- 寺 山 だ よ り -

市民が作る「広報はだの」第2回企画委員会
【No.282】 2004年07月22日

「広報はだの」の二回目の集まり。16名がそれぞれ企画を持ち寄ることになっていた。「夢いっぱい 出会い・ふれあい 秦野(まち)みらい」が市制50周年事業のメインテーマ。たくさんの企画が出された。「写真がたくさんあるとて読んでもらえる。50年前の写真の特集を組んだら」「小学生も関心をもって読める紙面に」「読者に行動を起こせるような記事を」「大勢の人を紙面に登場させたい」「ずっと秦野を支えてきた人を取り上げたい」「秦野は葉タバコによって育ったまち。そのことを検証したい」など。市民にアンケートをしよう、という壮大な案も出された。これでは1〜4面を通してのテーマを作らなければ企画は決まらない。それで、「50 元気 水」をその基本テーマに、と提案した。
  司会役の私が力不足なので、3時間近く話し合ったが第1面のテーマが決まらなかった。記念号となればそれらしい表情を1面では見せたい。私たちがつくる『広報はだの』は「市勢要覧」や「秦野の観光パンフレット」とは違う、ということを確認した。
 企画小委員会をつくり、次回までに素案(企画とレイアウト)をつくることで解散。

生涯で最高の出来ごと
【No.281】 2004年07月20日

「石のカワサキ」庭先で、夏の朝日を浴びて『清水湧水池跡』の碑が私を待っていた。『寺山ものがたり』がこんな形で清水自治会の皆さんに受けとめていただけるとは思ってもみなかった。東小・中の校歌の発祥地を記録にとどめておきたい、という思いは確かにあった。その思いを、自治会長の敏明さん、先輩の完さんや洋造さんが受け止めてくれた。俊さんの応援も大きな力になった。
四国産の石だそうで、青みを帯びているので背面が白い壁なので引き立つ。重さは約1トン。裏面に私が書いたこの碑のいわれが刻まれている。まったく言うことなし。8月に披露の式を行う。この日記を読んだ人だけでもぜひ見てもらいたい。私の生涯で最高の出来ごとにちがいない。

19日に記念碑の据えつけ
【No.280】 2004年07月18日

 7時から清水自治会の集会。議題は(1)寺山の納涼大会の準備の件、今年の清水の担当は「フランクフルト売り」で、わが家は売り子の役。(2)8月に開かれるソフトボール大会の選手の選出。清水は「三年連続優勝を狙う」。
 (3)とうとう「清水湧水池跡」の記念碑が建つときが来た。19日に記念碑を中井町までとりに行き、みんなの手で据え付けることになった。「経費削減」からでもあるが、自分達で最後までやり遂げたいという思いが強いからだ。
 除幕式は8月15日に行うことになった。その日までもう一カ月もない。それで式典と祝賀会の計画を実行委員7名で立てることになった。「これから席を変えて話し合おう」ということになり、9時ごろに『花小路』に。ところが、カラオケの会の例会日とかで、喉自慢が入れ替わり立ち代り…。とても話など無理。結局こちらの会は単なる二次会になってしまった。11時過ぎにご帰還のわれわれ。
 きょうは東地区の納涼大会が小学校の校庭で。東田原の朝日神社の宵宮で祭り太鼓が聞こえてくる。そして三連休。すっかり夏休みの気分。

浅からぬ因縁
【No.279】 2004年07月17日

 今年が創立80周年の大秦野高校。その同窓会が記念誌を発行するので助言が欲しいと招かれた。会長さん宅で夜6時半からの会議。前身が女学校だったので、集まった企画委員3名は女性。
 80年という膨大な時の流れをどのように収めるかが難題。その80年の歴史の会の会長さんが、現在で4代目とか。まず年表をつくること。勤続年数が長かった先生から教え子の現在の動向を聞き出すことが次の作業。その二つができたところで、全体の構想を考えることにする。
 会員でもない、PTA会員でもなかった、もちろん勤務したこともない私に、声が掛かったのは、多分次のような因縁からだろう。
 会長Tさんの弟さんは私と大学の同期。彼は58歳の現役新聞記者で病魔に襲われ他界した。彼への弔辞を読ませてもらった。10年まえのことだ。 30年も昔、PTA広報づくりでお目にかかったのが副会長Eさん。Eさんのご主人とは「秦野市P連だより」を創刊した。
 そして書記のMさん。彼女はボランティア団体の広報発行の責任者としての知り合い。「最後までお付き合いください」と頼まれた。

7月13日 お盆です
【No.278】 2004年07月14日

お盆の支度をした一日。お墓の掃除。帰って盆棚を飾り、辻を作る。ことしの辻は美しくできた。5時前に迎え火を焚く。6軒の辻にお線香を上げに回る。
 浦田さん母子が家族新聞ができたと持ってきた。4年生の夏子さんが清書している。公民館に展示してもいい、と夏子さん。「学期に1回は出したい」とも。
 東中のF先生が先月の授業『東地区の歴史と文化』の生徒の感想文集を持ってきてくれた。印象に残ったことを書いてくれた。聞いてもらえてよかった。
 高校野球の予選が始まった。その結果を報じている神奈川新聞のスポーツ欄に記者の署名入りのコラムがある。そのコラムを担当する記者の一人が「小林剛」さん。鶴巻中での教え子。剛さんはこの4月に入社した新人記者。お母さんは「エコー」の読者。だから「エコー」から生まれた新聞記者だと思っている私。

園芸愛好会で揚げたてのキスのてんぷら
【No.277】 2004年07月10日

 東公民館を拠点に16名で活動している「秦野園芸愛好会」。きょうは14人の参加で久保寺さんの「菊の挿し芽」の実習。そのあと守屋さんが、きのう東京湾で釣ってきたメゴチとキスを目の前でてんぷらに揚げ、食べさせてくれた。とろけるような柔らかさと甘さ。ビールがないを誰もが残念がる。後片付けになると皿洗いの手つきがイイ中川さんが目だった。「この会の人はホントにみんな多才だね」と植木さん。そう言った植木さんから「暑気払い」の計画が発表された。
本日の出席者 望月、久保寺、守屋、稲毛、矢野恒、矢野直、高橋宣、横尾、尾上、高橋庄、植木、古木、中川、武。

畑の雑草
【No.276】 2004年07月09日

 「今日までの暑さ」とのこと。この四日間、待ち望んでいた?畑仕事をした。もちろんがんばっても午前中だけ。露のあるうちは蚊がまとわりつくので蚊取り線香を腰に下げる。烈日を背追いながらの草取り。 
 四月から放ってあった畑。30センチも伸びているのがアキメヒシバ。カヤツリグサもそろそろ茎が太り始めている。ハキダメギクは2センチたらずのものでも花をつけている。だからたちまち畑中に広がってしまう。ツユクサは天日に数日当てておいても一雨降れば生き返るという厄介な代物。
 畑はあと三日くらい。そのあと垣根の刈り込み。そして庭の草取りと体力勝負の日が続く。それが終わるころ「お盆」になる。今夜もビールがうまく飲めるだろう。

秦野だからこそこの記念事業 「市民が作る広報はだの」
【No.275】 2004年07月07日

 「エコー」の印刷版 きょう発送。少し忙しかったので遅れた。

 秦野市の市制50周年記念の事業のの第1回編集委員会が6日の夜、本町公民館で開かれた。二宮市長も出席して編集委員の委嘱式なるものが行われた。思いがけないことで全員緊張気味。
 委員は16名で中学1年生から私の年代まで。男性5名とやや寂しい。私は一応全員面識がある。中学生の4名のうち3人は公民館の「家族新聞講座」の出席者。他の一人は東中学校の学校新聞の委員長。大学生が一人、彼女は停滞気味の高校新聞を再生させた。他の女性・いずれもお母さんだが・は全員PTA広報づくりを楽しんだ人たち。異色は現役の中学校教師。住まいは市外だが、あえて参加してきた。編集委員長に推された。
 1月15日に発行のこの記念号。「新聞教育の秦野」でなければ浮かびあがらない企画だ、と思っている。
 市長も市の広報広聴室も「企画・編集について特別な条件はありません。市民の発想で自由に作って欲しい」とのこと。「楽しんで作らなければ、読んでもらえない」を確認した。 
 2回目の集まりは今月中旬。それぞれが企画を持って来ることを宿題にして解散。散会後、中学生が「務まるかなあ」と心配げに話し合っていた。

二つの新聞講座
【No.274】 2004年06月25日

6月23日  
 1:30pmから保健福祉センターで広報作りの講座。秦野市民生委員児童委員協議会の広報部会から招かれた。協議会が発行している『はだの民児協だより』が4月に50号に到達したのをを契機に、紙面の充実を図りたいということ。編集委員は12名で、お見受けしたところ40代から70歳台までいらっしゃるようだ。その内女性が5名。「部内報」とはいえ800部刷られているとなると、この紙が果たす役割は大きいはず。企画の視点をどこに置くかがたいへん難しい。活発な論議。2時間でも終わらなかった。12月発行号の企画会議に顔を出させてもらうことになった。10数年前、PTA広報講座で私の話を聞いたというFさんががんばっていた。

6月24日
 秦野市中学校新聞研究部会の研究会で講演。
 29年前に行った、実態調査「学級新聞活動による生徒の変容」と市内全学級担任への意識調査「学級新聞は学級に必要か」について説明をした。
 今、さまざまな条件から中学校での子どもたちの活動はジリ貧状態になっている。学級新聞づくりのような「労多くして実り少ない(絶対、そんなことはない!)」活動に取り組む教師は少ない。学級新聞活動は「実り多い活動」であることを数的評価で示し、きょう集まった先生達の勇気付けをしたいと思ったからだ。
 研究討議で。
 「子どもたちの書く力の低落が著しい。一人で書くのではなく数人が集まって記事を書くことは、書くことへの抵抗を和らげると思う。だから学級新聞をつくらせたい」はT先生の言葉。
 「教育的効果は見えない」からと新聞活動を頭から否定する先生がいるらしい。「これに対応する言葉がありますか」と尋ねられた。私の答え「『教育の効果は今日明日にでるものではない。』といって他からのその責めを逃れる先生がいらっしゃる。一方では「教育的効果が見えないからやらない」とも言う。どちらも実践の苦労を避ける口実。子どもと一緒にやろうとする労を惜しんでいる。今日のプリントをその先生によんでもらってください  「老いの繰言」「前世紀の遺物」「単なるノスタルジア」こんな意識をしながら、今日は話をさせてもらった。

