- 寺 山 だ よ り -

きのう きょう
【No.571】 2007年03月26日

きのう 
 『続寺山ものがたり』の挿絵を一枚描く。60年ほど前の道永塚を描いた。出来はともかく、楽しい時間がもてた。
 大相撲の千秋楽、横綱が大関にまさかの「はたき込み」で勝ち、その横綱が優勝決定戦で、同郷の大関に「はたき込み」で敗れた。この2番の相撲の時間は合わせて1秒。
 もう一つ相撲の話 13日目の高見盛戦で「張り手」という技を出した力士。「技」というなら、一発で決めなければ技ではないに、ただただ、相手に殴りかかる取り口は喧嘩殺法、もう少し良く言って総合格闘技。相撲の語源は「すまひ」で、「負けまいと相手と張り合う」という意味があるという。もしかしたら当の力士は、「張り合う」を張り手で殴り合うと理解しているのかもしれない。
 国技とか、横綱の品位とか、そんなこと関係ない!「一生懸命、どんなことをしても勝つ」、そう思っているのだろう。でも、プロらしい勝ち方をするのが本当のプロではないのだろうか。

きょう 
 朝刊が届かなかったので販売店に電話をした。しばらくして玄関のチャイムが鳴る。いつものおじさんが、新聞を捧げもってペコリ。そして言う「このところ調子が良かったのだけど…、すいません」。そう、ここに二、三カ月は配達を忘れられることはなかった。(今まで10回くらいは忘れられている。わが家の電話機の前にその販売店の番号が貼ってあるくらい、忘れられている)
 その忘れてしまう理由がイイ。「お隣りに配ってバイクに乗ると、こちらと玄関と近いので、すぐ通り越してしまうので」。


彼岸 中日
【No.570】 2007年03月21日

 きのうが母の七・七回忌の日。1月31日以降、一日が一段と早く過ぎていく。
 中断していた『続寺山ものがたり』の初校に入る。急がなければいけないようだ。
 きょうで市内22校のPTA広報のクリニックが終わた。1校につき550文字程度で書く。同じようなことは書けないのででがんばりが必要。自分としては、全体を読むと「PTA広報論」になっているようにで書いたのだが…。
 もう一つ終わらなければいけないのが『エコー』の249号の編集。23日には出稿したい。
 昨年暮に届いた栗の苗木は畑に仮ヤトイしたまま。もしかしたら、わが家は今年は“休耕”?

 母を送ってから、なぜか腰と右足が痛み始めた。「寺山ウオーク」で歩いたのがいけなかったのか。それで、ご近所の人たちに勧められ、きのう鍼と灸の初体験をした。かなり興味がある治療。しばらくお世話になるつもり。
 来週は「大山道を歩く」の第2回「富士道を歩く」の講座。なんとしても体調は整えないと。
 今日はお彼岸の中日、今朝は小豆ご飯。
 きのう、家族で話したこと。
 「バアちゃん、ホントにあのお墓の中にいるだろうか。絶対いないよ」  「『千の風に』みたいなことを言うね。じゃあ。どこにいるの。あれは欧米のお墓論だよ。絶対、お墓に入っているよ」
 「こんなふうに話題になるということは、お墓にいないということだよ」
 「死んだら、どこに行くのかねえ」

PTA広報紙コンクール
【No.569】 2007年03月15日

 きのうは市P連の広報紙コンクールの審査会。審査員はP連会長、先生の代表など全員で10名。
 10時から3時までかかって22校が今年度に発行した全号を読んだ。企画、レイアウトなどがさらにレベルアップし、入賞ラインを決めるのがたいへん難しかった。
 今年度の特徴は、22校中、16校がパソコンで編集をするという様変わりだろう。とくに小学校は12校のうち、実に10校がパソコンを使っている。編集後記には「初めての新聞ソフトに苦しんだ」とあるが、その紙面の完成度を見ると、パソコンをあまり苦にしない若いお母さんたちの時代になった。年間の最高発行号数は西小の8回。ページ数ではA4判で34ページの本町中。
 入賞校は、西小、本町中、東中、北小、西中、南が丘小、南が丘中、堀川小、渋沢中、東小、渋沢小。明日から、ジャスコ秦野店でコンクールに参加した全校の広報の展示会が開かれる。

“スゴイ”こと
【No.568】 2007年03月12日

 10日、東市公民館で園芸愛好会の例会。出席者は13名。1、2月は活動が“冬眠中”だったので、「お久しぶり。お元気ですか」の挨拶があちこちで交わされる。
 年間の事業を確認した後、6月におこなう『朝顔の行灯仕立て』の講座の相談をした。・材料の調達など皆さんが積極的に申し出があった。さすが、教員OBの会!
 この会は、菊の大輪を咲かせるため毎月研究をしている。秋に向けての苗を持ってきたKさん、Oさんを中心に研究が進められた。だが『百花斉放』の感、研究熱心だ。
 会として帽子を作ることにした。Tさんが、菊の花(御紋章ではない)が付いている野球帽を探して持ってきた(カタログを)。菊作りがもっとも未熟な私は、恥ずかしくて被れないのだが…。菊作りはしないで、旅行・宴会に参加するためだけの会員にも「被らせる」と会長のMさんが言うので、少し気が楽になった。
 研修担当(親睦旅行の係り)の私から、「今秋の研修旅行は『秩父34番巡りと昇仙峡の紅葉』としたい」と提案。了承された。
 室内での研修が終り、かぶと虫の飼育場の周りの片付けをする。ついでに、県道沿いの傾斜地に散らかっているゴミも拾った。会員は全員が60歳を超えているのに、元気そのもの。
 公民館への帰り道、Uさんが私にいった言葉。「武さん、70歳の武さんが97歳のお母さんを介護していたなんてスゴイことだね。武さんは介護をされる側になってもおかしくない年齢だものね」。“スゴイ”は、「感心する」と「こわい」の二つの意味をもっている。たしかに、年齢を考えれば“ぞっとする”。母がいなくなり、自分の年齢にとても重いものを感じる。

情報委員会の仕事は
【No.567】 2007年03月09日

3月7日 秦野市PTA連絡協議会の情報委員会の今年度最後の会に出席。昨年度まで母親委員会と呼ばれていた組織が、今年度から情報委員会に衣替えになった。その改革の一年を活動した委員たちには、活動内容について暗中模索。かなり戸惑いがあり、「これでよかったのか」という自問もあったようだ。それで、こんな話をした。
 「情報委員の仕事は、22校の委員による情報交換。そしてその得た必要な情報をそれぞれのPTAに伝えること、それがすべてと思っていい。もちろん、委員の皆さんが、どれだけ、どのように情報を自分のPTAに流せたかは問われるかもしれないが。全市のP会員に情報をもれなく均等に流すために、この委員会が『P連だより』と『情報委員会だより』を年4回発行したことで、この委員会の活動は十分に使命を果たした。今年度活動が次年度以降の活動の見本になるが、委員会の趣旨を十分に踏まえた活動をしたと自負して良い。“情報を交換し、それを会員に伝える”それが情報委員の仕事」

3月に入りました
【No.566】 2007年03月06日

3月1日
 庭の隅の菊の根を掘り出し植えかえた。今そんなことをして良いのか、それよりそれが意味があるのかどうか分からない。ただ、月が変わったし、温かかったので…。股関節が少し異常。
 Mさんから長文のたより。毎月、エコーしてくれる。Hさんから、通夜の帰りの月の光のことを書いたはがきをもらった。Sさん、Oさんからメール。みなさん、私を気遣ってくださる。ありがたいこと。

3月2日
 Hさんから志が送られてきた。Mさんからたより。お二人とも「『エコー』の届くのを待っている」とある。H小のP広報が届く。年度末にふさわしい内容、よくがんばったと感じた。

3月3日 
9:35分のバスで東京の毎日新聞社へ。午後1時からの全国学校新聞コンクールの表彰式に列席。北海道、秋田、岩手、山形、群馬、埼玉、千葉、東京、静岡、大阪、大分、そして秦野の38紙が受賞。秦野からは3校・10名が参加。全国2位の西小は校長先生、会長さん、広報委員3名。その喜びようが分かる。
 式後の祝賀パーティーでPTA広報の入賞5紙の編集者と言葉を交わす。それぞれの委員長さんとは、講評を書くため既に電話で話しをしているし、その中の3紙は昨年に引き続き入賞だから「お久しぶり」という感じだった。2校の委員長さんが“続投”とのこと。既に“意欲十分”と見た。
 帰ったら、新聞仲間のU先生とKさんから線香が届いていた。

3月4日 
 お寺さんの都合で今日49日の法要。読経に合わせて「修正義」を読んだ。「生を明らめ 死を明らめるは 仏家一大事の因縁なり 生死の中に仏あれば生死なし」これは第一章の出だしで好きな一節。
 今日は第3章、第4章が読まれた。「生老病死」「愛語」「同事」など、日ごろ目にするいくつかの言葉の意味をおぼろげながら理解した。
 母の縁者や親しくしてくださった38名が集って下さった。千葉と横浜から来た甥は、法要のあとヤビツ峠の護摩屋敷の湧水を秦野の土産にすると、ペットボトルを持って汲みに行った。そして夕方までわが家で歓談。「良いお付き合いができそうね」と妻。
 老いたれば悲しみごとも深からず朗らに人の死をば語らふ  村野 次郎  ここに詠われているような私だった。

