三月の終りに 【No.751】 2009年03月26日
7時半頃からひとしきり本格的な雪、あまり記憶にないこと。しかし9時前にはすっかり春の陽射し。 ここ数日、市内22校のPTA広報全紙を読ことに集中している。30日締め切りで、1校あたり600文字程度の感想を書かなければいけないのだ。この講評は冊子になり、全校に届けられる。 1ページずつ目を通していくと、それぞれの広報委員会が持てる力を出し切って作っていることが分る。それだけに、こちらもまた精一杯の講評を書くことで、広報委員のがんばりに応えたい。 もう20回書いているが、この「講評書き」が私のPTA広報論の大きな支えになっている。 WBCにとりつかれた。生産組合長の引継ぎ、退職校長会の会計監査など年度末の仕事をした。一方では4月3日に行なう「大山道を歩く」の準備を進めている。里芋を植えないといけない。今夜がんばり、『エコー』の出稿は明日したい。 桜は「待つ花」ともいわれている。3月は「去る」だが、今の私は「待つ心」。
|
|
市PTA広報紙コンクール 今回は部門賞を設定 【No.750】 2009年03月19日
18日 秦野市PTA広報紙コンクールの審査。審査員はP連会長、教員代表の校長先生、P連だよりを編集してきた情報委員7人、それに私。 午前10から午後4時まで、22校が発行した100余の広報を全紙読む。今のPTA広報はA4班が主流。12ページ建てという力作もあるので、総ページ数は400を超えているだろう。昼休みの時間もほとんど取らないで紙面に向った。こうしてまとめて読むと、充実した内容のものが多い。それで、自然に紙面の隅々まで目を通すことになる。 秦野のPTA広報の力量は全国でもトップレベル。全国PTA広報コンクールにあって、ここ8年間上位の5賞に8回入賞している。だから「市のコンクールに入賞するのは大変」と言われているようだ。それで、今回が20回という節目のコンクールでもあるので、上位表彰以外に部門賞「企画」「記事」「レイアウト」「写真」の4賞を設けた。 これ等の特別賞は、「第〇〇号の△△ページに対しての賞」と明示することにした。この部門賞は、関わった委員に大きな自信と喜びになったと思う。また、次年度の広報委員に参考になるだろう(既に次年度第1号に取り組んでいるところもある)。 きょうから24日まで、本町公民館で全応募紙の展示会が開かれている。
19日 菜の花が満開の隣りを耕す。そうしたらミツバチに唇を刺された。春だ。もう遅いのかもしれないがジャガイモの種を植える。足も腰もガタガタ。 小学校は卒業式。校庭に鼓笛隊の「蛍の光」が流れた。春です。
|
|
ふるさと 【No.749】 2009年03月16日
15・16日に東中学校の同窓会。参加は34人。数年前から毎年の開催になった。万年幹事だから、定宿になった箱根湯本『Y』に4時に入る。受付けのテーブルに背中を向けて、会の進行のプログラムを作っていたら、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。 「勝美さん、来ていられる?」、振り返って声の主を確かめた。なんと、わが家の隣りのTさんである。「Tさんじゃない、何 きょうは」と私。 聞いてみると、中学時代の仲間10人ほどで、毎年1回集っているとのこと。 宿の「ご宿泊」のボードの「東中学校第5回卒業生同窓会様」を見て、私がいると思ったのだそうだ。Tさんもまた、新制中学の第5回卒業生だからである。その夜の宴会の席も隣同士だった。 「好きになった人」で私が前座を務め、全員がステージに立ち「星影のワルツ」で別れを惜しみ、東地区に生まれ育った仲間であることを喜び「故郷」を合唱した。
東公民館の地域講座『大山道を歩く』の参加者募集が3月15日付けの「広報はだの」に出た。きょう・16日の朝10時に担当のIさんから電話が入り《即日満員》とのこと。 今回は「寺山の里の暮らし」をサブタイトルにして、お花見を兼ねたウオーキング。わが家の桜もコースの中に入れた。 “桜の見ごろ”を予想し、4月3日をその日に設定したのだが、ここ数日の天候から開花がかなり気になる。きょうはすっかり春、蕾のふくらみがひときわ進んだように思える。
|
|
第62回東中学校卒業式 【No.748】 2009年03月10日
やがてその姿を消す定めにある旧体育館が竣工したのは1965年4月だった。竣工式の前だったが、教委の計らいで3月15日に未完成の育館で卒業式を行なった。その体育館での記念すべき第1回の卒業式に、私は担任として卒業生を送り出した。式が終わって体育館を出たら小雪が舞っていた。 昨年・2008年3月11日、その体育館での最後の卒業式に招かれて列席した。送辞の中で「新聞作り」が語られた卒業式だった。 きょう、2009年3月10日、2月に竣工したばかりの新しい体育館で第62回卒業式が行なわれた。並んで建つ古い体育館の二倍の広さの会場に、卒業生が歌う『青葉の歌』が柔らかに流れた。
きらめけ青葉よ/さわやかにそよげ心よ いつかきっとそんなふうに/明るい日ざしのような愛で 世界中をつなぐ日が/きっときっとやってくる
きらめけ青葉よ/さわやかにそよげ心よ きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を いつかきっとこんなふうに/光が声になって燃えたち 世界中のみんなの手を/もっともっとかたく結ぶ きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を
世界中をつなぐ日が/きっときっとやってくる きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を 心を 心を 心を 心を
体育館の外は、彼らの旅立ちを祝う陽光でいっぱいだった。
|
|
全力投球 全力疾走 【No.747】 2009年03月05日
きょうもまたPTA広報の年度最終号が3紙届いた。既に10数紙読ませてもらっているが、送られてきたそれらの全てが“その気”で作られている。 この時期に発行されるP広報紙は「あいさつ特集」で“お茶を濁す”のが普通だが、いただいたどの紙も全力投球」「全力疾走」である。 S中のIさんは、こんな手紙をつけて、講評を求めてきた。 「いつものパターンの紙面になってしまいました。そのことを指摘されるのは辛いですが、また講評をお願いします」。 そのIさん、来年度は小学校で広報を作るとのこと。「どうせ委員をやるのなら広報を」と立候補したのだそうだ。そのわけは、「広報委員が楽しく活動をすることで、PTA活動に対するイメージを変えたいと思ったから」だ。 昨日、お隣の東中の広報委員の4人が、最後の号を持って訪ねて来た。彼女たちが底抜けに明るかったのは、解放感だけでなく、最高のものを作ったという自負があるからだった。 H小のMさんがきょう最終号を持ってきた。6年間、広報に関わってきたとのこと。その160号は、まさに「有終の美」にという言葉がふさわしいほとの出来だった。 広報づくりに楽しさを見出し、そして今は達成感に浸っているお母さんたちに心からの拍手を送りたい。
|
|
きょうは「ひな祭り」 【No.746】 2009年03月03日
パソコンで3000字ほどの文を書いていた。母屋から昼飯のコールが子機に入る。それで「保存」をクリックし、立ち上がりながらデスクトップを見た。ない! 「保存」が出来なかった。 あわてた。悲しくなった。『検索』ポチ君が尻尾をふりふり、鼻を利かせて探してくれたが、「検索を完了しましたが、何も見つかりませんでした」が答え。この間、再三再四のコール。それを無視したら、今度は母屋の方が《無視》ということになった。 30分も過ぎて食卓に着いたら、妻からキツイ言葉。用意された昼食は、餅が入った本格的なお汁粉。すっかり延びた餅がおわんの底にへばりついていた。きょうは「ひな祭り」だった。
|
|
角谷戸のフキノトウ 【No.745】 2009年02月26日
診察室を出た。次の患者は谷口さんだった。「おはようございます」と挨拶を交わす。ちょっと間を置いて谷口さんが「これ、食べるけ?」と手元にあった紙袋からポリ袋を取り出す。袋一杯のフキノトウだった。 「エッ、フキノトウ! 食べる 食べる! こんなに! いいの? 貰って」とわたしはすっかり興奮。谷口さんはもう一袋取り出して見せて、「(歯の)先生の分はあるから、よかったら持っていってよ」とはにかみ笑い。「ウチの回りにいっぱい出てね、今年は早い」。 谷口さんは寺山の住人、住んでいる所は「角谷戸」で、寺山地区の奥まった集落である。「寺山」は「テーラヤマ」が語源。『テーラ』とは「平(タイラ)」。「寺山」は「照る山・陽が差し込む山」という解釈もある。 なだらかな寺山・角谷戸の台地に、早春の陽光が差し込みフキノトウは豊かに育った。いち早く、わたしは春をいただいたのだった。 晩酌のつまみにと茹でてもらった。甘味噌でいただいた萌葱いろのフキノトウには、かすかな香りが残り、しっかりとした苦みあった。酒は「東魁盛」、寺山のフキノトウにぴったりの銘である。
|
|
みちしるべの会で屈掛不動尊を訪ねる 【No.744】 2009年02月23日
昨22日、「まほら秦野みちしるべの会」の2月の活動として、千村地区の実地踏査を行なった。 『矢倉沢往還』の西からの秦野の入口に祀られている「屈掛不動尊」を訪れのがこの日の目的。千村の小野さんに案内をお願いした。以前尋ねたときには見つからなかった泉蔵寺にあるはずの大山道の道標を2基を確認できた。これは大きな収穫。 参加者は16人。暖かな陽射しに恵まれ、1万2千歩のウオークも楽しんだ一日だった。
