- 寺 山 だ よ り -

求む 全国大会の速報係り
【No.468】 2006年04月15日

 8月の全国新聞教育研究大会・秦野大会への協力をお願いするため、秦野市P連の17年度決算総会と18年度予算総会に出席した。
 決算総会では事業報告、決算報告などすべてがパワーポイントで提示され、審議された。この総会の中で広報コンクールの表彰も行なわれた。入賞した広報がスクリーンに映し出され、賞状が手渡されるというしゃれた効果満点の表彰式だった。こういう時代になったかと感慨ひとしお。
 予算総会の後、ロビーに今年度の情報委員22名に集ってもらい、「全国大会の『大会速報』の記者になってもらえないか」とお願いした。しばらくは声無し。やがて二人が「先生の家の近くだから」と笑いながら立候補。W中の校長先生が「Nさん、立候補しなきゃ」と声を掛けて通りすぎる。それでUさんは「カメラなら」と決心してくれた。大会委員長が自校の校長先生ということでSさんも手を挙げてくれた。《千載一遇》という思いもあったかもしれない、7名のスタッフを得ることができた。単Pを代表してくるお母さんたちは積極的だ。

名前
【No.467】 2006年04月14日

 先日、ある資料を読んでいて発見したこのごろの赤ちゃんの名前。
 伎邑洵ちゃん 汰芽ちゃん 美海ちゃん
 難しい読み方だった。時代は変わった。

寺山のお祭り 昔は4月10日でした
【No.466】 2006年04月10日

 今年は9日が寺山のお祭り。わが家は今年は『行在所』の接待係りの番。接待だから女性のほうがふさわしいのだが、家にはお祭りの客が来るので台所が忙しい。それで私が出ることになった。(今年は私の“太巻き寿司”の出番はなくなる)
 接待係りや自治会の役員、それに近所の人など10数人が待っていた。そのとき聞いた話。 
 10時半頃、『行在所』の前のバスの折り返し場に土浦ナンバーの観光バスが一台入ってきたそうだ。この一行はハイキングで、高取山(地元ではタコーチ山と呼ぶ)から鶴巻温泉に下りるコースを歩くと言っていたそうだ。そういえば、今朝10時ちょっと過ぎ「米の作付け面積」を調べる用紙を配って回ったとき、清水のバス停に10数人のハイカーが降り立ったのを見た。この人たちも、タコーチ山に向かっていった。中・高年が大好きな「ハイキング&立ち寄り湯」コースの一つが寺山・清水からスタートしているということを知り少し驚く。
 歩き始めた人たちは、途中で寺山の神輿に会える。山腹の桜並木はまだ十分その花を見られる。いい思い出になるだろう。
 このバス停の傍らに『清水湧水池跡』の碑がある。ハイキングで秦野を訪れる人、寺山・清水から鶴巻温泉をめざすハイカーに、この碑をぜひ見てもらいたいと思った。
 11時に『お発ち』のはずの神輿、『お着き』が11時をはるかに過ぎていた。神主さんの祝詞を聴いていたら、『行在所』ではなく『お旅所』が正式な呼び名であることが分かった。
 今年の『宮入』は8時半だった。タコーチ山から跳ね返る「宮昇殿」の太鼓を風呂の中で聞いていた。

寺山・鹿嶋神社 そして円通寺
【No.465】 2006年04月08日

 明日は寺山のお祭り。その準備に8時半から鹿嶋神社に行く。氏子の中で神輿に触ることができるのは清水自治会の氏子だけ、というしきたりが今も守られている。それで、毎年神輿の飾りつけを受け持っているのが清水自治会。それこそ《地付きの人》から、昨夏、この清水に居を構えた人まで加わってにぎやかに神輿を飾る。この神輿飾りで顔見知りになり、交流が始まる。そして地域の一体感も生まれる。そういう意味からも清水自治会は幸せである。
 あちこちの神輿を担いで回るMさんが「名古木ではお神輿の休み所を『神酒場』と言っている。寺山が言っている『行在所』は間違いだって名古木のいてるけど」と私に尋ねた。言われてみれば確かに『行在所』は天皇に関する言葉だ。
 今日は『花祭り』。今年も円通寺からバアちゃんに『お福分け』の筍ご飯が届き、こんな手紙が添えられていた。
 「今年の桜は風雨に負けず、私たちをいつまでも楽しませてくれていますね。お変わりなく元気にお過ごしですか。4月8日、今日はお釈迦様の誕生日です。今年も、世話人さん、和讃の方々とご供養できましたので、祝い膳のお福分けをお届けいたします。どうぞご笑味ください。また、水戸黄門の主題歌を印刷しました。和讃講では行事の度にこの歌を歌ってお開きにしております。大きな声で歌ってみてくださいね。では又来年お届けします。元気でお過ごし下さい。円通寺住職」
 水戸黄門の主題歌が登場したのは、テレビで格さんを演じている合田雅吏さんは寺山出身だから。
 テレビ水戸黄門の主題歌「ああ人生に涙あり」
 人生楽ありゃ苦もあるさ 涙のあとには虹もでる あるいてゆくんだしっかりと 自分の道を踏みしめて

「広報づくり」始動
【No.464】 2006年04月06日

 4月17日の文京区を皮切りに、私の今年度のPTA広報講座が始まる。4月中は文京区のほかに6市町から招かれている。それぞれの担当者から「参考に」と昨年度発行の広報が送られてくる。それらを読ませてもらって思うことは、見事にその地域性が表れているということ。たとえて言えば「後出しジャンケン」のような。広報作りでも他区・市町との交流、情報交換が必要だと思う。
 そんな中、お隣りの伊勢原市P連は「伊勢原市の各学校PTA広報紙の一層の充実を目的とする」という主旨の継続事業を持つことになり、講師として私を招聘してくれた。事業の内容は、
1、広報紙作りの指導(講習会等)
2、グループによる面接指導(3〜4校で1グループを構成。各校15分で自校の広報紙の添削を受ける。他校の添削もー緒に聞く。時期は夏休み中)
3、添削指導(単Pは広報紙発行毎に一部を講師に送付し添削指導を受ける)
 PTAそのものが問われている今、このような試みに取り組む伊勢原市P連に敬意を表したい。
 昼少し前、A小PTAの正・副広報委員長さんが訪ねてくる。「アミダくじで当たっちゃって」とやや悲痛な表情。お手伝いを約束した。
 午後、B高校P広報委員4名の来訪。年度第1号の企画の相談。3時間ほどの実のあるオシャベリら、「高校生の食生活」というテーマが決まった。前年に囚われない活動(内容も)をしようとする意気込みを感じた。来てもらってよかった。


今日生きるよろこび 
【No.463】 2006年04月04日

 東京カントリークラブの取り付け道路は、タコーチ山をジグザクに駆け上がっている。その街路樹は桜。
 ウチから眺めると、山すそからクラブハウスのある頂まで、桜で彩られているように見える。今、山すそが満開の白、中腹辺りは少し赤みを帯びた白、山頂近くは蕾の赤に白が混じっているという色合い。日毎に、桜前線がジグザクに登っていくのが分かる。
 桜の季節が巡ってくると思うことがある。「来年もこの季節に出会えるだろうか」と。
 昨夜、母にライトアップした庭の桜を見せた。強い雨に打たれなかった今年の桜は、まだしっかりと大きな房状をつくり、なまめかしくさえ思える。 爛漫たる桜花を車椅子から見上げている母は無言。心を動かされたというようには見えなかった。(このごろ、頓に無感動になっているように思える。この現実は、私たちにとっては哀しいことなのだが、母には“良いこと”と思えるようになった。) 私たちも言葉を掛けることはしない。
 「桜の木の下には死体が埋まっている」は、梶井基次郎の言葉。西行の一首もある。桜花は、太平洋戦争では紛れもなく『死』の象徴だった。
 光りの届かない梢あたりから、突然一片、またひとひらと舞い落ちる花びらを見送りながら、「あと二日もってくれればいいのにねえ」と言う妻。五日は入学式。その日わが家にも来客が二組ある。「散る桜 残る桜も 散る桜」

 31日に訪ねてきたAさんが、修善寺のお土産に竹のしおりをくれた。そのしおりには「今日生きるよろこび 武勝美」と刻み込まれていた。
 
 今生の今日の花とぞ仰ぐなる  石塚友二

『ふるさと秦野景観100選』
【No.462】 2006年03月23日

 市制施行50周年の記念事業の一つに『ふるさと秦野景観100選』があった。
 『寺山ものがたり』を上梓したことで、『寺山ものがたりを歩く』が東公民館の事業や自治会の行事になり、案内役を数回した。それが縁で、景観選定実行委員、そして選考委員まで務めさせてもらった。
 昨年の11月3日「市民の日」に、その100選は発表されたが、16万市民にそれが知れ渡ったとは思えなかった。
 この事業は、主管のまちづくり推進課が冊子を発行することで終わることになっていた。その冊子がこのほど私のところも届いた。 
 《冊子》と思っていたが、なんとA4判で140ページほどの豪華な写真集になっている。ページを繰っていきながら、秦野の自然、歴史、文化、風土の豊かさをあらためて確認した。秦野に生まれ住んでよかった、と心から思う。ほんのタイトルは『ふるさと秦野景観100選』となっているが、実際には「99選」で終わって、最後の1ページには「あなたの心に残る景観を加えて100選を完成させてください」とある。こんな仕事をさせてもらえた幸運に感謝したい。私は、どの景観で100選を完成させるのだろうか。先ずは99景に足を運ぼう、元気なうちに。

明日 開花
【No.461】 2006年03月20日

 ひきしまった空気を感じる今朝、空は晴れ渡っていた。その青空に桜の蕾の白が溶け込んでいる。たぶん、明日 開花。
 地下足袋を履き、8時過ぎに庭に出た。庭と畑の境の梅2本、ドウダンツツジ、アジサイの4本が、去年から枯れたままになっていた。それらを、ヤブツバキ、ドウダンに植え替えた。
 今日は小学校の卒業式、11時過ぎ、校庭に鼓笛隊の「蛍の光」が流れ始めた。6年生から引き継いだばかりの5年生の演奏。そのことがよく分かる演奏がほほえましい。
 午後、市内のPTA広報の講評を5校分書く。2度も講座に参加してもらっているのでキツイことは書きづらい。それに、ほとんどの委員は一年交替。ここで《注文》をつけても、それを活かす場はない。「気持ちよく引退してもらえる言葉」を送ってもいいのだが、それだと次年度何の変化も生じない。それで《辛口》を利き続けている。
 
