- 寺 山 だ よ り -

予報は晴れなのに
【No.350】 2005年02月26日

 きょうの予報は晴れなのに、10時ごろから雪が舞い始め、今(4時半)も降り続いている。寺山は海抜170メートルほどだから、昼間は積もることはない。だが気温は低いので今夜の道路はアイスバーンになる。飲み会はパス、ウチで飲む。
 裏の畑と我が家との境界に10数本の梅が植えられている。樹齢は30年くらいか。ほとんど手入れがされていないので、毎年たくさんの花をつける。その梅がきょうの雪水をたっぷり吸ったためだろう、一挙に花を開かせた。梅にメジロ、そして舞い散る雪、背景にけぶる大山、眺めて飽きない景色。
 西隣の小学校のグランドでは、一日中少年野球の練習。子どもたちの嬉々とした声が聞こえてくる。風邪をひかなければいいなあ。
 9時に出かけて行った妻が、また傘を一本増やした。

ことしは9紙入賞  全国学校新聞コンクール
【No.349】 2005年02月25日

 きょう今年度の全国学校新聞コンクールの結果が発表されました。
私のHPの「リンク集」から全国新聞教育研究協議会にアクセスしてください。学校・学級・PTA・学習新聞の全入賞紙が掲示されています。 
 秦野は今年も9新聞が入賞しています。東中の3年生の学級新聞は全クラスが入りました。すごいことです。

『春一番』が吹いた今日
【No.348】 2005年02月23日

 20日の「寺山ウオーク」が終わったのでホッとしたのか、その夜からカゼ気味。私の健康のバロメーターは晩酌のビールの甘さ。もちろん量もそうだが。缶二つで終わりだった。21日は起きてはいたが、グタグタとした生活。それでも妻が仕事で留守だったので、バアちゃんの昼・夜の食事を作った。と言っても、温かいものを食べさせただけのこと。
 昨日は一日かかってHPに「学校講話集」というページをアップ。 
 今日は未明から風、待っていた『春一番』。『春一番』とは、恐ろしい春の嵐のことなのに。春を待つ心のような魅力があるネーミングだ。キャンディーズの歌もあるし。その『春一番』がもたらした不思議な気象現象。8時過ぎ丹沢の山並みをバックに虹がかかった。登校途中の女子中学生が歓声を上げていた。予約している『街道をゆく・6』を取りに行く。ついでに花粉症対策の目薬を買った。食堂から見える杉山は真っ赤。その色にこれからが思いやられる。ここ数日の体調不良は花粉のせいかもしれない。あるいは、昨年は病気で一日も寝込むことはなかったので、その反動が表れ始めたのか。
 昨日高校の入試が終わった。中三の子たちにもうすぐ春が来る。『春一番』の吹いた今日。

きょうも一つ学んだ
【No.347】 2005年02月21日

 寺山自治会が主催する『寺山ものがたりを歩く』が昨日行われた。あいにくの悪天候で参加者は8名。群馬出身の女性が一人参加された。他は全員寺山生まれ、寺山育ち。私よりいろいろなことを知っている人ばかり。それで、今回は民俗についての説明を中心に案内した。
 庚申搭、巳待ち搭、金精神、稲荷社を屋敷神として祀っているT家と鹿島神社の祭神・タケミカヅチノカミの話に時間をかけた。T家の屋敷神は庭より一段高いところに石垣で囲まれて祀られている。鹿島神社でのタケミカヅチノカミの話は、古事記の「国生み」から始めた。
 最後に「あずま荘」でお茶を飲みながらもう一話。その後質問の時間。Eさんから「屋根に千木があるは男神、ないのは女神のお宮だと、この前ある先生から説明を受けた。タケミカヅチノカミは男神。たげと鹿島神社に千木はついていない」。そんな説は知らなかった。帰って検索。そうしたらこんなことが分かった。
 「千木の先端が垂直に切られている場合は、男神を祀っていることを示し、水平に切られている場合は、女神を祀っていることを示すと一般的にいわれている。」寺山の鹿島神社は権現造りだから千木はもともと使わない造りの社であることも知った。
 きょうも一つ学んだ。

卓話
【No.346】 2005年02月19日

 「企業の経営者あるいは管理職として<私たちの生活の基を作ってくださり、また社会奉仕を通して地域を支えていらっしゃる国際ソロプチミストの皆さんにお話を聴いていただけることはとても光栄です。でも全員が女性であるというこで、少しナーバスになっています。一生懸命話をさせていただきます。」 
 昨18日午後1時15分、こんな出だしで国際ソロプチミスト秦野の例会で卓話をさせてもらった。テーマは「まほら・秦野 秦野の地名について」。注目の南セントレア市(愛知)の話の部分はけっこう受けた。惜しまれつつ? 降壇。“がんばり過ぎ”か、声がすこしかれた。
 2月10日の朝日川柳に「思い出も伝統も消すカタカナ市」という一句が掲載されていた。地名は私たちのはるかな先人たちの生活、そして風土や地形などを伝えてくれる文化遺産だと思う。

高齢者訪問
【No.345】 2005年02月14日

 交通指導の服装の警官が突然訪ねてきた。他に二人が付いている。聞いてみたら、高齢者の交通安全指導で回っているとのこと。同伴者は安全協会の地区の委員さんと緑のおばさんとらしい。「誕生会に出られましたか。そこでもお話したのだが」とお巡りさん。「いいえ、車椅子の生活だから」と答えた私。「高齢者の交通事故が多い。特に自転車の事故が」と言い、突然「クルマは運転しますか」と聞くので、すると答えた。そうしたら「気をつけてください」と言う。そして「散歩をされるとき着けてください」と蛍光チップのついた真っ黄色の軍手を手渡す。「奥さんはにも」と真っ赤なものを。この説明の間に写真も撮られた。
 5分ほどの訪問だった。三人が去った後、ようやく気づいた「高齢者訪問」は私たち夫婦が対象だったのだ。すっかりバアちゃんのことだと思っていた。「考えたら、96のバアちゃんのことで『運転しますか』などとは聞かないよね」と妻。そう、65歳からは高齢者なのだ。そういえば、二、三日前、原の道を真っ黄色の手袋をはめて大きく手を振って歩いている人がいたっけ。
  もらった赤と黄色の手袋は、今私のパソコンの横に置いてある。何時使おうか思案中である。

西伊豆 戸田村にて
【No.344】 2005年02月10日

 「高足ガニと夕映え」の西伊豆戸田は、人口4000人強の小さな山漁村。宿は「ときわや」での中心部にあった。部屋の窓から登校する子どもの姿を見た。小学生の男の子、そして中学生がそれぞれ一人ずつ。宿の人と話をした。高校生はほとんどこの村にはいないらしい。静岡や三島、沼津で下宿生活をするのがふつうだそうだ。母子で沼津に部屋を借り、有名な私学小学校に通わせている家庭もあるらしい。沼津まで高速フェリーで30分、車で1時間半。バスは修善寺経由。
 東北の山間部の中学校の先生から「『ウチの子には地元の高校に行くように説得してくれ』と親から頼まれる。子どもを地元に残すようにするのが進路指導」という話を聞いた。戸田はまもなく沼津と合併する。


「第54回全国小・中学校・PTA新聞コンクール」の一次審査の結果
【No.343】 2005年02月07日

 日記とはほど遠い内容ですが…

「第54回全国小・中学校・PTA新聞コンクール」の一次審査の結果
            【主催】毎日新聞社・全国新聞教育研究協議会

 審査は第一次審査、第二次審査、最終審査と行われます。このうち、小学校学校新聞の部、小学校学級新聞の部、中学校学校新聞の部、中学校学級新聞の部については第一次審査通過作品の発表を行っています。(学習新聞の部、PTA広報の部の一次審査通過作品の発表は行っていません)

一次審査通過作品

◆小学校学校新聞の部
岩手県
盛岡市立羽場小「翼」 山田町立大沢小「海よ光れ」 久慈市立枝成沢小「あすなろ」  田野畑村立沼袋小「ぬまっこ」  山形村立日野沢小「わいわい」
山形県
藤島町立東栄小「東小新聞」 藤島町立藤島小「藤小新聞」 鶴岡市立朝暘第三小「朝三新聞」 鶴岡市立朝暘第四小「四小新聞」 鶴岡市立朝暘第五小「朝五新聞」  鶴岡市立朝暘第六小「朝六小新聞」 鶴岡市立西郷小「すなやま新聞」  鶴岡市立黄金小「こがね」 鶴岡市立大泉小「大泉仲よし新聞」  鶴岡市立大山小「たかだて新聞」  酒田市立松陵小「万里」  羽黒町立第三小「羽三小新聞」
群馬県
桐生市立東小「東っ子」  桐生市立天沼小「ジャンプ」  太田市立毛里田小「杜の光」
千葉県
柏市立柏第七小「レインボータイムズ」  柏市立柏第一小「柏一小タイムズ」  柏市立柏第五小「柏五小ナイススクープ」 市川市立福栄小「ふくえい」 船橋市立行田東小「けやき」
東京都
練馬区立大泉第二小「大二小子ども新聞」 足立区立栗原北小「くりきた」 東久留米市立第九小「九小タイムス」
神奈川県
横須賀市立鴨居小「かもいっ子」 横須賀市立望洋小「望洋ビュー」
愛知県
豊橋市立つつじが丘小「フレンド」
大阪府
大阪市立南港光小「ひかり」
福岡県
北九州市立守恒小「守恒新聞」 北九州市立曽根東小「曽根東kids」 北九州市立西門司小「西門司新聞」 北九州市立大谷小「大谷キッズ」


◆小学校学級新聞の部
北海道
苫小牧市立明野小「流星」 苫小牧市立泉野小(6年3組)「PEACE」 鵡川町立鵡川中央小(5年1組)「たんぽぽ」
岩手県
岩手大学教育学部附属小(5,6年かつら組) 「おちゃっこタイムス」 盛岡市立羽場小(3年2組) 「スタート」釜石市立唐丹小(4年)「10さいなかま」
山形県
鶴岡市立朝暘第三小(第5学年)「スマイル」 鶴岡市立朝暘第四小(5年2組)「なかま2」 酒田市立新堀小(3年1組)「あおぞら」 遊佐町立高瀬小(第3学年)「たんぽぽ」
群馬県
桐生市立東小(4年1組)「なかま」 桐生市立境野小(4年1組)「4年1組」など
千葉県
市川市立八幡小(6年2組)「HOTフレンド」など 柏市立柏第五小(3年1組)「かがやき」
東京都
練馬区立南が丘小(5年2組)「地球新聞」 練馬区立大泉第一小(6年2組)「つばさ」 練馬区立大泉第二小(6年1組)「はばたき」 日野市立日野第二小(6年2組)「明日へ」 西東京市立泉小(6年1組)「天までとどけ」 東久留米市立第九小(6年1・2・3組)「つばさ」
神奈川県
横須賀市立鴨居小(4年1組)「みんなの世界」
愛知県
豊橋市立牛川小(6年2組)「ハッピーライフ」 豊橋市立津田小(5年い組)「ワンダフルバンド」 豊橋市立津田小(第6学年)「ダンデライオン」 音羽町立長沢小(第6学年)「ガッツ」 岡崎市立福岡小(5組)「5くみでGO!」
大阪府
河南町立白木小学校(2年1組)「花火」
兵庫県
姫路市立大津茂小(4年1組)「ダッシュ」「スマイル」


◆中学校学校新聞の部
北海道
白老町立白老中「潮騒」 帯広市立帯広第一中「一中タイムス」 鹿追町立鹿追中「生徒会新聞 飛翔」 帯広市立川西中「川西タイムス」
岩手県
大東町立興田中「興中新聞」 釜石市立唐丹中「唐中健児」
秋田県
山本町立山本中「いぶき」
山形県
鶴岡市立鶴岡第一中「飛翔」 鶴岡市立鶴岡第二中「緑窓」 鶴岡市立鶴岡第四中「青流」 櫛引町立櫛引中「櫛中新聞」 酒田市立第二中「酒田二中新聞」 酒田市立平田中「平中タイムス」 余目町立余目中「余中新聞」 八幡町立八幡中「八幡中学新聞」
茨城県
常陸大宮市立第一中「TRY」
栃木県
足利市立協和中「協和新聞」
群馬県
尾島町立尾島中「尾中新聞」 太田市立城西中「躍進」 桐生市立相生中「Smiley」など
埼玉県
さいたま市立常盤中「常盤中学新聞」 朝霞市立朝霞第二中「双葉」 飯能市立名栗中「挑戦」
東京都
荒川区立諏訪台中「諏訪台」 葛飾区立中川中「中川タイムズ」 江戸川区立清新第一中「清春の泉」 世田谷区立烏山中「激烏いちょう新聞」 大田区立羽田中「翼」
神奈川県
相模原市立大野北中「北中新聞」 相模原市立谷口中「谷口中新聞」 秦野市立大根中「大中新聞」 秦野市立東中「東中新聞」 横浜市立港中「港タイムス」 横浜市立中和田中「COLORS」
福井県
今立町立南越中「スクール瓦版」
静岡県
磐田市立向陽中「ボランティアこうよう」 磐田市立磐田第一中「磐田一中タイムズ」 磐田市立城山中「しろやま」
愛知県
豊橋市立中部中「清流」
兵庫県
高砂市立竜山中「竜の子」 加古川市立加古川中「夢未来」
福岡県
北九州市立松ヶ江中「松中新聞」 北九州市立門司中「ALIVE」
大分県
姫島村立姫島中「やはず」 安岐町立安岐中「暁雲」
宮崎県
宮崎市立東大宮中「東大宮」
鹿児島県
山川町立山川中「山川新聞」


◆中学校学級新聞の部
北海道
苫小牧市立明倫中(2年1組)「昇竜」 苫小牧市立明倫中(2年5組)「飛翔」 苫小牧市立勇払中(1年A組)「個人新聞」など 登別市立緑陽中(2年C組)「太陽」 登別市立緑陽中(2年B組)「夢々」 白老町立白老中(1年C組)「星雲」 帯広市立帯広第八中(2年6組)「夢咲」 帯広市立川西中(3年A組)「源流」
岩手県
釜石市立釜石第二中(3年2組)「群青」
宮城県
仙台市立南小泉中(2年3組)「熱血!松浦組」 仙台市立郡山中(1年1組)「あおぞら」 仙台市立折立中(3年1組)「三の一伝説」
山形県
鶴岡市立鶴岡第四中(2年1組)「We are 2−1」 酒田市立第四中(1年5組)「ハツラツ」 余目町立余目中(3年3組)「春秋」
茨城県
常陸大宮市立第一中(2年1組)「NEWS・J(ニュース・ジャポン)」
栃木県
足利市立協和中(3年1組)「虎りもん」
群馬県
太田市立東中(1年1組)「G中新鮮組」
埼玉県
幸手市立幸手中「大谷っ久」 春日部市立谷原中(1年1組)「ONEピース」 行田市立行田中(3年1組)「朋友」
東京都
港区立六本木中(1年3組)「太陽の広場」 港区立赤坂中(2年A組)「なんでもいい2」 足立区立第九中(3年3組)「燦燦」 大田区立出雲中(3年生徒委員会)「燃えろ原始人」 大田区区立石川台中(第2学年)「Newspaper Men」 世田谷区立烏山中(3年C組)「辛口カレー」 立川市立立川第七中(3年新聞係)「HOPE」
神奈川県
川崎市立大師中(1年A組)「ハナビラ」 川崎市立宮前平中「げんき玉」 川崎市立井田中(2年3組)「オロナミン3」 川崎市立井田中(3年4組)「ビーストズ」 相模原市立大野北中(3年5組)「MEISTER」 相模原市立大野北中(2年6組)「すご6」 秦野市立東中(3年3組)「41個のコロッケ」 秦野市立東中(3年1組)「MITAKEX」 秦野市立東中(3年2組)「みっこの豪邸」 秦野市立鶴巻中(1年4組)「青空」 秦野市立西中(2年3組)「Take it easy」
兵庫県
高砂市立竜山中(1年2組)「虹色」 高砂市立竜山中(2年1組)「百人力」 加古川市立加古川中(3年8組)「やまさKID’S」

最終審査の結果発表は2月中旬です

 全国新聞教育研究協議会のHPに発表されているものを転載しました。詳しくはそちらで。全国新聞教育研究協議会のHPには、私のリンクのページからアクセスできます。






一年のある一日
【No.342】 2005年02月06日

 2月5日、新聞コンクールの審査会で、一年ぶりに新聞教育研究所の大内先生と会う。 審査が始まるまでの間に「武さん、ちょっといいか。話を聞かせてよ」といつもの通りの大内さんとの勉強会。 
 この日は「新聞と弁論の違いについて武さんの考えを聞きたい」と大内先生。高校では弁論部がほとんど姿を消しているが、新聞は残っている。そして、一時期よりオピニオンリーダー性を持ち始めているのが高校の学校新聞らしい。
 「成人の日」を意識して行われていた「青年の主張」が「青春メッセージ」に代わり、そして今年その「青春メッセージ」もテレビから消えた。その消えた理由を私なりに挙げ、新聞との違いを話した。「うーん、まだ8割程度しか説得できていないな」と大内さん。
 「新聞で学校に風をおこせ」と全国を説いて回っている自称“新聞爺”の大内さんは70代半ば。時としてほとばしる激しい言葉に、大内さんの新聞教育への使命感を感じる。こうして私の「新聞への思い」を持ち直す一年のある一日。
 

200号のマスコット
【No.341】 2005年02月02日

 ある酒蔵から届いたたより
 「欧州でワインの消費が落ちている。生活が慌しくなり家族が揃って夕食を囲む習慣が失われたのが原因。社会学者達は“食卓の消失”が人々の心を荒ませると警告している。」
 幼児誘拐・衝動殺人・オレオレ詐欺・集団自殺など、ニュースが異常な事件を報じるたびに10年前に読んだこんな新聞記事が頭をよぎります。
 私見ながら、食卓が和やかであることは一個人または一家族が、ひいては社会全体が幸福になるための絶対条件です。質素でも作り手の愛情に満ちた料理で食卓を囲んでください。家族や友人と語らって心へ栄養を注いでください。一杯の美酒で大切な夕食時間を長引かせるお手伝いをさせてください。日本をこれ以上壊さないために。    2005年早春 蔵元敬白

 午前10時から西小PTA広報委員会に出かけた。200号記念号へのアドバイスを求められての出席。いたずら盛りの男の子も同席。私の言葉の真似をしたりして母親をあわてさせたりしたが、それがけっこう編集会議を和ませていた。3月中旬の発行まで、この子は編集委員会のマスコットになるだろう。200号とともに編集委員たちの、そして私の記憶にも残るだろうこの男の子。 

1月31日 「秦野の新聞教育」の初校
【No.340】 2005年02月01日

  教育研究所が2年かけて研究してきた「秦野の新聞教育」が集録の校正に入った。今日はその初校の日。
 研究員は小・中の現役の先生6人と研究所の指導主事。新聞教育について昔のことを知っているということで時々会に招かれていた。今日の校正にも
参加した。私の今日の仕事は全編の監修だった。
市内の小・中で発行された学校・学級・PTA新聞の記事を通して、戦後60年にわたる秦野の教育の動きを読み取ることもできる。6人の現場の先生は授業を持ちながら昔の新聞を発掘するなど大変な苦労をされた。総ページ数140超の研究集録は3月刊行の予定。その日が待たれる。

市制施行50周年の記念式典
【No.339】 2005年01月30日

 1月29日 秦野市の市制施行50周年の記念式典に参加した。発行した記念紙の「広報はだの」の編集委員として招待されていた。市長が式辞の中で「50年後を目指しての一歩を踏み出す年」と今年を位置づけた。 
 会場に集った人たちは私のような年齢層が圧倒的。その中に4人の中学生の姿があった。私たちの仲間「広報はだの」の編集委員だ。この4人だけが、これからの秦野の50年を見届け、100周年の記念式典に立ち会える。
 これからの50年間とは、とてつもない時間ではある。しかし今日から人々が営営と生活をつむぎ、織り上げていく。二宮市長は南秦野町の職員からスタートし、現在まで55年間、秦野の行政にかかわってきている。
 妻がこの式典の中で感謝状をいただいた。

「5000分の1」の強運
【No.338】 2005年01月28日

 住所が変わった人の年賀状の整理をした。長坂町のYさんの賀状には「清里も白州も…。そして県下最大面積の市となりました」とあった。住所は山梨県北杜市、「平成の大合併」で生まれた市だ。 
 今月のトップページに載せた『干支・鶏』をプレゼントしてくださった信楽町のKさんからの年賀状には「甲賀市に変わりました」と添え書き。信楽まちはタヌキの焼き物でつとに有名な焼き物の町。

お年玉付き年賀ハガキの話。
 95歳の母の兄姉妹はすべてこの世にいない。そして、いとこ達も代替わりの年代。だから今年母に届いた賀状は1通。その年賀状は、2カ月に一回、ショートステイでお世話になっている病院のケアマネージャーさんからのものだった。それが3等賞「地域の特産品小包」に当たった。下4桁の賞だから、5000本に1本の確率。まさに大当たり。妻と私が書いた年賀状はおおよそ700枚。二人への返信で当たったのは4等が14本。今年のバアちゃんは幸先が良い。宝くじを当ててもらおうか。賞品の「小包」は好物の「かに」にした。ご本人はまだこの強運は知らない。かにが届いたら知らせるつもり。

 『エコー』を発送している近くの郵便局は窓口二つの特定郵便局。局長さん以下すっかり顔なじみだ。きょう窓口のAさんに「かに」の手続きをしてもらった。手続きが終わった時「武さん、『タウンニュース』で武さんのこと読みました。私、伊勢原に住んでいるので『広報はだの』読んでないの。読ませてください」とAさん。「小泉さん、郵政民営化ってむずかしいね」。

小学校で総合学習の授業「まほら東」
【No.337】 2005年01月26日

 午後東小学校の6年生の総合学習の授業を行う。「まほら東」がタイトル。3クラス合同だから子どもたちは床に座って聞くことになる。これは私にも子どもたちにもたいへんなこと。出来るだけ板書をした。用意した話の半分で終了のチャイム。残りは次の機会に、ということになった。終わりに『作曲』を課題にした。
 東小学校の前身である東雲小学校は明治25年に開校している。そして大正時代に校歌が作られたようだ。その歌詞は発掘されたが曲は不明。
 その歌詞を板書し子どもたちに書き取らせた。期限なしの課題、誰かがいつか、この「東雲小学校」の校歌を復活してくれたら嬉しい。
 きのうと打って変わっての天候。未明から雪が舞った。寒い一日だった。学校から帰ってきたら、応接室の外にメジロが落ちていた(まさに“落ちている”といった状態)。拾い上げたら生きている。多分ガラス戸に当たってノウシントウを起こしたのだろう。手中でしばらく温める。なぜか私の薬指をしっかりと掴む。5分ほどしてモミジの小枝に移した。数分間の安静後、飛び立っていった。ムクドリが庭の桜の梢に群をなしている。寒そうだ。

寺山ウオーク
【No.336】 2005年01月26日

 昨日は公民館の「歴史探求講座」の日。テーマは「『寺山ものがたり』を歩こう」で参加者は30名。応募者はオーバーだったとか。昨年7月は座学の「寺山ものがたり」だったので、今回は寺山を一緒に歩いてもらった。
 天候に恵まれ、私としては楽しく歩けたのだが、参加者の感想はどうだったのか。
 このウォークの目玉はT家の屋敷内の石仏(とりあえず石仏とまとめて表す)。庚申搭(青面金剛と三猿の像)、巳待搭(弁天像)、稲荷神社(石祠)、そして金精神(石棒)がていねいに祀られている。この4つは、昨年「清水湧水池跡記念碑」を建てたとき、初めてT家の当主が「勝美さん、俺のところに弁天さんがいるけど見てくれない?」ということで初めて公になったもの。市教委の調査にも引っかからなかったもの。だから、きょうがその一般公開・お披露目でもあった。
 庚申搭は「長寿治病」、巳待搭は「福富健康・水神」、お稲荷さんは「五穀豊穣・商売繁盛」、そして金精神は「子孫繁栄」。人としての幸せのすべてのをこの屋敷の当事の家人たちは願って4つの神を祀ったのだ。一番新しいのはお稲荷さんで明治22年、これは棟札で判明。他はおそらく江戸時代の作だろう。江戸時代の人々の生活が分かる石仏だった。今の当主もまた、きれいに整えられた坪庭に祀っている。
 地元寺山からは4名、他地区からの参加者の一人が「寺山にはいろいろな文化財があるのですね」とうらやましがられた。「実はどこの地区にも湧水や石仏はあるのだから、それらにぜひ関心を持って欲しい」と話した。

きのうは「大寒」
【No.335】 2005年01月21日

 昨日は「大寒」だった。それなのに春のような日差し。1月も下旬になると、人々の生活は普通に戻るようだ。 
 今朝、Mさんが家族新聞を持ってきてくれた。しばらく「広報はだの」の話をする。1面の“人探し”が楽しかったらしい。思いがけない人を発見したと言う。
 千葉のSさんにも「広報」を読んでもらったのだが、その感想がメールで届いた。隅々まで読んでくれ、たくさんほめてもらった。17人にも読ませたい。
 視覚の不自由な方のために「広報はだの」を読んでいる録音ボランティアのKさんが、ダビングしたテープをもってきてくれた。早速聴いた。耳で聞く文は、しっかり書かないと意味が十分伝わらないことを教えられた。
 4面を見て、30年くらい前に同学年で学級新聞作りを指導したI先生から、そのころの思い出を綴ったはがきをいただいた。
 
 妻の「マフラーの展示会」が始まったので10日間ほど留守番。昼と夜の食事は私が作る。“一点豪華主義”の食事とうそぶいて、一品しか作らない。(作れない!)
 昨日今日で、3つの市町の次年度のPTA広報講座の話が決まった。

お隣のTOMOKOさん
【No.334】 2005年01月19日

 ニュージーランドに留学中のお隣のTOMOKOさんが、成人式への出席のもかねて二年ぶりに帰ってきている。昨夜、そのお隣から食事会に招かれた。
 「もう向こうに行きたくないでしょ」と聞くと「秦野に帰ることを決めたら、その日が待ち遠しくて、とても楽しみにしていた。でも、今は早く向こうに帰りたい」と笑う。そのわけは、日本の「時間通り」「時間に追われる」生活についていけない、疲れてしまった、と言うのだ。
 「バスでも電車でも、終点に近づくと一斉に出口に押し寄せる。あそこに立って待っているのと、止まってから立ち上がって降りてもそれほど時間の違いがないのに」といぶかる。もっとも高校生のころは何もそんなことは感じなかった、とも言った。
 ニュージーランドでの楽しみは「ラフティング」だそうだ。転覆するボートから放り出されるのがとてもおもしろいとか。
 「夜、屋外で星を見上げること」と「昼は小高い丘から下を走る列車を眺めること」も友達とよくするとも話してくれた。
 「お父さん、これじゃあ朋子さん 帰ってこないよ」と私。少しアルコールが入ったお父さんは、私から視線をそらす。彼女は、お父さんの肩に手を置き「帰ってこないと困るものね」とニヤニヤ。とたんにお父さんはニコニコ。お母さんは「返ってくるの 当たり前でしょ」。
 彼女の成長ぶりはきりっとした表情に表れていた。

今年の「トッケダンゴ」
【No.333】 2005年01月15日

 昨日はダンゴ焼き。今朝の新聞でもあちこちの小正月の行事が取り上げられていた。
 清水自治会のダンゴ焼きは、準備したお菓子35袋が足りなくなったくらいの盛況。大勢の子どもたちが来てくれた。道祖神は子どもたちが中心になる祭り。11日に門松や注連飾りなどを集めて回り、自分たちで刷り上げた道祖神のお札を配るのが子どもたちの役目。
 14日の当日は、自治会の役員が中心になって火床をつくり、子どもたちがダンゴを焼きに来るのを待つ。「長老」と持ち上げられている私たち年配者数人が火の番人をする。私はここ数年、すっかり「ダンゴヤキの長老」になりきっている。 
 今年は平日だから、子どもたちが集まってきたのは4時近く。付き添いのお母さんたちは若い。「どこの嫁さんだんべな、ありゃあ」「わかんねえなあ、原の方の人かな」「来てくれりゃあだれでもよかんべえよ」「そうなあ、今年ゃけっこうにぎやかだなあ」。缶ビールを手にこんな会話を交わす長老たち。
 近頃は針金に串刺しのダンゴをアルミホイルに包んで焼くのが普通。熾きになったところに竹竿に結わえたダンゴを置く。それで安心しておしゃべりに興じているお母さんたち。  
 「そろそろよかんべえよぉ」の声でダンゴを拾し、子どもと食べようとアルミ箔をはがすと、我が家のではないダンゴが出てくる。
 「あれ、ちがっちゃった。ゴメン、だれの、このオダンゴ、キレイな色」。銀色のアルミ箔の上に赤、白、桃色、緑、黄と色とりどりのかわいいダンゴが並んでいる。「あっ、それウチの。一個食べていいよ」「そう、じゃあいただく。ウチのも食べて」
 『トッケ・ダンゴ(取替えダンゴが秦野言葉でトッケ・ダンゴ)』だった。
 若やいだ声が消え去っても、長老たちは最後まで火燃しをする。「そろそろしまうべえか」と自治会長さんの声で穴を掘り、そこに燃えカスを埋める。そして「ご苦労はんでしたよう(ご苦労さまでした)」で解散。 
 帰り道、もう西の空に細い月がかかっていた。

今夜はダンゴ作り
【No.332】 2005年01月13日

  去年5月に「新聞の読み方」の授業をした中学校の生徒からメールで「講演を聞いて総合で新聞を調べているんですけど、質問してもいいですか? 今でも銅版を使って印刷していますか? 写真版とは、どのようなもので、どのようにつくられるのですか」という質問が来た。横浜にある新聞博物館を紹介した。折り返し返事が来て「行ってみます」。こういう行動力が若さだと思った。それで「帰りに中華街も研究してきたら」と激励した。
 明日は14日、「道祖神まつり」。それで朝のうちにダンゴをさすコナラの枝を取りに行く。今夜はダンゴを作り、飾る。

グランドフィナーレ
【No.331】 2005年01月09日

『広報はだの』が完成。昨夜、その反省会を開いた。反省会といっても事実上は解散会。一人ひとりが編集委員としての思いを発表した。誰の言葉も成就感を感じさせた。
 「市制100周年記念の『広報はだの』を作りたい」と中学生たちが言ってくれた。30代の委員も「100周年記念号にはがんばって編集顧問で参加したい」と笑いながら話してくれた。現実味のある話。私も「あと50年後、このメンバーで『広報はだの』の記念号を作りたい。それまで秦野をもっと好きになるように『まちづくり』をしよう」と話した。
 二次会はカラオケ。中学生たちがうまかった。彼女たちが歌った曲は、
“Forever memories” “No way to say” “sign” “Moments”“VALENTI” “雪の華” “真夏の夜の夢” “真夏の果実”
 まだあったけど取材しきれなかった。
 私は、私のテーマソング「よせばいいのに」。「『新聞づくり、もうよせばいいのに』と周りの人に言われているのに」です。そして「また逢う日まで」でグランドフィナーレ。

七草がゆ
【No.330】 2005年01月07日

 昨日久しぶりに本屋に行った。なぜか辞書が買いたくなったからだ。それでそのコーナーに行ったら、全面改訂の第六版の国語辞典が目に入った。奥付を見たら2005年1月10日第1刷発行になっている。ちよっと嬉しくなった。それで買ってしまった。記者に「夢」を聞かれて答えられなかった私。この買い物が「夢」につながればいい。。『野仏の見方』も買う。 
 「タウンニュース」紙の『人物風土記』、もったいないくらいていねいな記事。礼状を書いた。
 7日、今朝は「七草がゆ」。三が日の雑煮の餅、そして今朝の七草粥の中の鏡餅。餅が好きなバアちゃん、家族の心配をよそに完食。
 春のような暖かさ。私の畑の食用の菜花、背丈は低いのに、もう黄色い花を咲かせている。

普通の生活が始まった
【No.329】 2005年01月04日

2日 お年始。それぞれの家庭で子どもたちが独立していくので来客は5人。それでもいつもの通り太巻き寿司を1升巻く。Sさんが車を置いてきたので少し飲んだ。ゼネコン勤務のSさんは「3回目のリストラがまもなく始まる。今回は危ないかな」と笑う。3時過ぎ、一斉に引き上げていく。宴の後は寂しい。

3日 いつもの通り教え子のMさんが来てくれる。「主人と下の二人の子は駅伝の応援。長女は今日から予備校」とMさん。ヘルパーの仕事をしている彼女の言。「先生 元気で死ななければダメ」。ほんとうにそう思う。
夜「五木寛之と五木ひろし」のテレビを観る。五木寛之が五木ひろしの名付け親とか。番組の終わりに五木寛之が、今の自分が在るのは本当にたくさんの人に助けられたからだと話した。。「一人で生きてきた」みたいに尊大な武勝美には、身にしみる言葉だった

4日 今朝から味噌汁が飲める生活に戻った。バアちゃんの入浴が終わってから、25日の『「寺山ものがたり」を歩こう』の説明ポイントの現状を見に行く。荒れた竹やぶの中「こんなところを案内しても」と思うが、大事な場所だからやはり見てもらうことにする。準備した年賀状が切れたので、午後郵便局に行った。混んでる。普通の生活が始まった。暖かい一日だった。

何となく今年は良いことあるごとし
【No.328】 2005年01月01日

 昨夜は3時間ほどかけて夕食。ビール2本と冷酒を3合ほど飲んだ。「『曙』かわいそうだね。相撲は格闘技じゃないのが分からないのかネエ」なんて話しかけながら飲んでいるから、みんなに嫌われる。

 「紅白」、もう私が観るプログラムではない。歌謡曲・演歌と共にそれぞれの時代を生きてきた私、それは遠い過去になった。「アカシヤの雨がやむとき…」は60年安保。「息で曇る窓のガラス拭いてみたけど…」と石川さゆりが歌っていたころ、教組の役員で主任制の闘争をしていた。

 足元が悪かった、危なかったので初参りには出かけなかった。

 今朝は快晴。だが胃は不快。初日の出を二階から拝む。9時ごろからHP用の原稿を急いで書く。10時半にアップ。年賀状が届いた。十数人が『広報はだの』のことを書いてきてくれた。午後、返事を書き始める。30通ほど書き、あとは夜に。4時過ぎ、ちらちらと小雪が舞い始めた。南の空に雪雲。そしてまもなく西は青空が広がった。昨日の朝から今日の夕方までの天候の変わりようが、今年一年の予感とならなければよいのだが。

 何となく今年は良いことあるごとし元日の朝晴れて風なし  石川啄木

明日からお正月の仕度
【No.327】 2004年12月27日

 昨日の日曜日、高校駅伝をテレビで観戦。母校・秦野高校が女子で15年ぶり、三回目の出場。結果は26位だったが、1、2年生のチームだから「大健闘」と言えよう。今日秦野の商店街を通ったら「秦野高校女子陸上部 感動をありがとう」という手作りの看板が立っていた。

 今日は9時から教育研究所で開かれる研究員会議に参加した。2年かけて研究が進められてきた『秦野の新聞教育』が、明年3月に出版される。その出稿が年明けということで、最後の助言をする会議。

 太平洋戦争が終わった直後の1947年に、秦野の中学校にも学校新聞が誕生している。この研究は、そのころの新聞を見つけ出すことからスタートした。研究員は現役の先生、全員年齢は50歳未満、新聞教育に深い思いを抱いていらっしゃるわけでもない。まさに“試行錯誤”でここまでたどり着いたようだ。そのご苦労は察して余りある。
 2004年の12月に発行されたPTA広報まで、おおよそ60年間に発行された新聞が集められた。「学校新聞も又、時代を反映している」ことがわかる貴重な資料である。
 まもなく冊子になるこの研究収録は、新聞教育にかかわってきた私にとってもったいない、嬉しい贈り物になる。

 今日のこの会議で今年の私の活動は終わり。明日からはお正月の準備。例年ほど寒くないので、今のところ体調は良好。まずはお雑煮に使う里芋掘り。

出張校正 
【No.326】 2004年12月23日

12月22日

 『広報はだの』の出張校正で小田原へ。「出張校正」という懐かしい言葉、そしてその仕事。広聴室のIさんの案内で5人で出向く。

 新聞の出張校正に初めて行ったのは沼津の日興印刷という会社だった。「東中新聞」の校正で昭和39年だった。東海道線に乗り、丹那トンネルを抜けて沼津まで出かけた。。先輩の井沢先生と一緒だったので、なんとなく旅行気分だった。活字を一本一本拾って組版をする時代だった。担当の加藤さんがとても親切だったので、そのころはここに印刷を頼む学校が神奈川県でも多かった。それだけ学校新聞づくりが盛んだったともいえる。伊東市の東海美術印刷にも校正で出かけたこともあった。
 小田原のS社に印刷を頼んだ年、担当のTさんと意気投合し、午前2時まで飲み歩いて帰ったら、「今、警察に捜索願を出そうと思っていた」と真顔の妻が玄関に仁王立ち。「更生施設」に送られるところだった。

 今日は10時から5時までで、4回見ることができた。カラー印刷なので色校正は後日に。4ページ、レイアウトは見事に収まった。空き行は一つもなし。今日の段階では「満点」。17人の力の結集の結果だ。市の車での往復。車体に記されている文字は「秦野市議会」。

ユズ
【No.325】 2004年12月21日

 火曜日はバアちゃんの入浴の日。「もし差し障りなければユズを使いたいが」とお世話してくれる人に聞いてみた。「どうぞ、どうぞ。私たちもユズの入浴剤を今日はもってきましたので」。それでバアちゃんはきのうもらったユズを握り、ユズの香りの風呂に入った。入っている時間がいつもより長かった。たぶん、介護の皆さんが気を使ってくれたのだろう。 
 今日は冬至・ユズ湯。午後、湯河原から届いたみかんの箱にユズが入っていた。「今夜のお風呂に間に合うように」という手紙が添えられていた。

もらひたる柚にも峡の日のぬくみ  木下夕爾
【No.324】 2004年12月20日

  食卓の私の定位置から隣の畑のユズの実が見えていた。12月に入ったころからその黄色く輝く実は、濃い緑の葉影から浮かびあがってくる。今日の昼食のとき、テーブルに着こうとしていつものように窓の外に視線を送った。多分数十はあっただろうユズがすべて消えていた。黄色の背景を作っていた緑が煤けたような色に見えた。
  ほどなくして玄関のチャイムが鳴った。出てみるとユズの木の持ち主のMさんだった。「こっちのほうはユズ湯に。それと、これは落としちゃったので、よかったら食べてみてよ」。割れたユズの香りがたちまち家中に広がった。暦を見たら明日は冬至。
  「煮大根にユズを添える」とこの間の新聞に出ていた。それで畑から大根を一本引き抜いてきた。今夜は「熱燗」にしよう。

今年の冬
【No.323】 2004年12月13日

  私の中ある秦野の季節感が、この冬にはまったく当てはまらない。庭に出ると水仙の香りが強く流れてくる。もう我が家の水仙は満開。庭続きの畑に蒔いた絹サヤが今年は元気がよい。例年なら今頃から霜にいじめられ、成長が止まってしまうのに、生き生きとした緑の葉をもう数枚つけている。まだ里芋は掘りあげなくてもよさそうだ。タカフチ山の色合いも黄や茶色など暖色のまま。きょうは一日かけて柿の木の剪定をした。この作業も例年なら鼻水を垂らして、なのだが。その柿の木、一年経っても幹が太っとは感じないが、背丈は確実に伸びている。脚立に乗っかる姿勢が危なっかしくなっている。
  二学期末になった。この秋に発行されたPTA広報が続々送られてくる。きょうまでに17校。数年前までは二学期号は、運動会や文化祭の写真特集が多かった。今届いている広報は『子どもの安全』『PTA祭りってなんのためにやるの』『親子で読書を』『他にないの委員の選出方法』など、かなり骨っぽい特集が組まれている。頼もしい。

すごい一日
【No.322】 2004年12月08日

 12月7日の私の生活 
  9:00 バアちゃんの入浴サービスが始まる。
  9:15 私の歯の治療。
 10:00前 Mさん家族新聞を持ってみえる。
 11:00 バアちゃんの歯の治療(往診)
 13:00過ぎ 「エコー」を届けに南公民館と東公民館へ。
 15:30ころ T議員突然の来訪、1時間ほど学校教育の論議。(お願いした写真を届けにM先生、加えて教え子のTさんも来訪。T議員と重なってしまい、二人には申し訳ないことになってしまった。)
 18:00過ぎ 学校からの帰りにO先生「エコー」の原稿を持ってきてくださる。

 ・茨城から名産が送られてきた。すぐに礼状を書く。
 ・研究所のSさんから「明日会いたい」との電話。
 ・旅行の請求書がファックスで来る。明細を植木さんに電話し、支払いの準備をしてもらう。
 ・M先生と「広報はだの」の写真の件で打ち合わせの電話。 

そんなに気にしたって、あなた
【No.321】 2004年12月06日

『広報はだの』12月1日号の反響。
その1、鶴巻中時代の教え子からメールが届いた。
その2、同じく鶴巻中時代のPTA広報委員さんからもメール。
「相変わらず頑張っておられますね☆ 髪がちょっと…? 他は少しも変わらずとても懐かしかったです! 私も元気にしています。切り取っておきます。これからもお元気でご活躍下さい(^o^)/~」 そう、自分でも紙面を見て「もう少し整えておけばよかった…」。そんな反省をしていたら、12月4日の朝日新聞の夕刊に「見た目 そんなに気にしたって、あなた」という山口文憲さんのエッセイに出会う。けっこう納得! このページの他のエッセイ「焼酎」、「ほろ苦」、「二枚目」、そして「法政学館」もおもしろかった。エッセイといえば神奈川新聞日曜日の「風ひかる」欄の馬場あき子さんのエッセイも好きだ。

秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は養老渓谷でした
【No.320】 2004年12月04日

所属する秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は12月2・3日に行われた。今年房総の養老渓谷の紅葉がメイン。1日目、筑波宇宙センターを見学する予定が渋滞に巻き込まれやむなくパス。というのは那珂湊港で握りずしの昼食が待っているから。午後は鹿島神宮で今年の納めの参拝をする。午後3時近かったので境内は森閑としていた。奥宮に続く参道が気に入った。泊まりは犬吠埼。二日目は灯台に登り地球の丸いのを確認。銚子市内の見学をして九十九里沿いに下る。一宮で太平洋を眺めながらの魚三昧の昼食。刺身がとろけるように甘い。昨日今日と、かなりのボリュームの昼食だが、キレイに平らげる自分に驚く。周りに釣られてかもしれないが、とにかくおいしいから食べられるのだ。腹ごなしに養老渓谷では川沿いに約3キロメートルを歩く。例年のごとくサロンバスを使った。全員オーバー・シックスティだが、よく飲み、よくしゃべり、よく食べ、元気よく歩いた研修。 
 夜の懇親会の席で、会長から「会員が死亡したときには花輪で弔意を表したい」と提案。多分この提案が励みになって(?)、ますます元気に会になることだろう。大拍手で承認。会員22名のうち16名の参加は過去4回の旅行と比べ最高。来年はどこで紅葉狩りが出来るのだろうか。

 『マンスリーエッセイ』のページに写真をアップしています。

イノ・シカ・チョウとの戦い
【No.319】 2004年12月01日

「丹沢大山総合調査」を神奈川県から委嘱されている日本大学の日暮先生にお会いした。「秦野地方は『水と生活』が調査のテーマになる」ということで会いたいとのこと。それで湧水についての資料を提供することになった。
 東田原の横掘り井戸、寺山・西の久保の天水場、清水湧水池跡記念碑、横畑の松下家のわさび田を案内して回った。 
 松下家では運良く当主の雅雄さんに会えた。農学が専門の日暮先生と「JAはだの」組合長である松下さんとの会話では農業に話が行き着くのは当然。その内容は大変興味深いものだった。
 「農家は今、イノ・シカ・チョウの戦いわしてる。チョウは蝶じゃなく、鳥害だけど」と笑う松下さん。松下家は屋敷続きに竹やぶがあるのに、この春は一本も竹の子を取ることができなかった。竹の子がまだ地中にあるときに猪に食べられてしまうのからだ。
 「鹿も鳥も同じ、実る前にすべて食べてしまう。堆肥を撒いて土を肥やし、野菜を作っても、種を蒔いた時点で畑はすべてひっくり返されてししまう。地中のミミスを食べるからだ。有機野菜など作れない。最初はネットを張り巡らして防いだ。次は匂いの強い化学肥料を撒いた。人声を聞かせるのがよいと教えられラジオを畑で鳴らすことも試みた。すぐに慣れられてしまった。爆竹も使った。カーバイトを使った脅し銃も鳴らしたが、どれもその瞬間だけ。最後の手段として、建築工事の現場を囲う鉄板、2メートルもある高さの、を張り巡らした。さすがに猪も鹿も越えてられない。今は朝、穏やかな気分で家の周囲を歩ける」と松下さん。奥さんが話を継ぐ。「朝、荒らされてしまった畑や藪を見ると、辛くて。悔しいより、寂しい。このお百姓の心が分かりますか。今はほんとにホッとしている」。そして「いつまで“勝って”いられるのか。それと工事費を考えると…。でも畑や山は荒らせない…」

歯の治療 あの音
【No.318】 2004年11月24日

 バアちゃんの唯一の楽しみである食事、その食事のとき顔がゆがむ。入れ歯が合わなくなったらしい。私のかかり付けのSさんに往診を頼んだ。
 きょうで4回目、本格的に治療ということで入れ歯を削ることになった。
入れ歯だから削るにしても外せばいいわけだが、年齢が年齢、そして耳が遠いのだから治療はたいへん。立ち会っていなければいけないので、あのグラインダーの音を側で聞くはめになった。自分の治療ではないのに、歯が浮き、神経がうずく。
 ベッドに横たわっているバアちゃん、聞こえるはずはないのに、この音は聞こえるのだろうか。それとも響いて伝わるのだるうか。それとも、30数年前の治療を思い浮かべているのか、作業中のお医者さんに顔を向ける。まもなく呼吸が荒くなり、目じりに涙が…。入れたり外したりの動作中も涙。こうして、1時間かけ治療が終わった。
 昼食を摂る様子を眺めていたら落ち着いていた。だが、歯の治療はそんなにたやすく終わるものではない。生きてることはたいへん。

新米届く
【No.317】 2004年11月22日

 きのうの午後、宅配便のお兄さんが元気よく我が家に入ってきた。福島から新米が届いたのだった。送り主は教え子のTさん。
 玄関に置かれたその箱を持ち上げようとしたが、そう簡単には動かなかった。なんと30キロのお米。

 今朝、食事の前に目を通していた朝刊の俳句欄に
 「ずつしりと新米届き動かせぬ 渡辺あや子」
 という一句を見つけた。
 長谷川櫂の選評「新米というと軽やかな感じがするが、実際には水分が多いので重い。軽やかにして重たい新米の喜び」
 今朝、その新米は、甘く、しっとりと炊き上がった。 
 きょうは「小雪」とか。この冬は、身も心も温まるご飯を毎朝いただける。

11月18日 満ち足りた一日
【No.316】 2004年11月19日

 もうお正月の準備だ。お隣に植木屋さんが入った。それで庭での枯葉焚きを午前中は遠慮した。
 小さな耕運機(ホントは管理機というのだ)で畑を耕し、そのあとに玉ねぎの苗200本を植えた。昼食を食べていたらポツポツと雨。あわてて庭に飛び出し、桜の落ち葉の山に火をつけた。真っ白な煙が小学校の校庭の方に流れるのを気にしながら、絹さやエンドウを蒔く。雨脚が強くなったが、雨樋の掃除もした。これできょう予定していたことは全部終わった。満ち足りた心。
 夕方、留守電を入れておいた谷津さんから電話。『広報はだの』の4ページを制作するこれからの手順を話し合った。中学生の手書きによる紙面なので、出稿してしまったら校正はほとんど不可能。出稿までが勝負。22日の作業の後、谷津さんが原稿を届けてくれることになった。夜10時近く、4面のリーダーの鎮西さんから電話。22日に集まって本格的に作業を始めるとの報告。谷津さんが出向くから、と伝えたら喜んだ。

市民が作る『広報はだの』 最後の編集会議
【No.315】 2004年11月18日

 市制50周年記念の『広報はだの』の編集会議は昨夜で最終回。担当した面の取材や編集会議を含めれば、各人が10数回がんばったことになる。
11月末には出稿。今夜は各記事を全員で読み、記事を完成させるのだが、取材担当者は、自分の記事に対する思い入れもあるようで、なかなか訂正に応じない。自分らしさを記事の中に表したいようだが、「市の広報」という枠があることで納得してもらう。編集の責任者として、一人でも多くの市民に読んでもらう紙面づくりを再度お願いした。小学生でも読める平易な文、魅力的な見出し、この二つの作業に集中してもらった。
 4面は中学生の手書きのページ。その中に4コママンガが入ることになっている。担当は中1のUさん。今までに10回以上描き直してもらっている。吹きだしの中の言葉にもかなりダメを出した。だがUさんはめげない、ふてくさらない、ひるまない。彼女の若さ、しなやかさがうらやましい。

桐生好幸君
【No.314】 2004年11月17日

 11月6日に開かれた同窓会に出席していた桐生好幸君が、交通事故に遭い、亡くなってしまった。15日の朝、信号待ちしていた彼の車に大型トラックが突っ込んだ。前の二台も大型車だった。
 同窓会の夜、私が席に着くとすぐに声をかけてきたのが桐生君だった。「お久しぶりです。お元気ですか」と彼。「なんとか元気。やせたんじゃない? 元気なの」「この通り、大丈夫です。けっこう仕事が忙しいんです」。こんな言葉を交わしたことを思い出す。
 49歳、4人の子の父。彼の霊に捧げる言葉が見つからない。

県学校新聞コンクール
【No.313】 2004年11月09日

 第54回神奈川県中学校・高等学校新聞コンクールの結果が今朝発表になった。中学校・学校新聞の部では最優秀賞が秦野・大根中学校で、これは4年連続の栄冠の快挙。ほかに秦野市からの入賞は優良賞・東中学校、佳作・北中学校、努力賞・鶴巻中学校だった。学級新聞は川崎市が圧倒。最優秀から佳作まで7つを独占。秦野は努力賞に鶴巻中の1年生のクラスが入った。 応募数や入賞校の地域をみると、中学校が新聞づくりが出来る環境でなくなってきているように思える。こんな今だからこそ、新聞が果たす役割を先生たちに理解して欲しいのだが。 
 今年の新聞週間の「新聞広告を広告する」コンテストのキャッチコピーは『世界を前より平和にしたぜ』だった。新聞広告だけでなく、新聞そのものがこんな自信をもってくれたら、学校での新聞づくりも復興すると思う。


今年は都大路を走る秦野高校
【No.312】 2004年11月08日

 駅伝のシーズンになった。暮に京都で行われる全国高校駅伝、新春の箱根駅伝、そして同じく京都を走る都道府県対抗女子駅伝と楽しみが続く。
 その高校駅伝の県の予選会が6日に行われた。そしてなんと女子の部で秦野高校が15年ぶりに優勝した。5連覇中の白鴎女子にわずか1秒の差で勝った。見事というしかない。男子の部でも秦野高校は6位、こっちも7着の横浜高校と同タイム。上位6校は関東大会に出場できるのだから、横浜とは天国と地獄の差。秦野高校の陸上部から1500bの石井隆士選手、女子マラソンの小幡選手が出ている。
 その秦野高校の全校マラソンは私の在学のころから行われていた。当時は土屋橋往復の1万メートル。まだはるか彼方が折り返し点というところで、トップ集団の陸上部の海老茶色のランニングシャツに出会う三年間だった。

小田原経由鶴巻・陣屋行き
【No.311】 2004年11月07日

 昨日午後、小田原駅前の八小堂書店で「『夢の本』フェア」を開いている夢工房の片桐さんを訪ねた。秦野で小さな出版社を15年前に興した片桐さん。丹沢山麓や箱根、小田原などの生活文化や自然に力点を置いた出版活動を続けているのが「夢工房」の特色。今までに400冊も刊行してきている。私の本も4冊並べられていた。そして鶴巻中がお願いした創立10周年誌と研究集録も置かれていた。 
 そして5時から鶴巻・陣屋での同窓会に出席。ちょうど50歳になった彼ら。小惑星を6個発見した天文家、今話題の品川・Pホテルの調理部の課長、前田夕暮研究をしている大学の先生、ゴルフ場の支配人、歯科医、幼稚園長、消防署員、学校の先生、介護士、JA勤務、農業、教員など顔ぶれは多彩。そろそろ親の介護が始まる年代、何人かの女性からそんな話をきかされた。男性は「リストラ年代」を強く意識している。子どもが外国で学んでいるという報告が二人からあった。そんな時代でもあるが今。
 余興の餅つきに興じた。小室さんと私をまぜて41名全員が二次会に出た。11時過ぎまで飲んだがカラオケは回ってこなかった。

浦佐からの便り
【No.310】 2004年11月04日

 きょう、10月25日の日記に記した浦佐のOさんから便りが届いた。

 お電話ありがとうございました。「中越地震」には、本当にこわい思いをしました。22日に退院をしてきて、23日に地震にあつてしまいました。車椅子に移ることも出来ず、部屋に二人で、じっとしていました。幸い怪我もなく、ここが一番安全だと思えます。 
 ここ数年、いろいろ病気になりまして、現在はベットにいます。電話での会話も出来ないので失礼しました。
 今年は、新潟に来てもらえると楽しみにしていましたが、残念なことでした。浦佐は「湯沢−長岡」の中間の震源地の近くということで、きついゆれが幾日も続きました。さすがの新幹線も、地震には勝てませんでした。今日もまだ余震があります。 
 皆さんにご心配をおかけしましたが、もう大丈夫、落ち着きました。訪問往診も、看護師さん、ヘルパーさんも、みなさん予定どおり来てくださいます。地震が落ち着きましたら、どうぞ新潟にお越しください。お会いしたいと思います。
  平成16年11月2日  

きょうは『十三夜』
【No.309】 2004年10月26日

 昨夜出かけたある会で、知人のAさんから「明日の晩楽しんでください」とプレゼントされたものがあった。帰ってきて開けてみたら『秋の宵』というラベルの日本酒が入っていた。
 そう、きょうは『十三夜』なのだ。昼過ぎ、雨の中を月見まんじゅうを買いに出た。いつもの和菓子屋さんに行く。この店は店先にススキをバケツに入れて置いている。それが「きょうは十五夜だよ」「十三夜のマンジュウがあるよ」という知らせになっている。「ススキを取りに行けないから」と言ってススキとフジバカマをもらった。女主人が店内の月見飾りのシュウメイギクを一本付けてくれた。
 我が家の月見飾りには庭の柿も一個供えた。お豆腐を買うのを忘れたけど、『秋の宵』があるから、お月さんは許してくれるだろう。さて「今宵は」残念ながら雨。

浦佐・小千谷
【No.308】 2004年10月25日

 今週の27・28日、大学時代の仲間のひとりOさんを新潟の浦佐に訪ねることになっていた。10年ぶりになるのだが、四国・今治からKさん、山形・尾花沢のSさん、東京のNさん、そして私の4人が体を不自由にしているOさんを見舞うことにしたのだった。 
 27日は4人で湯沢温泉の「雪国」の高半ホテルに泊まり、旧交を温めることになっていた。紅葉も見ごろかもしれない、と楽しみにしていた。ところが小千谷を中心にして起こった大震災。
 Nさんはその小千谷で育ったのだ。学生のころNさんの家に泊まり初めてスキーをした。浦佐のスキー場はOさんに連れて行ってもらった。その小千谷と浦佐に行けることになっていたのに。Nさんと話し「来春に」ということにした。きょう22日の消印のはがきが尾花沢から来た。「27日に逢えるのを楽しみにしています」とあった。

昨日のテレビに、村田防災担当大臣(だったと思うが)が新潟県知事と会っている画面が出た。二人とも防災服だった。この大臣を迎え握手をした人たちが数人いた。その人たちは背広だった。そして襟元にバッジが。 
 どこの局だったか、被災地の現場から背広ネクタイでその状況を報告しているレポーターがいた。

 浦佐にようやく電話が通じ奥さんと話が出来た。Oさんは22日に退院したところだとのこと。「二人がいる部屋だけは何とか動けるように整理が出来た。他の部屋は今は手をつけない。当分ほっときます」と比較的明るい声。「二人だけの生活だが、余震が続く中でも、看護師さんが見回ってくれる。みんなに助けられていますから安心です」とも。Oさんは3度目の脳梗塞を起こし、言葉を口に出せない。私の声だけは聞いてもらえたようだ。がんばって欲しい。

〇×クイズ
【No.307】 2004年10月21日

 秋は学校祭のシーズン。先週の土曜日、お隣の東中学校では校庭で、保護者も加わっての「〇×クイズ」が行われたようだ。(司会者の声がスピーカーを通して我が家にも届いた。)
 クイズの第1問は「東中学校が出来たのは昭和20年より前だった」。そして校歌の作詞者が問われたり、一番若い先生が尋ねられたり。 
 そんな問題が3つ続いた後(多分4問目だと思う)「東中新聞ができたのは昭和30年より後である」という問題が出された。
 東中の卒業生であり、東中新聞をつくってきた私は「へー、スゴイじゃない。やるじゃない!」という言葉が思わず口を突いて出た。学校新聞が全校生徒が答えるクイズとして出題される東中学校。『東中新聞』は学校生活の中で当たり前に生きているということだ。
 新聞づくりをしている中学校はたくさんあるだろうが、学校新聞の活動がクイズになるというのは、稀だと思う。
 『東中新聞』は9月30日で発行号数758を数えた。

ジョウビタキがもう帰ってきた
【No.306】 2004年10月16日

 高校の先生から手紙をもらう。「学校の改編が進みます。そうでなくても雑務ばかり増え、生徒と係わっているヒマ(おかしいですよねこの言い方、でも現実はそんな感じなのです)もありません。雑務の合間に授業に行っているという感じです。本校も三年後なのですが、状況によっては早まるかも知れず、先が見えない毎日です」。「来月、大山にフィールトワークに出かけれので」とのお誘い。ありがたいこと。
 教え子が進路相談?に来た。中学校は中間試験が終え、「あと一と月後に期末。ぴりぴりしている」らしい。「親子で浮き足立ってしまうのはいけないと思って」と2時間ほど話していった。 
 きょうの予報はまったくはずれ。秋日和のはずなのに、寒い。バアちゃんは寒がり、というより、右足に金属が入っているので血行がよくない。足先が冷たい。それで電気毛布にした。 
 こんな気候だからなのか、裏のしげみから「ヒッヒッ」とジョウビタキの声。もう帰ってきたのだ。

昨夜の我が家のできごと
【No.305】 2004年10月13日

 バアちゃんの部屋から声が聞える。駆けつけてみると、ベッドの上に起き上がりテレビを見ている。イヤホンを着けているし、視界がたいへん狭くなっているので、私たちがそばにいることに気が付かない。
 「一生懸命生きている」。バアちゃんのしっかりとした言葉が口から出た。「ああ、また何か言いたいのだな」と思った。
 3か月くらい前だったろうか。「私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と、ベッドで天井を見据えて発した怒声。介護の仕方が気に入らないとも取れるこの言葉に、二人はうろたえた。悲しかった。
 今夜もまた何か言いたいのだろう、と耳元に口を近づけようとしたら、バアちゃんの口から続きの言葉が…。「あなたの姿が道しるべ」。
 テレビには歌っている川中美幸の姿。そしてその歌詞がテロップで画面の下を流れている。それを大声で読んでいたのだ。妻とうなづきあった。   「バアちゃん 歌を歌ってたのか」と聞いた。「そう、この歌 知ってるから歌った」。 
 どうヒイキめに聞いても、それは歌にはなっていなかった。バアちゃんの愛唱歌は「りんご村から」(三橋美智也)と「星影のワルツ」(千昌)。川中美幸の歌なんか知らないはず。それとも、ライフプラザで覚えたのだろうか。 
 昨夜の我が家のできごとでした。

台風22号
【No.304】 2004年10月11日

  台風22号の我が家の被害。建物はなんとか無事。実は「屋根が飛ぶ」のではないかと恐れていたのだった。築35年の日本建築、まだ持つとは思っているのだが。近所の土地が分譲住宅になり、風除けの立ち木が全部切り倒された。だから我が家は南西の風の通り道。
  その風に何とか耐えた二階家に代わり、庭の藤棚がひっくり返った。甘夏の成木も3本倒れた。5メートルくらいのハナミズキが傾いた。庭続きの畑の大根や菜っ葉類は吹きちぎられ、影も形も無い。庭の隅々、軒下に大量の木の葉が吹き寄せられている。どうする? 乾くまでガマン。
  今日は藤棚をつくり直し。スチールのパイプを全部組みなおした。絡ませる藤の枝を思い切り切詰め妻に叱られる。この春、枝垂桜の枝打ちをして、枯らしてしまったからだ。「桜切るバカ」だったのだ。この藤は5年前に植え替えたのだが、動かすのに大変なので、直径10センチほどの根を、地中30センチほどのところで切って移植した。それでも見事に根付き、紫の房を数十垂らした。バカみたいな話だが「この藤は根を切られたことを知らないんだ」と、そのとき思った。
  延び延びの幼稚園の運動会が11時ごろから始まった。何とかきょう終えたいのだろう。音楽が流れてくる。ソーラン節が踊られているらしい。隣の小学校も、裏の中学校もソーラン節を踊った。はっぴ姿の踊りになぜか惹かれる。のぞきに行った。退場の音楽が「ねぶた」のお囃子。津軽は22号の影響は少なかっただろうか。

「エコー」のHPは4年目に入りました
【No.303】 2004年10月08日

 ホームページをアップして昨日で丸三年が経ちました。おかげさまでアクセスは3万を超えています。数字だけを意識しているわけではありませんが、カウンターの数字が変わることは確かに励みになります。 
 アクセス数を稼げる内容ではない「ECHO」。でも、その編集姿勢だけは一貫したものでありたいと願っています。

 これからも時々お寄りいただければ幸甚です。そして、ご声援をいただければいっそう嬉しくなります。

日本全国日刊新聞盛衰順序番附
【No.302】 2004年10月05日

3日、さいたま市で開かれる「関東パピルス」の総会に出かけた。午後3時集合なので、うらわ美術館でおこなわれている『創刊号のパノラマ』という展覧会をのぞいた。雑誌類の創刊号が2900点あまりが岩波書店で保管されているのだそうで、その中から「表紙の美しいもの、目をひくレイアウト、時代を映すカットや挿入写真に着目」して1500冊がここで展示されたようだ。
 昭和34年、私は『新しい青年』(文化堂出版)という雑誌の創刊にかかわった。もしかしたら『新しい青年』に会えるかもしれないと思ったのだったが。慶応3年から昭和31年までのものしか展示されなかった。
 会場の人影はまばら。ゆっくり眺めることができた。閲覧用の雑誌もあったので何冊が広げてみた。その中の一冊に宮武外骨が昭和6年に創刊した『面白半分』があった。奇人とも言われているこの人の雑誌である。パラパラとめくっているうちに「度胸満点」、私には興味津々の「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」という特集が載っていた。それでノートを取り出し、それを写し始めた。すると監視の女性がおずおずと近づいて来て「ペンをお使いになるのはご遠慮ください」「すみません、それじゃあコピー…、もちろんだめですね」「はい、受付にいらっしゃれば鉛筆と紙はご用意いたしますが」とてうわけで、その番附表を彼女の視線を浴びながら書き写したのでした。展覧会や展示会で座り込んでメモを取ったのはこれが初めて。     「パピルス」の会は新聞教育の会。その会に出かける途中でよい取材ができた。雨もなんのその、けっこう心は弾ずみ会場に到着。「動かなければ…」です。
 「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」とは新聞のランク付け。外骨氏のこの評価は、後日ホームページに載せます。乞うご期待!

イチローくん
【No.301】 2004年10月02日

 去年ひそかに思った。生きているうちにドラゴンズの優勝は見られないな、と。だから昨夜優勝が決まったことに喜びを感じなければいけないのに、そうにはならなかった。とにかくテレビ中継が観られなかった。パ・リーグのプレイオフと巨人・ヤクルト戦、たしかにヤクルトが負ければドラゴンズの優勝が決まるのだから、アナウンサーが興奮してしゃべったように「世紀の戦い」の放映なのだろうが。 
 テレビ中継なし、しかも負けたのだからドラゴンズフアンとしては、喜びは中途半端。ビールかけは見る気がしなかった。それでも、今朝スポーツ紙を買いに走った。それは『報知』が何をトップに置くかに興味があったから。『報知』、『ニッカン』、『スポニチ』などスポーツ紙全紙が「ドラゴンズの優勝」がトップだった。つまらなくなった。昔の『報知』は、こうではなかった。
 2001年10月1日、「高橋尚子がベルリンマラソンで世界最高タイムで優勝」したことを「報知」以外の全スポーツ紙はトップにした。だが『報知』は「長嶋監督引退」で1面全ページを埋めた。これが『報知』だったのに。

 イチローをここ数日追いかけていた。今日は11時20分まで庭で草取りをして、家に上がってテレビを見たら、イチローの登場、そこでヒット。運がよかった。その瞬間が見られた。258本目のヒットのとき、イチローが穏やかな笑顔を見せ、フアンにあいさつした。ジーンときた。 
 イチローといえば秦野にもイチローがいる。行列のできるラーメン店『なんっ亭』の古谷一郎さん。西中で彼に英語を教えた。その、彼の店が売り出している即席めんを今日の昼に食べた。店の看板に「うまいぜベイビー」とあるが、けっこういける。だが、まだ店に行ったことはない。1時間も並ぶ我慢が私にはできない。 

 「並ぶ」と言えば、お隣の小学校は今日は運動会。朝6時半の開場を待って午前2時ごろから行列ができたようだ。それを確かめに朝5時半ころ、正門まで見に行ってきた。(野次馬根性ではなく新聞記者魂からなのです)50人以上が並んでいた。おじいちゃんおばあちