9月1日 の寺山物語 【No.151】 2003年09月02日
昨日は9月1日、例年どおり栗畑に行った。この夏の気候、そして今年になって7本も枯れてしまったので、あまり期待はしていなかった。だが、軽トラで出かけた。私の“いでたち”と言えば、麦わら帽子、手甲、カーキ色の作業ズボン、そして首にはタオルと本格的である。 植物とは律儀なもので、やはりもう実は落ちていた。だが小粒で数量も少ない。ところが、かがんで栗拾いをしている私に、上のほうからの視線があるのに気づいた。栗畑は道から数メートル下にある。見上げると、Tさんの奥さんが道端にしゃがみこみ、畑を覗き込んでいる。ときどき咳きばらいもしている。Tさん宅は栗畑を見下ろす位置にあって、畑の様子が良く見える。しばらくして、奥さんは家に戻り、私に聞こえるように、ご主人に大声で話しかけた。「あれは勝美ちゃんじゃないよ」「そうけえー」とご主人。どうやら、私は“栗盗人”と疑われているようだった。いまさら「勝美ちゃんですよー」とどなるわけにもいかない。今度はご夫婦で畑の私を見ている。お二人に“勝美ちゃん”だと知ってもらうには、と考え末、畑じゅうに落ちている栗の枯れ枝を拾い、一カ所に集める作業をすることにした。(これはまったく予定外の仕事。)そんな私の行動を見て、お二人は安心して家に戻っていかれた。 市道で、通学路で、バス通りのすぐ下にある栗畑。ここには、この季節になると鹿や猿が姿を見せる。そして時に、この畑にまったく関係のない人も現れる。 きょう2日、畑に行った帰りに“見張り”をして下さったお二人の家に寄った。そして「昨日は私だったから」とお礼を言った。「軽トラがあったから、はじめは勝美ちゃんじゃないと思ってよー」「でも、だまって拾っていく人はあんなに長く畑にいないから、勝美ちゃんだとわかって、安心したよ」 私の作戦は成功したのだった。
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八月の終わりに 【No.150】 2003年08月31日
この夏、とうとう一度もこの部屋のエアコンは使わなかった。8月の終わりのころに少しすこし暑さが戻ってきたが、耐えられないほどではなかった。でもきょうは蒸した。 サーバーの都合で、ホームページのアドレスを変えなくてはいけなくなった。けっこう手間がかかる。名刺も作り変えなくてはいけない。破れかぶれでメールアドレスも変更する。もっとも、この変更は「良いきっかけ」と言えなくもない。なにしろ、毎日20本ほどの迷惑メールが入ってしまう(すべて中国語のもの)。 この夏の収穫は“アレルギー鼻炎”。7月の半ばから患って今も進行中。検査の結果は「カモガヤ 5」「ハンノキゾク 5」「スギ 3」「ブタクサ 2」「ヨモギ 2」「ヒノキ 2」「カ゜ 2」「ハウスダスト 2」と見事なもの。数値は0→6でもちろん6が最悪。診断のお医者さんの言葉「見事に出ていますね。すごいですね」。私の感想「自然の豊かなところに住んでいるなあ…」(ため息!) 今月も家族新聞が7紙届いたのに、『エコー』はとうとう休刊。次号は合併号として、しっかり発行したい。今月うれしかったこと、大内文一さんの『新聞と教育』の復刊。
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なぜかショウを見ている感じ 【No.149】 2003年08月30日
きょうは、秦野市は「防災訓練」の日。9時過ぎに自治会の防災倉庫の前に集まる。清水自治会の参加者は、幼児や小学生なども含めて25名ほど。土曜日のせいか、いつもの年より少ない。 10時から東中学校の校庭で、市の総合訓練が始められた。ヘリコプターが上空を舞い、自衛隊も参加、救難犬も出動。100人ほどのバケツリレーの消火訓練もあった。間近に迫っているという東海沖地震ヘの対応のための訓練なのに、なぜかショウを眺めているような気分の2時間余。 そんな中で、東中の2年生12名が消火栓の放水訓練に取り組んだのが好評(?)だった。なにしろ、二本の筒口を抱えたのが4名の女生徒。放水が終わってホースを巻き上げる作業も見事にこなしていた。私が中学生のときも学校自衛消防隊があった。だが隊員はすべて男子だった。 そう、アルファ米の炊き出しもあり、昼食はそれを食べた。おいしかった。やっぱり緊張感・切迫感はない私だ。 ニュージーランドに留学している隣の朋子さんから、友達を通して土産が届いた。
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松岡豊治先生 【No.148】 2003年08月28日
母の病室で校歌を歌った医師は松岡豊治先生です。なんと私の叔父と秦中の同級生でした。松岡先生は今年一月『老人病院こぼれ話』というエッセイ集を出版されていた。校歌を一緒に歌ったおかげでそのご著書をいただくことができた。昭和60年から『日本医事新報』に連載をされたものを単行本化されたのだ。「生・老・病・死」という言葉を身にしみて感じる本。あつかましくも「エコー」に転載許可のお願いをした。許していただいた。 病院でのバアちゃん食事は進まないようだ。秦野生まれ・明治人・農家の主婦だから、辛い味でなくてはダメ。ソバ屋さんのツユなど、バアちゃんにとっては論外のもの。“生醤油”でなければダメ。 週五日、昼食時に食事の世話をしに行く。そのとき必ず妻が作ったキャラブキを持っていく。その味は当然だが“バアちゃん譲り”である。白いご飯にキャラブキをのせて出すと「これで食べられる」とにっこり。人は幼い頃食べたことのないものは食べられないのだそうな。年齢が嵩めばかさむほど、新しい食べ物には手が出ない。胃腸に自信がないから。 そろそろマツタケのシーズン、だが私は食べたことかないものは食べられないのだ。本当だろうか。腹いっぱい試してみたい。
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やっと 軽トラ出動 【No.147】 2003年08月25日
ついに軽トラで栗畑に行った。買ってから一月以上も経って、ようやく軽トラに本来の仕事をしてもらったのだ。栗畑の草刈りを3時間、暑い日差しの中だったが、私としては楽しんで仕事ができた。 今日届いたたよりに「“軽トラ” びっくりしました。すごいですね。私も今いちばんほしいものです」とあった。たよりの主・F氏も、農作業に精を出す教員のOB。これでは明日もがんばらなければ。それにしても草の勢いはすごい。
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母の病室で 【No.146】 2003年08月24日
母が三度目の入院わした日。母のいない病室で、妻とぼんやりしていた。そこに入ってきた医師が「武さん、蓑毛でしたっけ」と尋ねてきた。 「いいえ、寺山です」 「そうですか、蓑毛に武という同級生に武゛いたような記憶があってね」 「なんというお名前ですか」 「私は勉強が嫌いで、学校にあまり行かなかったので、同級生の名前をほとんど覚えていないのですよ。ところで失礼ですが、高校はどちらですか」 「秦高です」 「それじゃあ 校歌を歌います」 あまりに飛躍した言葉にあっけにとられいる私たちに背を向けて、その医師は朗々と歌い始めた。 ♪広畑が丘空晴れて 相模大野の末遠く 努力重ぬる行手には♪
ここまで聴いていた私はなぜか、彼に唱和した。 ♪桂の薫る島のあり 楽し勇まし我等の歩み♪ 妻は唖然として、私たち二人を見ていた。 病室の窓から見えるスーパーSANWAの屋根越しに、阿夫利嶺(大山)が夏の霞に包まれて聳えていた。校歌の三番に 「朝暮微笑み聳えつつ 阿夫利の山に啓示あり」とある。 出会いとはなんとも魅力的なものである。
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西山家 全農会長賞を受賞 【No.145】 2003年08月20日
『エコー』の読者の西山さんは私が初めて担任した教え子の一人。その彼女から「日本農民新聞」が送られてきた。その紙の6面全面に、「西山家が全国施設園芸共進会で全農会長賞を受けた」記事が載っていた。女性経営士でもある彼女は、ご主人と息子さんとでトマトとキュウリの周年栽培をしている。西山家は今、軒高ハウス19棟・6831uの施設面積とある。10年くらい前、厚木に彼女を訪ねたことがあった。そのときと比べ、さらに経営規模は大きくなった。「受賞おめでとう」のお祝いの言葉に「くれぐれも健康に留意を」を添えて返書を書いた。
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きょう誕生日 【No.144】 2003年08月18日
MSブラストとかいう新しいウイルスの洗礼を、8月11日にいち早く受けた私のパソコン。体調不良と相まって気力は全く無しの生活が続いた。だが、今日8月18日は67回目の誕生日。またキイボードを叩くつもりになった。そのきっかけは届いた一枚のバースデーカード。こんな文面だった。 「古い年齢は必ずお捨てください。自分の年齢をよく確かめてください。新しい年齢を使用せずに放置しても、自動的に移行されますので、ご承知おきください。耐用年数は一年です。」 雨が上がったら一気に蝉が鳴きだした。「あと車一台分の余生」など彼らにはない。「やりたいことがある」というわけではない。生きているから何かを感じたい。 今日の「朝日俳壇」 茎も葉もトマトの匂ひ放ちたる 所崎知子
