- 寺 山 だ よ り -

熊除けの鈴
【No.522】 2006年10月15日

 先週のある日のお隣の小学校の昼休みの校内放送。「熊除けの鈴の紐を校長室でつけます。鈴を持っている人は校長室に来てください」。市内でもう二度も目撃されているとか。信じられない環境になった。
 今朝、センダンの木にコガラが数羽。こちらは歓迎。
 午前中は庭の草取り。スイセンの芽があちこちで見られる。ノハナショウブが野放図に広がってしまっているので、手当たり次第球根を掘り出して処分。アカマンマのようにまもなく枯れる草もあるが、ヤブガラシだけは絶対見逃さない。地中に指を差し込んで、静々と地下茎を引き抜く。長いものは2メートルくらいまで取れるのだが、来春になればまた残った根から芽がでる。その生育力の強さに意地をはって対抗するのだが、自然の力には負ける。
 午後、寺山自治会主催の講演会『江戸時代の寺山と丹沢』に参加。講師は武真幸さん。江戸時代の寺山村の生活のようすを資料に基づいて説明があった。古地図や古文書も例示され、興味深く聴くことができた。        

【No.521】 2006年10月13日

今週の『俳壇』から
  
長谷川櫂選
 東塔の秋西塔の秋惜しむ      多田羅初美
 ゐのこづちだらけで現るる犬の貌  坂  一草
 飛行機雲一すじ許し鰯雲      佐藤 友哉
 秋の暮宇宙の闇に入る地球     馬目  空
稲畑汀子選
 天を掃き地を掃き萩の嵐かな    猿渡 青雨
 とんぼうの軽さの影でありにけり  橋本  博
金子兜太選
 ほくほくの甘藷の笑みの七重八重  熊坂  淑(秦野の人)

 選者の一人が《お休み》ということで15句選になってから、なぜか印象に残る句に出会えなくなっていた。だが、今週は書き留めたい句に出会った。『秋』だからかもしれない。

ドラゴンズ優勝
【No.520】 2006年10月11日

10月10日 
 朝、庭のニッキの木にコゲラが来てドラミング、珍しいこと。陽が高くなると、今度はセンダンの実をついばみにヒヨドリ、その鳴き声がけっこう騒々しい。ハマギクが一つだけ蕾を開いた。
 午前中、相談室の裏のモチの垣根の下を片付ける。そこに立てかけてあるシイタケの原木の一本からシイタケが三つ生えていた。

 ドラゴンズ、ようやくタイガースを振り切って優勝。劇的といえば劇的。ウッズ、足の痛みなど関係ないのか。あんな状態で、あの場面でホームランが打てるとは。テレビに映る落合監督は徹底的にポーカーフェイスを通していたのに、ウッズのグランドスラムのときはベンチを飛び出しウッズと抱き合った。信じられない光景、しかも目がうるんでいた。ベンチのいつもの席に戻ってから、流れる涙を何度もタオルでぬぐい、何度もほっとため息。
 昨シーズン、出足快調だったのに交流戦で完全失速、そのとき思った「もうドラゴンズの優勝は見られない」と。 
 急遽、中継を入れ、しかも最後まで放映してくれたNHKに感謝。

十七夜の月
【No.519】 2006年10月09日

10月7日
13時30分から、『秦野歴史おこしの会』に招かれて本町公民館で「寺山ものがたり 大山道・寺山の里」の話をした。今回はパワーポイントを使ったが、これは市まちづくり推進課の草山さんが助けてくれたお陰。
 今朝この日記を読んだから、とYさんが駆けつけてくれた。嬉しかった。知り合いの顔も多く、ざっと数えたら10数人、寺山からも数名、その中のKさんとTさんは私の「寺山ものがたりを歩く」にも参加してくれている。
 持ち時間は2時間と思い準備していったら「1時間で」と言われあわてた。事前の打ち合わせを十分しなかったのが悔やまれた。1時間30分をもらったが、そのため質疑の時間がとれなくなってしまった。閉会が告げられようとしたら会場から質問したいとの声。「子どもの頃、道永塚に幽霊が出ると聞かされ、学校からの帰りが怖くて怖くて…。男の子に鉛筆をあげて、一緒に帰ってもらった。道永塚とはどんな塚なのか」。それで三つの言い伝えを紹介した。


10月8日
 秋の嵐の後片付け、庭のあちこちに桜の葉の吹き溜まりができている。それを集めて畑で燃やす。天気予報では、まだ「強風」のはずなのだが、寺山は穏やかな秋日和。昇る煙はそれほど乱れない。朝から午後3時ころまでかかった。小学校の校庭で少年野球が練習しているが、迷惑にはならなかったと思う。 
 畑のダイコン、キャベツ、白菜の苗、ネなどの被害はかなりなもの。手は入れないで成り行きにまかせることにした。庭木に蜘蛛の巣がたくさんかかっている。それが秋の陽に光る。秋の蝶の姿も目に付く。
 夕方、庭師のKさんが訪ねてきた。今年の暮れのわが家の庭の手入れはできそうもない、と断りにみえたのだ。「いい話じゃないので、話しに来辛くて今になっちゃったけど、20年もやらせてもらったきたけど、相棒のEさんも亡くなったし、私も歳だからこのへんでこちらの仕事は遠慮させてもらおうと思って…」。 
 Kさんはたぶん喜寿、玄関の姿は仕事帰りだった。まだ現役なのだが、わが家の仕事は一人では10日くらいかかるだろう。確かにEさんと二人だから出来た仕事だったのだろう。Kさんの心情がなんとなく分かるような気がする。
 二人は寺山生れ、幼馴染で同級生。脚立に登り、松の葉を摘みながら二人で交わしている秦野言葉とその仕事ぶり、1時と3時のお茶を一緒に飲み「寺山」の話を聞かせてもらう楽しみが消えた。

 飛行機雲の名残らしい二本の雲が東の空から天頂に伸ていて、その空に十七夜の月が澄んでいた。

 HP 今日から7年目に入る。

ご参加をお待ちいたしております
【No.518】 2006年10月03日

ご案内
 
文化講演会
           主催 秦野歴史おこしの会
  演題 「寺山ものがたり 大山道・寺山の里」
                  講師  武 勝美 
日時 10月7日(土)13時30分より
  会場 秦野市本町公民館

 ※最盛期には「一夏10万人」と言われた信仰と行楽の『大山詣で》。その西側からの登山道の《大山道》は寺山・蓑毛を通っている。
 今回は、今も寺山・蓑毛に息づいている大山信仰にまつわる話や東秦野尋常高等小学校、東秦野国民学校についてのエピソードを紹介します。
初めてパワーポイントを使って話します。ご参加をお待ちいたしております。
  

もはや秋の風物詩
【No.517】 2006年09月30日

 未明(と言っても1時ごろだが)、小学校の校庭から話し声が聞こえてきた。今日は運動会。場所取りに徹夜で並ぶ男親たちの姿は、いろいろな意見もあるが、もはや東地区の「秋の風物詩」と言えよう。その様子を眺めに6時過ぎ、正門の前を歩いた私、毎年この朝、同じような行動をとる私も又風物詩の中に組み込まれている。
 今年もおよそ50名くらいの列が出来ていた。父親が中心だが、母親や祖父母の姿もちらほら。隣りのYさんも孫のために立っていた。「ご苦労さん」などと言葉を交わしている私に視線が来ていた。階段の天辺、そこは行列の先頭、そこに立つ若い父親が手を上げる。そこには教え子が数名、かつては簡易テーブルを持ち込み、缶ビールなど林立していたが、今年は少し様変わりしていた。「これから並ぶ」と言う知り合いのOさんに途中で出会った。起きぬけの顔に見えた。
 

「大山道を歩く」講座を持ちます
【No.516】 2006年09月29日

 東公民館の講座の打ち合わせ。以前から打診されていた『大山道を歩く講座』を受け持つことにした。館長、担当者、そして市のまちづくり推進課の職員と私の4名で2時間ほど話し合う。
 秦野市内の大山道を歩くと言っても、大山道の面影が残っているのは東地区内の《蓑毛通り》と《坂本通り》しかない。その条件の中で『ふるさと秦野再発見・大山道を歩く』を講座名にして、3回シリーズで歩くことにした。
 来年2月が第1回で「坂本通りの石仏めぐり」―これは決定。私の構想では、2回目は「大山道春の里歩き」、最終回は「紅葉の大山道」としたい。


北海道新聞が秦野の新聞教育を
【No.515】 2006年09月27日

 27日発行予定の市P連の『情報委員会だより』が昨夜届いた。A3判2ページ、パソコンで作られたもの。
 8月に全国新聞教育研究大会が秦野で開かれ、大会速報の発行を秦野市P連が担当した。その速報に関わった4人の情報委員が『情報委員会だより』の今号の担当になったことで、「大会速報並みのものつくろう」と他の5人を巻き込んで企画を立てた。この企画が実現できたのは「新聞づくりの楽しさをもう一度」と願う4人と、「楽しそうだから初体験してみたい」という5人の思惑が見事に一致したからだった。
 紙面には、秦野大会を市P連が応援したこと、講師や提案を受け持った秦野の先生やP会員の活躍ぶりの紹介、そして秦野がこの大会で学んだこと・得たものなどが載せられている。
 おおよそ3週間で作り上げた『だより』。編集者9人のがんばり・努力は言うまでもないが、パソコンで紙面を作ってくれたKさんの献身的な協力に羽心から敬意を表し、感謝したい。これもまた「新聞のまち・秦野」という証しだと思う。

 今日、9月25日付けの北海道新聞が送られてきた。この日の「教育のページ」はNIEの特集。そのページに「学校新聞づくり半世紀/神奈川県秦野市の中学/全9校が毎月発行」という見出しで、秦野の新聞教育が紹介されている。夏の大会の来秦された記者が書いてくれた記事。秦野人として光栄。