 「広報はだの」の市民編集委員の募集の結果。募集定員は満たされたようだ。

今回は母子で参加の浦田家
【No.273】 2004年06月21日

6月19日 
 午前中は東公民館で「親子で楽しく新聞づくり」の講座。参加者名簿に浦田さんが載っていた。2年前のこの講座に、お父さんと小5の娘さんが参加。そして今回はお母さんと下の娘さんが来てくれた。新聞づくりの楽しさを少しわかってもらえた、と思った。 
 今年で三回目になるこの「家族新聞づくり講座」。5つの家庭から月刊の家族新聞が送られて来ている。今年の受講者の中からも家族新聞が生まれたらうれしい。
 午後4時に集合がかかっている「教育を考える会」。会場の湯河原温泉に急いだ。群馬、茨城、千葉、東京、静岡、神奈川から9人が集まった。総勢10名の会だからすごい出席率。男性5女性4で、ジャーナリスト、教育財団の事務局長、学校長、教諭、教師OB・OGという顔ぶれ。寝床に入ったのは午前に近かった。

6月21日
 Kさんからハガキ。市制50周年記念の「広報はだの」の編集委員に立候補したとの連絡。「広報づくり 楽しそう、うれしい」とあった。Kさんも家族新聞講座の卒業生。

 遠い台風なのに風が強い。激しい雨で雨どいがあふれている。

「広報は耕報
【No.272】 2004年06月18日

 午後、わが家で「市P連だより」の編集会議。市内全22校を対象にアンケート調査を行ったそのガンバリ。編集委員たちはかなり燃えている。集まったデータをどのように紙面に載せるのかを論議。6人のだれもが広報づくりにおもしろさを感じ始めているようだ。私の注文も受け入れてくれた。 
 夕方、弾んだ声が玄関に響く。H中PTAの広報委員の二人の来訪。年度の第1号がきょう発行できたので、それを届けにみえた。うれしくてうれしくて仕方ない、そんな雰囲気の二人。広報づくりは全くの初体験とのこと。それだけに、刷り上ってきた広報を眺めての喜びが、表情や言葉・声に表れている。一つのことをやり遂げる、形あるものを生み出す、その苦労と成就感をPTA広報づくりで味わった委員さんたち。新しいレイアウトへの挑戦が目を引いた。私の率直な感想で、その喜びがいっそう増したようだ。

 「広報は耕報」であることを確かめ合えた一日。
 

家族新聞講座
【No.271】 2004年06月17日

6月14日 夜6時半から「魚民」で平成会(政党の派閥の名称みたいだ)。森下・小泉・佐藤・高橋・酒井・上鵜瀬・一寸木さんと私。平成元年に市P連の執行部を務めた人たちの会。この年度に市P連の広報コンクールを始めた。毎年二回こうして集まって、15年も続いている。飲みながら他愛もない話、そしてまちづくりの話や絶対評価のことも少し論議。昔の話はしない。スナックに席を移し「今夜は乾杯」を歌って午前零時に帰宅。
 6月16日 午後、大根中の「ふれあい講座」に出かける。『家族新聞づくりの講座』を頼まれていた。参加はPTAの副会長さん、広報委員長さんなど10名。生徒が1人加わってくれたのもよかった。講座の中身は、1時間では動機付け程度の話しかできない。ただ、新聞づくりの材料・資料は十分に渡した(つもり)。一つでも生まれたらうれしい。期待したい。
 今朝の『タウンニュース』紙に、19日に東公民館で開く「親子で楽しく新聞づくり」講座の紹介記事が出た。

湧水跡に碑を建てる清水自治会
【No.270】 2004年06月14日

 川崎からU先生の来訪。夏の研修の準備のために昨日も来秦とのこと。すでに今日で三回、秦野に入っていらっしゃる。一時間ほど話をした後、湧水のポイントを軽トラで案内した。実朝の首塚のある「ふるさと公園」の『東雲』でソバを食べて分かれた。「六年の担任なので大変緊張している毎日です」といっていたが、「戸川公園を見て学校に帰り別の仕事です」と元気で、そしてすがすがしい青年教師。子どもたちには圧倒的な人気の先生だろう。
 夜、自治会の集会。道路拡張で消えてしまった「清水湧水池」の跡に、そのことを記した碑を建てることになった。碑文をまかされたが、限られたスペース。難しい仕事だ。なにより意識しなければいけないことは、後世の人たちに読んでもらうということ。ここ清水庭に住んでいた人たちが、心からこの地を愛してたということを伝えたいと思う。『寺山ものがたり』を書いてよかった。

あるメール
【No.269】 2004年06月10日

 川崎市立小学校社会科教育研究会のU先生からメールが入った。研究会が主催する研修の一つとして、今年は秦野市を取り上げることになり、秦野を調べているうちに私のでHPの「秦野のおはなし」に行き当たったとのこと。「地下水とひとびとのくらし」など、いくつか質問されのたが、それらしい答えが書けない。

待ってます あなたを
【No.268】 2004年06月09日

 「『見ろ、毎日飲んでOKだ』と父。適量なら時々より毎日の方が脳梗塞発症率4割減とあります。『飲み過ぎはだめよ』『バカ、一杯でやめられりゃ苦労はせん』――これ、昨日の夕刊の『素粒子』の欄に書かれていた文。わが家の会話そのものだ。ビールは飲み過ぎると腹が膨れ、食事はおいしくない。それが分かっていて、毎晩飲んでいる。 
 きょうは梅雨の中休み、それで草むしりをがんばった。午後になるとビールのために、水分は一切摂らない。梅雨といえば、同じ昨日の夕刊の『花おりおり』に、「栗花落」と書いて「つゆ」あるいは「つゆり」と読ませる姓がある、とあった。日本人っておもしろい人種。公民館に「家族新聞づくり講座」のテキストの原版を届けに行った。その途中、ウチの栗畑の花が満開なのが見えた。

 「だれか一緒に『広報はだの』をつくりませんか」とこのページでお誘いしたら、きょうCさんから「応募する」との手紙が届いた。うれしい。あなたも立候補してください。お待ちいたしております。
 

きょう
【No.267】 2004年06月07日

梅雨の季節。ひと時、太陽が顔をだし、そしてザッと降る雨。この時期は捨て猫がミューミュー鳴く。学校に通う子どもたちを当てにしてのことか、誰かがこの近くに置いていく。
 この春かなりの数の花を着けた枝垂桜が枯れた。7年前、退職の春、白泉寺の枝垂桜を見に行ったとき、そこで求めたもの。激しい雨に茶色の葉が散っていく。
 きょう、来年の5月9日にI市でPTA広報講座を持つことが決まった。「鬼が笑う」だろうか。
 そんな今日、教え子から「ガンの告知を受けた」との手紙が来た。
 

昨日きょう 好天気
【No.266】 2004年06月05日

 昨日きょうと快晴が続く。気温は高いが風はさわやか。
 昨日の午前中は栗畑の草刈り。一月前にも刈ったので今日は半日で終わった。補植の苗木も全部着いた。帰りに竹の子を取りに藪に入る。鹿を近くで見た、という人もいるので、先に食べられてしまっているかと思ったが、それらしい様子は見えなかった。初物なので近所の数軒に配った。わが家でも夕食に食べた。
 きょうは先ず玉ねぎの収穫。出来はワルイ。そのあと畑の周りの草刈り。午後は里芋の除草。ついでにナスやキュウリの育ち具合を見たが、一カ月と同じくらい。土作りをしていないことが如実に表れている。それでMさんに堆肥をもらいに行った。だが、いまから間に合うのだろうか。
 二日間、刈り払い機を使ったので、その振動が今も両手に残っている。それでも筋肉痛にならないのは、農作業になれてきたからだろう。農作業をしているときはまったく「無心」。だから畑仕事は好きだ。

一緒に広報づくりを楽しみませんか
【No.265】 2004年06月02日

 きょうのこのページは秦野市役所の“お手伝いのページ”になっています。きのう6月1日に発行された『広報はだの』に次のような募集記事が出ていました。
 「平成17年1月1日に迎える市制施行50周年を記念して、50年の歴史を振り返り、未来のまちづくりにつなげることができるような『広報はだの』の市民版を編集する委員を募集します。秦野市在住、在勤、在学者で小学生以上16名。応募の理由を200字程度にまとめ、氏名、住所、年齢、性別、職業を書いて6月21日までに。〒257−8501広報広聴室に郵送またはファクス(82−9792)で。問い合わせ広報広聴室(82−5111)」
 私は参加します。一緒に広報づくりを楽しみませんか。応募をお待ちしています。

渡邊さんちの家族新聞
【No.264】 2004年05月31日

 蒸し暑いので網戸にした。風は入るが、たちまちザラザラの室内。ときどき通り雨。降るなら降ってくれればいいのに。こういうのを走り梅雨というのだろうか。 
 7月の講演会のための「寺山の地名」の地図をつくった。「今から準備?」と自分でも思うのだが、やはり気になる。新聞の話ではないのだから。
 午後、調べてたいことがあって実朝公の御首塚に行った。塚の雰囲気をかもしだしていた木々が整枝されていて、冬の景色のようだ。『寺山ものがたり』で御首を秦野の地に持ってきたのは武常晴と大津兵部と書いた。そうしたら大津兵部について問い合わせが来た。首塚の五輪の塔(実朝公の墓といわれている)の左前に献灯の石灯篭がある。その灯篭に大津安五郎と武善右エ門の文字が刻まれている。武善右エ門は武常晴氏の末裔(これは確かのようだ)だから、列記してある大津安五郎が兵部氏の関係者だと私は想像しているのだが。それを示す資料がないらしい。
 渡邊さんが家族新聞をもってきた。カラフルで楽しい紙面、もう12号まで発行されている。去年の講習会に参加した家族だ。中1の男の子が清書している。スゴイと思う。お母さんがその気になっているのもイイ。

