単なるノスタルジア」こんな意識をしながら、今日は話をさせてもらった。

 「広報はだの」の市民編集委員の募集の結果。募集定員は満たされたようだ。

今回は母子で参加の浦田家
【No.273】 2004年06月21日

6月19日 
 午前中は東公民館で「親子で楽しく新聞づくり」の講座。参加者名簿に浦田さんが載っていた。2年前のこの講座に、お父さんと小5の娘さんが参加。そして今回はお母さんと下の娘さんが来てくれた。新聞づくりの楽しさを少しわかってもらえた、と思った。 
 今年で三回目になるこの「家族新聞づくり講座」。5つの家庭から月刊の家族新聞が送られて来ている。今年の受講者の中からも家族新聞が生まれたらうれしい。
 午後4時に集合がかかっている「教育を考える会」。会場の湯河原温泉に急いだ。群馬、茨城、千葉、東京、静岡、神奈川から9人が集まった。総勢10名の会だからすごい出席率。男性5女性4で、ジャーナリスト、教育財団の事務局長、学校長、教諭、教師OB・OGという顔ぶれ。寝床に入ったのは午前に近かった。

6月21日
 Kさんからハガキ。市制50周年記念の「広報はだの」の編集委員に立候補したとの連絡。「広報づくり 楽しそう、うれしい」とあった。Kさんも家族新聞講座の卒業生。

 遠い台風なのに風が強い。激しい雨で雨どいがあふれている。

「広報は耕報
【No.272】 2004年06月18日

 午後、わが家で「市P連だより」の編集会議。市内全22校を対象にアンケート調査を行ったそのガンバリ。編集委員たちはかなり燃えている。集まったデータをどのように紙面に載せるのかを論議。6人のだれもが広報づくりにおもしろさを感じ始めているようだ。私の注文も受け入れてくれた。 
 夕方、弾んだ声が玄関に響く。H中PTAの広報委員の二人の来訪。年度の第1号がきょう発行できたので、それを届けにみえた。うれしくてうれしくて仕方ない、そんな雰囲気の二人。広報づくりは全くの初体験とのこと。それだけに、刷り上ってきた広報を眺めての喜びが、表情や言葉・声に表れている。一つのことをやり遂げる、形あるものを生み出す、その苦労と成就感をPTA広報づくりで味わった委員さんたち。新しいレイアウトへの挑戦が目を引いた。私の率直な感想で、その喜びがいっそう増したようだ。

 「広報は耕報」であることを確かめ合えた一日。
 

家族新聞講座
【No.271】 2004年06月17日

6月14日 夜6時半から「魚民」で平成会(政党の派閥の名称みたいだ)。森下・小泉・佐藤・高橋・酒井・上鵜瀬・一寸木さんと私。平成元年に市P連の執行部を務めた人たちの会。この年度に市P連の広報コンクールを始めた。毎年二回こうして集まって、15年も続いている。飲みながら他愛もない話、そしてまちづくりの話や絶対評価のことも少し論議。昔の話はしない。スナックに席を移し「今夜は乾杯」を歌って午前零時に帰宅。
 6月16日 午後、大根中の「ふれあい講座」に出かける。『家族新聞づくりの講座』を頼まれていた。参加はPTAの副会長さん、広報委員長さんなど10名。生徒が1人加わってくれたのもよかった。講座の中身は、1時間では動機付け程度の話しかできない。ただ、新聞づくりの材料・資料は十分に渡した(つもり)。一つでも生まれたらうれしい。期待したい。
 今朝の『タウンニュース』紙に、19日に東公民館で開く「親子で楽しく新聞づくり」講座の紹介記事が出た。