 「ドラゴンズ」フアンだし…、「行け! 行け! 行ったぁ〜!」。昨日の福留は素晴らしかった。イチローは言葉も良かった。韓国・金監督の言葉、大人、人格者だ。

P広報の一日
【No.460】 2006年03月17日

 10時にジャスコに出向く。秦野市のPTA広報の展示会の準備が母親委員さんたちの手で行なわれていた。
 今朝の神奈川新聞、昨日のタウンニュース紙がこの展示会の紹介をしてくれた。ありがたいことだ。コンクールの結果も記事にされたので、入賞を知ったS中の広報委員さん2名が既に見学に来ていた。嬉しそうだった。「来年も広報を作ってください」と勧めたが、答えは? 買い物に来た母子連れが発表されている結果を見て、自分のPTA広報を探していた。どうやらM小学校のようだ。
 展示が終了したところで記念撮影。その後、準備に参加した母親委員全員が、この展示会のチラシ配りをするらしい。いや、この意気込みはたいしたもの。「お店の許可もとってあるので、ガンバって」と委員長さんの言葉。たぶん、こういう経験は初めてなのだろう、けっこう楽しそうな表情。そして全員元気よく店内に散っていった。会場を提供してくれたジャスコさんに感謝しなければ。帰って、市内22校のPTA広報の講評を書き始める。
午後3時、伊勢原市P連の役員4名来訪。次年度の市P連の事業の一つとして「広報紙の技術向上」が取り上げられ、その事業に関わらせてもらうことになった。今日は5月に開く広報講座の打ち合わせ。市P連が広報の重要性を再確認してくれることが嬉しい。
 以前小学校でP広報を作ったRさんから、来年また広報を作るとメールでごあいさつをいただいた。楽しみ。
 
 温かい一日。ジャンパーを脱いだ。桜の蕾が丸みを増したのが遠目にも分かる。

秦野のP広報の発行は年4.5回
【No.459】 2006年03月15日

 昨日は秦野市PTA広報コンクールの審査会。9時半から6時間かけて22校のPTA広報を読む。内容、レイアウトなど昨年より更に充実しているので、101紙を読む7人の審査員は昼食も15分で済ませた。
 今年度一年間の発行回数を調べてみると、7回が2校、2回が3校。平均4.5回の発行回数になる。全国平均では、年3回を切るという状況の中で、秦野のPTAはよくがんばっている。
 時代の趨勢(時間と経費削減)か、パソコンを使っての自校製版(自校印刷、コピー印刷)に15校も取り組んでいる。初めてパソコンに挑戦し、新聞ソフトやワード、パワーポイントなどで広報を作るまでに至っている。インターネット、メール時代のお母さんたちの面目躍如というところか。 

春の到来
【No.458】 2006年03月11日

 鶴巻中学校から創立20周年記念誌が届いた。記念誌は、鶴巻中学校の20年の歩みを学校新聞とPTA広報の紙面で構成されている。 
 学校で発行される新聞・広報類は、「記録すること」をその役割の一つとして課せられている。収められた「鶴中新聞」「鶴中PTAだより」を読むとき、そのときどきの学校のようすをきちんと報じてきていることが分かる。私の鶴中在職時代の『鶴中新聞』67、81、100、115号から生徒たちの名前を拾い上げ、その顔を思い浮かべ、当時の私を思い出した。

 県道からわが家に通じる路地のあちこちに本格的な春の到来を告げる花が開き始めた。Y家のマンサク。赤い蕾がびっしり着いているボケはF家、そして隣りのK家はフジザクラが今日開き始めた。ジンチョウゲの香りはE家。ウチの庭ではワビスケの小さな花がいくつか。畑の畦にはオオイヌフグリのきらめくような青紫も。少し離れたS家の庭には鮮黄のミモザも見える。

夜の電話
【No.457】 2006年03月08日

 昨夜9時近く、教え子のYさんから電話があった。教え子といっても私にとっての初めての卒業生だから59歳になる。同窓会をよく行なう学年なので“何十年ぶりの声”というわけではないが、それでも10年近く会っていないかもしれない。
 「先生、Yだけど分かるかなあ」という少ししゃがれた声でその顔がすぐに浮かんだ。そういえば5年ほど前、やはり夜だったが「今、みんなで飲んでいるから来ないか」と、七沢温泉から誘いの電話をくれたのも彼だった。
 昨夜も少しアルコールが入っているようだった。早期退職をして母親の面倒を見ている彼だが、ここで母親を病院に入れてしまったことで、何となく心に空虚感が生じているように感じた。「この年齢になると、なぜだかそんな母親がかわいそうに思えてね」としんみり。「次の同窓会には元気で顔を見せなきゃダメだよ」「ありがとう。たぶん元気で行けるから」「たぶんじゃダメ、絶対元気じゃなきゃ」。こんな会話で電話が切れた。

 『エコー』237号を今日発送。“少し”じゃなく、たいへん遅れた。

コンクールの表彰式
【No.456】 2006年03月06日

4日
 全国学校新聞コンクールの表彰式が毎日ホールで行なわれた。秦野からは、北小学校5−4、堀川小PTA、西小PTAが招かれた。児童・PTA広報委員・PTA会長・担任・校長先生など12名が列席された。賞を受けた児童・広報委員は、その喜びにひたりながら「次に向けてがんばる」という新たな気持ちになっていた。
 祝賀パーティーで東京、兵庫、徳島のPTA広報委員さんたちに、秦野大会に参加してくれるようにお願いした。

5日
 コンクールの表彰式でお会いしたS小学校のP広報委員さんからメールが届いた。それには、会場に展示してあった子どもたちの作った新聞にいたく感動したこと。帰りの車中で、副委員長さんと来年の広報紙について熱く語り合ったことが書かれていた。そして「広報委員を続けてきて本当に良かったと心から想えた一日でした」と結ばれていた。

三月は旅立ちの季節
【No.455】 2006年03月02日

 きのうこんなメールが届いた。

 「公立高校の後期選抜の発表日でした。進路指導にも勝ち組と負け組があります。30年を越える教員生活でも、つらい一日であることは 今年も同じでした。10日の卒業式までに『新しい希望を胸に』への気持ちの切り替えと励ましは大変なものがあります。最終的には本人の成長ですが、家庭での励ましや癒しなども大きいと思います。“がんばれ卒業生”です。」

 10年来、お付き合いしている教え子からも久しぶりのメールも。三月は旅立ちの季節だ。

 雨の合間をぬって、久しぶりで畑に出て玉葱に施肥をした。ここ数日の雨で力を得た雑草がはびこっている。ホトケノザ、オオイヌフグリ、ナズナ、カラスノエンドウなどを引き抜いた。その根張りが思いがけないほどの量の土をしっかりつかんでいる。図鑑で調べたら、オニタビラコという草もあった。

好奇心を失ってはダメ
【No.454】 2006年03月01日

 今日から弥生・三月。
 昨日、今日と三つの学校のPTA広報委員が訪ねてきた。それも小・中・高という校種。少し年齢層の違いはあるが、いずれも元気なお母さんたち。
 昨日の日付で発行された年度最後の号を持ち、6人で現れた中学校のお母さんたちの元気のよさ。年間五回の発行を成し遂げた達成感があるのだろう。「とても楽しかった」と皆ニコニコ。
 手渡された号の内容は、昨年の五月に発行されたものからみたら格段の進歩。学校指定のジャージのほつれが以前と比べ多くなったことに着目し、学校から業者に善処を求めさせたという彼女たち。時間的には間に合わないが「三学期だからこそ懇談会か面談をして欲しい」と学校に要望する記事も書いている。好奇心旺盛、そして何より明るい声が響きあう彼女たち。だから出来上がった紙面が元気なのだ。「私がワードで新聞を作るなんて思ってもみなかった」と言うAさんは委員になって初めてパソコンと向かいあったのだ。
 小学校の二人はどうやら留年のようだ。「来年のネタはもう無い。今から心配」と言いながらも、私の手元にある他校のPTA広報を片っ端から広げ、ネタ探しをして帰っていった。
 神奈川の高校は今日が卒業式。その今日から、次年度の広報委員長になるTさんは活動を始めた。その手始めの仕事が今日発行の広報の感想を私に求めること。 
 高校のPTA活動は、小・中のそれてとかなり異なる。ややサロン化している現実の中での広報委員会活動。企画の難しさが紙面から読み取れた。Tさんは中学校会員のとき、広報委員の活動を遠くから眺めていて「一度広報をやってみたかったので、思い切って立候補した」“奇特な人”。 
 委員の中から「来年は発行を一度にしよう」という声があがったとか。その流れにストップをかけるのが難しかったらしいが、なんとか今年並みの「年二回の発行」に漕ぎ着けたと言う。
 彼女たちから「人間、好奇心を失ってはダメ」ということを学んだ。

全国学校新聞コンクールで秦野から11紙が入賞
【No.453】 2006年02月25日

第55回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果が、今朝の毎日新聞紙上で発表された。応募総数は21854点で秦野市から11紙が入賞。
 これは今までの最多で、その内訳は中学校・学校新聞の部で4校、中学校・学級新聞で3クラス、小学校・学級新聞が1クラス、PTA広報が3PTAとなる。11紙のうちの北小学校5年4組・堀川小PTA・西小PTAは、いずれも「ベスト7」以内の入選ということで毎日新聞社での表彰式に招かれている。
 特に北小の学級新聞の入選は秦野市の小学校では初めてのこと。この入選に触発され、市内の小学校に新聞作りが広がってくれることを願う。
 来年度の全国新聞教育研究大会を開く秦野が、新聞作りの実力を示してくれたことに感謝したい。