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楽しく家族新聞づくり 【No.143】 2003年07月23日
22日は北公民館での『家族新聞づくり』講座の一日目だった。5家族12名の参加があった。子どもは7人で小学生だけ(男3女4)。夏休みのまとめを家族新聞でしてくれたらいい。 母子で紙面に載せることを話しあってもらった。「今、家族の中でがんばっている人」「ほかの人は知らないが、私だけ知っていること」などという項目の話し合いは、楽しそうだった。夏休みの半日、こうして母子で参加するだけでもよい思い出になるだろう。来週30日が発行日。どんなものが生まれるのか、と私の期待は大きい。
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母にバースデイカードが届く 【No.142】 2003年07月21日
この日記に母が94歳の誕生日を迎えたことを書いたら、Sさんからメールでバースディカードをいただいた。ありがたいこと。 昨日、妹が来た。誕生日のプレゼントはお手製のバミューダショーツ。バアちゃん、喜んで早速履いてみた。柄がチェックのせいか、いや、その体型から、スコットランドの男性が身につけるキルトみたいに見えた。(バグパイプの音が聞こえてくるような) 今日は『お風呂』の日、入浴をさせてくれる三人のスタッフが、母の入浴中に一緒に歌を歌ってくれる。「星影のワルツ」くらいは付き合えるらしいが、「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の」などという曲になると『八重子さんのリサイタル』になる。バアちゃんの歌は、歌うといってもほとんど抑揚が無いのだ。「よく付き合ってくださって」とお礼をいうと「私たち、八重子さんに教えてもらっているのです。ここで憶えて、次の人のところで役立てています」と言ってくれる。
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ハピーバースデイ 94歳 【No.141】 2003年07月17日
16日、今年の朝顔が一つ咲いた。白の縁取りで赤。天候のせいか夕方までしっかりと開いていた。今年買った種なので、そういう品種なのかもしれない。ニイニイ蝉の鳴き声も今日聞けた。 一日遅れで、バアちゃんの誕生祝いの夕食会をした。誕生日のパーティーといったところで、四人だけの会。「何歳になりましたか」と聞くと「歳? 忘れちゃった。ハズカシイ、94」と笑う。
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お盆です 【No.140】 2003年07月15日
13日 (日) 曇りのち雨 午後、軽トラでの初仕事。お盆の辻の竹を取りに行った。帰って雨の中、辻を作った。去年よりていねいなものになった。4時ごろ迎え火を焚く。近所の7軒の辻にお線香を上げ、お参りをする。これは昔は子どもたちのすることだった。今の子どもは忙しく、その姿はまったく見られない。次の世代になったら、この風習も消えてしまうのだろう。たぶん、彼岸から帰ってくる私に、迎え火は見えないだろう。松島家、杉野家、お盆の墓参りに来る。 夜、中3のWさんから電話。新聞づくりの相談。「高校生活と部活動」を記事にしたいらしい。それで秦野高校の新聞委員のCさんを紹介してやる。
14日 (月) 曇りときどき雨 公民館で行った家族新聞づくりの受講者Nさんからステキな家族新聞が届く。この若いお母さんの美的センスはみごと。2号まで発行。これからも続けばいいのだが…。 17日が締め切りのP誌の原稿を二本書く。長崎の事を意識して書いたつもり。雨が多いせいか、ひょうたんの新芽に毛虫がたくさん着いていた。
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車一台分の余生 【No.139】 2003年07月11日
きょうは大安。朝9時半に車が来た。二台目をとうとう買った。退職してからずっと考えていた。買ったのは軽トラ。「営農サンバー」というやつ。農作業用の車だ。 栗拾いや竹の子取りにクラウンでは、やっぱり絵にならない。 セールスに来たのは教え子。「先生、そんなに乗らないと思うよ。クラウンでいいでしょうに」。浪費だ、と言いたいらしい。売る気はあるのか、と思った。 でも、よく考えてみれば、運転できるのはあと数年。営農と言っても栗畑と竹やぶに行くだけ。 「いまさら」という思いは買った今も、私にはある。軽トラを買ったことによって、いよいよ終点が現実になったように思う。 今週の朝日歌壇でこんな一首を見つけた。 「あと車一台分の余生ね」と妻の言葉に愕然とする 花上直之 「愕然」とはしない、買いたくて買ったのだから。だけど、残りの人生と車の耐用年数を比べれば、感慨のようなものは感じる。 とりあえず、郵便局まで行き、ついでに蓑毛の大日堂まで走ってみた。4WDでオートマで、エアコン装備なのだ。
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教育観 【No.138】 2003年07月10日
長崎での痛ましい事件については、少し時間がたってから考えてみたい。今・現在この事件に対しての情報はほとんどないのだから。
こんな新聞の記事があった。(朝日新聞・7月8日)スポーツ欄だから、と は思うのだが、長い間教師をやってきた私には、理解できない内容だ。
「私が高校の教員になったのは、サッカーの指導者になるためだった。日 体大を卒業するとき、当時の日本リーグのチームから誘いがあった。だが自分は日本代表になれる選手じゃないと、見極めをつけていたので断った。でもサッカーにはずっとかかわっていたいという思いがあったので、高校でサッカーを教える道を選んだ。教員時代は朝練習、授業、午後の練習と、朝7時から夜9時まで学校にいた。常に選手と顔を合わせているうちに、指導者と選手という関係を超えた強い連帯感が生まれた。素晴らしい体験ができたと今でも思う。昨春、「来年度は異動」と非公式に伝えられた。市船橋高とはサッカーのレベルが全く違う学校へ転勤するかもしれない。それを聞いて正直なところ、やる気がわいてくるという気にはならなかった。教員でサッカーを教えるという環境に限界が見え、プロコーチヘの転身を決めた。サッカーを教えたいという教え子もいる。だが採用数が少なく、狭き門を通過しても、サッカーのやりがいがある学校に赴任できるとは限らない。教員になって子どもにサッカーわ教えたいという教え子もいる。今、個性の時代といわれている。公立高校にも進学重視の学校、スポーツにカを入れる学校、芸術の分野を充実させる学校などがあっていい。ある高校は野球、ある高校はサッカーというように、特色ある学校を地域ごとに設け、指導力のある教員を配置する。行政がそんな方針を打ち出してもいいのではないか。このままでは、スポーツに意欲を燃やす教員の人材が埋もれてしまう。各都道府県のスポーツの強化、ひいては国の強化が地盤沈下していく。 布啓一郎(15歳以下日本代表監督)」 布監督にとっても、子どもたちにとっても、教員からの転身はよかった。
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七夕 【No.137】 2003年07月07日
毎週土曜日、デイリハビリに行っている母。5日は七夕飾りを作ったという。短冊に願いごとを書いたらしい。そのときのバアちゃんの話。 「施設の人が私の代わりに願い事を書いてくれると言うので『病気の神様、私のところから遠くに行ってください』と書いてと言ったら『武さん、病気は“神様”じゃないよ』ってその人が言うのよ。だから私はね『病気でも神様みたいに崇めてやればきっと私のところから離れてくれるから、そう思うから“病気の神様”でいいの。そう書いてください。お願いします』とその人に頼んだの。ほんとに、もうクサクサ。早く一人で歩きたいのよ」 今日は七夕です。
庭木の剪定作業を楽しみ過ぎた。ダウン。
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「ヒシミラクル」を買った男性 【No.136】 2003年07月02日
競馬はときどきテレビで観戦する。と言うのも、武豊という名ジョッキーが出現したから。武豊さんのお父さんは武邦彦、この人もジョッキー。その「邦彦さんのお父さんは秦野の人」と、どこかで聞いたものだから、そのことを私の自己紹介に使ったりしているが、競馬場に足を踏み入れたことはない。 その競馬の話。この前の日曜日、「宝塚記念」競争があった。(もちろん豊君も乗った。)このレースに勝った「ヒシミラクル」という馬に1200万円余を賭けた人がいた、という。 馬券を買う人は、当日レースの前のパドックで馬を観察して、最終的に決めるのだそうな。それなのに、この1200万の中年男性は、前日に新橋の場外馬券場で買っている。馬券を一度に買える限度は50万円まで。しかも高額なので複数購入用紙が必要らしい。総額は1222万円だったそうだから、50万円の購入用紙25枚に「ヒシミラクル」と書かなければいけない。それを書いている間に《心変わり》《不安》《迷い》などなかったのか、この男性は。確信に満ちたその行動に、私はただただ畏敬の念を持つだけ。この日勝った『ヒシミラクル』の賞金は1億3000万円、この男性が得た配当金が1億9900万円だという。だが、私は思う「この人は勝負とかギャンブルの世界の人ではない」と。 『エコー』206号 先ほど投函してきた。