湧水跡に碑を建てる清水自治会
【No.270】 2004年06月14日

 川崎からU先生の来訪。夏の研修の準備のために昨日も来秦とのこと。すでに今日で三回、秦野に入っていらっしゃる。一時間ほど話をした後、湧水のポイントを軽トラで案内した。実朝の首塚のある「ふるさと公園」の『東雲』でソバを食べて分かれた。「六年の担任なので大変緊張している毎日です」といっていたが、「戸川公園を見て学校に帰り別の仕事です」と元気で、そしてすがすがしい青年教師。子どもたちには圧倒的な人気の先生だろう。
 夜、自治会の集会。道路拡張で消えてしまった「清水湧水池」の跡に、そのことを記した碑を建てることになった。碑文をまかされたが、限られたスペース。難しい仕事だ。なにより意識しなければいけないことは、後世の人たちに読んでもらうということ。ここ清水庭に住んでいた人たちが、心からこの地を愛してたということを伝えたいと思う。『寺山ものがたり』を書いてよかった。

あるメール
【No.269】 2004年06月10日

 川崎市立小学校社会科教育研究会のU先生からメールが入った。研究会が主催する研修の一つとして、今年は秦野市を取り上げることになり、秦野を調べているうちに私のでHPの「秦野のおはなし」に行き当たったとのこと。「地下水とひとびとのくらし」など、いくつか質問されのたが、それらしい答えが書けない。

待ってます あなたを
【No.268】 2004年06月09日

 「『見ろ、毎日飲んでOKだ』と父。適量なら時々より毎日の方が脳梗塞発症率4割減とあります。『飲み過ぎはだめよ』『バカ、一杯でやめられりゃ苦労はせん』――これ、昨日の夕刊の『素粒子』の欄に書かれていた文。わが家の会話そのものだ。ビールは飲み過ぎると腹が膨れ、食事はおいしくない。それが分かっていて、毎晩飲んでいる。 
 きょうは梅雨の中休み、それで草むしりをがんばった。午後になるとビールのために、水分は一切摂らない。梅雨といえば、同じ昨日の夕刊の『花おりおり』に、「栗花落」と書いて「つゆ」あるいは「つゆり」と読ませる姓がある、とあった。日本人っておもしろい人種。公民館に「家族新聞づくり講座」のテキストの原版を届けに行った。その途中、ウチの栗畑の花が満開なのが見えた。

 「だれか一緒に『広報はだの』をつくりませんか」とこのページでお誘いしたら、きょうCさんから「応募する」との手紙が届いた。うれしい。あなたも立候補してください。お待ちいたしております。
 

きょう
【No.267】 2004年06月07日

梅雨の季節。ひと時、太陽が顔をだし、そしてザッと降る雨。この時期は捨て猫がミューミュー鳴く。学校に通う子どもたちを当てにしてのことか、誰かがこの近くに置いていく。
 この春かなりの数の花を着けた枝垂桜が枯れた。7年前、退職の春、白泉寺の枝垂桜を見に行ったとき、そこで求めたもの。激しい雨に茶色の葉が散っていく。
 きょう、来年の5月9日にI市でPTA広報講座を持つことが決まった。「鬼が笑う」だろうか。
 そんな今日、教え子から「ガンの告知を受けた」との手紙が来た。
 

昨日きょう 好天気
【No.266】 2004年06月05日

 昨日きょうと快晴が続く。気温は高いが風はさわやか。
 昨日の午前中は栗畑の草刈り。一月前にも刈ったので今日は半日で終わった。補植の苗木も全部着いた。帰りに竹の子を取りに藪に入る。鹿を近くで見た、という人もいるので、先に食べられてしまっているかと思ったが、それらしい様子は見えなかった。初物なので近所の数軒に配った。わが家でも夕食に食べた。
 きょうは先ず玉ねぎの収穫。出来はワルイ。そのあと畑の周りの草刈り。午後は里芋の除草。ついでにナスやキュウリの育ち具合を見たが、一カ月と同じくらい。土作りをしていないことが如実に表れている。それでMさんに堆肥をもらいに行った。だが、いまから間に合うのだろうか。
 二日間、刈り払い機を使ったので、その振動が今も両手に残っている。それでも筋肉痛にならないのは、農作業になれてきたからだろう。農作業をしているときはまったく「無心」。だから畑仕事は好きだ。