挑戦
【No.452】 2006年02月14日

 4月から始まるPTA広報づくり講座のために、パワーポイントのソフトを買った。「今更」というためらいも大きかったが、「挑戦」への思いが勝った。
 昨日もA市からPTA広報講座の依頼が来た。これで8会場での講座が決まった。今年も200名を超える会場がある。そんな会場ではスクリーンを使って話をしたいと思う。
 パワーポイントが全ての会場で使えるわけではないし、今までの形式でもある程度理解してもらったと思っている。それに、これからの私の持ち時間を考えたら、新しいことなど考えなくてもいいのだが…、とにかく挑戦する気持ちになったのだ。
 せっかく広報委員になったのだから、楽しい広報づくりをしてもらいたいと思う。そのために私もがんばりたい。
 老いの視力には、解説書を読むのが何より大変なこと。3月いっぱいで第一版を完成させるつもり。

2月10日 全国新聞教育研究大会・秦野大会の第1回実行委員会
【No.451】 2006年02月11日

 8月3・4日に開かれる第49回全国新聞教育研究大会・秦野大会の第1回実行委員会が本町中学校で開かれた。
 この大会の主催者は全国新聞教育研究協議会(略称・全新研)と秦野市小・中学校の教育研究会。学校教育に関することで秦野市が全国大会の会場を引き受けるのはたぶんこの新聞大会が初めてだろう。
 全新研本部から田村事務局長と参事の私も加わり、16名の初顔合わせ。委員の半数は40歳以下の先生たち。秦野の新聞づくりに新しい力が加わると思うと嬉しい。第1回ではあったが日程は一応決定。大会のメインである研究分科会の数や提案者など、かなり具体的に話し合いができた。 
 秦野の中学校研究会には新聞研究部会という組織はあるが、小学校にはそれは存在しない。それだけに、新聞教育に対する意識に違いがありそう、戸思っていた。だが、会議ではそれが逆に小学校からの委員の積極的な姿勢をつくりだしているように感じられた。とにかく「秦野らしい大会に」という思いは全員がもてたと思う。現役でない私の役割は、委員会のサポートすること。
 会の後、田村先生を囲んで懇親会を居酒屋で。そこで分かったこと。田村先生の学校の校長先生と、秦野大会の実行委員長・地崎校長先生が大学時代一緒にアルバイトをした間柄だったということ。教員の世界って狭い、人の結びつきは摩訶不思議。
 帰りのバスの中で手袋が片方しかないことに気づく。

ハワイじゃないが、まっ、イイか
【No.450】 2006年02月08日

 昨日の朝日新聞『青鉛筆』欄に、お年玉付き年賀はがきの1等が二本当たった主婦が紹介されていた。確率は《100万分の1》だとか。
 この主婦が受け取った年賀はがきは18枚。その中の2通が当たったのだ。その人、賞品の「ペアでハワイ」の旅行券を二つ選んだ、とあった。昨年まで、「お年玉付き」の4等の下二桁当選は三つあった。それが今年から二つに減り、代わりに1等の本数が増えたのだそうだ。私のささやかな楽しみは一層小さくなっていたのに、この主婦はなんと《強運》。
 と、ひがんでいたら、今日ビール会社から私宛に封書が届いた。開けてみたら、「当選おめでとうございます。産地直送新潟コシヒカリを5kgさしあげます」という文書。酒のディスカウント店でビールを買った時、応募した懸賞の当選通知だ。
 「ハワイじゃないが、まっ、イイか(○○インの社長の言葉みたい!)」と、とたんに気分良くなった。そう、昨年は回転寿司に行った折、応募したらコシヒカリが2キロ当たったっけ。もっとも、両方とも応募したのは妻。

きょうもノウシントウ
【No.449】 2006年02月06日

 お医者さんに行き、3時半ころ帰ってきた。茶の間から入ろうとしたら、濡れ縁にメジロが横たわっていた。目は動くが、体は動かない。右手で、そっと握る。温かかった。ガラス戸に衝突してのノウシントウ。この間はヒヨドリが“落ち”ていた。
 茶の間には大きな素通しのガラス戸が入っている。けっこうキレイにしてあるので、庭の常緑樹がそのまま映る。それで鳥は間違えて飛び込むのだ。
ガラス戸が鏡の働きをしてしまうらしい。 妻にも見せ、数分掌の中に置いた。二階の窓を開け、そっと掌を開く。メジロは数秒間、私の人差し指をしっかりつかんでいたが、元気に飛んで行った。そして、まだほとんどつぼみになっていない梅の木に止まった。

立春
【No.448】 2006年02月05日

 立春の昨日、東京に出かけた。“打ち上げ”でちょっぴりビールを飲み、帰りの電車に乗ったのは8時少し前。車中では同行の二人と新聞作りの話に花が咲いた。Yさんが鶴巻で降りるとき、初めて車外が銀世界であることに気づいた。
 駅前で蓑毛行きバスの最終・9時37分発を待っていた。わずかに行き来する人がバリバリと雪を踏んで行く。 
 バス発着所のすぐ背後に居酒屋がある。そこから10人ほどの中年の女性が元気よく出てきた。その女性たちの輪から聞こえた声「次 どこに行く?」。

 今朝「立春の雪」を撮リ、ホームページに載せた。

節分
【No.447】 2006年02月03日

午後、本町公民館で新聞の話をさせてもらった。(詳しくはHPで)
久しぶりに肉声でしゃべったので声が枯れかけた。それに、相対したのは県下の指導主事の先生方だったのでペースを作るのも難しかった。
 帰りにジャスコの食料品売り場を通ったら、お母さんたちが人垣を作っている。覗いてみたら「恵方巻き」だった。今朝の「朝ズバ」で、みのもんたが食べていた。どうやら今年は大《ブレイク》らしい。今夜の夕食は無言で太巻きをほおばる家庭が多そうだ。江戸時代の米屋の販売作戦だとか。だから丸々一本食べなければいけないらしい。
 節分は「豆まき」のほうが私には自然なのだが、HPのトップが戸田からの「恵方巻き」のとおり、私も乗せられている。

二月のはじめの日
【No.446】 2006年02月02日

2月1日
 例年通りの「お棚納め」。6時に神棚や仏壇に灯明を上げ、温かい白いご飯を供える。朝食の後、家の中、屋敷内のすべてのお飾りを下げる。これで正月行事は終了。
 それにしても、今年の正月のこの国の混乱ぶり。マスコミの騒々しさの中から、その混乱の源を私なりに特定できたのだが。今日から二月、それらはすべて今月に持ち込まれ、事態はさらに悪しき方向に広がっていく。

 Tさんから、清水基吉監修の俳句集『愛といのちの十七文字』が送られてきた。句集だが、歳時記的にも使える。
 子規、逍遥、露伴、四迷、漱石、利一などの文人、加えて国語の教科書に登場する芭蕉から現代の俳人までと、その名を追うだけで楽しい。なにより面白いのは、今の「まち」の俳人の作品が大家と並んで掲載されていることだ。 
 前記のTさんは加藤楸邨の隣りにいる。このページには臼田亜浪、上田五千石、次ページには細見綾子、瀬戸内寂聴という具合。
 巻頭のページ次の五句
 麗しき春の七曜またはじまる     山口誓子
 七草を過ぎ何やらを過ぎ春となる   桂 信子
 一病を得て息災や老いの春      景山筍吉
 生くることようやく楽し老いの春   富安風生
 あたら春を死にぞこなうてしまひけり 坪内逍遥

 清水基吉の選びそうな、ここに並べそうな句だ。

きんつば
【No.445】 2006年01月27日

 飯田のまちから私の好きな《きんつば》が届いた。その箱に記されていた詩。騒然たるかの国を思い、しみじみと、詩ときんつばをほうばった。

 飯田の町に寄す  
            岸田国士

 飯田 美しき町 
 山ちかく水にのぞみ
 空あかるく風にほやかなる町

 飯田 静かなる町
 人みな言葉やはらかに
 物音ちまたにたゝず
 粛然として古城の如く丘にたつ町
 
 飯田 ゆかしき町
 家々みな奥深きものをつゝみ
 ひとびと礼にあつく
 軒さび甍ふり
 壁しろじろと小鳥の影うつす町

 飯田 ゆたかなる町
 財に貧富あれども
 身に貴賎ありとおぼえず
 一什一器かりそめになく
 老若男女みなそれぞれの詩と哲学とをもつ町

 飯田 天竜と明石の娘
 おんみさかしくみめよく育ちたれど
 今新しき時代に生きんとす
 よそほひはかたちにあらず

 美しく 静かに
 ゆかしく 豊かに
 おんみの心をこそ新しくよそほひたまへ

反響 NO3
【No.444】 2006年01月23日

編集委員になったような気持ちで読めました。

ここはこんなふうに歩いて聞き調べ 文字の組み立てはこれでイイかな?  色使いを見たり、読みやすく出来たかな? ここは苦労した!
 写真はこれでいいかな? 読者は行ってみる気になったかな?