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6月27日 6月28日 充実の二日間 【No.135】 2003年06月29日
6月27日 10時半、御詠歌を練習しているグループに寺山の「まわり地蔵」の話を聞くために円通寺に行く。(「まわり地蔵」については、来月一日に『寺山物語』でアップする。) 12人の女性から寺山の民俗についていろいろ聞かせてもらった。寺山物語の新しい題材を一つもらった。久保と宝け谷戸で行っていた念仏講で、大きな数珠が使われていたこと。その数珠が今も保存されていること。来月の練習会で取材させてもらうことにした。 午後は隣町の小学校のPTA広報委員長さんの訪問を受けた。いろいろな点で、前年までのものと大きく変えたため、その評価を得たいとのことだった。一見しただけで「みごとなでき」と思った。「次年度の人たちにプレッシャーを与えてしまいそうだけど、私たちは、私たちができることを一生懸命やるだけ、と話し合いました」との言葉。そのとおりだろう。過去をそのまま引きずっていては進歩も発展もない。
6月28日 午前中は東市公民館で家族新聞づくりの二回目の講座。きょうは実際に新聞を作る日。なぜかお母さんたちの姿が減り、子どもたちの数が増えた。小学校三年生から中学三年生まで10名、そのうち男の子は二名。二時間のがんばりで発行までたどり着いたのは一紙だけだった。だが、他のどの家族も清書に入っていたので、近いうちに完成するだろう。送られてくるのを待ちたい。 夕方から内藤前教育長さんの歓送会。36名の会で、リタイア組は内藤先生を含め5名。年齢順に数えたら私は4番目だった。出席者全員が内藤先生から受けたもの、得たものを語った。教師が無意識のうちに、あるいはまったく意図していない中での言動が、時に子どもたちに大きな影響を与えるということを改めて知った会だった。現役バリバリの先生たちから今の学校教育についていろいろ聞かせてもらった。今夜は歌は出なかった。 、
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草が伸び放題じゃないですか 【No.134】 2003年06月26日
昨日は北中学校で新聞づくりの講習会。期末テストガ終わった午後が新聞づくりではかなりタイヘンだろうと同情した。対象は一年生。学年4クラスで、それぞれのクラスが班活動を行っている。≪班活動≫なんて、なんとも懐かしい言葉。その班に新聞係が置かれている。それで30名ほどの参加だった。ビデオなども使い90分がんばってもらった。少しでも新聞に興味を持ってくれたら、これからの新聞づくりにも役立つのだが…。 講習会が終わって、参加してくださった教頭先生など4人の先生方と雑談をした。そんな中で「先生、このごろあまり畑仕事をしてませんね。お元気ですか。畑が草だらけじゃないですか」とH先生の言葉。「エエ? どうして知っているの」と私。「学童保育のお迎えに毎日、小学校に行ってます。そのたびに先生の家の畑を見るのですが、先生の姿は見えないし、草が伸び放題。心配していました」 と言うわけで、きょうは畑でジャガイモの収穫(もうよそはとっくに終えているのだそうな)をした。雑草の中でもかなりの出来。けっこうな量。 H先生、きょうは畑を眺めて「私の指導が行き届いた」とニッコリするだろう。そのとおりです。教師は、子どもに励ましの言葉と適切な指示をしなくてはいけないのです。
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美空ひばり 【No.133】 2003年06月24日
日曜日に妹たちがバアちゃんのご機嫌伺いに来た。いつもならおしゃべりをするのに、その日はベッドで横になったまま何も話さない。出た言葉は「帰っていいよ」。そしてお得意の“バイバイ”の手をふる挨拶。「せっかく来たのに」と言いながら二夫婦とも午前中で帰って行った。 日曜日のバアちゃんの仕事は、テレビの「のど自慢」と「笑点」を楽しむこと。だが、この日のバアちゃんは「のど自慢」の途中から居眠りを始めた。「笑点」のときもほとんど眠っている状態。少し気になった。 夜7時から、美空ひばりの歌の特集があったので、テレビの前に車椅子で座らせた。そしてその反応を確かめることにした。こういうことが、言われている「老人虐待」なのかもしれない。 知っている歌がたくさんあったのだろう、一時間はがんばれた。
美空ひばりの歌で私が好きなのは「津軽のふるさと」。この歌は歌曲に近い。「みだれ髪」を聞いてFさんの歌を思い出す。 1937年生まれの美空ひばり。終戦間じかのころ、横浜から疎開してきた同級生がいた。いじめられっ子だった。そして終戦、彼女が売れ出してから、この同級生は、突然クラスのヒーローになった。彼は「美空ひばりと同じクラスだった」と言ったから。今思えば、見事な生活の智恵だった。
きょう6月24日は≪りんご忌≫
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親子で楽しく新聞づくり 【No.132】 2003年06月22日
21日の「親子で楽しく新聞づくり」の講座、 8家族の参加があった。子どもは小学6、5、3年生の4名。前半は『新聞』について興味を持ってもらうため、その日の新聞を使った勉強。新聞の値段がどこに書いてあるのかを発見したり、発行号数から創刊年を計算することもした。私の「新聞の題字」のコレクションをコピイして配った。夏休みにこのコレクションを増やしてくれたらうれしいのだが。来週までに家族新聞の題字を書いてくることが宿題。 午後、鶴巻公民館の「地域から不登校・中退を考える」講座に出席。『フリースペースたまりば』の西野さんを招いた。20名を目標にしていたそうだが、40名を超える参加者。小さなサークルが企画の充実した講座だった。母親たちの力、そしてそれに協力した公民館の力がこれだけの講座を開催させた。「地域に生きる」という意味をこのことからも感じた。
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いじめないでください 【No.131】 2003年06月19日
昼間かかっくる電話はたいてい勧誘か商品の紹介。墓地、屋根の葺き替え、エアコンの掃除、化粧品、そしてダントツに多いのが利殖のお勧め。 きょう 同じ商品取引の会社の三人の外交員から電話が来た。私はナメラレているのだ。 「私の名前が社内でたらい回しにされているのか」と尋ねた。答えは「ウチの会社は大きいですから、そんなことはしていません」。これからこの社名を名乗る電話には「あなたの会社は信用していませんので」と申しあげるしかない。 証券会社からは「お客様マニュアル」を読み上げていることが分かるような勧誘の電話。私がていねいに、しかし口数少なく対応したので、なぜか相手が含み笑いになった。そして言った「私 新人ですからいじめないでください」。 冗談じゃないよ。途切れることなく、しかし内容はほとんど分かっていないような平板な口調の電話。こっちは切りようがないから受話器を耳にしているだけ。だいたい「私は新人だから」などという言葉を口にしただけで、もうその商品の信頼度はゼロというもの。
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秦野市教育研究所で新聞教育の研究 【No.130】 2003年06月17日
秦野市教育研究所が二年計画で「新聞教育」の研究を始めた。研究員として小学校2名、中学校4名の先生方が委嘱され、この4月にスタート。新聞づくりにかかわってきた私としてはとても嬉しいこと。私は東中の新聞委員でもあった。できることがあるなら協力したいと思う。 昭和25年に秦野東中で始まった秦野の新聞づくり。その50余年にわたる秦野の新聞教育活動をまとめ(記録し)、これからの新聞教育の方向性を考えるこの研究。「秦野の教育」の再構築でもある。 きょう、私が持っていた東中新聞と西中新聞のバックナンバーを研究員の守屋先生に渡した。「できれば、学校か研究所でこの新聞を保管して欲しい」とお願いもした。景気がよい時代なら、縮刷版として出版もできただろうに。なんとしても保存だけはして欲しい。当時の学校の様子が分かる資料として、とても貴重なものだと思っている。 この新聞活動を秦野東中に取入れられた新倉壽造先生の訃報か今日入った。新聞についての聞き取り調査に、ご協力いただくはずだった。
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【No.129】 2003年06月15日
昨日は9:00から東公民館で行われた「朝顔のあんどんづくり」の講習会に出た。私も会員になっている秦野園芸愛好会が、ボランティアで毎年行っている講習会。今年は30名を超える参加があった。会のメンバーは全員が元教師ということで、「教えるこ」とについては自信がある。何を聞かれても適切に答えられる人、ユーモアたっぷりに教える人、けっこう厳しく指導している会員もいた。 私はこの愛好会では「研修」担当だが、園芸の研修ではなく県外視察担当、要するに旅行係。本来の研修にもっとも遠い位置にいるのが私。他の会員のように受講生の中に入って行って、指導するような技術や自信がない。だから、今年もみんなの周りをウロウロしていた。 受講者の一人に知り合いのTさんの顔があった。そのTさん、作業の手を止めて「もう残り時間がないのであせってますよ」と話しかけてきた。教え子だった次女がもう50歳を超えたと言う。私の心に染み入る言葉だった。