秋の花火
【No.514】 2006年09月25日

 昨日は「だより」の原稿の整理で追いかけられた一日。
 原稿整理のメールのやりとり4回、ファックスの原稿も1本来た。それらの原稿のことを電話調整が8回。それでどうやら今日の午前中に初校が上がってきた。あとは委員に任せる。印刷のゴウサインは委員長さん次第。
 秦野は昨日は『たばこ祭り』なのに、パソコン入力に協力してくれたKさんは、お祭り楽しむことができなかっただろう。
 今年の花火は、空が澄んでいたし、風もおだやかだったので、きれいに見られた。妻の言葉「今年も花火が見られた」。秋の花火は、こんな言葉を口にさせる。

9月21日
【No.513】 2006年09月22日

5時半起床 朝刊2紙に目を通す
6時50分 朝飯  
9時〜10時 母の入浴
10時 旅行社に電話
    『情報委員会だより』の原稿をKさんにメールで送稿
10時30分 Nさん 美術展の招待状を持って来訪
11時 母、早めの昼食
11時半から 母、歯科医師の往診
12時 昼食
1時半 JA職員来訪
2時から 栗畑の整理
4時過ぎ 10月の講演会の会場の確認の電話
     小包の発送 ついでにクリーニング店へ
6時 厚木市P連から明日の講演会の確認の電話 
8時 明日の資料の最終確認

秋彼岸ひとは地上に香をたき天はひかりの花びら散らす  道浦母都子

日記が更新されないけど
【No.512】 2006年09月20日

 「日記が更新されないけど」と気を使ってくれるメールをもらった。
 “お人よし”とは違うんだな。自尊心をくすぐられるから? それとも違う。自己顕示欲の塊、いや、私は《天狗》なのだ。
 『エコー』の発行は続くし、ここでまた講演を二つ受けてしまった。新聞づくりの手伝いもしている。だから、せっかく耕した畑はまだそのまま。
 「今さら何をそんなに」と思うのだが、やっぱりできることはやってみたい。それほど《時間》があるわけではないのだから。

 きょうは彼岸の入り。昼食はボタモチ。午後掃除を兼ねて墓参りに行く。彼岸花が1、2本咲いていた。

まだまだ続きます
【No.511】 2006年09月14日

12日、夜6〜9時まで『情報委員会だより』の編集会議。この夜が原稿締め切り。「6日は宴会ムードだったのに」とOさんが言うが、その反応はあまりない。遅れてきたTさん、部屋に入るなり「部屋を間違えたのかと思った」という。だが、この言葉にも反応はわずか。この緊張感、真剣さはたぶん9人のお母さんたちにとっては久しぶりのことではないだろうか。いいものが出来ると確信している。
13日、中井町でのP広報クリニック。予想外の多くの参加者。後半は各校の企画・編集会議に参加した。時間がきたので退出した私を、元気よく送ってくれ、彼女たちの会議は続けられたようだ。


 速報『湧水』を読んでの感想が届いている。

◇全新研の秦野大会のご成功おめでとうございました。それにしても母親中心の編集委員で、4紙を2日で出したことに驚きました。30数年間、学校新聞での実力を育ててきた秦野だからこそ出来たものと思います。
浦田さんの「四季つれづれ」も、短い中に適切に秦野を紹介していてよかったです。さすが浦田さん、という感じがしました。 正博


相変わらず「広報」です
【No.510】 2006年09月09日

9月6日 市P連の「情報委員会だより」の企画会議を相談室で。
  7日 午後1時半から湯河原町教委とP連主催の「PTA広報講座」。町内4校の広報委員会が広報作りにしのぎをけづっている。そんな、力の入った広報を見せてもらった。
  8日 大井町教委主催の「広報作り講座」は午前9時25分から。この講座は幼・小・中の広報委員だけでなく、町の各種団体の広報担当も出席する。この日は11紙が参加。午後はA小のP広報委員会の相談に乗る。その後、東公民館で開かれている「情報委員会だより」の企画会議に出席。A3判2ページを20日までに発行するという、けっこうハードなスケジュール。だがにぎやかな、明るいオシャベリのうちに記事の担当が決まる。それもかなり積極的な姿勢だった。やっぱり秦野のお母さんたちだ。

初秋
【No.509】 2006年09月04日

9月2・3日
 去年は9月4日 今年は2日、会場は湯河原温泉の同じ宿。地元東地区に根を下ろして、しっかり生きている同級生が集る会。その会に去年から私も特別会員として加えてもらっている。今年は9名が集った。
 6時から懇親会、二次会の終りは11時、それからラーメンを食べるという《オジサンの宴会の定番メニュー》に、私も元気よく付き合う。
 彼らは51歳、カラオケが大好きな年代。クラブ内には私たちの他は2人しかいない。それで、2時間、歌に酔いしれた。私にもマイクが回ってきた。秦野から海際の道を走ってきたが、相模湾はいつもより波が高かった。その青い海の向こうに真鶴岬が見えた。それで選んだ曲は『岬めぐり』。
 その気になって歌いはじめたら、会の全員がステージに上がってきて、私を囲んで一緒に歌ってくれた。「古希のお祝い」と彼らは笑った。
 翌朝、露天風呂で吹かれた風は既に秋の色だった。

9月4日 
 栗畑に行く。例年なら栗拾いなのだが、きょうは草刈り。猪が出るような荒れ具合。収穫までに最低3度は下草刈をしなければいけないのに、今夏はゼロ回。「忙しかった」を言い訳にしたくないのだが、気持ちはあっても取れなかった。それに天候もやや不順で。
 そんな条件でも栗は実を落としていた。だが、草むらの中に落ちているので拾うこのは大変。草刈り機で刈り払うと栗の実も切ってしまう。
 半日で十分《疲れた》。野菜にも栗もに、今年は許してもらおう。
 来年は農業をしかりやります。

新聞のまち秦野
【No.508】 2006年09月01日

 今朝発行の『広報はだの』9月1日号は4・5ページの見開きで「新聞のまち秦野」の特集が組まれていた。その中で「先月秦野で開かれた全国新聞教育研究大会は秦野市民の新聞への熱意を示した」ものと書いている。
 その実例として、家族9名のS家で発行されている家族新聞、学級新聞が基盤となっているK小6年5組の学級のようす、そして学校と地域をつなぐ大切な役割を担っているN中学校のPTA広報の活動などが紹介されている。
 朝、大会の速報部員だったGさんからメールが入った。「『広報はだの』素晴らしい紙面ですね。新聞大会に関わった者の一人としてとても嬉しくなりました。この紙面も『湧水』とともに大切に保存します」とあった。

 秦野の学校はきょうから2学期、元気な声が隣りの校庭から聞こえてくる。 

8月30日 打ち上げの夜
【No.507】 2006年08月31日

 新聞大会速報部の「打ち上げ」が16名の参加で昨夜開かれた。
 会場は小さな居酒屋だったので、座敷は私たちでいっぱい。まだ一カ月も経っていないのに、「お久しぶりー」という言葉が飛び交う。それほど、懐かしい仲間になっていたのだ。
 誰もが、「このメンバーだから出来た」と言う。全員が立候補という部員の積極性、それが取材にも表れ、そこから生まれた信頼感、加えて班のリーダーの二人がパソコンで新聞を作る技術に長けていたこと、さらには石田さんや瀬戸さんの適切なアドバイスもあって、あの速報は出来たのだ。渋中の小野君のパソコン入力の実力も忘れてはいけない。
 「大会が終わって、ようやく夏休みという気分になれた」Sさん。事実、大会後、実家に帰った人も数多くいた。21日まで帰省していたという話も出た。
 「もう一度やりませんか」と問いかけると「このメンバーなら…。でも思い出だから1回でいいかも」との答え。来年の東京・葛飾大会にツアー組んで参加しよう、という話はかなり現実味を帯びていた。
 大会が終わって、私はお母さん部員に手紙を書いた。それは間違いなくお礼の手紙だったが、速報づくりの感想文をお願いもしていた。記念の文集を作りたいと思ったからだ。
 締め切りの25日までに、18名のお母さん全員から原稿が届いた。彼女たちの心と力を改めて知った。(感想文は「秦野の新聞教育」のページにアップしてある)感想文集、ファイルした速報全号、大会紀要などを記念品として贈った。
 「一期一会の新聞づくり」。延々4時間の宴は最後まで明るく、まさに、「打ち上げ」という言葉にふさわしかった。

明日発行される『広報はだの』9月1日号で「新聞のまち秦野」という特集が組まれている。全国大会の開催が、この特集のベースになった。大会の評価ともいえる特集。嬉しいことだ。

防災訓練
【No.506】 2006年08月28日

 昨日は市内一斉の「防災訓練の日」。昨年までと違い、自治会単位での訓練になった。参加者は40数名、7割弱の家庭の参加。
 自治会長さんの命令・指示で、先ず簡易テントと仮設トイレを設置した。次に担架とリヤカーを使ってけが人の救出搬送。だが笑い声が絶えない。三角巾の使い方も。はしごの代わりをするロープの結び方も学んだ。
 かまどを二基作り、湯を沸かす。アルファ米という緊急食料の炊き出しが女性の参加者を中心に行なわれた。
 11時半ごろご飯が炊き上がる。私がもらったのは山菜おこわ風、けっこう美味しかった。初めてのことなので、申し訳ないが、すべての訓練が、私にはお祭りかお花見のように楽しかった。 
 誰かが言った「この訓練の続きで自治会の懇親会をやればいいのだ」と。八月の初めに自治会の懇親会が開かれるが、参加者は毎年同じ顔ぶれ。「不謹慎、趣旨が違う」と関係者は怒るだろうが、確かにこれは懇親・親睦になる。
 会場になった防災備蓄倉庫の前の広場の上を電線が走っている。そのあたりにツバメが200羽ほど集っていた。