生ビールとトンカツで昼食  
【No.263】 2004年05月29日

5月27日
 7時14分の秦野始発で座って行った。代々木上原で千代田線に。多分ラッシュの真っ只中、と思っていたら拍子抜け。国会議事堂前で乗り換えた南北線。なんと、乗った電車には4人掛けのシートがあった。「地下鉄」じゃなくて「東京メトロ」と最近名前が変わったが、なんとなく「レトロ」。空いていたので座った。黒のスーツのビジネスマンと同席、なぜか楽しい心。
 会場の文京区民センターには9時半ちょっと過ぎに入ることができた。参加者は100名くらいか。今日は手書き用の新聞罫用紙をテーブルごとに2枚渡した。この用紙で、今日の講習会の内容を記事としてまとめ、参加できなかった委員に読んでもらうように『広報委員会だより』を発行する実習をした。
 質疑の時間「広報の意義など考えたこともなかった。ただ、もしかしたら何か得られるかもしれない、と漠然とした期待感で委員になった。今日の話で確かな期待感を持てた」とこの講座の感想を述べてくれた人がいた。「もっと早い時期に開催を」と主催者へのお願いも出た。散会後、3校が質問・相談で残った。そのうちの一つは幼稚園のお母さん達。その中の一人の外人さんが積極的に質問。
 帰りは代々木上原駅で下車。生ビールとトンカツで昼食。なぜ昼間からビールなのかって。そう、今朝の朝日新聞で「写真入り・6段の囲み」で『教育見つめ20年 三つの声響く紙面願い』と『エコー』の20年が紹介されたからだ。


5月28日
 8時10分に出発。神川橋を渡るのが心配だったが、1時間10分で寒川町役場に着いてしまった。それで車内で20分休憩、去年もそうだったような気がする。今日の参加は40名弱でその内が父親一人。見出しつくりの実習を取り入れた。
。前にも私の話を聞いているという、広報委員3回目という委員さんもいた。寒川小学校PTAは、4月の半ばにパソコンでカラー印刷で見事な第1号を発行している。終わっての個人的な質問。本部の願う広報と、実際に広報委員会が作り上げる広報に違いがあり過ぎる。その調和をさせたいのだが委員会へ言葉掛けができないという悩み。これは会場でできる質問ではない。「中学か高校のときのように、久しぶりに楽しい授業を受けることができました。今日聞いた『文の書き方』を、広報委員だったときに学んでいれば楽しく活動ができたのにと、思いました」はある本部役員さんの言葉。会場を出たところで「『個人情報』という言葉でお願いするアンケートに先生の何人かが答えてくれない」という困惑の相談。アンケートの項目は「今年の先生の目標」とのこと。こういう相談の答えは難しい。そして悲しい。
 今日はビールは飲まず、昼食も食べず、『大山道・田村通り』を真っ直ぐ帰宅。晴れていれば大山が正面に端整な姿を見せてくれる道なのだが。運転は好きではない、すぐに肩が凝る。

5月25日 夜のPTA広報講座
【No.262】 2004年05月26日

 荒川区の夜の部の広報講習会。夜7時から開かれる広報講座は私には初めてのこと。参加者は90名弱とか。11日と合わせると参加者は200名を超えている。荒川区の小・中学校は33校だから1校平均にすれば6名の参加。ちいさな広報委員会は全員参加かもしれない。男性の姿もちらほら。仕事を終えて駆けつけた、というようすの人も多かった。
 一生懸命うなずいて聞いてくださる姿を見て、こちらも身が引き締まる思い。責任を感じる。「PTA広報づくりに取り組むお母さんたちはステキな女性の代表」と、今夜も話したが、こうして夜の広報作りの研修に参加す姿勢を眺めると、私の言葉に偽りはない。9時に終わったが質問のために会場に残った人も何人か。 
 前回の参加者の感想メモをくださった。チラッと目を通した。過去に二度・三度と広報講座に出席されている人がかなりいる。その体験と私の話との対比がしてある。私の通信簿だ。来年もここ「サンパール荒川」で話をさせてもらうことになった。11時半過ぎに帰着。体は疲れたが、心はかなり上気した今日だった。

講演「大山講と大山道」を聴く
【No.261】 2004年05月23日

 「大山講と大山道」という演題の講演を聴きに行った。講師は相模大山先導師「第37代佐藤大住」の佐藤健先生。佐藤先生は現職の高校の教師。
 話に引き込まれた1時間だった。「大山豆腐の由来」は思いがけない話だった。昭和初期のころは「大山道への道は9通りあったと話されたが、寺山を通る「大山道・蓑毛通り」はその中に無くて、今日の先生の話の中では1分程度で終わった。蓑毛にも御師の宿があるが「大山は東に向かって開いている」と話された言葉の中に、大山が江戸の庶民の、あるいは関東一円の農民の信仰の対象であることを知った。
 佐藤先生はある時期、妻と一緒に仕事をされた。それで、今度の講演があることを知り、妻はなつかしさのあまり先生に電話を入れた。そして、私が裏街道である「大山道・蓑毛通り」に興味を持っているのて拝聴に出かける、と伝えたら、お手持ちの資料を私に下さる、とおっしゃった。 
 講演が終わって佐藤先生にご挨拶した。先生が研究編纂された『大山を知って下さい』という冊子をいただいた。

記事を書く実習
【No.260】 2004年05月20日

 大根中学校の「ふれあい講座」。受け持った講座は「新聞づくり」。
保護者も参加できるらしいが受講生は生徒のみ22名。今回は「5W・1H」を基本に、この講座の報告記事を25分で400字程度の記事にする実習もした。全員、一生懸命原稿用紙に向かってくれた。提出された記事の中に「バクスイ(爆睡)」とか(笑い)というような、メールで使われる遊び感覚の表現が使われているものがいくつかあった。この表現感覚を学校・学級新聞づくりにどのように活かすのか。指導する先生方の大きな課題だろう。
 夜、メールチェックをしたら、今日の講座に参加した大根中の生徒からメールが入っていた。

 

南が丘中学校での講演『新聞っておもしろい』
【No.259】 2004年05月18日

5月17日
 2時10分から南が丘中で「新聞の読み方」の講演。この学校は「総合学習」を個人テーマで進めているとのこと。環境、福祉、国際理解、地域、そして情報の5分野が設定され、今日は情報の領域の「新聞」について学ぶことになっていた。
 生徒と先生方全員の390名ほどが体育館に集まってくれた。私がつけた今日の演題は『新聞っておもしろい』。
 持ってきた一般紙のどこに新聞の値段が書いてあるかを探すことから始めた。小泉首相の年金未加入を各紙がどのように扱っているのかも紹介した。
 中学生が新聞を読むポイントを次のように示した。
 1、まずテレビ欄に目を通そう。特に「ワイドショウ」の項目を読もう。 2、次は1面、見出しだけでもいいから。
 3、2・3年生は1面のコラムを。1年生は社会面のコラム。新聞は「人」を報じるもの。「人欄」を読み生き方を学ぼう。

 正味1時間、かなり汗をかいた。終わって質問が3つ。2年生から「朝日新聞の題字の『朝』の字が違うが」と「版と締切時間」のこと。三年生からは「なぜ朝刊は12版から始まるのか」。この瞬間だけでも新聞に関心をもってくれたらいい。

新聞
【No.258】 2004年05月16日

 10月に埼玉で行われる会の出欠席の返事を送ってなかった。それで幹事のT先生より電話をもらってしまった。ほんとうに申し訳ないと思う。出席するつもり。埼玉に泊ったことは一度もないので今から楽しみ。
 雨の中、駅の売店まで明日使う新聞を買いに行く。8紙をそろえ、全ページ目を通した。15日の紙面と比べれば穏やかな各紙。改めて思った「“人”は読まれる要素」。新聞とは、人を書くこと、その人の生き方を伝えること。だから新聞歯オモシロイ。 
 午後M先生来訪。少しの時間、寺山ことを話す。

「未加入」と「再訪朝」
【No.257】 2004年05月15日

 「首相も年金未加入」「首相22日に再訪朝」「民主代表に小沢氏」「女子バレー五輪切符」「朝青龍ついに土」と興味ある見出しュースが今朝の朝刊を飾った。月曜日の「新聞の読み方」の授業の下調べにと考え、各紙が1面のトップにどの記事を持ってきたのか「紙面研究」をしてみた。
 「未加入」をトップにしたのが朝日、神奈川。「再訪朝」を頭に置いたのは読売、産経。毎日と日本経済は調べなかったが、(とりあえず4紙しか手元になかったので)その2紙の紙面は想像できる。これだから“新聞はおもしろい”のだ。
 明日の朝刊の「週刊ポスト」の広告もおもしろそうだ。

風鈴
【No.256】 2004年05月14日

 17日のレジュメを作る。40分ほどで新聞の読み方を話すのだから、絞って、絞って話さなければいけない。「何を話さないか・どれを省くか」でストーリーを書いた。タイトルは『新聞っておもしろい』とした。
 今年の畑、キュウリ、ナスはいちばん安いのにしたので全然育たない。
 今年度第1号のPTA広報が届き始めた。編集後記に「ヤル気」を書いているのがうれしい。
 一年中吊るしっぱしの風鈴がきょうはその働きをしている。少し湿った風だが、気持ちいい。