今、降っている雨を見つめながら考えていること。 とりあえず、私が今やらなければいけないこと。 1、里芋の土寄せ。 2、今週末の「親子新聞づくり講座」の資料作り。 3、ホームページの『寺山夜話』をまとめて印字すること。 私もまた「時間が無い」。どれを最優先しなければいけないかと迷う。 ホトトギスがこの雨の中、鳴いている。「キョッキョッ キョキョキョキョ」「キョッキョッ キョキョキョキョ」
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母の食事 【No.128】 2003年06月11日
退院一年ということで、母を検診に連れて行った。11時予約なのだが12時を回ってしまった。車椅子なので院内の食堂で昼食をとることにした。会計の整理を待っている間に、妻とバアちゃんは先に食堂へ。 「何を食べる?」と聞くと「みんなと同じでいい」と答えたという。ここの中華丼はいつも早く売り切れる、おいしいらしい。バアちゃんの入院していたころから、そう感じていた。「お母さんに食べさせたい」そう思った妻は、中華丼なるものの説明を十分して「それでいい?」と確かめた。バアちゃんは「ご飯物だから、それでいい」と言ったという。 妻はオニギリを頼んだ。遅れた私は、追いつくためにラーメン。 やがて中華丼がテーブルの上に。それをジッと眺めていたバアちゃんは、妻を見てニコっと笑い「これ、イラナイ!」。困ったのは妻。「それじゃあオニギリにする?」と聞くとニコニコと「ハイ」。 「235番 ラーメンの方」と呼ばれたのでとりに行き、バアちゃん隣に座った私。するとバアちゃんはオニギリを食べるのを止め、私のどんぶりにジーッと視線をやる。そしておもむろに私を見る。 「わかった。ラーメン 食べる?」と私。こんどもまたニッコリのバアちゃん。おわんを借りてラーメンを半分分けした。バアちゃんはラーメンが好きなのてす! 妻と私は評判の中華丼を食べられた。もちろん、私は半ラーメンも食べられた。オニギリだけが少しもったいなかった。
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6月7日 同窓会でのI先生の挨拶 【No.127】 2003年06月08日
昨日、50歳を迎える教え子たちの同窓会に招かれた。当時の担任4名のうち二人の先輩は他界され、同年齢のI先生と私が出席。Iさんはその挨拶の中で「東中学校は、初任地ということ。みんなの純真さ。校長先生がいろいろなことをさせてくださったこと。そして武先生がライバルとしていたことなどから、教員生活の中でもっとも印象に残る学校です。」と話された。 I先生と私はそのころは20代の終わりのころ。 その時代、二人が東中でがんばったことは、学校新聞の指導。活版新聞の原稿書きを子ども達に徹夜でさせた。用務員のYさんが作ってくれたおにぎりの大きかった思い出。Iさんは卓球部を創設し、三年目のこの子達で県のベスト8。私の持った野球部も市内で初優勝。35年前、東中文化祭をスタートさせたのも二人だった。山好きのIさんの提案で富士登山とニ、三年生の丹沢キャンプも始められた。 私もまたI先生をライバルとして意識していたのは確かだった。「結婚は武さんがするまではしないから」とIさんは言い、私も「Iさん、先に行ってよ、頼むから」と、笑った私。これもライバル意識の表れだった。新聞の私があるのは、東中でI先生に出会えたからだ。
彼らから、リストラ、子育て、孫自慢、病気、介護など、たくさんの話をきいた。そして私のひと言がもたらした当時の現実も聞かされた。謝るしかなかった。
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狸 【No.126】 2003年06月05日
いつもの年なら五月初めにはしていること。今日、今年になって初めて栗畑の草刈りに行った。予想をはるかに超えて草が伸びている。 午前中4時間弱の作業。クリームソーダのペットボトルを作業ズボンの右ポケットに差し込んで、ゴーグルを着け、ほとんど休憩無しでがんばる。と言っても、給油は必要なわけで、10時過ぎ給油のタンクを畑の端に取りに戻った。そこでしばらく腰を下ろしていたら、置いてきた刈り払い機(草刈り機のこと)のあたりで動く物が見える。刈った草をヒョイヒョイと飛び越え、竹やぶに消えていった姿。大きさ、形、何より毛の色が特徴だった。狸だった。刈り払い機のエンジンカバーの色、それに関心を示し見に来たと思った。この栗畑では、収穫のころ猿の姿を見た。そして小鹿にも会えた。ひっきりなしに車が通る県道脇の畑である。こんな作業は楽しい。 4時ごろ、隣家の小学六年生の女の子がS先生の手紙を持ってきてくれた。その手紙には「一人新聞の第二号に取り組み始めている」とあった。 千成ひょうたんの苗をMさんが持ってきてくれた。今年は夕顔があまり発芽しなかったので、ひょうたんで日除けを作ろう。
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朝日俳壇・歌壇 【No.125】 2003年06月04日
5月26日・6月2日 長谷川 鹿の中少年ひとり夏帽子 帷子 黎子 善光寺平万緑御開帳 宮澤 香子 更衣職のなき身も鮮しき 宇田 修行 庭に水打ちて眠れる風起す 酒井 努 新緑や腕まくりして歯を磨く 小竹梅堂子 稲畑汀 満席の春眠乗せてをりにけり 岩田 公次 山に向きゐるだけでよき五月哉 深澤 朱実 金子兜 山国や土現れて妻癒ゆる 内山 秀隆 黒牛と桐の花ある但馬かな 足立 威宏 少年の青野ふりきるオートバイ 柏倉ただを 川崎展 さくらんぼ欅大樹の下で売る 守屋 典子 緑陰に少年厚き本を読む 石川 陽子 あといくとせ軽さうれしき夏布団 井原 三郎 子供の日母の日父の日めぐり来る吾には親も子も夫もなし 高原 康子
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小泉信冶さん 【No.124】 2003年06月03日
今週の金曜日にゲストスピカーとしてお招きする小泉信冶さんを訪ねる。 40年前からPTA活動を通しての知り合いで、今回は私の推薦で「里山と生きる」というテーマでお話をしてもらうことになっている。 「里山が荒れている、と言われている。『荒れている』という内容が私には分からない。堆肥用の落ち葉も薪炭もいらなくなった今の私たちの生活、とりわけ農業の大きな変化からすれば、里山も変わらなければいけないときが来たということ。里山が自らの力で、苦しみながらも変わろうとしているのだから、それを見守っていくのが私たち百姓のすること。緊急雇用対策事業として里山の掃除などが行われている。その山の十年後、いや三年後の姿さえ私には見えてこない」 50年もの間、農業に従事し里山と生きてきた小泉さんのこの指摘に、教えられた。79歳の小泉さんの穏やかな表情とその話し方は、話の中身をいっそう魅力的にする。
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「永訣の朝」 【No.123】 2003年05月29日
5月27日 東小の六年生の授業2時間。社会科新聞の指導。1、2組の教室に入る。一人新聞が見出しをつけるだけに仕上がっていた。完成までにはいかなかった。もう一時間は必要だろう。 授業が終わり校長室で先生たちが来るのを待っている間、今日の指導に使った新聞を広げて読んでいた。 5月26日の朝日新聞の夕刊だった。15面のコラム『洛中夢』に宮沢賢治の「永訣の朝」のことが書いてあった。山折哲雄先生がこう書き始めている。
冒頭の一節を声に出すと、いつでも神経が騒ぎ出す。
けふのうちに とほくへいつてしまうわたしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゆとてちてけんじや)
先生たちが現れるまでの数分間、この一節を、なぜだか分からないが、何度も何度も口ずさんでいた私。
夕方、電話が鳴った。妻の姉・千代子さん「今暁急逝」の知らせだった。
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日曜日 【No.122】 2003年05月26日
朝顔の苗を鉢と露地に移植。夕顔の種はまだ芽が出ない。種苗店に行けば一本98円で売っているが自前のもので花を見たい。なにしろ園芸愛好会の会員なのだから。そのあと庭の草取り。 前の家との境になっているお茶の木にヤブカラシがもう絡み付いている。その伸びる力はものすごく、一年放って置いたらどのくらい生い茂るかわからない。地中10センチほどのところにその地下茎が長く伸びている。指を差し込んで引き抜くのだが、他の木の根もあるので途中で切れてしまう。それでも長いものは1メートルくらいまで取れる。切れてしまったところからまた芽が出るので、一月も経てば同じ作業をしなければならない。このヤブカラしは畑のあちこちにその芽が顔を出している。春先、機械で耕すのでヤブカラシの根を切り駒裂いてしまう。それが畑一面に散らばってしまうのでいっそう繁殖してしまう。鍬で耕さなければやっぱりダメか。 夕方5時半過ぎ、庭にいたら若者が道から「波多野城に行く道はこれですね」と尋ねた。「波多野城」という言葉が新鮮だった。「ああ波多野城址ですね。後ろに見える階段を上がって、中学の校庭を横切ると道があります。そこから南の方角に見えますよ」と教えた。彼の手にはガイドブックがあった。この時間、ということを考えたら、結構迷っていたのかな。 10数年前だったか、ゴールデンウイークのある朝。同じようにハイキング姿の人たちか、後からあとからこの道に入ってきた。いずれも波多野城址を訪ねる人たちだった。手にしていたのは「ゴールデンウイークの散歩道」を掲載したある日刊紙の地図だった。地図が道の描き方を少し大雑把にしたため、みなこの道に入り込んできたのだった。