一緒に広報づくりを楽しみませんか
【No.265】 2004年06月02日

 きょうのこのページは秦野市役所の“お手伝いのページ”になっています。きのう6月1日に発行された『広報はだの』に次のような募集記事が出ていました。
 「平成17年1月1日に迎える市制施行50周年を記念して、50年の歴史を振り返り、未来のまちづくりにつなげることができるような『広報はだの』の市民版を編集する委員を募集します。秦野市在住、在勤、在学者で小学生以上16名。応募の理由を200字程度にまとめ、氏名、住所、年齢、性別、職業を書いて6月21日までに。〒257−8501広報広聴室に郵送またはファクス(82−9792)で。問い合わせ広報広聴室(82−5111)」
 私は参加します。一緒に広報づくりを楽しみませんか。応募をお待ちしています。

渡邊さんちの家族新聞
【No.264】 2004年05月31日

 蒸し暑いので網戸にした。風は入るが、たちまちザラザラの室内。ときどき通り雨。降るなら降ってくれればいいのに。こういうのを走り梅雨というのだろうか。 
 7月の講演会のための「寺山の地名」の地図をつくった。「今から準備?」と自分でも思うのだが、やはり気になる。新聞の話ではないのだから。
 午後、調べてたいことがあって実朝公の御首塚に行った。塚の雰囲気をかもしだしていた木々が整枝されていて、冬の景色のようだ。『寺山ものがたり』で御首を秦野の地に持ってきたのは武常晴と大津兵部と書いた。そうしたら大津兵部について問い合わせが来た。首塚の五輪の塔(実朝公の墓といわれている)の左前に献灯の石灯篭がある。その灯篭に大津安五郎と武善右エ門の文字が刻まれている。武善右エ門は武常晴氏の末裔(これは確かのようだ)だから、列記してある大津安五郎が兵部氏の関係者だと私は想像しているのだが。それを示す資料がないらしい。
 渡邊さんが家族新聞をもってきた。カラフルで楽しい紙面、もう12号まで発行されている。去年の講習会に参加した家族だ。中1の男の子が清書している。スゴイと思う。お母さんがその気になっているのもイイ。

生ビールとトンカツで昼食  
【No.263】 2004年05月29日

5月27日
 7時14分の秦野始発で座って行った。代々木上原で千代田線に。多分ラッシュの真っ只中、と思っていたら拍子抜け。国会議事堂前で乗り換えた南北線。なんと、乗った電車には4人掛けのシートがあった。「地下鉄」じゃなくて「東京メトロ」と最近名前が変わったが、なんとなく「レトロ」。空いていたので座った。黒のスーツのビジネスマンと同席、なぜか楽しい心。
 会場の文京区民センターには9時半ちょっと過ぎに入ることができた。参加者は100名くらいか。今日は手書き用の新聞罫用紙をテーブルごとに2枚渡した。この用紙で、今日の講習会の内容を記事としてまとめ、参加できなかった委員に読んでもらうように『広報委員会だより』を発行する実習をした。
 質疑の時間「広報の意義など考えたこともなかった。ただ、もしかしたら何か得られるかもしれない、と漠然とした期待感で委員になった。今日の話で確かな期待感を持てた」とこの講座の感想を述べてくれた人がいた。「もっと早い時期に開催を」と主催者へのお願いも出た。散会後、3校が質問・相談で残った。そのうちの一つは幼稚園のお母さん達。その中の一人の外人さんが積極的に質問。
 帰りは代々木上原駅で下車。生ビールとトンカツで昼食。なぜ昼間からビールなのかって。そう、今朝の朝日新聞で「写真入り・6段の囲み」で『教育見つめ20年 三つの声響く紙面願い』と『エコー』の20年が紹介されたからだ。


