- 寺 山 だ よ り -

今夜は「十三夜」  お月見とススキ
【No.410】 2005年10月15日

 古代、熊野地方では刈った稲を田んぼに積んでおく(これを「穂積」という)風習があった。その積まれた稲束の中に一本の木を立てる。すると、この木に神様が降りてきて稲魂を宿す。それが翌年の種籾になり、豊作をもたらすと人々は思っていた。この稲の山に立つ神聖な木は「すすき」と呼ばれていた。この木にあやかり、熊野大社の宮司は穂積姓から「鈴木」に姓を替えた。
 
《これからは私見》
 今夜は「十三夜」のお月見。お月さんにおまんじゅうや掘ったばかりの里芋などを供えるのは今年の豊作の感謝を表している。そして、来年の豊作を祈るためにススキを飾るのだと思う。「十五夜」「十三夜」にススキを飾るのは、熊野の人たちが立てた「すすき」を引き継いでいると思いたい。

 昼前、栗畑にススキを取りに行った。帰り道、農業のAさんに会った。ススキを手にしている私に「今夜、曇っちゃいそうだね。せっかく、お月さんにまんじゅうをあげるのにねえ。晴れてほしいねえ」と言う。農にたずさわる人の“お月見”観を知った。
 いま午後4時半。どうやら寺山では今夜は月は見えないようだ。

齢 50
【No.409】 2005年10月12日

エコーの読者二人の来訪。改まってた相談ではないが、二人とも家族に対しての思いや仕事のことをたくさん話し、帰っていった。
 Iさんは一年をかけて大病を克服。来年4月から保育の仕事に着くことが決まっているとのこと。「齢50、12月から本格的に職探しをする。自分の限界をしりたい」「与えられたことをするだけの今の仕事。初めは『楽でイイや、バンザーイ』と思ったけど、働くってこんなことではないと感じて」とNさん。二人とも50歳になったばかり。そんな話を聞かせてくる二人がまぶしい。
 8日の「ふるさと秦野の景観見て歩き」で話したことを文にした。10日のこの欄に書いたように、冬晴れの日にゆっくり歩いてみたい。
 菊のつぼみに色が着き始めた。昨年よりいい花が咲きそうだ。この部屋に座布団を出した。明日は畑仕事をしよう。

東地区 景観見て歩き
【No.408】 2005年10月10日

10月8日
 明け方近くまで雨。だが出発のころは曇り。「蒸し暑い日」という予報なので半そでで出かける。参加者を見回したら半そでは私一人?
 握り飯、魔法瓶の紅茶、カメラ、それに資料の本、こんな中身のバッグを背負ったのは何年ぶりだろうか、重たい。
 大勢の神仏にお会いするのでお神酒を小瓶で持参。碑文を読むために片栗粉も準備した。そう、手には「大山」という文字が入っているヒメシャラの杖。
 きょうは『ふるさと秦野景観見て歩き』の東地区のガイド役。参加者は30人ほどか(数えなかった)。女性が7人。 
 東自治会連合会長の小泉さんは革靴で参加。清水庭から洋造さん、俊さんが来てくれた。心強かった。現役のころ、一緒に仕事をした相原昭枝さんと娘さんも一緒に歩いてくれた。これには感激。地区外からみえた方も数名。市のまちづくり課から古谷課長さん以下5人が付き添い。担当の草山さんがしゃれた解説書を作ってくれた。これも嬉しかった。
 全行程は7キロほど、そのうち7割くらいが登り。3時間半で歩いた。  そばの花が見ごろだったので民話「そばを作らぬ里」を聞いてもらった。横畑の松下雅雄さん宅で山葵田を見せてもらっが、奥さんが自家製のこんにゃくの煮付けを振舞ってくれた。甘辛の味がしみこんだ歯ごたえのあるものでお茶と一緒にいただいた。おいしかった。
 きょう受けた質問。1、地名「才戸」「菩提」の由来  2、神社の千木の種類 3、女性が左、男性は右

 このコースは今までに数回歩いているが、きょうがいちばん余裕を持って歩くことができた。
 古谷課長が「東地区が秦野の発祥地、文化の中心地だったんですね」と感想を述べてくれた。もうすっかり忘れられている『東秦野尋常学校の水道水源地』を、「今の東地区の児童・生徒に教えたい」と、同級生の加藤さんが言った。こんな言葉を聞くと、自分の主催で『東地区見て歩き』をやってみたい気になる。
 
 
  

サンパイ ジュンパラギ
【No.407】 2005年10月06日

 退職した年にMEMOという表紙のノートを作った。必要があってそのノートを読み直した。 
 MEMOとあるが、紙面は新聞の歌壇・俳壇からの秀作の転記で埋まっている。これは高名な歌人・俳人が選んだものをさらに私が選ぶということ。年間賞が発表されたとき、私の鑑賞力はともかく、私の嗜好がどの選者と同じであるかを確認するというような、とんでもないこともしている。
 このノート、短歌・俳句のほかに、欄外に走り書きで、いろいろなことが書き込まれている。それを読んでぞっとしたり、笑ってしまったりのきょう。

《走り書き》
 丸くとも一角あれや人心 あまりに丸きは転びやすきぞ  龍馬

 人としてやってはいけないこと
 1、人の心やからだ(すべてのいきもの)を傷つけること
 2、許されないウソをいうこと
 3、自分からの約束を破ること

 『有難う』・川端康成の短編 「時代の哀歓」がイイ

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 ねくたいぜいたくね
 メモるときかきとるメモ

 インドネシア語 「サンパイ ジュンパラギ」 じゃあ またね

 今朝 暗がりの雨の中 ジョウビタキの声を聞く 「ヒッヒッ ヒッヒッ」 
 
 

10月は新聞週間の月
【No.406】 2005年10月04日

「なぜ」「どうして」もっと知りたい新聞で 第58回新聞週間の標語

 きのうK中に新聞罫のファックス用原稿用紙を届けた。夜、O中から同じく新聞罫用紙の問い合わせ。市内中学校の学級新聞コンクールが近づいたのだ。明日はN小のPTA広報委員会が当相談室で開かれる。金曜日は「広報はだの」の1面担当者と最終打ち合わせをする。 
 プリントメディア研究誌『理想』が届いた。その中に「新聞教育の原点は、新聞づくり」という新聞教育の先達・吉川昌英先生の提言が載っていた。現役時代と変わらぬ新聞づくりへの熱い思いを感じ、励まされた。『エコー』232号は明日投函する。10月は新聞週間の月。

国勢調査員でした
【No.405】 2005年10月03日

 断りきれず、国勢調査員を引き受けた。説明会に出て、その大変さがわかった。もちろん国勢調査の重要性も理解したが…。
 最初にしたことは、担当地区を見て周り、住宅の地図を描くこと。人が住んでいるかどうかわからない建物も記入する。これは18日に作った。   19日、その地図にしたがって「調査のお知らせ」を配る。20軒近くが留守。
 次が調査用紙の配布。世帯主の氏名とそこに住んでいる家族の人数を聞く。そして必要枚数の用紙を置く。そのときに、回収日をその家庭と決める。
 私は2つの区を担当。23日、1の区を回る。留守が7軒。25日は2の区。こちらはなんと一度で完了。その勢いで1の区の残りの家庭も回った。これで一山越えた。
 回収は10月2日からおこなってよいことになっている。それで、かなり強引と思ったが、回収を2日の9時半から正午までを目安にして決めてもらった。
 その回収日・昨日2日、9時半に家を出たが、先のことを思うと少々重たい気分だった。ところが、午前中に4家庭をのぞいて全部回収できた。そして午後5時に全て回収。ただただ感謝した。嬉しかった。この地区の皆さんの協力度は「日本一」だ。
 調査票の配布中に用紙を盗られたというニュースが流れた。昨日は偽調査員による用紙の回収事件も発生したとか。
 渡された「防犯ブザー」「自転車用の盗難防止ネット」、そして手首に巻く「反射テープ」を使うことはなかった。

 第4回 『広報はだの』の取材
【No.404】 2005年09月16日

『広報はだの』の取材で「大山道」の道標を見て歩く。今日は私がガイド。
 スタートを大山の麓・蓑毛とし、ゴールは秦野と川境の松田町神山。大山道・蓑毛通りから矢倉沢往還を歩くというコース。
 蓑毛の大日堂境内には『従是不動石尊道』という道標が立つ。そこから『御師の宿』のたたずまいを残す二階堂家を見学。才戸には市内最古の大山道の道標がある。東田原・清水で、道者の予言で掘り当てた横井戸を紹介。この話は私が大津アサさんから発掘したもの。 
 本町地区に入り、曽屋の念仏塚古墳に『扶桑山大神』の碑があるのを確認。『扶桑山』とは富士山の別称。 
 西地区・曲松の稲荷神社の境内に、高さ180センチ余の『大山道道標』と『浅間社石祠』がある。だが、両者とも、道路拡張で元の地からここに移されたもの。大山道もやがて忘れられてしまうのだろう。 
 千村を通り、川音川の東岸にある『大山道 天下泰平』の碑を目指したが、途中から生い茂った草で断念。往時の旅のたいへんさを少しばかり理解したつもり。今日の取材者は、森下、初野、横山、浦田、武。       

北小学校5年4組で授業
【No.403】 2005年09月14日

 5月に学級新聞づくりの指導に行った秦野・北小学校5年4組で、二回目の「新聞」の授業をした。
 このクラスが1学期間に発行した回数は11回。どの号もクラスの様子を生き生きと報じている。それはクラスの仲間たちの声をていねいに拾っているからだ。「新聞の記事は作文ではない。たくさんの声を集めて記事を作ろう」と教えたこことがきちんと生かされていた。担任のO先生の指導力を感じた。
 正味1時間をもらって全部の新聞の感想を述べた。「掛け値なし」、ほめるだけの私だった。
 その後、事前に届いていた子どもたちからの質問に答えた。
 その質問は次のようなものだった。     
 1 記事を見つけるポイントは何ですか。
 2 みんなに分かりやすい文を書くにはどうしたらよいですか。
 3 おもしろく分かりやすい見出しを書くにはどうしたらよいですか。
 4 記事を書いているとき、何を書くか分からなくなったらどうしますか。
 5 「がんばった人」はどんながんばっている人をのせたらいいですか。
 6 どうしたら下書きがすぐにかけるんですか。
 7 みんなが「おもしろそー」と思うようなイラストの描き方を教えてください。
 8 どうしたらうまくイラストを描くことが出来るんですか。
 9 武先生が新聞を作ってうれしかったことは何ですか。
 10 武先生が新聞を書くときこまっていることは何ですか。
 