『ライブカメラ』の整備をしました。アクセス機能は充実!! 松田町の河津桜など眺めてください。もちろん、本家河津町の河津桜も見られます。
|
|
第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果(09/2/20発表) 【No.743】 2009年02月21日
第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果(秦野市関係) 09/2/20発表 主催 毎日新聞・全国新聞教育研究協議会など
☆学校新聞の部 優秀賞・DNP賞 『東中新聞』 東中学校 新友会パピルス賞 『東中新聞』 東中学校 ・『東中新聞』はダブル受賞。
☆学級新聞の部 佳 作 東中学校2年2組 南が丘中学校3年2組 奨励賞 東中学校1年3組 東中学校2年4組
☆学習新聞の部 全国新聞教育研究協議会賞 東中学校1学年 奨励賞 東中学校2学年
☆PTA広報の部 最優秀賞 本町中学校PTA 佳 作 渋沢中学校PTA ・本町中学校PTA『丹沢の風』は二年連続の最優秀賞です。
◎東中学校は、学校・学級・学習の三部門で入賞。 ◎今回も秦野市はP広報の部を含め、全部門で入賞を果しました。
表彰式は2月28日、毎日新聞東京本社でおこなわれます。『東中新聞』、学習新聞の東中1学年、それに本町中Pの『丹沢の風』の編集者が招かれています。
このコンクールの全ての結果は、『エコー』のホームページのリンク集 の「全国新聞教育研究協議会」にアクセスすればご覧になれます。
|
|
民・児協広報部会の研修会 【No.742】 2009年02月19日
秦野市の民生・児童委員協議会広報部会から、機関紙づくりの講座の講師に招かれた。13人の編集委員さんは、午前中はわたしの講座、そして午後は4月1日発行号の編集作業と、きょうは一日の活動。「機関紙は文字通り、会の機関車・活動の原動力」と、先ず訴えた。「民」という文字の字源を最後に紹介し、委員さんの活動にお礼を申し上げた。 講座のあと、発行権、肖像権などの質問を受けた。意欲的な声もいくつか聞くことができた。地域で委員としての本務の活動をしながらの機関紙発行のご苦労に、あらためて感謝の言葉を申しのべ退室した。
|
|
今 朝 【No.741】 2009年02月18日
「早寝早起き」を心がけているわけではない。いつの間にか、就寝9時、起床4時半になっている毎日。こうして、間もなく““昼夜逆転”の生活に入るのだろう。 今朝も5時にテレビを点け、『知るを楽しむ』の再放送を観る。水曜日は「人生の歩き方」で、今月はシンクロの井村雅代さんの登場。今朝の話は、中学校の教師からシンクロ専任コーチに転進するきっかけの話だった。 荒れた学校での生徒指導に全力投球をしていた井村さんは、コーチの話がきたとき同僚に相談した。するとその同僚が「あなたしか出来ない方をとりなさい。学校は、あなたがいなくなって困るかもしれないが、代わりはいる。あなたと同じような生徒指導はできないかもしれないが、わたしたちのやり方であなたの代わりをする」と言ったという。
5時半からは同じチャンネルで『NHK俳句』。今週の担当は正木ゆう子さん。番組の中の「ビギナーズコーナー」で、正木さんが紹介した一句。 冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子 ガンに侵された医師である相馬さんが亡くなる10日ほど前の作品で、辞世の句とのこと。
井村さんに「わたしたち流であなたの代わりをする」と言った先生の言葉、そしてこの一句が異常なまでにわたしの心をゆさぶった今朝。
|
|
春一番 【No.740】 2009年02月14日
2月13日 『春一番』が寺山にも吹いた。 お隣の東小学校の5、6年生から音楽会に招かれた。昨年6月、6年生に東地区の文化や歴史について話をした、そのお礼とのこと。 5年が3、6年が4の全7クラスが、それぞれ器楽の演奏を披露してくれた。保護者もたくさん聴きに来ていて、会場の体育館は満杯状態。 子供たちの選曲なので、プログラムは変化に富んだものだった。楽器を奏でるその姿は緊張感一杯。10数種類の楽器が使われていた。私の現役の頃には、中学校でも全く見られなかったステージだ。 出番が終り自席に戻る時の子供たち私の前を通る。どの子の顔も満足感・成就感でさわやかな笑みに満ちていた。担任の先生とハイタッチする男子がその象徴のように思えた。 6年生の全員合唱「旅立ちの日に」は、男子の声がよく響いてきた。少しジーンとした。嬉しい1時間半だった。 『春一番』とは、海が荒れることを警告する気象用語だが、きょうの音楽会は、子供たち、保護者、そしてわたしにとっても「春が来たよ」と呼びかける『春一番』だった。
|
|
初午 白笹稲荷のお祭りの日 【No.739】 2009年02月07日
わが家は2月1日が『お棚納め』の日。この日の朝、神棚などに白米のご飯を上げ、お灯明を点ける。そして1月中、ずっと飾られていたお注連などの正月飾りを下ろす。 今日は初午、秦野の白笹稲荷のお祭りは、今日初午の日に行なわれる。この祭りに合わせ、わが家では正月飾りを畑で『お焚き上げ』する。 『稲荷さん』は、その文字が表しているように「稲を背負ってくる」神さまだから、豊作の神さま、農業の守り神である。元旦、「この一年わが家に福をもたらすように」と迎えた年神さまを、今朝の『お焚き上げ』で山にお送りし、豊作の神・稲荷さまと交替してもらうのだ。 霜柱の立っている朝の畑で注連飾りは勢いよく燃えた。かすかに藁の匂いのする煙が細く立ち昇った。午後、耕運機を始動させ、今年初めての農作業の真似ごとをした。 夜、教員OB会の新年懇親会。30数名の参加。加齢と共に世間とのかかわりが減る、体力、気力も弱まっていく。それが現実だからこそ、こういう会は嬉しい。懐かしい顔が元気であれば、いっそう楽しい語らいができる。今の学校教育について論じなどすれば、明日への活力になる。午後5時開会で2時間の宴は『歳相応』の宴だった。
|
|
PTA役員をやってみたら 【No.738】 2009年02月02日
その理由には触れないが、「小学生のころから、ずっと先生をさめた目でみてきた」と言うTさん。子供が小学校に通うようになり、授業参観に出かけても、いつも距離を置いて先生を見ていたとも話す。 「でも、広報委員になって、頻繁に学校に行くようになり、先生の見方が変わりました。授業参観とは違う、先生や子供の普段の姿が見え、先生方がこんなにがんばっているんだ、と思うことをたくさん目にすることができたからです」。 一保護者としては、そのハードルは高いが、PTA役員・委員としてなら比較的楽に学校に足を踏み入れることは可能かもしれない。Tさんのような経験は貴重だ。この時期、PTAは次年度の役員・委員の選出がすすめられているのだろう。親としても成長できるそのチャンスを逃す手はない。
|
|
千昌夫とナガヌキ 【No.737】 2009年01月30日
演歌大好き人間のわたし。終戦後はやり始めた青年会活動での歌謡舞踊で聴いた田端義夫から始まり、春日八郎、女性歌手では、八代亜紀、都はるみ、昨夏は甲府での吉幾三コンサートに出かけた。―ああ、なんと“ド演歌”! でも阿久悠の詞は好きです。ジュセッペ・ディ・ステファーノの「カタリ」が歌えるわたしです。
昨日、JAはだの主催の「千昌夫ショー」に出かけた。貯金・共済事業45周年記念ということで昨日と今日の2日間の4回興行で5千人を集めるとの挨拶があった。 千の知られている歌の一つに「味噌汁の詩」がある。昨日も二曲目に登場。「へぇーそおか おまえさんも東北の生まれか」というセリフが入る歌。この「東北」という部分を『ナガヌキ』と入れ替えた千に会場が沸く。 このステージに招かれた東地区の中の一地名である『ナガヌキ』は、「名古木」と表示される地名の読み方・呼び方で、難読地名で有名?なのである。「東北」を、その興行先の地名に置き換えるなら「秦野」くらいだろうに、『ナガヌキ』。こんなところに彼の芸人の心意気、年輪を感じた。 『北国の春』を会場に唱和を求めた千に、ナガヌキの人たちを含め秦野人は大合唱で応えたのだった。 ステージ終了後、千が立つCD売り場のヒートアップぶりは、『ナガヌキ』効果か。 昨夜と今日の残り3ステージで、千はどの地名を使ったのだろうか。興味深い。
|
|
Kさんからのたより「北野天満宮に行ってきました」 【No.736】 2009年01月28日
一昨日・26日の『辻の天神さん』に応えて? Kさんから次のようなメールが届いた。