学区内を見て歩く
【No.505】 2006年08月23日

 昨日、東中学校の先生方の「学区内を見て歩く」研修が行なわれ、そのガイドを務めさせてもらった。
 東公民館を8時半に出発し、11時15分に戻ってくるコース。このコースは昨年行なわれた「ふるさと秦野景観見て歩き・東地区コース」とほぼ同じ。『お清めの酒』を右手に、左手は資料のフアィル。チェーン付きのめがね、首にタオル、背中にはバッグ。そして全然似合わない山高帽。
 夏の日差しを覚悟していたが、途中にわか雨に遭った。それでも、先生方は、けっこう興味深く、楽しそうに歩いてくれ、ホッとした。解散の後、二人から質問があったのがその証拠。
 この日目にした碑・石仏や湧水、そして風景を教室で子どもたちに話してくれたら嬉しい。自分の住んでいるところを知ること。そこからまちづくりが始まる。『愛国心』はここから育つ。
 このコースを歩くたびに感じる、思う、「寺山っていいところだ」と。

8月19日 草野心平記念文学館
【No.504】 2006年08月20日

 宿は決まっているが、途中どこを訪ねるのか全く知らされていない今年の『ミステリツアー』の最終訪問地は、いわき市にある草野心平記念文学館だった。
 いわき中央インターを下りたとき、妻が「あれこんなところに草野心平記念館があるんだ」と小さな看板を見つけた。
「あっ、見つかってしまったか。残念。草野心平ファンだろう、わが家は」とドライバーの長男。
 
 カーナビが見つけた記念館への道取りは、そろそろ穂の出始めた田んぼの真ん中のあぜ道を選んでくれた。旅先で文学館を訪ねたのは8年前尾花沢にSさんを訪ねた折の斉藤茂吉記念館以来である。

 草野ファンと言われても、私は蛙の鳴き声のオノマトペだけが印象にある「誕生祭」の存在しか知らない。妻と長男は「冬眠」にまつわる思い出を話していた。
 15分ほど走り、山腹にある小さな、しかし落ち着いた雰囲気の記念館に着いた。駐車場からは見下ろす風景は、広がる稲田を囲むいくつかの集落。その集落のどこかで草野は生まれたのだ。
 常設展示室には私たちを含め6人の見学者。絶筆らしい文字も目にした。室の隅に円形のブースがあり、そこでは草野自身の声で自作の詩を聴くことができた。自作を朗読する草野の声に、文字からとは違う世界が生まれることを知った。なぜか「秋の夜の会話」を2度聴いた。

秋の夜の会話
        草野 心平

さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

 館内の小さなレストランで昼食をとることにした。背後の席から男性の話が聞こえてきた。「きょうダイコンを蒔いた。草野心平は人をもてなすのが好きで、野菜を作りみんなに食べさせたそうだ」。振り返ってみたらどうやらこの館の職員らしき服装の男女3人の姿。そういえば草野が開いたという飲み屋を復元した建物が館内にあった。 
 館に入る前、入口脇の10坪ほどの畑がきれいに耕され、何かが蒔かれていることに気づいていた。
 草野心平記念文学館の所在地は小川町高萩字下夕道とあった。『高萩』、『下夕道』(草野の詩にはあまりなじまないが)は、詩をイメージさせる印象深い地名だと思った。 

この夏は完全に草に負けた
【No.503】 2006年08月16日

 昨日今日と二日間、庭続きの野菜畑の整理。広さはおおよそ80u。
 7月の初めから新聞大会の準備に追われ、畑に出ることがままならなかった。加えて長い梅雨。この夏は完全に草に負けた。ネギ、ナスは草に飲まれた。キュウリはインゲンも生育不良。
 二日間、這いつくばって草むしり。癪だから、生い茂っている草の名前を図鑑で調べながら、引き抜いた。
 メヒシバ(盛りを過ぎてもう枯れかっている)、ハキダメギク(この繁殖力はスゴイ。白い粉のような種を一面にこぼして繁殖する)、ヤブカラシ(地下茎の伸びる勢いは恐ろしいほど。名前の通り竹薮を枯らす勢い)。イノコズチ、これは根の張り方が強い。引き抜こうとすると途中で切れてしまう。今年は、畑を西のほうから侵食し始めている。厄介な奴。カヤツリグサ、これも大きな株に育っている。アレチノギク、カゼクサ、ベニバラボロギク。アレチウリまでお目見え。たぶん栗畑から運ばれてきたのだろう。そう、栗畑の下草も伸び放題だろう。
 この天候では、2日乾かせば燃える。風があるが燃やした。妻が見に来て「畑らしくなったね」と言う。炎天下だが風があるので思ったより楽な作業。けっこう働いた気分。
 「農作物にとって最高の肥料は足音を聞かせること」だそうな。その通りだと思う。今夜のビールは甘いだろう。



しっかり遊んで ゆっくり休む
【No.502】 2006年08月11日

高校の同窓会誌の配布、退職教職員の会の会報の配布、生産組合の会計事務、陸稲・水稲の被害届け申請用紙の配布、以上が午前中の仕事。地域に密着した生活!
 午後、趣味の会の研修旅行の内容を旅行社と詰める。3時過ぎにバアちゃんと自分の薬を取りに行く。二人分だとすごい量。 
 薬局のロビーにかかっているカレンダーに『しっかり遊んで ゆっくり休む』というキャッチコピーが付いていた。なぜか気になる…。全月、そう書いてあるのかと、一枚めくってみた。9、10月は別の言葉だった。ホッとした。7、8月だから『しっかり遊んで ゆっくり休む』なのだ。
 きょうあたりからお盆の帰省ラッシュが始まるらしい。どうぞ、ふるさとで、しっかり遊んで ゆっくり休んできてください。それにしても途中が大変だろうなあ。
 朝刊に茨城でのNIE大会の様子が報じられていた。授業風景の写真にO先生が写っていた。秦野大会でも講座をもってもらった。「しっかり遊んで ゆっくり休む」なんて、O先生にはムリなことなのだろうな。

昨日10日、アクセス80,000。

新聞作りの後期始まる
【No.501】 2006年08月09日

8月8日 台風の影響で降ったり止んだりの天気。

私の《後期》が始まった。
 伊勢原市P連の「広報クリニック」。
 この「クリニック」は、小・中14校が4グルーブに分かれ、1グループずつ私と対面する形で、今年度発行した号の診断を受けるという方法。同グループの4校は事前に診断を受ける広報を交換しているので、自校分を含め4紙の診断を聞くことができる。1グループの持ち時間場1時間。クリニックが終わると、別室に移り、そこで情報交換を1時間行なう。
 正味2時間のこの広報づくり講座は、私の売り物のの講座。紙面の講評は《元気付け》を原則にしいるつもりだが、「厳しい!」と泣かれてしまうときもある。昼休み、午前に終わったグループの感想を読ませてもらったが「少人数で、広報を手にしながら具体的に指導を受けられる」とおおむね好評。「それでは」と、午後のグループでは、他紙の見出し作りに挑戦してもらった。 
 このごろ思うのだが、ほんのわずかのヒント、助言で広報作りがそれほど苦しくないものになるということ。今のお母さんたちは、そういう力、対応能力を持っている。
 5月の広報作り講座、そして今回のクリニックを受け、次号のレベルアップは間違いない。

8月7日
【No.500】 2006年08月08日

8月7日
 私なりに大会の整理を、と言うことでI先生に速報を200部ずつ印刷をお願いした。Y先生に速報部の領収書を渡す。事務局の谷津先生と反省会の日程について話す。大会の整理でまだまだ忙しそうだ。ほんとうに良くがんばってくれている。速報部18人に礼状を投函。
 Nさんから大会開催のお礼状。Sさんから「温かい大会でした」とおほめのメール。
 22日に行なう「地域めぐり」の資料ができたと、まちづくり課のKさんから連絡をもらった。
 明日伊勢原で行なう広報クリニックの最終チェックをする。溜まっていたP広報6紙の講評を書いた。
 夕方、速報の増し刷り分が届く。速報で写真を担当したTさんが写真を持ってきてくれた。 
5日から「尋ね人」をしているが、きょうも手がかりなし。暑い一日だった。

メール そして絵手紙
【No.499】 2006年08月07日

大会が終った日に次のようなメールをいただいた。

武 勝美 様
 つい先程、帰宅しました。二日間、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。
 大変、充実した大会だったと思います。特に、PTA広報の分科会。
 私は、今まで「運営」の側で参加したり、見守ったりすることが多く、どうしても、いろいろな分科会を見て回ることが多かったのですが、今回は、心おきなく、(秦野に行くなら、これ、と決めて)2日間、PTA広報の部だけをじっくり参観させていただきました。
 1日目の武さんの講座はもちろんですが、2日目の実践発表も、期待以上に素晴らしいものでした。他地区の実践も聞けて、秦野のお母さん方も参考になったのではないでしょうか。それにしても、徳島の杉本さんの体験談(エピソード)には、びっくり、大感動しました。
 今回の大会で、全国に秦野ファンが確実に増えましたし、秦野の人たちは、大きな自信と誇りを得られたことでしょう。ありがとうございました。また、お会いしましょう。  2006.8.4 吉成勝好

そしてきょう、参加された野手さんから絵手紙が届いた。(「秦野の新聞教育」のページで紹介)

大会報告第1弾は「秦野の新聞教育」のページに
【No.498】 2006年08月05日

第49回全国新聞教育研究大会は昨日無事に終わりました。とりあえず「秦野の新聞教育」のページに、大会の様子の第1弾を載せました。よろしかったら覗いてみてください。

曝書
【No.497】 2006年07月27日

 たぶん3年ぶりくらいだろう。必要があって、応接室の戸付きの本棚を開けた。そこには新聞のファイルを収めておいた。子どもたちと一緒に作った学級新聞や学校新聞・PTA広報を整理して保存しておいたのだ。引き戸を開けた瞬間、息を呑んだ。台紙に貼り付けたものはほとんど紙の形が残っていないのだ。『エコー』『3Cタイムス』など、私の新聞作りの原点ともいえるものがぼろぼろ。乾いた土塊みたいに変わっている。全部引っ張り出した。20数冊のうち手に取ることに耐えられるのは10冊に満たない。それらを曝書しながら、意外に平静な自分であることに気づいた。
 「ウン、こうして過去は消えていくのだ」。「今しかない」。そう思ったのだ。
 