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寒川という町 【No.121】 2003年05月22日
寒川町のPTA役員研修会・広報づくり講座に出かけた。一時間とちょっと。夏めいた大山街道・田村道を車で行く。田村十字路の手前に喜月堂という和菓子屋さんがある。看板に「大山街道」「創業明治20年」などという文字が見え、小さな火の見やぐらがお店の屋根の上に載っている。どんな和菓子が並んでいるのだろう。 我が家の前の道も大山道、それが大山山頂に通じ、江の島に向かう田村道につながる。その途中に寒川町がある。道だからどこにもつながっているのは当たり前のことだが、そんなわけで寒川にはとても親しみを感じる。 この寒川での講座は今年で連続7回、毎年声がかかるということは幸せなこと。40名ほどの参加者。だが質問が4件も出た。終わってから会場で企画会を開いているグループもいくつかあった。
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週末の報告 【No.120】 2003年05月19日
5月16日 農業に携わっている者の組合・生産組合(農協の組織の一つだが、その存在の意味がらよくわからない)の懇親会に出た。私は正組合員なのだそうな。何を生産しているかといえば『栗』になるのだろう。この間、組合を抜けようとしたら農協から言われた。「武さんは栗を作っているから」。あれは生産ではない。 スナック「花小路」に6時半、7人が集まる。純粋の農家は一軒だけ。後は公務員やら会社員やら。私は三チャン農業組に入るのだろうが、“非生産”組合員というほうが正しい。お酒を飲んで、カラオケで。少し今年の天候を気にする話をして。 久しぶりにマイクを握った。歌ったのは「心のこり ‘わたし馬鹿よね…’」「お吉物語‘セリフ入り’」。相変わらずだね。3時間いたのに、他の客は一人もなし。マスターが言う「不景気と飲酒運転の罰金が上がったので、お手上げですよ。生ビールが売れなくて、味が変わってしまうので、自分で飲んでます。ストレスも腹に来るね」と腹をさすっていた。
5月17日 大根中で新聞スクラップセミナーが開かれた。当日の様子を伝える朝日新聞の記事。
新聞スクラップの作り方など講習 秦野で教師や父母ら(見出し) 新聞スクラップを学校教育に利用してもらおうと、「新聞スクラップ講習セミナー」(全国新聞教育研究協議会、朝日新聞など主催)が17日、秦野市立大根中学校であった。同市や平塚市の教師や保護者ら30人が、子供ちに役立つスクラップの作り方を学んだ。教育に新聞を」というNIE活動の一環。同協議会の鈴木伸男事務局長と渋谷区立本町中の本庄伸子教諭が、スクラップを使った授業の進め方などについて講演し、「難しいことを求めず興味あるテーマで張らせよう」などと説明した。朝日新聞記者が取材の舞台裏を語る講演もあった。
「エコー」の読者が14名も参加してくれた。ありがたかった。
5月18日 寺尾君(エコーで紹介した“演劇”の高校生)が来た。「新聞のレイアウト用紙が欲しい」とのこと。東中新聞の経験者・鎮西と東島の三人で学校新聞を復刊したい。とりあえず手書きで下地を作り、本格的なものは来年に期待することにした」と言う。演劇が終えたら、今度は新聞?と聞いたら、7月に上演する脚本を今書いているとか。「親父に『二浪をすると性格 変わるから』といわれているけど、結構ヤバイですよ」とニヤリ。うらやましいよ!
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子育てに一生懸命 だったら広報委員に 【No.119】 2003年05月15日
12日は藤沢市、13日は東京・文京区でPTA広報づくりの講座を持った。ニ会場ヘの参加者は250名ほど。二つの会場でも確認できたのだが、広報委員に立候補するお母さんたちが確実に増えている。かつては「ジャンケンに負けて」、「アミダで大当たりで」とか「あの沈黙に耐えかねてシブシブ」とかいう理由での広報委員が多かったのだが…。書くことにあまり抵抗感が無くなったのは、メールのお陰? (メールを打つリズムで広報の記事を書いてくれれば、本音の広報ができる!) 「子育てに一生懸命な母親は自分の生き方にも一生懸命になれる。今がその年代、その時期。広報委員になった皆さんはまさにそういう母親・女性なのです」とどこでも話しているが、それをここでも実感できた。両会場で出た質問はあわせて9。 文京区は東京ドームの隣の文京シビックホールが会場。25階のラウンジ(すばらしい見晴らし、一人で食事をするのはもったいない!)で腹ごしらえをしていたら、周りに席をとった3つの女性のグループから広報づくり話が聞こえてきた。けっこう元気付けられた。
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朝日俳壇・歌壇 【No.118】 2003年05月14日
5月5・12日 長谷川櫂 咲き満つるほどの一尾や桜鯛 古川 俊六 青空を下り来て庭師桜餅 酒井 努 一村は薄墨桜と共に在り 手嶋真津子 とり囲む人にかくるる花御堂 武知 洋子 稲畑 汀子 そよ風にしては密なる落花かな 高田 韮路 いつぱいにいのち拡げて夜のさくら 谷口 和子 咲き満ちし花に夕べの来たりけり 田丸 千種 ニ三本菜の花活けて厨妻 丹羽ひろこ 金子兜太 目を逸らす時暗さあり花吹雪 伴 明子 臥す父に窓ばかりあり初つばめ 浅野 文男 軒端よりのぞきゆく蝶亡き妻か 井原 三郎 川崎展宏 桜蘂降り学校に馴染みけり 浮海 早苗 盛り上がる芽吹きの山の行手かな 田中 玲子 三山を引いて大和の鯉幟 高橋 克侑 駅長は一人幾役青嵐 木津 和典
桜惜し葉桜哀し緑美し卯月はいつも駆け足で過ぐ 諏訪 兼位 いっせいに樹皮を裂きつつ芽生えくる春は満身創痍の力 山地 千晶 率いられれんげ田歩む老いの列に母の身かろし浄土のごとく 西田うめ子
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新聞講習会 【No.117】 2003年05月11日
7日は東中、そして8日は本町中から、生徒を対象にした新聞づくりの講習会に講師として招かれた。2校で150名ほどの参加。昨年と少し講座の内容を変えて、今年は一人でも新聞ができるように、レイアウトの見本、レイアウトの下書き用紙など準備した。講習の終わりに「今の話を聞いて、新聞をすぐにでも作りたいと思ったら、清書用のレイアウト用紙をあげるから、帰るときもっていっていいよ」と話した。2会場で40枚ほどハケた。現実に新聞が生まれるかどうかは難しいことだが、そういう気持ちになってくれたことは話した私としてはとてもうれしいこと。 本町中の広報委員長のSさんのお母さんは、「市P連だより」をつくる母親委員会の副委員長だった。この一年、母子で新聞づくりをする。今日は「母の日」。
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秦野 【No.116】 2003年05月07日
とっている雑誌のひとつに『図書』がある。その五月号を読んでいたら「狐につままれて」というエッセイが載っていた。書いた人は詩人の蜂飼耳。勉強不足で聞きなれない人(申し訳ありません)。書かれている内容が秦野のこと。観光案内として秦野は書かれることはあるが、詩の背景として秦野が登場したのは珍しい。秦野生まれで秦野に住み続けている私にとって、ここに描写されている秦野はノスタルジックで、モノトーンの世界だった。少しうれしく読んだ。
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競う緑 【No.115】 2003年05月04日
すばらしい天気の三日。『エコー』204号を投函。前号よりは充実している。「寺山物語」の取材に円通寺を訪問。寺山の回り地蔵さんのことを書くつもり。事前に話しておいたので、資料を準備して下さっていた。我が家の菩提寺でもあるし『エコー』を読んでもらっているので、世間話も多かった。この寺に葬頭河の婆・奪衣婆の像があることを最近知ったので、拝ませてもらった。身の丈20センチほどの像。 久しぶりにドラゴンズの試合を観た。「ビールでも飲みながら」と思っていたが、二回でもういやになった。横浜相手にひどい負け方。 藤の花が伸び始めた。草の勢いもすごい。モチノキ、樫、柿、楠、欅、ヤツデなと゜どの新芽を眺めても、その色合いは見事に異なっている。緑の陰影が、いっそうそれぞれの若緑を美しく際立たせている。 たぶん国民学校のころならったのだと思う。五月になると、自然と口にする詩の一節。 「柿の若葉に日の照るころは 矢車カラカラ鯉のぼり 村の藁屋の庭に立つ」