 レイアウトをして、発行を待ち 発行され 反応は? 編集委員さんはこんな気持ちだったろうな?と。

 私が参加することになったら体力は無いので、イラストやパソコンを使うことくらいかな。大変だったろうけど、達成感はすごいだろうな…。

 「オアシス」いいですね! 
 娘(春美が)が「武先生そっくり!」と似顔絵を見て言ってました。                                真由美

「広報はだの」の反響 NO2
【No.443】 2006年01月20日

 編集委員の初野さんに届いた「広報はだの」についての感想。
 「初野さんがつくられた『市民が作る広報はだの』ですが、冒頭の、人をまちをつなぐ言葉―オアシス(おはよう、ありがとう、信じてる、すてき)は面白いと思います。皆様で考え出されたのでしょうか。また、秦野の歴史を訪ねる―歩いてはだの再発見は、写真入で興味深く、健康のため私もこれから訪ねてみたいと思います。おいしい安い秦野の水は、改めて、天然の水に恵まれた環境に生活できることを感謝せねばと感じました。このような新聞は、出来上がるまでには大変な時間を要されたと伺いましたが、折に触れ報じていただければありがたいと思います。本当におつかれさまでした。そして、ありがとうございました。」

 次は私宛の手紙。
 「広報はだの」ほんとうにすばらしい新聞ができましたね。1ページ1ページ、しっかり読ませていただきました。森下先生の写真に、私も一度訪ねてみたくなりました。普段は、「読んでしまったら終わり」の広報ですが、1月15日号は「明るさいっぱいの新しい年」にぴったりの広報です。とても嬉しくなりました。(K)

50本の深紅のバラ
【No.442】 2006年01月16日

 10時半、『市民が作る広報はだの』が発行できたことの報告とお礼をいうため、編集委員4人で市長室を訪問。その際、知人のSさんから届いた今度の『広報』の読後感を市長に読んでもらった。市長は「嬉しいですね。こんなふうに読んでくれて。この人どんな人なの。専門家だね、鋭い。市民もこんな読み方をしてくれたらいいね」。「これを契機に60、70周年と発行するといい」と言う。
 市長は、秦野市が誕生してから50年間、市役所に勤務している。それで、50本の深紅のバラをお礼とお別れの思いを込め、市長に贈った。


『市民が作る広報はだの』の反響
【No.441】 2006年01月15日

 きょう発行の『市民が作る広報はだの』の反響。
 午後3時半過ぎ、編集委員のMさんが「広報の反応、何かあった?」と訪ねてきた。何もないと答えたら「今、そこで広報を持った人に会ったよ」とニコニコのMさん。
 いつもの散歩のコースの鹿嶋神社の境内を通っていったら、一人の男性が「今朝の広報に出ていた学校水道の水源地はどこか」と近所の人に尋ねていたという。それで、Mさんは案内をしてあげたらしい。現地で、その男性は「広報の地図、これでは分からない。もう少していねいな地図が欲しい。案内板を作ったらいい」といったとのこと。秦野に来て十数年、北矢名の住人とのことだった。
 こんなに早く反応があるとは思わなかった。編集委員としてはとても嬉しいことだ。

校正ミス 
【No.440】 2006年01月12日

 今朝の朝刊に折り込まれた『タウンニュース』が、1月15日発行の『市民が作る広報はだの』を紹介してくれた。それを喜んでいたら「校正ミスがあった」と広報広聴室の磯崎さんから電話。確認したら“間違いない”ミス。なぜこんなところを 見落としてしまったのか。編集は私たちなのだが、発行は広報広聴室。申し訳ないことをしてしまった。
 午前中は春のような暖かさ。それで、一日早いが14日の「だんご焼き」に使うコナラの枝を切りに向林に行く。昨春、間伐をしてもらった檜林がそれらしい林になってきている。この檜は父が30年ほど前に植えたもの。用材になる太さに成長するのを、私は見届けることはできないだろう。 
 普通の畑だったものをミカン畑に替えた。だがそのミカン畑も手が回らなくり、檜を植えた。この変遷は典型的な農業の衰退。間伐をしなければ山は荒れ、やがて土砂崩れを引き起こす。来たついでに2時間ほど下草刈りをした。今年初めての農作業(山の「仕事始め」は2日にしなければいけないのだが…)。久しぶりの汗。

きのうで60000
【No.439】 2006年01月09日

このホームページヘのアクセスが、昨日の午後6万になった。ここ数日は100台のアクセスが続いている。多ければいいというわけもはないが、カウンターが付いていると、その数字がとても気になる。  
 たぶん集客力があるページは「ライブカメラ」だろう。私としては『秦野の新聞』と『寺山ものがたり』が看板だと思っているが、どちらもローカルでマイナー。だからこそ、この二つページに力を注がなくてはいけないと思っている。
 庭の給餌台のミカンを食べにくるヒヨドリが、時々この部屋のガラス戸に衝突する。昨日の午後も一羽、激しい勢いでガラス戸にぶつかった。外に出てみたらノウシントウを起こしていた。

『市民が作る広報はだの』の打ち上げ
【No.438】 2006年01月07日

1月6日
 1月15日に発行する『市民が作る広報はだの』の打ち上げ・ご苦労さん会を6時からレストランバーで開いた。集ったのは編集委員8人と市広報室の3人。この日に打ち上げをしたのは、私たちの広報が届く日だから。
 ビールで乾杯。苦労話も笑い声でできたのは、手にした広報の出来映えに満足だから。今回はていねいな取材をした。よく言われる「足で書いた記事」ばかり。全ページカラー印刷。私たちは自信を持ってこの号を 市民に手渡すことができる。

 各紙面の見出しで内容の紹介をすると、
1面のメインテーマは「人をまちをつなぐ言葉・オアシス」「おはようで始まる一日を」「With youありがとう」「辛抱から信頼へ」と、キイワードの『オ・ア・シ・ス』で紙面を作っている。
2・3面は見開きのレイアウトで『歩いてはだの再発見』の特集。「風の通い道そぞろ歩き・矢倉沢往還から蓑毛道」「大山道をめぐる水の物語」「本町地区の歴史的建物とくらし」。それに「第1回秦野丹沢水無川マラソン」に参加した委員のレポート、さらに実朝祭りの流鏑馬神事も紹介している。
4面は「おいしい安い秦野の水」「金目川の源流・髭僧の滝を訪ねて」「歴史ろまん波多野氏物語」で秦野の良さを再発見している。

私は「満足顔」です
【No.437】 2006年01月05日

 昨日の神奈川新聞が「市民が編集、広報紙発行へ」「秦野再発見、提案も」という二本見出しで、この15日に出る『市民が作る広報はだの』の紹介をしてくれた。三段見出し、記事は56行で写真付きの扱い。ほんとうにありがたいこと。たぶん大勢の人が15日を待っていてくれるだろう。私が「満足顔」と書かれているが、この記事の大きさはまさにその通り。
 編集委員の一人Cさんが年賀状でこんなことを書いてきた。
 「もうすぐ広報が出ますね。とても楽しみです。今回はあまりお手伝いできませんでしたが、とても楽しかったです。ほんとうにいろいろとよい体験をさせてもらいました。感謝しています。5キロマラソンは、久しぶりに清々しい心で走れました。今年は教育実習をします。《夢》が近づいて来ているように感じるお正月です。今年も頑張ります!!」
 Cさんがこんなことを感じてくれただけでも、この広報づくりは良かったと思う。
 8時前から雪になった。初雪、2センチくらいは積もったろうか。昼過ぎ、陽が指し始めた。

Sさんの年末年始
【No.436】 2006年01月04日

2日 例年のごとくお年始の太巻き寿司づくりを午前9時から始める。炊き上げた米は1升。酢の味加減も自分でやる。昔は、オボロ、高菜、卵焼きなども使い、本格的な太巻きに挑戦したが、ここ数年はやっていない。海苔巻きだけで、芯はカンピョウ、キュウリ、それにたくわん。2時間ほどで鉄砲巻きと太巻きを10数本巻いた。「上手になったわね」と女性陣にほめられる。腕前は確かに上がり、きれいに巻きけるようになった。でも、立ちっぱなしハ疲れる。
 11時半ころから『お年始』。今年はS家は喪中のため来ないので、少し寂しい。そのS家の主(義弟に当たるが)元旦を休むだけで勤務に就いている。 
 年末に来たときの話。配管工事が専門のSさんは、ある製造会社の工場の電気系統の配管を、その工場の正月休みの間(12月29日から1月9日まで)を使って工事をするのだという。その現場事務所を預かるSさんは、当然この期間中出勤なのだ。元旦が偶然日曜日ということで、「その日は何が何でも休む。現場で働く人がかわいそうだ」と言っていた。
 交通機関の関係者、サービス産業で働く人などは正月休みなど関係ない。そのことを承知で就いた仕事だ。Sさんは準大手の土木建築会社の社員である。毎年、正月休みノ楽しみはわが家の「お年始」とはゴルフだった。Sさんにとっては経験したことのない今回の暮れと正月。今日も現場の事務室で、建設業界の厳しい環境を身にしみて感じているのだろう。
  

大晦日から元旦へ 
【No.435】 2006年01月01日

12月31日
 6時起床。6時50分から食事。8時過ぎから昨日の続きで正月を迎える準備。先ず電灯の掃除、これがけっこう大変で個数でいえば67。10時になったのでバアちゃんに陽当たりのいい縁側に移ってもらい、バアちゃんの部屋のお正月の飾りつけをする。掛け軸を「双鶴」に架け替え、干支の焼き物を《犬》を先頭に並べ変える。ここまでで昼食。
 家中の「電灯」がキレイになったのは午後2時過ぎ。次にトイレと浴室の掃除。終わってお寺に一年のご挨拶、そしてお墓に注連飾り。帰りに延沢川で《ひとがた》を流した。
 4時半から「年越しそば」を茹で、そばつゆを作る。5時15分から神棚仏壇など5カ所に灯明を点け、お神酒とそばを上げる。バアちゃんを交えてのわが家の年越しの夕食は6時少し前から。長男とビールを少々。テレビは「第九」、月並みの表現だが、大晦日の「第九」はその気で聴くことができる。その後は6、8チャンネルを交互に観る。途中、バアちゃんの就寝前の歯磨きの手伝い。「紅白」は今年は全く覗かなかった。もう私が楽しめるな歌はほとんどない。「行く年来る年」で薬師寺、延暦寺など懐かしく観た。 0時15分、鹿嶋神社と円通寺に初詣。帰って「初湯」。床に就いたのは1時半過ぎ。これで大晦日が終わった。

2006年1月1日
 午前6時15分起床。《あきの方》の茶の間のガラス戸を開ける。冷気が新年の厳粛とも感じられた。この後、灯明を点け、お雑煮を神棚など5カ所にあげる。食卓の屠蘇の準備もする。これ等はみんな年男が三が日する仕事。7時半に祝い膳に着く。食事か終わると神棚に供えた雑煮を下げ、今度は鏡餅を上げる。豪華な?元旦の新聞を広げるころ、年賀状が届いた。