 授業が終わって大勢の子が質問をしに来た。新聞づくりで学級が力をつけていると感じだ。
 お土産にメダカの子どもをもらった。


棟田選手の「おじぎ」
【No.402】 2005年09月12日

9月6日 午前・栗の収穫  夜・生産組合長会議
  7日 午前・栗の収穫  午後「続寺山ものがたり」の原稿の整理を始める。 
  8日 秦野市PTA広報クリニック(9:15〜16:30)
  9日 大井町教育委員会の広報クリニック(9:20〜11:40) 大井町のクリニックは幼・小・中のPTA広報・青少年指導員協議会・子供会育成会・ボランティア協議会・母親クラブの会報、図書館広報、地域ミニコミ紙などが対象。  午後・栗の収穫
 10日 午前・栗の収穫  午後・園芸愛好会の例会で「菊・福助作り」の研修。
 11日 午前・市内一斉清掃活動 選挙の投票  午後・生産組合員宅を訪問、その後菊の手入れ。

 カイロで行われている柔道の世界選手権の中継をずっと見ている。アテネ・オリンピックの成績と比べれば物足りない。だが、今回の総選挙の結果と同じように、人間のすることには必ず『揺り戻し』がくるもの。
 その試合そのものとは別に、とてもいいシーンを何度も見ることができた。それは棟田選手の「おじぎ」である。
 通路からマットに上がったとき、試合場に入ったとき、そして試合を始めるときと、棟田選手は三度の「おじぎ」をする。多くの選手は、ピョコッと頭を下げ、すぐに戦闘モードに入る。だが、棟田選手はまさに「おじき」をするのだ。 
 「世界一きれいななおじぎ」とアナウンサーが紹介していたが、「きれい」という言葉では表し切れないものがそこにある。彼のおじぎをする前の静止の姿勢、頭を下げる角度、そしてその時間、この三つの動作にえもいわれぬ品位があるのだ。柔道の心がそのおじぎの中に込められている。「おじぎ」に普段の生活が見える。その人の心が表れる。

大山道・坂本道を一緒に歩きませんか 
【No.401】 2005年09月06日

 秦野市の市制施行50周年の記念事業として、昨年から『ふるさと秦野見て歩き』が行われている。その『見て歩き』が10月8日(土)、東地区で行われる。見て歩くのは『大山道・坂本道と寺山の里』で案内人は私。 
 秦野市の東地区を紹介するとしたら「丹沢・大山」「実朝公御首塚」「大日堂の大日如来像」「波多野城址」などを取り上げるのが妥当なところ。だが、縄文中期から人々が生活してきた寺山には紹介したい場所や話がたくさんある。それれらを今回は見て歩くことにした。
 そばの花見も出来るかもしれない「寺山の秋」を、一緒に堪能してみませんか。

 ◇日 時   10月8日(土)9時出発(解散は午後1時ごろ) 
 ◇集合・解散場所 東公民館  
 ◇先着30名の受付(昼食持参) 
 ◇申し込み先 秦野市役所まちづくり推進課
       (Tel0463−82−5111 内線2566)
 

特別会員の私
【No.400】 2005年09月04日

 地元・東地区に住む50歳の教え子たちが、一泊で懇親会を開くとから参加しないかと誘ってくれた。会場は湯河原温泉のK荘。
 6時開会に10名がそろった。「特別会員だから乾杯の音頭を」と言われ、こんな話をした。「毎朝、新聞の『お悔やみ欄』に必ず目を通します。そして自分の年齢を意識します。そんな私を、50歳の会に加えてもらってとても嬉しいです。明日の『お悔やみ欄』に載っても悔いのないよう、今夜皆さんとこの会を楽しみたいと思います。」
 子育てもそろそろ終り、『夫婦』を考え始める年代であることを知った。経済は、彼らにとって身近なもの、仕事そのものに直結する話題であり、今行われている選挙のマニフェストにも話が及ぶ。現PTA会長もいたので、地域コミュニテイの脆弱さについても意見が飛び交った。 
 「それそれの生活・仕事を背負っての意見だから、そう簡単に意見の一致はみられないよ」と言うのがまとめ。自営業、会社員、獣医、JA、教員など、さまざまな分野の第一線で働いている彼らはまぶしかった。
 もちろん「先生、きょう、《樫の棒》は持ってこなかったの」という35年前の教室の“痛い思い出”も語られた。
 一人が「先生、俺、6年の時、不登校だったんだよ、いじめられてね。それで東京の親戚に預けられて。親戚の家の部屋でプラモデル作って…窓から東京タワー眺めて…そんな生活を毎日してたんだよ」
 私は、彼が中3の時担任だった。学校ではいつも明るく飛び回っていた彼に、そんな過去があったことを今夜初めて知った。
 私は12時にダウン。何人かは2時半、残りは最終は午前3時過ぎまでがんばったとか。飲んで、ちょっぴり歌って、午前8時には朝飯はすました10人。特別な目的もない会?だが、幼馴染が懐かしくなる年代。来年もこの時期、この会場で会うことを約束して解散。
 

9月1日 新聞づくり再開
【No.399】 2005年09月01日

「寺山の話を聞きたい」とタウンニュースのO記者が訪ねてきた。子どものころの遊びの話から「金目川」という名前の由来にまで話を広げてしまった。Oさん、かなり興味を示してくれたようだが、本当は迷惑だったのかもしれない。私は楽しかった。
 午後2時から『広報はだの』の1面の編集会議を、AさんCさんとわが家で開く。2時間半でラフ・レイアウトができ、それにあわせ企画も決定。企画のテーマ「まちを人をつなぐ言葉」は、具象的ではないので取材対象がなかなか定まらなかった。それで、きょうつかんだ情報を使うことにした。早速、電話で事前取材をする。天候相手の行事で締め切り間際の取材だから、ダメになった時の予備の記事も準備しなくてはいけない。だがもう動き出したのだから、このまま走るしかない。二人は「後は取材!」と元気よく帰って行った。
 大井町の広報クリニックの準備を始めた。

8月の終わりに
【No.398】 2005年08月29日

8/25
 松田町のPTA広報のクリニック。台風接近の報もある中、4校と3園の広報委員が参加してくれた。全紙「取材がよくされていてイイ出来」と感想を述べた。講座の後半は家族新聞づくり。時期としては少し遅いが「夏休みの宿題に家族新聞を作ったら」と提案。「参加できなかった人に新聞の用紙をもらっていきたい」との申し出があり、10人分ぐらい持ち帰ってくれた。

8/26
 台風一過、この辺はそれほど影響はな勝ったようだ。だが、隣の畑のカボチャはたくさん顔をみせてい。夜7時から「広報はだの」の第5回編集会議。各面の担当者(1面3人、2・3面4人、4面3人)にレイアウトに取り組んでもらった。2回目の発行、それにP広報の経験者がそれぞれの面にいるので、私は遠くから眺める、という感じ。仕事の進み具合はともかく、楽しそうな光景が見られた。

8/27
 誘われて『御師の里 蓑毛を訪ねる』という会に参加。江戸から昭和の始めにかけて「大山詣で」でにぎわった蓑毛も、今はひっそりとした集落になっている。最初に明治3年に建てられたという相原市兵先生のお宅を見せてもらった。先生がお元気出迎えてくださった。次に「御師の宿」二階堂家の見学。大山詣での信者を泊め、案内をする神職のことを御師という。数軒あった蓑毛のこの御師の宿、今その面影を色濃く残しているのはこの二階堂家だけである。最後に大日堂で五智如来像を拝観。茶湯殿で十王像,そして葬頭河の《婆》にも会う。『寺山ものがたり』を書くときに会った《婆》は修復されていた。この《婆》への私のイメージが少し変わった。

8/28
 市内一斉の防災訓練の日。東地区の避難所は中学校と小学校。この二か所の避難所の責任者がK君とT君と発表された。二人とも教え子。年齢はそろそろ50歳か。自分の年齢を改めて思う。そして『寺山ものがたり』の続編を書かなければ…、となぜか強く思った。 

校庭での映画会
【No.397】 2005年08月22日

 お隣の東小学校のPTAのお母さんが二人訪ねてきた。 
 今週土曜日・27日に校庭で映画会を開くとのこと。「ご迷惑掛けるかもしれませんが、お許しください」と事前に協力の挨拶しに近所を回っているのだ。ぜひ観に来てください、と誘ってもくれた。
 学校の校庭での映画会とは懐かしい。60年前の8月、戦争が終わり、アメリカの政策で『ナトコ』と呼ばれていた巡回映画が校庭で上映されたのを覚えている。校庭での映画会なんてそれ以来のことだろう。
 今年は戦後60年、その8月に野外映画会を企画するとは《イキ》なことをするPTAだ。 
 手渡されたチラシには「夕涼みシアター夏の映画会」と大きな見出し。上映されるフィルムは『ファイディングニモ』。「必ず大人同伴でご来場ください。いすはありません。シートをご持参ください」とある。校庭に座り込んで、映画を見ないで、星をみあげたっていい。当日晴れればいいなあ。
 
 このHPへのアクセス、どうやら今日中に5万に届きそうだ。(5万人目の方、よかったらご連絡ください。)

8月18日が誕生日の人
【No.396】 2005年08月17日

 1年は365日。40数億の人を365日に割り振れば、どの日にだって著名な人が数多く登場するのは何の不思議もないこと。試みに、明日8月18日生まれの人を挙げてみると次のような顔ぶれになる。この人たちの組み合わせはけっこう楽しい。 
最澄  ラッセル(英:首相)  伊藤左千夫(歌人)   尾崎放哉(俳人)   マルセル・カルネ(仏:映画監督『天井桟敷の人々』)   城山三郎(小説家)   牧阿佐美(バレエダンサー)  ロバート・レッドフォード(俳優)  柴田恭平(俳優)  名取裕子(俳優)  吉川晃司(歌手)  清原和博(野球選手)  中居正広(SMAP)

きょう終戦記念日
【No.395】 2005年08月15日

 ジャスコのレジに並んでいたら聞こえてきた会話。
 「きょうは込んでるわね」
 「お盆だから帰ってきてる人が多いんじゃない?」
 「秦野は田舎だからねえ…」。そうか、秦野を帰郷先にしている家族がたくさんあるのだ、と妙に感心した。
 小田急の車窓から大山・弘法山を眺め、才ケ分のトンネルを抜ける。そしてまもなく市街地の向こうに丹沢連峰を目の当たりにする。すると、なぜかホッとするという秦野人も多い。そういう意味では「秦野はいなか」だと思う。
 『ECHO』を郵送している方からいただいた残暑見舞いのハガキの文。   「『エコー』の封筒のロゴが替わりましたね。スッキリしています。そして《主張》が感じられます。《これから》という意気込みも。がんばってください」。嬉しかった。
 きょう終戦記念日。小泉さんがアジアを意識した談話を発表した。選挙がらみかもしれないが、いいことだ。