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五月です 【No.114】 2003年05月02日
風吹けば来るや隣の鯉のぼり 4月30日、秦野市P連の広報講座を持った。年毎に参加者が増えて今年は140名くらいか。いつものとおり「広報委員になった状況」を尋ねてみた。立候補が一割強。立候補はしなかったが「選ばれたことに抵抗は無い」という人が三割くらい。「無理やりにとかジャンケン・アミダで」という項に挙手した人がやはり三割程度。“泣く泣く”とか“イヤイヤながら”の委員はわずかずつだが減ってきている。それだけ書くことに興味を持つ人が増えたのだろう。携帯でのメールの普及も、書くことへの抵抗を減らしているのかもしれない。 5月1日は大井町で広報講座。参加希望者は例年30名程度だったが、今年はなんと50数名。男性の顔も7、8数えることができた。テキストが足らず、主催者はかなりあわてていた。講義時間は3時間。自分としては少し納得する話ができたと思っている。終わって一人の方が「“イヤイヤ”広報委員になったのですが、今の話でやる気十分になりました」と笑顔いっぱいで挨拶してくれた。別の一人が近づいて来て「先生、Hです。先生が来るというので仕事を休んで来ました」と声をかけてくれた。東中での教え子た゜った。「もう印刷屋さんに送るところまで仕事が進んじゃってます。もう少しと早く今日の話を聞きたかったです。でも、手直しできるところはこれからやってみます」 こちらもやる気十分だった。 今日は父の立ち日 辞世 再会を誓ひて春を惜しみけり 姫百合
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朝日俳壇・歌壇 【No.113】 2003年04月29日
4月21・27日 金子兜太 花は三分誰も眩しき日々ありし 石田 康子 乳母車押してゐたのは花吹雪 鈴木 幸江 川崎展宏 ゆさゆさと鴉が揺らす朝ざくら 岩村加寿夫 鯉のぼり地球振り切るごと泳ぎ 高井 良秋 長谷 猛獣のどれもぐうたら花日和 保理江順子 大阪の花から花へ橋かかる 古川起与子 ふたかかへもある楠の芽吹きけり 清水 洋子 サッカーのボールを磨く朝桜 緒方 輝子 稲畑 汀子 芽立ちそむものに逡巡なかりけり 田中 青龍 今日の雲高しと仰ぐ花日和 猿渡 青雨 花は二分大安退院かなひけり 大井 典子 命熱く鳥らは歌い木々は芽吹き人の世の我らに戦争の春 平井みよ子 人も戦車も砂の嵐に紛れゆくメソポタミアよ悲しかるべし 白糸 たえ
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六年生と新聞づくり 【No.112】 2003年04月28日
小学校の六年生に新聞づくりの授業をした。歴史新聞をつくるということ。4クラスが視聴覚室に集まった。天気が良かったせいか反応も上々。質問も出た。次は教室で、個人指導をすることになっている。明日の休みに新聞の題字を考えることを宿題にした。新聞づくりの楽しさを少しでも感じてくれたいいのだが。 我が家に牛乳を配達してくれるAさんが「今年、小学校で広報委員になりました。30日の広報の講習会の講師が先生と聞きうれしくなりました」と今朝、話してくれた。それに応えなければ。
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満ち足りた一日 【No.111】 2003年04月27日
四月は別れの時。退職の挨拶状を何通かいただいた。印象に残った挨拶文、二つ。 一つはN先生。 「ああ、お前は何をしてきたんだ。と、吹き来る風が私に言う。」中原中也の詩のような心境です。 これから、私の最後の人生の幕が上がります。この舞台がいちばんの見どころになるよう、創意と工夫を凝らして生きたいです。
もうひとつはT先生。 先日、卒業生(15歳の女生徒)からつぎのようなメッセージをいただきました。「会うときよりも、別れてのちの余韻。会わずとも、それによって満たされている関係性。それが人と人との幸せなつながりだと感じます。」 今後も人との絆を大切にした日々を送りたいと心がけています。
今日は一日畑仕事。満ち足りた一日、心から納得できた一日。
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春 たけなわ 【No.110】 2003年04月25日
東小学校に出かけ、28日に行う6年生の新聞づくりの授業の打ち合わせをした。昨年は行事新聞だったが、今年は歴史新聞を作るとのこと。一人新聞なので、レイアウトの見本をはじめから与えてしまうことにした。新聞という形を整えることで苦労させるのでは、本末転倒だから。学んだこと(知識)を紙面に載せるのではなく、そのことから何を考えたのかを書かせたい。情報の整理に終わる新聞づくりではなく、自ら情報を発信するするのが新聞教育。 HPのギャラリーの更新をするために、雨の庭の中を歩きまわった。ハルジョオン、ムラサキケマンがいたるところに花を咲かせている。つつじが今盛り。藤も少しその房を伸ばし始めた。ハナズオウの赤紫色が雨でいっそう鮮やか。だが咲き方はあまりカッコ良くない。桜の花蘂が庭一面に降り注いで、地面が少し赤みを帯びている。桜の根元でツグミが餌を拾っている。色濃さを増した梢で、ヒヨドリが“囀り”をしている。ヒヨドリの鳴き声のイメージは「うるさい」だが、この時期になると、今までとはまったく違う、高音の美しい声でさえずる。鳥といえば、ニ三日前から、早朝ホトトギスの鳴き声が聞かれる。もちろん、本格的な鳴き方ではないのだが、もう渡ってきたのかと嬉しくなる。 朋子さんからウエリントンの写真が二枚送られてきた。
ギャラリー 更新しました。
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新聞のシーズン到来 【No.109】 2003年04月22日
4月19日 箱根・強羅で開かれた新聞の仲間の、小さな勉強会に参加した。現職の先生四人、学生新聞の編集長、プリントメディア勤務の人、それに私のような教員OBを加えて計10名。12時過ぎまで話をした。もちろんお酒も入って、しかも多量に入って…。中の一人が私に尋ねた。何のために子どもに新聞を作らせているのか。そしてなぜ今も新聞にかかわっているのか、と。分かりきったような問い、だがこうしたメンバーの会で、こう改まって聞かれると、答えにとまどうのだった。惰性に流れている私、新聞にかかわっているだけで何かをしていると勘違いしている自分に気づいた。アルコールが入っての議論は、それぞれが朦朧としているだけに、本音が言葉になって奔流のごとくほとばしる。こん会はまさにそうだった。 翌日は雨、御殿場のアウトレットモールに連れて行かれた。同行したS先生が何のためらいもなくブランド品を二点も買ったことに驚く。
4月22日 私の今シーズンの幕開けの日、新聞づくりの講座が今日からスタートした。第一日目ということで、少し緊張して会場の松田町に向かう。町に入っていくと正面に富士が大きく迫る。快晴、そして風が少しあるせいか今朝の富士は冬の富士のように輝いていた。 いつも悩むことは、2時間という持ち時間の中で、何に主眼を置いて話すかということ。今日はPTA広報論(必然的にPTA論にもなる)に半分以上の時間を使った。参加者の中には、本当に具体的な悩み、たとえば印刷所に渡す原稿の指定の仕方を知りたいと思っている人もいるはず。この両者のバランス、組み合わせをどのようにしたらいいのか、そのことを毎回悩む。今日も同じだった。
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SHUKOさん 【No.108】 2003年04月16日
中学校のPTAの学級委員に昨日選ばれたばかりのshukoさんが訪ねてきた。学級懇談会を成功させたいので、お知らせのチラシを作るのだが、その見本があったら、ということ。懇談の内容を不参加者に伝える方法も考えているようだ。「所属する学年だけでなく、全学年にも提案したい」と意欲的。「昨日の今日ですから。冷めないうちに。こうして誰かに話してしまうと、やらなければいけなくなりますから」と笑うshukoさん。 ニュージーラントから第三信がとどく。明日から勉強らしい。邪魔をしないようにしなければ。『ニュージーランド通信』をこのホームページに書いてもらえることになった。 中学校での新聞づくりの講師の話が二つ決まった。 今夜は7時から25周年記念誌の校正。
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朝日俳壇 【No.107】 2003年04月14日
4月7・13日 川崎展宏 下萌えに犬立ち止まり立ち止まり 伊藤かもめ これが彼の一茶の国の残る雪 新川 澄子 対岸の布団を叩くこだまかな 川本 昴 更に拭く眼鏡春愁なりしかな 淺川 走帆 長谷川櫂 紅梅や飛ぶ火の如く枝の先 田中 延幸 風花や荒湯を出でし蟹の色 橋本 治子 近江より初鮒届く夕べかな 宮田 久常 稲畑汀子 放牧の牛片寄せて山を焼く 緒方 輝子 揺れてまた空へ広がり花ミモザ 今橋眞理子 番傘の音ひろげゆく春の雨 真城 蘭郷 宵の雨あがりしばかり春の星 手塚 基子 金子兜太 真砂女逝く蕾なかばの紫木蓮 勝屋風奈美 けふはいづくへ職退きし春帽子 小島 黎子
