- 寺 山 だ よ り -

 春 間近か
【No.659】 2008年03月15日

 59歳にして地方議員になった教え子の一久さんが訪ねて来た。(この日記の07年7月2日参照)発行した『後援会だより』を見せに来てくれたのだ。第2号だった。A4判2ページのオールカラー。新聞ソフトを使っての制作。けっこう“イイ出来”(失礼かな)。基本に沿ったレイアウト。見出しもかなり工夫されている。「写真をもっと大胆に使おうよ」とアドバイス。
 実は一久さんを教えた頃の私は、学級新聞は作っていなかった。だから、広報・新聞類の発行は彼にとっては初めてのこと。同級生が催した当選祝いの会の席で、私は「活動報告をしなければダメだよ。後援会報を出しな」と勧めた。「年間3号を目指す」と言って帰っていった。
 『みちしるべの会』の横山さんが、ロードマップ「路傍の神仏・田原地区編」の原画を見せに来てくれた。注文すること全く無し。これに浦田さんのシャープな解説文が付く。
 4月1日、30名ほどがこのマップに導かれて歩く。たぶん桜も咲き始めるているだろう。案内する私も楽しみ。

送辞の中に「新聞作り」が
【No.658】 2008年03月11日

 東中学校の卒業式に出席した。5.6年前から「学校協力者」として卒業式へのご案内をいただいていた。だがずっと失礼していた。
 今から43年前の1965年3月10日、まだできあがっていない体育館で卒業式が行なわれた。その年の卒業生は3クラス、114名。A組の担任は今福浅司先生、B組は奥津心一先生、(お二人とも他界されている)。そしてC組が私だった。「卒業生退場」の言葉と共に重い鉄の扉が開けられた。その瞬間、式場内に小雪が舞いこんできた。その光景が鮮明に残っているこの体育館での第1回の卒業式だった。その体育館での最後の卒業式が今日なのだ。 式中、申し訳ないが体育館の隅々に眼をやった。体育館ができた年から始まった文化祭の演劇コンクール。劇の背景を吊るした木製の美術バトンがまだ残っていた。クラスで上演した劇が浮かんできた。N、T、Y、O、Kなどの笑顔も。
 式が進んで「卒業生を送る言葉」が述べられた。「東中新聞、学級新聞作りの伝統を守り、後輩たちに引き継ぐことを約束します」という一節があった。
 「日本広し」と言えど、卒業式の送辞の中で「新聞作り」が語られるのは秦野市立東中学校しかない。
 

秋田・羽後町の出身のAさん
【No.657】 2008年03月06日

 秋田・羽後町の出身のAさんの母校である明治小学校が3月31日で閉校する。その閉校記念式が3月1日に開かれた。家庭や仕事のこともあったのだが、両親にも会いたいので思い切ってその式典に出かけていったAさん。そのAさんが、きのうこんな話をしてくれた。
 「故郷があるのに、学んだ母校がなくなってしまうのは寂しい。今まで感じなかったけど、その日の式典や懇親会の中で学校が地域の中でどれほど大きな存在であったのかを知った。PTAの役員も一般会員も、学校のためにならという心は全く同じだということを感じた」。
 会場に展示された過去の卒業文集を手にしたとき、突然思い出したことがあった、とAさんは言った。「先生、私、4年生のとき新聞をつくったのを思い出したんです。模造紙に新聞を書いたんです。秦野に来てから新聞をつくるようになったDNAは明治小学校にあったんです」。
 「昨年なくなった叔母の葬儀に出られなかったので、実家で西国三十三番の御詠歌を墨で書いて仏壇に供えてきました。実家での一日はそれで終わってしまいました。今年の雪は平年並みかな。軒の高さはあったけど」と微笑んだAさんだった。

22名の情報委員へ贈る言葉
【No.656】 2008年03月05日

 年間4回広報を発行してきた秦野市P連の情報委員会の反省会に出席した。そこでこんな挨拶をした。

 家庭、職場そして単Pのトップレディを務め、さらに市P連の情報委員としての一年間、大変厳しい一年間だったことでしょう。だが、大変だったからこそ、この委員会での活動から得たもの大きかったはず。
 『情報委員会だより』第9号の発行を通じて、《知る権利》《表現の自由》について大切なことを学んだ。大きな収穫もあった。それは、もし情報委員になっていなければ、ここにいるような素晴らしい21人との出会いなかったということ。
 『動かなければ出会えない』は私の生活の基本姿勢の一つ。広報づくりのときどきに話した「記事は足で書く」と同じこと。一年間の広報づくりで、そのことを体験した。
 「春はやって来るのではない 自分から春になるのです」。これは20年ほど前の、あるデパートのキャッチコピーだ。
 これから始まる新しい一年、何かを待っているのではなく、自分から動き、よい出会いを求め、何かを求め続ける、そんな一年にして欲しい。
 ほんとうにご苦労さまでした。お疲れさまでした。

新聞コンクールの表彰式に出席
【No.655】 2008年03月02日

3月1日 
 毎日新聞東京本社で開かれた全国小・中学校・PTA新聞コンクールの表彰式に出席。この日招かれたのは北は北海道・苫小牧、南は宮古島と文字通り全国からの37校。秦野からは東中が学校新聞で、そして本町中はPTA新聞で招かれた。
 このコンクールは学校、学級、学習、PTA広報の4部門で行なわれ、今年度は28,790点の応募があった。総理大臣賞から奨励賞まで、4部門での入賞総数は204、秦野は4つの全部門で15紙が入賞。とくにPTA広報の部の入賞総数52の内の8紙を占めるという快挙。(詳しくは「秦野の新聞教育」のページで)
 PTA広報の入賞校の委員と言葉を交わしたが「来年またここに来ます」と元気な言葉が3校から聞かれた。

古道・大山道を歩く
【No.654】 2008年02月27日

2月26日
 東公民館の「団塊世代支援セミナー『古道・大山道を歩く』NO1」の講師を務めた。雨が予報より遅れていたので、予定通り実施。私を含め総勢24名の参加。
 9時から1時間「大山信仰と大山道」について話を聴いてもらう。そして10時から歩き始める。 今まで10回ほど今回のような講座をもったが、今日の参加者がもっとも反応が良く、歩きながらの質問や話しかけがたくさんあり、案内し甲斐があった。
 「才戸」と呼ばれる場所で「イザナギ・イザナミの国生み」の話をした。「成り成りて 成り合わざる」の一節をちょっとトチッタたら、さっとフォローしてくれた女性がいた。
 2時30分に公民館に戻り、それから終りの座学「金目川の金目とは」を30分もつ。万歩計によれば9600歩ほど歩いたらしい。「元気ですね」と褒められたが、それは一緒に歩いてくれた23人のおかげ。
 
・第2回『古道・大山道を歩く』は4月1日午前9時〜12時
・参加希望の方は3月1日午前8時30分から東公民館で電話で受付け


田原を歩く
【No.653】 2008年02月18日

 昨日は『まほら秦野みちしるべの会』の2月例会。フィールドワークで東田原、西田原を3時間歩いた。飛び入りもあって15人の参加。
 田原城という、あまり知られていない山城の地形を確認した。今も生活に使われている湧水が3カ所あった。何より嬉しかったのは、江戸時代の大山詣での街道で宿屋を営んでいた野田家、和田家の人が参加してくれたこと。両家にとって、今回のことがそれぞれの家の歴史を見直すことにつながりそうだからた。
 天気がよくて、気持ちよく歩けた。1万歩くらい歩いたらしいが、今朝はまだ筋肉痛は出ていない。年寄りには数日後にその影響が出るらしいが。

2月14日 柏市P連の広報講座
【No.652】 2008年02月16日

 柏市のP連に招かれ広報講座を持った。2月中旬、多くのPTA広報は年度最終号の編集の真っ最中、あるいは既に入稿済みだろう。だからこの時期の講座の内容は難しい。「一年の活動を終えて」がテーマで、今年度発行された広報紙を評価することを中心にした講座。次年度の活動に役立ように課題を与えることもしたいのだが、間もなく任期が終わる委員に辛口批評は気が引ける。ご苦労様を込めて褒めることだけで終わりたいのだが、それもまた私の性格からはできない。結局、いつもどおりの姿勢で紙面クリニックをした。
 9時半から12時までが小学校で当日参加も含め25紙。中学校の部が13時30分から15時まで。だが、午前の部は終了後45分間質問を受けた。午後も40分オーバー。質問者の何名かに「次年度も広報をやってください」と言うと、かなり前向きな言葉が返ってきた。これだけの時間、PTA広報論を語らせてもらえたのは幸せなこと。 
 柏駅前でお手伝いしてくださった方々と反省会。快い疲れと冷酒の酔いでうとうとしながら23時近くに帰着。