太吉ちゃん、カアチャンになんと謝るの
【No.255】 2004年05月13日

5月11日
 6時30分に出る。荒川区で10時からPTA広報研修会。120名強の参加者。どこの会場でも「“泣きの涙”で広報委員になった人」と尋る。今日の荒川での挙手はゼロ。思わす拍手した私。こちらもそれに応えなければと思った。質問が一つ「PTA広報に広告を載せたいが」。発行費を広告から得たい、と言う。それほどまでに広報の費用が欲しいのは「学区が無くなり、自由選択になったので、ウチの学校に来るはずの生徒が一クラス分他校に行ってしまった。ウチの学校の良さを、PTA広報を通して荒川全区の人たちに知ってもらおうと思うので」とのこと。「意気込みや良し」ではないか。25日、今度は夜7時からもう一度同じ講座を持つ。

5月12日
 本町中学校での生徒の広報講習会。参加者は広報委員と学級代表と希望者で120名ほど。一生懸命に聞いてくれた。終わってのW君の感想「新聞の話はおもしろかった。新聞をつくってみたい」。この思いがクラスに伝わればいいのだが。
 帰ったら太吉ちゃんの訃報が届いていた。クモ膜下で倒れたらしい。先月10日の同窓会で会ったばかりだ。あの日、太吉ちゃんが話したことを思い出す。「オレの奥さん、オレと結婚したのは60年の不作だって言うのよ。それでオレは『オレ、奥さんと結婚できて一生豊作だったよ』と言ったよ。いいカアチャンだよ、オレのカアチャン」。この話をしている太吉ちゃんと私の写真がある。テレくさそうに、少し眉をひそめ、でも口元には笑みがある太吉ちゃんの顔。太吉ちゃん、カアチャンになんと謝るの。

5月6、7、8日  
【No.254】 2004年05月09日

5月6日
 秦野市P連主催の広報技術講習会、参加者は130名ほどとか。参加者は9時から会場に並べてあるPTA広報紙を読み、9時30分から私の講義を聴く。今回から使う資料を長テーブルに話の順番に並べて置き、それにしたがって話を進めた。昨年よりはスムーズに講義はできたと思っている。ただ、2時間という持ち時間では、参加者が不安がっている広報作りの基本的なノウハウを知ってもらうことは十分ではなかったと思う。どうしてもPTA広報の意義を説くことに力が入ってしまう。 
 講座の後1時間ほど「市P連だより」の企画会議に参加した。「二学期制の試行」と「外注弁当の試行」を特集のテーマにするとのこと。7月発行の予定では「試行期間」が短すぎて記事を書くことが難しいのではないかと助言。
 教え子のM校長先生から学校だよりが送られてきた。過去の号についてアドバイスをしたら、それを取り入れてつくられた今月号。読みやすくなったは事実のようで「職員から読みやすくなりました」と誉められたと同封の手紙に書いてあった。
 

5月7日
  大井町の広報技術講習会、こちらは9〜12時までの3時間研修。幼・小・中PTAをはじめ、地域団体の広報委員が50名ほど集まって来た。昨日よりゆったりと話すことができた。教え子の湯川さんが激励に来てくれた。うれしいことだった。
 帰って一休みしていたら,大井町教育委員会から「忘れ物」の電話。忘れ物のなかに火曜の講座に必要な資料がかなりあるので、直ちに大井町を再訪。それにしても、情けない。寂しい。
 今朝の神奈川新聞が、昨日の秦野での講習会を三段見出し・写真付きで紹介してくれた。ありがたいこと。

5月8日
 9時過ぎ、橋爪先生を訪問。「寺山ものがたり」を9冊注文いただいたので届けた。清水庭の稲荷講の掛け軸の難解な文字を読んでいただくことをついでにお願いした。お嬢さんが葵祭りの行列に参加されるということで、15日に京都にいらっしゃるとのこと。それで「祭り」の写真もお願いした。帰りに知り合いのKさん宅を訪問。キヌサヤ、ホウレンソウ、大根、落花生とツルナシインゲンの種、そしてトマトの苗などをもらう。帰ってすぐに播種、そして植える。
 夜、女子バレーを観戦。今日が良すぎたのか、それともこんなに力が着いたのか。大山、杉山、佐々木がベンチ。

大型連休 私の場合 5月2日
【No.253】 2004年05月03日

 5時半に起床、朝食前に新聞に目を通す。6時40分からバアちゃんの洗面の手伝い、7時の朝ご飯、これはいつもの通り。
 8時20分に軽トラで出発。午前中3時間、栗畑の草刈。ヒメジョオンが畑一面に白い花を咲かせている。キレイといえばそのとおり。昨年もこの時期に草刈に入ったが、こんな景色はなかった。この草は根を深く張り繁殖力はすごい。庭でも畑でもとにかく増える。根こそぎ取らなければたちまちこんな風景にしてしまう、好きになれない草。栗の若草色の芽吹きが美しい。それだけに枯れている木が目に付く。数えたら9本切らなければいけないようだ。
 午後も3時間刈払い機を動かす。楽しそうな作業に見えるが、機械の振動はけっこう手に来る。給油をしながらこんなことを思った。「この栗畑で仕事をしていると、畑の上に住んでいるTさんが話をしに来たっけ。時には缶ジュースももらったなあ」。そのTさんはもう亡き人。
 「笑点」、今日は全員絶好調。「エコー」の発送準備完了。

大型連休 私の場合
【No.252】 2004年05月02日

昨日・5月1日の一日
 
 5時半に起床、新聞を2紙読む。6時40分からバアちゃんの洗面の手伝い。7時に朝ご飯。土曜はバアちゃんのデイ・リハビリの日、それで8時15分になると着替えを手伝う。「お出かけ」となるとトイレが気になるらしく、着替えの最中に二度もトイレ。今朝は8時50分ごろにお迎えの車。出かけた後のバアちゃんの寝室の掃除におおよそ40分。9時半ころから庭の草むしり。この作業はけっこう好き。見た目で結果が分かるから。11時40分ころ母親委員のOさんが広報講座の資料を取りに来る。12時に昼食。1時から「エコー」の発送の準備・フォウルディング。3時過ぎ、明日栗畑の草刈をするので刈払い機の点検。しばらく使わなかったのでエンジンがかからない。4時前、T先生来訪。まもなくバアちゃんのご帰還。縁側からベッドまで移動するのを助けるのだが、体重45キロでは苦しい。 
 6時から夕食。ビールが甘いときは体調は良い証拠。ビールが胃の中で熱く感じたのは初めてのこと。Aさんがきょう作った蕗の葉の煮付け、かみ締めると甘い。そして最後に蕗の苦味が口の中に広がる。食事中、バアちゃんにリハビリのようすをなど聞くが、返事は…。食事が終わったバアちゃんをテレビの前に陣取らせる。音量が最高でなければ聞こえないので、イヤホンを使ってもらっている。調子のいいときは2時間、このごろは1時間ていど。いつバアちゃんの「お願いします」という言葉が掛かるか分からない。だから食事はバアちゃんがベッドに入ってからになる。それで、結局私の晩酌の量が増える。「サッポロ」の大瓶1、「スーパードライ」の缶ビール1、「八海山」を冷でコップ一杯が今日の量。 
 7時のニュースが終わって「お願いします」。バアちゃんの就寝前に私がしなければいけないこと。歯磨きをさせること。続いて足のマッサージをおおよそ30分など。そして「おやすみ」をして8時前に食卓に戻る。食事の後入浴。出てから宛名ラベルと切手を封筒に貼る。終わったのが11時。こうして大型連休の第一日目が終わった。


余生
【No.251】 2004年04月30日

 義兄が亡くなった。昨年5月に奥さんに先立たれて一年も経っていない。「千代子の一周忌だけは済ませたい」と言っていたが叶わなかった。肺がん。74歳の生涯。定年退職後、何かにせかされるように行動し始めた。東京の書道大学に学びに出かけた。弓道も復活。海外旅行、ウオーキング、植物観察会は千代子さんと一緒だった。写経、四国お遍路、そしてさっと去っていった。同僚だった人が読んだ弔辞の「第二の人生」「人生これから」という言葉がとても空しく響いた。だが印象に残る弔辞だった。「60歳までが人生」という思いが私にはいっそう強くなった。自分の「余生」を思う。

 秦野市は来年市制50周年を迎える。いくつか記念事業がもたれるようだが、その中の一つに「市民の手で来年1月15日号『広報はだの』を発行しよう」という企画があるらしい。
 広報広聴室の担当者が訪ねてみえて、この事業に関わるように依頼された。12名の編集委員は公募されるらしい(6月1日号の『広報はだの』に掲載)。

 この日記を読んだ人で秦野在住か在勤の人、一緒に広報をつくりませんか。子どもや若者も大歓迎だそうです。面白いと思いますよ。

 

「教育を考える会」 今年は湯河原温泉で
【No.250】 2004年04月24日

午前10時、婦人会の広報を持ってKさんとIさんが来訪。編集会議に一度だけ参加した。それで出来上がったものを届けにみえたのだ。「本格的な新聞」と言える。レイアウトがスッキリしていて、それぞれの記事がコンパクト。だから読みやすい。他の団体の発行する広報と比べて勝るとも劣らない。二人は次号に向けての質問も持ってきた。私の感想をきちんとメモして帰っていった。
 午後、教え子のTさんが訪ねてきた。『寺山ものがたり』を買いに来てくれたのだ。山野草を研究するグループの人たち4人が購入してくれたらしい。うれしい。
 野田さんから「第2回教育を考える会」の案内状が届く。現職の先生4、新聞記者、教育メディアの編集長、そして私のような教職OG・OBが4の、計10名の私的な研究会。今回は6月に湯河原温泉で。今から楽しみ。 案内状と一緒に、野田さんが編集の労をとられた『松本アルプス連隊テニアンに消ゆ』という戦史の記録書をいただいた。記録することの大変さ、そして、だから記録することが大切、ということを知る。
 注文していた山北町地方史研究会の『足柄乃文化』も届いた。同書の中の「山北地方の方言の調査記録」を読む。私が耳にした言葉がたくさんあった。甲州・武田氏の影響が強いと思われる神奈川の西北の山北・松田・秦野・伊勢原地方。かなり広い地域で同じような言葉が使われているようだ。そうでなければ「言葉」として通用しない。「寺山ものがたり」の貴重な資料。
 夕方、激しい雷鳴。雷とは「神鳴り」。「神の怒り」だから「カミナリ」は怖いのだ。バアちゃんは、カミナリとイボジリが嫌い。