二月尽
【No.565】 2007年02月28日

 昨年11月に卒論のことで相談に来たYさんが、完成した卒論を持って訪ねてきてくれた。論文の表題は「学校新聞づくりの教育的効果―新聞編集活動を通した高校生の人間形成―」で、A4判32ページの力作。Yさんは大内文一先生にも取材・助言を求めていた。論文のまとめので「提言」を二つしているが、その中の「新聞を活用した学習・教育への提言」は、彼女が高校新聞を作った時の経験がベースになっている。私の新聞教育に対する考えと重なっていてうれしい。
 20年ほど前一緒に仕事ををしたN先生が個人通信『かけはし』を創刊した。いつかは始めるだろうと思っていた。お祝いのメールを送った。
 明日発行する広報紙をもってI高校のPTA広報委員TさんHさんが来る。二人の三年間の活動のまとめにもなるこの号、特集のページをこの二人で担当したが、すっきり、しっかりとできていた。たぶん、納得の最後の仕事だったろう。
 H中のP広報委員の取材―といっても地域の歴史の確認―を受ける。
 HPアップ。全国新聞コンクールの結果も載せた。

野の光
【No.564】 2007年02月27日

朝日俳壇 2007/2/26
長谷川櫂選
 オホツクの砂を吐きけり寒蜆   前田 豊作
 三尺の陽差し賜はり日向ぼこ   蛯名 正男
稲畑汀子選
 坂を行く春雨傘の花模様     湯川  雅 
 春立つといふまぎれなき野の光  介弘 浩司
金子兜太選
 スキーヤー空の奥より目の前に  大塚 信太
大串 章選
 春雷に湯屋の石けん転がりぬ   帷子 黎子
 諭されて立ちたる駱駝冬夕焼   大脇 和生

朝の冷え込みは厳しいが、日中は春の気配濃厚。新聞俳壇にも「春」の兆し。畑が待っているが、なかなかその気にならない。あと2年、生産組合長をやることになった。
 年度末を控えて、新年度に向けての準備が進められている。PTA広報の年度最終号が届き始めている。来年度の講座も既に13決定。

育てる
【No.563】 2007年02月24日

 21日の柏市での講座の感想が事務局から届いた。

○自分たちが作成した広報紙に対して意見を述べていただき勉強になりました、次回の紙面作りに反映させたい。
○他校の広報紙を見せていただき参考になった。
○広報の重要性、PTA活動と広報の役割、基本的な考え方を学ばせていただいた。
○いろいろなアドバイスを来年度の広報委員に生かしてもらうよう伝えたい。
○先生のお話は素人にもとても分かりやすく、おもしろかった。
○是非、今後もこの研修会を続けて欲しい。
  
 たぶん、私に心地よい声だけを聞かせてくださったのだろう。それでも、やはりこのような声はうれしいし、私にやる気を起こさせる。「育てる・SODATERU」は「おだてる・ODATERU」ことから始まることを知る。

 第56回全国小・中・PTA新聞コンクールの結果が発表された。今年は、秦野市内から13紙が入賞。昨年を上回る成績。昨夏の新聞大会の成果が表れたと言えるかもしれない。
 

1紙3分の広報クリニックを柏市で
【No.562】 2007年02月22日

 柏市P連の、今年度2度目のPTA広報作り講座が昨日おこなわれた。午後1時30分から38の小・中学校の広報紙のクリニック(講評)をするという講座。講座のタイトルが「広報紙をつくって」というように年度の反省を意図しているので、各紙の優れたところを誉め、それを参加者全員で確認するということを考えた。
 もらった時間は110分だから1紙3分の割合だったが、終了は4時20分になってしまった。昨年度、千葉県P広報紙コンクールの最優秀紙が柏市から出ているなど、レベルは年々上がっているので、講評もつい饒舌になってしまったのだ。夕方が忙しいお母さんたちに申し訳ないことをしてしまった。閉会の後、3校から質問もあったので、少しは許してもらえたのかもしれない。『ひろの』『おおほり』『まど』『かがやき旭東』などは立派な見本紙。
 5時半から、地元・千葉の知人3人が歓迎会を居酒屋で開いてくれ、新聞教育の話に花が咲いた。8時45分に柏駅を発ち、帰り着いたのは11時20分だった。

日記
【No.561】 2007年02月20日

日記が今日から59冊目に入った。1987年2月6日から書き始めた。なぜ日記を書くのか。今はもう一日の通過儀式。始めはもやもやした世界から自分を取り出すためだった。

1987年2月6日 金 晴れ
 1時間で早退。帰ってきたがやることはない。仕方がないので洗髪などする。Fは最後の品物のチェック。トランク、バッグともかなり重そうだ。10時半ころ今川町の河窪さんが来る。大秦野駅で待っていたらしい。たいへん申し訳ないことをした。
 11時20分、関さん、洋造さん、利一さん宅に三人で挨拶に行く。涙が出ているのは自分だけ。Fはにこやか。11:36のバスで発つ。ジイちゃん、バアちゃんに涙は無し。立派。Fも助かったろう。このときをかなり気にしていたから。
 エアポートレストハウスに宿泊。窓から5分おきぐらいに着くジェット機を眺める。6時から夕食。シャンパンで乾杯。F、テーブルのものすべてを平らげる。トマトを食べたのに、A驚く。11時までカードで遊ぶ。これは例年ならお正月の夜の楽しみなのだが…。一番早く眠りについたのはF。いびきをかいて寝ている。疲れているのだろう。

春が来る
【No.560】 2007年02月15日

 きのう『春一番』が吹いた。「ハルイチバン」という語感はいいが「その春の一番最初に吹く烈南風」。きのう、海難事故や雪崩による死亡者もでた。竜巻も発生したようだ。だが、この風が吹き通るとそれからは風が大変柔になるといわれている。
 きょうはまったく春の気候。午後4時ごろ、隣りの校庭から子供たちがカクレンボをしている声が聞こえた。「もーいいかい」、「まーだだよ」と声を掛け合いながら、冬のコートを脱いで走り回っている。

 来週、千葉でおこなうPTA広報講座の準備を始めた。送られてきた30数校のP広報の全号に目を通し、1校当たり4分で「紙面クリニック」をする。昨年4月から今年の2月まででA4判8ページを7回発行しているという実力P広報紙もある。1年の活動のまとめを私がするわけだから、しっかり読まなければ申し訳ないし、礼を失することになる。
 きのうは、PTA広報紙コンクールの打ち合わせもした。これも一年のまとめ。春が来るのだ。

坂本道を歩く
【No.559】 2007年02月11日

 東公民館と市まちづくり課共催の、3回シリーズ「ふるさと秦野再発見・大山道を歩く」の第1回「坂本道を歩く・路傍の神仏を訪ねて」をきのう実施。
 定員20人の3倍にちかい申し込みがあったので、38人という大部隊で歩くことになった。最年少は父親と一緒の小学2年生、ご夫婦での参加も5組、主流は熟年の男性で、全体の半数は東地区外からの参加者だった。
 9時から45分間のオリエンテーション、ここではその日訪ねて歩くコースのポイントとなる石碑などをパワーポイントで紹介した。曇り空の下でのウオークだったが、それほど寒さは感じられなかった。3時に無事解散。6時間をもらったので説明の時間も十分取れたこのウオークは、私としては納得できるものだった。

 この日訪れた場所、地名『ちょう塚』について、次のようなことを話した。
 大山道・坂本道と蓑毛道の合流地点付近、このあたりを『ちょう塚・京塚』と呼んでいる。母がこの「ちょう塚にはお婆が出る」と話したことがある。『ちょう塚のお婆』とは「葬頭河の奪衣婆・ソウヅカの婆」のことのようだ。「葬頭河」とは「三途の川」のこと。
 私たちはこの世から去って七日目に三途の川にたどり着く。そこで秦広王による最初の裁きを受ける。ここで、極楽と地獄に振り分けられる人もでるが、ほとんどの人はそれが確定せず、次の裁きを受けることになる。
 ふた七日(死後14日目)に次の裁判所・初江王庁に着くのだが、その途中に三途の川がある。川の手前に「葬頭河(寺山ではチョウヅカ)の婆」がいて、死者は着物を脱がされる。(だから奪衣婆)脱がされた着物は川原に立っている衣領樹という木が懸けられる。懸けられた着物の重さで枝はしなうのだが、そのしなり具合により川の渡り方が決められる。
 川の渡り方は三通りあるから三途の川で、もっとも罪深い者が渡らなければいけないのが「強深瀬」という深い急流。罪の軽い人は「山水瀬」、善人は橋で渡れる「橋渡」となる。
 1月31日に亡くなった私の母は、今、初七日の裁きを終え、今頃三途の川のほとり来て、ちょう塚のババアに出会っているかもしれない。少なくとも私の知る範囲では、母は「橋渡」になるはず。いや、最初の裁きで極楽浄土に行っている可能性のほうが大。

 ここ「ちょう塚」から眺めると下に川が見える。あれが「三途の川」にあたる。川からずっと視線を上げるとゴルフ場のクラブハウスが見える。あの辺りは「地獄ケ入り」という小字名を持っている。左手のゴルフコースの端の辺りは「一徳坊」、その下の田んぼの辺りの地名は「日尻田(聖田)」。こう並べてみると、ここから見える風景・ここに広がる世界(地名から想像できる世界)は、十王経の世界だと思う。