 「なぜこんなことを」などと思うことは全くない。続けられる気持ちと体力がある限り、続けよう。

注連飾り
【No.434】 2005年12月30日

 8時半ころから注連飾りの準備。先ずは神棚の宮形を庭に出し、はたきと雑巾できれいにする。次に神棚の掃除。そして宮形の中の御札の入れ替え。今の段階では伊勢神宮、阿夫利神社、笠間稲荷の三社。日本は八百万の紙の国、わが家二降臨される神も多くなる。寺山の氏神、鹿嶋神社のお札は元旦にいただく。 
 穏やかな天気だったので庭にゴザを広げ座リ込み、輪飾りを作っていた。すると、通りからここちらを見ている少年がいた。「何か…」と声を掛けたら、「注連縄を飾るんですが、太いほうがどちらか分からなくて、近所を見て歩いているんですが」。
 まだ15、6歳くらい。聞けば隣りの宝ケ谷戸自治会のM家の子どもさん。わが家から100メートルほど離れている。「付いていた説明書を今朝ゴミとして出しちゃったので」と言う。この間の植木屋さんの話では、家の中に注連飾りをする家は寺山でも数えるほどしかないとのこと。 
 M家は10年くらい前にこの寺山に住まいを持った。その家が、しかもどう見ても高校1,2年生くらいの少年が、お正月の注連飾りの手伝い、イヤもしかしたら家族に頼まれて一人で注連飾りをするなんて…、驚きだし、それよりなぜか嬉しかった私。茶の間の恵比寿大黒の神棚にも注連縄が張ってあるので、それを見せ帰ってもらった。「左が太いほうですね。ありがとうございました」と言って帰っていった少年。
 彼が帰ってから急に不安になった。ウチの飾り方が正しいのだろうか。インターネットで調べた。左が太いのは出雲大社の注連縄、ということを知りホッとした。だが、おおよそ8割の神社はその逆(右が太い)。夕方、M家の電話番号を探し、右・左があることを伝えた。電話の向こうでお父さんがとても恐縮していた。これも日本の正月の一シーン。

神奈川新聞の論壇に共感
【No.433】 2005年12月28日

12月26日 
今朝の神奈川新聞の論壇のページ。『辛口時評』で森島昭夫氏が「株取引の常識とは」と題して次のように書いている。
 「この株取引の顛末は東証ITシステムの欠陥問題などもからんで連日マスコミが取り上げ、証券業界を大きく揺るがしている。
 ところで、これに似たようなことがわれわれの日常生活の中で起きたらどうなるだろうか。八百屋さんが千円のメロンに間違って隣の三十円のリンゴの値札を付けていたとしたら、買い物に来た主婦は、メロンは普段は千円だが今日は三十円の値札がついているのだから、三十円しか支払わないと言い張るだろうか。多分『おじさん、値札が隣のと間違っているよ』と八百屋さんに注意するであろう。」
 次は同じ面の白石真澄氏の「小さな政府 誰が担う地域社会」の一部である。
 「奥田碩・日本経団連会長は十二月初めの記者会見で『日本全体が金目当ての国になりつつある』と懸念を示したが、私には日本列島を覆い始めた《競争》の大波が人びとのこころのありさまを少しずつ変え始めているようにみえる。
 私はここ数年、PTA活動を通じ地域とかかわってきたが、現在の家庭や地域社会は、私が子どもだったころと明らかに違う。何が違うか。どの家庭もやたらに忙しいのだ。背景はさまざまだが、共働きや残業など、「社会の生産活動」に携わる時間がここ数年ですさまじく増えているように思う。
 PTAの役員に名乗りをあげる人はまず見つからない。子どもが小学校に入ると母親たちはパートに出始め、共働き世帯数は夫だけが働く世帯数を上回り、母親たちは昼間、地域に不在となる。多くの父親たちも休日出勤やサービス残業で依然として家庭を顧みる余裕はない。
 大人たちの時間と意識が地域社会の外に向き、昼間の住宅地や通学路で子どもたちを見守る目は減少する。家庭の集合体である地域社会は、生産現場への人材拠出によって自治機能を失いつつある。企業だけでなく、家庭や個人も『効率』や『競争』を強く意識するようになったのだ。無駄なもの、利益に寄与しないものを『民』の競争原理によって省いていく。その過程で、同時にそぎ落とされる大事なものを私たちは見落としていないだろか。」
 二氏の意見に共感。

12月27日
広報広聴室、そして母がお世話になっているライフプラザに今年一年のご挨拶をしに行く。午後2時、来夏の新聞大会について事務局の先生たちと二時間ほど話し合う。「秦野で開くのだから」を基本に、研究分科会の持つ方について意見の交換。話が進むにつれ、構想は膨らんでいくのだが、現実にはスタッフを集めるのに苦労しそう。一月中に大会のアウトラインを決めて欲しい。
 きょうある団体から手紙が来た。その文面に「今年は屈指の寒さで…」とあった。「《屈指の寒さ》という表現、いいのかなあ」。
 年賀はがき投函。自治会の配り物の配布。退職教職員の会の会報も12軒に届ける。

全国高校駅伝
【No.432】 2005年12月26日

12月25日
 8時から畑の隅で焚き火。「焚き火」と書くと体裁いいが、植木屋さんの残した小枝が中心だから、もうもうたる煙。「これは環境破壊!」と気になって、見回すとあちこちから白い煙が立ち昇っている。風か全く無いので煙は流れていかない。なるべく小さな火にして…。そんなことしたって結果は同じ。年に一度、許してもらう。
 10時からテレビの前に座る。こんな時間にテレビを観るのはまったく珍しいこと。最近、夜もほとんどテレビは観ない。イヤ、観ていられない。気力が無いのだ。だが今日は違う。京都での高校駅伝の中継。昨年に引き続き、母校の秦野高校の女子が走る。今回で三度目。第1回大会に出場した時の放送は覚えている。出場校の紹介に、その学校の選手を一人映した。秦野高校は木村選手だった。
 昨年、県予選で1秒差の勝利、15年ぶりの復活。そして今年と二年連続。高校総体に出場した選手はいたが、入賞するというような強い選手はいないチーム。ところが、解説者が何度も「秦野は大健闘ですね」というように堂々の12位。見事な走りだった。身が引き締まるような喜びを感じた。

 「宝塚記念」を観た。武豊でディープインパクト、勝てなかった。

きょう 冬至 二学期の終わり
【No.431】 2005年12月22日

 一昨日から植木屋さんに入ってもらっている。それで10時と3時の「お茶」のお相伴をする。二人とも寺山の人、しかも長いお付き合いなので話が弾む。3時の「お茶」では、葉たばこの納付の時の検査の裏話。
 きょうは朝9時からバアちゃんは入浴。そして10時のお茶。その片付けが済むころはバアちゃんの食事の準備が始まる。
 昼休みの間にスーパーに冬至のユズを買いに行く。
 1時過ぎ、西小の広報委員二人が刷り上ったばかりの広報を持ってくる。「二カ所誤植が見つかった」とかなりショックの様子。子ども連れ、そう、今年は今日で二学期は終わりなのだ。ミカンを二個あげたら、女の子がそのミカンでお手玉を始めた。
 「市民が作る広報はだの」の編集委員に立候補してくれた5人の学生を『青少年のよい行いをほめたたえる運動』の褒賞者に推薦しておいた。その結果が届いた。被褒賞者に選ばれた。よかった。
 ユズの話に戻る。徳島産のパック入りのユズ。香りがいいのでパックを開けてみた。そうしたらユズを湯船に浮かべる袋が付いていた。思わず「ヘエー」、去年までウチではハンカチに包んで浮かべていた。

出張校正
【No.430】 2005年12月21日

12月19日 
 「広報はだの」の出張校正で小田原へ。
 広報広聴室が発行する1月1日号の校正のために広報室から3名。1月15日号の「市民が作る」のほうは私たち4名。
 同じ部屋で10時前から始めた。私たちの「市民が」は、見出しの文字の大きさや色を考える程度。隣りのテーブルの1日号は、とりあえず送り込んだ原稿をその場で書き直すなどという大変な作業をしている。携帯と部屋の電話をフルに使い、覗き込んだ紙面は《真っ赤》。
 私たちのほうと掛け持ちのチーフのIさんは「今夜は多分11時」とにっこり? 4面にかなり時間と手をかけた。4校まで行い、5時半ごろ失礼させてもらった。私たちとしては満足な紙面。
 
 出張校正の思い出。私が秦野で学校新聞を指導していたころ(昭和40年代)は、沼津の日興印刷、小田原の神静民報、伊東の東海美術印刷に出かけていた。旅費も時間ももらえた出張、申し訳ないが旅行気分だった。

 この日記を書いていたら 広報広聴室のIさんから電話。一つの記事に校正ミスが二つもあった。相変わらずの私! でも、他の3人も目を通したのに。先入観は怖い。

夕刊の記事二つ
【No.429】 2005年12月14日

12月13日
 学期末はPTA広報の発行時期。PTA広報5紙の講評を書いた。厳しい家庭経済のため仕事に出るお母さんの増加、活動のマンネリ化などからPTA活動への関心は著しく退化している。そのためか、特に高校のPTAは広報発行にお金をかける。だからオールカラーの豪華な広報ができる。その流れがそのまま小・中学校のPTAに来ていて、カラー印刷の広報が多くなった。「なぜカラーなのか」などあまり話し合われず、「きれいだから、他校も作っているから」ということで写真集のような広報が作られている。そんなことを混ぜた、ちょっぴり辛口の感想を書いて送った。
 「再度印刷をし直しました」という広報も届いた。付けられた手紙で「校正をしなかった箇所が印刷所によって変えられるなど思いもしませんでした。それに気づかず配布してしまった」と自分たちの不注意をわびている。訂正版と初版のを読み比べてみたら、学校への質問のコーナーで、学校からの回答の文が改訂版では20文字ほど増えている。ここが《刷り直し》された遠因ともみえた。
 「初校が出るので見て欲しい」とB小に頼まれていたので、委員長さんの来訪を待っていた。夕方5時半ごろみえた。「印刷屋さんがレイアウトどおりに段組みをしてくれない」と困っている。見る限りでは、印刷屋さんの「面倒なことはイヤ」という仕事振りと思えた。PTA広報はあまり商売にはならない仕事だが、紙面を作る記事を読めば、広報を作るお母さんたちの願い、そしてPTA広報が果たす役割は理解してもらえると思うのだが。このB紙の特集は「家庭・学校・地域で守る子どもの安全」で「知らない人からの声かけ81件」というトップ見出しをつけ、3ヘージで組まれている。A紙が取り組んだテーマも「大切な子どもを守るため 今できることを」。