山笑う
【No.249】 2004年04月20日

  きょうが今年度最初の新聞の講座、松田町教委のPTA広報講座だった。昨日一日レジュメにしたがって、資料の整理やら話す内容を反芻などした>だが今年度の最初ということで、やはり“緊張”と“不安”いっぱいのスタート。
 幼稚園から高校までの7広報委員会の参加で20数名。終わってから「印刷屋さんに渡して一カ月もかかり、費用が10万円。きょうの話を聞いて手作りにしようと思うが」という相談があった。それで、写真の鮮明さは少し落ちるがコンビニのコピー印刷での発行を勧めた。「片面コピー、もう一面は学校印刷でもかなりのものができる。なにより情報の鮮度が保てるのが良い」とも。

 昨夏からサラ地になっていたTさんの土地にきょう柱が立った。台所の私の定席から眺められたタコーチ山の大半が視界から消える。タコーチ山は、今新緑が燃え盛っている。「山笑う」という季語をタコーチ山から感じた今年、いま。
 初夏を通り越して“夏”の一日だった。 

さわやかなきょうでした
【No.248】 2004年04月15日

 午前4時ころ、明けきらない空にホトトギスの鳴き声。庭の桜のあたりだ。「キョキョキョキョ」と、まだ小声でそして未熟。それにしても早い。いつもは5月の初めに聞くのだが。台風第1号に乗って渡って来たのか。
 きょうは資源物の回収の日、それで空き瓶を出しにいった。通り過ぎる3軒の庭にハナズオウの紅紫の花が見られる。枝を包むようにびっしりと花を付けて今朝の青空によく映えていた。
 庭の桜の隣りにあるハナミズキが薄黄色の花を付け始めている。東京市長尾崎行雄がワシントン市に桜の木を贈った返礼として日本に入ってきたのがこのハナミズキ。若葉と見間違うような色合いの花。花弁と思ったのは葉の変形したものだそうだ。その中にある球状の小さな塊が花で、その先端にわずかに紅がにじみ出ている。
 昨秋近くにあった藤を移植したので、今年のボタンは良い花が見られそうだ。すでに3センチほどの濃いピンク色の蕾が7個ついている。
 隣りとの境で、毎年豪快に蕾をつける山百合。もったいないから」もっと見やすい場所に移すつもりでいた。きょう見たらすでに50センチほどの茎が5本も伸び上がっている。「ケチ」な考えはやめよう。
 大根の花が満開の畑を片付けた。そうしたら、あちこちにヤブカラシがもう20センチも蔓を伸ばしている。今年もヤブカラシとの戦いが始まる。
 昨夜はドラゴンズが逃げ切ったし、床屋にも行って来たし、さわやかなきょうでした。

“武マジック”
【No.247】 2004年04月13日

 昨日とは打って変わっての気候、冬雲の空。
 H小学校の新旧のPTAの広報委員さんが4人来訪。1時間ほど広報の話をして帰っていった。旧の二人の一年を終えての感想は「やってよかったP広報」。活動を通して先生方と親しくなれ、大勢の先生方から声援をもらったようだ。「学校のニュースだけ載せるならPTA広報はいらない。保護者の目で子どもたちを見るのがP広報の姿勢」と私の主張の代弁もしてくれた。新人の二人は「ただ、ただ不安」、これが今の偽らざる心境だろう。だが一昔前と違い、このごろのお母さんたちは,いったんそういう状況下に入れば、その中でもけっこうがんばり、楽しんでしまうような力がある。だがら「“乗り出した船”、今年度も『やってよかった広報』と言えるようにしよう。いちばん大切なことは委員会の雰囲気づくり」と励ました。
 「先生“武マジック”っていう言葉があるのを知ってますか。広報の講座で先生の話を聞くと、みんなその気になってしまうんです。私たちもそうでした」と、最後になって逆に私が励まされた。
 きょう文京区からそのマジックとやらのネタを届けるようにと連絡が来た。来週20日の松田町が皮切り、6月の後半までロングラン。

「お互い様でーす」
【No.246】 2004年04月12日

4月10日
  玉川中学校の同窓会に出かけた。今年57歳になる彼らは、私が最初に卒業させた学年だった。招かれて参加したのは小学校時代の恩師3名、中学校での担任が3名。そして生徒が42名だった。
 3年に1度のペースでこの会は開かれているからもう10回は超えている。今までは地元の玉川温泉で開いていたが今回はバス旅行。2クラス101人で卒業していったこの学年。今年もよく集まったと思う。
 8時40分に厚木を出発、沼津港で魚を買うツアーでもあったが、行程を考えれば鮮魚は無理。私は桜えびのパックだけにした。
 柿田川の湧水公園で昼食。花蘂がときどき降り散る大きな枝(桜ではなかった…)の下に青いグランドシートを広げ、幹事お手製のオニギリが並ぶ。なんと50人分のオニギリを握ってきたという。「ひもじい時代に生きた私たちだから、遠足のお弁当をつくるのは当然」なのだと言う。
 そう、遠足なのでした、きょうは。バスの中ではアルコール類は一切出なかった。「“薬”がないと元気になれないよー」後部座席で悲鳴が上がるかが、幹事は涼しい顔で「きょうはバスで遠足です。昔引率してもらった先生方を間違いなく私たちが案内するんです。遠足ですからアルコール類は我慢してもらいます。それでは歌集で合唱しましょう」。そして配られた歌集も手書きのお手製、集められていた歌は「高校三年生 青春時代 先生 学生時代」など。

 オニギリと一緒にようやく缶ビールが一本ずつ配られた。二枚のシートに大の大人が膝突合せてオムスビをほおばり、薄くなった髪に乗る花蘂を笑いあう。たった一本のビールののど越しの良さ。それは、その日の天候のせいだけではなかった。通りかかった学生風のグループが「いいなあ、こういうのって」と私たちに言ってくれた。警視庁勤務のT君が「これがホントの差し入れ」と幹事に内緒でカップ酒を一個私にくれた。
 食事が終えて湧水の観察ポイントに行った。私設の案内人らしき人が説明を始めると、57歳の遠足の一団は一番前に陣取って聞き入っていた。三島大社では盛んに散る桜の参道を通り抜け「二拝二拍手一拝」。  
 そしてきょうのメイン会場の御殿場ビール園に3時に到着。夕食会まで1時間あったので園内を歩く。満開の桜並木のベンチで和歌山から参加してきたRさんと歓談。22年前、神戸で開かれた全国新聞教育研究大会に私は助言者で出席した。そのときRさんは会場に来てくれ応援してくれた。研究会の後で3時間ほど彼女が話したのは「子育ての悩み」だった。その子が今年東京の理数系の大学に合格、それでRさんは入学式の出席をかねて同窓会に参加してきたのだった。
 
 40年ぶりで出席されたS先生の挨拶「きょうやっぱり来なければ良かった! 昨夜も当時のアルバムを開いてみんなの顔を確認してきたのに…会わなければ良かった!」と大げさに、あるいは心から詠嘆。会場から声が「お互い様でーす」。みな笑い転げた。バイキング形式・飲み放題なので「オレこんなにもてるぜ」とNさんが両手で6個のジョッキを持ってきて私に差し出す。私のテーブルはジョッキが林立! 季節限定の桜ビールで「乾杯」だった。
 3年後、還暦の年に開くこの会の幹事に私も推薦された。

花祭り
【No.245】 2004年04月09日

  昨夕、菩提寺の円通寺からバアちゃんにご馳走が届いた。そのご馳走に添えられていた手紙。
 「武八重子様  初夏のような日があったかと思うと、大山に雪が積もったりと、不安定な陽気ですが、お元気にお過ごしですか。今年も四月八日の降誕祭の法要をお寺の役員さん、世話人さん、そして和讃の方々と厳修することができました。
  花御堂もきれいにできて、本堂の御前にお祭りし,お釈迦様の誕生仏に甘茶をおかけし,お祝い申し上げました。来年は皆様にもお参りしていただけたらうれしいことだなと思います。
  お寺からの祝膳のお福分けをお届けします。ご笑味ください。そしてこれからもお元気にお過ごしください。
  なお 竹の子・古谷隆様 米・桐生正助様 法蓮草・古谷武子様 漬物・鈴木一江様 紅しょうが・木島美知子様 花・五味田昭生様より御供養いただきました。   円通寺住職 梅川龍博合掌」
 墨の直筆の手紙だった。手紙をしっかりと読んだバアちゃんは、二度も拝んで竹の子ご飯をいただいた。

西中が首都圏PTA広報紙コンクールで「優秀賞」
【No.244】 2004年04月07日

 西中の前年度PTA広報委員長の立石さんから電話。応募していた首都圏PTA広報紙コンクールで「優秀賞」に入ったとのこと。「みんなで表彰式に行ってきます」と喜んでいた。
 昨年暮に送られてきた179号が力作だった。その紙面は、子供も参加して「子供とどう向き合うか」を親と教師が話し合っている(座談会)。二人の外国人にもインタビューを行い、「教育の原点は家庭」という言葉をもらっている。見開き2ページのこの特集の編集力と紙面整理の力は見事だった。応募を勧めた私だったので入賞してよかった。