 昨日の日記に反応してくれたKさんからこんなメールが届いた。

 「パチパチパチ、ザクザクザク、隣の草刈の鋏の音や鳥の囀りで爽やかに朝を迎えました。11日ぶりの晴れやかな輝く日差しで青空、日中は30℃越したけどほっとしております。確かに夏がやって来た。梅雨明けなんでしょう。
 そういえば、昨夜浅草からの京成電車の中でゆかた姿の女性が多く、色合いも涼しげで着付けも麗しく、やはり夏なんだと涼感が伝わってきました。裸同然の洋服を纏ってるよりは、この方が回りに涼しさをもたらしてくれます。こんなところにも日本文化のよさがあるのでしょうか。 昨日は会議乃あと、浅草の「八つ目うなぎ」の前にある「日本海庄や」で暑気払い。 
 帰りに雷門の大提灯の前に留まると、ゆかた姿の男女が行き交い夏祭りの雰囲気です。花火大会は29日だからまだですが…。昔のままの狭い路地に入ると、風鈴の音色が静かに流れてきます。家々のすだれ、緑のホウズキ、朱色の夏水仙が灯りに照らされて、ほっとさせられます。日本のふるさとが残っています。」

そろそろ梅雨明けか
【No.496】 2006年07月26日

 4、5日前の夕方、「カナカナカナカナ」というセミの声が向山あたりから聞こえてきた。そして昨日、庭の桜の茂みからニイニイセミの鳴き声が小さく聞こえ始めた。だがアブラゼミの「ジージー」はまだ聞かれない。
 いつもなら、「ニイニイ」から始まり「ジージー」、「ミーンミンミンミーン」、「ツクツクホーシ ツクツクホーシ」。そして、時に「シュッシュッシュッシュッ」と元気な声に出会い、「もう秋か」と思わせる「カナカナカナカナ」を聞くのだ順番なのだが。
 「カナカナ」の思い出。
 数年前、盛岡の『高村山荘』を訪れた。山荘に着いたのは4時少し前だった。山荘に続く道の左に田んぼが広がり、もう稲の穂が豊かにゆれていた。その向こうには原野が広がっていた。山荘の見学者は私だけだった。
 「山荘」と呼ぶのにはほど遠い、たった3畳半の荒壁、戸障子一枚の小屋。小屋の前には、彼の自給自足用の野菜畑跡があり、サルビアが真っ赤に咲き乱れていた。
 記念館に向かう道は、カナカナが案内してくれているようだった。歩を進める先で順に一匹ずつ「カナカナカナカナ」…。しかも1メートルほどの低いところで。
 そのときの一句 「蜩や幹赤々と暮れてゆく」
 
 今こうして日記を書いていたらアブラゼミの鳴き声が庭から聞こえてきた。どうやら梅雨明けか。
 
 まもなく8月3日、全国からのお客様を迎える。その日はやはり『夏』であって欲しい。「この夏 秦野は新聞で熱くなる」のだから。
 昨日、遅れていた『研究紀要』の校了。そろそろ自分の講座のレジュメを完成させなければいけない。

 
 

16日 送り火
【No.495】 2006年07月18日

16日 
8時前から畑に出る。ほったらかしておいたキヌサヤ畑を2時間ほどかけてきれいにし、里芋の土寄せまでがんばった。途中から雨で、泥まみれ。それで「きょうはここまで」と切りあけた。
 着替えを済ませたところに、庭に車が入ってきた。きょうはお盆、妹夫婦が墓参りに来るはずだった。「今年は早く来たな」と見たら、全然違う顔が降りて来る。忘れていた。そう10時からN中のPTA・OBと秦野大会に提案する内容を一緒に検討することになっていたのだ。パワーポイントで提案するのだが、十分な内容と構成。広報委員会の活動よりもPTA活動そのもの提案内容。
 午後、大会速報の記者Nさんが原稿を持ってくる。「新聞に込める想い」「あなたの心を釘付けにする講師陣」などという見出しが躍っている。年齢の差、それよりは時代を読み取る力の差を知った。
 同じく速報記者のGさん来訪。『ひと』欄の原稿を読ませてもらう。彼女の観察力、筆力、与えられた文字数こ収める力はたいしたもの。
 さらにもう一人『ひと』欄担当のSさんも原稿を持参。数回の電話取材で、すっかり『ひと』のDさんの人柄にほれたSさん。秦野での出会いを今から楽しみにしている。だからいい筆致。
 こうした作業をするときいつも感じることは、人には思いがけない特性や力があるということ。
 夕方、送り火を焚き『お精霊さん』をお送りした。たぶんナスの牛に乗って、振り返り振り返りゆっくり帰られるのだろう。来年のお盆までしばらくはお別れ。

高齢者講習会
【No.494】 2006年07月14日

 午前中3時間、免許書き換えのための高齢者講習会に出席。きょうの参加者は7名。そのうちなんと3名が知り合いだった。一人は中学時代の恩師のA先生。もう一人は数軒先のご主人Iさんで「先生、きょうはなによ」。それで、皆さんのお仲間入りと応えた。
 係りが見えて出席のチェック。すると向かい側に座っていた人が、「武さんて、寺山」と聞く。「そう寺山・清水」そう応えながら、「ウン、この人見たことがある、そう、Tさんだ」と直感。それで、思わず「私、あなた知ってる、Tさんですよね」と指さしてしまった。わが家の裏に住んでいたTさん。小学校5、6年頃まで、一緒に遊んだ5歳年上の大先輩。Tさんは『寺山ものがたり』に書いた、私の子どものころの遊びのリーダーだった。 事情があって寺山から離れたT家。そのTさんに、なんと50数年ぶりに再会できた。同じ市内に住みながら、今まで全く会うことがなかったのも不思議だが、きょう、こんなところで会えたということもまた不思議なこと。「洋ちゃんは元気け?」などと、当時の仲間を思いだしながら、イタズラ話花を咲かせた。
 講習は、からだの反応や視力の検査、遊戯場にあるドライブゲームみたいなものもやらされた。私の総合判定は「4」、上上のできはないか! 教習場のコースでの実車は、クランクで落輪。これは《実力どおり》。次はあと5年後だそうな。
 教官が「安全運転をして次回も来てください」と終りのあいさつ。誰かが「次はあるかな」と笑った。

皆さんに支えられて 
【No.493】 2006年07月12日

7月10日
 秦野大会のあいさつまわり4カ所。午後PTA広報ができたとI高校の広報委員2人が来る。A4判8ページでオールカラー。表紙の写真と特集が出色。4時からの大会紀要の出稿に立ち会う。これで一山越えた。
 東公民館での講座に参加されたSさんが、家族新聞『ほほえみ』をもってきてくれた。若いお母さんの感覚が生かされた見事な出来映え。我がことのように嬉しかった。

7月11日 
 9時、秦野大会に提案するN小PのAさんSさんガ当日配布する資料集の見本を作ってきた。パソコンを駆使した見事な冊子。
 2時半、速報担当のNさんGさんの取材『秦野の新聞教育60年』を受ける。昭和27年に『東中新聞』を図書委員として発行した私。そのことが、8月の秦野大会につながっている。インタビューに答えながら「けっこう歩いてきたな」と思った。そして「これからは」とも考えた。
 夕方、Y先生と基調提案の内容の検討。
 
 朝、講座を担当するO先生から講座に使う資料の著作権について問い合わせのフアックス。
 指導主事のNさんからハガキ「先日、群馬県の先生方の集りに参加させていただいた折、秦野大会に参加される予定の方にお会いしました。大会まであとひと月、どうぞ健康にご留意下さい」
 Sさんからメール「ECHO241号の中に秦野大会の案内状を入れて下さったのは効果的です。そして日程の面の真ん中に「丹沢と名水と新聞づくりの秦野へお越し下さい」と書いてあり、その部分にグリーンの蛍光ペンで色を添えてくださったお心遣いが和めます。秦野大会・速報はA3判2ページで4号まで発行される、その活力ぶりに驚いて、参加数にかかわらずこれは素晴らしい記念になる大会だと喜んでいます。『生涯一度のこと。千載一遇の好機』と受け止めて下さる前向きな保護者の方々のお心嬉しいですね。私も何人かに案内状や申込書と参加者を増やすお願い状を入れて送ってはいます。1日の朝日新聞社でのNIEの会場や8日の毎日新聞社での『新聞活用実践教室』にも秦野大会の案内状が配られたので、ほっとしています」

前期最後の広報講座
【No.492】 2006年07月08日

 昨日7日、相模原でのPTA広報講座。年度第1号が発行された後という時期、それに持ち時間が1時間45で分ということで、ノウハウについてはほとんど触れなかった。8校から60名ほどの参加があった。参加者には“消化不良”の中身だったと思う。
 「一緒に食事を」と誘われ、その日の講座を動かした8人のお母さんたちから昼ごはんをご馳走になった。その中の一人が「ウチの委員長、講座が終わったら飛んで帰って行った。先生の話を聞いて『今出ている原稿、まだ間に合うかも知れない」と言っていた。印刷所に駆けつけるらしかった」と話してくれた。昼食会は結局1時半までの「広報クリニック」の会になった。彼女たちにとって、広報作りは、今とても新鮮なもののようだった。
 帰り際、うっかり「相模原のお菓子をお土産に買ってかえるつもり」と口にしたら、4人のお母さんたちが大型店のお菓子売り場まで案内してくれた。そして品定めにも加わってくれた。とても嬉しかったが、顔がほてっているのが分かった。 帰ったら、講座の感想とこれからの意気込みを伝えるメールが2通届いていた。
 この日野講座が、今年の前期の私の「新聞作り講座」。印象的な締めくくりができた。前期の講座の数は19回。後期は8月3日の全国大会の「PTA広報講座」でスタートする。