☆夕刊の記事二つ
 その1「他証券が利益『美しくない』―与謝野金融相」。誤った売りと
分かっているのに、大手の同業者が大量の株を購入した。その行為は「商売だから、まして《株》だから」とは思うが、《武士の情け》みたいなものはないのだろうか…。もっとも外国の証券会社が中心の買いだったが。
 その2「道を聞かれたらすぐ逃げなさい」「人を信じたら身を守れない」警察官が小学校の防犯講話の中で使った言葉だという。今の日本の現実はこの言葉の通りかもしれない。だが、この言葉を子どもたちが信じ、行動したら学校はどうなるのだろう。先生にお願い、この言葉のフォローを心を込めてして欲しい。そうでないと、子どもたちがかわいそう過ぎる。

凍て雲
【No.428】 2005年12月13日

12月12日 
 ウチの近くの県道の交通情報板に、「ヤビツ峠より先チェーン必要」と出ている。数日前降った雪が残っているのだろう。昨日の朝、陽光があったのにしばらく粉雪が舞った。というわけで、ようやく部屋の模様替え。電気カーペットにした。
 7時から『市民が作る広報はだの』の編集会議。自宅で行った校正を持ち寄り、まとめる作業。情報を正しく伝えるためには、読みやすい、分かりやすい記事でなくてはならない。「『湧く』『汲む』』という漢字は使えるかどうか」などというような検討に時間を要した。今度の号にも清水や地下水二関係する表現がたくさん出る。『名水百選』の地・秦野だから当然なのだが、もっと新しい視点も持てる秦野でありたいとも思う。
 題字の担当はNさん、市の花の山茶花、撫子、紫陽花、辛夷をあしらったかわいらしい題字をその場で描き上げた。9時半まで頑張る。次は15日、市長さんも加わリ最終の編集会議。
 山茶花を「サザンカ」と発音するなら「茶山花」が正しい表現。誰がまちがえたのかなあ。

初校 始まる
【No.427】 2005年12月08日

 『市民が作る広報はだの』の初校が届いた。全ページを一通り眺めた。この号での私たちの主張は4ペーシを通して一貫していると思った。紙面もスッキリとしている。各面のチーフもホッとしているだろう。
 12日の編集会議で検討することは『見出し』。ゴシック体のものが多い。明朝体とのバランスを取ってもらうつもり。小見出しを含め、全体的に大き過ぎる。余白が少ないと読んでいて苦しい。その参考になるように、新聞や雑誌からさまざまな書体の見出しを切り抜いた。オールカラーなので、色のバランスが難しいが、編集委員の中に美大を出たYさんがいるので心強い。そして最後の砦は広報室のIさん。
 もう一つ50周年事業で私が関わった『秦野の景観の選定』は、明年1月末に発刊される予定の冊子の編集作業の追い込みに入っている。昨日、分担の原稿をまちづくり課に渡した。こちらも完成が楽しみ。
 
 今日は12月8日だ。 

編集委員二人も参加 第1回はだの丹沢水無川マラソン
【No.426】 2005年12月04日

 市制50周年の記念事業の「第1回はだの丹沢水無川マラソン」が今日開かれた。北は北海道、南は福岡から4200人のランナーが集まった大きな大会になった。
 『市民が作る広報はだの』の編集委員会は、取材を兼ねて大学生のCさん、中学生のAさんの二人の女性ランナーを参加させた。「歩いて秦野再発見」の続編として、マラソンコースを走りながら秦野らしさを発見する、という取材のためである。
 今度の号の最後の取材ということで、カメラを持ってスタート地点に行った。Cさんは高校時代ハンドボール部に所属。Aさんはこの夏までバスケ部だった。だが二人とも今は全く走っていない。それだけに不安そうだった。「歩いて帰ってきてもいいんだから。新しく設けられたマラソンコースから、秦野らしいものを見つけるために走るのだから」と言う私に、Aさんは「周りなど見ている余裕なんてありません」。二人が参加した5キロの部には800人ほどが登録されていた。 
 二人の結果は、なんとCさんが部門別て10番台、Aさんm20番台でゴールした。「スゴイ!」。二人はさわやかな笑顔で完走賞を私に見せてくれた。
 これで『市民が作る広報はだの』の取材もさわやかに“完走”。

きょうは「市民が作る広報はだの」の出稿日
【No.425】 2005年11月30日

28日に『広報はだの』の最終編集会議を持った。Nさんの手描きの題字も出てきた。市の花をテーマにした題字だったが、「山茶花」と「コブシ」が十分表現されていないので、もう一度描いてもらうことにした。S先生に頼んだ編集委員の似顔絵はけっこう楽しい作品。話題になるかもしれない。
この日の2時間で、全てが整理できるはずはなかった。「29、30日は自宅に詰めているから」と言い、各面の責任者に記事、写真、レイアウトなどを持ち帰ってもらった。  
 この二日間で10回、原稿が私とHさんとの間を行き来した。メールというもののお陰。今日の5時に出稿することになっている。  
 委員の皆さんには大変ご苦労をかけた。この号は『歩いて秦野再発見』を主題にしたので、ほとんどの委員が今まで足を踏み入れたことのない地や、歩いていても気が付かなかったことに目をやることができたようだ。苦しいこともあったが、《役得》ともいえる幸せなことと思っている。
 私も市内の大山道・矢倉沢往還を3度検分して歩き、新たな発見もできたた。旧善波峠を訪れたのは何十年ぶりだったろう。本町地区の歴史的建物も2度見て歩いた。建物が持つ歴史を学んだ。所有者の悩みも聞かされた。
 来週の5日に初校が上がってくる。12日は二宮市長を交えて記事の最終確認。二宮市長さんが『広報はだの』の編集会議に加わるのは、私たちのこの広報が最後になるのだろう。そして、平成18年1月15日が発行日。
 その前に、最後の取材が控えている。12月4日は第1回丹沢水無川マラソンの日。その取材ということで、編集委員の高橋さん(15)と鎮西さん(19)の二人の女性が出場する。 
 『市民が作る広報はだの』の編集に参加してきた委員の積極性の象徴が、この二人のマラソン参加だと思う。精一杯応援をするつもり。 

第5回湯河原文学賞
【No.424】 2005年11月29日

11月26日
 東京で全国新聞教育研究協議会の全国理事会に出席。会場は虎ノ門の霞山会館。隣にあった国立教育会館は消えていた。後で知ったが、文部科学省も建て直しがすすめられているとか。
 理事会には北海道、山形、群馬、茨城、千葉、東京、神奈川、静岡、大阪などから37名が出席。神奈川は川崎の西川先生と秦野の谷津先生と私。
 秦野は第49回全国新聞教育研究大会を来年8月3、4日に開くことになっている。その準備の様子を谷津先生が報告した。この全国大会は「神奈川・秦野大会」と銘打ってあるように、全新研と秦野市中学校教育研究会が企画運営をする。具体的には秦野の中学校の新聞研究部会がその中心になる。
 過去に48回の大会が開かれてきたが、今回の秦野大会のように9中学校という規模の組織が大会を開催したことはない。これは新聞作りが盛んな秦野だから可能なのだと誇らしく思う。12月から準備が本格化するらしい。できる限りの応援をしなくては、と思っている。


11月27日
 午後、電車で湯河原町へ。「第5回湯河原文学賞・俳句の部」の表彰式に招かれていたから。 
 「入賞」という連絡だけだったので「もしかしたら」と変な期待を持っていた。だが結果は「佳作」。考えれば当然過ぎるほど当然。俳句は鑑賞するが、作句は全くしていない。それなのに今回応募したは、湯河原町から応募用紙が届けられたので、「それでは」というような失礼な態度の私。 
 平成15年に始めて応募して入賞。選者の黛まどか先生に会いたい一心で応募。幸運なことに選んでいただいた。
 今回の応募総数は4222で入賞は最優秀1、優秀9、佳作20の計30句。「まぐれ」にしてもスゴイ! まどか先生に再会。
 第5回のテーマは「山」で有季、定型

 山を負ふ軒にふくれて干布団   武 勝美

11月25日の神奈川新聞
【No.423】 2005年11月26日

 朝6時(この時間はかななり正確!)、新聞を読むことで一日が始まる。先ず地方紙を広げる。昨日は特集ページが組まれていて県学校新聞コンクールの最優秀新聞が縮小版で載っていた。この日がコンクールの表彰式だからだ。
 秦野東中の『東中新聞』も掲載されていた。広報委員会の子どもたちの写真も付いている。その写真でHさんを探した。Hさんは広報委員長でわが家の前の道が通学路だから、顔はよく分かっている。「あれ?いない」。「T先生は」と探すがこちらも写っていない。改めてその集合写真を見たら制服が違う。東中の女子はボウタイを結ぶのだ。エエ?と思い、紙面のもう一枚の写真に目をやると、そこに見覚えのある背景の前にHさんとT先生たちのの姿があった。川崎・宮前平中学校と東中学校の写真が入れ替わっている!
 6時半になったので神奈川新聞社に電話をした。この時間の受付は警備室らしい。専門家ではないようなので、どのように伝わるのか気にはなったのだが、姓と電話番号も告げ、電話した主旨を話した。
 7時半ころS記者から電話が入った。ガセネタを恐れての確認だが、私のフルネームの確認もされた。こんな時間に訂正を持ち込むということは嫌がらせとも取れる。あるいは“功名心そのもの男”ととられた…。 
 こんな行動をとった理由。過去の例で言えば、今日の表彰式の会場でこの紙面は出席者に配られる。子どもたちにとって新聞に載るということはとても感激のはず。それなのに訂正、しかも写真の間違いでは、子どもたちは悲しいし失望感さえ持つ。新聞のへの信頼感も揺らぐ。せめて会場にで配られるものは刷り直しをして欲しい。6時半に「写真の間違い」を連絡したのは、この時間からならもしかしたら刷り直しが合うかもしれないと思ったからだ。《刷り直し》は子どもたちにも新聞社にも次善の策だと思ったからだ