滴る汗
【No.394】 2005年08月11日

8月10日
 8時半から栗畑の草刈り。前日点検しておいたので草刈機は快調だった。葛葉藤に絡まれて停止してしまったので給油を兼ねて一休み。そして作業を再開しようとしたらエンジンがかからない。30分ほど始動を試みたがダメ。昨日、エンジンの混合油をつくった時「少しオイルが多いかな」と思った。それでエンジンが発火しにくいのだ、そう思った。
 機械を積み込み、帰って20:1の混合油を作り直す。そして午後1時から作業にかかる。だがあまり機械の具合はよくない。替え刃が重過ぎたのでエンジンが焼き切れたのかもしれない。こんなに悪戦苦闘したのは初めて。とうとう一日中、栗畑にいた。
 「絞るような汗」という表現があるが、首のタオルは、絞ればポタポタと汗が滴り落ちた。こんなに汗をかいたのは最近ではないこと。吹き出る汗は止まらない。呼吸もけっこう上がって「これは…」と思い、栗の木陰に座る。持っていったペットボトルのお茶に助けられ、とにかく一通りは終えた。 
 この畑は道路から見下ろせるので、隅々まできれいにしないと「勝美さんは、いい加減な仕事をすんなあ」と笑われる。もう一日出かけなければいけない。帰って鎌の刃を研いた。
 夜のビールは甘い。これは元気な証しだ。体重は2キロ減っていた。いい一日。

M家の『らんどせる』で「新聞づくり」の効用を確認
【No.393】 2005年08月09日

 今朝、M家の家族新聞『らんどせる』第52号が届いた。毎号、お母さんが届けにくる。そして子育ての難しさを少し愚痴って笑って帰っていく。
 4年前から月刊で発行されている『らんどせる』。毎号お母さんが「編集後記」を書いている。今月号は「なかなか手ごわい中学生チーム。毎日振り回されて、私の堪忍袋もはち切れそうだ。特にAの急成長にはお手上げ。打つ手が無いのは私の度量が狭いからか。But めげてはいけない!!。しっかり向き合わなくちゃ」。
 「中学生チーム」とは3年の男の子と1年の女の子のこと。他に小5の男の子もいる。
 『らんどせる』は「お手上げ!」と言っているお母さんと三人の子どもたちの手書きの新聞である。
 52号では、中3の男の子が中体連の野球大会で負けた悔しさを、中1のAさんは「木は私たちの命の源」という論説を、そして小5の男の子が「初めて優勝 ドッジボール大会」のトップ記事を書いている。
 お父さんは「お父さんにインタビュー」という連載もので「子どもの頃の夏の遊び」を得意げに話している。
 「新聞づくり」の効用をM家の『らんどせる』で確認する。

歩いて秦野再発見
【No.392】 2005年08月05日

 「広報はだの」の編集委員8人で本町地区の歴史的建物を見て回った。第2号は「歩いて秦野再発見」が特集の一つになる。築80年くらいの商家や民家を十数軒訪ねた。
 今の秦野・本町地区は江戸時代「十日市場」と呼ばれ、月に二日「市」が立った。その「市場神」がU商店の中庭に祀られていた。碑には梵字のようなものがうっすらと見えた。この商店の軒には魔よけのショウキさんが載っている。多分、秦野ではこの家だけだろう。
 F家やU洋品店は今は無人。江戸時代の土蔵を持っている茶舗は、土蔵の雨漏りの対処に悩んでいた。文化財的な建造物を保持することの大変さを少し理解した。
 きょうは取材の下見。この記事の担当は二人の中学生。どんなことを書いてくれるのか楽しみ。

【No.391】 2005年08月01日

 義理の姉の三回忌の法事の会食の席、稲城市に住む姪の中学生と隣り合わせに座った。稲城市の名物は何かと聞いたら「梨」とのこと。稲城市は川崎の隣り、多摩川沿いの地だから「梨」が名産でも不思議ではない。でも、知らなかった。 
 「他には」と聞く私に彼女は「蝉」。[蝉? どうして蝉なの」「自転車で走っていると顔に蝉がぶっかってくるんです」と笑って話す。梨畑に蝉がいっぱいいると言う。梨のおいしい年は蝉が多いらしい。今年は特に多いとか。
 「おばあちゃん ベランダに落ちている蝉を片付けてくれたんだけど…」と彼女、ポツリと。

朝から夜まで 壮快な一日
【No.390】 2005年07月29日

 7月28日  晴れ 
 初秋を感じさせるようなさわやかな風が吹いた一日。気になっていた雪柳の垣根の刈り込みをした。午前8時から午後4時まで―こう書けば本格的と思うだろうが、“休み休み”の作業。タバコは吸わないので、長い休み、たびたびの一服はしない。
 刈り込みバサミと剪定バサミでの作業だから腕の筋肉はけっこう使う。それでも、痛みを感じないのは、そういう筋肉が付いたということ。(退職時に比べ、腕は太く、たくましくなっている)。ただ手の甲は少しむくみ熱をもっている。 
 道に面した垣根と庭木を刈り込み、草取りもした。お天道さんの下での作業はなぜか無心になれる。勢いに乗って里芋の土寄せも終わる。ここまででけっこう満足。
 5時半過ぎ、K小の小澤先生が学級新聞を持ってひょっこり来訪。5月に学級新聞作りの指導に出かけたのが小澤先生のクラス・5年4組。あれから班の輪番制で学級新聞の発行を始めた。そして7月20日に発行された号が11号、週刊である。すごいことだ。
 中身もすごい! 9号で「プールメはきたない プールサイドに草がいっぱい」と訴え、そして11号で「プールそうじ やりました!!」と自分たちで掃除をしたことを報じている。 
 この学級新聞は、果たすべきオピニオンリーダー性を見事に発揮している。新聞教育が学習新聞づくりになっている今、この新聞の姿勢が嬉しい。
今日は、心身ともに壮快な一日。ビールが甘かった。

きょうこのごろの私です
【No.389】 2005年07月25日

 何をしたのでもなく一日が終わっていく。することがどれも中途半端、というより小手先だけで物事をやり過ごす。
 梅の小枝下ろしをしたが3時間で限界。畑の草はますます勢いを増し、ナスの木が雑草に飲まれそう。それでも「明日やるから」と一日延ばし。栗畑の草刈もしなければいけない。「広報はだの」の企画は常に心に引っかかっている。
 新聞もその気で読んでいないなあ。デジカメがパソコンにつながらないが説明書を読む気にならない。結局“他人頼み”。
 そういえばオールスターも観なかった。9時になればもう眠くり、そして1時間毎に目が覚める。熟睡していない。午前5時からテレビ、いや4時半にはスイッチを入れている。アサガオがしっかり咲いているこの時間帯に見に行けばいいのに…。水曜の「俳句」、木曜の「短歌」の時間は欠かさず観ているが、選者が替わって「俳句」がつまらなくなった。イヤ、選者のせいではない。季節の変化をあまり感じなくなったのたろう。そういえば、アブゼミの鳴き声はまだ聞かない。夕方「カナカナ」を庭で聞いた。「もう秋だ」などと言っている私。年齢相応ということなのかなあ。

福引きで一等賞
【No.388】 2005年07月21日

 JAから福引き券をもらった。それで抽籤をしに出かけた。10枚引いたらなんと一等賞が出た。係りの女性が「スゴーイ!」。今までいろいろな抽籤の経験をしてきたが1等賞は初めて。「新聞社、呼んで」と興奮した。もう一人の窓口の女性が「今も“新聞”の先生ですね。わたし 東中のとき一生懸命、学級新聞を作りました。旧姓Sです」。商品は「グルメ券」だった。 
 今年の正月、バアちゃんは、たった一枚だけもらった年賀ハガキが3等賞に当たった。そのとき「カニ」をもらったので、今回も「カニ」にすることにした。妻が言った。「クルマになど当たらないようにね」。
 「市民が作る広報はだの」の第2弾、今日から具体的に活動をスタートさせた。わが家で4面担当のIさん、Hさんとラフレイアウトをしてみる。企画も一応決定。この面はこのまま取材に入れそうだ。2、3面のレイアウトも考えてみた。「歩いてはだの再発見
 学期末ということで、堀川小、渋沢小、渋沢中、東中からPTA広報が届いた。いずれも今年度第2号、しかも新聞ソフトを使っての手作り。パソコンを使いこなして頑張るお母さんたちに惜しみない拍手を送りたい。広報作りも新しい時代に入ったと感慨ひとしお。
 

7月15日 母の誕生日
【No.387】 2005年07月16日

 きのう7月15日は、母・八重子の96歳の誕生日。「きょうは誕生日だね」と私。ただうなずくだけの母。このごろ、ほとんど言葉は発しなくなった。 
 「何歳になったっけ」と聞く。少し照れるような表情で「6歳」とひとこと。妻が言う「女性に年齢を聞くのは失礼でしょ」。 
 先月の往診の折、年齢を聞かれた母は「忘れちゃった」と笑い、さらに問われると、ニヤっとして「はちじゅうご」と言った。「95歳でしょ」と私が問い返すと「長く生きて恥ずかしいよ」。

 お盆の15日は、帰ってこられた御先祖さんはアズキ飯のおにぎりを持って“マチに買い物に行かれる日”。だからアズキ飯を炊き盆棚に供える。そのアズキ飯が母の誕生日のお祝いのご飯にもなる。 
 朝の食卓に出されたアズキご飯を見つめ、小さくうなずく。そして「頂きます」のお祈りをした母だった。

まだまた続く 私の広報づくり
【No.386】 2005年07月12日

7月8日  
 相模原市でPTA広報講座。JRの相模線に乗ったのは何十年ぶり? イヤもしかしたら下り線は初めてかも知れない。手動のドアの電車だった。会場は橋本駅前の橋本公民館。京王線が乗り入れたこともあって、駅前はビルが林立していた。
 1時間45分の講座だったので十分なまとめが出来なくて申し訳なかった。質問の時間、主催者が事前に質問を集めておいてくれた。質問の中で「予算3万円で広報を発行するには」という内容のものがあった。こういう広報委員会もあるのだと、改めて考えさせられた。
 終わって、主催者の皆さんの昼の食事会に招かれた。和食のバイキングだった。橋本の商店街は『たなばた』で売り出したまちだったが、駅前の商店街がマンションに変わり、たなばたも寂しくなったらしい。だが、きょうの質問、そして一緒に食事をした若いお母さんたちの箸の進み具合を見る限り、このまちは「元気いっぱいの若いまち」だと思った。