超メジャー所、北野天満宮に行ってきました。 24日、金閣寺に向かうバスを途中下車し参道を歩いていると、屋台の準備をするお兄さん達やシートに覆われた屋台に、「あ、明日が初天神か」。さすがにこの時期、受験生らしき親子連れも多く、お参りの列に並んでいると、前にいたおばあさん同士の会話。「孫が受験なんだけどね、どこを受けるか分からないから、お願いの仕様がないわよね」「そんなの、『高校受験合格』ってお願いしておけばいいのよ」。ちょっと距離を置いて心配しているおばあさんの気持ち、きっとお孫さんに伝わるでしょうね。年末年始、京都に残った娘のために救援物資を送ってくれた実家の母を思いました。 丑年の今年、歳男の夫のために牛の置物を。おみくじは小吉なれど、「限りなき恩涯(おんがい)止足(しそく)を知る――限りないご恩を授かるけれど欲張ることなく止まる処と満ち足りることを知れとのお諭しのお詩です。ともすれば我意を通し高慢になる心を捨て去り、誠と謙譲の心で事に当たれば遠からず気運は上昇します」。お守りにと持ち帰りました。 強い北風に雪がちらつき、京都の人でも「今日は寒いですね」という中、一人で気ままに巡って、「わら天神」と「八坂の庚申堂」は思わぬ発見でした。天満宮の宝物殿、金閣寺の方丈、東寺の五重塔の内部、東寺観智院の上段の間、高台寺の開山堂。冬は特別公開の季節らしいです。 それにしても、ボランティア(?多分)ガイドの方たちの知識の深さに感激しました。そうそう、観智院でひいた愛染明王のおみくじ(ちりめんの小袋入り)には大きく「聞く」の文字。「なんでこんなに私にドンピシャなの」と、これも持ち帰りました。
|
|
親方 六道 天神さん 【No.735】 2009年01月26日
24日 清水生産組合の総会。次期の役員の改選と懇親会。4年間務めた生産組合長の任期も間もなく終わり。あまりよい組合長ではなかった、とお詫びする。 後任は40代の雅博さんに決まる。父親の一夫さんが「そろそろウチの順番だろうから、息子にやらせる。農業の方も頑張ってもらわなければいけないから」と名乗り出てくれた。63人の組合員の中で米作農家は5軒。その内の一軒が一夫さん。雅博さんは会社勤めだが、休みの日に田畑でその姿をよく見る。田畑を管理・維持するのはたいへんなこと。良い組合長が決まった。 懇親会の席、一夫さんに「親方が先ず歌わなきゃあ」と言われ、“親方”のわたしはマイクを持った。歌ったのは、いろいろな反省を込めて「よせばいいのに」。この歌はわたしのテーマソングである。
25日 母の三回忌の法要を行なう。この世の人は、死後初七日から三回忌まで10回の裁判を経て、最終的に六道と呼ばれている地獄など六つの世界のどこかの世界に行くかが決まるのだそうだ。 この日、法要に集った親族・縁者の話をまとめると、「ばあちゃんは10回の裁判なんて受けていないよ。第1回の裁判を受ける前に『わたしの行く所は極楽!』と言って、さっさと極楽に行っているはずだ」ということになった。そうであって欲しい。 25日は天神様の祭りの日。朝のうちに「辻の天神さん」にお参りに行ってきた。「辻の天神さん」は60年ほど前までは、東中学校の校庭にそびえる大公孫樹の下にあった。武完さんの個人持ちのお宮だが、その頃は清水の子供たちが神主役を務めた。東地区の人たちがお参りにみえ、けっこうにぎわった。今は、東秦野郵便局の前、幼稚園の駐車場の入口に遷宮されている。 昔と変わらぬ幟が立っていた。当主の完さんから「天満天神御璽」のお札を頂いた。 今日26日、完さんに参詣者の数を聞いたら「数人だけ」と、寂しそうだった。湯島や鎌倉の天神さんはにぎやかだったようだ。今の世、メジャーにばかり関心がいってしまう。近くにある天神さんこそ、ご利益があると思うのだが…。
|
|
お上りさん 【No.734】 2009年01月19日
車内を見回し、「やっぱりわたしが最年長のようだ」とつぶやく。特にラッシュ時に電車に乗ると、必ず生じるわたしの所作、そして心に浮かぶ言葉。 「今ここで倒れたら“恥”だなあ。いい歳して、って笑われるだろうな」という怖さみたいなものも感じている。ビジネススーツで装っているわけではないが、手にするバッグはビジネスマン用。バッグを背負うときは、若向きのコートを羽織る。こうして、外観から元気づけ、心を高め、東京に乗り込むわたし。今月は三回東京に行く。 会場には30分早く着く主義。都内の地下鉄の乗り換えも今のところ苦にはならない。まだ“お上りさん”ではない、と思っている。特に新聞のことで上京するときは、まだ現役であることを少し誇らしく思う。
|
|
1月13日はこんな日 【No.733】 2009年01月14日
十数年来、正月の三日にわが家を訪ねてくれる教え子のMさんが、今年は今日来てくれた。介護の仕事なので日程から今日になってしまった。 Mさんがこの仕事に就いたのは数年前、昨年秋にケアマネージャーの資格を取った。仕事のようすを聞くと「大変なこともあるけど、わたしはこの仕事が好きなんです」と言う。「わたし、人が好きなんです。このお仕事はいろいろな方に会えます。皆さんから、いろいろなことを学べます。それが嬉しい」とも。年齢は50歳、末っ子の高校受験も心配なMさんだが、明るい笑顔で帰っていった。 夕食後、明日の「ダンゴ焼き」のダンゴづくり。老夫婦二人の生活だが、わが家の年中行事は、元気なうちは続けていく。同級生のKさんが届けてくれたお米の粉で、赤白二色のダンゴを蒸かす。茹でる方法もあるのが、ウチは蒸かす。妻が少し多めに食紅を使ったので、今年の赤は見事? 12日に伐っておいたコナラの枝にダンゴを刺す。 14日に作る家がほとんどだが、わが家は13日。神棚、仏壇、荒神さん、およべっさん(恵比寿・大黒天)に飾り、お灯明をあげる。明日、焼きに持っていくダンゴも針金に通し、竹に吊るす。わたしの仕事部屋にも一枝飾った。
|
|
『ぬくてえ』心になれる政を 【No.732】 2009年01月09日
高山市に「のくとい館」という建物がある、ときょうの朝日新聞が書いている。飛騨地方の方言で「温かい」という意味を表す「“のくとい”館」は、豪雪地帯のこの地方のお年寄りが冬場だけ一緒に暮らすファミリーホームのこととある。 信州から甲州、そして相模の西北部で使われている方言には、似たものがかなりある。わたしの子供の頃、お年寄りが「温かい日」だと、きょうは『ぬくてえ』なあ」と挨拶を交わしていた。 「のくとい」は、たぶん「のくてえ」を文字化したから出たていねい語だろう。秦野の『ぬくてえ』と同じ言葉だ。
わが国の総理が「配られる給付金に自分のお金を足して盛大に使ってください。今の景気を回復させるきっかけになりますから」と一生懸命説いている。でも、ご自分はパッと使うとはおっしゃらない。税金を給付金として配る政策なのだから、国のトップは“率先垂範”、「わたしも盛大に使います」と言えばいいのに。 ある大臣のように「うまいものを食べるよ」と笑えるような、そんな世の中ではないから、総理ご自身は「バッと使う」と言えないのだろうが…。 誰もが『ぬくてえ』心になれる手立てを講じることが政治ではないのか。 みぞれ交じりの雨の日に思ったことです。
|
|
新しい年 動き出す 【No.731】 2009年01月06日
厚木の長谷寺・飯山観音に初詣。ここには妻の実家・佐藤家の墓所があるので、墓参も兼ねて結婚以来毎年松の内に出かけている。5日ということで、参詣客はそれほど多くない。帰りにいつもの中華料理店でラーメン。いつもの一杯が食べきれない。 午後、原稿を書く準備。資料として使いたい新聞類をあちこちから探しだす。このごろ強く感じることだが、大切な資料ほどどこにあるのか分からなくなってきている。全て目の前に置かなければいけないような、記憶力の減退。三時過ぎ、Kさんが「新年のご挨拶に」ということで来訪。彼女の今年の夢、たぶん実現可だろう夢の話をうらやましく聞く。H先生が、頼んでおいた資料を持ってきてくれた。
全国新聞教育研究協議会の事務局からファックス。きょう届いた年賀状の中に新聞形式のものが三通あった。吉成さん、香山さん、武藤さんのお三方からで、いずれも新聞教育の優れた指導者。見事な出来だった。
わたしにもあたらしい年が動き始めた。今朝の朝日歌壇の一首。 過ぎし日を記すにあらず明日へのふりだしとして日記書きをり 田浦 将
|
|
続 箱根駅伝 【No.730】 2009年01月05日
1月3日 「お願い:大学はスタート・ゴール地点での集団(応援指導部含む)による応援及びコース全区間での手旗・横断幕・職等、東洋大学名の入った道具を使用しての応援は行わないことを決定しました。つきましては、卒業生の皆様におかれましても事情ご賢察の上、明年の第85回東京箱根間往復大学駅伝競走においては、集団での応援、手旗等を使った応援は控えていただきたく、ご理解の程よろしくお願いいたします。 平成20年12月 東洋大学」
テレビが、まもなく東洋大学の総合優勝が決まるというときを映していた。アンカーが入ってくるのを待つ部員たちが校歌を歌っている。だが、それは校歌ではく、「東洋大学」という校歌の一節を繰り返していてるだけだった。 優勝のテープを切る前、高見選手は肩に掛けた襷の校名の部分を握りしめゆすった。そしてテープを切り小さくガッツポーズ。あるはずの歓喜の胴上げはなかった。その代わりに彼らがしたことは、部員全員で走ってきたコースに向って頭を下げたことだった。新聞によれば「10分前に話し合って胴上げはしない。みんなで一礼しよう」と決めたのだそうだ。「お願い」をしっかり履行した部員たちだった。心技体の総合優勝だった。
|
|
箱根駅伝 【No.729】 2009年01月04日
2日は“お年始”。二組の妹夫婦などを迎えちょっとした祝宴を開くのがわが家のお正月の慣わし。その仕度で朝から台所は活気に満ちていた。 今年は一升の太巻き寿司を巻いたわたし。妻は筑前煮を大鍋で炊いているのだが、落ち着かない様子。その台所に、朝から箱根駅伝の実況放送が響いていた。 妻に届いた年賀状の中に「お正月、二日・三日は文化放送で箱根駅伝・戸塚中継所の実況を担当します」という添え書きがある一枚があった。教え子のフリーアナウンサー槙嶋範彦さんからのものだった。 花の二区は今年もモグス、ダニエルの快走、そして、竹沢や佐藤など各校のエースが揃った三区への引継ぎ点が戸塚中継所。だから彼の実況も若々しく、情熱的で圧倒的だった。完全に手を休め聞き入っていた妻は「よかった」「凄い」を連発し、すぐに彼の実家に電話を入れ、これまた興奮気味にその喜びを伝えていた。