5月28日
 8時10分に出発。神川橋を渡るのが心配だったが、1時間10分で寒川町役場に着いてしまった。それで車内で20分休憩、去年もそうだったような気がする。今日の参加は40名弱でその内が父親一人。見出しつくりの実習を取り入れた。
。前にも私の話を聞いているという、広報委員3回目という委員さんもいた。寒川小学校PTAは、4月の半ばにパソコンでカラー印刷で見事な第1号を発行している。終わっての個人的な質問。本部の願う広報と、実際に広報委員会が作り上げる広報に違いがあり過ぎる。その調和をさせたいのだが委員会へ言葉掛けができないという悩み。これは会場でできる質問ではない。「中学か高校のときのように、久しぶりに楽しい授業を受けることができました。今日聞いた『文の書き方』を、広報委員だったときに学んでいれば楽しく活動ができたのにと、思いました」はある本部役員さんの言葉。会場を出たところで「『個人情報』という言葉でお願いするアンケートに先生の何人かが答えてくれない」という困惑の相談。アンケートの項目は「今年の先生の目標」とのこと。こういう相談の答えは難しい。そして悲しい。
 今日はビールは飲まず、昼食も食べず、『大山道・田村通り』を真っ直ぐ帰宅。晴れていれば大山が正面に端整な姿を見せてくれる道なのだが。運転は好きではない、すぐに肩が凝る。

5月25日 夜のPTA広報講座
【No.262】 2004年05月26日

 荒川区の夜の部の広報講習会。夜7時から開かれる広報講座は私には初めてのこと。参加者は90名弱とか。11日と合わせると参加者は200名を超えている。荒川区の小・中学校は33校だから1校平均にすれば6名の参加。ちいさな広報委員会は全員参加かもしれない。男性の姿もちらほら。仕事を終えて駆けつけた、というようすの人も多かった。
 一生懸命うなずいて聞いてくださる姿を見て、こちらも身が引き締まる思い。責任を感じる。「PTA広報づくりに取り組むお母さんたちはステキな女性の代表」と、今夜も話したが、こうして夜の広報作りの研修に参加す姿勢を眺めると、私の言葉に偽りはない。9時に終わったが質問のために会場に残った人も何人か。 
 前回の参加者の感想メモをくださった。チラッと目を通した。過去に二度・三度と広報講座に出席されている人がかなりいる。その体験と私の話との対比がしてある。私の通信簿だ。来年もここ「サンパール荒川」で話をさせてもらうことになった。11時半過ぎに帰着。体は疲れたが、心はかなり上気した今日だった。

講演「大山講と大山道」を聴く
【No.261】 2004年05月23日

 「大山講と大山道」という演題の講演を聴きに行った。講師は相模大山先導師「第37代佐藤大住」の佐藤健先生。佐藤先生は現職の高校の教師。
 話に引き込まれた1時間だった。「大山豆腐の由来」は思いがけない話だった。昭和初期のころは「大山道への道は9通りあったと話されたが、寺山を通る「大山道・蓑毛通り」はその中に無くて、今日の先生の話の中では1分程度で終わった。蓑毛にも御師の宿があるが「大山は東に向かって開いている」と話された言葉の中に、大山が江戸の庶民の、あるいは関東一円の農民の信仰の対象であることを知った。
 佐藤先生はある時期、妻と一緒に仕事をされた。それで、今度の講演があることを知り、妻はなつかしさのあまり先生に電話を入れた。そして、私が裏街道である「大山道・蓑毛通り」に興味を持っているのて拝聴に出かける、と伝えたら、お手持ちの資料を私に下さる、とおっしゃった。 
 講演が終わって佐藤先生にご挨拶した。先生が研究編纂された『大山を知って下さい』という冊子をいただいた。

記事を書く実習
【No.260】 2004年05月20日

 大根中学校の「ふれあい講座」。受け持った講座は「新聞づくり」。
保護者も参加できるらしいが受講生は生徒のみ22名。今回は「5W・1H」を基本に、この講座の報告記事を25分で400字程度の記事にする実習もした。全員、一生懸命原稿用紙に向かってくれた。提出された記事の中に「バクスイ(爆睡)」とか(笑い)というような、メールで使われる遊び感覚の表現が使われているものがいくつかあった。この表現感覚を学校・学級新聞づくりにどのように活かすのか。指導する先生方の大きな課題だろう。
 夜、メールチェックをしたら、今日の講座に参加した大根中の生徒からメールが入っていた。

 