7月11日 
 午前9時から「市民が作る広報はだの」第2号のため、M,H,Y,U さんとで取材して歩いた。“文字通り”大山道・坂本通りの里と山を3時間、私がガイド役で見て回った。だが、担当のYさんUさんにとって、それらの場所が記事にすることができるかどうか。私の思い込みと二人の冷静な目とが同化することを願う。とにかく、企画は動き出してしまったのだから。
 久しぶりに「夏」を歩き、“気分爽快”と言いたいところだが、最後はふらふらの私。《わさび田》のM家を去るとき、持って歩いた愛用の杖が手になかった。どこかに置き忘れたのだ。これが今の私の現実の姿。
 夕方、一緒に歩いたMさんが「武さん あったよ」とその置き忘れた杖を持ってきてくれた。聞けば「午前中歩いたコースの中で、ぜひ写真を撮りたいところがあったので、撮りに行ってきた」とのこと。撮影後、歩いたコースを逆行して、私の杖を見つけてくれたのだ。
 今日のコースを10月に、ふるさと景観選定委員会の事業としてう一度案内して歩くことになっている。

PTA広報クリニック
【No.385】 2005年07月06日

 昨日の午後、A町で「PTA広報クリニック(合評会)」を行った。
 私の講評の前に、年度第1号を発行した苦労話を聞かせてもらった。その中で印象に残った話。
1、新人ばかりでスタートしたのに、他校(町外)のPTAに取材に出かけるという大仕事をした委員会があった。「ただ話を聞かせてもらうだけだから」と思ったが、かなり手続きが大変だったようだ。取材のテーマが「二学期制」だったので、PTAより当該校の先生のほうがこの取材に緊張されたようだ。「逆取材された」とも言っていた。「取材」ということの重要さ、むずかしさを学んだようだった。「今、少し萎えている」と副委員長さんは笑いながら、その特集を組んだ今年度第2号を私に手渡してくれた。
2、「先生の話を聞いて、それまで進めてきた紙面構成を全面変え」という広報もあった。そんなふうに講義を聞いてもらえたとしたら嬉しい、そして怖い。この委員会は、クリニックの後、私を交えて次号の取材の計画を作った。
3、総会の出席者の数が「100名程」と書かれている広報があった。「100名程」という書き方が気になったので、委員長さんにその訳を尋ねた。そう表現しなければいけない理由を知った。考えさせられた。

水無月から文月へ
【No.384】 2005年07月04日

6/27 毎日新聞の谷さんの訃報がメールで届く。全国コンクールの「講評」の仕事を取り仕切っていた谷さん。4年間、一緒に仕事をさせてもらった。細心の注意を払う編集者だった。早すぎる死に悼む言葉が見つからない。夜、市民が作る「広報はだの」第2号の三回目の編集会議。企画は一応できた。

6/28 観測史上最高の暑さとか。扇風機を出した。エアコンを使った。ボイラー故障。
 
6/29 鶴岡市立平田中学校の出嶋先生が秦野市学校新聞部会の講師として来秦。夜、渋沢の居酒屋で歓迎の会。地崎校長さんが出てくれた。鈴木会長と顔つなぎが出来たようだ。来年の秦野大会の話を少しした。

6/30 市制50周年事業の「ふるさと自慢『見て歩き』」の東地区実行委員会に出席。「大山道と寺山の里」コースを案内することになる。

7/1 ホームページ更新。畑と庭の草の丈が気になる。

7/2  雨の気配なし。久しぶりに国道1号線を平塚まで走る。

7/3 午前、『エコー』の袋詰め。午後、畑の草と格闘。名前はよくわからないが「イヌビエ」「アキメヒシバ」というやつらしい。「ハキダメギク」は数センチほどの背丈なのに、花を咲かせ白い花粉を撒き散らす。夕方から雨。夜、清水自治会の集会。今年の寺山の納涼大会の清水自治会の担当は「綿菓子」。私も箸を廻して綿菓子を作るらしい。

7/4 Tさんが「エコーの購読料を取らなくなったということは、そろそろ止めるということか」と電話してきた。「そんなことではないが…」と私。その『エコー』、きょう発送。
 Mさん、家族新聞を持ってくる。もう51号。『エコー』の読者Yさん(獣医)が深紅バラの花を持って来てくれた。市P連の母親委員の三人と「母親委員会だより」の校正。“大”校正になってしまった。Yさんの御主人がパソコンで応援しているらしい。《騒動》になるかもしれない。

ビールの懸賞に当選
【No.383】 2005年06月24日

 「梅雨の中休み」などという言葉は全く当てはまらない今年の梅雨。歯医者さんの待合室で、寺山では“水争い”が起こりそうだという話を聞いた。それなのにきょうはすっかり《夏》。
 昼ちょっと前、宅配便のお兄さんが「当選らしいですよ」と笑いながら箱を持ってきてくれた。、「スーパードライ」のキャンペーンの懸賞に当選したのだった。きょうの気候にピッタリというかタイミングいいというのか産地直送の生ビールが6缶届いた。それで畑のトマトをもいだ。“トマト”と“ビール”はイイ。私の晩酌のコースは、まず「黒ラベル」、そして「スーパードライ」で引き締め、冷酒となる。 
 この懸賞に妻、長男、そして私と、それぞれの名前で応募した。で当たったのは長男。この応募には年齢の記入欄があった。妻が言った。「若い人を当選させたほうがこれから商売になるからね」。老人はひがみっぽい。せっせとシールを集め、応募したのは妻だった。

美空ひばり
【No.382】 2005年06月22日

 昨夜、二つのテレビで「美空ひばり」の特集をしていた。小椋桂が「みだれ髪」を歌ったとき、昼間訪ねてきてくれたFさんのことを思った。 
 退職者の会の会報を届ける役のFさん。昨日、留守の間にポストに会報が入れてあった。多分、留守宅が多いのだろう、Fさんが個人で作った挨拶文が添えてあった。「お体を大切になさって本格的な夏をお迎えくださるようお祈り申し上げます」という結びの文の下に紫陽花のイラストがあしらわれた。その挨拶文にFさんの人柄を感じた。Fさんとは何度か一緒に旅行もした。その旅先のスナックで、興に乗るとマイクを握って「髪の乱れに手をやれば」とやわらかい声で歌った。
 小学6年生の頃だと思う。横浜からZという転校生が来た。彼は、美空ひばりと同じクラスにいた、と横浜育ちを教室で自慢した。そのZ君、卒業してから一度も同窓会に顔をださない。
 1996年三月、130余名が集まって「エコーを励ます会」を開いてくれた。友人のSが言った「武、きょうはお前の生前葬だな」。会場で教え子子のRさんが一本のテープをくれた。自分が所属しているコーラスグループが歌った「川の流れのように」のテープだった。 
 このごろ「川の流れのように」が告別式で使われることもあるとか。「しらずしらず歩いてきた細く長いこの道 ふり返ればはるか遠く ふるさとが見える…」。
 

親子三代で「親子新聞づくり講座」
【No.381】 2005年06月18日

 きょうは東公民館での「親子新聞づくり講座」。今年で5回目になる。募集定員20で19名の参加。よく集まったと思う。
 3人家族が二組。祖母・父・子の親子三代が一組。婦人会の広報担当者。最年少は二人の小2の男の子。小5の女の子の単独参加、彼女は昨年に引き続きの参加。お父さんは二人。バラエティに富んでいた。
 帰り際一人のお父さんが「妻がPTAの広報委員になったお陰。家族新聞づくりはおもしろそう。公民館にも初めて来ることができた。楽しかった」と話してくれた。「奥さんに負けないように必ず完成させてください」と念を押した私。
 館長から「新聞作りの講座は東公民館の《ウリ》の講座。来年は新しい視点で開催したい」と頼まれた。

「ドッサリ 山菜」を読んで
【No.380】 2005年06月17日

 「山菜 ドッサリ」を読んだRさんからこんなメールが届いた。

 あー、懐かしい! こごみとミズは私も大好きです。こごみはお浸しにして、刻んだ胡桃をたっぷりかけて食べるのが我が家の定番でした。その胡桃は母の実家のもの。それを炒って割って中味を取り出すのが私の仕事。プチプチと包丁で刻むのもおもしろく、粉のようにしてあきれられたことも。ミズは地元でも最近は少ないという高級品。あっさりした味が好きです。

尾花沢からドッサリ 山菜
【No.379】 2005年06月15日

 昼のニュースを見ていたら、尾花沢の笹原さんから宅配便。表書きは「山菜」とあった。先週、浦佐で昼食をとったとき山菜のてんぷらを頼んだ。揚げたてのタラノメで生ビール。「うまい」を連発した私。それで笹原さんがこのプレゼントをしてくれたのだ。
 クワダイ、タラノメ、フキノトウ、ウド、アカコゴミ、ワラビ、ミズ、スドケ(シドケ)、タケノコ(根曲がり竹)、カタクリ、そしてニリンソウとドッサリ。それぞれの包に名前が記され、調理法も書かれていた。

 秦野の山で採れるのはタラノメ、フキノトウ、ワラビくらい。名前に興味を覚えた。後で調べてみよう。
 山菜は新鮮さが勝負。まずタケノコを焼いて食べた。ウチの藪のタケノコは真竹。こんなふうに食べたことはない。
 クワダイ、アカコゴミ、スドケ(シドケ)、ニリンソウは茹で食べた。山の香り、少しアクのある味が口の中いっぱいに広がった。
 ニリンソウは、川中美幸が「ふたりは二輪草」と歌っているので、その名は知ってはいた。だが実存する花とは思っていなかった。まして食べられるとは。 
 カタクリは花を見るものだと思っていた。丹沢の北側に自生地があるらしいが公表されていない。赤紫の花びらが二、三片添えられていた。
 タラノメ、フキノトウ、タケノコ、カタクリは今宵てんぷらで。 
 雨の一日だが、笹原さんのお陰で心は晴れやかで豊か。

物置の庇の下で
【No.378】 2005年06月14日

6月13日 晴れ
 今夜の編集会議に使いたいと思い「秦野の文化財マップ」をA先生宅に買いに行った。奥さんが「珍しいネエ。お父さん、農協からもう戻って来るころだから、待っていてよ。お茶 入れるから」「じゃあ待ってます。お茶はいいですよ」
 ほどなくA先生が戻ってきた。「マップ? 手持ちは無いよ。評判が良くて売り切れちゃった。電話を掛けてもってこらせるから。お茶飲んでいきなよ」
 「お茶が入ったよ」と奥さんの声。物置の庇の下にテーブルがしつらえてあり、周りに小さな椅子が置かれている。
 「いつもここで二人でお茶を飲まれるんですが」「そうだよ。でもたいてい誰かいるね。通りを通る人に声を掛けるのだ」そんな話をしていたら、一輪車を押してMさんが通りかかった。 
 「Mさん、お茶が入ったよ。寄っていきなよ。珍しい人もいるから」「時期を見計らって来たみたいだねえ。あれ、武先生じゃないの。珍しいネエ。それじゃあ 呼ばれんかねえ」。
 Mさんは被っていた手ぬぐいで体をはたきながら近づいてきた。 
 「何しに行かれんのよ」と私。「落花生に肥やしをやろうと思って。でもひでえよう、今年は。鹿が昨日も出て、踏んだらだあだよ」「どこに出たの」「波多野城址のとこだよ。あそこに出るんだから。タケノコを食いに来てんだよう」「タケノコって、あの下はウチの藪だよ。じゃあ今年はウチのタケノコ ダメかねえ」「早く行ってみたほうがいいよ」
 濃い新茶をいただいた。お茶受けは落花生の砂糖菓子。 
 「これもウチで作られたの」と私。「そうだよう、蒔いた残りの豆で作ったのよう。硬いかもしんねえよ」「大丈夫、歯医者に毎週行ってるから。壊れたらすぐに直す!」
 こんなお茶を飲んだのは何年ぶりだろう。