テキストの原版づくり
【No.243】 2004年04月06日

 4月20日から私の今年のPTA広報の講座が始まる。今のところの予定は9会場。それでテキストの原版を作った。昨年と同じ会場で開かれる講座でも、参加者はほとんどが新人。だから、テキストは前年と同じものでもいいのだが、新聞の講座なのだから「少しでも新しいものを」と思う。それに、私の昨年の講義を受けている人がどの会場にも必ず一人はいるのだから。その人は講座を主催の教育委員会の担当者。その人にまた同じ話を聞いてもらうのは、なんとなく恥ずかしい。だいいち、同じエピソードやギャグでは私自身もノラナイない。それで今年のテキストは半分ほど差し替えた。
 そして、きょう午前中に三教育委員会にテキストの原版を発送した。ところが午後、その中の二つの教委から電話が入った。いずれも担当者が替わったというご挨拶だった。そう、七年もお付き合いしてくれたFさんだから移動でもおかしくない。電話の二人のためにもしっかりした講座にしたい。
 隣りの小学校はきょう離任式。新六年生の鼓笛隊が校歌をじょうずに演奏していた。 

さくらはきょうで終わり
【No.242】 2004年04月03日

 夜が明けきらないうちからヒヨドリが騒がしい。庭の桜の木に10数羽来ている。蜜を吸っているのだが、あの小さな花にどれだけの蜜があるというのか。満腹感は得られないだろうに。もしかしたら、ヒヨドリも桜の花そのものに魅かれているのだ。日暮れまで飛来は絶えなかった。鳥でさえそうなのだから、人間が桜花を愛でるのは不思議なことではない。 
  この季節になるとあちこちで桜祭りが行われる。秦野でも弘法山の桜祭りがきょうから始まった。今朝、花火が上がった。桜の花の命は短い。だから主催者だけでなく、だれもが天候・気候を気になる。それが、また桜への思いを強くさせる。
  病院へ行き来して、あらためて感じた。「日本人は桜の花が好きだ」と。道路沿いに、小さな公園に、社寺の境内に、校庭に、川の堤に、山肌に、庭にと、いたるところに今を盛りと咲いている桜が目に飛び込んでくる。こんなにたくさん桜の木があるのに、たちまち薄ビンク色は黄緑に消されていく。「観花三日」、そして桜はその存在を忘れられてしまう。
  ライトアップしている桜を遠くから眺めた人が「なんだか怖い」と言った。夜桜は妖艶でなく「妖」かもしれない。今夜も雨とか。さくらはきょうで終わり。  
 
 

畑は春らんまん
【No.241】 2004年04月01日

  新しい年度が始まった。それで畑に出た。(何の結びつきもない!)玉ねぎの土寄せを10分ほどした。今年はジャガイモの種を植える時期を失したので、一面の草。イヌフグリはもう青紫色の美しい花をつけている。ホトケノザも紅紫色の小花をつけあちこちに咲いている。可憐だが、よく増える。それにしてもハコベの勢いはすごい。一株で30センチほども這いつくばっている。畑が占領されそうだ。隣との境にムラサキハナナが咲いている。この草も強い。  
  ウチの桜は今日あたりが見ごろか。今夜はライトアップの時間を延長しよう。夜半から雨かもしれない。
  この部屋の網戸にカメムシがしがみついている。

きょうの桜の花
【No.240】 2004年03月29日

昨日の夕方。「春来たり」の醸造元が新しい銘柄のお酒を出すということで、その試飲用のボトルを三本が届いた。当然のことだがラベルはない。一見ドブロク風。もってきてくれたのはAさん夫妻。「ボトルは回収に来ますから」と奥さん。これでは早く飲まなくては。ご主人がわが家の桜を見上げて「三分咲きくらいかな。桜はこのくらいがいいんだ。満開の桜をみると、なんだか寂しくなってしまうんだよ、俺」と言う。まだ40歳になったばかりのご主人の言葉。なぜか「納得」の私。奥さんが「だから見に行きましょう、弘法山の桜。ちょうど見ごろよ」「ウン、見てまわろう」とご主人。ウチの桜は昨夜からライトアップした。
 きょう、仲人をしてもらったT先生の告別式。葬儀場の駐車場にエドヒガンザクラとオオシマザクラが咲いていた。そして遠景にはヤマザクラがうすピンクにかすんでいた。
 妻に届く大学の広報は、この卒業期には必ず釈超空に歌を巻頭に載せる。
  櫻の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ
 
 桜の花は寂しい花なのかもしれない。

寺山の桜がきょう咲きはじめました
【No.239】 2004年03月27日

  「千鳥ケ淵の桜が咲きはじめました」という、知る人ぞ知る、フェアモントホテルの新聞広告を今年は見ていない。見落としたか。 
 毎年この広告を見ると、まだ一度も見ていないのに、水辺に続く夜桜の情景が浮かぶ。そんなことを考えていたら、Sさんから「真間川の夜桜」のメールが入っていた。
 フェアモントホテルではないが「寺山の桜がきょう咲きはじめました」。一挙に二分咲き。
 昨夜、六本木ヒルズの夜桜の画面の中で久米宏の「ニュースステーション」が終わった。18年間の長丁場、「終わりが見えない仕事であることがつらかった」と言って終わった。ご本人はもちろん、渡辺真理さんも上山さんも、終わりへの感傷的なものは見せなかった。角澤アナだけが、一瞬その目が潤んだように思えた。それにしても、最後に一人でビールで乾杯とは。徹頭徹尾、久米宏であることを示した。私にさえ名残惜しさを感じさせない終わり方。
 今朝の人事異動の記事。中学校の教え子の一人がI市の消防長に就いた。18歳で消防士になりトップに昇り詰めた。鶴巻中の教え子の名も看護士合格を知らせる記事の中にあった。
 同じ紙面に「PTA広報紙展示会」の記事が出ていた。写真入り3段で70行ほどの扱い。ありがたいこと。


春休み
【No.238】 2004年03月26日

 春休みに入ったので、隣りの学校から子どもたちの声が聞こえない。静科過ぎてなんとなく落ち着かない。やっぱり、わが家には学校のにぎやかさがなければダメ。
 「プリンシパル」の4月号に、学校の4月にふさわしい話として『桜』のことを書いた。(4月1日更新の『マンスリーエッセイ』で読んでください。)その桜、雨と気温のせいで開花は足踏み状態。きょう訪ねてきた二人の女性が、まだ硬い蕾を惜しみながら帰っていった。 
 このお二人は、不登校の子どもをかかえる家庭の交流を進める活動をしている。その活動へのアドバイスを求められた。行政や学校が、地域でがんばるこのような人たちと手をつなぎ、一緒に歩んでいく姿勢をとってくれたらいいと思う。
 PTA広報の講評を書かなければいけないのだがどうも集中できない。桜の花のセイか。新聞に人事異動が載り始めた。桜の花と共に年度が替わっていく。当然のことだが、あと数日で学校を去っていく教師もいる。その先生達は、今頃どんな心境で桜の開花を待っているのだろうか。

秦野市PTA広報紙コンクール
【No.237】 2004年03月24日

23日 
 秦野市P連の広報紙コンクールの審査会。9時30分から始めて終了は3時半だった。A4判で4Pを7月と12月に発行しただけのPTAがあったし、年間6回発行の委員会もあった。学校だよりとPTA広報が裏表に印刷されている珍しい広報も出できた。発行回数など、どちらがそのイニシアチブをとっているのか気になった。これからもこのスタイルが続くかどうか。 審査員はP連会長、教職員代表(校長先生)、P連・母親委員会の正副委員長3名、市P連だより編集委員会から2名、そして私の8人。私の肩書きはPTA広報講座講師。一人持ち点30点での採点。採点の集計結果は200点から192点の中に9紙が入る大激戦(240点満点)。8点の差は実は審査員一人ひとりにすれば1点でしかない。そんなこともあって、紙面批評をし合い、最後は公開投票を行い決定。(結果は「秦野の新聞教育」のページで)

24日
 昨日のコンクールの結果を受けて、きょうからJUSCOで『秦野市PTA広報紙の展示会』を開く。それで展示の準備を母親委員さんたちとする。いろとりどりの造花がアクセントとして飾られ、桜の花やチューリップの花の切抜きの中に賞の名称を書き込んだりと、いかにも若いお母さんたちらしい。そんなセンスが広報づくりにも表れている。題字でもそれが読み取れる。
◇小学校のPTA広報の題字
 「カリヨン」「さくら木」「せんだん」「西のいぶき」「稜線」「いっぽ」「おおね」「しぶしょう」「南の風」「ほりかわ」「くず葉」「ひろはた」「本町小PTA広報」
◇中学校の題字
「西中PTAだより」「鶴中PTAだより」「北中PTAだより」「東中PTA広報」「みなみPTA」「大根中PTA」「南が丘」「丹沢の風」「ふれあいの丘だより」
 こう並べると小・中の年齢差を感じてしまう。
 

春の彼岸のできごと
【No.236】 2004年03月22日

19日
  墓参りに行ったついでに、円通寺の境内にあるはずの馬頭観音さんを捜した。過去に3回ほど見に来たが発見できなかった。梅川さんが「ここのあるはず」と一緒に探してくれた。あった。円錐形に刈り込まれたカイヅカイブキの下に横たわっていた。「あらまあ、申し訳ございません、観音様」と梅川さん。少し見えやすいところに納めさせてもらった。この馬頭観音はゴルフ場の開発の折にここの納められたとのこと。お寺に馬頭観音はおかしいと思っていたので納得。この石仏には「法作 棒垣外」という文字が刻まれていて、寺山の小字の呼び名を研究するのに貴重な資料となる観音さんだ。きっとお彼岸だから見つけることができたのだろう。