|
|
『寺山ものがたり』の締めくくり 【No.728】 2008年12月31日
30日 今年最後の生産組合の仕事で集金に回った。向原家は庭で餅つきをしていた。臼と杵を使い家族総出で楽しそうだった。懐かしさと同時にうらやましさを感じた。時間の余裕があればひと臼搗かせてもらいたいと思った。集金を終え帰ろうとしたら「ひと臼もっていきなよ」とご主人の光ちゃんが伸し餅を一枚くれた。 搗きたての餅をおし戴くような形で県道を300bほど歩いて帰った。今年の『寺山ものがたり』を締めくくるのにもっともふさわしい光景だと思った。
29日 午前中は玄関の掃除。掲げてある「松倉絵馬」を正月用の「津軽凧絵」に掛け替える。そして信楽の倉田さんから贈られた干支の「丑」の焼き物を飾る。倉田さんは『エコー』の最初からの読者。毎年、信楽焼きの干支をプレゼントしてくださっている。床の間に飾ってある過去に頂いた干支は数えて23。
28日 暮の大掃除で最大の難所は応接室。ここには昔集めた郷土玩具が300点ほどある。それを全て拭き掃除して並べ替える。土人形、グイノミなどの壊れ物がかなりあるし、張子類も時を経ているのでもろくなっている。二人がかりで半日は必要。「わたしがいなくなったら、どうするのだろう」などと余計なことを考えながら、手にした一つずつの思い出をたぐりよせていた。
26日 夕方Hさんが訪ねて来た。東中新聞の委員長だった娘さんのUさんの進学先が決まったことの報告にみえたのだ。あの難関のC大学の法学部だという。部活はダンス部で、全国大会まで出場するようなガンバリっ子。我がことのように喜んだ。 今年、教員になったCさん(彼女も東中新聞の委員長だった)から「お久しぶりです」とメール。「周りの先生方に迷惑をかけ、助けていただいて、ようやく今年が終わりました。去年まで暮はバイトで大忙しだったのに、今年は。話をしたいです。」と書いてあった。
|
|
東中生が選ぶ今年の一字 【No.727】 2008年12月26日
きのう届いた『東中新聞』877号(208/12/24)に「どんな年だった?2008年」という記事があった。
学校の年度はまだ続きますが、今年2008年はもうすぐ終わります。どんな年だったでしょうか。年末恒例の「今年の漢字」には『変』という字が選ばれました。そこで、「東中生が選ぶ今年の一字」をアンケートしました。 三位は『笑』、笑顔あふれるクラスっていいですね。二位は『疲』、行事に勉強に忙しかった! そして一位は、ダントツで『楽』でした。皆さん楽しく過ごせたようですね。一年生は、中学生になり『初』も多かったです。 2009年も楽しく、良い徒しにしましょう。よいお年を…。
|
|
ナバナ 【No.726】 2008年12月24日
冬至の日・21日の「NHK俳句」で第一席に選ばれた句 どの枝も冬芽豊かに大桜 大坂 正
庭の桜はまさにこの一句のとおりだ。蒼い冬空の下、びっしりと冬芽をつけた枝を四方八方に伸ばしている。畑のネギが冬の陽光を求め、全ての株が南に向けてその青く太い葉を輝かせている。 『一陽来復』、もう春を待っている自然界。太陽の力は冬至の日まで徐々に弱まり日射しは弱くなり、日の照る時間も短くなる。そして冬至を境にその陽光は再び力を持ち始める。 10月に蒔いたナバナを摘み、おひたしにした。
|
|
自治会のあゆみ『てらやま』の発刊 【No.725】 2008年12月22日
寺山自治連合会が、自治会のあゆみをまとめ『てらやま』という冊子を発行した。手づくり・64ページから、寺山のさまざまな生活を読み取ることができるが、とりわけゴルフ場の開設や東電の幹線の通過、さらに県道、市道の整備などに苦心された先輩諸氏の話には深く感じるものがある。 「次への礎になれば」とあとがきにあるように、この冊子は寺山に住む者にとって大切な資料であり、指針てある。 良い仕事をなされた今期の自治会長さんの皆さんに、心からお礼を申しあげたい。
昨日、京都で行なわれた全国高校駅伝の女子の部に母校・秦野高校が出た。5回目の今回は神奈川の代表ではなく、関東地区の代表で出場。17位だったが、関東地区からの参加校8校の中で3番目の成績。3年生一人というメンバーだから、来年・再来年が楽しみ。
|
|
小坂顕太郎詩集『五月闇』」 【No.724】 2008年12月19日
12月18日 『ECHO』の読者である岡山のKさんから「小坂顕太郎詩集『五月闇』」をいただいた。巻頭から「あとがき」に至るまで、全ページから言葉の持つ力が伝わってくる。当然のことだが、詩人は繊細、しかも饒舌。私はこの詩人の心を受け止めようと必死。 山北町に住むNさんが、わざわざ「道祖神祭り」の資料集5冊を持ってきてくださった。「山北町の道祖神祭りは山車が出る」、そのことにとても興味があったので在住のNさんに尋ねたことが、きょうのようなご迷惑をかけることになった。申し訳なかった。さっそく読ませてもらった。
|
|
新聞づくりは仲間づくり 【No.723】 2008年12月16日
新聞の仲間のYさんはとは30年以上のお付き合いがある。そのYさんが秦野で飲み会をしたいという。Yさんは常磐線沿線に住んでいるから、秦野で飲めばそう簡単には帰れない。それなのに、「秦野で」と言うのだ Yさんが「秦野で」と言うわけはいくつかある。一つは、3年前の全国新聞教育研究大会・秦野大会で秦野を訪れ、秦野の新聞づくりの実力を知ったこと、加えて街の真ん中を川が流れる景色が気に入ったこと。二つ目のわけは、数年前から秦野に移り住んだ従兄弟を訪問するため。そして、三つ目、これが最大の理由であるのだが、秦野でPTA広報作りで頑張っているKさんが同郷人であるということ。 私は、KさんとYさんは山形の左沢線沿線の生まれであることを知り、秦野大会の全国交流会で二人を引き合わせた。(まるで仲人みたいだ)この二人は、11月の私の講演会の後の懇親会でさらに親しくなった。そして、なんとYさんの従兄弟はKさんと同じ町内に住んでいることが判明したのだ。 あまりの愛縁・奇縁、いや宿縁? 「武さん、秦野で飲み会をやろう。秦野で新聞の話をしよう。Kさんに幹事をやってもらって」と、Yさんは騒いだのだった。 昨夜6時に秦野駅前を流れる水無川のほとりの居酒屋に集ったのは、遠来千葉からのYさん・古希の人、KさんとSさん―秦野大会の速報作りに大活躍したお母さん、そして私。3時間ほどの宴だったが、「NIEを大人の世界に」などという新聞教育の未来について話に熱が入ったのも場所が秦野だからだろう。
店を出た。居酒屋の上は学習塾なので、勉強が終わった中学生が数人と一緒になった。私を覗き込んだ女生徒が「こんばんわ」と明るく声を掛けてくれた。私が新聞づくりの指導に出かけている東中の生徒たちだった。「いい子たちだろう。これが秦野なんだよ」と、自分にも言い聞かせながら、Yさんに向って高らかに声を発した。
|
|
広報から新聞へ 頑張った情報委員会 【No.722】 2008年12月14日
昨夜8時過ぎ、市P連の情報委員長の石田さんが『情報委員会だより』を持ってみえた。午前中に校正をして、午後から印刷に入り、今作業が終わったところ、とのこと。新聞ソフトを使っての手作り、もちろん、印刷も学校の印刷機を借りて、である。 A3判の2ヘージ、発行部数は1万部。昨日は土曜日、印刷機をの使用を許可してくれた学校、そして一日、その印刷に関わった情報委員の皆さんのがんばりが凄い。留守番をしていた子供たち、家族にも頭が下がる。 「家に子供を置いといて、何がPTA活動だ」という声をときに聞くことがある。だが、情報委員は各単Pの代表者だから、「出たからにはその務めは果たしたい」と思っている皆さんなのだ。 「伝えるだけの紙面(広報)から、考えてもらう内容(新聞)を意識したこの号の制作は大変」だったらしい。 今号の特集は「帰りたいお家」、そして市内9中学校の校歌、校旗、校章の紹介。見出し、記事、そしてレイアウトと、全てに十分に時間をかけた、読みたくなる『たより』だった。
|
|
葉牡丹 【No.721】 2008年12月07日
「マンスリーエッセイ」の11月号に書いた『父は野良歌人 桐生雄』の長男・正彦さんが訪ねて来た。正彦さん手づくりの「雄さんの歌集」を「神奈川新聞に送ったら」と勧めていたのだった。それで「届けたらコラムで取り上げられた」との報告にみえたのだ。新聞社に書いた手紙と掲載紙、それにヒラタケ、ナメコ、シイタケ、葉牡丹の寄せ植えをいただいた。 「父が栽培していたキノコを引き継いでいます。葉牡丹は種から私が育てたものです」という言葉が嬉しかった。
|
|
12月です 【No.720】 2008年12月03日
実りの秋を締めくくる11月の最終週はホームページ「ECHO最新号」に書いたとおりの充実した日々だった。それにしても、この「寺山だより」の空白は…。
12月に入っての生活 1日 市P連情報委員会A班の編集会議に参加。発行予定は今月中旬。忙しい12月に会わせての追い込み。 2日 同B班の企画会議に参加。こちらは来年2月の発行。きょうから庭師が入る。グタグタした生活を見せたら申し訳ない。COVENTRYへ“クリスマスのご挨拶”を送る。 3日 30日の「大山道を歩く」で講師を務めた山口さんが来る。タコーチ山の“錦秋”は、陽が傾くにしたがっていっそう映える。
|