大会速報部 始動
【No.491】 2006年07月03日

7月1日(土)  
 6月26日に開かれた『秦野大会・大会速報部》の第1回企画会できまったこと。
 ・速報はA3判2ページで4号まで発行(私の記憶では、過去にはなかった発行回数と記事量)
 ・編集委員は2つの班に分かれ、それぞれが2回発行
 ・パソコン入力は渋沢中広報委員会 
 これを受けて、午後3時から2つの班のキャップMさん、Kさんと私で、企画をより細かく検討した。事前に取材することができる企画は25日までに記事として完成させることになった。

7月2日(日)
 日曜日にもかかわらず(だから?)…、1、3号を担当するMグループが企画会議を開いた。9名全員が出席。ラフ・レイアウトをし、おおまかに記事の量を定め、分担も決まった。彼女たちは情熱的な話し合いをした。私からは、取材先や取材の手順などについてお願いをした。
 この大会は、名称から分かるように教員を中心とした研究会である。その内容を、保護者という立場を超えて、取材し、速報することはかなりキツイと思う。PTA広報作りの経験が少しでも活きればいいのだが…。
 この委員たちの唯一の武器は、「速報づくりなんておもしろそう」という好奇心。そして、「生涯一度のこと。千載一遇の好機」と受け止めてくれる前向きな心である。

7月3日(月)
 朝10時ごろ電話が鳴る。「大会速報部のIです」。昨日の勢いのまま、取材を開始したIさん。いくつかの学校に電話取材をお願いした結果の報告である。「すごいですね」という私の言葉に、「やらなければいけないことはすぐやる主義ですから」。けっこう難航しいるようだが「メゲてはいない」と明るい声。「これが彼女たちなのだ」と思った。

 

インターネット出来ず
【No.490】 2006年06月30日

 大会紀要の原稿締め切りが30日なのに、こんなときにインターネットが壊れた。壊れたのは28日の夜。そしてようやく今日2時40分の復旧。Pの分科会の提案者Iさんから、紀要の原稿について問い合わせのメールが入っていたのに、それに対応することができなかった。申し訳なかった。私の原稿2本はなんとか締め切りに間に合った。他にも4件の連絡事項が入っていたが、《時効》になってしまっていた。ほんとうに申し訳なかった。
 パソコンの前に座る必要がなかった午前中は、庭木の手入れに集中でき、気分良かった。

こんな機会に巡り合え 幸せです
【No.489】 2006年06月26日

22日 
 午前9時、A高校のP広報委員会の来訪。校正の手伝い。午後1時から「秦野市P連だより」の校正の手伝い。午後4時半に文化会館へ。全新研・鈴木会長、理想財団の二人の方と全国大会の会場の下見。

23日 
午後1時40分から北小の6−4で学級新聞作りの指導。小学校の教室は活気があっていい。

24日 
 午前9時スタートで「家族新聞づくり」講座を東公民館で。参加は15人。小学3年生の親子連れが嬉しかった。

25日
 東公民館で全新研・秦野大会の速報編集委員会の第1回の企画会議を開いた。日曜日の午後1時から4時という時間帯だったが、21名のうち18名が来てくれた。
 大会の第1日は午後から始まり、翌日の正午に閉会だから、正味24時間。その間に「A3判2ページを4号まで発行する予定」と編集長のI先生から聞かされ、驚きと恐怖感? だが、そこは若い母親たち、しかも全員立候補というだけあって、すぐに気を取り直してくれた。4時ぎりぎりまで、企画の内容を深め、取材の方法などを話し合った。
 「こんな機会に巡り合えたのは幸せ」という進取の心、加えるに旺盛な好奇心の持ち主の母親18名。広報作りの経験者は7名だが、ほとんど1年間だけの経験。こういうメンバー構成だと、思いがけないモノが出来上がるだろうと今から期待。

神がかり
【No.488】 2006年06月22日

 朝食を終えた母を7時20分ごろベッドに連れて行った。台所で朝刊にざっと目を通し「さて」と、いつもの通り別棟の仕事部屋に向かった。
 居間から庭に出て、母の部屋続きの廊下の外に来たとき、網戸が開いているのに気づいた。見れば、縁側に杖が転がっている。そして足元には外用のサンダルが散らばっている。「ばあちゃんが! まさか」と思った。奥の間のベッドに母の姿わ確認。胸をなでおろした。
 昨夜からやや“ハイ”だった母は、ベッドを降り、西側のガラス戸から外に出て、外壁を伝い、途中に立てかけてあった杖を引き、犬走りを10bほどを歩いて、縁側に廻ったのだ。 
 犬走りは蓋はしてあるが、側溝か走っていて段差もある。何かにつまずくこともなく歩くことができたのは“神がかり”とも思える。
 既に二回、大腿骨骨折をしているので、転倒への恐怖心はことのほカ強い。家での生活はすべて車椅子なのに、この行動は信じられないこと。
 「なぜこんなことをしたの」と問いただしたら、みんなに面倒を見てもらって申し訳ない。もうすぐ良くなるから、そうしたら庭の草むしりをしてそのお返しをする。その作業に使う《腕抜き》を作るために、物置にある着古しの浴衣を取りに行こうとしたらしい。
 「転んだらどうする」と言う私に、「もう、しないから」と号泣。

急ピッチ? 尻に火がついた?
【No.487】 2006年06月18日

 秦野での新聞大会の準備でかなり追い込まれた感じ。
 ここ数日の動きを追うと、
・14日の午前、大会1日目の「PTA広報づくり講座」について、一緒に動いてもらう市P連の情報委員会と打ち合わせ。午後は2カ所あいさつ回り。
・16日、午前9時半、11時半、2時と同じく大会開催の案内を届けに上がった。PTA分科会の提案者から、提案について相談のメールが入っていた。
・17日 前日のメールへの回答は、資料を送ることで許してもらうことにし、その資料の作成。大会研究部のT先生と電話で話す。私も紀要に書くらして。締め切りは月末とか。「たいへん!」と思ったが、同じように紀要に執筆される現場の先生方はもっと厳しい日程だろうなと、かなり同情する。 午前中は『朝顔のあんどん作り』講座に参加。私も一応講師側の一人。
小学生も10人ほど(過去最高だろう)来てくれた。よかった。その勢いで、午後、夕顔と朝顔の苗30本ほどを鉢に移植した。
・18日 23日にK小の6年生の授業をさせてもらう。それで9時からその打ち合わせをO先生と。授業に使う資料野原版を渡す。午後、24日の『家族新聞づくり』講座の資料を東公民館に届ける。『大会速報』の第1回編集委員会が来週開かれるので、その資料を作る。

M小学校PTAの「広報づくり講座」
【No.486】 2006年06月13日

 昨日、千葉県のM小学校PTAに招かれ「広報づくり講座」をおこなった。いずこも同じだが、M小でも広報委員の選出には毎年苦労してきた。それで、今年度から広報を作りたい人が集まってクラブ活動とかサークル活動のようなノリで広報を作り始めている。現在で活動している。
「子どもと共に育めるきっかけになればを念頭に結集した活字好きの有志です。新聞好き。活字が好き。パソコンが好き。」と第1号に書いてある。12名でスタートし、6月20日には第2号が発行されるとのこと。
 講座が始まる前、校長室でF校長先生から聴された話が印象に残っている。 
 「今年の広報しっかりとした文が書ける。発行前に目を通させてもらったが、手を入れる部分はほとんどなかった。私はお母さんたちの思いとか考えが分かる文なら、それはそのまま掲載してもらおうと思っている」。
 こういう“環境”だから、1校だけで私を招いて広報作りを勉強をするというようなことができるのだと思った。
 以前にも書いたが、このごろ学校側からP広報の企画や記事にかなり厳しい、というよりオカシナ指示が出されるようになった。例えば、PTA総会の出席者数を記事にすることが止められた。その理由を「この数値は学校の恥になるから」と、先生は語るのだ。

●ワールドカップ
 取ったとは意識できなかった1点。ホントに「取られた!」と思った3点。

秦野 相模原 伊勢原 湯河原
【No.485】 2006年06月10日

 昨夜、西小Pの相原さんからこんなメールが届いた。
 「表彰式に行ってきました。うちの盾だけデザインが違っていましたが、かっこいいです。やはり、堀川さんは凄いですね。高い評価が付けられていました。ちなみにうちは『楽しそうです』とのこと。『広報委員会は楽しい』とみんなに伝えられてよかったです。」
 表彰式とは『平成17年度 神奈川県PTA広報紙コンクール』のこと。秦野市関係の結果は次のとおり。

・県P連会長賞 秦野市立堀川小学校PTA   「ほりかわ」
・神奈川新聞社賞 秦野市立西小学校PTA 「西のいぶき」
・優 良 賞 秦野市立中学校PTA 「西中PTAだより」
 上位4紙のうち3紙が秦野市のPTAのもの。堀川小がどうやら1位のようだ。
 昨年から広報講座を持たせてもらった相模原市、伊勢原市、湯河原町からも入賞紙が出た。嬉しい、そしてホッとした。

回復
【No.484】 2006年06月09日

 エコーの読者のMさんから「このたび私たち夫婦で母の歌集をつくりました」と室田三枝歌集をいただいた。今年喜寿を迎えた室田さんのこの歌集『桑の実』は、毛筆の直筆で66首が記された和とじの手作り本である。
 歌集『桑の実』より
 下諏訪の「真澄」なる酒ふふむ刻我の心の夏は了りぬ
 不燃物出ししことのみに満ちたりて雪の一日をこたつに籠もる
 かの雲の果てに浄土のあるならむ寒夕焼の燃ゆるひととき