西田原を歩く
【No.651】 2008年02月11日

2月10日
 朝9時、加藤さんと待ち合わせ西田原を歩く。「歩く」と言っても、加藤さんに案内してもらったということ。
 谷戸と池端の湧水が流れ出ている場所を3カ所。そこは今も生活に使われていることが分かる風景を作っていた。途中、猿田彦や男女双体の道祖神も見た。その双体道祖神は、道祖神には似つかわしくないところ、谷戸の集落の裏山に上る坂道に祀られていた。たぶん、道路改修や宅地の整理などでこの地に運ばれてきたのだろう。道祖神がどういう神であるのかが理解されていないことが寂しかった。小さいが、とても品のある地蔵さんに出会えた。今週末、再会できるのが楽しみだ。
 西田原には「田原城」があったと推測されている。その地にも立った。「ここに城が在った」といえば、そのように見える地だった。
 江戸時代、旅籠を営んでいたという野田家を突然訪問してしまった。家主は東中での教え子。奥さんと大学生の娘さんからも、その家の昔について話を聞かせてもらった。娘さんは高校時代に「わが家の祖先」という社会科のレポートを書いていた。それを貸してもらった。明治14年刊行の田原の地図を所蔵されていたのでそれも借りた。玄関先の古い梅の木が野田家の歴史を物語っていると思った。
 野田家を去るとき、「先生、10月は同窓会だから必ず出席してくださいよ」と念を押された。楽しい半日だった。

Yさんの雪中行
【No.650】 2008年02月05日

 午後4時ごろYさんが訪ねてきた。Yさんからは秦野の民家や城郭、地名などの資料をもらっている。今日もまた、2種類のリーフレットを持ってきてくれた。
 「仕事中なのに」と恐縮する私に「今、塔ケ岳からやっと下りてきたところ」と笑う。聞いてみると、昨日の丹沢のの雪を見て、急に山に行きたくなり塔ケ岳を目指したらしいが、尾根道は腰までの雪でラッセルもままならず、塔ケ岳で泊まらざるを得なくなったとのこと。それで奥さんに、「今日は下りられないから」と電話したら、ひどく叱られたらしい。ここ二、三日の雪山での事故のことを思えば、家族の心配は当然だろう。
 材木店経営のYさんは、学生時代から山歩きが好きで、山小屋の建築も手がけている53歳。月に一回くらいは山登りをしないと気力も体力も鈍ってしまうと言う。「雪化粧の丹沢を眺めたら登りたくなった」と話す笑顔がいい。とにかく無事に下ってこられたのはよかった。煤ケ谷に置いてきた車が地元の人たちの心配の種になっていなければいいのだが。

節分
【No.649】 2008年02月04日

2月3日 
 気象とは不思議なものである。テレビでは各地の降雪を映し出しているのに、秦野は冷たい雨。そんな中、『みちしるべの会』の会長の横山さんが訪ねて来てくれた。『みちしるべ』という名のように、会の活動は「大山道」の道標を調べて歩き、そのイラストマップ作ること。その第一弾の「蓑毛・寺山編」の原案を持って来てくれたのだ。2月26日に行なう「古道・大山道を歩く」に間に合うように作ってくれるらしい。京都出身の横山さんが、このように秦野に心を向けてくれることがとても嬉しい。
 横山さんが言う。「今日は節分ですね。先生、何か行事をなさるのでしょう?」。「ええ、母の喪が2月1日で明けたので、豆まきだけはします」と私。
 夕方、「福は内!」と小声で唱えながら撒いた。「鬼は外」は言わない。
池上本門寺は「福は内」だけだそうだ。自分の心の中にいる鬼を追い出すのではなく、その鬼を修行によって仏に変えることに務めるのが仏教だから、とのこと。 私の心の中にいる無数の鬼を、一匹でも変えることができるのだろうか。いったい何に変えようと努めたらいいのか、それが分からないから、変えようがない私。だから、またこの一年、私は鬼に支配されながら生きていくのだろう。

初天神・ツジの天神さん
【No.648】 2008年01月25日

 今日1月25日は初天神。朝10時にツジの天神さんにお参りに行った。ツジの天神さんは、清水ニワの武完さんの個人持ちの神社。もともとは東中学校の校庭にそびえる樹齢300年といわれている大公孫樹の下に祀られていた。それが、中学校の校庭拡張で今の地に遷宮。私の子どもの頃は、今日は東地区内の子供たちのお参りが多かったが、今は全く忘れられてしまっている。
 それでも、武さんは今年も律儀にその祭りを行なっていた。新しい注連縄が張られた社の扉が開かれ、お赤飯が朱塗りの重箱で供えられていた。社前にゴザが一枚敷いてあった。往時はここに近所の子どもたちが坐り、参拝者にお札を手渡していたのだった。
 傍らの梅の古木に幟が翻っている。ご開帳だったので棟札を読ませてもらった。享保、安政と読めるものがあった。享保は1700年代の前半だから、300年は経ている。ご神体は木彫で彩色されているが、いかんせん風化がかなり進んでいる。もったいない気がした。
 ツジの天神さんの向こうに、雪の富士山が輝いていた。

「天神」とは、天の神だから天変地異を支配する神様、雷がその神だとされていた。ところが、901(延喜元)年1月25日に菅原道真が大宰府に左遷され、そこで亡くなってから京都で雷や天変地異が頻発した。人々はこれを道真のたたりであると恐れ、天神と結びつけ祀られるようになった。また、道真は優れた学者であったことから、天神は学問の神様としてもあがめられるようになった。大宰府に流された日が1月25日、亡くなった日が2年後の2月25日(生まれた日6月25日)であったこともあり、25日が天神様の縁日。

花菜
【No.647】 2008年01月17日

 5時半起床。小雪が舞った。大山から蓑毛は雪に煙っている。だが10時頃から青空が広がり、春のような温かい日差しになる。その日差しに誘われて畑に行ってみる。今週になって、校庭の樹木に植木屋さんが登っているので、畑に陽ががよく入るようになった。
 去年の10月12日の日記に書いたナバナ(寒咲花菜・食用は「花菜」と呼ぶのが一般的)が、若い花芽を伸ばしていた。「強い霜にあうと終り」と説明書に書かれていたが、「終り」ではなかった。嬉しくなり昼の食卓に乗せてもらった。鮮やかな、それでいて柔らかな黄緑の色合いはもう春の到来を告げているかのよう。
 「みちしるべの会」の横山さんから電話。2月例会の準備をしなければいけない。『忘れられた日本人』を再読。そして歩かなければいけないことを再確認。
 

1月14日 だんご焼き
【No.646】 2008年01月15日

 1月31日までが喪中のわが家なので、今年はだんご焼き(道祖神祭り)には参加しなかった。だが、気になるので1時過ぎ準備の様子を見に行った。自治会の役員10人ほどで既に準備が進められていた。地域の交流の場でもあるからと、今年から参加者にお汁粉を振舞うことになった。道祖神は厄除け・豊作・健康・交通安全の神、その祭りだから地区民全員で祝いたい。そして、
 4時ごろ、7日に寺山の道祖神を案内してあげたHさんが訪ねてきた。お母さんも一緒だった。焼き芋をプレゼントしてもらった。Hさんの自治会ではだんご焼きと一緒に焼き芋大会もするのだそうだ。Hさん母娘の心もこもった温かい焼き芋をいただいた。

ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる
【No.645】 2008年01月09日

7日
 去年は見られた小学校の校庭で凧揚げに興じる親子の光景。そして、大好きなサッカーボールをする少年の姿も見えない。お正月、子供達はどこに行ってしまったのが。
 午後、寺山に住む二人の中学一年生と一緒に寺山地区内に祀られている道祖神を見て回った。冬休みの宿題「地域調べ」のお手伝い。7か所を巡り終えたとき、Hさんが「私の近くにも道祖神がある。近所のお年寄りに教えてもらった」と言う。道祖神は小字単位で祀られるもの。彼女の住む宝ケ谷戸地区にもう一基あるとは新発見。それで、急遽その地へ案内してもらった。「新しく家が建ったのでここに動かされています」と彼女。道祖神ではなく、庚申搭だった。だが、彼女のこの発見はとても嬉しい。
 夏休みに『寺山の三大湧水新聞』を作った彼女が、今度は近所のお年寄に道祖神を在り処を聞いている。H家は寺山に住いを求めて10年ほど。ふるさとを知ることは、ふるさとが好きになること。そして、好きになればふるさとを更に良い地にしようとする。そんなことを実感させてくれたHさんだった。

8日
 午後、東中1年生の「総合の時間」で、14日の「だんご焼き(どんど焼き)」の話をする。東地区10数カ所で行なわれる14日の「だんご焼き」の調査を行なうので、その基礎知識を得てもらった。

4日 仕事始め
【No.644】 2008年01月05日

 三が日が過ぎたので私も動き出す。まず『エコー』の印刷版・254号を午前9時に投函。

 午後、昨年12月25日に発行された『政経かながわ』NO1754を、「秦野たばこ祭り」を主催・応援している三カ所に持って行った。この号のコラム『座標軸』に「郷愁の秦野煙草音頭」というエッセイを書かせてもらったからだ。
 葉タバコ耕作によって成長してきた秦野盆地ということを知って欲しいという思いで書いたこの文。だが、「時代に逆行している」と、非難めいた言葉さえ聞かれる「秦野たばこ祭り」のテーマソングの「秦野煙草音頭」だから、どれだけ共感を得られるか。
 『政経かながわ』の今号の目次に目をやると、「埋蔵金」「福田政権3ヶ月を検証」「建築基準法改正で広がる混乱」「最低賃金、生活保護以上に でも『何か変だ』」「次官4年 守屋全防衛次官転落の背景」「変わりつつある死刑の状況」など。どう見ても私のモノは異質だ。
 