 こんなことをするのは、はやっぱりオセッカイなのだろうか。
 昨日のこのできごとがどう決着したのか知らない。今朝「写真は逆」という訂正が紙面でされた。

写真撮影
【No.422】 2005年11月23日

 秦野市東田原には源実朝公の御首塚がある。今日はその「実朝祭り」の日。まちづくり・地域興しの事業として東地区の自治会が始め、今年で第18回。特に今年は秦野市制施行50周年ということで「流鏑馬」が実朝公に奉納された。 
 神奈川県の無形民俗文化財に指定されている山北町室生神社流の流鏑馬保存会が招かれた。山北町の流鏑馬は河村氏が奉納したものだが、その河村氏は波多野氏一族。言うならば波多野家の分家である。流鏑馬を見学するのは初めて。 
 紅葉の山々が遠くに眺められる田んぼの真ん中に、350メートルの直線の馬場が仮設された。そこを鎧兜を着飾った射手が白馬を繰って駆け抜けた。放たれた矢は三本の矢は見事に的を射く。駆け抜ける人馬から2メートルほどのところに立ってカメラを構えた私。だが、馬の速さにカメラのシャッターが合ったかどうか。馬は速い!
 その写真撮影のこと。私の横に『撮影』という腕章を巻いたカメラマン(多分アマチュア)が3人いた。その中の一人が囲われたロープの外に出て三脚を立てカメラすえつけていた。この『撮影』のグループに、5メートルほどはなれたところに陣取ったカメラグループから声がかがった。「こっちのカメラにあなたたちが入ってしまう。内側に入ってよ」。「こっちは市から頼まれてるんだ」と小声でつぶやき無視する腕章グループ。
 やがて主催者の一人が腕章グループに所定の位置に入るように話をしにきた。「私たちは市から頼まれているんですよ」と腕章グループ。すると「市から頼まれたからといってルール違反をしていいの」と声が飛ぶ。
 やがて腕章グループの一人が声の主のカメラを覗きに行き「やっぱりそこに立ってはダメ。全然見えない。側溝に腰を下ろせば邪魔にならない」。ということで一件落着。
 実は今日私も『報道』という腕章を広報広聴室から借りて持っていた。『市民が作る広報はだの』の写真取材をするためだった。借りるとき広報広聴室のIさんが笑いながら「先生、その腕章をつけていたって『邪魔だ』といわれますから」言ったことを思い出した。

原稿整理
【No.421】 2005年11月21日

 東公民館で「市民が作る広報はだの」の編集会議を9時半から始めた。来週28日が最終の編集会議なので、その前に出来上がっている原稿を各面の担当責任者6人で原稿のチェック。
 秦野市が発行した来年のカレンダーに「1月15日『市民が作る広報はだの』発行」と書かれていることを、昨日水野さんから知らされた。それを力に「今日の仕事を頑張りましょう」と皆さんに話す。
 今号のテーマは「歩いて秦野 再発見」と「まちを人をつなぐ言葉」の二つ。「歩いて…」は、大山道(矢倉沢往還)の道標を探し歩きながら往時の波多野庄の人々の生活二思いを馳せるという内容。「まちを…」は「お早う」が響くまちづくりを呼びかける企画。自治体の発行する広報としては“異色”と自負している私たち。
 「ゆったりとした紙面」づくりも心がけ、見る広報という編集姿勢もとっているつもり。
 さて、きょうの原稿整理。懸命に書いた記事に《朱》を入れるのは心苦しいことで辛かった。それでもかなり書き直しをお願いした。これが最後ということで、快く受け入れてもらい有難かった。
 昼食をとるタイミングを失し、2時まで一気に作業を続けてしまった。申し訳けなかった。 
 今回の取材で、知らない秦野のあちこちを訪ねることができたのは良かった。これは《役得》。
 
 
 

波多野氏物語
【No.420】 2005年11月20日

 秦野市制施行50周年の記念事業である『歴史浪漫・波多野氏物語』が文化会館を中心に展開されている。昨日はそのメインである「波多野氏ゆかりの市町シンポジュウム」が開かれた。
 この地、波多野庄を出自とする波多野氏は、承久の乱、南北朝の乱に関する資料でその名を散見できる。そして、波多野氏の一族は全国27地方に領地を得ていたようだ。 
 それらの領地を現在抱えている7つの市町の専門家がこのシンポのために秦野に来てくれた。その7市町は、新潟・荒川町、愛知・御津町、福井・永平寺町、富山・南砺市、三重・亀山市、島根・安来市、島根・益田市。それぞれの波多野氏にまつわる話は面白かった。
 波多野庄の分家である御津町には波多野姓を名乗る家が数十あるとのこと。それに比して、本家である秦野では波多野氏に関する墓や寺など史実的なものは一つも存在しないという現実は興味深い。御津町の波多野姓は「はだの」と読むという。これはこの地秦野「はだの」と同じ音。この話を聞き、御津町にとり親しみを覚えた。
 このシンポ、あまりに時間が短かった。パネラーが一度しか発言できなかったのだから。わざわざ来秦していただいたのに、ほんとうに申し訳ないと思った。
 さて、23日には実朝公御首塚の前で「流鏑馬」が行われる。「広報はだの」の取材もあるので天候を気にしている。

3日まとめて
【No.419】 2005年11月15日

11月12日
 東公民館祭りの日。秦野園芸愛好会に加わって7年目。今年も会が『菊花展』で参加するので、私も出品。自分としてはしっかりしたものが出来たと思って持ち込んだのだが、他の会員の作品を見て「持ち帰ろうか」と思った。出展し始めてからずっと同じ思いになる日。
 「菊は大変でしょう」と聞かれるたびに「そんなことないですよ」と答えている私。「大変なこと」をしていないから、この程度の花しか咲かせられないのだ。
 秦野園芸愛好会は元教員の会で現在24名。会のメインイベントは、“行灯作り”のアサガオの展示会と、この公民館祭りでの菊花展。それに研修旅行。
 この研修担当が私のこの会での役割。今日その研修旅行への参加者数の確認。17名の参加で過去最大。今回は『鮟鱇鍋を訪ねて』という企画。袋田の滝を見て、西山荘も見学。テレビの黄門さんの“格さん”役の合田雅吏さんは秦野市寺山生まれ。会員の森下さんは隣組なのだから、参加者は増えるはず。
 午後6時から同窓会に出席。今年50歳を迎えた子たちが40名くらいか。職場で家庭で力強く生きている顔がまぶしかった。招かれた教師は80歳代の石井朝子先生、“かくしゃくたる”という表現がぴったりの挨拶をされた。続く私はしどろもどろ。初めて参加の61歳の高橋利夫先生は同級生と見間違えられるほど若々しかった。 

11月13日 
 昨夜帰ってきたのは11時。「私 バカよね」と歌ったとおり、歳も省みずはしゃいだ罰でどうやら風邪を引いたらしい。  
 朝メールを開けたら、全新研の吉成勝好先生から『東京・練馬の大山道』というメールが届いていた。西東京市を通る大山道の写真と資料をいただいた。こんなふうに『エコー』を読んでもらえるととても嬉しい。

11月14日
 『市P連だより』の次号の編集者3名来訪。企画を一緒に考えた。『子どもが危ない』を基本テーマにすることに。途中、知人から電話が入ったが、私の声があまりに違うので戸惑っていた。そんなひどい声で、大山阿夫利神社の豊年講の献上米を集めに回る。これは生産組合長の仕事。


卓話
【No.418】 2005年11月11日

 秦野中ロータリークラブに招かれて卓話をした。タイトルは『秦野の地名ものがたり』。会場は源実朝公の御首塚の隣りの「田原ふるさと伝承館」。手打ちそばと古代米のご飯を会員の皆さんといただいた。40分の持ち時間では無理なことは分かっているが、次のようなレジュメを作った。
 
◇秦野の地名ものがたり・レジュメ◇
1 地名・秦野の由来
2 秦野市内の地名
 鶴巻 平沢 渋沢 千村 曽屋 蓑毛 
3 地名と付会
  田原と御門(藤原秀郷こと田原藤太と平将門)
  落幡(善波太郎重氏)
4 地名から知る秦野の人々のくらし
 @金目川(大口、奥笹川、轟、落合、大槻、欠ノ上、飯島)
 A舞ケ久保(寺山) 踊場(堀西) 踊宮(戸川) 舞台(鶴巻) 菩提
 B上宿・下宿
5 地名は大地に刻まれた歴史の碑文
 @南セントレア市(愛知・美浜町と南知多町)の顛末
  centrair(セントレア) centralと airportからの造語
 ※太平洋市(山武町・成東町・松尾町・蓮沼村)、中央アルプス市(駒ヶ根市・飯塚町・中川村)もご破算 黒潮市(須崎市・中土佐町)は誕生
 A長野県豊科町(鳥羽・吉野・新田・成相村)
 B韮崎市清哲町水上・青木・折居・樋口(清哲村は水上・青木・折居・樋口村が合併、明治の大合併で)
 C遠い先人の暮らしや風土、自然の地形を知ることができる大切な遺産
 D清水湧水池跡記念碑