 しばらく日記の更新をしなかった。そのことを気にかけてくれたRさんの訪問を受けた。体調不良だったが元気になった。

麦の秋
【No.483】 2006年06月07日

 朝5時半から「NHK俳句」を観る。講師・稲畑汀子 ゲスト・小椋佳。 兼題は『麦の秋』。

 入選12句の中で私が惹かれた作品
 ・麦秋やどの道行くも日の匂ひ
 ・麦秋の泣きたいほどの故郷かな
 ・人暮れて尚残照の麦の秋

『麦秋』の思い出。
 20数年くらい前のこと。諏訪湖のほとりで育った女性が美術の教師として秦野に来た。彼女は秦野で初めて『麦の秋』に出会った。彼女にとって黄色は稲の実りの色だった。それなのに緑濃い入梅の頃、広がる畑は秋の色。その風景に彼女は強烈な印象を受けたと話してくれた。
 私の子どもの頃、農繁期で学校が数日休みがあったのが、この季節。どの道を行っても大麦、小麦、ビール麦の『麦の秋』だった。今『麦の秋』は、郷愁の季語でしかない。

夜 開かれる広報講座
【No.482】 2006年05月24日

 仕事を持っている委員を対象に夜7時からのPTA講座。22日の夜は70余名の参加があった。16日の午前の部と合わせ200名近くの参加者。2回とも出席してくれた人もいた。
 閉講後、いつものように質問を待った。
 A小学校の広報委員長さんから苦悩の吐露。5人の委員も付き添っていた。「PTA広報には児童の正面からの写真はすべて掲載禁止。先生方の写真も顔のぼやけたもの」との管理職からの《お達し》があったそうだ。他校の広報誌も例示して頼んだが「本校はダメ」。先生方からのバックアップもないようだ。再度話し合うと言っていたがかなり悲観的だった。
 企画がことごとく却下されてしまう、と訴えたのはB小学校の広報委員会。
 
 先週の新聞の川柳欄の一句
  物言わぬ教師物言わぬ民つくる    北坂 英一
 

真竹の竹の子はまだ
【No.481】 2006年05月21日

 まだ早いとは思ったが竹の子のようすを見に行った。予想通りまだ影も形も見えない。 昨年はこの時期、竹やぶにあまり足を踏み入れなかったので、かなり荒れている。それに、この場所は金目川沿いなので風の通り道になっている。昨年の台風の洗礼の傷跡として、無数の竹が南西に向かって倒れていた。それに、どうやら鹿もこの中を行き来するらしい。波多野城址のある台地に登る獣道らしきものもできていた。2時間ほど枯竹の整理。垣根を補修する竹を10本ほど軽トラに積んで帰ってきた。
 《軽トラ》といえば、6月から駐車違反の取締りが厳しくなるらしい。ウチの栗畑や竹やぶは県道脇だ。こんな地域でも、予告されているような厳しい取り締まりがおこなわれるのだろうか。農作業に使う軽トラも繁華街に見られる駐車違反も同じ扱いをされるのだろうか。
 帰って昨年の農事日記を調べた。6月26日に竹の子を採りに行き「遅かった。鹿のせいではない。ヤブが荒れているからだ」と書かれていた。
 午後、キヌサヤを摘んだ。キヌサヤ、キャベツ、それに桜えびを油でさっと炒めるとビールのつまみにイイ。

「PTA広報紙づくり講座」 参加者アンケート
【No.480】 2006年05月18日

PTA広報の講座を持たせてもらった主催者から、参加者の声が送られてきている。

 平成18年4月18日実施
 湯河原町教育委員会「PTA広報紙づくり講座」 参加者アンケート

★今日の研修について★
・昨年に引き続き、楽しい会をありがとうございました。昨年度の広報紙にかかわっている分、一層批評を重く受け止めたいと思います。
・思いもかけず、引き受けることになってしまった“広報”でしたが、同じ学校の広報の人たちと、これまでと違った広報紙づくりに意欲が湧いてまいりました。ありがとうございました。PTA会員同士をつなぐ広報紙づくりをしていきたいと思います。
・研修を終えて、これから一年間の広報の役割について知ることができた。
・見てもらえる、読んでもらえる、広報紙づくりへの具体的目標が見えたようです。皆で楽しく活動できそうです。
・メールを打つとき以外、文章を考えることもない生活をしていたので、今日は久しぶりに頭に刺激を受けました。せっかく広報委員になったので、皆で力を合わせて私たちの気持ち、意気込みを言葉にのせて伝えていけたらと思います。充実した研修でした。
・広報は学校便りとは違う・・・ほとんど違わない広報しか見たことがなく、がんばって作っていかなくてはと思いました。
・広報紙は毎年決まった形で出せばよいと思っていたので、少しとまどっていますが、一人でも多くの人に訴えていけるものが作れればよいと思いました。
・広報紙の勉強だけでなく、教育・学校のことについても、より一層深く考えるきっかけになりました。
・午後からの出席でしたが、記事を書く上での注意点がよくわかりました。ありがとうございました。
・わかりやすいお話し方で、実物の新聞を使って、よい例・悪い例等をお話いただき、とても勉強になりました。第1回目の編集もスムースに進んで、とても楽しかったです。次回の講習会も楽しみです。
・普段あまり気にせず広報を見ていましたが、作り方がよくわかる説明でこれから見方が変わりそうです。
・広報紙の研修会に初めて参加させていただきました。内容が濃くて今後の広報紙づくりについて、考えさせられました。わかりやすい説明で出席してよかったです。
・とても助かりました。全く何もわからない状態で手つかずでしたので、どのように組み立てて取り組んでいけばいいのか、具体的にわかり動いていけそうです。次回のクリニックで合格点をもらえるように皆で頑張ろうと思います。
★これからPTA広報紙を作成する上で知りたいこと、勉強したいこと、その他★
・昨年度は講習会を受ける前に年間の企画があがってしまっていたので、今年度どれだけ変わったか、成長を見せられればと思いました。また、9月にお会いするのを楽しみにしています。
・何もかもわからないことずくめでしたので、今日はいろいろと参考になりました。

エコー 発送
【No.479】 2006年05月15日

久しぶりに青空が広がった。気持ちのいい朝。遅れた『エコー』をきょう投函。
明日は荒川区のPTA広報講座。それで、届いた区内小・中学校の広報を再読。優れた広報として紹介できるものを数点選んだ。それらを含め、明日例示する広報などの資料を話の流れに従って並べてみる。「何を教えないか」は教室ではとても重要な選択。明日どの資料を使わないかを決めた。思い切って絞ったので明日のバッグは軽い。
 「もう少し時間か欲しい」と毎回感じるのだが、たぶん3時間もらっても、4時間いただいても、最終的には『納得』の講座にはならないだろう。それは、当然受講者には不満となるのだ。
 

新聞はみんなで作る
【No.478】 2006年05月13日


 昨日は本町中の新聞講習会。3時半からという時間帯だったが、予定より20名もオーバーの80名以上の参加とのこと。本格的な新聞作りの経験がほとんどない1年生を対象なので、勝手が違いかなり戸惑った私。 
 講習会が終わり、片付けをしていたら、一人の先生が私の前に立ったそして、少し緊張気味の笑顔で「鶴巻中で教えていただいたIです。今日はありがとうございました」とあいさつをしてくれた。驚き、そして嬉しくなった私。当時の担任がO先生であること、部活がバレーで顧問はY先生だったことなど話してくれた。「Y先生は今ここにいるよね」と私。「はい、いらっしゃいます」「それじゃあ同僚になったんだ」「とんでもありません。昔のように厳しく教えてもらっています」とI先生。 
 これから新聞を作って欲しいと頼んだら、「はい、何でもやってみたいのでがんばります」と応えてくれた。日焼けした顔にたくましさを感じた。
 I先生が私から離れると、女生徒が一人寄ってきた。そして「私のおじいちゃん、A新聞に勤めていたの。そのおじいちゃんがこんな本くれた」と2冊の本を差し出す。社員向けの新聞作成に必要な手引書だった。しばらく話しているうちに「クラスで学級新聞を作りたいのだが協力者がいない」と言う。そして「少し下書きはしたのだが」とB4・1枚の制作途中の新聞を取り出した。
 そこには『太陽』という題字が描かれ、大まかなレイアウトの紙面が作られていた。書くべき記事も決まっている。 
 「すごい、しっかり出来ている。ここまで進んでいるのなら、一人で作っちゃったら。それをクラスの人たちに読んでもらい、仲間を集めればいいんじゃないの」と私。
 彼女「新聞はみんなで作るんだ、とさっき先生は言ったでしょう。私はそれを実行したいんです」。
 私「それじゃあ、担任の先生に協力をお願いし、二人でこの新聞を作ったらいい。紙面に『新聞作りたい人、この指とーまれ!』と仲間を募集する記事を大きく書いてごらん。きっと集るから」。
 「やってみます。がんばります。ありがとうございます」という言葉を聞くことができ嬉しかった。
 

この4日間
【No.477】 2006年05月11日

5月8日
 6時半から新聞教育懇談会。8人が会場の居酒屋に集った。この時間帯、しかも会場まで1時間以上もかかるというのに、学校から駆けつけてくれた先生が4人。企業の重要なポストに着いているN氏も、こんな時間に来てくれた。明日があるので私は10時に退席。残った人たちの話は午前0時近くまで続いたとか。これが新聞教育に思いを馳せる人たちの姿なのだ。

5月9日
 柏市でPTA広報講座。300人ほどの参加。Sさん、Kさんに秘書兼助手の仕事をしてもらった。この二人のお陰で納得した講座ができた。講座の後、参加してくれた人たちと交流が持てた。帰ったら今日の受講者からメールが2通届いていた。

5月10日
 伊勢原市でPTA広報講座。市内小・中14校とI高校の広報委員も含め140名ほどの参加があった。今日もある程度《納得》の講座? 自己満足に過ぎないかもしれない。
 伊勢原から帰って『園芸愛好会』の歓迎会に遅れて参加。今夜は現役時代、私を支えてくれたKさんが会に加わってくれた、その歓迎会。22名の会員のうち21名の出席。全員が元気。年齢がかさむと共に、交流が減っていくのは自然なこと。それだけに、この会は22名にとって大切なものになっている。
 今年も12月の初めに私の企画で一泊のバス旅行を行う。その旅行に「今年も参加できることを目標にしている。旅行の最中、今年も来られたという喜びをしみじみ感じる」と話されたK先輩。あの松山恵子が亡くなったのは一昨日、69歳。「残り時間を自分らしく」としみじみ思う。