駒ケ岳、中ノ岳、八海山を越後三山と呼ぶ
【No.377】 2005年06月10日

6月7日 うす曇り
 宿からOさん宅に「これからお伺いします」と電話を入れた。すると「お待ちしています。今日はとても体調が良いようです」という奥さんの明るい声。
 湯沢からNさんの車で40分、浦佐駅の南側毘沙門堂通りにOさんの住まいはある。O家に曲がる通りに、前回訪ねた折土産に菅笠を買った荒物屋がそのまま残っていた。
 奥さんの言葉どおり、Oさんはにこやかな笑顔で4人を迎えてくれた。二人だけの生活、Oさんの体重はどうやら70キロオバーのようだった。そんなこともあり、今年になって未だ2度しか外出していないとのこと。 
 「お父さんに三山を見せたい」という奥さんの言葉で、Oさんと外を歩くことにした。介護タクシーとNさんの車で八色の森公園に行った。公園内のワイナリーからは柔らかな新緑のブドウ棚が見え、駒ケ岳、中ノ岳、八海山を望む広がりは田植えが済んだ田んぼ。
 試飲の白ワインをもらい6人で乾杯。「お父さん、飲んじゃおうか。飲んじゃおう、飲んじゃおう」とOさんにグラスを渡す奥さん。冷たくて、甘くて、おいしかった。Oさんも同じように味わえただろう。
 八色の森公園の遊歩道を6人で歩いた。公園の中ほどにある池は、はるかな八海山を水面に写すように設計されているという。梅雨もよいの今日の天候では、その姿は見えなかった。 
 清冽な冬ばれの日、Oさんとその雄姿を見たいと思った。

雪国の宿
【No.376】 2005年06月09日

 「はい、お土産」とSさんがサクランボとスイカの漬物を3人に配った。「へー サクランボ。嬉しい! 稲取の時もサクランボを持ってきてくれたよね。Oさんが『八海山を』一本背負ってきてさ。風呂に入る前に、サクランボをつまみに、ヒヤで一升空けちゃったっけ」「うん そのときはOもKもいたからね」「二人は強かったからなあ」「いつだったかなあ、稲取は。城ケ崎公園でバラバラになっちゃって、そのまま帰っちゃったよね。あの時、Oに会って以来だよね」。6人でそれぞれの古里を訪ねるようになってから今回で6回目。

 6月6日の午後2時半過ぎ、越後湯沢の「高半」の一室で交わしたわたしたちの会話。
 大学時代の仲間、K、S、Nそして私の4人は、6年前(?)の尾花沢祭りでの再会以来の再会。Kさんは今治、Sさんは尾花沢、Nさんは東京(出身・小千谷市)が住まい。
 脳梗塞で倒れたOさんのベッドでの闘病生活は10年以上も続く。それで、昨年10月27、28日にOさんを見舞うことになっていた。ところが23日に発生したあの中越大震災。それでようやくこの日を迎えることができた。6日は湯沢に泊まり、翌日浦佐のさん宅を訪れる。
 「高半」は川端康成の名作『雪国』の宿、館内の「かすみ間」はその執筆の部屋だそうで当時のままに保存されていた。この部屋の隣りに「雪国文学資料室」があり、そのロビーで、岸恵子の「駒子」、池部良の「島村」の『雪国』が観られる。モノクロの、雨が降っているスクリーンから岸恵子の少しかすれた鼻声―50年ほど前の学生生活を思い出させてくれた。
 「4人で痛飲」といいたいが、Kさんは全く酒はダメ。私たちの貸切り同然の館内のクラブで熱唱、4人で10数曲うたう。アルコールはすっかり発散。翌朝の目覚めはスッキリだった。

柏市での講座の評価
【No.375】 2005年06月04日

 先日、柏市で行った私の講座の評価が、柏市PTA連絡協議会のホームページに出た。
 
◇5月23日実施の『PTA広報作り講座』のアンケート集計結果◇
 アンケート回収数 159枚(小学校・幼稚園101枚、中学校43枚)
◎今回の講座について
  @よい・144  Aふつう・15  Bわるい・0
1、よい、もしくはふつうと答えた理由
@講座の内容がよかったという意見
 ・わかりやすかった
 ・各学校の広報誌の現物が見られてよくわかった
 ・実践的な内容でよかった
 ・写真の取り扱いや個人情報の事など注意点がよくわかった
 ・広報のPTA新聞が持つ本来の役割(知らせよう、広めよう)がわかり意義を理解できた
 ・持ち帰りの資料もあり役だった
2講座により活動意欲が湧いたという意見
 ・いやいやなった広報委員がとても楽しみに思えてきた
 ・新聞を発行するなどはした事がないので何もかも新鮮な驚きだった
 ・お話しの楽しさに頑張ってみようと思えた
 ・ 楽な方に流れてしまう広報活動の大切さを考え直した
 ・ 実際の活動のやり方がわかった 等
2、今後どのような企画を希望しますか
 ・出来上がった広報誌の個別指導
 ・パソコン、デジカメなどの上手な活用方法やレイアウトのコツ
 ・全国の優秀作品の展示
 ・印刷のコストを抑える方法、印刷所との上手な関わり方
 ・広報委員同士の交流の機会、優秀作品を作った方のお話しが聞きたい
 ・個人情報の扱いなど注意すべき点の詳しいお話しが聞きたい
 ・年に1.2回ではなく何回か行って突っ込んだ内容に触れて欲しい
3、御意見・ご感想をお書き下さい
 ・広報紙を通して子ども達に「人の良さ、大切さ、優しさ」を伝えていけるなんて素晴らしいと思いました、頑張りたいと思います。
 ・今まで何気なく読んでゴミ箱行きだった広報誌にこれだけの思いが詰まっていた事がわかりました、原稿作りも苦手ですが頑張りたいとおもいます。
 ・もっと多くの広報委員を誘えばよかったです。次回からはできるだけ参加を呼びかけます。
 ・こんな広報誌を作りたいという夢が広がりました。
 ・とても参考になりましたが、プレッシャーも感じています。
 ・現実は例年と同じ物を作るパターンが多く、一人ではなかなか難しいことも多いです。




6月1日 夏は来ぬ
【No.374】 2005年06月02日

 「キョッキョッ、キョキョキョキョ」。朝10時ごろ、そんな鳴き声を庭の桜の木の梢あたりで聞いた。こんな近くで「トッキョキョカキョク」を聞いたことはなかった。近くで聞くと、遠くから聞こえてくるのと違い「鋭い」響き。
 姿を見たくて双眼鏡を手に庭に出た。その私を待ちかねていたかのように、前隣のNさんが裏庭に出てきて「何の鳥ですか、この鳴き声の鳥は」。「ホトトギスといって“トッキョキョカキョク”と鳴いているんですよ」としたり顔の私。だが、都会育ちの彼女にはどうやら理解できなかったらしい。居ついてくれたらいいと思ったが、まもなく声は消えた。
 昨夜、遠くで鳴き声が聞こえた。夜も鳴くということを改めて図鑑で確認した。徳大寺実定の「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」は観察の歌だったのだ。
 最近二回ほど、A紙の投書欄に「“ホトトギス”私の場合は」という話が出ていた。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という格言の前句付けを、家族で楽しんで?いる話だった。
 「卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて 忍び音洩らす夏は来ぬ」 夏が来た。

今シーズンの山場の一週間でした
【No.373】 2005年05月29日

23日
  午後、柏市での広報講座、途中小田急の事故に遭う。昼食の時間を入れて1時間半の余裕をみて出かけてのだが、会場に着いたのは25分前。参加者は220名とか。柏市は小学校の新聞作りが盛ん。PTAもそれに負けていない。質問が5つ。控え室で一人のお父さんが私を待っていらっしゃった。「週1日、秦野まで通っています。先生が秦野からいらっしゃるということでご挨拶に来ました」とのこと。神奈川大学で講座を持っていらっしゃるので、秦野駅からバスで出勤、とのこと。この先生もPTA広報委員さんだった。 
 5時から、私が柏に来るということで、柏、市川、松戸に住んでいる4人の知人が「来訪歓迎会」を開いてくれた。店の名前は「霧笛屋」。3時間ほど『新聞』を肴に歓談。11時過ぎ帰秦。

24日 
 S小の6年生4クラスで学習新聞づくりの授業。4コマ連続という授業を毎日こなしている小学校の先生のご苦労を体感した。
 それぞれのクラスに子どもたちの特長が表れていた。私が“客人”であるということだなのだろう、どの教室でも、担任が驚き、喜ぶくらい話をよく聞いてくれた。
 終わって校長室で給食をいただいた。お付き合いしてくれたのはY教頭先生と専科のI先生。お二人とは東中で一緒に仕事をした。もちろん学級新聞作りの指導も。事務室では教え子のOさんが、保健室ではかつての同僚だったFさんが働いていた。この四人に見送られて玄関を出た。

25日
 K小の5年4組で国語の授業を2時間担当。と言っても「新聞作りの指導」。生活班を中心にした学級新聞が既に2号発行されているクラス。トイレ休憩の時間に男の子が近づいて「先生、U.Nって知っている?」と女性の名前を口にする。するともう一人が「A.Jは?」と聞く。こちらも女性の名前。二人とも西中時代に担任をした女生徒の名だった。顔もちろん浮かんだ。「お母さん、今でもフックラかな」(これはセクハラ! ごめんなさい)。「20キロやせたって言っているよ」。
 教室を去る前に子どもたちから花束をもらった。担任のO先生が言った。「子どもたちのお家の庭に咲いている花です。お家の人に訳を言って、もらってきた花です」。いろんな花が咲いていた。「どの花見ても…」そんな童謡があったっけ。
 夜7時から市役所で第1回「秦野の景観」選定委員会。なぜか、そんな委員を頼まれてしまった。「広報はだの」と「寺山ものがたり」が委員委嘱の根拠になったのだろう。「景観」という言葉の理解・受け止め方が多様なことを知る。景観の選定は難しいと思った。 
 柏市の講座に参加された菅原さんからメール。私の話をまとめてくださった。「他の勉強会で使いたいので、趣意の確認・加除訂正をして欲しい」とのこと。学ぼうとする姿勢に心打たれた。そして感激だった。