南が丘中学校での講演『新聞っておもしろい』
【No.259】 2004年05月18日

5月17日
 2時10分から南が丘中で「新聞の読み方」の講演。この学校は「総合学習」を個人テーマで進めているとのこと。環境、福祉、国際理解、地域、そして情報の5分野が設定され、今日は情報の領域の「新聞」について学ぶことになっていた。
 生徒と先生方全員の390名ほどが体育館に集まってくれた。私がつけた今日の演題は『新聞っておもしろい』。
 持ってきた一般紙のどこに新聞の値段が書いてあるかを探すことから始めた。小泉首相の年金未加入を各紙がどのように扱っているのかも紹介した。
 中学生が新聞を読むポイントを次のように示した。
 1、まずテレビ欄に目を通そう。特に「ワイドショウ」の項目を読もう。 2、次は1面、見出しだけでもいいから。
 3、2・3年生は1面のコラムを。1年生は社会面のコラム。新聞は「人」を報じるもの。「人欄」を読み生き方を学ぼう。

 正味1時間、かなり汗をかいた。終わって質問が3つ。2年生から「朝日新聞の題字の『朝』の字が違うが」と「版と締切時間」のこと。三年生からは「なぜ朝刊は12版から始まるのか」。この瞬間だけでも新聞に関心をもってくれたらいい。

新聞
【No.258】 2004年05月16日

 10月に埼玉で行われる会の出欠席の返事を送ってなかった。それで幹事のT先生より電話をもらってしまった。ほんとうに申し訳ないと思う。出席するつもり。埼玉に泊ったことは一度もないので今から楽しみ。
 雨の中、駅の売店まで明日使う新聞を買いに行く。8紙をそろえ、全ページ目を通した。15日の紙面と比べれば穏やかな各紙。改めて思った「“人”は読まれる要素」。新聞とは、人を書くこと、その人の生き方を伝えること。だから新聞歯オモシロイ。 
 午後M先生来訪。少しの時間、寺山ことを話す。

「未加入」と「再訪朝」
【No.257】 2004年05月15日

 「首相も年金未加入」「首相22日に再訪朝」「民主代表に小沢氏」「女子バレー五輪切符」「朝青龍ついに土」と興味ある見出しュースが今朝の朝刊を飾った。月曜日の「新聞の読み方」の授業の下調べにと考え、各紙が1面のトップにどの記事を持ってきたのか「紙面研究」をしてみた。
 「未加入」をトップにしたのが朝日、神奈川。「再訪朝」を頭に置いたのは読売、産経。毎日と日本経済は調べなかったが、(とりあえず4紙しか手元になかったので)その2紙の紙面は想像できる。これだから“新聞はおもしろい”のだ。
 明日の朝刊の「週刊ポスト」の広告もおもしろそうだ。

風鈴
【No.256】 2004年05月14日

 17日のレジュメを作る。40分ほどで新聞の読み方を話すのだから、絞って、絞って話さなければいけない。「何を話さないか・どれを省くか」でストーリーを書いた。タイトルは『新聞っておもしろい』とした。
 今年の畑、キュウリ、ナスはいちばん安いのにしたので全然育たない。
 今年度第1号のPTA広報が届き始めた。編集後記に「ヤル気」を書いているのがうれしい。
 一年中吊るしっぱしの風鈴がきょうはその働きをしている。少し湿った風だが、気持ちいい。

太吉ちゃん、カアチャンになんと謝るの
【No.255】 2004年05月13日

5月11日
 6時30分に出る。荒川区で10時からPTA広報研修会。120名強の参加者。どこの会場でも「“泣きの涙”で広報委員になった人」と尋る。今日の荒川での挙手はゼロ。思わす拍手した私。こちらもそれに応えなければと思った。質問が一つ「PTA広報に広告を載せたいが」。発行費を広告から得たい、と言う。それほどまでに広報の費用が欲しいのは「学区が無くなり、自由選択になったので、ウチの学校に来るはずの生徒が一クラス分他校に行ってしまった。ウチの学校の良さを、PTA広報を通して荒川全区の人たちに知ってもらおうと思うので」とのこと。「意気込みや良し」ではないか。25日、今度は夜7時からもう一度同じ講座を持つ。