5月11日
 昨日の伊勢原の講座の様子を今朝の神奈川新聞が写真つきで紹介してくれた。
 午後1時30分から、北中学校の生徒会広報委員会の「新聞講習会」で話をした。全員が一生懸命話を聞いてくれた。さらに嬉しかったことは、校長先生と広報指導の先生4人も席に着いていて下さったこと。北中の子供たち先生方のお陰で、今日私は時間を大切に使うことができた。
 柏からメール2通。伊勢原からも2通。徳島から秦野大会で提案者になることの了解メールも。嬉しい一日。 

外がイイ
【No.476】 2006年05月05日

 今朝、ポストにメモが入っていた。
 「先日は大変お世話になりました。久しぶりに『ヨーゾーはん』や『便所めえり』などという言葉が聞かれ、楽しいひと時を過ごすことができました。JAの総会の関係書類をお届けしました。よろしくお願いします。 小泉」
 こういう一言を添えてくれる清水庭の仲間はイイ。
 午前中3時間、栗畑の草刈、しっかり働いた。きれいに刈れた(?)木の下での小休止はけっこう満ち足りた心になる。
 帰ってきたら裏の畑でトラクターが動いていた。その畑は中学校の学校農園。地主の義範さんがていねいに耕しているのだ。
 3日、中学の教頭先生が見えて「来週生徒が畑に入ります。少しにぎやかになるかもしれませんが、よろしくお願いします。時間があったら畑に来て、子供たちに話をしてやってください」とあいさつをされた。もしかして、私は農業従事者として認められているのだろうか。とにかく、この季節は屋外で動くことは最高の気分。

 

花見の会
【No.475】 2006年05月04日

「藤か咲き出したし、牡丹の花が見られる」ということで、清水自治会の『花見の会』をウチの庭で開いた。ホントはお祭りの神輿のお旅所に上げられた酒やビールが飲みきれなかったので、それを整理する会なのだ。
 大人15名と小学生の女の子2人で17名の宴会になった。桜の木陰と五月の日向に大きなシートを敷いた。材木屋から借りた板の上には、差し入された自家製の漬物、きゃらぶきも並んだ。アグラで冷酒の酒宴だった。 
 途中、バアちゃんが縁側まで出てきた。その姿を見て、鍛冶屋のヨウちゃん、辻のタモッちゃん、坂ニさんの息子のトシちゃん、俊司さんちのタカシちゃん、竹之内のツネハルさん、郵便局のタダシさん、隠居のマアちゃん、清水のトシオちゃん、正一ちゃんちのケンちゃんのそれぞれが名乗りを上げてくれた。初めは不思議そうな、いや、不審げなようすだった。だが、それぞれが顔を近づけ、手を握って声を掛け、昔のことなど話してくれたので、記憶がよみがえってきたようだった。笑顔が浮かび「ヨウちゃん?」などと問い直す言葉が出た。紙コップのビールも飲んだ。この『花見』はバアちゃんを元気づける会になった。
 たぶん、1升瓶が5本空いたはず。来年はウチの桜のライトアップに合わせ『花見の会』をすることになった。
 7時過ぎタクシー3台を呼び《仕上げの宴》を開きに街に出かけた。

 今朝、つくづく反省! とにかく、昨夜のことはほとんど記憶にない。支払いはどうなったのかなあ。

やっぱり世間は狭い
【No.474】 2006年05月02日

 昨日更新したHPの『返ってきたエコー』の欄を読んだKさんからこんなたよりが届いた。
 「1通目の、私の投稿を読んでくださった方、どなたでしょうね? 主人の会社の方? もう退職されたのでしょうか? イニシャルからは分かりませんでした。2通目は、H先生ですね。3年間の研修から帰って来て、2年生。へぇ〜。英語を教え…。えっ? クラス目標は『マイペース』…。あ、娘のクラスだ。嬉しくなりました。」

 昨夜でアクセス70000になった。

 今日、午後3時から新聞の秦野大会の第2回実行委員会に出席。大会の時程にあわせ、さまざま疑問点などを解きほごしてみた。こうして少しずつ形が出来上がっていくと安心する。大会まで今日でちょうどあと3カ月。私のできることはがんばりたい。

ワイシャツがふさわしい5月1日だった
【No.473】 2006年05月01日

 8時5分に家を出る。きょうは大井町での広報講座。連休の谷間ということだが、道路の空いていて40分で会場に入れた。9時15分から11時30分までの講座。
 この町の講座は『広報作り講座』という名称で、幼・小・中のPTAの広報委員を中心に、青少年育成団体や母親クラブ、更にはボランテイア団体などの広報担当者が参加してくれる。今年は60名ほど参加。講座の後、寄稿原稿の添削についての質問が出た。
 帰りに二つの中学校に寄り、生徒会の新聞作りの講座の資料を置いてきた。『エコー』の出稿も。連休で発行は10日頃になりそう。
 帰ってホームページの更新。どうやら今日中にアクセスは70000に届きそうだ。ここで発行されたPTA広報誌2誌が届いていた。
 自治会のKさんが訪ねてきた。清水自治会としては、『清水湧水池跡』の案内板を早く立てたいらしい。それで案内板の文面を二人で検討。少し時間をもらい、この秋に完成させるつもり。
 

寺山・清水には新聞づくりが根付いている
【No.472】 2006年04月28日

 昨日は秦野市P連の広報作り講座。資料は170部準備されたとか。投影機で見本の広報を映し出すこともした。私としては、秦野では初めての試み。主催がPTAということで、機器の操作の助手がいないため今までは出来なかったが、二人のお母さんが事前に機械操作を勉強してくれ、助手を買って出てくれた。有難かった。嬉しかった。
 講座の最中、前列の右端のお母さんの反応がとてもいいのに気づいた。「見た顔、誰だっけ」と一瞬悩んだ。だが、すぐに気がついた。自治会の組がわが家と同じのSさんだった。昨年の今頃だったろうか、自治会の集金で訪ねた折、「PTAの委員をやるなら広報をやっちゃいな。面白いよ」と勧めた。傍にいたお姑さんも「そう、やっちゃいな。先生がそばにいるから。私もやったよ」と“援軍”。お姑さんといっても50歳をちょっと出ただけ。当のSさんは小学2年生のお母さんという若さ。そのSさんが広報委員になってくれた。
 もう一つ驚いたこと、それは、わが家と道を挟んで向かい合うYさんも広報委員になっていた。しかも副委員長さん。こちらも小2が一人っ子のお母さん。寺吏山・清水には《新聞活動が根付いている》。わが家の『向こう三軒両隣り』に二人のPTA広報委員がいるのだから。

 明日から始まる大型連休。なんとなく道路が車で込んでいる。私もその一台で母を乗せて寺山の道を走っていた。すると、ハイキング姿の女の子に出会った。このごろ珍しい遠足風景。なんだか嬉しくなって、不審者と疑われるかもしれないと思いながらも、車を歩いている一団に近づけ声を掛けた。 東京のT中学校(女子だけの学校)の三年生の遠足で、鶴巻温泉駅から歩き始め、伊勢原の三宮から聖峰を越え、高取山からゴルフ場の脇を下り、清水庭に出て、秦野駅まで歩くという《遠足》だった。かなりの健脚コース。たぶん6時間近く歩いているのだろう。だが彼女たちはすがすがしかった。
服装や言葉遣いも気持ちよかった。「いい学校だな」と思った。

私のやっていることは
【No.471】 2006年04月25日

 2年前、荒川区で行なったPTA広報研修会で「PTA広報に広告を載せたいが」という質問を受けた。「発行費を広告から得たいから」と言った。それほどまでに広報の費用が欲しいのは「学区が無くなり、自由選択になったので、ウチの学校に来るはずの生徒が一クラス分他校に行ってしまった。ウチの学校の良さをPTA広報を通して荒川全区の人たちに知ってもらおうと思うので」とのことだった。
 その質問をしたIさんから手紙が届いた。「あれから2年間、広報委員長としてがんばりました。子どもと共に卒業ですが、新年度の広報委員会の予算は4万円アップされました。新入生も3クラスを確保することができました。広報誌を説得材料にし『PTAを変える』ということを教えていただいたことに感謝しています。これからも地域や市民活動で広報誌を作っていこうと思います。PTAでは高校でも広報委員を受けましので、もう少し楽しむつもりです」

 湯河原町のNさんから「どうやら総会までに第1号が出せそうです」という電話。それだけの話だけに、彼女の意気込みを感じた。弾んだ声に喜びを
感じた。

 文京区のR小からも広報誌が送られてきた。「来年度のためにきちんと講評をお願いします」と手紙が添えられていた。

 私のやっていることはそんなに間違ってない、と思った。

 昼、12時過ぎ、雷鳴の中、数分間雹が降った。

プレゼント 二つ
【No.470】 2006年04月21日

 9時半から松田町でのP広報講座。始まる少し前「1分ほどお時間を」と一人の男性が会いに来た。部屋の外で話をする。「これが最後の号です」と差し出されたのはY高校のPTA広報誌。そこでようやくその男性が誰であるのか分かった。一昨年の夏、この町の青少年育成講座で講演をさせてもらったとき会場に来てくれた人だった。この人はY高校のP広報委員長さんで、講座の後広報についていろいろ意見を交わしたのだった。「昨年は優秀賞でした」と県コンクールの結果も知らされた。一昨年は最優秀賞だったはず。きょうの講座に弾みを与える情報だった。

 講座が終わり、廊下に出たら笑顔の女性が私を待っていた。「先生、きょう松田に来ると分かったので、きちゃいました」。そう言われ、困った…。「誰だっけ。わからない」とあせる。 
 「Oです」と名乗られ、中学生の頃の顔が浮かんできた。昨年11月に行なわれた同窓会で会っていたのだ。そのときの写真をわざわざ届けに来てくれたのだ。申し訳なかった。
 「この辺によく出没されますね。大井町にも来られるようですね」。「5月1日は大井町だから聴きにきてください」。
 「もうPTA広報に縁はありません」と笑う。彼女は50歳。