26日
 18日に行った荒川PTA広報講座に出席された市村さんからファックスがとどいた。「参加できなかった委員に話を報告する」と添え書き。「PTA広報を作る人はもっとも素敵な人」と元気付けている私だが、その好例が市村さんだ。
 
27日
 3:35のバスで寺山の「藤棚」を出発。千代田線町屋駅に6:00に着く。駅前の杵屋で「五目うどん」の夕食、780円。隣りのテーブルでは私と同年齢くらいのご夫婦が生ビール。“これから”仕事と言うこともあるので「サンパール荒川」までタクシー。ワンメーターで着く。
 今夜の参加者は50名ほどか。仕事帰りと思われる服装のお母さんが多かった。ビジネススーツのお父さんも2名。「校長先生から、子どもの顔が判る写真は掲載しないように、と申し入れがあった。どうしたらいいのか」という戸惑いの質問が出た。お母さんたちは“出鼻を挫かれた”感ありありだろう。私なりのアドバイス・対策を話した。

5月18日  昼夜興行
【No.372】 2005年05月19日

6時35分のバスで出発。千代田線の町屋で下車。会場の「サンパール荒川」には9時半に入れた。今日の参加者予定者は120名とか。「控え室は楽屋」と連絡があったように、会場にはじゅうたんが敷かれ劇場形態。 
 講座が終わり楽屋で教育委員会の人と話をしていたら、3人の委員がさんが会いにみえた。2人は昨年に引き続き今年も広報をつくることにしたと報告。「昨年1年である程度の流れができた広報活動を、今年定着させたいから」とのこと。もう1人は、委員会の人に「でき上がった広報を武先生と読みあう研修会を開いて欲しい」とお願いされた。27日、同会場で「夜の部」の公演、ではなく「講座」をもたせてもらう。
 帰って、7時から『市民が作る広報はだの』の第2号の編集会議。2という数字を含んだ格言は「二番煎じ」「柳の下の二匹目のどじょう」「二兎を追う者」「二束三文」「二流」「二階から目薬」「二足のわらじ」「二伸」などなど、あまりよい響き・印象ではないので、集まった委員たち(当然、私も!)は「二の足」を踏んでいるような心境。だが、前号の反省をし始めると、意欲ありあり、で少し安心。次回、各人が企画書を持ち寄り話し合うこととで解散。動き出してしまったのだから、」「二の矢を継いで」「二人三脚」で「二枚腰」でがんばることにする。

5月16日 千客万来
【No.371】 2005年05月17日

 昨夜のことでケアマネージャーのWさんに相談。あわてて検査入院などさせず、二三日様子を見ることにする。一応、落ち着いている。
 今日は訪問客が多かった。JAの作物共済の申請書を持ってきた人が2人、定期総会の紙面議決書を持参された人3人(私は生産組合長なのです)。自治会長さんが、ある仕事をしてほしいとお願いにみえが、保留とさせてもらった。
 午後、東中の広報委員長さんと新聞講習会の日程の調整。今は中間テスト期間だそうな。そしてその後に修学旅行。それが終わって、ということにした。
 市広報広聴室から室長MさんとIさん来訪。「好評につき『市民が作る広報はだの』の第2号を」という正式なお願いがあった。“一回勝負”と思っていたので“先行き不透明”です。企画はたくさん出てきそうだが、1号を超えるのはかなり大変になるだろう。
 4時過ぎ、S小のS先生が家庭訪問の途中でわが家に寄り道。来週、S小の6年生の全クラスに学習新聞作りの指導を頼まれている。その授業の打ち合わせ。資料の原版を渡した。最近の小学生の実態を少し聞かせてもらった。“授業不成立”にならないように、心してかかろう。
 7時前、K小のO先生来訪。こちらも、来週新聞作りの授業をさせてもらう。O先生は5年生担任、既に学級新聞の第1号ができていた。カラフルでおおらかな新聞だった。クラスからの招請状と新聞作りについての質問書をもらった。

先生方にお願い
【No.370】 2005年05月12日

9日は湯河原町、10日は伊勢原市で、そして11日大井町と、連日PTA広報づくり講座を持った。
委員は誰も「大変そうだけど、委員になったからにはイイモノをつくりたい」という思いを抱いて集まってきているのだと思った。そのことは会場での質問や感想で読み取れた。
 A会場でのワンシーン。最前列の真ん中の席のお母さんが「園児のお迎えなので」とわざわざ声を掛けて退席していった。講座が終わったのは4時過ぎ。しばらく会場に残り質問を受けていた。そこに、先ほど退席されたお母さんが子どもさんを連れて現れた。「もう終わっていると思ったけど。今日のような、本物のPTA広報作りの話が聞けるのでしたら、お迎えは上の子に頼んでおけばよかったと思います。2年目の広報委員ですが、何を書いたらいいのか、少し分かったような気がします。頑張ります」と、そのことをわざわざ私に告げに戻って来られたのだ。
 B会場で飛び出した質問。「私たちの出した企画が学校側に却下された。理由を聞いても、ただ『これは止めてくれ』と言われるだけ。こういう場合どうしたらいいのか」。
 C会場の主催者はP連の母親委員さんたち。その中の一人が「来年は広報委員に立候補します」と私を喜ばせてくれた。A会場で講座を主催した教育委員会の職員Sさんも言った。「高校のPTAの広報委員を頼まれたのですが、仕事との兼ね合いがあるので断ってしまいました。でも、今日の話を聞いて広報をやってみたくなりました。」
9日は湯河原町、10日は伊勢原市で、さそして11日大井町と、連日PTA広報づくり講座を持った。委員は誰も「大変そうだけど、委員になったからにはイイモノをつくりたい」という思いを抱いて集まってきていた。そのことは会場での質問や感想で読み取れた。
A会場の場合。最前列の真ん中の席のお母さんが「園児のお迎えなので」とわざわざ声を掛けて退席されました。講座が終わったのは4時過ぎでした。しばらく会場に残り質問を受けていました。そこに、先ほど退席されたお母さんが子どもさんを連れて現れたのです。「もう終わっていると思ったけど。今日のような、本物のPTA広報作りの話がきけるのでしたら、お迎えは上の子に頼んでおけばよかったと思います。2年目の広報委員ですが、何を書いたらいいのか、少し分かったような気がします。頑張ります」と、私に告げに戻って来られた。B会場で飛び出した質問。「私たちの出した企画が学校側に却下された。理由を聞いても、ただ『これは止めてくれ』と言われるだけ。こういう場合どうしたらいいのか」。
 「PTA広報づくりを頑張る人は子育てに一生懸命だということ。そして自分のことにも一生懸命になれる人」だと、委員を元気づけるのが私の役目なのだが、次のような感想をもらって、私の方が元気付けられた。
◇あの時ジャンケンで負けて広報委員になったことを今は感謝しています。36才の一年間、子どものため学校のためではなく、私自身のために時間を費やし3月に涙を流せるくらいに思いきり楽しみたいと考えを変えました。武先生ありがとうございました。
◇2時間半あっという間に終わった講座、とても来て良かったとおもいます。広報への思いが変わりました。この一年間楽しくできそうです。すべて初めての事でとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。
◇成り行きでなってしまった広報委員ですが、いろいろな学校のすばらしい広報を知ることができ、型にはめられている今までの新聞ではなく、楽しい新聞を皆で作れたらいいなと思いました。はじめに紹介された広報にとても感動しました。一年間がんばってみようと思います。
◇すべて初めてのことでとても楽しく学び勉強できました。新聞づくりが楽しくなりそうです。

 先生方にお願いします。このお母さんたちの思いをどうぞ成就させてあげてください。

敵も然る者 苦労・クロウ(crow)人
【No.369】 2005年05月06日

 夜が明ける前からカラスの鳴き声。枯れ枝をくわえて啼くとは器用なもの。少しあわてて桜の木の下に立つ。新しく巣が作られているようには見えない。
 敵も然る者 苦労・クロウ(crow)人。 カラスは賢いというがその通りかもしれない。桜の根元には小枝が散乱。城は捨てたがゲリラ戦法で復讐をしていのだ。それに応える私の作戦は煙作戦。彼らが撒き散らした小枝で季節外れの焚き火。さらに桜の木にはしごを掛けてヒコバエを切り落とす作業をして、彼らに私の姿を見せ続けた。カラスさんよ、「共生」とは「住み分け」のことだと思うのですが、どうでしょう。
 中学生のとき新聞づくりに燃えた寺尾さんから手紙が来た。現在大学一年生だが劇団「第七劇場」に所属している。この5,6月に静岡市で開かれる「Shizuoka春の芸術祭2005」はギリシャ悲劇の特集。寺尾さんはエウリピデスの「トロイアの女」で「脚本上の主役ヘカベを演ずる」と書いてきた。カラスと争っている私とは違い過ぎる!
 

5月3日 「風雲カラス城の戦い」
【No.368】 2005年05月03日

 8時半から退職教職員の会の総会の案内状を配って回る。私の持分は12人。会員のHさん宅は蓑毛のバス停近くにある。このバス停は大山登山や丹沢の表尾根縦走の登山口なので、この時間でもけっこうなにぎわい。そんな人たちを眺めながら、私は「田舎に住む幸せ」を思う。1時間ほどで完了。 ここ数日、庭の桜の木蔭に黒い影が頻繁に見える。カラスが巣作りを始めたのだ。カラスは、日本の神話の中では「ヤタ烏」のように、神の鳥とも見られたりしているが、実際には人々にあまり好かれる鳥ではない。とにかく、あの鳴き声がウチの庭から近所に響くのはあまり芳しいこととは思えない。それで“意を決して”巣の取り外しをすることにした。 
 巣は、木の天辺近くで、その高さは15メートルほどか。よじ登ることはできないので、ハシゴと10メートルほどの竿を使い、巣を突き落とすことにした。巣は未完成だが、使われている枯れ枝の量はかなりのもの。    「元中学校長 カラスの巣撤去で転落」などという見出しにならないように、心してかかった作業。腕と首に負担がかかり“悪戦苦闘”。とりあえずは「勝った」のだが、敵も然る者で、再度築城を始める態勢。これ見よがしに、ウチの周りで騒ぎたてている。そういうわけで、武家の桜の木を舞台に「風雲カラス城の戦い」は、この連休中続きそうだ。