 喪に服さないで出歩いている私、母へのつぐないのつもりで話させてもらった話だ。聞いてくれた皆さんには迷惑な話だったかもしれない。


1月31日
【No.558】 2007年02月05日

 旅立った母に私が持たせたもの。父への土産として『追悼 武姫百合句集「春惜しむ」』。そして『寺山ものがたり』。二人で読んで欲しいと、5月刊行予定の『続寺山ものがたり』の原稿のコピー。母個人のものとして『笑点』。三橋美智也の「哀愁列車」。
 
 1月31日午前3時20分、母八重子97歳で永眠。
 これまでのご厚情に心からお礼を申し上げます。

1/29  俺たちには間に合わねえよ
【No.557】 2007年01月30日

 生活費を下ろしに銀行に行った。利用者は数名しかいないのに、行員はいっぱいいる(ように見えた)。応対の姿勢が明るく元気。数年前、ここは支店から出張所に格下げ?になり、行員の数も減った。ところが、きょうは今まで空席だった机のほとんどに人が着いている。
 担当の窓口の女性の行員が、「改めてご挨拶いたしますが、3月から支店になります」と話す。行内の明るさはこれだったのだ。元気がいいのは業績が“昇り調子”だからだ。銀行は今、利潤は最高とか。外に出たら風が強い。この銀行のある商店街は“シャッター通り”と呼ばれている。コッペパンで有名だった同級生のパン屋さんも店を閉めた。
 夜7時から生産組合長会議。その中の議案の一つ「第二東名高速道のサービスエリアで地元の野菜を売ることができるように陳情する」という行動について論議。第二東名の全線開通予定は平成32年と書いてある。「俺たちには間に合わねえよ」と、笑い声も出たが了承。10数年先きを目指して活動しようとする《人間の営み》に崇高なものを感じた。人間はこうして次のために仕事をしていくこともある。
 私は「第二東名」は必要とは思っていない。

辻の天神さん
【No.556】 2007年01月26日

 25日は天神さんのお祭りの日、昔は、この日は清水ニワの子どもたちは「辻の天神さん」におまいりに来る人にお札を授ける神官の代わりを務めた。
 辻の天神さんの祠は現在の東中学校の校庭にそびえるイチョウの木の下にあった。校地の整備のため、持ち主である武完さんは東郵便局の隣に移転されたのが昭和40年頃、その遷宮によって「辻の天神さん」の存在は東地区の人たちの中から消えてしまったようだ。
 たぶん50数年ぶりになるだろう、武さんの庭に在る菅原神社にお参りした。2メートルほどの幟が一本だけ立っていて、神社の開扉されている。赤飯も供えられていた。昔と同じように祠の前にゴザか敷かれている。ここに子どもたちが座って参拝者に応対したことを思い出した。
 改めて祠を観察した。祠の高さは150センチほどで屋根は檜皮葺き、中に身の丈30センチほどの極彩色の天神像が祀られている。
 完さんが私の参拝をとても喜んでくれた。お参りの後、武家が保持している天神さんに関する資料を見せてもらった。お札、朱印などがあり、棟札のようなものもあった。 
 もっとも興味をひかれたのは「庚申講」の掛軸だった。青面金剛、三猿、日月、合掌女人、鶏、邪鬼などが描かれている。しかも保存が良かったので、鮮やかな色彩。2月10日の「大山道を歩く」で紹介をしたいので貸してもらった。「辻の天神さん」のお祭りも紹介したい。

このごろ思うこと
【No.555】 2007年01月24日

 きょう、偶然二人の高校の先生から手紙が届いた。こんな一文があった。
「学校教育に、そして職場に夢がなくなりました。私なんかはまだ自由にやっていますが、これからの先生方は可愛そうです」。
「高校に魅力がなくなりました。殺伐とした職員室になりました」。
 先日出会ったある教頭さんの言葉。「毎日、報告書書きです。問題が大きくなったとき、それを抑えるための証拠作りみたいな報告書です」。
 「だんご焼きに来る子どもの数が減ってきた。いまに、年寄りだけの行事になるんじゃないか」は自治会の役員の言葉。14日は日曜日だったので、サッカー、野球、ピアノ、家族でお出かけなどで子どもは忙しいらしい。「道祖神祭りは宗教だろう。自治会が宗教行事をおこなうのはおかしい」と、だんご焼きの世話をする自治会にクレームを付ける大人。
 このごろの教育界のニュースは、「教科書を厚くし授業時間を増やす」「登校停止をする」「ダメな教師は教壇に立たせない」と荒っぽいものばかり。『ゆとり教育』を唱えた文科省のあのT氏は、テレビのコメンテーターとして登場し、社会時評などしている。

 早春の大山道を歩きませんか
【No.554】 2007年01月19日

 東公民館とまちづくり推進課にバックアップしてもらい、「ふるさと秦野の景観『大山道を歩く』」という講座を持つ。とりあえず3回シリーズで2月にスタート。その最終打ち合わせを公民館で開いた。
 第1回は「路傍の神仏を訪ねて 坂本道(寺山地区)を歩く」で2月10日におこなう。
 「見て歩いた」で終わるだけでなく、これを契機に勉強会のようなものが生まれることを願っている。
『続寺山ものがたり』も17日に出稿し、遅くも5月初旬には上梓できる。 ささやかな、いやとても大それた願いになるが、この地に生まれ、生活してきた私は、忘れてはならないこと、消してはいけないものを次の世代にできる限り引き継ぎたい、と思っている。その願いが、『大山道を歩く』という講座であり、『続寺山ものがたり』の上梓である。

 早春の大山道を歩いてみませんか。けっこう楽しい内容です。お待ちしております。お問い合わせ・申し込みは東公民館へ。0463-82-3232

蟹鍋のうた
【No.553】 2007年01月17日

今週1月15日の俳壇・歌壇で感動的なことに出会えた。

『俳壇』 長谷川櫂選
  一席 蟹鍋や無敵なりけむ大鋏  板坂 壽一
『歌壇』 馬場あき子選
  一席 生前はさぞ貪りを尽くしたらん大鋏いま蟹鍋に煮ゆ  板坂 壽一
 板坂さんは《蟹鍋》を前にして、俳句と短歌を詠じた。そのどちらもが第一席に選ばれた。 俳句は「言い切り」、短歌は「未練」だという。そのそれぞれを表現できる板坂さんはすごい。

 一席だから選者の『評』がある。
 長谷川先生の評「今はばらばらに解体され、鍋で煮られる蟹。そのみごとな鋏のかつての無敵ぶりをたたえる。試合が終わったあと、スポーツ選手同士が健闘をたたええあうように。」
 馬場先生の評「蟹のシーズンは、またじっくり蟹をみつめることにもなる。第一首は大きな蟹の鋏にその海底の驕りを見、それを食べる元気をみせている。」
  二人の選者は、その作品を「食べる」という『人事』に視点を求め、評している。単純な私は、板坂詠から「奢る平家は久しからず」を思い浮かべる。

日曜日
【No.552】 2007年01月15日

 日曜日、7時5分のバスで出発。秦野から座れた。南向きの席だった。秦野を出たときは曇り空だったが、座間を過ぎた頃から朝日が車内に差し込んできた。その光がまっすぐ私の顔に届く。架線をつっている柱が定期的に瞬時の陰を作るので、目を瞑っているが光がチラチラと目を射るような感じ。誰かが前に立ってくれ、陽光を遮ってくれればいいと思ったが、とうとう代々木上原まで誰もその役をしてくれなかった。やっぱり日曜日だ。
 多摩川を越えてから、小田急は高架になる。それに陽光の角度が高くなったので、背筋を伸ばして顔の位置を上げた。それでようやく、顔に当たるまぶしさを避けることができた。こんな姿勢を電車の中で取っている自分がおかしかった。居眠りはできなかった。
 6時過ぎの千代田線は唐木田行きに乗ったので、各停を乗り継ぎ秦野まで座って帰る。車中で思った。今日一日だけ介護から解放されたことが、逆に明日からの生活の重さになっている、と。一日中、新聞に関わったことが、今の私の生活とかけ離れ過ぎていたからだ。
 今日は「だんご焼き」の日。ここ10年ほど、火を守ることしてきたが今年はお休み。

新聞を作りたいのですが
【No.551】 2007年01月11日

 市内に住む高校1年生からメールで新聞を作りたいという相談が入った。 小5から新聞を作り始め、中学校では広報委員になり学級新聞、学校新聞を作っていたという。今、彼女が通っている高校では新聞活動は無いようで、「新聞とは無関係の生活を送っています。私は新聞を書くのがとても好きだったのでこれからも新聞制作を続けたいです。でも作る場がありません。」だから、どうしても新聞作りをしたいということ。
 秦野で新聞づくりをずっと指導してきた私にとって、こういう子がいるということはたまらなく喜ばしいことだ。早速、三つの方法を彼女に伝えた。

【No.550】 2007年01月09日

 1月8日の朝日俳壇、稲畑汀子選の一席は次の一句
 からからと枯葉の森に夜が来る  今井尚子 
 
 子供の頃、たぶん小学生だったろう頃に作った詩を思い出した。今でも諳んじている。

 夕べいろりを囲んでた 
 寒い北風吹いていた 
 落ち葉が屋根でからからと 
 回っている音聞いていた

 南東の空のオリオン座が、西から風でいつもより瞬きが鮮やか。

オオイリ
【No.549】 2007年01月08日

 寺山の集落の東の方のいちばん奥の家・「オオイリ」と呼ばれる武さん宅に用事で行った。同じ寺山に住んでいながら、「オオイリ」を訪ねたのはたぶん40年くらい前が最後だったろう。
 「前入り」「中入り」と呼ばれる二軒の武さんちから100メートルほど山に入ったところが「オオイリ」。(「オオイリ」は「大入り」ではなく、「奥入り」が転化したのかもしれない)
 用事が終え、帰りにオオイリの小さな棚田を見に行った。田んぼはこれ以上奥にはもう無い。もう休耕田とはいえない湿地になっていた。
 60年くらい昔、わが家はこの棚田の一番奥の小さな田んぼを作っていた。祖父の代は小作農だったので、こんなところでも借りて作っていた。「どぶっ田」と呼ばれていて、太腿くらいまで足がめり込んでしまう深田だった。稲を家まで背負って帰るのに30分くらいはかかったはず。この棚田の水路でオオヒキゲールを獲り、焼いて食った。お花見のとき、上級生に命令されこ水を汲みにきたのがオオイリの沢だった。あの頃の明るい、生き生きとした里山は雑木も生い茂るまま。里に近い小さな数枚の畑には鹿除けの黄色の網が張り巡らされいる。ほんとなら、懐かしいはずのオオイリの風景がただ心に痛かった。年齢が醸し出すノスタルジアか。

きょうから普通の日に
【No.548】 2007年01月04日

2日
 年賀状を出しに秦野の町の中を車で通った。それで気がついたこと、商店街の店店が正月の『お飾り』をしていないということ。ほとんどが絵が印刷されたもの。環境に配慮する、簡素化ということのようだ。だが寂しい風景。11時過ぎから妹夫婦2組を迎えて『お年始』。例年通り私の太巻き寿司でもてなす。今年も1升巻いた。「いつまで続けられるのだろう」。義弟の酒がすっかり弱くなった。缶ビール2缶でおしまい。もう一人の義弟は車で来ているし、元々お酒は飲めない。長男は飲めるがこれも車。一人で日本酒を飲む。

3日 
 いつものように教え子のMさんが来る。まもなく50歳になる彼女、介護福祉士の試験勉強の最中という。ホームヘルパー制度が廃止され、介護福祉士に一本化されるのだそうだ。ヘルパー2級の彼女、実務経験は十分足りるのでここで国家試験を受けるのだという。ヘルパー制度がなくなると、わが家でお世話になっている入浴サービスのような仕事をしてくれている人(介護福祉士は国家試験制度になるので)たちの絶対数が減るらしい。より充実した介護制度のため、と説明されているが…。「三が日」の致年男のお勤めが終わる。

4日
 お隣の灯りが5時過ぎに点いた。今日から仕事が始まるのだろう。ウチは正月だからといって特別遅寝・遅起きではなかった。いつもの通り、私は5時起床。そんな普通の寝起きの生活の中にお正月行事が入るので普段より疲れる。母の食事の世話に時間がより必要になった。

年頭の所感
【No.547】 2007年01月01日

 今年の干支は「亥」。この干支が回ってくるたびに思い出すこと。高校3年だった私、『猪突猛進』を「いとつもうしん」とずっと読んでいた。その言葉を挟んでクラスのある女の子の前でとうとうと弁じた。それこそ「猪突猛進」の体でしゃべった。後でまちがっていたことを知った。今も恥ずかしい。

 元旦、穏やかな朝だった。例年通り年賀状の返事を書いて一日が終わった。

 年頭所感 古希を迎えた年。「動かなければ出会えない」を念じて生きたい。「春はやって来るのではない 自分から春になるのです」 この言葉も好きだ。

ガラス拭き
【No.546】 2006年12月29日

「光が入る、風が入る」そんな条件を最優先して建てた家だからガラス戸(窓)が多い。数えたら大小あわせて54枚。別棟が14枚。そのガラス拭きが今日の予定。
 朝8時半から取り掛かり終わったのは3時半。始めた頃は寒風だったが、途中からジャンパーを脱ぐ。
 西風がまともに吹き付けるわが家だから、桟に細かい土がこびり着いている。「こんなに汚れないうちにきれいにしておけば」と悔やむのも例年どおり。
 今こうしてパソコンに向いながら、磨きたてのガラス越しに冬空を見上げている。今日の空の青はひときわ澄んでいるように思う。
 「お正月にどうぞ」とOさんが蝋梅の枝を切って持ってきてくれた。いつもより花は早いのだそうだ。この小さな部屋は清らかな香りで満ちている。

【No.545】 2006年12月25日

 クリスマス・イブに街をほっつき歩いたのは何年ぶりだろうか。6時から9時過ぎまで、なぜかお隣のまちで、ジンギスカン屋と焼肉屋のハシゴ。を二店で「生ビール・中」3杯、日本酒をヒヤで2合。このくらいだと、どうっていうことはない。たくさん食べた(つもり)。
 ジンギスカンのほうは“アド街ック”に先月登場した。安くて、ボリュームがあって… そして排煙設備が不十分なのが名物?。
 小田急で帰ってきたのだが、体の芯までその匂いが染み付いてしまっていた。恥ずかしいし、クリスマスケーキの箱など提げている乗客に申し訳なくて、ドア近くに小さくなっていた。ふと、毛皮の襟巻きのコートであのカウンターにいた女性たちは、コートをどうするのだろう、と思った。
 いつもなら帰ってビールの栓を抜くのだが、とても、とても…。

師 走 
【No.544】 2006年12月20日

 師走、普段おっとりとした師(先生)も走るから「師走」とか。はるか昔にリタイアしたのに、未だに「師走」の私? −ほんとは暮れになると師僧がお経を上げに東西に走り回るから「師走」というらしい。
 「子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」という言葉があるが、私の場合、今は「年寄り叱るな行く道じゃ」を肝に銘じている。母の入れ歯が行方不明。それで今日歯医者さんに来てもらって型を取った。

 庭の手入れに植木職に来てもらっている。二日で10人、それでも終わらない。明日もお願いしてある。手伝いをするわけではないが、家にいなければいけない。

 玄関の電球が切れた。作業ズボンの膝か抜けた。(買いに行かなければ)栗の苗木が届いた。(植えに行かなければ) 暖冬で助かる。キヌサヤの霜除けはどうやら間に合った。

 来年2月から始まる「大山道を歩く」の講座(三回シリーズ)の企画を公民館に届ける。
 I小学校のPTA広報が送られてきた。クリスマスカードが入っていた。うれしい。

お二人に感謝
【No.543】 2006年12月14日

 このHPの『秦野のおはなし』の今月号の『平和の使者・青い目の人形』を見た植木さんが、「前に勤務した大山小で、これに似た人形を見たことがある」と話してくれた。それで、昨夜の園芸愛好会の忘年会の席で植木さんに、人形があるかどうか確かめて欲しいと頼んだ。今日の午後、植木さんから「その人形は大山小にある」と電話が入った。そして、校長先生に私が尋ねていくかもしれないから、と道を開いておいてくれた。
 
 お願いしていた『小屋掛けの不動さん』の写真を、森下さんが持ってきてくださった。来春から始まる東公民館の事業『大山道を歩く』で、ぜひ紹介したい写真。
 大山道は松田から川音川を渡り秦野に入るのだが、その秦野の入口に立つ道標が沓掛の不動尊。昨年の9月、『市民が作る広報はだの』の取材で訪れた折、撮られた写真。「もっと大きいほうがいい?」と森下さん。「出来れば」と答えたら、「それじゃあ六つ切りにして持ってくるよ」。
 植木さん、森下さん、お二人に感謝。

「希望の国、日本」
【No.542】 2006年12月12日

 経団連が来年1月1日に発表する「希望の国、日本」という将来構想(経済界の政策)の原案が新聞で報じられた。イノベーションの推進、消費税アップ、法人税の引き下げ、憲法改正(集団自衛権の行使を認める)、政治資金規正法の改正(寄付の拡大)などを政治に求めている。そうしなければ日本という国は生きていけないらしい。
 これを受けて銀行は言った、「政治献金も社会貢献の一つ」と。
 全く不勉強だから、こんなことを言うのかもしれないが、政治献金は、たしかに、巡り、巡り、巡り、めぐって、社会に貢献するのだろうが…。それが私のところに巡ってくるのは、いつ? どんな形で?

雨の中 小鳥来る
【No.541】 2006年12月09日

 「小鳥来る」は秋の季語。今日のような冷たい雨の中、庭に来る小鳥たちの姿をたくさん見ると、冬の季語でもよいのではないかと思ったりする。
 つがいのコゲラが桜の幹を叩きながらよじ登る。わらわらと飛んで来るのはシジュウカラ。メジロは数羽で群れて来ている。柿の実はとうにヒヨドリが食べてしまったし、まだツバキの花はないのだが…。相変わらずジョウビタキは校庭の防球ネットの天辺であたりを見渡しヒイヒイと鳴く。モズはもうあの鋭い声はなく裸木で動かず、雨に濡れている。
 色がほんものになったきたビラカンサ、ナンテン、センリョウ、マンリョウなどに目ざといヒヨドリがうるさい。

アクセス90000 ありがとうございました
【No.540】 2006年12月08日

こんな“エコー”が届きました。

 エコー 届きました。ありがとうございます。テレビをつけても 新聞を読んでも 週刊誌の見出しをみても 「学校…」の文字が ない日はありません。もちろん 良い記事は少なく。「学校って いいなあ」とは だれも思わなくなってしまうような そんな記事に 肩を落としてしまいます。せめて 学校新聞や学級新聞やPTA広報にひとつでも ワクワクする内容があったら うれしいなあ。少なくとも「苦情と批判の嵐」でなくて「共に歩もう」の姿勢があったら。
どんなに 切羽詰まっているときも 周りの景色を楽しんだり 歌を歌ったり ちょっと走ってみたり だじゃれを言ったり そんな余裕を持ちたい。そう自分に言い聞かせて 毎日を過ごしています。(なかなか うまくはいきませんが)

 JAのカレンダーと暦を組合員の家庭に届けるのも生産組合長の仕事。きのう持ち込まれた数は62軒分。
 
 午後から甕を掘り来年の種芋にする里芋を埋けた。
1998年4月6日の「朝日俳壇」の一句。
 いつまでの命よ接木なんかして  山本 紅園


 きのう午後4時40分ごろアクセス90000に到達、ありがとうございました。90000はどなたでしょうか。

GODIVA
【No.539】 2006年12月07日

 毎年先を越される。きょうコベントリーからクリスマスカードが届いた。 長男が2年間お世話になったGraham家とは20年来のお付き合い、と言っても、お互いに一度ずつそれぞれの家庭を訪ねただけだが、クリスマスカードでの交流はずっと続いている。
 わが家はきのう年賀状の印刷を頼み、それに合わせてコベントリーにも発送した。今年送ったカードは、クリスマスソングが聴かれ、ファイバーが光る、といういかにも日本らしい(要するに派手ということ)もの。 
 Graham家では届いたカードを居間に張り巡らした糸に掛けて飾るらしい。12月に入るとたくさん届きだすらしい。わが家のものは遅れて届くので「目立ったものでなければいけない」ということ。
 カードと一緒にクリップマグネットが届いた。コベントリーの誇り《LADY GODIVA》のフイギュアがあしらわれている。GODIVAという名称はベルギーのチョコレートで知られているが、コベントリーのGODIVAもまた有名な女性。send〜 to Coventryという熟語を持っているまちがコベントリーである。

地名の話
【No.538】 2006年12月03日

 昨日の続き「旅の話」
 西浦温泉からの帰りに浜松の酒蔵「花の舞酒造」の売店に寄った。その売店の向かいにスーパーがあり、看板に「コープ麁玉」とあった。みんな首をかしげた。
 「麁」が読めない。初めて出会った漢字だ。一人が店に入って聞いてきた。地名で「アラタマ」と読むのだそうだ。
 帰って辞書に当たった。「麁」は俗字で、本来は鹿を三つ重ねて書く文字らしいが、インターネットでは見つからなかった。(馬を三つ重ねて書く『驫』という字と同じ形)
 「麁」の意味は「はなれる」「遠ざかる」とある。発音どおりの「粗い」も意味する。「くろごめ、玄米」のこととも書いてある。この地名の小学校があった。学校案内に「『麁玉』とは、『まだ磨かれていない玉』のことです」とあった。

 馬が三匹集ると「驫木・トドロキ」(五能線の駅名にある)。鹿は三匹集れば(麁)、もう離れ離れになるということなのか。

 浜松で昼食を食べた。駐車場にこの店の送迎用のマイクロバスが停まっていた。車の横腹に「うなぎ藤田」と大きく書かれていた。そして「小豆餅」という文字も読めた。「へー、鰻屋で小豆餅を食べさせるのか、鰻と餅は相性がいいのかな」と、おもしろく思った。
 食事を終え私たちのバスは国道に。信号で止まった車窓から傍らの電柱の地名表示板に偶然目がいった。「ここは浜松市小豆餅3丁目」。

モミジ
【No.537】 2006年12月02日

 11月30日、12月1日と、菊作りを楽しんでいる仲間18人で「奥三河の紅葉と西浦温泉」を訪ねた。「紅葉を見る」ためだが、シーズンオフということで経費も安くなるのでこの時期に出かける。今年で7回目の旅だが、18人の参加は過去最高。
 長篠城址の紅葉は見ごろ。鳳来寺に登る道の紅葉も見事だった。その余韻もあって、今日は蓑毛の宝蓮寺に行ってみた。思っていた通りモミジがきれいだった。(ホームページを更新しました。『ギャラリー』で「紅葉」を見てください)

千客万来
【No.536】 2006年11月29日

 1時半から4時まで市P連だよりの企画会議。情報委員9名が来訪。情報委員会の年間テーマ『言葉の力』で、今号も特集を組むのだが、ねらいをどこに置くのかが定まらない。委員それぞれが今までに出会ったプラス志向の言葉を手がかりに、言葉の力を確認するようなページを作ることにした。

 『東中新聞』を委員長のSさんが持ってきてくれた。いつも明るい、礼儀正しい子だ。
 隣りの東小学校で教育実習を終えたCさんが訪ねてきた。実習はとても充実したものだったようで、何としても教壇に立ちたいと、目を輝かせていた。
 彼女も『東中新聞』の広報委員長だった。全国コンクールで『東中新聞』が50回記念賞、クラスの新聞は入選という“新聞に燃えた子”。卒論に学級新聞を採り上げるとゼミで発表したという。そのレジュメを持ってきて、これから先の資料収集について相談。「実習が一緒だった東中新聞の1年先輩のUさんが教員採用試験を通った。私もがんばらなければ」と言った。

深まる寺山の秋
【No.535】 2006年11月27日

11月25日
 午前11時から、全国新聞教育研究協議会創立50年記念事業準備委員会に出席。会場は毎日新聞社。午後2時から同じ会場で全国新聞教育研究協議会秋の全国理事会が開かれ、そちらにも参加。
 大阪、京都、山形、群馬、茨城、千葉、埼玉、神奈川などから50余名の出席。秦野大会の反省も議題の一つだった。事務局の谷津先生がお礼を述べた。私は市P連が発行した情報委員会だよりの「大会のまとめ」号を配布。窓越しに皇居のお堀端の紅葉が見られた。
 3時半から懇親会、そちらにも顔を出し7時半に帰着。喉が痛い、カゼ気味。

11月26日
 今朝の朝刊2紙がイチョウの写真をそれぞれ1面に載せていた。どちらもいい写真だった。だが、季節のスナップとして撮ったものと、その写真を通して訴えようとしている報道写真との違いみたいなものは感じた。―これは編集者の意識の違いでもあるが―。

11月27日
 垣根のドウダンツツジの赤が、昨日の雨でいっそう鮮やかになった。幼稚園に登園する親子が「きれいだね」と言って通っていく。中学校の校庭の大イチョウ(樹齢300年とか )の黄も、雲間から一瞬もれる陽に輝く。タコーチ山の雑木の色も深みを帯び始めた。寺山の秋は深まる。
 I高校のP広報委員来訪。

コシヒカリが30キロ
【No.534】 2006年11月23日

 きょうは「勤労感謝の日」、子どものころは「新嘗祭」といって、新穀(新米)を天や地の神に捧げる祭りの日だった。この日に福島産のコシヒカリが届いた。何と30キロも。
 宅配のお兄さんは元気よく玄関に担ぎ込んでくれたのだが、それを居間まで運ぶのに大奮闘の私。
 この秋は、新潟、三重、茨城、厚木、そしてきょうの福島・石川からと、5人もの方から地場産の新米をいただいた。
 1キログラムの白米はおおよそ6合強だそうだ。すると今日いただいたお米は190合。
 わが家では毎朝2合5勺のお米を炊いている。それで足りるらしい。このコシヒカリのプレゼントで、来年2月になるまでお米屋さんに用はないことになる。ほんとうにもったいないこと。ありがたいこと。
 江戸時代は「1人1日5合、1年で1石8斗の米を食べる」として、武士の扶持が表されたのだそうだ。わが家では5合を食べきるのに3人で2日を要する計算。すると1人が一日に食べる量は8勺ちょっと。私の場合はビールをお米に換算すれば、それなりの量になるが…。

秦野の新聞づくりは健在
【No.533】 2006年11月21日

 今年で39回を数える「秦野市中学校学級新聞コンクール」の結果が届いた。 
 今年は市内9中学校の122学級から134点が参加している。学級数より出品点数が多いのは、いくつかのクラスが班単位で作った新聞で応募しているということ。これは秦野の新聞づくりの特長の一つ。
 入賞紙の発行号数も発表されていた。(コンクールの実施日は11月15日)最多は22号で2学級(西中・渋沢中、共に1年生)、次が14号、そして13号、11号がそれぞれ1学級。
 学校での新聞づくりの最大のネックは、その時間を生み出すことにある。そんな困難を乗り越え、がんばっている子供たちや先生がいることが嬉しい。
 さらに嬉しいことは本町中の支援学級の『あおぞら』が「特別賞」を受賞していること。紙面を覗かせてもらったら「にぎやかすぎて叱られる」がトップ見出しのB4・2ページで、「みんなのすきなランキング」「部活のインタビュー」などの取材記事も載っている。しかも入賞紙が第2号というのも素晴らしい。秦野の新聞づくりは健在である。

三人
【No.532】 2006年11月19日

11月18日
 土曜日は一週間分の食料の“買出し”の日。
 帰ってきたら郵便受けにかわいらしい封筒が入っていた。差出人を見たら、昨夜、私の講演の感想を述べてくれた中学生のUさんとそのお母さんからだった。
 Uさんの手紙の出だしは「心にしみる講演をありがとうございました。今帰ってきました。」とある。お母さんは「今日は、先生の大切なお話をありがとうございました」で始まっている。 
 昨夜、母子でこの手紙を書き、今日、わざわざ持ってきてくれたのだ。手紙を何度も読み返した。今日まで生きていて良かった、としみじみ思った。

 北小のO先生からもメールが入っていた。

 Uさん親子、そしてO先生、三人とも細やかな心の持ち主で、それでいて能動的な生活ができる、そんな生き方に尊敬の念と、そしてうらやましさを抱いた。

「ソーラン」にジーン
【No.531】 2006年11月18日

11月17日
 北小学校の6年5組から「北小博覧会」への招待状が来ていた。この博覧会は、文字通りさまざまな展示や発表が学級ごとに公開されるらしい。
 招待状は「朝晩めっきり寒くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか。さて6年5組では『総合』で劇をやっています。テーマは「未来の夢」で劇の題名は「フューチャードリーム」です。内容は主にスポーツ、動物、歌手、教師の4つです。見どころはソーラン節を踊ったり、歌を歌うところです。休み時間もつぶしてみんなでがんばって練習しました。北小博で発表するのでぜひ見に来てください。お待ちしております。」とあった。
 6−5の教室には学級新聞作りで2回訪ねている。発行された新聞も全号読ませてもらっている。それで招いてくれたのだ。
 朝9時の開幕、ステージの前にクラスのお母さん(お父さんも数名)と思われる人たちがカメラやビデオをかまえていた。たぶんクラスのほとんどの保護者がいるように思えた。劇はオムニバス風だった。クラスの全員が登場していたが、その演技は、誰も照れたり、恥ずかしがっているような様子は見えなかった。
 招待状にあるように、最初の歌(曲は知らないのです)、そして終りの“ソーラン”の充実振りに引き込まれた。とにかく元気だった。今まで御棚や高校生などの“ソーラン”は幾度か見てきたが、今日の踊りの力強さに、ジーンと来るものがあった。

 夜7時から東公民館で講演をさせてもらった。東地区の小・中の先生方、両PTAのお父さんお母さんが対象だが、地域の人も集ってくれた。
 演題は『私が出会った言葉』、内容は「言葉に救われた 言葉に背中を押された 言葉は力」だが、「言葉に力をつける方策」などあるのだろうか、と戸惑いながら話を進めた。
 終わってから質問の時間になった。一人だけ手が挙った。そして立ち上がったのは中学生(女子)だった。感想を述べてくれた。有り難いこと・ありがたかった。「ありがたかった・感激した」と言えば、会場に私の自治会の会長さんの顔があったこと。そして市P連の情報委員さんが8名も聴きにきてくれたこと。

玄米
【No.530】 2006年11月16日

 H中のPTA広報が届いた。規約改正のための臨時総会開催を知らせる広報なのだが、その報じ方は“月並み”ではない。 
 「臨時総会のPR号」となれば、普通は議題と日時を知らせる、まさに《お知らせ》で終わるのだが、この広報は2、3面をつかい、審議する内容をていねいに報じている。
 規約改正の狙いは「PTA活動の活性化を指名委員の増員で」とあるが、これはとても興味深い。臨時委員会を設け、論議して作られた改正案が運営委員会で《全員の賛成》を得られなかったことも書かれている。広報のこの姿勢も珍しいこと。紙面の「改正のポイント」「Q&A」は、たぶん「反対」と思われる意見の紹介を兼ねているのだろう。広報のこうした編集姿勢が、会員に改正案提案に関心を持たせたと思う。
 このホームページ上で「PTA広報もジャーナリズムだ」と野田さんは言ったが、この広報はそれを実践している。

 大山・阿夫利神社に奉納する新穀を集める係りも生産組合長の仕事。今日は6軒分が届いた。そのうちの3軒が玄米だった。新穀なら玄米だろう。久しぶりに玄米を見た。

 明日17日、午後7時から東公民館で『わたしが出会った言葉』というタイトルで講演をする。《今》にも少し触れるつもりで準備しているのだが…。

高い空
【No.529】 2006年11月14日

 11、12日の公民館祭りに園芸愛好会の会員として福助作りの菊を一鉢出展した。今年もまた、60鉢ほど並べられたがもっとも貧相なのが私のもの。「努力は人を裏切らない」ということを身にしみて感じた。
 この会の会員Oさんが、平塚市立金田小学校の創立100周年記念誌『かねだ』(1977年発行)を「これ、何かの参考になったら使ってよ」とプレゼントしてくれた。「金田」という地名は「金目川の水を引いて田んぼを作って生活しているから」とのこと。金目川がどれほど大切な川であるかを説いている箇所がいくつもある。『寺山ものがたり』で紹介したい。

 きのう、P広報委員長・Rさんが出来立ての広報を持って来訪。『臨時PTA総会開催を伝える』号を発行したのだ。この時期に臨時総会を開くというPTA活動には興味がある。PTAの活性化を目指し規約改正するとのこと。その改正部分が「指名委員」に関わることというのも興味がある。

 今朝、高い空の下でタマネギの苗を植えた。先週キヌサヤを蒔いたので、これで来年に向けての畑仕事は終り。45坪ほどの菜園で今収穫できるのはダイコン、里芋、小松菜。ダイコンは今年は良く出来ている。キャベツと白菜もどうやら丸まり始めた。高い空


【No.528】 2006年11月10日

6日 H小Pの広報委員長さん来訪。100号が完成したので持ってきてくれた。新聞ソフトを使って編集、プリンターで自校印刷。B4判4ページとがんばっている。「よく出来ていると皆さんに喜ばれている」とにっこり。新聞づくりの達成感は大きいことをここでも実感。

7日 学級新聞の指導に行ったK小・6−5から、来週開かれる学校祭の招待状が届いた。自作の演劇を上演するらしい。見せてもらうつもり。
 PTA広報の全国コンクールの応募案内を、各校Pに配ってもらうようにGさんに頼む。夕方、寺山生まれで二年先輩のFさんが『寺山ものがたり』を2冊買いに来てくれた。同級生に紹介してくれ、それで注文があったとのこと。

8日 神奈川新聞に「県中学校新聞コンクール」の結果が発表されていた。学校新聞は「本町中新聞」が最優秀、「東中新聞」が優秀賞だった。学級新聞は川崎市の学級が上位を独占。秦野は鶴巻中から1紙だけと寂しい。
 午後、東中の広報委員長がコンクールに応募した新聞を持ってきてくれた。タブ2ページだが、内容はしっかりしたもの。特集は「生徒会活動のマンネリ化」と「勉強するとは」。高校の新聞のように論説調の記事が多い。
 S小のP広報委員長・Hさんから電話で相談。「P本部だより」や「委員会だより」さらに「学校だより」と、「PTA広報」とが記事の取り合いになっている。その対処をどうしたらよいのかという内容。広報の役割の一つである「会員を高める」という視点で、他で出された情報を広報するようにしたら、と答えた。

9日 年度最後の企画についてアドバイスを求めて、S高校P広報委員会の二人が来訪。委員会での話し合いでは「学力低下」「いじめ」などが候補に挙がっているらしい。どちらを取り上げるにしても、高校という条件の中では「取材にかなりの努力が必要になる(テーマついて自校の現状がとらえられるか)」と話した。卒業式に合わせ発行されるのなら「自分の生き方を求めている先輩」を取材することを勧める。
 送られてきているPTA広報3紙の「読後感」を書く。

 3日から、母の《ハイ》が続く。連夜“独り言”、といっても一人で対話を楽しんでいる。ここ数日の相手はOさん。もう30年も前に他界した同級生。その人に誘われて地区の会館に行き、おしゃべりを楽しんでいるのだ。「みんなが着物でシャンジャクを締めていた」と、食事のときに語って聞かせてくれる。 家族、みな寝不足。

 この冬を越して来春収穫するキヌサヤを蒔く。夕方、Kさんが来た。県道沿いで『無人販売』をしているが、「お金が全然合わない。だから止めた」と、商品の柿をたくさん持ってきてくれた。《次郎》と《富有》、きれいな色の大きな実だった。

10日 午後、大学生のYさんが卒論の取材に来る。インターネットの検索で私に行き当たったらしい。「学校新聞と人格成長」という範疇で20項目ぐらい質問が準備されていた。新聞作りを指導している教師がもっとも求めている《教育的評価》に迫ってくれるようだ。高校で新聞作りに関わった人に答えを求めるらしい。完成が楽しみ。
 Yさんは、このホームページに「『学級新聞の教育的効果』をゼミで発表するとたよりしてきたMayuさんに会いたい」と言う。興味ある顔合わせの実現を期待したい。 

吉成さんのメールから
【No.527】 2006年11月02日

 『秦野の新聞教育』のページの「第20回東京都小学校新聞教育研究大会」の菅原さんのレポートにあるエピソードについて、吉成さんから次のようなメールが届いた。


過日行われた東京都小学校新聞教育研究大会後の反省会でのエピソードについて。
 都小新研の創立20周年の記念大会ということで、「創立当時の思い出の品」?を披露したのです。
 実は、都の小学校の研究会を立ち上げる(復活する)契機になったのが、当日持っていった雑誌『学級経営』(1985年6月号)の特集「学級経営に生かす学級新聞づくり」でした。
 この特集に原稿を寄せた東京都の小学校教員6名に手紙を送り、この年の8月、千葉県市川市で開かれた全新研大会への参加を呼びかけ、「昼休みに会場で交流しましょう」と誘いました。
 大会当日、「東京からご参加の先生方、○○にお集まりくださいませんか」という私の場内放送に応えて参集してくれた確か6,7人の先生が核となり、都小新研設立準備会を結成しました。
 その研究会創設の原点とも言える『学級経営』誌を、物置から苦心惨憺して探し出し、若いメンバーに見せるために誠之小学校に持って行ったのです。
 そこで、改めて目次を見てみましたら、武先生はじめ、儘田先生、鈴木先生など錚々たる方々も執筆されていることを発見。皆さん「オオーッ!」となった次第です。また、この企画は当時この雑誌の編集協力者だった岩上薫先生の人選での実現だったことも、ご自身の言葉から判明しました。
 堀口和子さんなど、改めて自分の文章を読んで、「うん、今読んでも、我ながら、いいこと言ってる」なんて喜んでいました。ちなみに、秦野市立東中学校教諭・武勝美先生の原稿は「学級新聞づくりの実際−企画から発行まで−」でした。これも又、今読んでも大いに役立つ情報です。

 
 この雑誌は手元にあるので開いてみた。吉成、儘田、堀口、鈴木、持田、杉本など諸先生と一緒に、私は8ぺージを担当。その中には私のクラスの学級新聞『エコー』の縮小版も入っている、懐かしい記事だ。

 私も参加した全新研・市川大会には思い出がある。柿本勇、三浦猛、坂本満冶さんと共に全国交流会を途中で抜け出し、田村俊雄さんの車で池袋まで送ってもらい、新聞を肴に夜通し飲んだ。「学校・学級新聞で学校づくりを」という思いが共通点の私たちだった。みんな若かった。国電の始発で別れた。

木登り
【No.526】 2006年10月31日

 20年来庭木の手入れをしてもらっていた庭師のKさんのことは10月8日の日記に書いた。
 そのKさんが今朝ひょっこり顔を見せた。そして「梅の木、少し手を入れさせてもらいます」と言う。驚く私に「去年仕事をしたとき、枝を支える幹がだいぶが弱っていたので、折れるといけないから針金で縛っておいた。それを縄に取替えさせてください。私の後に入る植木屋に『針金なんて使って』と笑われるから」とにっこり。仕事は1時間ほどで終えたが、帰り際にわが家の庭を見て回った。こういうのを《職人気質》というのだろう。

 結局今年も木に登ってしまった。父か他界した平成元年から、庭のセンダンの木とニッキの木(ニッケイ)は私が枝下ろしをしてきた。しかし、今年からKさんに替わり造園会社にお願いをすることになったので、センダンもニッキも任せるつもりだった。
 だが、今日のKさんの言葉を聞いて、なぜか木に登りたくなった。どちらも高さ4メートル強、目通り30センチほど。のこぎり、矢バサミ、高枝電動バリカンを使うので、はしごを何度も上り下りしての作業。センダンは今年出た枝をすべて切り落とし、ニッキはそれらしい形(「手を入れたよ」というふうに見える)に刈り込んだ。半日かけて2本はきれいになった。
 午後、切り落とした枝葉を片付けていたらジョウビタキが近くに来た。この鳥は人間に興味を示すようだ。


ワイドショー
【No.525】 2006年10月28日

 10日ほど前のお昼のテレビのワイドショーの話。 
 福岡の中学生の痛ましい死について、学校と教育委員会の対応を激しい憤りで批判したのが司会者。やがてコマーシャルが流れ、再びスタジオが映しだされたら司会者やコメンテーター全員がレイを首に掛けていた。
 次の話題は、今ブームだそうだが『フラダンス』らしい。番組はつい数分前の憤りはあっさり消し去り、フラダンスの人たちの中継に入っていった。コメンテーターの一人M氏は、私の思い過ごしかも知れないが、少し表情が複雑だった。
 ワイドショウだから、取り上げるニュース・情報に脈略のないのは分かる。しかし、コマーシャルをはさんでのこのつながりはあまりにも奇異に思えた。「中学生の自死」の後に「フラダンス」を取り上げる感覚が分からない。強烈な批判を展開したあのスタジオはなんだったのか。さっきまでのコメントや提案、意見などがすべてショーだと思ってしまった。
 テレビに関わる人たちは、自分たちが発信する情報は瞬間。瞬間のもの思っているのだろう。テレビはこうして私たちに刹那主義を刷り込んでいくのだ。

PTA広報づくり 2題
【No.524】 2006年10月25日

 運動会や学校祭、PTA祭りなどが終り、それらの記事満載のPTA広報がそろそろ届き始めた。いずれも力作。そのお礼に読後感を書いて送り返している。すると、時にお礼の便りがまた届くこともある。
 昨日届いたそのお礼状は、委員全員の寄せ書きのハガキだった。企画や記事、写真やレイアウトなどについて、少しでも感想ガきけたり、アドバイスをもらうことが委員たちにとってとても励みになることを、この寄せ書きで知った。
 『M』紙を例にすれば、「大見出しに大変苦労しました。その見出しをほめていただき嬉しかったです」「1、4面のレイアウトをしました。先生のご指摘、参考になりました」「『二学期制考える』のインタビューは苦労しました。先生のお言葉、嬉しかったです。ありがとうございました」「みんなで力を合わせてやっています。あと1号、成果をみていただければと思います」など、読者からの反応によって「報われた」と感じるのだ。
 N小の委員二人が最新号を持って来てくれた。今年度になって4回目の発行だ。この広報はA3判2ページの新聞スタイル。見事なレイアウト。情報や話題も豊富。それらを伝える記事を生き生きした写真が補っている。
 広報委員2年目のこの二人のお母さんがこんなに“腕が上がった”のは驚き。「忙しい、いそがしい」と言いながらも、「大変!」という言葉は口にしない。新聞作りをけっこう楽しんでいるように感じる。それは、私のアドバイスやヒントをすばやくメモする二人の姿勢で読み取れた。
 11月、12月と立て続けに発行するらしい。「たいへんだろうな」と私は思うのだが…。

言葉の力
【No.523】 2006年10月18日

 電話でDVの相談が入った。子どもの暴力に耐えかねて両親が家を出てしまったとのこと。嫁いだ姉さんからの相談だった。


 こんなメールもRさんから届いた。

 福岡の事件は、テレビを見ていて涙が流れました。子供たちと一緒に見ていて、「あの校長ひどいね。やだね」と意見が一致。特に臨時全校集会での話は聞いていて憤りを感じました。「きっと、また抗議の電話とか凄いんじゃない」と娘。先生が生徒をからかったり差別化する言動は自分たちにも経験がある、とのこと。私から見ても、思い当たるところがあります。「先生が言ったら、子供たちは『言っていいんだ』とまねをする」との被害生徒の父親の言葉は、確かにそうです。子供の立場に立って考えることと、子供レベルとは意味が違います。大人としての余裕がない…人が多いですね、社会全体的に見ても。反省。

 11月に開かれる中学校区の教育懇談会で話をさせてもらうことになっている。内容は「言葉の力について」。福岡のことについては触れなければならないだろう。重いテーマだ。だが、教師であった私は避けて通れない。

熊除けの鈴
【No.522】 2006年10月15日

 先週のある日のお隣の小学校の昼休みの校内放送。「熊除けの鈴の紐を校長室でつけます。鈴を持っている人は校長室に来てください」。市内でもう二度も目撃されているとか。信じられない環境になった。
 今朝、センダンの木にコガラが数羽。こちらは歓迎。
 午前中は庭の草取り。スイセンの芽があちこちで見られる。ノハナショウブが野放図に広がってしまっているので、手当たり次第球根を掘り出して処分。アカマンマのようにまもなく枯れる草もあるが、ヤブガラシだけは絶対見逃さない。地中に指を差し込んで、静々と地下茎を引き抜く。長いものは2メートルくらいまで取れるのだが、来春になればまた残った根から芽がでる。その生育力の強さに意地をはって対抗するのだが、自然の力には負ける。
 午後、寺山自治会主催の講演会『江戸時代の寺山と丹沢』に参加。講師は武真幸さん。江戸時代の寺山村の生活のようすを資料に基づいて説明があった。古地図や古文書も例示され、興味深く聴くことができた。        

【No.521】 2006年10月13日

今週の『俳壇』から
  
長谷川櫂選
 東塔の秋西塔の秋惜しむ      多田羅初美
 ゐのこづちだらけで現るる犬の貌  坂  一草
 飛行機雲一すじ許し鰯雲      佐藤 友哉
 秋の暮宇宙の闇に入る地球     馬目  空
稲畑汀子選
 天を掃き地を掃き萩の嵐かな    猿渡 青雨
 とんぼうの軽さの影でありにけり  橋本  博
金子兜太選
 ほくほくの甘藷の笑みの七重八重  熊坂  淑(秦野の人)

 選者の一人が《お休み》ということで15句選になってから、なぜか印象に残る句に出会えなくなっていた。だが、今週は書き留めたい句に出会った。『秋』だからかもしれない。

ドラゴンズ優勝
【No.520】 2006年10月11日

10月10日 
 朝、庭のニッキの木にコゲラが来てドラミング、珍しいこと。陽が高くなると、今度はセンダンの実をついばみにヒヨドリ、その鳴き声がけっこう騒々しい。ハマギクが一つだけ蕾を開いた。
 午前中、相談室の裏のモチの垣根の下を片付ける。そこに立てかけてあるシイタケの原木の一本からシイタケが三つ生えていた。

 ドラゴンズ、ようやくタイガースを振り切って優勝。劇的といえば劇的。ウッズ、足の痛みなど関係ないのか。あんな状態で、あの場面でホームランが打てるとは。テレビに映る落合監督は徹底的にポーカーフェイスを通していたのに、ウッズのグランドスラムのときはベンチを飛び出しウッズと抱き合った。信じられない光景、しかも目がうるんでいた。ベンチのいつもの席に戻ってから、流れる涙を何度もタオルでぬぐい、何度もほっとため息。
 昨シーズン、出足快調だったのに交流戦で完全失速、そのとき思った「もうドラゴンズの優勝は見られない」と。 
 急遽、中継を入れ、しかも最後まで放映してくれたNHKに感謝。

十七夜の月
【No.519】 2006年10月09日

10月7日
13時30分から、『秦野歴史おこしの会』に招かれて本町公民館で「寺山ものがたり 大山道・寺山の里」の話をした。今回はパワーポイントを使ったが、これは市まちづくり推進課の草山さんが助けてくれたお陰。
 今朝この日記を読んだから、とYさんが駆けつけてくれた。嬉しかった。知り合いの顔も多く、ざっと数えたら10数人、寺山からも数名、その中のKさんとTさんは私の「寺山ものがたりを歩く」にも参加してくれている。
 持ち時間は2時間と思い準備していったら「1時間で」と言われあわてた。事前の打ち合わせを十分しなかったのが悔やまれた。1時間30分をもらったが、そのため質疑の時間がとれなくなってしまった。閉会が告げられようとしたら会場から質問したいとの声。「子どもの頃、道永塚に幽霊が出ると聞かされ、学校からの帰りが怖くて怖くて…。男の子に鉛筆をあげて、一緒に帰ってもらった。道永塚とはどんな塚なのか」。それで三つの言い伝えを紹介した。


10月8日
 秋の嵐の後片付け、庭のあちこちに桜の葉の吹き溜まりができている。それを集めて畑で燃やす。天気予報では、まだ「強風」のはずなのだが、寺山は穏やかな秋日和。昇る煙はそれほど乱れない。朝から午後3時ころまでかかった。小学校の校庭で少年野球が練習しているが、迷惑にはならなかったと思う。 
 畑のダイコン、キャベツ、白菜の苗、ネなどの被害はかなりなもの。手は入れないで成り行きにまかせることにした。庭木に蜘蛛の巣がたくさんかかっている。それが秋の陽に光る。秋の蝶の姿も目に付く。
 夕方、庭師のKさんが訪ねてきた。今年の暮れのわが家の庭の手入れはできそうもない、と断りにみえたのだ。「いい話じゃないので、話しに来辛くて今になっちゃったけど、20年もやらせてもらったきたけど、相棒のEさんも亡くなったし、私も歳だからこのへんでこちらの仕事は遠慮させてもらおうと思って…」。 
 Kさんはたぶん喜寿、玄関の姿は仕事帰りだった。まだ現役なのだが、わが家の仕事は一人では10日くらいかかるだろう。確かにEさんと二人だから出来た仕事だったのだろう。Kさんの心情がなんとなく分かるような気がする。
 二人は寺山生れ、幼馴染で同級生。脚立に登り、松の葉を摘みながら二人で交わしている秦野言葉とその仕事ぶり、1時と3時のお茶を一緒に飲み「寺山」の話を聞かせてもらう楽しみが消えた。

 飛行機雲の名残らしい二本の雲が東の空から天頂に伸ていて、その空に十七夜の月が澄んでいた。

 HP 今日から7年目に入る。

ご参加をお待ちいたしております
【No.518】 2006年10月03日

ご案内
 
文化講演会
           主催 秦野歴史おこしの会
  演題 「寺山ものがたり 大山道・寺山の里」
                  講師  武 勝美 
日時 10月7日(土)13時30分より
  会場 秦野市本町公民館

 ※最盛期には「一夏10万人」と言われた信仰と行楽の『大山詣で》。その西側からの登山道の《大山道》は寺山・蓑毛を通っている。
 今回は、今も寺山・蓑毛に息づいている大山信仰にまつわる話や東秦野尋常高等小学校、東秦野国民学校についてのエピソードを紹介します。
初めてパワーポイントを使って話します。ご参加をお待ちいたしております。
  

もはや秋の風物詩
【No.517】 2006年09月30日

 未明(と言っても1時ごろだが)、小学校の校庭から話し声が聞こえてきた。今日は運動会。場所取りに徹夜で並ぶ男親たちの姿は、いろいろな意見もあるが、もはや東地区の「秋の風物詩」と言えよう。その様子を眺めに6時過ぎ、正門の前を歩いた私、毎年この朝、同じような行動をとる私も又風物詩の中に組み込まれている。
 今年もおよそ50名くらいの列が出来ていた。父親が中心だが、母親や祖父母の姿もちらほら。隣りのYさんも孫のために立っていた。「ご苦労さん」などと言葉を交わしている私に視線が来ていた。階段の天辺、そこは行列の先頭、そこに立つ若い父親が手を上げる。そこには教え子が数名、かつては簡易テーブルを持ち込み、缶ビールなど林立していたが、今年は少し様変わりしていた。「これから並ぶ」と言う知り合いのOさんに途中で出会った。起きぬけの顔に見えた。
 

「大山道を歩く」講座を持ちます
【No.516】 2006年09月29日

 東公民館の講座の打ち合わせ。以前から打診されていた『大山道を歩く講座』を受け持つことにした。館長、担当者、そして市のまちづくり推進課の職員と私の4名で2時間ほど話し合う。
 秦野市内の大山道を歩くと言っても、大山道の面影が残っているのは東地区内の《蓑毛通り》と《坂本通り》しかない。その条件の中で『ふるさと秦野再発見・大山道を歩く』を講座名にして、3回シリーズで歩くことにした。
 来年2月が第1回で「坂本通りの石仏めぐり」―これは決定。私の構想では、2回目は「大山道春の里歩き」、最終回は「紅葉の大山道」としたい。


北海道新聞が秦野の新聞教育を
【No.515】 2006年09月27日

 27日発行予定の市P連の『情報委員会だより』が昨夜届いた。A3判2ページ、パソコンで作られたもの。
 8月に全国新聞教育研究大会が秦野で開かれ、大会速報の発行を秦野市P連が担当した。その速報に関わった4人の情報委員が『情報委員会だより』の今号の担当になったことで、「大会速報並みのものつくろう」と他の5人を巻き込んで企画を立てた。この企画が実現できたのは「新聞づくりの楽しさをもう一度」と願う4人と、「楽しそうだから初体験してみたい」という5人の思惑が見事に一致したからだった。
 紙面には、秦野大会を市P連が応援したこと、講師や提案を受け持った秦野の先生やP会員の活躍ぶりの紹介、そして秦野がこの大会で学んだこと・得たものなどが載せられている。
 おおよそ3週間で作り上げた『だより』。編集者9人のがんばり・努力は言うまでもないが、パソコンで紙面を作ってくれたKさんの献身的な協力に羽心から敬意を表し、感謝したい。これもまた「新聞のまち・秦野」という証しだと思う。

 今日、9月25日付けの北海道新聞が送られてきた。この日の「教育のページ」はNIEの特集。そのページに「学校新聞づくり半世紀/神奈川県秦野市の中学/全9校が毎月発行」という見出しで、秦野の新聞教育が紹介されている。夏の大会の来秦された記者が書いてくれた記事。秦野人として光栄。

秋の花火
【No.514】 2006年09月25日

 昨日は「だより」の原稿の整理で追いかけられた一日。
 原稿整理のメールのやりとり4回、ファックスの原稿も1本来た。それらの原稿のことを電話調整が8回。それでどうやら今日の午前中に初校が上がってきた。あとは委員に任せる。印刷のゴウサインは委員長さん次第。
 秦野は昨日は『たばこ祭り』なのに、パソコン入力に協力してくれたKさんは、お祭り楽しむことができなかっただろう。
 今年の花火は、空が澄んでいたし、風もおだやかだったので、きれいに見られた。妻の言葉「今年も花火が見られた」。秋の花火は、こんな言葉を口にさせる。

9月21日
【No.513】 2006年09月22日

5時半起床 朝刊2紙に目を通す
6時50分 朝飯  
9時〜10時 母の入浴
10時 旅行社に電話
    『情報委員会だより』の原稿をKさんにメールで送稿
10時30分 Nさん 美術展の招待状を持って来訪
11時 母、早めの昼食
11時半から 母、歯科医師の往診
12時 昼食
1時半 JA職員来訪
2時から 栗畑の整理
4時過ぎ 10月の講演会の会場の確認の電話
     小包の発送 ついでにクリーニング店へ
6時 厚木市P連から明日の講演会の確認の電話 
8時 明日の資料の最終確認

秋彼岸ひとは地上に香をたき天はひかりの花びら散らす  道浦母都子

日記が更新されないけど
【No.512】 2006年09月20日

 「日記が更新されないけど」と気を使ってくれるメールをもらった。
 “お人よし”とは違うんだな。自尊心をくすぐられるから? それとも違う。自己顕示欲の塊、いや、私は《天狗》なのだ。
 『エコー』の発行は続くし、ここでまた講演を二つ受けてしまった。新聞づくりの手伝いもしている。だから、せっかく耕した畑はまだそのまま。
 「今さら何をそんなに」と思うのだが、やっぱりできることはやってみたい。それほど《時間》があるわけではないのだから。

 きょうは彼岸の入り。昼食はボタモチ。午後掃除を兼ねて墓参りに行く。彼岸花が1、2本咲いていた。

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