20日
  自治会で清水庭の道祖神を移動、仮安置した。県道の改修・拡張工事で道祖神を動かさなければならなくなったから。冷たい雨の中だったが20人ほどが出てきた。「久奈斗大神」と「萬霊塔」、それに石棒が二本。人力で移動できたのは石棒だけ。「久奈斗大神」と「萬霊塔」は山口材木店のクレーン付きの車を使った。何人かが二つの塔のいわれなどを私に聞く。『寺山ものがたり』の効果か。
 「久奈斗大神」は岐神(ふなとのかみ)のことで、道祖神と同じ神。清水庭が「道祖神」ではなく「久奈斗大神」を建てたことは、当時の清水庭に『古事記』の内容を知っていた人がいたことを示している。裏面に「明治十六(以下は読めない)」とある。
 秦野市内には315基の道祖神が確認されているが「久奈斗大神」は1 基、ここだけだ。ちなみに「久那斗神」は2基、そして「岐神」が1基。
  夜は清水自治会の総会。その後懇親会を「花小路」で。ここでも昔の話に花が咲く。自治会長の敏明さんが「勝美さん、うちの裏に三猿の石像がある。なんだんべ。傍に弁天さんもいるけど」と言う。「三猿なら庚申塔」と、そのことを少し説明した。弁天さんは分からなかった。「観音さんじゃないの」と私。それで「明日、拝みに行く」と約束。

21日
  朝9時に敏明さんの裏庭に行く。屋敷より一段高ところに石組みの一坪ほどのきれいな庭。聞いたら、この塔のために自分の手でつくったという。そこに石塔が2基、石造の祠、そしてマラセの神1基が安置されている。船形の石塔の1つは青面金剛と三猿。典型的な庚申塔だ。もう1基は、まぎれもなく弁天像だった。弁天さんが石像として刻まれているなど知らなかった。強不足だった。後で調べたら「弁天講」という講の本尊だそうだ。もう一つ祠の中の棟札は、半分ほどに摩滅しているが「正一嶽神社」とある。祠の前には狐、それならお稲荷さん。だけど「嶽神社」というのは分からない。

  妹夫婦二組が彼岸の墓参りにきた。何を思ったのかバアチャン「これは私の形見だから、チビさんにやってよ」とたんすの上に飾ってある「おきなおうな」の貯金箱を一つずつ二夫婦に渡した。

広報は耕報
【No.235】 2004年03月20日

  N小学校のPTA広報委員長のMさんが今年度最後の発行号・100号を持って来訪。年間10回を超える発行、しかも最終号は節目の100号。どの号も見事なレイアウト、読み応えのある内容・記事だった。今年度の全国コンクールで優秀賞を受けた広報紙だけに、最後まで手抜きはしなかった。 「PTA広報は学校新聞と違うと思う」という言葉はうれしかった。「でもPTA活動が変わったとも思わないし、これからの変わりそうもないでしょう。自分のために広報をつくったみたいで 」という彼女の反省の弁。現実はその通りかも知れない。だが、広報づくりをした人たちが少しでも子どもや学校についての見方が変化したとしたら、それだけでも広報をつくった価値はある。
 「広報は耕報。広報は読者の心を耕すことを目指すが、広報委員自身の心を耕すことで終わったとしても、それはそれで広報の価値はある」ということ。

 きょうは小学校の卒業式。寒い日でかわいそうだ。五年生の鼓笛隊の「蛍の光」で六年生は送られる光景が二階から見える。送る五年生の演奏がすっかりうまくなっている。

秦野の学校新聞等に関する調査研究
【No.234】 2004年03月18日

  秦野市教育研究所は平成15・16年度の研究事業として「学校新聞等に関する調査研究」を進めている。「秦野の特色ある教育活動として、その一翼を担ってきた各種新聞(学校・学級新聞、PTA広報紙)等の紙面内容から、戦後の学校教育活動の移り変わりや新聞作りの効用について調査研究をすすめる」という研究目標がつくられ、6人の研究員(小学校の小澤・森先生、中学校は小島・守屋・谷津・上村先生)がこの課題に取り組んでいる。いかにも秦野らしい研究だ。
  昨日、その研究部会に招かれた。「秦野の新聞教育の歴史」「なぜ学校に新聞なのか」「これからの新聞教育」、こんな内容で90分の講義をした。
  私の現役のころと比べ、学校での「新聞づくり」は今、限りなく厳しい条件下で行われている。現実に、市内の中学校の学級新聞の年間の発行回数は急激に減ってきている。だからこそ「この研究を過去の秦野の新聞活動のまとめで終わらせたくない」という研究員の思いをうれしく、頼もしく思う。
  新聞週間の標語「あなたは自由を守れ新聞はあなたを守る」(第1回)、「報道は大胆に人権には小心」(第10回)をふまえ「学校には新聞が必要」と昨日も訴えた。「新聞で育つ芽若い芽正しい目」(第17回)なのだから。昨日起こった「週刊文春」の問題を考えるとき、新聞教育はこれから一層進めなくてはいけないと思う。

広がる「寺山ものがたり」 
【No.233】 2004年03月16日

『寺山ものがたり』の取材でK家を訪ねたのが三日前。今朝、そのK家のご当主から電話があって「記憶を整理したからもう一度来てくれますか」。喜んでお伺いした。整理されたメモを元にていねいに話してくださった。いい加減な記述はできないと思った。話を聞きながら終戦直後の寺山のようすをはっきり語れる年代の男性がとても少ないことに気づいた。出征した人、そして戦後の食糧難や苛酷な農作業が影響しているのではないか。わが家の母のような年齢になると、その記憶はあいまい。こちらの誘導質問に「そうだった」と応えてしまう。聞き取りはむずかしい。
 午後、江戸時代から寺山の里正だった武庄右衛門家のご婦人が訪ねてみえた。私の顔を見るなり「ああ似ていらっしゃる」。父と叔父の両方に似ているらしい。「ご先祖のお墓の掃除に来て、親戚に寄ったら『こんな本がある』と先生の本を見せてくれたので」と訪問の趣旨を話された。寺山・清水の湧水はこの武家の敷地内にあった。近いうちにお話を聞かせてもらうことにした。武家も清水も今は存在しない。
 武蔵御嶽山を信仰する「御嶽講」の話をMさんに聞いたのが5日前。そのMさんが御嶽山のお札を持ってきてくれた。「今年も神主さんがお札を配りに昨日見えたので、先生の分ももらっておいてから」。「大口真神」とあり「狼」が描かれているお札。気をつけてみると、秦野ではけっこう見かけるお札だ。
 こうして『寺山ものがたり』はますます広がっていく。


マッタリ
【No.232】 2004年03月13日

 去年の12月7日、丹沢そば「石庄」でスタートした会が、昨夜2回目を開いた。会場は1回目と同じ「石庄」。『寺山ものがたり』の発刊を祝う会ということ。ありがたかった。
 参加は石井貞男さん(石庄)、川口洋さん(旭屋洋品店) 佐藤敏夫さん(フアースト)、関野恵雄さん(税理士)、高橋豊一さん(豆峰)、松本幸夫さん(秦野サービス社)。
 私くらいの年齢の者の酒席は、午後5時開会で7時にはお開き。話題は「病気」や「知人の音信」。
 昨夜は集合が午後7時、だが皆さん年度末の経理で多忙。全員そろって乾杯できたのは8時、終わりの言葉が聞かれたのは11時過ぎ。もちろん席を移すことなく「石庄」の座敷を最後まで使わせてもらった。話題は「街おこし・街づくり・地域への貢献」。そして子育ての難しさのつぶやきも。
 は「寺山だけでなく秦野全体に貢献をすべきだ」「子育て出悩む人の話し相手になってほしい」などと励まされた私。
 石井さんとって置きの「菊姫」という酒をいただいた。「マッタリ」という言葉は私は好きになれないので今まで一度も使ったことはなかったが、この酒を口に含んで初めて「こういう感じがマッタリなのだろう」と思った。
この会そのものも「マッタリ」だった。

3月10日  寺山の春
【No.231】 2004年03月11日

  東公民館に行ったら、館長と桜田さんが3月15日から開くという「秦野の昔・写真展」の準備をしていた。昭和20年代後半の東地区の写真が中心で、撮影者は神奈川病院の安倍さんという方とか。「寺山ものがたり」の表紙に描いた「大山道の道標」が藤棚商店と一緒に写っている。道永塚の碑が塚の上に建っている写真もあった。懐かしさとともに喜びを感じた。刺激されて「寺山ものがたり」の取材を再開。駿東郡小山町の円通寺に電話わかけた。

  二回目の桜の開花予報が出た。新聞の「俳壇」も冬から春への移り変わり。今週はそれが特に感じられた。

今週の朝日俳壇・歌壇 3月8日

川崎 展宏  鎌倉に鳴る踏切や春浅し      木暮陶句郎
       露座仏に遍き春の光かな      松村登美子
長谷川 櫂  春隣ありし如くに靴磨く      中嶋 富子     
稲畑 汀子  地吹雪が送りこむ人無人駅     続木 元房
       梅園の起伏が風の起伏かな     遠藤 裕子    
金子 兜太  杉花粉きみが崩せる目鼻立ち    熊坂  淑 
         (熊坂さんは秦野の人)      

春ですねえ
【No.230】 2004年03月09日

6日の表彰式の後の反省会での話。神奈川は11日が中学校の卒業式。「神奈川がうらやましい」と東京の先生達が言う。東京都は19日だそうだ。そうしたら茨城のO先生が「ウチは10日よ」と、明るい。そう、間もなく今年度が終わる。そして、出発。
 昨日“新聞づくり大好き”のWさんが挨拶に来て「先生、O高校に受かりました」と言う。「O高校には新聞部がない、少し残念」と彼女。「それじゃあ学級新聞つくったら」と勧めた。「考えてみる。でもバレー部に入るから」「それもいいね」と私。 
 「市P連だより」も昨日委員長、副委員長さんが持ってみえた。充実した内容。「母親委員会だより」も創刊された。広報づくりを楽しんでくれたようだ。うれしい。 
 きょうはT君―演劇に燃えていた高校生―から、高校の卒業式の様変わりぶりとW大学の文学部に合格したとの便りが届く。
 キャンディーズではないが「もうすぐ春ですねえ」。