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ニュージーランドからメールが 【No.106】 2003年04月11日
4月10日 午前中、年度末に発行した会報を持って、婦人会の広報委員が三名来訪。スッキリと仕上がった紙面だった。「自信作!」と笑っていた三人だが,そのとおりの出来栄え。夕方、メールチェックをしたら、ニュージーランドの朋子さんから、もうメールが入っていた。星空がきれいなこと。だからそこが田舎であること。そして、うどんの中にパイナップルが入っていたことが書いてあった。新しい世界、新鮮な生活ができる喜びがあふれている内容。お父さんに知らせてあげた。
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4月9日 私の新聞づくりもスタート 【No.105】 2003年04月10日
4月、新しい年度が始まり、私の『新聞づくり』もスタート。お隣の小学校のPTAの広報委員長と副委員長さんが訪ねてみえた。二人とも広報は未経験、不安ばかりのようだ。「困ったときはどうぞ。どこにでも助けに行きますから」と言ってあげた。その後、市P連の母親委員さん三名の来訪。30日の広報技術講習会の打ち合わせ。午後、東公民館に桜田さんを訪ねる。六月に行う『親子で楽しく新聞づくり』の講座のチラシを準備してもらうお願いをした。
ライトアップは今夜で終わり。 散る桜 残る桜も散る桜 伝良寛
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4月8日 今年の桜は今日の雨で終わり 【No.104】 2003年04月08日
昨夜9時半過ぎライトアップの灯りを消そうと庭に出たら「こんばんは、 桜を見させてください」と女性の声。声の主は隣の朋子さんだった。ほかに三人も一緒。「明日出発だから、しばらくこの桜見られないから」 明日の夜、成田を発ってニュージーランドの大学に留学する朋子さん。友達がお別れに来てくれ、その名残に我が家の夜桜を見に来たのだ。「お父さん、どう?」と聞いたら「内緒ね、もう昨夜大泣き!」と明るく話してくれた。彼女が行ってしまうので、犬を飼い始めた一家。あの「どうする〇〇〇〇」のコマーシャルの父親よろしく、犬を抱いてウルウルの日々を送るのだろう。その心境 十分理解できる。15年前、私もそうだったから。もっとも、彼女の家で買った犬は、チワワではなくラブラドールという真っ黒な大きなもの。昨夜は朋子さんのそばに行儀よく座っていた。メールで話をする約束をした。妻は手織りのマフラーをプレゼント。 南半球はこれから冬。「応援してるからね」と言って別れた。出発の今日は春雨。今年の桜はこの雨で終わり。だがとても印象的な桜の年だった。
今日は「花祭り」。今年も円通寺の御詠歌の講中の方たちから、バアちゃんに甘茶と筍ご飯が届いた。私もちょっぴりお裾分けしてもらい、春を味わった。
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新聞をつくりたいのですが 【No.103】 2003年04月07日
昨夜、東中・三年生のHさんから電話があった。「新聞の話がしたいのでお訪ねしてよろしいでしょうか。」そして今日1時、Hさんが一人で来訪。今年も学級新聞を作りたいけど「どうしたらクラスのみんなに協力してもらえるか」という相談。明日あたりに行われる恒例の自己紹介の時に「私は学級新聞をつくりたい。みんなと一緒に新聞をつくりたい」と宣言することを勧めた。「できるかな」と笑いながら、でも特集のテーマなどをもう話題にした彼女。身長178センチのバレーボールの選手でもある。頼もしい、と思った。
我が家の桜 ギャラリーにアップしました。見てください。
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朝日俳壇 3月24・31日 【No.102】 2003年04月04日
川崎展宏 巨船の波遅れ来る春の潮 山近由季夫 春時雨止んで夕暮れ華やける 田辺 文枝 天領に残る三百年の雛 諸富 芳子 長谷川櫂 吹きつけてゐしが日に舞ひ春の雪 石田 遊水 稲畑汀子 ものの芽やのつと汐留摩天楼 高橋 尚央 囀や永久の別れに加わりし 巌 孝代 忽ちに阿蘇の半分春時雨 高尾 稔 金子兜太 音なき光春大雪の山峡に 熊沢さとし
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4月1日 水神さんのお祭り 【No.101】 2003年04月03日
東地区の湧水のことを少し調べていた私に「取材に来てよ。年寄りがいなくなる前に記録してよ」と大津俊彦さんに声をかけらていた。それで1日、東田原の八幡・清水で行われた水神祭りに出かけた。今も山の湧き水を飲料水に使っている4軒が、そのお礼のお祭りを水神さんの前でするのだ。 96、92、86歳の女性を中心に4軒から9人が参加した。最年少大津さんの娘さんの女子高校生。祭といっても特別な神事を行うわけではない。水神さんの碑にお線香を上げて、神様に線香というのがイイ、後は持ち寄ったご馳走を食べる。たいへんなご馳走だった。主賓はもちろん三人の大女性で、湧水についての話も聞かせてもらった。何よりうれしかったのは、お年寄りが明るく楽しそうだったこと。三人の大女性の嫁さんが三人―60代後半の方もいた―もその席にいた。 取材はそこそこに、午前10時から缶ビールを片手に、太巻き寿司、押し寿司、お赤飯、煮しめ、漬物など自家製のものを腹いっぱいいただいた。 明治32年にこの水神さんの碑は建てられた。今年で104年、毎年この4軒がこうして楽しく集まるから、おいしい水が湧き続いたのだろう。2時間、とても気持ちのいい場所に居させてもらった。碑の上に真っ赤なやぶ椿が咲いていた。
いつか写真付でこの祭りの人たちを紹介したい。
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年度 最後の日 【No.100】 2003年03月31日
3月31日、年度の終わりの日。教職員の人事異動の紙面に義理の妹の和子さんの名前があった。定年退職を迎えたのだ。よくがんばったと思う。一緒に仕事をした人たちが、次々に活躍する立場になっていく。時の流れを感じる。藤沢市の生涯学習課のSさんから電話。Sさんは五月に私も招かれているPTA指導者講習会の担当者。次の人への事務引継ぎをかねてのあいさつだった。午後、栄進のT先生とY先生が挨拶にみえた。。5時からボランティアコーディネーターの機関紙の編集会議。レイアウトや見出しを考える。ウチの桜は一部咲き。明日はライトアップの準備しよう。午後8時過ぎにホームページのアップ。今回は充実している、と思っている。秦野市のPTA広報のクリニックを田中さんに渡す。東京の3つのPTA広報の読後感も書いて送った。郵送の『エコー』の仕事は明日から。 来年度の市P連の母親委員さんとの打ち合わせの日が決まった。新しい年度はもう動き出している。
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野球のお話 【No.99】 2003年03月29日
昨夜からプロ野球がはじまった。全部ナイトゲーム。野球は野原でやるものなのに。 ドラゴンズは東京ドームで巨人と。松井がいなくなっても、戦力は圧倒的にジャイアンツ。だが昨夜は違っていた。清原、江藤も休み。高橋中心の打線じゃドラゴンズの打線もそれほど見劣りしない。もっとも、昨日のバッティングは出来過ぎだ。それに夕べはペタジーニの守りが“良かった”ので2点は余計にもらえたから。 ここ2年ほどは、いつも「今夜も負けか」と思いながらテレビを見ている。だからドラゴンズが守っているときは、他のチャンネルに回していた。とにかく負けると落ち込む。悔しさは通り越している。去年の巨人の強さから「もうドラゴンズの優勝は私の生きている間はない」と思っている。寂しかった。だが昨夜のゲームを見て「今年は」なんて甘い考えを持った。でも結局は…。だから、今年は『一期一会』の心で…、その日限りの観戦をすることにした。さて、今夜は野口と工藤か。負けそうだな。
横浜が明徳に競り勝った。明徳の中に、横浜に対して苦手意識が生まれつつあるかもしれない。
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まもなく開花 おらがの桜 【No.98】 2003年03月27日
東小の6年生の『自分新聞』をS先生が持ってきてくれた。30日まで本町地区でシャッターの下りている空き店舗を使って『丹沢山麓展』なるイベントが行われている。そこに、この『自分新聞』が展示されているとのこと。見に行かなくてはいけない。 市内22校のPTA広報の「紙面クリニック」も終えた。広報委員を終えた何人か殻手紙が届いた。いずれもホッとて、充足感を味わっているようだ。そして一抹の寂寥感も。これは何かが終わったときに、誰もが感じるもの。それがあるから、また次のものに向かうことができるのだろう。 このごろ、中国(らしい)から迷惑メールが一日に20通ほど届くようになってしまった。去年ウイルスにやられたとき、私のアドレスが流れてしまったのだろう。メールは漢字だから、内容はなんとなく推測できる。どうも薬の宣伝らしい。1、2通なら楽しんでもいいのだが、送信を禁止しても、また新しいアドレスで入ってくる。防ぎようがない。 「桜のつぼみも膨らんで」これは長男の幼稚園の卒園式の送辞の一節。庭の桜は今度の日曜日には開花するだろう。(このHPで見てもらおう。)今日往診にみえたK先生が、桜を見上げて「二週間後にまだ見られるかね」という。 『エコー』印刷が上がった連絡が来る。