 年末に届いていたPTA広報3紙に講評を書き、夕方ポストに。

2008年1月1日 
【No.643】 2008年01月01日

 庭続きの畑にミカンの木が3本ある。いずれも背丈は私の身長程度。だが、どの木も摘花をしなかったから小粒の玉が鈴なり。数えたら100近い実が付いているものもある。だが、実が熟す頃になると陽があまり当たらないので、市販のものと比べるとその味は「しっかりした酸味がある」ものになっている。
 子供の頃、「伊勢原の善波がミカンの日本の北限」と聞いたことがあった。だから、わが家の畑から取れるミカンがすっぱいのは当然のことと思っていた。暮に妹の家にこのミカンを持っていった。「こんなにたくさん? ありがとう」と礼は言ってはくれたが、微妙なトーンだった。
 こうなると、庭に来るメジロやヒヨドリに食べてもらうしかない。庭のあちこちの木に半分に切ったミカンを刺す。給餌台にはもちろん置く。常緑樹にミカンの黄が映えてなかなかの風景。
 仕事部屋の窓の傍らの月桂樹にミカンを刺す。その作業を始めると、ヒヨドリが桜の梢から「ピッピッピーピィ」と縄張り宣言を始める。そんな鳴き声の中をメジロは、モチの垣根からすばやく月桂樹の茂みに飛び込み、小枝伝いにミカンに寄ってきて、周囲に視線を走らせながらすばやくミカンをついばむ。それを見つけたヒヨドリが一直線にメジロを追い払いに来る。
 そんな攻防が今日も繰り返されている月桂樹に、コゲラがやってきて幹を叩いて回っていた。コゲラはキツツキ。突然啄木の歌が浮かんで来た。

 何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝晴れて風無し。 啄木
 
 今年の元旦はこの歌のとおりだった。

生きていてよかった一年
【No.642】 2007年12月31日

 今、取っている新聞は地方紙1紙、全国紙2紙。読む順は決まっている。先ず地方紙のK新聞、そして最近取り出したB紙、最後に読み始めて60年は経つだろう読み慣れたA新聞。K新聞から開くのは、とにかく身近な情報を先ず得たいから。A新聞が最後になるのは、これで締めないと新聞を読んだ気がしないから。
 今朝、K紙の一面の最下段のコラム『照明灯』に目をやったら、私の名前が目に飛び込んできた。わが家の正月を迎える行事が書かれている。『寺山ものがたり』『続寺山ものがたり』から引用され、私の思いを読者に伝えてくれている。一年の終りをこんな幸せな形で終わることができた今年、生きていてよかったしみじみ思った。(08年1月1日更新のホームページ『エコー』最新号のページ参照)
 午前10時過ぎ電話がかかってきた。伊勢原市の旅館のご主人からだった。今朝の『照明灯』を共感して読んだと話され、なぜ年越しにそばを食べるのかを教えて欲しいとのこと。今夜、年越しをする客にふるまう年越しそばに、そのいわれ話をしたいと言う。「よく言われている『ソバのように細く長く』のほかに、何か理由があるのかを知りたい」との質問。他の三つのいわれを伝えた。
 O先生来訪。「今年もどうやらここまで週刊で学級新聞を発行出来ました。クラスにはいろいろ課題はあるけど、新聞を作ることだけは好きみたいなクラスです」と笑顔。「今年は去年よりしっかり咲いていますから」と香り豊かな蝋梅の枝をもらった。
 PTA広報でがんばっているAさんからメール。「今年はいいお正月が迎えられます」がタイトル。お子さんが大学に合格したという連絡が昨日入ったとのこと。絵文字がいっぱいのメールにその喜びが表れていた。


置いて来しはずの師走の心また  
【No.641】 2007年12月27日

置いて来しはずの師走の心また  原 道子
 これは12月24日に朝日俳壇に掲載された句。喪中のためお正月はやらないのだから、今年の暮はそれほど動き回らなくてもよいと思っていた。だが、庭木が手入れされると「さあ大掃除」という気持ちになる。正月飾りをしない、という時間的な余裕があるからだろう、いつもにも増してていねいに掃除をしていることに気づく。昨日は天井を掃く用具まで買ってきた。まさに一句のとおりの生活。

 さて、「忙中閑あり」として24日の俳壇から気に入った作品を拾った。
足音の駅に集まる冬の朝      斉藤 紀子
眼を閉じて海を見てゐる冬帽子   渡邊  隆
枯れすすむとは明るさを広ぐること 寺川 芙由 
うつし世をもう一巡り返り花    牛水 里人

 今日が暖かい日の最後とか。一日掛けてガラス窓を磨くことにする。

続 へらへら団子のこと
【No.640】 2007年12月25日

 へらへら団子のことを書いた日記を読んだAさんからこんな便りをもらいました。

おばあちゃんがお盆の送り火の日にへらへら団子を作っていました。お盆に飾ったものと一緒に川へ持って行き、へらへら団子を割り箸にお団子のように刺してもって川へ持って行きました。
おばあちゃんが作ってくれた「へらへら団子」は小麦粉を練って、へらへらにつぶし、湯通しし、砂糖としょうゆで甘辛でした。とってもおいしかったことを覚えてます。お盆でもないのに、よくリクエストして作ってもらった記憶もあります。エコーを見てなつかしくて、メールしてしまいました。久々に作って、子供に食べさせてあげようかなぁ〜!(たぶん、おばあちゃんの味とはほど遠いものになると思うけど…)

 Aさん、ありがとうございました。「へらへら団子」は神奈川のあちこちで作られていた郷土料理だったのですね。(ちなみに、Aさんは30歳代です。)

へらへら団子
【No.639】 2007年12月22日

 12月18日、農水省が全国の郷土料理の中から選んだ「農山漁村の郷土料理百選」を発表した。神奈川からは「へらへら団子」と「かんこ焼き」が登場。
 「へらへら団子」いう料理―料理と呼べるかどうかは?―は、たしかにあった。子供のころ母が食べさせてくれた。団子と言っても「へらへら団子」は丸い団子ではない。こねた米の粉や小麦粉を掌の指先で押し広げた平たい団子だった。湯通したそれをアズキのアンを絡めて食べる。我が家のものは砂糖をまぶしたもの、そんな記憶がある。物日のものという記憶はない。“お八つ”の物でもな買ったと思う。たぶん、主食の代わりだったのではないか。
 神奈川から「へらへら団子」が選ばれたら、その名前の特異さからかけっこう話題になっている。早速ネット上に「横須賀のある神社のお祭りの料理」だと書く人が出てきた。
 それも事実だろうが寺山にも「へらへら団子」は存在していた。「へら」は「ひら(平)」の変化した言葉。丸い団子でなく“平べったい”団子。鍋の熱湯にこの平たい団子を入れると、すぐに“ひらひら”と漂いながら浮かび上がってくる。それを挟んで取り出し食べる。だから「ひらひら団子」。そして「へらへら団子」と呼ばれるようになった?
 さて、農水省が選んだ「百選」だが、実際は「99選」で終わっている。「残りの一つはそれぞれが思い入れの料理を選んで」とのこと。私は「落花生味噌」を100の中に加えようかな。


電飾街道
【No.638】 2007年12月20日

 12月に入ると、国道246号線の名古木交差点から蓑毛に向かう県道秦野清川線の沿線に、家庭のクリスマス・イルミネーションが数多く出現する。
 名古木の交差点からのおおよそ2キロの間に、20軒ほどがそれぞれの特長を見せた飾りつけをしている。その中心は寺山地区で、年々その美しさの競い合いが高まっている感がする。 
 先日乗ったタクシーの運転士さんが、「この道を、私らは電飾街道と呼んでいます。市内ではここら辺りが一番です。寺山を走るのが楽しみです」と話してくれた。少し長家が入っていたので、車を降りてからわざわざ遠回りをしてゆっくり見てまわった。思いがけないところに光の海を発見し、しばらく眺め入った。「省資源やエコロジーから考えて」というような懸念に、うなずかないわけではないが、一年の終りのこの季節の風物詩として、今では楽しんでしまっている私だ。

師走半ば
【No.637】 2007年12月14日

12日
 園芸愛好会の忘年会。会員24人で22人が出席。「宴会の余興に」と、Oさんから「今年の菊作りについて自己評価をしなさい」とプリントが渡された。1項目10点で100点満点。「70点以下は努力を要する」「70点以上の人も気を許すと元に戻るので、なお一層の努力を期待する」と評定欄に書いてあった。自分としては過去最高の花を咲かせたのだが、評定を算定すると40点ちょっと。Oさんから「PTAのおばさんばかりに気を取られ、菊に心がいっていない」と特別の指導を受けた。