表彰式の会場で
【No.229】 2004年03月07日

昨6日、毎日新聞社で行われた全国学校新聞コンクールの表彰式でのこと。
 来賓が祝辞を述べているとき、表彰校の一つである秦野大根中の石田崇男先生がそっと私のところに寄ってきて「今話しをしている大杉は中学校の同級生です」と言う。大杉とは文部省視学官の大杉昭英先生のこと。「エエ?同級生?」と私。「そう、こんなところで会えるなんて思いもしなかった」と石田さん。新聞づくりを指導している先生を応援・激励している先生、その二人が中学校の同級生。なんと幸せな二人だろうと思った。石田さんは新採用のとき私と一緒に学校新聞づくりを指導した。それ以来ずっと新聞教育にかかわってきた。今年の表彰式は石田さんにとって特別なものになったに違いない。
 表彰式のあとの懇親パーティーは大人も子どもも一緒。表彰された子ども達は主催者が準備した名刺をもって他校との交歓をしている。その子ども達の中に小学生の増子彩音さんもいた。菅原澄子さん、井上英昭さん、大内文一さんのそれぞれから、彩音さんが大澤和子先生のお孫さんだと紹介された。
大澤先生とは1971年以来のお付き合い。その年の毎日新聞の全国学校新聞コンクールで、秦野東中と大澤先生の指導する市川市の宮久保小学校が「特選」に選ばれ、両校の新聞委員長は札幌オリンピックの開会式に招待された。そして大澤先生と私も同行できた。彩音さんにそんな話をした。
 彩音さんの傍らにいた快活な青年?が「遅れて申し訳ありません。母がお世話になりました」と名刺を差し出す。「大澤明洋」とあった。和子先生のお子さんで小学校の先生で今は大学院で勉強中。明洋さんも学校にいたころは子ども達と新聞づくりに励んでいた。親・子・孫・三代にわたって新聞づくりをしている大澤家。その皆さんと知り合えたきのうだった。
 

宝くじみたいなものだから
【No.228】 2004年03月04日

 今年の神奈川の高校の入学選抜は二期制で行われた。一期は「自己推薦制」で面接だけ、いわゆる『入試』なる学力検査は行われないもの。 
 学力検査なしは好評だったらしい。大勢の生徒が受検した。ある中学校のあるクラスは36名中33名がこの一期に臨んだという。 
 担任が「宝くじみたいなものだから」と言ったとか。それでAさんの娘・Bさんも出願した。競争率が発表になって“宝くじ”みたいな状況は分かったのだが、時間が経つにつれて母子の心の中に変化が生じたという。 
 「宝くじみたいなものだから」という言葉はもう消えていて、願書を出してしまうと「担任が受けたら、と言ったのだから、もしかしたら受かるかもしれない」。やがて「受かったらいいなあ」、そして「受かりそう」から「きっと受かる」に変わり「絶対受かる」と確信に近くなった。そしてそして、面接が終わったたら「間違いなく合格」。
 だが結果は…。「先生の“宝くじみたいなものよ。受けてみたら”のひと言を良い方にばかり取っていました。でも受験生なら当然でしょう」とAさん。
 調査書と面接だけの選抜方法は今年が初めて。この方式に子ども教師も振り回されたようだ。Bさんは一期で落ちた志望校に二期の学力検査で合格した。よかった。
 それにしても「宝くじみたいなものだから」とは。

広報委員になって
【No.227】 2004年03月03日

 小学校の広報委員が今年度最後の発行号を持ってみえた。
 彼女たちの一年の反省の言葉。
 「昨年の今頃は不安で不安で…、主人にそのことばかり話していた」
 「子どもが『お母さんきょうは○○があるけど取材にくるの』と聞く。私の委員としての働きを認めてくれている。うれしい」
 「広報になったおかげで、先生方の別の面を見ることができた」 
 「『ゴメン、きついこと言うけど、ここはこうした方がいいよ』と一緒に作業をしてくださる先生がいらっしゃった」
 「出来上がったときは自画自賛。でも外部の人に誉めてもらうと、その喜びはもっと大きくなる」 
 「私が広報員であることなど知っている人は少ない。でも、読んでもらえればいいのだから」 
 「終わったと思うと少し名残惜しい気がする」
 どれも広報に携わった人たちの心からの言葉。

 『寺山ものがたり』を「カネマス書店」と「本のフアースト」に置いてもらっている。両書店とも売り切れということで、再度10冊ずつ置かせてもらった。うれしいが怖い。

母 退院
【No.226】 2004年03月01日

 今朝10時に母は退院した。症状が良くなったわけではない。以前と同じように家で生活をさせたいと思ったから。
 主治医、看護師、介護士さんなど10数人に励まされ、見送られて「ありがとうございました」と涙をこぼした母。「武さん、帰ったら何を食べるんだっけ」と介護士Aさんが笑いながら尋ねる。「鰻重!」と母も笑う。退院がきまってから「鰻重」を触れ回ったらしい。4階から玄関まで科長さんを含め三人が付いてきてくれた。「寒いから風邪を引かないように。またリハビリのときお会いしましょう」と言ってホホをこすってくれた看護師さんたち。病院のスタッフにとっても、患者の退院はうれしいことなのだ、とつくづく思った。それにしても、最後までほんとうによく面倒を見てくれたスタッフだった。 
 名古木の交差点から寺山に向かう道に入った。見慣れた景色に「ああ帰れたんだよう。夢みたいだよう」と感極まった声。昼食は即席ラーメン。これも入院中、ずっと食べたいと言っていたもの。夕食は希望どおりの「鰻重」。少し忙くなる生活の再開。
 寺山は午後、ひととき雪が舞った。「なごり雪」か。
 妻が少し関わっていた不登校気味のYさんが、無事卒業と大学合格の知らせを母親と一緒に告げに来た。明日は高校の卒業式。

3年連続佳作
【No.225】 2004年02月27日

 今朝の毎日新聞で全国学校新聞コンクールの結果が発表になった。今回は秦野から8紙が入賞。昨年、秦野で初めて小学校が入賞した。今年も北小が入った。うれしい。
 午後、東中3年生のWさんから電話がかかってきた。
 「先生、佳作でした。くやしい! 3年連続佳作! 今年はどうしても上に行きたかった」
 Wさんは学級新聞をつくるのが大好きで得意。1年のときからこのコンクールに応募してきて3回連続の佳作。
 「佳作といっても全国でベスト13以内だから。3年連続はすごいことだよ」「でも佳作から抜け出せなかった。なぜかなあ」
 学級新聞づくりは個人プレーではないのだが、クラスのメンバー・担任が変わっても、彼女のリードで学級新聞は3年間つくり続けられたのだ。そのことだけでも最優秀を得た新聞に匹敵すると思う。
 「ところで高校の方はどう?」
 「だいじょうぶだと思います。合格したらまた伺います」

3月号の「エコー」を受け取りに行く道すがら、鮮やかな黄色を輝かせている高木を見た。帰って調べてみたら「ギンヨウアカシア」というらしい。黄色のものは花ではなくてオシベだそうな。庭のヒヤシンスとサフランが咲き始めた。
 

だめだね おじさん
【No.224】 2004年02月26日

 朝の10時、有料駐車場の出口のゲートでの支払い。料金は100円。
5円玉を混ぜて支払い始めた。その5円を投入したらカランとお釣りの皿に行ってしまった。
「ヤバイ。」もう一枚の5円玉も素通り。かき集めた手持ちの硬貨は10円9枚と5円玉2枚しかない。
 後には若者の車が1台。あわてて財布を出した。その中は5000円札と万札だけ。5000円札を投入した。だがこれも受け付けない。後ろの車の運転席から「5000円は使えないよ。」 
 出られない。あわてて車をゲートから下げた。くだんの若者が「だめだね、おじさん。これ使いなよ」と100円玉を私に差し出す。その若者の好意を何の抵抗もなく私は受け取っていた。パニック状態だったので、お礼の言葉もまともに言えなかった。
 こんなところで「ありがとうございました」と書いてもしようがないが、やっぱりその好意に心からお礼を言いたいのです。
 「おじいさん」、じゃなく「おじさん」という言葉もうれしかった。

絶対評価と高校入試
【No.223】 2004年02月24日

 今朝の神奈川新聞の一面のトップ記事は「神奈川の公立高校の選抜」についてだった。
 今年の神奈川の公立高校の一期の入試は、自己推薦制を取入れた選抜試験。学力検査は行わず面接のみ。だからほとんどの高校は内申書といわれる調査書の学力(評点)の高点順に合格させるしかなかった。その合格者の発表を通して、中学校の教科担任が行う評価(通信簿の点)が、絶対評価のために、教師間、教科間、学校間で格差を生み出しているのではないかという問題点として浮かびあがってきた。
 記事によれば、ある教科で、A中学は60パーセント強の生徒に5を与えている。一方B校では7パーセントの生徒に5をつけた。
 いわゆる「甘い」点をつける教師・学校とそうでない学校が現実に存在している。その結果が先ごろの一期の選抜に大きな影響をあたえたのではないか、と新聞は書いた。
 県教育委員会は「全国共通の観点別評価の目標にそって評価をしているのだから学校間の格差はない」と言う。原則論で言うならそのとおりだ。多分二人に一人の割合で5を与えた教師の指導力は、その数値が示すとおりであろう。教師の良識、イヤ指導力を信じたい。 
 だが、塾で学んでいる子ども達は中学校間にある学力の格差のあること・できる学校とそうでない学校・を認めている。だから「あの学校の評価は甘くていい。ウチは辛い」と見当違いな教師批判や学校不信が出てくる。中学校の評定がきちっと行われ、高校側もその評定を元に厳格に選抜したとして、それでも今朝の記事が書かれたということは、今年の選抜制度に疑問があるということ。

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