 K小のO先生来訪。今年度は学級新聞を学級づくりに活かしたいので、新聞についての授業をして欲しいとのこと。作文指導では多くの実績を上げているO先生が新聞に取り組んでくれるのは願ってもないこと。2時間の授業をさせてもらうことにした。 
 昨夜はS小のS先生から電話をもらった。「学習新聞に取り組ませたいので、授業を」ということ。20日、4クラスに新聞の作り方を教えることになった。
 夕方、裏の畑でトラクターがうなりを上げていた。この畑はH中が総合学習で使う。「親父の会」の会長Tさんが運転していた。

 連休が終わると、K小もS小も、そしてH中も、どの学校も、授業は充実感を増す。

ある日・4月25日 
【No.367】 2005年04月26日

 9時30分の約束で、まちづくり推進課の二人がパソコンを抱えて来訪。29日の『ふるさと自慢シンポジュウム』の打ち合わせ。パワーポイントを使って話すのて、その写真の順番の確認をした。「事務連絡」の紙を渡された。その連絡事項の中に、当日の服装は“ふだん着”で、とあった。改まって「ふだん着」と言われ、さて何を着て行こうかと悩んでいる。
 11時過ぎに伊勢原市P連の役員二人がみえる。5月に行うPTA広報講座の最終確認。雑談の中で「学校だよりとPTA広報との記事の奪い合い、あるいはダブリ」について質問された。
 午後1時30分、秦野市P連の母親委員長・Aさん来訪。26日の広報講習会に併せて全国のPTA広報紙の展示会を開く。その展示する広報紙を渡した。「百聞は一見に如かず」、他紙を手にすることは私の講義より意味がある。もちろん「PTA広報とは」をある程度理解していなければいけないのだが…。Aさん、ふるさとの町が合併しなくて良かったと言う。Aさんのふるさとは、西馬内音盆踊りで知られている秋田・羽後町。
 妻が言った。「秘書が必要でしょ。」

4月25日の「歌壇」「俳壇」から
《「共感」と言ったら、母には礼を失するかもしれないが…》
介護する我より深き吐息して義父は車椅子からベッドへ移る  山田 紀子
くりかえし「隅田川」うたう媼あり春のうららの哀しきベッド 高安みさほ
《悲しい現実》
子どもらの歌声ひびく校庭をよぎれずなりぬ門閉ざされて   篠原 克彦
《希望・字向村(あざむかいむら)は岩手、秋田、長野なと各地にある地名》
台所の玉葱の芽の青く伸び漸く春になる字向村  奈瀬明日美
《馬場あき子選の第1首、とても春を感じました。どのような歌かと気になる方、どうぞご自分の目で確かめてください。》

離任された安田校長先生の言葉
【No.366】 2005年04月23日

 昨秋蒔いたキヌサヤがようやく背を伸ばし始めた。ジャガイモ、インゲン、ダイコン、サトイモの順に播種をしてきた。そしてきょうはキュウリ、トマト、ナスの苗を植えた。1アールほどしかない畑なのだが、それらしい畝も見え、とても満足。 
 野菜の苗と一緒にメダカを買ってきた。去年も今頃、同じ店で20匹買ってきた。だが、ただいまメダカの学校の生徒は1匹。孵化も失敗。今年の生徒はにぎやかに年を越させたい。
 午後、昼寝?をしていたら、東中の広報委員長の本間さんが新聞を持って来てくれた。4月6日に今年度の第1号が発行され、既に3回の発行を数えている。本間さんは部活の帰り。「明日は試合です。頑張ります」とにっこりの彼女。もうすっかり日焼けしていた。
 「皆さんが学習、行事、部活に取り組む熱い姿勢は私の誇りであり、元気と勇気の泉でした。挨拶、新聞、ボランティアといった伝統を守り、ぜひ受け継いで下さい」。これは、東中新聞788号に載っている、離任された安田校長先生の言葉です。

研究紀要『秦野の教育と新聞』
【No.365】 2005年04月20日

 秦野市教育研究所がこの3月に発行した研究紀要第71集をいただいた。 その紀要は『秦野の教育と新聞』(A4判・142ページ)で、第1章「新聞でたどる秦野の教育」、第2章「座談会・秦野の新聞教育」、第3章「学習の的と目としての新聞づくり」、資料編「新聞の作り方」「新聞コンクールの結果一覧」など、からなっている。
 第1章は、昭和25年から平成16年までに秦野市内の小・中学校で発行された学校新聞、学級新聞、そしてPTA広報の縮刷版や記事の切抜きが100ページあまりにわたって掲載されている。これは、戦後の秦野の教育の歴史を子どもや保護者の目から記録したものとして貴重な資料だ。別冊『秦野教育史』とも言える。
 授業のかたわら、この研究に2年間取り組まれた6人の先生のご苦労に心から「お疲れさまでした。ありがとうございました。」とお礼を申し上げる。この研究を事業として採り上げた教育研究所に深謝。

PTA広報講座第2日目の会場で
【No.364】 2005年04月15日

 昨日の中井町に続いて今日は松田町で広報講座。「広報に興味のある方」にも呼びかけてあるのだが、2会場ともPTAの広報委員のみ。日程や時間帯からいっても当然のことだろう。
 いつもの通り「広報委員に立候補した人」に挙手を求めた。挙った手は両会場とも1割強。「今でも『広報はイヤ』、できれば変わってもらいたい」と思っている人も1割程度。残りの8割は「一応納得して」広報委員を受けている。“イヤイヤ組”を“一応組”に《変心》させるのが私に課せられた務めと思って、頑張ったつもり。
 今日、講座が終わってから寄小・中の委員と雑談していたら、どこかで見た顔を発見。「N中で先生に教わりました」。そして学級新聞も作ったと言う彼女。私のクラスではなかったが、記憶にある顔だった。残念ながら、名前は思い出せなかった。彼女も名乗らなかった。
 だが帰りの車の中で、突然名前が浮かんだ。「そう、I.Kだ」。上気しているように見えた彼女の顔色が、中学生のころの色白の彼女の顔に突然つながったのだった。
 I.Kさんと出会ったのはたぶん30年くらい前だろう。英語をよく勉強した子だった。当時のN中は超マンモス校、一学年が9クラスだった。私が彼女のクラスに授業に出たのは1年生のときだけだったような気がする。
 彼女に直接「I・Kさんでしょう」と言えなかったことに少し後悔の念。

開幕前日
【No.363】 2005年04月13日

 明日は私のシーズン「新聞づくり」の幕開けの日。中井町で「広報づくり講座」をおこなう。中井町からは初めてのお招き。
 一日中雨だったので落ち着いてレジュメを作った、というのはウソ。昨年度いただいたPTA広報や学校新聞を、それまで使用していたものと差し替える作業。おおよそ300紙に目を通し、講座に例示する紙面を選んだのだが、途中で記事に引き込まれたりしてなかなかはかどらない作業。
 明後日は松田町での講座なので、2会場分のレジュメを作ってしまうことにした。「“読んでもらうのではなく 読ませちゃおう”の広報づくり講座」にするつもりのレジュメ。少し意気込み過ぎだが、開幕前日だから仕方のないこと。
 それにしても寒い。訪ねて来た人が「寒いですね。」と挨拶する。「寒くなりましたね。」などと言ってしまった私に、相手は怪訝な表情。

きょうは宵宮
【No.362】 2005年04月09日

 明日の鹿島神社のお祭り。それで清水庭(自治会の会員)は9時にお宮に集まった。「もじりかけ」をするためだ。「もじりかけ」とは御神輿の飾りつけをすることの代名詞。ねじった白の晒しを神輿の頂の鳳凰から四方の蕨手(わらびて・わらびのような形をしているから)に流し、神輿を壊れないように締めることが「もじりかけ」。「もじり」は「ねじる」という古語。この「もじりかけ」を済ませ注連や榊などを取り付け、神輿の化粧は終わる。明日は桜吹雪の中、神輿も舞うだろう。
 午後1時30分から秦野園芸愛好会の例会。今月は総会なので出席者は15名と盛況。終わって会が2年前から始めたカブトムシの人工飼育床を見に行く。どうやら今夏、幼稚園児にプレゼントできそうだ。
 留守の間、わが家のさくらを見に「エコー」の読者I、K、Tさんが来訪。一緒に花見ができず、残念。
 Nさんから「小学校で仕事をすることになった」とメール。絶やさない笑顔と進取の心の持ち主のNさんの、子どもたちの前の姿を思い浮かべた。

落日を拾いに行かむ海の果て
【No.361】 2005年04月06日

 「春眠暁を覚えず」などというのは、この歳の私にはもはや当てはまらない。もうずっと以前から、毎朝4時過ぎには目が覚めてしまう。それから5時半までモソモソ。そして5時30分からテレビを観る。
 水曜日の5時半からは「NHK俳壇」。今朝は年度替りということで、投稿句の選は行われなかった。番組は2年前の講座「11人の辞世の句」の再放映だった。金子兜太と嵐山光三郎が、芭蕉、蕪村、子規、山頭火、放斎などの辞世の句、あるいは絶筆といわれている句について対談をした。
 その11人目に登場したのは壇一雄。彼の最期の句は「落日を拾いに行かむ海の果て」で、ポルトガルで作られたとか。芭蕉の「旅に病んで夢は」を無意識のうちに踏まえているらしい。 
 「火宅の人」だった彼にとって、この辞世の句は「永遠に旅をし続けるしかない」という思いが込められているともとれる。それでいて、明るいし、希望さえ感じられる。今朝この句に出会えたことは「早起きは三文の得」。
 お隣の小学校では、今朝離任式。校歌と「蛍の光」が鼓笛隊によって奏でられる中、先生たちが新しい世界に向かって歩を進めていた。なぜか「落日を」の句を思った。
 
 明日木曜の朝は「短歌」。

 4月1日
【No.360】 2005年04月01日

 4月1日 新しい年度が始まった。新聞が恒例の「教員移動特報」を作ってくれた。毎年そのページに付けられる「見出し」を楽しみにしている。今年は「夢はぐくむ 明るい教室」がA紙。そしてB紙は「出会いの春に心躍る」。子どもたちに、保護者に、そして先生たちにとって、学校は「夢はぐくむ」ところでなければならない。
 
 4月1日を意識した、今日の新聞の広告欄のキャッチコピー。印象に残ったのは、
「悠然として山を見る蛙かな 小林一茶」(銀行)
「4月。父親への挑戦状。」(ビール会社)

 午前10時、東中学校の新年度の広報委員長の本間さんが訪ねてきた。委員は新学期が始まって決まるので今のところは一人。でも、明日から活動を始めるらしい。その心意気がうれしい。


P広報紙の講評 完了
【No.359】 2005年03月30日

 市P連のOさんに今年度の「PTA広報の講評集」の原稿を渡した。 
 この一年間に発行された全広報紙を読んだ。そして1校600字程度の紙面クリニックを書いた。22校分だからかなりの量。この講評集は次年度の広報づくりのヒントにもなるので、できる限り視点を変えて書いたつもり。
 今年度の広報紙の特徴は「子どもの安全」に真剣に取り組んでいること。そして「委員の選出の困難さ」も相変わらず取り上げられていた。