13日
 午後1時20分から、東中学校の1年生の「総合の時間」で授業。内容は4学級合同で「学習新聞作り」の指導。一年間地域調べを行なってきたまとめを個人新聞で行なうということで講師を頼まれた。話のポイントを次の事柄に絞った。
・学習新聞になにを書くのか 1みんなが知りたいことを書く(調べたこと・情報を書く) 2みんなに知らせたいことを書く(自分の考えたことを書く まとめは必ず載せる)
・新聞を作るとき心がけること 一目見て、何が書いてあるのかが分かるように作るのが新聞(見出しが大切)
帰ろうとしたら、一人の女生徒がおずおずと近づいて来て「先生、Kって知ってる?」と尋ねる。「K…」、一瞬戸惑ったが思い出した。西中時代のクラスの子、目が丸くて、髪の毛が少し縮れていて、顔はふっくら。そう、似ている」。「お母さん、三者面談のとき泣いちゃったって」「ええ? そんなひどいこと言っちゃったのかな。ごめん。お母さんに謝っておいて。お願い。そう、お母さんと遊びにおいで。待ってるから」。

14日
 S小のP広報委員4人来訪。20日発行号へのアドバイスを求められた。「ここまで自分たちでやってきたのだから、このままでいきなさい」と私。レイアウト、見出し、写真、そしてキャプションも納まっている。現実のこととして出稿の前に赤ペンなど入れられたら困るはず。特に記事に“赤ペン”は大混乱になる。やってきた仕事には過程があるのだから、その最終の時点で第三者である私があれこれ言うことは適当ではない。“冷たい”と言われてしまうかもしれないが、これがいつもの私の姿勢。自信をもって出稿して欲しいと思うのだ。

『心』という字
【No.636】 2007年12月13日

 20数年前、学校業務員のAさんから「相撲取りが土俵で懸賞金を受け取るときは『心』という文字を書く」と教えてもらった。そのときから、テレビで懸賞金を受け取る力士の姿を注視している。『心』という字を書く手刀の所作をして賞金を受け取る力士はあまり見られない。特に今話題の横綱のその所作は、カメラアングルによるのだろうが、いただけない。「どうだ、勝ったぞ、だから貰うぞ」、そんな風に見えてしまう。
 昨日12月12日の「天声人語」に、「『心』という字を手刀で切るきることについて」書いてあった。このコラムを日本相撲協会の人たちは読んだだろうか。

大山阿夫利神社から表彰状を
【No.635】 2007年12月09日

12月5日 大山阿夫利神社から表彰状をいただいた。表彰状には「多年身を農業経営にささげ」「敬神報徳の実を昂揚された」と書かれている。
 11月の東地区の生産組合長会議で受賞を推薦された。全く不適格なので強く固辞した。だが拍手で決定。
 改めて「農業経営の実際や、敬神報徳の心への功績」という言葉に、怖ろしさを感じている。だが受賞してしまったこと。それで受賞の理由を次のことに由ることにした。
 @ここ10年ほど東公民館を拠点にして『大山道を歩く』講座を持ってきた。先週の「大山信仰と御師の宿」の講座もその一つ。 
 A大山道が通る寺山の里のことを2冊著した。
 B市制50周年記念の『市民が作る広報はだの』でも大山道の特集を組んだ。
 この三つの行為が私への授賞の理由だとすれば、私としては一応“納得”。だが周囲の方は納得してくれるかどうか。

広報委員が年季明けのTさん
【No.634】 2007年12月06日

 今年3月までPTA広報を3年間作ってきたTさん。年季明けのこ4月から休んでいたママさんバレーに復帰。ところがたちまち足の骨折で暑い夏の3カ月を松葉杖で生活。
 せっかく戻ったバレーは楽しめず、充実感があった広報づくりはもう無い。そんな悶々とした日々を送っていたTさんが、急に作文が書きたくなった、と昨日訪ねてきた。
 文章術などとても話せないが、エッセイの題材になりそうなものくらいは見つけることが出来るかもしれないと、3時間ちょっと彼女の身辺の話を聞く。
 二つ、いい話が聞けた。一つは「エンゼルメイク」、そしてもう一つが「秦野の大工さんが北海道に家を建てる」。「あなたの話し方で、何を書きたいかがはっきり私に伝わる。この二つを書いてみたら」と勧めた。

師走に入る 
【No.633】 2007年12月03日

12/1 全国新聞教育研究協議会の会議で毎日新聞社にでかけた。久しぶりの東京行きだから、気持ちはまさに“お上りさん”。会議室は皇居に向けて大きく窓が開けている。午後4時に会議が終わったので、その窓から外を眺めた。赤い大きな夕日がお堀端の桜の紅葉を一層濃く見せている。やがて林立する高層ビルの向こうに夕日が沈んでいく。知人のO先生が盛んにケータイのカメラで撮っている。それで「撮れたら送って」 と頼む。今日はケータイを携帯しなかった私。ほとんど不携帯のケータイの所持者である。

12/2 講師を務める東公民館の『大山道を歩く』のシリーズの最終回は、大山道・蓑毛道を歩き、大山詣でをし、御師の宿で豆腐料理を食べるという内容。9時半に蓑毛大日堂の境内を出発した20名の参加者を見送り、車で大山町に先回りの私。講師がこれでいいのだろうか? 
 大山寺の紅葉に染まりながら、全員12時50分に、宿坊『おおすみ山荘』に無事到着。「途中の紅葉はどこも最高」だったそうで、この企画の時期は大当たりだった。よかった。私と同じように山越えをせずに直接会場入りの6人を含め総勢26名で、豆腐ハンバークや豆腐の蒲焼などは並ばない、純粋な豆腐料理をいただく。
 食事の後、「大山信仰と御師の宿」という演題で、第37代御師佐藤大住さんの興味深く楽しい話を聞く。
 山歩き、紅葉狩り、名物の豆腐料理、宿坊での講話、しかも天候にも恵まれたことで、「まとめにふさわしい充実した内容だった」と自画自賛。公民館の向原館長さん、井口さん、浦田さん。佐藤大住師、そしてこの講座に参加された皆さん、ほんとうにありがとうございました。

もう中は見られませんから
【No.632】 2007年11月29日

 「私が死んだらお墓を直して」と母が言っていた。昭和47年に父が墓所をつくり、それから34年が経った。墓所にのぼる大谷石の石段の崩れが目立っていた。それを母は気にしていた。来年1月に母の一周忌の法要を営む。その母の願いでもあるので改修をすることにした。
 1週間ほど前のこと、山仕事の帰りに工事の進み具合を見に寄ったら、石屋さんが「ご連絡しようと思ってました。見に来てくださってよかったです。今日、カロートを閉めます。閉めてしまうと、もう中は見られませんから」と言う。
 作り直されたそのカロートをのぞいた。「広いですネエ」と私。ここに入るのか、突然そう思った。石屋さんの言ったことを納得した。今日、カロートをメジを使って閉じてしまうと、次にこのメジが剥がされるのは私がここに入るとき。そのときの私は、残念ながら自分の入るべきこの石棺室は見えない。今が見納め。それに、この目で見ておくことは必要なこと。「閉めてしまうと、もう見られません」というのは現実のこと。
 今朝9時から、完成した墓所で魂入れの読経をしてもらった。梅川流白師の読経が朗々と流れる。魂抜きをしたのは11月初めだった。じいちゃん、ばあちゃん、リキさん、おシマさん、巽たちは、しばらくの間“千の風”に乗って現世を眺め回っただろう。みんな、今朝の読経を聞いて新居に戻ってきたろうか。

Is YAEKO still healthy ?
【No.631】 2007年11月28日

 昨日、コベントリーのグレイアム家からクリスマスの贈り物が届いた。いつも先を越されてしまう。早速クリスマスカードを買いに出た。いつもの通り、光るメロディカード。Graham家では、いかにも日本らしいと評判らしい。帰りに須山モータースに寄り、来年のカレンダーをもらう。この会社のカレンダーは毎年グレイアム家の居間に飾られる。純日本式庭園の豪華な12カ月のカレンダー。かれこれ20年は送っているだろう。これもまたグレイアム家の自慢になっているらしい。
 いただいたクリスマスカードの冒頭に書かれていた言葉は Is YAEKO still healthy ?  母の死を知らせる手紙を書き、今日送る。

 同じく昨日、今年もコシヒカリが30キロ、知人から送られてきた。宅配の青年が元気よく担いで入ってきた。玄関に置かれたその30キロは、私一人ではそう簡単に動かず、妻の手を借りたがあまり“役立たず”。お正月までおいしいご飯がいただける。

 またまた昨日、先週の三連休を使って山形に里帰りしたKさんが、リンゴ、地酒、お菓子をもってきてくれた。彼女のふるさと左沢は、今年はすでに雪があるとかで、「スタッドレスを買い、出かけた。思いがけない出費、痛い! 今年は寺山が大雪でもこられますから」と笑う。Kさんがもってきたもののもう一つはPTA広報の11月号。
 