資料
(1)「平成の大合併」と地名
 @明治の大合併(1888−1889年)
  1889年・明治22年 秦野町、東秦野、西秦野 南秦野、北秦野、上秦野の各村の誕生
 A昭和の大合併(1953−1961年)
  1955年・昭和30年 秦野町、南秦野町、東秦野村、北秦野村が合併し秦野市誕生
 B平成の大合併(2003−2006年3月31日)
   平成15年 9月1日  678市  1951町   552村
   平成17年11月7日  754市  1124町   271村
   平成18年3月31日  772市   868町   205村
(2)誕生したひらがな・カタカナの自治体
うるま市(沖縄) いちき串木野市(鹿児島) 南さつま市(鹿児島) さつま町(鹿児島) あさぎり町(熊本) みやき町(佐賀) みやこ町(福岡) うきは市(福岡) いの町(高知) 東みよし市(徳島) つるぎ町(徳島) さぬき市(香川) まんのう市(香川) 東かがわ市(香川) たつの市(兵庫) 南あわじ市(兵庫) かつらぎ町(和歌山) みなべ市(和歌山) あわら市(福井) おおい町(福井) かほく市(石川) 南アルプス市(山梨) いすみ市(千葉) さいたま市(埼玉) ふじみ野市(埼玉) ときがわ町(埼玉) かすみがうら市(茨城) つくばみらい市(茨城) さくら市(栃木) みどり市(群馬) みなかみ町(群馬) にかほ市(秋田) おいらせ町(青森) つがる市(青森) せたな市(北海道) むかわ町(北海道) 新ひだか町(北海道)

 

学校新聞コンクール14連勝
【No.417】 2005年11月09日

神奈川県の高等学校・中学校学校新聞コンクールの結果が発表になった。秦野の中学は今年も頑張り良い結果を得た。
・学校新聞の部 ◇最優秀賞 東中学校 ◇優良賞 鶴巻中学校 ◇佳作 本町中学校
・学級新聞の部 □佳作 渋沢中学校3−1  □努力賞 東中学校3−2
 学校新聞の部では、秦野市の中学校(大根、東、渋沢、鶴巻)が14年連続で最優秀賞受賞。

夕方の電話
【No.416】 2005年11月08日

 昨日の夕方、回転寿司屋から妻に電話が入った。「こんな時間に、新規開店の案内」と思い、切ろうとしたら「おめでとうございます。当選です」。 「新米が当たったんだって。慌てて切らなくてよかった」と妻。ひと月くらい前、246沿いの店に行ったことがあった。そのときレジで応募を勧められたらしい。それが見事当選。何キロもらえるのだろうか。
 今年1月、バアちゃんに三等の年賀はがきが舞い込んだ。7月、私がJAの福引きで1等を引き当てた。そして今度は妻にお米。このままでは“車に当たりそう”なので、「年末ジャンボ」で“大当たり”を先に取ってしまおう。

ホームページを少しいじる
【No.415】 2005年10月31日

☆『広報はだの』の仕事を10時から。
 編集委員5人で本町地区の古い建物の写真を撮りに歩いた。記事を担当した中3の女生徒の二人の取材風景を、という狙いだったが、街中なので自由な構図で撮れない。この取材で歩いた歩数7000余歩。
 11月1日には矢倉沢往還の写真を撮りに行くことになっている。カメラの森下先生にはご苦労をかけっぱなし。

☆午後、ホームページを少しいじった。
 この4月まで小学校の先生だった原田さん(今フィリピンで生活している)からのメールに応えて、原田さんのページを私のページにリンクした。
 私が原田さんに“応えた”理由は11月1日更新の『最新』のページ二書きます。
 ついでに『ライブカメラ』のページに「丹沢連峰」を加えた。これは秦野市提供の定点カメラ。大山、岳ノ台 二ノ塔、三ノ塔などの今がパノラマで見られる。

同窓会
【No.414】 2005年10月29日

 同窓会でのこと。Kが私の席に来て「先生、35年ぶりです。どうぞ。」と酒を勧めなら、「先生。先生は卒業式の日の学活で、私たちに話されたことを覚えていますか」とたずねた。
 突然の質問に「何を話したかな、覚えていないよ」と私。「先生は“断じて行なわず”という言葉ばを私たちに贈ってくださいました。周りの人が全員同じことをしても、自分の判断で『それは自分には出来ないことだ』と思ったなら、たとえたった一人でも、それはやらない−そういう心の強さを持てという話でした。高校に行ってから、友だちから『吸えよ』とタバコを勧められた時、結局断りきれませんでした。今、もう50半ば近くになったのですが“断じて行なわず”ということのむずかしさを一層感じています。」
 「Kさん、みんな同じだよ。私だって、周囲の人のようすをうかがって、その人たちに合わせて70年近くも生きてきちゃったんだよ。そんなカッコイイことを話したのかと思うと、はずかしいよ。」

480字の作文
【No.413】 2005年10月25日

 「作文がきらい、書くのは苦手という子どもたちに、楽しく文が書ける方法を教えてほしい」とS市のPTA広報から原稿の依頼。しかも「480字で」。第28代アメリカ大統領、ウイルソンは「15分の講演には12時間の準備がほしい。2時間のスピーチなら今からでも良い」と言ったそうだ。スピーチのプロでさえ(プロろだからかもしれないが)短く話すことは難しいということ。まして私の文章で『楽しく文を書く方法』を説くのは至難の業。でも、断ったらお困りだろうと、苦しみながら書き上げた。 
 「広報委員が楽しんで作らなければ読んでもらえない」と話してきた私が、苦しみぬいてようやく書き上げた文。これでは読んでもらえない。

 H小のP広報から電話相談。座談会を開くについてのアドバイスを、とのこと。1、座談会を開く目的を主催者として確認する  2、司会者はそれに沿ったシナリオを持つ  3、発言は出来る限り均等に の三つを伝えた。

 先週の水曜日ごろから首筋に湿疹。多分、農薬のせいだろう。お医者さんは「銀杏を拾わなかったか」と聞いた。そう、そんなシーズンなのだ。今日は、首の周りから、のど、顔、手と広がってきている。前回より強い薬が出された。当分、畑仕事はダメ。

きのう きょう
【No.412】 2005年10月23日

 昨日、53歳の人たちの同窓会に招かれた。108名の学年で50名の出席。よく集まったと思う。集まった人数を眺めS君が言う「先週の土曜日、高校の同窓会があった。学年には400名以上いたのに集まったのは16人。先生や同窓会の会長など来てくれたのに、わずか16人。幹事ではなかったが恥ずかしかった。」 幼・小・中と、共に生活してきた幼馴染の集まりに参加者が多いことはうなづける。
 11時半の開会。同僚だった井沢さんの「来月トレッキングでヒマラヤに出かける」との挨拶に、会場から歓声。ビンゴゲームで登山・ウオーキング用の杖をもらった。井沢さんにあやかって…と思うが、私には他の用途のほうが固いかもしれない。
 二次会を7時まで付き合った。お礼とお別れの挨拶に替えて『また逢う日まで』を歌った。野球部だった7人が私を囲んで歌ってくれた。「三次会の終了は午後11時」と幹事が参加者を募っていた。

 昨日と打って変わり秋晴れの空。今日は参議院の補選の投票日。8時半過ぎ投票に歩いていった。駐車場になっている校庭には車は1台しかいない。9.11と比べなんという違い。
 その校庭から周囲の山々を眺めた。北の尾根にもう雪を置いている富士。大山に連なる里山の色にもわずかな変化が見える。大公孫樹が銀杏をテニスコートに降らせていた。心が洗われる寺山の景色。
 投票を済ませ、校庭の西側の道をゆっくり歩いた。城址二続く畑にコスモスが咲いていた。気が付くと、足元に波多野城址の道標が二つに折れ、倒れていた。

こうして 助けられて 生きていく
【No.411】 2005年10月19日

 予算の編成時期になった。もう来年の5月のPTA広報講座の予約が入った。2会場が決まる。その日までは元気でいなければ、と思う。こんなふうに、他の人に、世の中に助けられて、一日ずつ生きていく私。

 『秦野の景観』の選定の仕事をする。既に72の候補は発表されているが、さらに市民から推薦されてきた28候補を正式候補に加えるかどうかを決めなければいけない。この28の候補の中に、秦野で68年も生活しているのに私の知らない地名、景色がいくつかあった。2つを追加候補として選んだ。この仕事をさせてもらい、あらためて秦野の良さを確かめることができ、さらに、新たに秦野を知ることができた。
 11月3日『市民の日』に「秦野の景観」は発表される。

今夜は「十三夜」  お月見とススキ
【No.410】 2005年10月15日

 古代、熊野地方では刈った稲を田んぼに積んでおく(これを「穂積」という)風習があった。その積まれた稲束の中に一本の木を立てる。すると、この木に神様が降りてきて稲魂を宿す。それが翌年の種籾になり、豊作をもたらすと人々は思っていた。この稲の山に立つ神聖な木は「すすき」と呼ばれていた。この木にあやかり、熊野大社の宮司は穂積姓から「鈴木」に姓を替えた。
 
《これからは私見》
 今夜は「十三夜」のお月見。お月さんにおまんじゅうや掘ったばかりの里芋などを供えるのは今年の豊作の感謝を表している。そして、来年の豊作を祈るためにススキを飾るのだと思う。「十五夜」「十三夜」にススキを飾るのは、熊野の人たちが立てた「すすき」を引き継いでいると思いたい。

 昼前、栗畑にススキを取りに行った。帰り道、農業のAさんに会った。ススキを手にしている私に「今夜、曇っちゃいそうだね。せっかく、お月さんにまんじゅうをあげるのにねえ。晴れてほしいねえ」と言う。農にたずさわる人の“お月見”観を知った。
 いま午後4時半。どうやら寺山では今夜は月は見えないようだ。

齢 50
【No.409】 2005年10月12日

エコーの読者二人の来訪。改まってた相談ではないが、二人とも家族に対しての思いや仕事のことをたくさん話し、帰っていった。
 Iさんは一年をかけて大病を克服。来年4月から保育の仕事に着くことが決まっているとのこと。「齢50、12月から本格的に職探しをする。自分の限界をしりたい」「与えられたことをするだけの今の仕事。初めは『楽でイイや、バンザーイ』と思ったけど、働くってこんなことではないと感じて」とNさん。二人とも50歳になったばかり。そんな話を聞かせてくる二人がまぶしい。
 8日の「ふるさと秦野の景観見て歩き」で話したことを文にした。10日のこの欄に書いたように、冬晴れの日にゆっくり歩いてみたい。
 菊のつぼみに色が着き始めた。昨年よりいい花が咲きそうだ。この部屋に座布団を出した。明日は畑仕事をしよう。

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