5月12日
 本町中学校での生徒の広報講習会。参加者は広報委員と学級代表と希望者で120名ほど。一生懸命に聞いてくれた。終わってのW君の感想「新聞の話はおもしろかった。新聞をつくってみたい」。この思いがクラスに伝わればいいのだが。
 帰ったら太吉ちゃんの訃報が届いていた。クモ膜下で倒れたらしい。先月10日の同窓会で会ったばかりだ。あの日、太吉ちゃんが話したことを思い出す。「オレの奥さん、オレと結婚したのは60年の不作だって言うのよ。それでオレは『オレ、奥さんと結婚できて一生豊作だったよ』と言ったよ。いいカアチャンだよ、オレのカアチャン」。この話をしている太吉ちゃんと私の写真がある。テレくさそうに、少し眉をひそめ、でも口元には笑みがある太吉ちゃんの顔。太吉ちゃん、カアチャンになんと謝るの。

5月6、7、8日  
【No.254】 2004年05月09日

5月6日
 秦野市P連主催の広報技術講習会、参加者は130名ほどとか。参加者は9時から会場に並べてあるPTA広報紙を読み、9時30分から私の講義を聴く。今回から使う資料を長テーブルに話の順番に並べて置き、それにしたがって話を進めた。昨年よりはスムーズに講義はできたと思っている。ただ、2時間という持ち時間では、参加者が不安がっている広報作りの基本的なノウハウを知ってもらうことは十分ではなかったと思う。どうしてもPTA広報の意義を説くことに力が入ってしまう。 
 講座の後1時間ほど「市P連だより」の企画会議に参加した。「二学期制の試行」と「外注弁当の試行」を特集のテーマにするとのこと。7月発行の予定では「試行期間」が短すぎて記事を書くことが難しいのではないかと助言。
 教え子のM校長先生から学校だよりが送られてきた。過去の号についてアドバイスをしたら、それを取り入れてつくられた今月号。読みやすくなったは事実のようで「職員から読みやすくなりました」と誉められたと同封の手紙に書いてあった。
 

5月7日
  大井町の広報技術講習会、こちらは9〜12時までの3時間研修。幼・小・中PTAをはじめ、地域団体の広報委員が50名ほど集まって来た。昨日よりゆったりと話すことができた。教え子の湯川さんが激励に来てくれた。うれしいことだった。
 帰って一休みしていたら,大井町教育委員会から「忘れ物」の電話。忘れ物のなかに火曜の講座に必要な資料がかなりあるので、直ちに大井町を再訪。それにしても、情けない。寂しい。
 今朝の神奈川新聞が、昨日の秦野での講習会を三段見出し・写真付きで紹介してくれた。ありがたいこと。

5月8日
 9時過ぎ、橋爪先生を訪問。「寺山ものがたり」を9冊注文いただいたので届けた。清水庭の稲荷講の掛け軸の難解な文字を読んでいただくことをついでにお願いした。お嬢さんが葵祭りの行列に参加されるということで、15日に京都にいらっしゃるとのこと。それで「祭り」の写真もお願いした。帰りに知り合いのKさん宅を訪問。キヌサヤ、ホウレンソウ、大根、落花生とツルナシインゲンの種、そしてトマトの苗などをもらう。帰ってすぐに播種、そして植える。
 夜、女子バレーを観戦。今日が良すぎたのか、それともこんなに力が着いたのか。大山、杉山、佐々木がベンチ。

大型連休 私の場合 5月2日
【No.253】 2004年05月03日

 5時半に起床、朝食前に新聞に目を通す。6時40分からバアちゃんの洗面の手伝い、7時の朝ご飯、これはいつもの通り。
 8時20分に軽トラで出発。午前中3時間、栗畑の草刈。ヒメジョオンが畑一面に白い花を咲かせている。キレイといえばそのとおり。昨年もこの時期に草刈に入ったが、こんな景色はなかった。この草は根を深く張り繁殖力はすごい。庭でも畑でもとにかく増える。根こそぎ取らなければたちまちこんな風景にしてしまう、好きになれない草。栗の若草色の芽吹きが美しい。それだけに枯れている木が目に付く。数えたら9本切らなければいけないようだ。
 午後も3時間刈払い機を動かす。楽しそうな作業に見えるが、機械の振動はけっこう手に来る。給油をしながらこんなことを思った。「この栗畑で仕事をしていると、畑の上に住んでいるTさんが話をしに来たっけ。時には缶ジュースももらったなあ」。そのTさんはもう亡き人。
 「笑点」、今日は全員絶好調。「エコー」の発送準備完了。