|
秋深まる寺山 【No.719】 2008年11月21日
「ルノアール」での講演会に行ってくれた相原明美さんが、講演のすべてを収めたDVDを作って持ってきてくれた。二枚あるので希望者に貸し出しをしようか。深謝。 きのうのこと、出かけようと車のエンジンを始動させた。まったく回らない。バッテリーが上がっていた。ガソリンの値上げが激しくなった頃から乗用車は週に1回、ジャスコまで食料の買出しに行く以外は乗っていない。走行距離は5キロくらいだからほとんど充電されない。加えてここ二、三日の急激な寒さ。それでこの事態になった。 診てもらったら「耐用年数からすればその時期」らしい。2万円強の急な出費。ちょっと苦しい。
お隣の東中学校の学校新聞が県の新聞コンクールで『最優秀』。きょう横浜で表彰式。拍手。
『遊塵』という冊子が贈られてきた。創設された秦野歌談会の会誌である。お贈りいただいたのは寺尾登志子さん。こんな添え書きが付けられていた。「東中、秦高時代の次男坊・恵仁がご指導いただきました。地元で生まれた小誌、お目通しいただければ幸いです」。『東中新聞』の編集者だった恵仁さんは、その後演劇の世界で活躍している。「創刊にあたって」を書いた山田吉郎さんは、東中時代の教え子。題字は石井泰山さん、その奥さん一子さんの名前もあった。うれしく読んだ。
寺山の景色に深まる秋。今朝、タマネギの苗を150本植えた。そんなに植えてどうするの。
|
|
「大山道道標の地図」完成・まほら秦野みちしるべの会 【No.718】 2008年11月11日
冷たい雨が降った8・9日の二日間、東公民館祭りに参加した。今年は『菊・福助づくり》を展示する「秦野ゆとりの会」の会員としてだけでなく、「まほらの会」の一員としても参加した。 「まほらの会」は、昨年の8月に発足した「大山道の道標を調べ、それを地図にする」会。その一年間の活動で、三枚(三地区)の地図が完成した。会員の二人がイラストと説明文を手書きしてくれた。実際はA3判だが、今回展示したのはÅ0判の大きさ。これは(株)湘南の協力で作ることができた。この拡大版に会員の撮った写真も付けられた。自画自賛だが立派である。 5日に神奈川新聞が紹介してくれたこともあり、大山の本家本元である伊勢原市の教育委員会の方や市民の方が8名も来て下さった。遠くは海老名からも。地図を指でなぞりながら自分の知識を披瀝している地元・東地区の長老姿もあった。会としては、今回の展示で自信がもてた。 展示した地図を含めた資料は、今東中学校で生徒たちに見てもらっている。
|
|
『河童物語』 水は命・河童は心 【No.717】 2008年11月07日
『エコー』を読んでもらっている相原美智子さんから『河童物語』という本をいただいた。 『河童物語』はこんな前書きから始まっている。 「私は、河童に出会ったことがありません。なのにずっと河童に惹かれてきたのです。メモ紙の片隅に、コメントの余白に、手紙のあとに河童を描いてきました。時間があれば、胸に手を合わせている河童、踊っている河童、懇談をしている河童と赴くままに焼き物で表現してみました。河童を描いたり作ったりしているときのイメージは、頭の上にお皿のようなへこみがあり、背には甲羅をもち手足は長く愛らしく悪戯好きだけれど情深い生き物だと思いながらでした。今もほとんど違わないのですが、今、河童がいるともいないとも言えません。でも、私の心の中にはいつも生きているのです。」
相原さんは教職を定年まで務め、河童探しをライフワークにしたのです。 河童の話があるところを訪ね歩き、そこで得た河童のイメージを焼き物にしています。その文と焼き物の河童で構成されているのが『河童物語』です。 いただいた本にこんな手紙が添えられていました。「武先生 河童堂が出来ました。中井町にいらした時お寄り下さい。」 河童堂には相原さんが焼いた作品が350体ほど納まっている。
|
|
歌舞伎町「ルノアール」に電報 【No.716】 2008年11月03日
11月1日 新宿・歌舞伎町喫茶室『ルノアール』で、新聞教育支援センター主催の特別講演会。歌舞伎町に足を踏み入れたのは40年ぶりかもしれない。そのときも新聞の先生たちと一緒だった。 地図を持っているのにかなり迷った。やっと会場にたどり着くと、私宛に電報が届いていた。今日のわたしを激励するのものだった。じつは、きょうは50歳になった秦野東中の教え子たちの同窓会が秦野で開かれていた。 わたしは講演会が先きに決まったので、講演会のチラシを添え欠席を伝えた。それで、電報を打ってくれたのだ。 98文字の電文を読み終える前に文字が滲んでしまった。(電文は11月更新の「『エコー』最新号のページ」)「75名の子たちの力をもらった。きょうは大丈夫!」、落ち着いて開会を待った。 演題は「―きのう、きょう、そして明日― 新聞づくりは仲間づくり」。新聞教育に燃えているベテランの先生、現役の校長先生、新採用の先生、企業人、フリージャーナリスト、今も新聞教育に関わっている元教員、卒論のテーマの勉強にと大学生も。 特筆されるべきは、秦野のPTAのお母さんたち6名の参加。Y先生から「武さんの親衛隊ですね」と聞かれ、「いいえ、介助・支援隊です」と答えるような元気な皆さん。 上映したビデオに30年前の私が登場すると、会場から「若いねー」と嘆声と笑い、そしてわたしを覗き込むお母さんたち。2時から3時間、「新聞教育」について思いのたけを話させてもらった。 会場を新宿駅西口に移し懇親会。16名の参加。楽しい会だった。6人の親衛隊に守られ8時の特急で帰秦。車中で思った。「今日は生前葬だった」と。
11月2日 寺山自治会と婦人会共催の文化講演会に講師を務めた。300戸ほどの自治会が独自に文化講演会を持つ、しかも今年で14年目。この活動を一会員として誇りに思う。 夜の7時から8時半までの時間。『寺山の地名のルーツを探る』をテーマにして話させてもらった。参加者は30名超か。過日「さわやかウオーク」で東・西田原の民俗や歴史を歩いくれた婦人会の会員4名も顔を見せてくれたのが嬉しかった。質問や意見交換も活発だった。新しい資料や情報が得られ、わたしにとってもとても良い時間を持つことができた。
秋の天皇賞、枠連で勝った。本命だから当然?
というわけで、ホームページの更新は遅れています。
|
|
みのりの秋 【No.715】 2008年10月28日
25日 東中学校昭和43度卒業性の同窓会。48人の出席。年齢を考えなければと、帰ってきて猛省。(11月1日更新の『にっきの木』のページ参照)
26日 公民館祭りに出す菊が間に合いそうもない。昨年は自分としては納得したものができた。それで「今年は」と意気込んだのだが、昨年を越えるのは無理なようだ。Nさんに預けておいた《ざる菊》をもらいに行く。「これは《わたしの作品》とは誰も思わない」というくらい見事なものになっていた。 27日 東公民館が企画した女性交流会に出席。東婦人会と東幼稚園PTAとの交流。大ベテランの母親7人に、若いお母さん7人が料理を教わる。そのあと一緒に食事をしながら、館長の進行で子育てのことなど話し合う。こうした交流をきっかけに地域の力を高めるのがねらい。中学生のお母さん二人も飛び入りで参加。オブザーバーは園長先生、自治会長さん、そしてわたし。総勢20名の会。参加者全員にとって楽しく、充実したひと時だった。
28日 市P情報委員会の編集会議。企画「帰りたいお家」は興味深いテーマ。 11月1日の「特別講演会」の資料を会場の『ルノアール』へ送る。秦野からは6人が参加してくれる。嬉しいこと、ありがたいこと。それに応えることはたいへんなこと。
|
|
赤き実のなる木 【No.714】 2008年10月23日
10/22 秋の一日を歩く東婦人会の行事の「さわやかウオーク」の案内役。今回は、東田原、西田原の歴史や民俗を歩いて訪ねるコース。9時から昼食を挟んで5時間半、万歩計は1万2千を超えた。「歩く」ということで、参加者は健脚ぞろいの11名だから、おしゃべりと笑いが絶えない。神社をのぞき、庚申搭や道祖神など路傍の神仏を見て歩いた。 取入れが終わった明るい谷戸田を囲むように点在する家々の庭に、色づいた柿が鈴なり。実りの秋たけなわという景色。「赤き実のなる木」だから「赤木・アカキ」で「カキ・柿」。「稲」は「飯・イヒ」と「米・ヨネ」をつないで「イネ・稲」と呼ばれるようになった。こんな話をしながら歩いた。 ソバの名店『東雲』で昼食。「皆さん、大丈夫ですか」と聞いた私に、「先生が歩けるんだから、私たちは大丈夫!」と元気な声。地元を知るというきょうのウオークは好評のようだった。
|
|
ある講演会で思ったこと 【No.713】 2008年10月18日
興味あるテーマが掲げられた講演会に出かけた。参加は60名ほどで、女性が半数近くの席を占めていた。 動員が掛けられた講演会ではないのだが、始まって30分くらい経つと居眠りをする人が出てきた。パワーポイントを使うなど、工夫されているのだが、専門用語がかなりちりばめられた内容は少々学術的。 終わって質問の時間。二人が発言した。一人は、講演の内容とは直接関係の無いことについての質問だった。講師は、その質問にきちんと対応された。「もしかしたら聞かれるかもしれない」と、準備してきた模範的な答えだった。 もう一人は、講演の中のかなり細かい部分についての質問だった。質問者は、専門用語を駆使し講師に劣らないほどの知識を披瀝した。二人のやり取りは、私には難しかった。きょうのようなテーマの話で質問する人は、講師と同等、いやそれ以上の実力が無ければいけないと思った。 学校で開かれる研究発表会のことを思い出した。公開授業、研究発表、そして質疑の時間、ところが質問はほとんど出ない。参会者が一人も発言しないということは、その研究が無視されたことになる。そう思うと、気の弱い私は恐る恐る手を挙げるのだった。そして、「質問ではなく感想を」と切り出し、感想ではなくお礼を述べたのだった。