実朝祭り
【No.630】 2007年11月24日

11/22
 S小学校のPTA広報委員会に招かれ、広報づくり講座。昨年は年間2回の発行だったが、今年度は、目下作成中の号が4回目の発行になるとか。2台のノートパソコンの画面上で、レイアウトを次々に変えていく編集作業を見た。「こういう時代なんだ」と、ただただ感心する。校長先生と昼食を共にしながら、このごろの小学校事情を聞かせてもらう。全ての話題で「そういう時代なんだ」と詠嘆、そしてちょっぴり悲嘆も。

11/23 
 東地区まちづくり委員会が主催する第19回『実朝祭り』に参加。2年前、この祭りは市制50周年記念を冠にし『やぶさめ』の神事が行なわれた。その祭りには『市民が作る広報はだの』の記者として取材に出かけた。
 今年の祭りには、生産組合長として、JA東支所のテントの中で『秦野ラーメン』を売る係。8時半に集合、麺の袋を開封する仕事からスタート。その後はゆで卵の殻むきだが、これには手こずった。開店すると、私の役割はJAの黄緑のハッピを着て呼び込み係。このラーメン販売に関わったのはJA女性部の東支部の6名を合わせ15人。午後2時過ぎに350食完売、閉店。
 この『実朝まつり』は地域興しとして、東地区自治会連合会が始めたのだが、今では秦野市の観光行事の一大イベントになっている。一日中、たいへんな賑わいだった。暖かい秋の日差しの中、地域の人や同級生、教え子などたくさんの笑顔に出会えた。

今週は“アッシー”
【No.629】 2007年11月20日

 きょうから土曜日まで妻の「手織りマフラー展」(宣伝:『エコー』のHPの「さをり織」のページをご覧下さい)の手伝い。今朝は9時に会場に入り、会場のレイアウトと力仕事。あとは仕事は送迎係りだから、昼間は自宅に戻って留守番。初日ということで50名ほどの来場があったとか。ご来場の皆さん、ありがとうございました。

菊作り
【No.628】 2007年11月13日

 「今年はイイのができた」と思っていたので、その気になって6鉢も持ち込んだ。だが、続々と運びこまれる大輪を見て、私の心は萎えた。
 10、11日の東公民館祭りに、私が所属する秦野園芸愛好会は、菊花展で参加した。 
 背丈が40センチ以内で作る『福助づくり』に全会員が挑戦し、この展示会に持ち込む。会場に鉢を持ち込んで、いつも思うのは「こちらの心が菊に伝わらない限りいい花は咲かない」という反省、そして後悔。
 4月から始まる菊作りだから、その手入れの熱心さによって花の大きさは自ずと決まる。昨年より今年の菊に少し自信があったのは、9月に入ってから《先生》の言うとおりに、忠実に手入れをしたからだ。この《先生》も、実は数年前から始めたばかりの人だが、彼は、菊作りの大家の元に足しげく通い、技術を身につけたのだ。そんな彼が私の花を見て言う「テキストどおりに育てれば咲くのだけどねえ」。 
 彼は、展示した花を欲しい人にあげてしまう。そしてこう言う「蕾が大きくなって、やがて細い花弁が一本立ち上がる。そして翌日また一本が開く、そんな成長の過程を眺めるのが菊作りの楽しみ。咲いてしまったら、後はしおれるのを待つだけ。きょうまでが菊作りだよ」。

東小・中合同教育懇談会
【No.627】 2007年11月11日

11/9 夜7時からの東小・中合同の教育懇談会で「地名が語る東地区の歴史・文化」の講演。参加者は50名くらいか。皆さん、仕事が終わってから、さらに金曜日の夜で天候は雨。受付に温かいコーヒーや紅茶が用意されていた。
 出だしの『十八女町』と『小鳥遊』でモタツキ汗をかく。パワーポイントを使っての「波多野城はどこにあった?」の話あたりから少し落ち着く。1840年ころは、「金目川(カナメガワ)」は「加奈比可波(カナヒカワ)」と呼ばれていた、という実例で話を終わる。
 パワーポイントで使った「寺山地区の地図」は、教え子のYさんに作ってもらった。Yさんは測量会社の社長さんだから、こういう地図を作るのは“お手のもの”ありがたかった。

今年最後のPTA広報講座 
【No.626】 2007年11月07日

 台風9号の影響で流れた厚木市P連主催の広報講座が、再度企画されきょう厚木ヤングコミュニティーセンターで開かれた。広報委員の任期が5カ月あまりとなったこの時期の広報作りの話は難しい。12月発行を目指す広報は、企画。取材は終り記事を書いている段階なので、今すぐに役立つこと(技)を教えたい。一方、「なぜPTA広報なのか」の話も省くことはできない。私にとっても今日の講座は今年の締め。そんな条件の下、10時から2時間、どの会場よりも一生懸命話したつもり。
 「昨年も熱い話を聴いた。今年もまた熱く語ってくださった。聴いていて楽しかった。今日の話を聴かれた皆さんは、きっと来年度も広報委員になられるでしょう」と主催者代表のYさんから謝辞をいただいた。
 終了後、アンケート調査を元にした「学校給食」、「本を読もう」、「がんばる子供達」の特集のまとめ方など4校からの相談があった。駅ビルで昼食。今年最後の講座という感慨もあり、充実した講座だと勝手に納得し、ひとりで生ビールで乾杯。

ドラゴンズ
【No.625】 2007年11月02日

 S歯科クリニックにいつものとおりの治療に行った。そうしたら「おめでとうございます、ドラゴンズの優勝」と院長さんが言葉を掛けてくれた。昨夜、優勝インタビューを観ていたら、「おめでとうございます。これからビールで祝杯を挙げてください」と電話をくれた人もいた。 
 昔ほどドラゴンズの勝敗にはこだわらなくなったが、昨年の負けで「たぶん私の目の黒いうちは優勝はないだろう」と思っていた。これで悔いなく…。

 昨日、いつもの酒屋さんに買い物に行った。店内に一人の仕事着の女性がいた。新人の店員さんと思ったので「大瓶を1ケースと」注文を始めたら「もしかして武先生じゃないですか」とその女性。「そうですが」と応えると「東中時代、三年間お世話になりました」と言う。教え子の顔を覚えていることを自慢にしている私だが、「えーと」と詰まる。
 「野球で群馬まで応援に行きました。先生も一緒でした、車は違いましたが…」「関東大会の、前橋の敷島球場に」。「板垣です、板垣の母です」。 三年間と言うのは野球の指導のことだった。一日目で帰るつもりが準決勝にまで勝ち進んだので、親たちは急遽泊まることになった大会。決勝戦で地元の甘楽一中に負けた、そんなことを思い出した。

 夕方、東中の二人の先生が訪ねてみえた。地域学習のまとめを新聞でしたいので「指導を」とのこと。喜んでお受けした。

大井町の広報づくり講座
【No.624】 2007年10月31日

 大井町の『広報づくり講座』の日。9月6日に実施の予定だった講座が台風の影響で今日になった。
 この町の講座は『PTAを対象』と限定してないのが特徴。中学校1、小学校3の町だが、今日は、幼稚園3、青少年指導団体2、自治会1、ボランテイァ連絡会1、NPO1の11が参加。講座は今年度発行された広報紙をパワーポイントを使ってのクリニック。
 休憩時間、そして終了後に質問や相談がたくさん持ち込まれた。箱根のホテルの料理長さんが、町の子ども会の広報担当ということで参加。「5月の講座にも出ました。包丁しか持ったことのない私がパソコンを買い、こうして苦しんでます」と笑いながら話をしてくれた。新聞編集のソフトも買ったので、「前年と違うレイアウトのものを」と元気だった。

土に点がつく文字
【No.623】 2007年10月28日

10月27日
 国道246号線沿いの落合にあった「丹沢そば石庄」が、寺山 角ケ谷戸の山間のそば畑の真ん中に引っ越した。 
 オープンの10月31日に先立ちその開店祝いの宴に招かれた。
 タコーチ山の山すそ、前に谷川、うしろは自営するそば畑という地に、「秦野の食文化そばを守るため、名水の力を借りるため」と当主・石井貞男さんの挨拶。
 台風の影響がかなりある中、「風神、雷神もお出ましくださり、清めの豊かな雨もいただいてこれからの繁盛は疑いなし」と、参会者全員で乾杯。「そばの里の花見」で寺山の案内をしたご縁で、私もこんな祝辞を述べさせてもらった。

 「屋号『石庄』の庄を作っている『土』という文字には、《点(、)》がついている。この土に付けられた《点(、)》には大切な意味がある。畑の土を集め盛り上げ、そこにお酒をかけ、地の神、天の神に感謝し豊穣を願う。そのお酒が《、》である。
 《庄》は農家のこと。土と共に生き、丹沢そばを打つ石井さんの思いが屋号『石庄』となっている。点のついた土という文字を私は心に留め、石庄のそばを食べたい」