大型連休 私の場合
【No.252】 2004年05月02日

昨日・5月1日の一日
 
 5時半に起床、新聞を2紙読む。6時40分からバアちゃんの洗面の手伝い。7時に朝ご飯。土曜はバアちゃんのデイ・リハビリの日、それで8時15分になると着替えを手伝う。「お出かけ」となるとトイレが気になるらしく、着替えの最中に二度もトイレ。今朝は8時50分ごろにお迎えの車。出かけた後のバアちゃんの寝室の掃除におおよそ40分。9時半ころから庭の草むしり。この作業はけっこう好き。見た目で結果が分かるから。11時40分ころ母親委員のOさんが広報講座の資料を取りに来る。12時に昼食。1時から「エコー」の発送の準備・フォウルディング。3時過ぎ、明日栗畑の草刈をするので刈払い機の点検。しばらく使わなかったのでエンジンがかからない。4時前、T先生来訪。まもなくバアちゃんのご帰還。縁側からベッドまで移動するのを助けるのだが、体重45キロでは苦しい。 
 6時から夕食。ビールが甘いときは体調は良い証拠。ビールが胃の中で熱く感じたのは初めてのこと。Aさんがきょう作った蕗の葉の煮付け、かみ締めると甘い。そして最後に蕗の苦味が口の中に広がる。食事中、バアちゃんにリハビリのようすをなど聞くが、返事は…。食事が終わったバアちゃんをテレビの前に陣取らせる。音量が最高でなければ聞こえないので、イヤホンを使ってもらっている。調子のいいときは2時間、このごろは1時間ていど。いつバアちゃんの「お願いします」という言葉が掛かるか分からない。だから食事はバアちゃんがベッドに入ってからになる。それで、結局私の晩酌の量が増える。「サッポロ」の大瓶1、「スーパードライ」の缶ビール1、「八海山」を冷でコップ一杯が今日の量。 
 7時のニュースが終わって「お願いします」。バアちゃんの就寝前に私がしなければいけないこと。歯磨きをさせること。続いて足のマッサージをおおよそ30分など。そして「おやすみ」をして8時前に食卓に戻る。食事の後入浴。出てから宛名ラベルと切手を封筒に貼る。終わったのが11時。こうして大型連休の第一日目が終わった。


余生
【No.251】 2004年04月30日

 義兄が亡くなった。昨年5月に奥さんに先立たれて一年も経っていない。「千代子の一周忌だけは済ませたい」と言っていたが叶わなかった。肺がん。74歳の生涯。定年退職後、何かにせかされるように行動し始めた。東京の書道大学に学びに出かけた。弓道も復活。海外旅行、ウオーキング、植物観察会は千代子さんと一緒だった。写経、四国お遍路、そしてさっと去っていった。同僚だった人が読んだ弔辞の「第二の人生」「人生これから」という言葉がとても空しく響いた。だが印象に残る弔辞だった。「60歳までが人生」という思いが私にはいっそう強くなった。自分の「余生」を思う。

 秦野市は来年市制50周年を迎える。いくつか記念事業がもたれるようだが、その中の一つに「市民の手で来年1月15日号『広報はだの』を発行しよう」という企画があるらしい。
 広報広聴室の担当者が訪ねてみえて、この事業に関わるように依頼された。12名の編集委員は公募されるらしい(6月1日号の『広報はだの』に掲載)。

 この日記を読んだ人で秦野在住か在勤の人、一緒に広報をつくりませんか。子どもや若者も大歓迎だそうです。面白いと思いますよ。

 

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