|
|
きょう お別れ 【No.712】 2008年10月14日
秦野教育懇談会、市制50周年記念「市民が作る広報はだの」編集委員会、市制50周年記念「ふるさと秦野 景観100選」選定実行委員会などでご一緒した横溝保さんが亡くなった。 リタイアするまでは互いにその存在を知らない二人だった。だが、教育懇談会で初めて顔を合わせからは、たぶん30を超える回数でお会いしてきた。 二宮尊徳の教えの実践家である安居院庄七(秦野出身)の研究者であり、信奉者だった。今、地元で安居院庄七の業績が見直され始めたのは、横溝さんの力によると言えよう。 「市民が作る広報はだの」の編集委員会では、「先輩、先輩」と、いつも私を立ててくれたことが忘れられない。 享年67歳
|
|
タヌキ 【No.711】 2008年10月12日
午後4時ごろだった。この部屋でパソコンに向っていた。右側のガラス戸の擦りガラスの部分に何かの影か動いていた。素通しの部分から見下ろしたら、鼻を地面に押し付け、辺りをを嗅ぎ回っている動物がいる。わずか1b弱の近いところに。体長は30aほどでこげ茶色。口先がとがってる。タヌキだった。野生のタヌキに初めて「ご対面」。今は「ご対面」などと書いているが、その瞬間は“驚き”だけだった。私と視線が合った(だろう)彼はさっと軽トラの下に駆け込んでいた。 数日前から庭続きの畑のサツマイモを掘り出している。その畑の隣りはちょっとした茂みになっている。たぶんそこが住処なのだろう。東小学校の校庭続きのわが家へのタヌキくんの訪問だった。 40年ほど前に、月とタヌキの絵を描いたことがあった。それを取り出し眺めた。「これと同じ姿、いや、違う、もう少し痩せていたな」と思った。私の描いたタヌキくんは丸々と肥えている。 10日ほど前から、蓑毛橋、名古木の玉伝寺の裏、そして弘法山の裾の畑で熊が見られている、とのこと。蓑毛橋は表丹沢の縦走口で、秦野駅からのバスで30分の終点のすぐ近く。わが家から車で5分とかからない。
|
|
PTAはモンスター? 【No.710】 2008年10月08日
10月9日 寒川町でPTA広報講座。この時期なので、今年度発行された全紙の紙面クリニックを行い、進行中の次号についての相談を受けた。午前9寺から3時間の講座だったが、相談がたくさんあり40分オバー。会場責任者をやきもきさせてしまった。 6年前に私の話を聞いたという人が、「今年広報に戻りました。PTAをやるのなら広報。活動に意味があるし、おもしろいです」と、開会前にあいさつに来てくれた。この人、仕事の関係で途中で退席したが、1時間ほどで戻ってきた。きょうの主催者であるP連の役員の一人も、数年前に私の講座に出たと言った。 次号の企画のアドバイスを求めに来た委員長のそばにいた人が「来年、中学校で広報をやりたい。広報を作る姿勢で小学校との違いはあるのですか」と聞く。「今年は広報ではありません。きょうは来年に備えての勉強です」とも。 どこぞの議員さんがPTAをモンスターになぞらえた発言をされた。きょう、こうしてPTA活動に取り組んでいるお母さん、お父さんの姿勢を見るとき、件の言葉はいささか現実と乖離していると思った。
|
|
みちしるべの会 【No.709】 2008年10月05日
大山道の道標を見て歩き、それを元に地図を作ることを始めた「まほら秦野みちしるべの会」の活動が一年たった。きのう横山さん、浦田さんとでその地図・東地区編(寺山・蓑毛/東・西田原/名古木・落合の3部作)の最終チェックを終えた。今月の半ばには完成の予定。手づくりで頑張ったお二人の努力の跡が良く見える地図。来月の公民館祭りにお披露目をすることにしている。次は西地区を歩き西地区編に挑戦する。
|
|
帰りたいお家 【No.708】 2008年09月27日
裏の生垣を隔てて東中学校の農場が広がっている。広さは3アールほどか。今はその収穫期、昨日も放課後、サツマイモを掘りに来た一団があった。 楽しそうな声、笑い声が聞こえてくる。作物の出来、不出来もさることながら、子供たちにあれほど明るい声をもたらす土に触れるということの意義を強く感じた。 夕食時、妻がこんな話をした。肉じゃがを煮ていたら、裏の畑から男の子の声が聞こえてきた。 「いい匂いがしてきた。先生、もう終わりにして帰ろうよ」。「そうだな、ハラ 減ってきたな。終わろうか」が先生の言葉。 「帰りたいお家」というテーマで広報を作っているPTAがある。「台所からの匂い」は、“帰りたいお家”の条件の一つになるだろう。
ヤマヒルのお見舞いにKさんが来てくれた。
|
|
とうとうヤマヒルに出会ってしまった 【No.707】 2008年09月23日
生産組合の会合のとき、よく聞かされたヤマヒルの被害。「とうとう」? それとも「ようやく」なのか…、きょうヤマヒルに出会ってしまった。 妻が「その血、どうしたの」と私の左足りの向う脛を指差した。きょうもまた、朝から栗拾いに出かけた。 9月になって雨が多かったせいか、栗畑の草は元気がいい。それで、きょうは私が草刈り、妻が栗拾いと手分けをした。“元気な草”と言っても、9月になって生えた草だから作業は楽なもの。けっこういい気分で3時間の仕事を終えた。そのあとが、このヤマヒル騒動である。 作業ズボン、そして農作業用の長靴を履いたので“完全武装”と思っていた。それなのに食いつかれたのだ。出血が止まらないのはヤマヒルの仕業。その姿を探したら長靴の中にいた。刈り払った草の一部が長靴に張り付いている。その草から長靴の中に入り込んだのだろう。血が止まらない、というのはあまり良い気分ではなかった。 ヤマヒルは鹿のひずめの中に入って山から降りてくる。鹿が食べた跡がはっきり分る今年のわが家の栗畑である。
|
|
新聞づくりに大切なこと 【No.706】 2008年09月18日
16日 体育祭の代休日なので、中学生が二人訪ねて来た。新聞づくりの相談である。記事の流れ(レジュメみたいなもの)が出来たので「これでよいかどうか」ということ。 PTA広報の場合もそうだが、彼らが書く記事については絶対筆を入れない。彼らが見て、聞いて、書いた記事が事実だからだ。彼らに助言するのはただ一つ、「大勢の人の声を聞きなさい。取材が大切。取材することが新聞を作ることです」と。
17日 午後1時半から4時まで中井町のPTA広報づくり講座。ここでも広報クリニック。まとめの時間に、発行された広報に対する読者(会員)の反応は、と尋ねた。はかばかしい答えではなかった。私にはどの広報も《力作》と思えるのだが。 「“愛”の反対語は“憎しみ”ではなく“無関心”です」と言った人がいる。広報を読んだら、褒めることはもちろん、批判でもよい、読後感を述べてあげたい。それが広報委員の次号へのがんばりにつながる。「褒めることは育てること」。
|
|
今夜は十五夜 お月さんより先に饅頭をいただく 【No.705】 2008年09月15日
きのう14日が月齢では満月「十五夜」。わが家は太陽暦で十五夜をするので、今夜がその夜。 10時過ぎ、いつもの和菓子屋さんに饅頭を買いに行った。先客が一人、その人も私と同じ買い物だった。私の番になり、十五夜の饅頭をと言うと「粒アンと漉しアンがありますが」と聞かれた。「半分ずつにして」と頼んだ。ところが、粒アンのほうが先客でちょうど品切れになったようで、「すみません、すぐに蒸かしますが、時間がかかりますけど… どうしましょう」と言う。「粒アンが好きなんだけど…、いいよ漉しアンだけで」と私。 包んでくれるのを待っていたら、店の奥から十五夜のお饅頭のようなフックラした容貌の店主が出てきて、「熱いですよ、漉しアンだけど、食べてください」と差し出した。「えェ! 悪いよ、こんなこと」「いいんです。すみませんねえ 無理言って」と詫びる店主。饅頭は1個80円、私が買ったのは15個だから1200円。それだけの商いなのに…。 蒸篭から取り出したばかりの、熱々の饅頭を二つに割った。漉しアンがいっぱい詰まっていた。「それじゃあ、ありがたくいただきます。お月さんより先に饅頭をいただくなんて申し訳ないね」と、私。 この店の売り子さんはたぶん私より年長の女性。私に饅頭を食べさせてくれたのは、その息子さんだろう。秦野市内の榎本堂という和菓子屋さんでのきょうの出来事である。
今夜の月に供えたものはススキ、饅頭、お豆腐、サツマイモ、トマト、栗、それに茗荷。サツマイモ以下は全て自家製。
|
|
広報クリニック 【No.704】 2008年09月13日
9月9日 湯河原町で、湯河原・真鶴町教育委員会共催のPTA広報づくり講座。1学期中に7回発行された『そよかぜ』をはじめとして6校17紙、さらに町教委の『生涯学習だより』の紙面クリニックを行なった。 昨年から2町合同の講座になり、広報づくりのボルテージはかなり上がってきていて、たくましさを感じている。それに応えるつもりが、かなり辛口の講評になってしまったようだ。だが、講座が終わってから30分以上、質問や相談があったので少しホッとした。