東婦人会の「さわやかウオーク」
【No.622】 2007年10月26日

10月25日
 東婦人会の「さわやかウオーク」に参加。東地区内の大山道を歩き、路傍の神仏を訪ねるという企画。このウオークは8月の講演会「東地区の地名」の続編で実際にその地に立つということで案内をすることになった。
 好天に恵まれ6時間の楽しいウオークだった。刈り取られ田んぼは広々と広がり、山道では頭上にたくさんのアケビを見つけた。M家で自家製の味噌おでんを振舞ってもらい、昼食は煮しめ、イカのマリネ、キュウリ・ナスの漬物などが持ち込まれた。そして食後のレクはビンゴゲーム。婦人会の面目躍如というところ。
 まとめの話で「庚申講」の紹介をしたら、「小さいころ、ウチで宿をやったことを覚えている」という話や、少し前まで「回り観音」が存在したこと、「十五夜・十三夜講」を今年も行なったと言う人もでてきた。今日、一緒に歩いた人たちが、村の年中行事を引き継いでいるぎりぎりの年代の人たち。「存続は難しいかも知れないが、話だけでも伝えたい」と言う思いをそれぞれが口にした。私の思いを受け止めてくれたお母さんたちだった。

まちづくり
【No.621】 2007年10月22日

10月21日
 「まほら秦野みちしるべの会」の例会。今回は『御師の里 蓑毛のくらし』という演題で、蓑毛在住の相原豊久さんに2時間強、話をしてもらった。
 相原さんは、今年で20回を数えることになる『実朝祭り』を、まちづくりの一環として興した中心の人。また、二宮尊徳の考えを、実践・広めた安居院庄七のことに就いて詳しい郷土史研究家。その相原さんの今日の話の中に「私は研究家ではない。地域の皆さんに、私が提供する少しばかりの情報や資料が、地域の見直し・再発見につながり、まちづくりに役立てば嬉しい」という一節があった。相原さんは10歳ほど先輩。この言葉と共に、蓑毛地区の歴史や文化をたくさん学ばせていただいた。

学校からの「お知らせ」が届かない
【No.620】 2007年10月17日

 今月の初めに発行されたS中学校のPTA広報紙が届いた。特集は「『お知らせ』が届かない」。学校から保護者あての印刷物が届かない実態を、保護者と生徒のアンケート調査を通して探ったもの。
 生徒の回答では「必ず渡している」が52%、「時々」が39%、「ほとんど渡していない」が9%。子供達が、お知らせなどを「渡さない理由」のトップは「忘れている」。そして、それに続くのが「自分で判断している」という理由で、約20%。これは、子供達が情報処理をしているということ。 
 「忘れている」ということを含め、「お知らせ(情報)」を届けよう(発信しよう)とする側に課題を投げかけている。

久しぶりの畑仕事
【No.619】 2007年10月13日

10/12
 久しぶりに畑仕事。まず大根と小松菜に堆肥を施す。大根はかなりいい育ち。続いてキヌサヤとナバナ(寒咲花菜)を蒔く。いつもになくきちんと床を作り蒔いたので「これはイイできになる」と満足感にひたる。ところが、蒔き終えた種袋の説明文を読んだら、キヌサヤは「連作をきらうので3〜4年は空ける」とある。蒔いたのは昨年と同じ場所! そしてナバナは「強い霜にあうと終りです」とある。「終りです」ってどういう意味? 「寒咲花菜」って書いてあるのに…。なぜ今、この地方のJAで霜に弱い野菜の種を売っているのか。買った私の「自己責任」というわけ。説明文をよく読まないで買ってくるから、老眼鏡を常に携帯していないからこういうことになる。この二種類の行く末は悲観的だ。
 田中真紀子と福田康夫の質疑を観た。どちらも“海千山千”。
 田中真紀子が「日本で売られている野菜の種はほとんどが外国のものだ」と指摘した。驚いて、先ほど蒔いた種の袋を調べてみた。どちらも「アメリカ」だった。知らなかった。これが日本の農業の現実。「農協は農業への人材派遣を考えよ」という田中真紀子の提案はよかった。

卒論は「学級新聞づくり」で
【No.618】 2007年10月11日

 昨夕、大学4年生のCさんが訪ねてきた。卒論の資料を集めている最中で、「東中まで来たので、お寄りしました」と言う。卒論のテーマは「秦野市の中学校における学級新聞活動が学級に及ぼすもの(仮題)」で、市内の中学校の学級担任と生徒にアンケート調査をお願いに歩いている途中とのこと。
 Cさんは中学時代、学校・学級新聞づくりに燃えた子だった。毎日新聞と全国新聞教育研究協議会が主催する全国学校新聞コンクールで、彼女が中心で作った学級新聞は2年連続入賞。そして彼女が委員長だった2001年度の『東中新聞』は、見事「50回記念賞」を受賞。高校では学校新聞を復刊させた。そして卒論が学級新聞。
 来年4月から教室で子供たちと新聞づくりをすることになっているCさんである。

背広
【No.617】 2007年09月30日

 昨日、今日は第60回「秦野たばこ祭り」。たばこという名称が話題を呼ぶ祭り。今年は二日間とも雨にたたられた。青森から「ねぶた」を招いたが、この雨の中の運行では観客も少ないだろう。もったいない。それにしても、今日のこの雨は「ねぶた」には合わない。「跳ね人」は寒いだろう。
 20度を切っている気温に、物置の箪笥から昔の背広を引っ張り出し、着た。「2年間着なかったら思い切って整理する」のが、『じょうずな整理法』なのだそうだ。この背広、たぶん20数年前に買ったと思う。麻織りのように見えて、色合いも明るいので、捨て切れなかった。夏・冬の季節の変わり目に着るにはちょうどよいのだが、現役の頃には着る機会はほとんどなかった。
 さて、腕を通してみると、今の私の体型には合わない。肩がきゅうくつ、「背広」ではなく「背狭」! それに、背広の生活から離れて10年ともなると、半日着ただけで肩が凝るのだ。
 その「背狭」な私の背広姿を見て、「どうしたのですか」と妻はいぶかり、訪ねてきた近所の女性が「お出かけになられるところ、申し訳ありません」としきりに恐縮なさるのだった。「孫にも衣装」というところか。

寺山は仲秋
【No.616】 2007年09月26日

 昨日は十五夜だった。予報がはずれ良い月が見られた。今年は喪のため、十五夜の祭りはしなかった。
 今朝、仏壇におだんごが供えられた。きょうは彼岸の明けの日。「入りボタモチに明けダンゴ 中の中日アズキメシ」と言い伝えられてきたこの地方の彼岸の行事。
 お彼岸にボタモチ、アズキご飯、オダンゴを仏さまに供えるのかよくわからない。でも、お彼岸の間に秦野のスーパーに行けば、この三種類は売られている。
 「餅をアンコで包んだものがボタモチ、ご飯を包んだものがオハギ」という人がいる。それでは「入りオハギに明けダンゴ…」と言わないのはなぜなのか。「お彼岸」とは、一般的には春の彼岸を指す言葉。ボタモチは牡丹餅のことで、春の牡丹の咲く頃に食べるからボタモチ。だから「入りボタモチ」。秋のお彼岸は、わざわざ「秋彼岸」とするらしい。(そう歳時記に書いてある)この秋の彼岸の頃には、萩が咲くので、春のボタモチが「オハギ」になる。なぜハギなのかというと、餡になるアズキの形、色が萩の花に似ているから。
 「暑さ寒さも彼岸まで」きょうは過ごしやすかった。彼岸花の群生が、寺山の田んぼでも見られる。お隣の小学校は稲刈りをした。裏の畑では、楽しそうに中学生がサツマイモの収穫。寺山は仲秋。
 

トコロテン
【No.615】 2007年09月24日

 材木店を経営しているYさんが「こんな本があったから」と、『秦野のすまい』と『秦野の城郭』(いずれも秦野市教育委員会編集)を持ってきてくれた。この種の書籍は刊行されても、そのときに興味がなければ見過ごしてしまう。また市販されることもあまりないので、入手は困難。今、すこしばかり地域の歴史や文化に興味をいだている私には、関係の資料を見るのには図書館や公民館に出かけなくてはいけない。その資料はもちろん「禁帯出」だから、転写するのはたいへんな作業。それだけに、この2冊は貴重なもの。早速「波多野城」の項を読んだ。
 PTA広報『丹沢の風』9月号が届いた。「9月号」と書いたのは月刊で発行されているからだ。毎号A4判12ページ、新聞編集のソフトを使って作られ、学校印刷である。今号は写真を大胆に使ってあり、とても読みやすい。「モニターズボイス」というコーナーが設けてあり、読者からの声が紹介されている。このコーナーは5月号からスタートしたのだが、存続しているのは、この広報紙がよく読まれている証拠。「開かれたPTA」という観点からも大切なコーナーだと思う。
 