今年度の広報づくり講座 始まる
【No.469】 2006年04月20日

 私の今年度のPTA広報づくり講座が始まった。
 17日は文京区教育委員会の主催。4年目で、昨年より10日早い日程。数台の乳母車が会場に現れたのは画期的なこと。嬉しかった。100名ほどの参加。
 18日は湯河原町教委の招きで。この講座は午前10時から午後4時まで。午後はそれぞれの企画会議に私が加わるという新しいスタイルの講座。「きのう委員が決まったばかり。何から手をつけてよいのか分からない」という委員会。「今日からスタートで7月発行。『先生紹介』をどうしようか」と悩んでいた。それで7月でも先生紹介の《旬》を逃さない企画になるようなヒントをあげた。
 昨日19日は中井町。教育長さんが開会のあいさつをしてくださった。「光栄、がんばらざるを得ない」と思った。午後1時半スタート。3時50分を目安に話は終えた。閉会が告げられたが、誰も席を立たない。机をくっつけ企画会議が始まる。そういえば、文京も湯河原も同じだった。
 各校の席を回って相談を受けた。その折のある委員の言葉。「広報を作っているという感じ、楽しいとはまだ思えないけど、面白いかも」。
 このグループは、出稿前まで作業は進んでいたが、私のダメだしで『見出し』の再考を全員でしていた。
 5時に私は会場を出たが、まだ1校はがんばっていた。

 先ほど、文京区のR小PTAから講評して欲しいと広報が送られてきた。

求む 全国大会の速報係り
【No.468】 2006年04月15日

 8月の全国新聞教育研究大会・秦野大会への協力をお願いするため、秦野市P連の17年度決算総会と18年度予算総会に出席した。
 決算総会では事業報告、決算報告などすべてがパワーポイントで提示され、審議された。この総会の中で広報コンクールの表彰も行なわれた。入賞した広報がスクリーンに映し出され、賞状が手渡されるというしゃれた効果満点の表彰式だった。こういう時代になったかと感慨ひとしお。
 予算総会の後、ロビーに今年度の情報委員22名に集ってもらい、「全国大会の『大会速報』の記者になってもらえないか」とお願いした。しばらくは声無し。やがて二人が「先生の家の近くだから」と笑いながら立候補。W中の校長先生が「Nさん、立候補しなきゃ」と声を掛けて通りすぎる。それでUさんは「カメラなら」と決心してくれた。大会委員長が自校の校長先生ということでSさんも手を挙げてくれた。《千載一遇》という思いもあったかもしれない、7名のスタッフを得ることができた。単Pを代表してくるお母さんたちは積極的だ。

名前
【No.467】 2006年04月14日

 先日、ある資料を読んでいて発見したこのごろの赤ちゃんの名前。
 伎邑洵ちゃん 汰芽ちゃん 美海ちゃん
 難しい読み方だった。時代は変わった。

寺山のお祭り 昔は4月10日でした
【No.466】 2006年04月10日

 今年は9日が寺山のお祭り。わが家は今年は『行在所』の接待係りの番。接待だから女性のほうがふさわしいのだが、家にはお祭りの客が来るので台所が忙しい。それで私が出ることになった。(今年は私の“太巻き寿司”の出番はなくなる)
 接待係りや自治会の役員、それに近所の人など10数人が待っていた。そのとき聞いた話。 
 10時半頃、『行在所』の前のバスの折り返し場に土浦ナンバーの観光バスが一台入ってきたそうだ。この一行はハイキングで、高取山(地元ではタコーチ山と呼ぶ)から鶴巻温泉に下りるコースを歩くと言っていたそうだ。そういえば、今朝10時ちょっと過ぎ「米の作付け面積」を調べる用紙を配って回ったとき、清水のバス停に10数人のハイカーが降り立ったのを見た。この人たちも、タコーチ山に向かっていった。中・高年が大好きな「ハイキング&立ち寄り湯」コースの一つが寺山・清水からスタートしているということを知り少し驚く。
 歩き始めた人たちは、途中で寺山の神輿に会える。山腹の桜並木はまだ十分その花を見られる。いい思い出になるだろう。
 このバス停の傍らに『清水湧水池跡』の碑がある。ハイキングで秦野を訪れる人、寺山・清水から鶴巻温泉をめざすハイカーに、この碑をぜひ見てもらいたいと思った。
 11時に『お発ち』のはずの神輿、『お着き』が11時をはるかに過ぎていた。神主さんの祝詞を聴いていたら、『行在所』ではなく『お旅所』が正式な呼び名であることが分かった。
 今年の『宮入』は8時半だった。タコーチ山から跳ね返る「宮昇殿」の太鼓を風呂の中で聞いていた。

寺山・鹿嶋神社 そして円通寺
【No.465】 2006年04月08日

 明日は寺山のお祭り。その準備に8時半から鹿嶋神社に行く。氏子の中で神輿に触ることができるのは清水自治会の氏子だけ、というしきたりが今も守られている。それで、毎年神輿の飾りつけを受け持っているのが清水自治会。それこそ《地付きの人》から、昨夏、この清水に居を構えた人まで加わってにぎやかに神輿を飾る。この神輿飾りで顔見知りになり、交流が始まる。そして地域の一体感も生まれる。そういう意味からも清水自治会は幸せである。
 あちこちの神輿を担いで回るMさんが「名古木ではお神輿の休み所を『神酒場』と言っている。寺山が言っている『行在所』は間違いだって名古木のいてるけど」と私に尋ねた。言われてみれば確かに『行在所』は天皇に関する言葉だ。
 今日は『花祭り』。今年も円通寺からバアちゃんに『お福分け』の筍ご飯が届き、こんな手紙が添えられていた。
 「今年の桜は風雨に負けず、私たちをいつまでも楽しませてくれていますね。お変わりなく元気にお過ごしですか。4月8日、今日はお釈迦様の誕生日です。今年も、世話人さん、和讃の方々とご供養できましたので、祝い膳のお福分けをお届けいたします。どうぞご笑味ください。また、水戸黄門の主題歌を印刷しました。和讃講では行事の度にこの歌を歌ってお開きにしております。大きな声で歌ってみてくださいね。では又来年お届けします。元気でお過ごし下さい。円通寺住職」
 水戸黄門の主題歌が登場したのは、テレビで格さんを演じている合田雅吏さんは寺山出身だから。
 テレビ水戸黄門の主題歌「ああ人生に涙あり」
 人生楽ありゃ苦もあるさ 涙のあとには虹もでる あるいてゆくんだしっかりと 自分の道を踏みしめて

「広報づくり」始動
【No.464】 2006年04月06日

 4月17日の文京区を皮切りに、私の今年度のPTA広報講座が始まる。4月中は文京区のほかに6市町から招かれている。それぞれの担当者から「参考に」と昨年度発行の広報が送られてくる。それらを読ませてもらって思うことは、見事にその地域性が表れているということ。たとえて言えば「後出しジャンケン」のような。広報作りでも他区・市町との交流、情報交換が必要だと思う。
 そんな中、お隣りの伊勢原市P連は「伊勢原市の各学校PTA広報紙の一層の充実を目的とする」という主旨の継続事業を持つことになり、講師として私を招聘してくれた。事業の内容は、
1、広報紙作りの指導(講習会等)
2、グループによる面接指導(3〜4校で1グループを構成。各校15分で自校の広報紙の添削を受ける。他校の添削もー緒に聞く。時期は夏休み中)
3、添削指導(単Pは広報紙発行毎に一部を講師に送付し添削指導を受ける)
 PTAそのものが問われている今、このような試みに取り組む伊勢原市P連に敬意を表したい。
 昼少し前、A小PTAの正・副広報委員長さんが訪ねてくる。「アミダくじで当たっちゃって」とやや悲痛な表情。お手伝いを約束した。
 午後、B高校P広報委員4名の来訪。年度第1号の企画の相談。3時間ほどの実のあるオシャベリら、「高校生の食生活」というテーマが決まった。前年に囚われない活動(内容も)をしようとする意気込みを感じた。来てもらってよかった。


今日生きるよろこび 
【No.463】 2006年04月04日

 東京カントリークラブの取り付け道路は、タコーチ山をジグザクに駆け上がっている。その街路樹は桜。
 ウチから眺めると、山すそからクラブハウスのある頂まで、桜で彩られているように見える。今、山すそが満開の白、中腹辺りは少し赤みを帯びた白、山頂近くは蕾の赤に白が混じっているという色合い。日毎に、桜前線がジグザクに登っていくのが分かる。
 桜の季節が巡ってくると思うことがある。「来年もこの季節に出会えるだろうか」と。
 昨夜、母にライトアップした庭の桜を見せた。強い雨に打たれなかった今年の桜は、まだしっかりと大きな房状をつくり、なまめかしくさえ思える。 爛漫たる桜花を車椅子から見上げている母は無言。心を動かされたというようには見えなかった。(このごろ、頓に無感動になっているように思える。この現実は、私たちにとっては哀しいことなのだが、母には“良いこと”と思えるようになった。) 私たちも言葉を掛けることはしない。
 「桜の木の下には死体が埋まっている」は、梶井基次郎の言葉。西行の一首もある。桜花は、太平洋戦争では紛れもなく『死』の象徴だった。
 光りの届かない梢あたりから、突然一片、またひとひらと舞い落ちる花びらを見送りながら、「あと二日もってくれればいいのにねえ」と言う妻。五日は入学式。その日わが家にも来客が二組ある。「散る桜 残る桜も 散る桜」

 31日に訪ねてきたAさんが、修善寺のお土産に竹のしおりをくれた。そのしおりには「今日生きるよろこび 武勝美」と刻み込まれていた。
 
 今生の今日の花とぞ仰ぐなる  石塚友二

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