これが最後か
【No.358】 2005年03月28日

 3月27日、箱根・宮ノ下の富士屋ホテルで開かれたY先生の結婚披露宴に出かけた。今考えれば冷や汗ものだが、30年くらい前、このホテルの近くの保養所に泊まったとき、数人でこのホテルのバーに飲みに行ったことがあった。それ以外にこのホテルに足を踏み入れたことはない。開宴まで少し時間が合ったので、本館の中を見てまわった。
 宴は歴史を感じさせるカスケードルーム。100名を超える招待客。今日の私は新郎の主賓だった。“媒酌人なし”なので祝辞のトップバッター。多分、披露宴の主賓として招かれるのは今回が最後だろう。そう思ってスピーチをさせてもらった。いつも以上に足が震えていた。 
 新郎のYさんは新採用教員として私が勤務していた秦野東中に来た。それが縁で今も一緒に学校新聞の指導をしている。幸せ絶頂のYさん夫妻を祝福させてもらった私もまた幸せだった。 
 帰りの登山電車から眺めた早川渓谷の木々に少しうす緑が差していた。

春になった
【No.357】 2005年03月25日

 午後からほんとに春のような陽気。風もない空にふんわりとした雲が浮かんでいた。そんな気候に乗せられてか今日は筆が進み、講評はとりあえず書き終えた。
 3時過ぎ、畑に大根とねぎを取りに行った妻があわてて戻ってきて、「キャベツのネットにヒヨドリが絡まっている」と言う。厳冬期、餌のないヒヨドリは、育ち始めたキャベツの柔らかな部分を食べにくる。それでネットを掛けておいてある。 
 季節はどうやら春になった。だが鳥たちの食べ物は冬と変わらず乏しい。しかも、これから繁殖期に入るのだから体力が必要。だからキャベツのネットに首を突っ込んだのだろう。 
 ネットを外そうとしている私の手袋を猛烈に突っつく。けっきょく二人がかりてネットを切り裂いて助けた。手から離れたヒヨドリはけたたましく鳴きながら飛び去っていった。しばらくして、桜の木の天辺にヒヨドリが来た。さっきのヒヨドリかもしれないと思った。お礼を言いに来たのか、それとも性懲りもなくキャベツをついばみに来たのか。
 「東中新聞」の774号がポストに届いていた。1、2年生だけで作った今年度の最終号。来年度の委員長・本間さんが「新聞の伝統を引き継ぎ、東中を変えるきっかけとなるような新聞作りをしたいです。頑張ります。」と抱負を述べている。
 桜の蕾が今日一日で色づき始めた。春になった。

私は生産組合長
【No.356】 2005年03月24日

 3月も今頃になると、新聞で人事異動の氏名が報じられ始める。次年度の私の人事 順番で農協の生産組合長―組合員数48名―をすることになった。その引き継ぎの会が、昨夜支所で開かれた。 
 集まった次年度の組合長は29名。仕事の内容も分からないままの出席なので、緊張気味の私。席に着き、置かれている新組合長の名表に目をやった。教え子の名を8つ数えることができた。少しホッとし、コの字型の座席を見回すと、その8人が、ニヤリと、あるいは怪訝そうな視線を私に送っていた。あわててちょこんと頭を下げた。 
 一人隣にいたMさんが「先生、ご苦労さんですよう。百姓 やってんの」と笑いかける。「栗をちょっと」と答えると「大変だんべ、鹿に食われて」と彼。
 議事の最後に、東地区生産組合の「大代表(すごい名称)」を選んだが、その大役に、中学時代「オオタカ」と呼ばれていたOさんが就いた。彼は51歳のはず。そしてOさんを筆頭にいろいろな係りに彼ら選ばれていった。彼らがこの地区の農業のリーダー的立場にいることが嬉しかった。自分の老齢を強く意識した。
 会が終わり駐車場を抜けようとしたらTさんが「先生、送って行くべえよう。中学時代、世話になったから」と言う。「歩いて3分だから」と固辞して、雨の中をけっこう弾んだ足取りで帰ってきた。 
 任期は2年、彼らと一緒に「イモチ病」や「鳥獣害」の調査、「共済の勧誘」もするらしい。新しい世界が私の前に広がりそうだ。

春霞
【No.355】 2005年03月21日

16日、我が家から眺めた丹沢の山並みは春霞、と思った。だが色合いが少しちがった。杉花粉が谷に沿って舞い上がっていたのだ。この日から、花粉症で重症。ここ三日間はじっと横になっている。P広報の講評の締め切りは間近だが気力なし。

マメ君のお母さん
【No.354】 2005年03月16日

 「箱根一泊」の同窓会を開いた。まもなく古希を迎える年齢、存命者101名のうち42名が出席。幹事としてはとても嬉しい人数だった。
 3時前、会場の天成園に着き、早速ロビーで受付の準備をはじめた。気分が高揚していたのか“幹事一同”にぎやか。まもなくきりりとしたブレザー姿の女性がにこやかに私に近づいてきた。「まずい 叱られる」と思った。 「武先生ですね。皆さんのお話の中に『武さん』というお名前をお聞きし、もしかしたらと思い、あちらでお姿を拝見させていただきました。やはり武先生でした。西中でお世話になりました鈴木隆の母でございます」
 鈴木隆という名前を聞きすぐに彼の顔が浮かんだ。「マメだ」。教室でいつも“小マメ”に動き回る小柄な子、野球でセカンドを守っていた―それで野球部の仲間が付けたあだ名が「マメ」。二十数年前の生徒だった。だが担任ではなかったので、「マメ」君のお母さんに出会った記憶は、私には全くない。それなのに私に気づき、わざわざ挨拶をしてくれた。 
 同級生が言った。「武 教師冥利に尽きるだろう」。   
 当時の西中は生徒2000名というマンモス学校。私にとって鈴木君は2000分の1なのだが、鈴木君(そのお母さんも)にとって、私は1対1の関係・対象だったのだ。その自覚が私にはあったのだろうか。 
 ここで経理の仕事をしている鈴木さん。翌朝 忙しい中、私を見送ってくださった。私の手にはいただいた温泉マンジュウがあった。
 隆さんは、今、私をはるかに抜く背丈になり、I市でラーメン店を経営している。

“春”の到来
【No.353】 2005年03月09日

 ここ二、三日は「春本番」というところか。現金なもので、こんな気候になるとからだを動かしたくなる。それで車を洗うことに。 
 軽トラはなんと1年半ぶりの洗車。要するに買ってから初めて、ということ。「軽トラのピカピカは軽トラではない」などと聞かされ、生来の“不精”と相まって、全く車の手入れをしていない。既にあちこちに青ごけが発生していた。がんばってピカピカにした。乗用車の方も1カ月点検の連絡がきていたので手洗い。2台で1時間半も費やした。それが元で眼がクシャクシャ。いよいよ、私にも“春”の到来。
 タウンニュースのMさん来訪。今月いっぱいで転勤とのこと。来年の秦野大会をバックアップしてもらいたかったのに。とてもお世話になった。
 教え子の恭子さんが「実家に帰る途中」と言って寄ってくれた。そしてお手製の「雛の吊るし飾り」をプレゼントしてくれた。「3日に間に合えばよかったのですが」と言う。寺山のひな祭りは4月なので、そう話したらとても喜んだ。早速吊るす。華やいだ部屋になった。
 くしゃみを連発しながら、郵便局に行き送金、コンビニでコピー。それをも使って『エコー』の1ページが完成。中井町でのPTA広報講座が決まる。 

3月5日 全国学校新聞コンクールの表彰式
【No.352】 2005年03月06日

 きのう、全国学校新聞コンクールの表彰式で毎日新聞社に出かけた。駅で買った毎日新聞の1面にライブドアの堀江社長のインタビューの記事が出ていた。その見出しの一つが「既存ジャーナリズムは不要」だった。この見出しにかかわる部分の堀江氏の発言は「(調査報道や不正の追求など)皆さんの考えるジャーナリズムはもう必要ない」。新聞や広報が果たす役割を説いてきた私にとって、かなり“刺激的”な言葉である。
 「新聞が情報を取捨選択をすることが必要なのか。読者が判断する時代だ。今は判断できる時代だ」と言う。インターネットを通じて個人がたくさんの情報を得られる。そこで個人が判断すればよいということのようだ。そして氏はまたこう言う「メディアを持ったらコントロールはしない。純粋な媒介者であるべきだ」と。「インターネットは全能」という論理。なんだか、とても《危うい》と思ってしまった。私は“既存”の世代なのだろうが…。

 この表彰式では「新聞の表彰式」らしく、式のさなかに速報作りが行われる。今年は、秦野東中の野中麻未さんと阿南陽子さんが東京・石川台中と清新第一中の広報委員と一緒に速報づくりをした。北は北海道、南は九州から上京したきた入賞校の広報委員に取材し、記事にまとめる。取材は12時からの1時間。野中さん、阿南さんの読み上げる記事をそのままパソコンに入力してしまうのは石川台中2年の女生徒。その指使いにただただ感心。こうして、B4・2Pのパソコン新聞が3時からの祝賀パーティーの会場で配られた。

如月から弥生へ
【No.351】 2005年03月02日

2月27日 テレビで「黄落、その後」を見た。ウチの話かと思うほど。小林桂樹の姿に私を重ねた。ラストシーンの「今度は私たちの番ね」というセリフにたじろぐ。
2月28日 東婦人会の会報の編集会議を私の部屋で。記事は完成していた。見出しも使える。記事の重要度からレイアウトを考えるように話した。25日に刷り上るはずの『ECHO』がきょうの夕方になった。少しばかり不満だ。読者に申し訳ない。

3月1日 注文しておいた日本語源大辞典が届く。この辞典は楽しそうだ。枕元に置いて好きなときに広げよう。
3月2日 電話が鳴る「武社長さんでいらっしゃいますか」。商品取引の勧誘だ。「秦野市の優良企業でありますエコー教育広報相談室さんですから、電話を取らせてもらいました」とのたまい、言葉が続く。「教育広報相談ってどんなことをしていらっしゃるのですが」。
 「電話を取らせてもらう」というのは、電話が鳴ったから取るという謙譲語だと思う。自ら電話をかけていて「取らせてもらう」などという言い方はない。
 東小のP広報委員さん二人が刷り上ったばかりの広報を持ってみえる。年度最終号だと、普通は「ご挨拶と卒業記念」の紙面になるのだが、1面全面が「インターネットを使うために」という特集で組まれている。最後まで全力投球のようだった。一年間の感想を尋ねた。「楽しかったです」。二人の笑顔がよかった。

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