 「暑い秋」の最中買ったトコロテンのことを、なぜかきょうまで忘れていた。涼しいきょう食べた。「夏炉冬扇」のたぐい。でも美味しかった。よかった。

中井町の講座
【No.614】 2007年09月21日

9/20 中井町教育委員会の「PTA広報づくり講座」に出かける。4月の講座ではPTA広報づくりのノウハウを教えた。今回は「広報クリニック」が中心の講座。講座は3部構成で
1部、4月以降発行された全号の紙面クリニック
2部、見出しの部分を伏せた記事を読み、見出しを作る。
   この講座についての報告記事を書く「記事の書き方」の演習。
3部、次号に向けての企画・編集会議を開き、私が相談を受けたりアドバイスをする
 小学校2、中学校1の中井町は、18年度の神奈川県PTA広報紙コンクールで2紙が入賞している。今年度も活動は盛んで、読みやすい広報紙が発行されている。

秋の畑
【No.613】 2007年09月18日

9/14 少し体力が戻ったようだ。畑作業をする気になった。午前中はナス、トマト、キュウリ、インゲンなどの夏野菜の木の整理。昨年の農作業の記録を読んだら2週間も作業が遅れている。午後は庭の芝刈り。北桜関の負けが混んでいるので手紙を書く。台風で中止になった厚木市と大井町の講座が復活することになった。

9/15 8時から畑に下り、二日がかりで除草が終わった。秋蒔きの種を買いに行かなければいけないのだが、出かける元気がない。晴れ、小雨、晴れ、曇りとめまぐるしく変わった天気の一日。それで『空の名前』高橋健司著を本箱から引っ張り出し眺める。

9/16 妹の家を訪ねるのでサツマイモを土産にしようと朝から畑に。今年はY先生の実家から6種類の苗をもらったので、掘るのが楽しみ。黄色の芋が出てきた。久しぶりに妹夫婦と世間話をする。帰りに、ダイコン、ホウレンソウ、小松菜の種、ハクサイ、キャベツ、ブロッコリーの苗を買う。午後、2時間かけて蒔く。石灰で中和しない畑にホウレンソウを蒔いても、マトモなものはできないだろう。

9/17 管理機の燃料が足りなくなったのでJAのスタンドにガソリンを買いに行く。軽トラ、首にタオル、地下足袋、麦わら帽といういでたちなのだが…。畑を耕し、昨日買った3種類の苗を植える。なんとなく秋の畑らしくなったなったのを眺め満足感に浸る。この4日間は充実した日々だった。この4日間で市販のイオン水をたくさん飲んだ。売り出された頃と比べ、格段の飲みやすさ、美味しさを知った。

台風9号
【No.612】 2007年09月11日

 台風9号の接近で、大井町(9/6)と厚木市(9/7)の講座は中止になった。

 9月8日の夕、59歳で厚木市議選に初挑戦し上位当選を果たしたKさんを祝う会を、中学校の同期の仲間が七沢温泉で開いた。招かれて私も出席。千葉市、町田市などに在住する選挙権のない者も駆けつけ30数名が集う。「ここに集った同級生の力がK議員を誕生させた。Kさん、二期目は自分の力で勝ち抜き、同級生の期待に応えよう」と挨拶をした。

 9月9日 午前中、市内一斉の「美化清掃日」。今月末の「第60回秦野たばこ祭り」のための清掃活動とも言える。午前9時スタートの作業。防災倉庫の周辺の除草だが、過ぎ去った9号が夏の熱い日差しを呼び戻したようで背中に受ける熱でかなり体力消耗。「もうこのあたりで切り上げようよ」と、音を上げた私に、「先生のその言葉、待ってました!」とSさんのよろびの声。そのSさんの言葉につられるように、どっと笑い声が広がった。その日の参加者の中で、私が最長老だと気づいた瞬間だった。

 9月10日 湯河原町・真鶴町2教育委員会が合同で開く『PTA広報クリニック』。これは今年から始まった2町合同のPTA広報講座で、その2回目。
 台風の影響で西湘バイパスの一部が通れないため、渋滞に巻き込まれ、予定より40分も遅れて到着。
 2つの町のPTA広報委員会が同席するということは、相乗効果をもたらす。お隣(町)への興味、そこから得られ刺激、そしてちょっぴり「負けないわよ」という対抗意識。それらが広報の紙面に表れている。湯河原のA小は五月以降すでに6号の発行を数えている。真鶴町のB中学校の広報も、A4判8ページ2回、4ページ1回、とがんばって3回発行。
 合併も視野にあるお隣同士の町だから、親近感もあるようで、閉会後も会場でそのまま臨時の企画会議が開かれるというやる気と雰囲気。私にもいくつか相談も持ち込まれた。

自然との共生
【No.611】 2007年09月05日

例年より3日遅れで栗畑に行った。「自然の摂理」、今年も栗の実はもう落ちていた。だが収穫は少ない。鹿が食べた跡があちこちに見られた。昨年はこんなに鹿が表れた形跡は見られなかった。鹿が、隣りの竹薮に住み着いていると言われていたが、どうやら本当のことらしい。その竹薮もわが家のもの。そこではヤマヒルにも出遭う。ヤマヒルは鹿の蹄で運ばれてくる。
歳を重ねるごとに体力が落ちる私に対し、鹿やヤマヒルは一年ごとに勢力を増していく。「自然との共生」なんてありえない。人間は自然に従うしかない。
 数年前は1回で20キロ近く拾えたのだが、きょうは5キロ。初物なので、栗ご飯を炊き仏壇に供える。ほんの少しばかりをご近所に配る。
 台風の余波でにわか雨が何度も。その合間を縫って体育祭の練習が中学校で行なわれているようだ。現役の頃には全く聞かれなかった音楽が流れてくる。《ヒップホップ》ダンスを応援に取り入れているのだろう。数日前の新聞に、「中学校の体育科は男女とも、武道とダンスが必須になる」らしいとあった。流れてくる音楽に「さもありなん」と納得。

葉月から長月へ
【No.610】 2007年09月03日

8/28 PTA広報紙クリニック  秦野市PTA連絡協議会
8/29 PTA広報紙クリニック  松田町教育委員会
8/31 全国新聞教育研究大会・秦野大会の速報担当者のOG会

9/1〜2 地元東地区に根を張り、たくましく生活している52歳の男たちの会に今年も呼ばれた。この会は毎年9月1週の土曜日に開かれている。今回は箱根強羅のリゾートホテル。参加者は12名。秦野JAの特産である『うでピー』をFさんが持ってきた。「昨日収穫して、きょううでたものだ」とFさん。「うでる」とは「茹でる」の秦野言葉で、『うでピー』とは茹でた落花生。懇親会が始まるまで、ビールと「うでピー」でもう盛大な飲み会。秦野言葉が飛び交う。『続寺山ものがたり』の「秦野言葉」の拾遺ができた。

9/3 5年間、闘病生活をしていたSさんが、とうとう逝ってしまった。きょうがその別れの日。Sさんは私が初めて担任したクラスの生徒の一人。
 1997年に『毎日農業記録賞』の優良賞を受賞した、彼女の「農業に生きる」には、「施設3600平米にトマト、キュウリ、イチゴ。水稲200アール。露地野菜30アール」と経営規模が記されている。県で最初の女性農業経営士になるなど、文字通り農業に生きた女性だった。
 『エコー』創刊号から読者で、エコーをよく返してくれた。8月24日、病床から電話をもらった。「食事はもう摂れなくなったけど、先生が新潟から送ってくれた野沢菜、少しだけ食べました。美味しかった。頭の中はしっかりしているから、あと5年くらいは生きていたいなあ」。27日に急変、31日に帰らぬ人になった。きょうお会いしたご主人は、「最後まで弱音をはかなかった」と涙にむせた。享年61歳。



「まほら秦野みちしるべの会」
【No.609】 2007年08月27日

 昨日、秦野市内の「大山道」の道標を訪ねてあるく会「まほら秦野みちしるべの会」が発足した。
 参加してくれた人は40〜60代の16名で、内6名が女性。会をまとめ、動かしてくれるのは、秦野を第二のふるさととする二人の女性。二人とも「市民が作る広報はだの」の編集委員を務め、「歩いてはだの再発見」の取材・編集に力を発揮してくれた。そのときから、わが子に秦野の良さを知らせたいと願っているお母さん二人なのだ。
 私の役割は「講師」、会の要請で講座をもったり、資料の提供をすること。この会の発足で、私の願い・思いは達成された。すぐに成果、結果が出る活動ではない。会員が、「秦野の良さ」を周りに話してくれるようになるとが会のねらい。そのためには実地踏査などの地道な活動が求められる。どこまで一緒に歩けるのか今は不明。だが楽しみな会である。

箱根板橋地蔵尊
【No.608】 2007年08月23日

 きょう8月23日は箱根板橋のお地蔵尊の大祭の日。今年新しい仏様を持った家は供養のお参りをする日。それで家族、兄妹で出かけた。 
 秦野駅の改札口の横で、板橋の地蔵さんにお参りする人のための往復乗車券が特別に売られていた。
 箱根板橋駅前の国道1号線を渡ると参道。私達がその参道に入ったのは午前10時半過ぎだったが、すでに数十の露店が店を開いていた。
 境内に登る階段の前おおよそ50メートルくらい前で、参拝者の足が止まり、列ができる。本堂の前で、混乱を避けるため参拝の規制が行なわれているからだ。おおよそ40分後、線香と花(しきみ)を供えることができたのだが、残念ながら亡き人を念ずるという雰囲気ではなかった。
 この地蔵さんの縁日がにぎやかなのは、参拝者の中に「故人に似た人」を見つけることができると言われているから。母に似た人に会えるかと思ったが、残念だった。だが、参道を歩きながら、「“千の風”の歌ではないが、あのバアちゃんがお墓に入っているはずはない。まだ、自分では死んだと思っていないから、ここで似た人になんか会えない」と納得した。母や父に似ている人には会えなかったが、顔見知りに8人出会えた。
 ところで、この地蔵さんは延命地蔵さんとのこと。亡き人の冥福を祈りながら、自分の長寿を願う、というのだから大勢が集るのは当然かもしれない。小田原の駅前で会食。鰻重を食べた。ジイちゃん、バアちゃんに感謝。 

テレビのニュースに武さんが映ってた
【No.607】 2007年08月22日

 昨夜、Mさんから電話をもらった。8月17日の10チャンネルのニュース番組で、私たち夫婦を見てビックリした。「奥さんを見て、確かに武さんだと思った」という内容。
 17日、私たちは新潟市で開かれた「大相撲新潟場所」の会場にいた。今回の朝青龍事件で、大相撲の地方巡業は一躍注目されるようになった。力士たちのファンサービスぶりが、連日テレビの全国ネットで放映され、北桜と高見盛の二関取は画面によく登場していた。 
 私たちは、その北桜関と一緒に、ステキなポーズで写真を撮った。シャッターを押してくれたのはテレビの女性レポーター(北桜関が頼んでくれた!)。そのシーンがテレビに流れたらしい。
 その晴れがましい雄姿(?)と経緯については、9月1日に更新する「マンスリーエッセイ」のページで、どうぞ。

夏休みは終わった
【No.606】 2007年08月20日

 ほとんど別棟で生活をしているので、出かけない時は、母屋の玄関に「隣にいます」という札を掛けておく。きよう、訪ねてみえたS先生が、「宮澤賢治みたいですね」とにっこり。私、「え? そんな…」と絶句。

 午前10時から『東中新聞』の企画会議に参加。「新聞の記事は作文とは違う。しっかり取材をし、それを活かして記事を書きなさい」「取材する事柄について事前に十分に調べておき、インタビューにてかけること。何度でもインタビューに出向く覚悟・勇気が必要」と話した。
 暑い中、3年生を中心に取材の準備が進められた。校外の大人へのインタビューを担当する1、2年生は大変そうだ。

 「今、お赤飯を炊いていたら先生を思い出しました。先生は北海道が好きらしいので…、北海道ではお赤飯は甘納豆入りなんです」と、Wさんがお赤飯を持ってきてくれた。『新聞っておもしろい』講座に参加したWさんは、私が話した「六花亭(バターサンドのことも話したが…)の社内報のこと」を思い出してくれたのだ。
 「ビールのつまみは甘納豆」の私だから、今夜のつまみは「甘納豆のお赤飯」である。

 24、26日の『まほら東』の講座の準備に取り掛かる。夏休みは終わった。

きょう 立秋
【No.605】 2007年08月08日

 前日のうちに作業着や道具を揃え、「明日はあれをヤル!」と宣言しないと、この時期は戸外で働く気力はなかなか湧いてこないもの。きょうは垣根の刈り込みをするつもりだった。だが、歯の治療に行ったことでペースが乱れ、ダラダラ、グタグタの一日になってしまった。
 昨日、一昨日と動き過ぎたようで、両の手首から先がむくんでいる。刈り払い機のエンジンの振動も影響しているらしく、ペンを握ってハガキを書いたが、文字の直線は波打ち、行は右に曲がる。父が書いていた日記が、右に曲がっていたのと同じであることに気づいた。
 きょう、立秋。このまま秋になるはずはないのに、空には高層雲、そして吹く風もさわやか。そんな景色をエアコンの部屋から眺めていた一日。

夏休み
【No.604】 2007年08月07日

 8月3、4日、東京での新聞大会に出かけた。3日が出番だったので、終わって上野の居酒屋で8人による飲み会。
 いろいろな意味で強く心に残る大会だった。昨年の秦野大会と比べたりした。私の力など全く及ばない《新聞教育の未来》に、思いを馳せた。

 「毎日が日曜日」の私であっても、世の中に倣わなければと、5日から19日までを《夏休み》とした。(要するに、“仕事が入っていない”ということ)活動再開は、20日の東中学校で新聞づくりの指導から。

 5日、妻の教え子のSさんがネット上で『続寺山ものがたり』を見つけ、家族4人で買いに来てくれた。20代の、2児のお母さんが、地名や道祖神などこの地に興味を持ってくれていることが、私にはことのほか嬉しかった。
 6日、東中1年生のHさんが「西ノ久保の湧水はどこにあるのですか」と聞きに来た。夏休みの宿題として、寺山の湧水を採り上げるとのこと。

 さて、夏休みの私の昨日、きょう。
 昨日は庭の草取り。取った草は、穴を掘り埋めた。そしてきょう、サツマイモの蔓返し、里芋の土寄せ。でも、その作業の前の草取りが大仕事。炎天下、「汗はしたたる禾下の土」で、昼飯どき計ると3キロくらい減っている。明日からは垣根の刈り込み。これが私の夏休み。


8月6日
【No.603】 2007年08月06日

一本の鉛筆
詞 松山善三・曲 佐藤 勝・歌 美空ひばり

 あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
 あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい
 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

 あなたに 愛をおくりたい あなたに 夢をおくりたい
 あなたに 春をおくりたい あなたに 世界をおくりたい
 一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
 一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く

 一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く




8/3  全国新聞教育研究大会・東京大会
【No.602】 2007年08月01日

 8月に入ったきょう、梅雨明けが宣言された。待ちかねたように朝早くからアブラゼミが鳴き始めた。
 昨年の今頃は、第49回全国新聞教育研究大会を秦野で開くということで、私も動き回っていた。そのことが、はるか昔のことのように思え、懐かしい。
 その新聞大会が、今年は8月3・4日、東京の「かつしかシンフォニーヒルズ」で開催される。私は3日15:10〜17:00で「新聞講座・ PTA広報づくり」を担当する。50回という節目の大会で講座を持たせてもらえる。しっかりした話をしたい。
 私にとっては30回目になる東京大会への参加。全国から集ってくる新聞指導の先生方と会えるが楽しみ。会場近くの方、私の講座をのぞいてみてください。お声を掛けていただければ嬉しいです。
 秦野大会の事務局長の谷津先生から電話があり、勤務の都合で大会に参加できないから、昨年の秦野大会のお礼の言葉を皆さんに伝えてほしい、と頼まれた。
 今朝は4時半からHPの更新の作業。菊の苗を鉢に植え替えた。

海抜176メートルの夏
【No.601】 2007年07月28日

 海抜176メートルの夏の朝、未明・午前3時を過ぎるとカラスの鳴き声が。そして5時半ころになると、500メートルほど離れた松山からはオオルリの軽やかかなさえずりが届く。ウグイス、コマドリと共に日本の三鳴鳥と呼ばれているらしい。だがこの鳥の鳴き声は文字に表すのが難しい。「ピィーヒィーリリ、ピピヒィーリ、ジジッ」と『日本の野鳥』(山と渓谷社)にある。それにレパートリーも多いのだ。「ピーリーピリリリピイ、ギギ」と表している資料もある。夏鳥なので5月ごろはわが家の周りで鳴いていたが、松山に棲家を持ったのだろう。姿はなかなか目に入らない。
 その声に混じってウグイスの声も。ヒグラシなのにこの時間にもう「カナカナ カナカナ」もかすかに聞こえる。そういえば、庭の桜には未だアブラゼミは出で来ない。まだ梅雨明けではないからなのだ。昨日、初めてニイニイセミの声を聞いた。
 老木なのに元気な梅がたくさんの枝を勢いよく空に向って伸ばしている。その生い茂った葉がけから「ジーン」というか「キーン」と表したらいいのか、クビキリギスの鳴き声。この鳴き声は数年前から一年中私の耳の中にある音と同じ。この音が気になって耳鼻科を訪ねたら「加齢からです。気になるのなら睡眠薬を出しましょうか」と一蹴された。睡眠薬などいらない。庭の草取りを一生懸命やって、晩酌のビールの甘い喉越しを楽しめば、睡魔はすぐ訪れてくれる。今、このバッタにとても親しみを感じている。
 昨日は実働6時間の草取り。思ったとおりの仕事ができ満足。
 東京新聞のNIEのページに「秦野市PTA連絡協議会」の広報紙づくりのことが載った。

2007/7/23 神奈川新聞 照明灯
【No.600】 2007年07月23日

 きょうの神奈川新聞の『照明灯』欄は、私への大きな《エコー》だった。

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