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桐谷綾子さん 【No.97】 2003年03月24日
紅葉尋め箱根八里を三里ほど
これは二年前の秋、訪ねた箱根の宿の部屋に掲げられていた俳句。宿の名前は『桐谷箱根荘』。 朝日新聞に『朝日俳壇』があるように、神奈川新聞にも『神奈川俳壇』がある。昨年の正月の何週目かの神奈川俳壇に 「早発ちの駅伝の客三日かな 箱根町 桐谷綾子」という句が出た。 なんとなくその宿と関係がありそうな女性だと思った。それから気をつけて「神奈川俳壇」を見ると、綾子さんの作品を毎週のように読むことができた。 3月22日、神奈川新聞から昨年一年間の決算ともいえる『神奈川俳壇年間賞』が発表された。その第一席は「早発ちの駅伝の客三日かな」。選評『そこには応援する人の声も聞こえてくるような情熱と、選手の弾む心が読み取れ、箱根の山をも動かすほどの三日の興奮が伝わってくる』とあった。写真も出ていた。あの時、部屋に挨拶に来てくれた女将が桐谷綾子さんだった。
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新聞づくりから脚本書きに 【No.96】 2003年03月23日
高校の演劇発表会の案内のはがきをもらった。四年前から『エコー』を読んでくれている高校生の寺尾君からだ。彼が東中新聞を作っていたときからの知り合い。中学生の時から、ふらっと遊びに来てはいろいろな話をしていった。高校生になってから演劇に興味を持ち、井上ひさしの劇を観て歩いていた。今回は彼が書いた脚本『らせん』の公演。四月四日に秦野文化会館で上演される。楽しみだ。 今年度最後の仕事? 秦野市のPTA広報の講評を書き始めた。22PTAが今年度発行した全紙を読むのだが、けっこう大変。なんとか年度内に終わりたい。
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今週の俳壇 歌壇 【No.95】 2003年03月21日
今月の初め、俳人の長島衣伊子さんから『流し雛』のするから参加しないかと誘われた。日は3月8日、所はお隣の松田町の川音川。行きたかったがその日は新聞の表彰式だった。 そしてその『流し雛の会』の俳句が届いた。 雛送る水のつめたさはかりけり 杉山みちゆき
今週の俳壇にも雛の作品が見られた。秦野では桃の節句は4月。HP「エコー」でもその節句のことを書く。
3月17日の俳壇・歌壇 稲畑汀子 今頃はあの目閉じしや箱の雛 中島 陽太 激つ瀬の音に音添ふ雪解かな 田中 節夫 金子兜太 仏飯へまづ寒雀滑降す 本多 豊明 川崎展宏 山越えて雛を飾りに来てくれし 酒井 大岳 約束をはたよう今日の梅日和 田中由紀子 長谷川櫂 白梅やしばらく開けおく戸一枚 服部 静 紙雛を作る静けさありにけり 酒井 大岳 流れゆく雛に水上ばす徐行 野田 映人
きさらぎの果て柔らかな南風ブナ一山に無言歌満てり 清野 弘也 今朝はあずき飯だった。「入りボタモチに明けダンコ゛中の中日アズキメシ。」 彼岸の入りの日はボタモチ 明けの日には団子 今日・春分の日・中日は小豆飯を仏壇に供える。やわらかい春の陽射しだが風はまだ冷たい。エコー203号、どうやら打ち出しは終わった。中学生新聞の原稿の校正も終わり。
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君死にたまふことなかれ 【No.94】 2003年03月20日
三日連続で「おしん」を観た。毎回、顔がぐしゃぐしゃ。筋に泣かされるのではなく、小林綾子というあの女の子の演技に泣かされるのだ。あの年齢で、あんなに「おしん」になり切れることに驚いている。あの純真な眼差しを見るだけで胸がキュン。アジアの人たちが圧倒的にあのドラマを愛したのは、自分と同じ黒い瞳の輝きが、苦難を乗り越えて生きようとする勇気を与えてたくれたからだろう。 そして昨夜「銀山こけし」が登場した。銀山こけしは、このドラマで一躍知られるようになった。「おしん」が放送された前年の1982年8月、尾花沢の宮沢中学校で新聞づくりの話をした。そのとき私は「銀山こけし」に出会っていた。お礼にもらったのが「銀山こけし」だったからである。銀山こけしの工人・伊豆護さんにも会えた。そして工房で絵付けをした。そのときの二本のこけしは今も応接室に飾ってある。翌年8月、酒田市で全国学校新聞研究大会が開かれ、そこに参加したが、降り立った酒田の駅前に「おしんの像」があった。
第二夜と三夜、「君死にたまふことなかれ」の一節をおしんが諳んじた。今行われようとしてるイラクへの進攻。大義名文ばかりが声高に語られている。だが私たちは、最前線で戦わなければいけない兵士たちがいることを忘れてはいけない。「末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて 人を殺せとおしへしや、人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。」
12時過ぎ、アメリカ(など)の進攻は始まった。
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沖縄からのメール 【No.93】 2003年03月18日
今朝 沖縄の友達からメールが入っていた
お早うございます。午前6時10分。カーテンを開けたらそとは真っ暗です。沖縄の夜明けは遅いのです。沖縄の人々の頭の夜明けは日本一早いのですよ。もう、私は5時くらいには、起きてテレビを付けたら、パウエル長官が深刻そうな表情で発表してます。もう、国連安保理には、決議案を出さないと。週末にも、イラクへ攻撃を開始するというのです。 9.11以来、アメリカはおかしくなりました。今、もし、本当に米、英がイラク攻撃を始めるとしたら、それはどういうことなのか、自分としては本当にわじわじしてます。沖縄の言葉で、戦争反対について何かしたい。何かしたいのだが、手を出せない、無力感というか、イライラとも少し違うのですが、それを沖縄の人は「わじわじ」と表現します。なんと的確なぴったりな音感があることでしょう。 人類が戦争の世紀、やった20世紀を卒業し、これからはいよいよ、環境の世紀を迎え、人類最大の課題、環境問題に取り組もうというとき、米国は何をしようとしているのでしょうか。ブッシュに変わってから、自国に不都合ないろんな国際条約も無視などの連続です。地球温暖化、地雷問題、勝手気ままです。人類の時計を、戦争の世紀へ逆回しにしたいようです。 アメリカはテロを撲滅したい、しょうとしていますが、すべて逆の方向へ行きそうです。イラク攻撃後、テロが世界中で広がるのは目に見えています。日本、沖縄も標的になるかもしれません。テロは対症療法では解決は絶対無理。 今、世界は、地球は良くも悪くも、直結してます。イラクへの戦争、は、世界中を不幸に巻き込むことでしょう。でも、結果的にはアメリカ国民を一番不幸にすると思いいます。アメリカ人はもっと想像力を働かせて近未来を想像してほしいものです。世界中を不幸に巻き込まないでほしいです。頭の悪い、傲慢で、外国に興味を持たないアメリカ人には困ったものです。でも、私にはアメリカには素晴らしい友人がたくさんいますし、米国での国立公園国際セミナーでの人と自然との出会いは、今でも感謝してもしすぎることはありません。だから、今度の米国の行動は残念です。 これは戦争ではありません。イラク国民の虐殺、ホロコーストだと思います。報道によれば、おそろしい新兵器・新型爆弾の実験も行われました。かって、原爆も日本で実験されました。。このメール読んで、気分が悪くなったら、そうなら、すみません。どうしても友人に伝えたかったからです。 今、沖縄やんばるの森は新緑で燃えているかのようです。風邪など引きませぬよう。実は、本人は風邪をひいていますが。それではお元気で。 2003年3月18日6時半
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ジベタリアンも悪くない 【No.92】 2003年03月15日
3月14日 一時間目の授業で『鶴巻の地名』を読んでくれた鶴巻中の二年生から、『掲示板』に書き込みがあった。(どうぞごらんください。)メールをくれた子も7名いた。柏木先生から電話が入った。全員が授業の感想を送るつもりだったが、一斉に送ったのでサーバーが処理できなかったらしい。学校を離れてまだ5年しか経っていないのに、こんなことができる今の授業に驚き、うらやましく思った。 午後1時からジャスコで「秦野市PTA広報展示会」の準備を7名でした。催し物ホールでは、五月の武者人形の展示会が始まっていたが、その横を貸してくださった。広報の展示パネルの横は子ども英会話教室。前は美容室と中華料理のお店。最高のロケーション。全員がホールに座り込んで糊付けや切り張りの作業をした。その中の一人・Iさん言葉「高校生がべったり座っている気持ちがわかるな。こう座っちゃうとけっこうのんびり、ゆったりできる。通る人の視線は上を通っていくし」
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