9月11日 こんなメールが届いた。 「町主催の『広報紙づくり研修会』に参加したS中PTA広報委員のIと申します。当日、校長先生の原稿依頼について質問した者です、と言えば思い出しててただけますでしょうか。昨年は小学校の広報委員を、今年は中学の広報を引き受けました。中学は多少抵抗があったのですが、息子の写真欲しさに引き受けました。 昨年の広報の研修の時の評価を聞いていたせいか、はじめの作業からわりとスムーズで今まで来ています。取材は行ける人で行い、記事と写真を私がもらい編集・レイアウトします。号外の職員の紹介では名前に仮名をふったり、次の号の修学旅行は広島を取り上げたかったのでそこにスポットを当てました。これも研修会があるおかげで的が絞れています。 初めは、小学校と中学校で差があるように思い、何を伝えればよいのかと思いましたが、研修会でその思いも吹き飛びました。「みんなに伝えること」には変わりない、そう思いました。 今回の研修で、私たちの広報紙の評価、あんなに誉めていただけるとは思ってもいませんでした。おかげで、次の号がプレッシャーで押しつぶされそう…です。次号は12月中頃発行予定ですが、三分の一くらいできています。そのなかで『地域ふれあい活動』『あいさつ運動』のページがあるのですが、そのページに頂いた資料の『オアシス』の話をぜひ載せたいのですがよろしいでしょうか? 私としては載せたいので、そのページはそれでもう作ってしまいましたが…。お許しのお返事をお待ちいたしております。
9月12日 11、12日の二日を使っての秦野市P連の「広報クリニック」を東公民館で。参加者は22校から168名。参加予定の人数が当日になって増えているとのこと。秦野のPTA広報のレベルはこの参加者の人数でわかる。市内全校の運動会・体育祭が今週末から始まるので、その特集の組み方、特に写真の撮り方とキャプションの作り方、レイアウトのポイントなどを具体的にアドバイスした。そして「卒業アルバムのような作り方はしない」と念を押した。時機を得たようで好評だった。 クリニックが終り、退室の仕度をしていたら、参加者の一人が近寄って来て「お会いしてお礼を申し上げたくて来ました」と言う。2年前のS小の広報委員長さんで「あのとき受けた広報クリニックで、S小のPTA広報は“大変身”を遂げることができた」のだそうで、そのお礼を直接伝えたいときょう特別参加されたとのこと。「きょうの話を聴いてまた広報を作りたくなりました」と笑顔の彼女から握手を求められた。思いがけない申し出に、私は机上にあったタオルで何度も何度も手をぬぐい清めた。
|
|
9月の第一土曜 【No.703】 2008年09月08日
9月の第一土曜に集る会がある。中学校の同級生の有志が一晩語り明かす(飲み明かす)会だ。私はその会の特別会員で、今年で4回目の参加になる。 今年は9月6日で箱根・強羅に11名が集った。 彼らは53歳、まさに今の社会をリードし、支えている年代だ。新幹線通勤で帰宅が平常で午後11時というC、部下の起こした個人情報の漏洩で、顧客170人の自宅を謝罪に回ったE、酪農家を顧客にしている獣医のHから聞かされた神奈川の酪農の現実、アネハの事件から、建築確認が厳しくなり着工件数が極端に減ってきているという建築業界は、「2,3年のうちに個人の工務店(大工さん)はほとんど消えていく」と心配するのは材木店経営のY。Mは52歳にしてトラバーユした。そんな今だからこそ、幼馴染とのこうした交流でそれぞれが元気付けられるのだ。私もまた、彼らの輪の中に身を置かせてもらうことで少し若返る、いや老化が少し抑えられる、と思っている。 お開きになったのは午前3時とか。私は12時少し前に自分の部屋に戻った。 翌朝、ロビーでの解散の前に「来年は9月5日、ここで」と幹事のOの挨拶があった。私に限って言えば「来年のことはわからない…」。
|
|
長月スタート 今年も残りは四カ月 【No.702】 2008年09月04日
9月1日 ホームぺージ更新。毎月の更新はけっこう負担になってきているが、一種の中毒症状のようで、書き換えないと気がすまない。また、更新というノルマをかけるとで、生きている意味を見出しているようにも思える。特に誰に待たれているわけでもない。まあ、自分のために頑張っているということなのだろう。 きょうから今年の栗の収穫に入る。5sほど拾う。帰りに道路から見下ろしたら、どうやら豊作のようだ。 夜9時半からの首相の臨時記者会見を観た。驚くと同時に、変化への期待を感じた。
9月2日 8時15分、大井町に向って車で出発。9時5分に会場に入る。9時25分から広報クリニック。自治会の会報、幼・小・中のPTA広報8紙をパワーポイントを使って講評。どれも前年度より充実している。特に写真を使っての情報伝達がじょうずだった。カラー写真の時代ではあるが、それによって印刷経費がかかり発行回数が減っていることが気になる。 広報という文字からすれば「伝える」ことがその第一義であることはまちがいのないことなのが、私としては、時には、広報も「新聞」になって欲しいと思う。そんなことを最後に話した。
9月3日 藤棚発16時20分のバスにのる。東京・中野区の『なかのZERO』に到着が18時15分。 中野区立中学校PTA連合会のPTA広報委員会の研修会。5月に二回、そしてきょうが第三日目の三回シリーズで、いずれの会も夜18時半からの2時間という設定。最終回なので、一学期の発行された広報紙を投影機で映し出し、全ページについてクリニックをした。 参加は12校、少子化や社会的環境の変化で学校の統合が進められている。過去に統合された全校にPTAが発足し、広報委員会も置かれたことを聞かされひと安心。この四月に統合された委員会は「目下、編集中です」と笑顔。嬉しかった。 講座の終了後、「ウチは委員が順番で参加しているのですが、わたしは全回出てきました。楽しかったです。あっという間の二時間でした」と私へのねぎらいの言葉を三人が掛けてくれた。そのうちの一人はお父さん。 秦野駅発22時35分の終車のバスに間に合った。
|
|
防災訓練の日 【No.701】 2008年08月31日
きょうは防災訓練の日。午前9時の訓練開始のサイレンが鳴る。非常用の袋の中身を点検。非常食はこの訓練日で入れ替えをすることにしている。9時10分、玄関に黄色のハンカチを掲げる。これは家族全員無事です」というサイン。 家から1分の防災用備蓄倉庫前に行く。もちろんヘルメットは着用している。60余戸の清水自治会。きょうの訓練には子供8人を含め、52人の参加。0歳の赤ちゃん抱えた若夫婦も。 足場用のパイプと近くから切り出した竹で、まず避難小屋を作る。そのあと、災害用伝言ダイヤルの操作方について学ぶ。簡易トイレの設置と使用法の説明を聞く。消火器を使っての消火訓練。簡易担架を作り、負傷者の搬送の訓練。歩けない人を自宅から避難所までリヤカーで運ぶ訓練も。 最後は非常食の炊き出しと試食。そして、全員で撤収作業。終わったのは11時30分。ここ数日らいの集中豪雨、新潟・中越沖地震や岩手・宮城内陸地震などの災害を自分のものとして受け止めての、有効で友好的な訓練だった。
|
|
PTA広報講座 “秋の陣”始まる 【No.700】 2008年08月27日
きょうから私のPTA広報講座の“秋の陣”のスタート。秋の陣といっても、現実にはまだ夏休み中だから、きょうの講座のために設けられた学童保育室には10名ほどの子供たちがいた。 講座の冒頭、参加した委員たちに一学期の活動を振り返ってもらった。
・年6回の発行のうち3回は終わった。大変だった。ちょっとダマサレタ感じ! 体育祭の写真を1000枚近く撮った。だからいい写真を載せられた。形に残る仕事はやりがいはある。 ・広報委員はでしゃばりでなければダメだと思った。 ・仕事との両立をかなり心配したがなんとかクリアできた。他学年の子供たちの活動が見られたことがよかった。学校に出かけることで、楽しいことをたくさん発見できた。 ・一学期はサポートするだけだった。二学期は主体的に活動したい。 ・(2歳お子さんを抱きながら) 小さな学校なので、「乳飲み子がいるからできない」などと言ったら同じ人が何回も委員をするようになってしまう。私のような条件でも活動できるということを確認したいと思って委員を受けた。そういう時代が来た、と思っている。物をつくるのが好きだから、大変だけと頑張っている。 ・委員の利皆さんの負担の軽減ばかりを考えているのが現実。 ・パソコンのできる人に負担をかけているので、思い切ってパソコンに挑戦している。夏休みはとくに頑張った。 ・しゃべることはできるが、文にすることは大変。文にすると様々な問題(書いた内容について)も出てくることがわかった。 ・助けてもらっている。委員の皆さんが協力してくれることのありがたさ、素晴らしさを実感した。 ・前年度を超えた活動をすると、次年度の委員にプレッシャーになるのではないかと思っている。でも、前年度は超えたい。 ・会員数が減っていく中での広報の必要性、重要性をどのように本部や会員に理解してもらったらいいのか。
|
|
職員研修会 【No.699】 2008年08月21日
昨20日、東中学校の校内研修会に講師として招かれた。テーマは「東地区の歴史と文化を学ぶ」で、座学ではなく学区内を歩くという研修である。 宮川校長先生以下18名の先生方、それに東幼稚園からも二人の先生も参加。「みちしるべの会」の4人も同行してくれた。 午前9時に東公民館を出発。風は少しはあったが炎天下をおおよそ4時間歩いた。古道・大山道を歩くことが、この地区の文化や歴史、更には民俗を学ぶことになる。だから行程のほとんどが日なたを歩く。“正真正銘”最高齢は私、しかも私との年齢差は12以上の人たちばかり。でも、どうやら、完歩するという役目はできた。途中、同級生のKさん宅で、冷たいお茶をご馳走になった。これは学校と地域の交流の一幕。きょうのウオークで先生方が学んだことの一つに「武さんが元気で歩いたこと」があるとしたら、嬉しいことだ。
|
|
道祖神に会いに安曇野へ 道しるべの会のSご夫妻 【No.698】 2008年08月14日
『まほら秦野みちしるべの会』の会員であるSご夫妻との会話。 「皆さんより一足早く、先週初めに夏休みをとり安曇野に行ってきました」。「道祖神巡りをしてきました。自転車で回っている方もたくさんいました。秦野ではあまり見られない握手像が多いですね。どの道祖神も大事にされているようでした。道祖神って、素朴なものと思っていたら、色鮮やかなものもあって驚きました。毎年、子供たちが色を塗り直すのだそうですね」とご主人。 「このごろ、運転中に信号待ちになると、夫婦で道路脇をきょろきょろ見回してるんです」は奥さん。 「道祖神にあやかって握手して歩いて回りましたか」と私。 「はい!」と奥さん。 「いや、ウソです。車で回ったのですから。それに家内の両親もいっしょでしたから」と“大慌て”のご主人。 みちしるべの会をつくってよかった。
|
|
《新聞三昧》の三日間(8/7,8,9) 【No.697】 2008年08月10日
8月7・8日 7月1日からずっと最高気温が30℃を切らないという暑い京都。そこでの第51回全国新聞教育研究大会に参加した。第1日の7日、「PTA広報づくり講座」を担当した。翌日8日の朝刊にこの大会のことが報じられていた。記事の中に参加者数も出ていた。1紙は220名、もう1紙は300名だった。開会式での主催者の報告では200名。 2日の「実践発表」ではPTA分科会に出席。5校のPTA広報委員会の話を聴いた。オレンジ色のオリジナルTシャツで登壇したT広報委員の4人の胸には「われ等広報オタク」というロゴが踊っていた。「広報委員だけはごめんだ」と言われるこの時代、「気がついたら、また広報委員になっていました」と報告する人に、会場に小さな笑いが生まれた。 「今だからこそこの企画を」と思う感性、そして紙面づくりにかけるお母さんたちの心、何よりその意気込みに私自身も励まされた。助言者から「サロン型の編集はできれば避けたい、結構多くなっている」との指摘があった。この会場で提案した5つの広報委員会は、いずれも《広報の意義とその活動》に引かれた人たちの集りで《サロン》ではない。
8月9日 「誰でもできる新聞づくり」の2回目の講座。きょうの参加は20人。欠席者は事前に「体調不良」と主催者に連絡が入ったそうだ。 宿題だった(1)題字を決めて書いてくる、(2)作る新聞の資料を集めてくる、は子供たち全員が守ってくれた。13人全員の記事の内容とレイアウトを指導。時間内に完成した新聞は2紙。8月31日までにがんばるように話して終了。 改めて思ったこと。「教室の生徒が少ないと目が届く」「生徒一人に一人の助手(きょうの場合は母親)が付くことで子供の力は伸びる」。
|
|
8月4日 【No.696】 2008年08月05日
秦野市中学校教育研究会の新聞部会の「パソコン新聞の作り方」講座が開かれた。講師が東京の田村先生なので私も参加。受講生は13名。このくらいの人数だと、講師が受講生一人ひとりの画面を覗き込んで指導ができる。よい講座だったと思う。 夜は「ゆとりの会」の暑気払いの会。27名中21名の参加。会の活動のメインである「菊作り」を成功させるための“元気付け”の会でもある。十分飲んで、しゃべって、皆さんから元気をもらって帰ってきた。
|
|
守山義雄記者 【No.695】 2008年08月02日
朝顔が今朝は10ほど咲いた。5時半から『農業委員会だより』を配って歩く。薮陰の道は今年竹が勢いよく伸びていて、脱ぎ捨てた皮が道いっぱいに広がっていた。きょうは土曜日だからなのだろう、散歩の人に一人も会わなかった。 昨日は一日中草取りをがんばり過ぎたので、きょうは完全休養の日。一日遅れでホームページを更新。いつか紹介したいと思っていた朝日新聞の記者守山義雄さんの記事をきょうの高校野球の開幕に合わせてアップした。 「風雪に耐えるものを書く」のが新聞記者だという。初めて守山記者の文に触れたのは次の記事だった。
「『パリ迄二十六キロ』道端の標識にははつきりさう読まれたが、御者台の兵士達はなんの感興も湧かぬ面持で連日の強行軍の疲れから馬の手綱を握った儘うつらうつらと揺られてゐた。道はサン・ドニのだらだら坂を上り切つて小高い丘の上に出た。その時突然一人の兵士がアツと叫んで前方を指さした儘声を呑んで了つた。あのエツフエル塔が指呼の間に悠然と聳えてゐるではないか」「一八一四年及び一五年ナポレオン一世の末期、一八七〇年ビスマークのパリ攻賂に続く之は近世史に於けるドイツ軍の第四回目のパリ入城である」「家々は殆ど表を閉ざし窓を閉め切り所々に薄汚い老婆や鳥打帽子にネクタイ無しといふ労働者が四、五人づつ固り合つて独兵の入城を見守つてゐる」『独軍パリ入城従軍記』(1940年6月17日・朝日新聞)
|
|
鮎 【No.694】 2008年07月27日
25日 「みちしるべの会」の横山会長以下6人で鶴巻の「下部の灯篭立て」を見に行った。はるか江戸時代から、大山の夏山詣でをする信者のために、落幡地区の人たちが夜道の道しるべとして、灯篭を立て灯を点してきた。 毎年、この日に建坪2坪ほどのお堂を組み立て中に灯篭を立てる。この日は地元・落幡下部の有志が20人ほど参加。年配者が指揮を執りながら若い人、と言っても40代? 屋根に上がり汗を流している。 この灯篭が初めて建てられたのは今から300年ほど前らしい。今は、この灯をたよりに大山に向う人が全くいない大山道だが、今年も地元の人たちの旅人の安全を守る心が温かくともった下部灯篭だった。(詳しくは8月1日更新の「秦野のおはなし」で)
26日 東公民館で『世界でたった一つの新聞を作ろう』の講座。小・中学生15人、大人10人が参加してくれた。年齢で言えば10歳の男の子から60代後半の熟女まで。まず「新聞っておもしろい!」ということを知ってもらうため、「新聞の値段はどこに書いてあるか」を探してもらうことから始めた。 9時半から2時間できょうは終り。宿題は「新聞の名前を決め、それを割付用紙に書いてくること」。次回は8月9日。 この講座の参加の子供たちに「秦野ゆとりの会」からスズムシがプレゼントされた。「秦野ゆとりの会」とは、私も所属している教員OBの会。昨年まで「秦野園芸愛好会」という名称だったが、活動の幅を広げるために「ゆとりの会」と改称した。会員数は29名。 この日は「行灯作りの朝顔」展示会を同公民館で開いた。私も一鉢で参加。 酒匂川の鮎が届いた。昨日釣ったものとか。笹の葉が敷かれている皿に20a弱の大物ばかり10匹も。風流なNさん!
|
|
トマトでビール 【No.693】 2008年07月22日
きょうで4日、午前中は畑に出ている。里芋、サツマイモ、キュウリ、ナス、トマト、いずれも雑草に取り囲まれ、覆われ、息絶え絶えだ。ハキダメギク、メヒシバ、オイシバ、カヤツリグサがその中心勢力。 ハキダメギクの白い花の匂いは鼻に来る。この花粉はどうやら私には花粉症をもたらしているようだ。この花は渡来種だそうで、牧野富太郎博士が掃溜めで見つけて名前を付けたのだそうだ。メヒシバは細い茎だが、穂に何百もの種をつけている。その穂を一本でも落としておけばたちまち…。そしてもっとも手が焼けるのがヤブガラシ。畑を囲んでいるお茶の根元から地下茎を四方八方に伸ばし、放って置けばいたるところに芽を出し、蔓で一面を覆ってしまう。地下茎をじょうずに引き抜くと2bくらいまで取れる。日向に置けば枯れるが、地中に残った数センチの根からまた芽を出す。耕運機で耕し、切り細裂いてもそれらの全てから芽を出す。今、ヤブガラシは花どきでもある。この花が好きだと言う人もいるが、私には迷惑極まりない。 「汗は滴る禾下の土」、その気で草と格闘している。気分は上々である。だが午後はとても務まらない。 今夜も採りたてのミニトマトでビールを飲む。
|
|
迎え火 【No.692】 2008年07月14日
7月13日 きょうは「盆」迎え火の日。8時にお墓の掃除を兼ねての墓参り。墓から山に直行し、今年生えた女竹を50本ほど切った。9時過ぎに帰り、その竹で「ツジ(ご先祖様を家の中に迎え入れる休み処)」を作る。10時から生ゴミの集荷場についての3班での話し合い。10時半ころ戻って来て盆だなを飾る。キュウリの馬とナスの牛を作る。手綱は細いウドン。 3時少し前、「ツジ」の前にウマとウシを連れて行き迎え火を焚いた。これでご先祖様は一年ぶりのご帰還。近所の6軒の「ツジ」にお線香を上げに回る。昔は子供の“お勤め”だったのに、今は年配者が回る。 久しぶりに高校野球のテレビ放映を試合終了まで見た。正確に言うと9回裏2アウトで放映は終わってしまったのだが。あとワンアウトなのに…。妻が勤務したI高校が勝っていたのに…。 父が植えた10数本のヤマユリはほぼ満開、父の今年の来訪を待っていたかのように。
|
|
過去の日記へ|1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|13|14|15|16|17|18|19|20|21|22|23|24|25|26|27|28|29|30|31|32| [管理]
-- トップページに戻る --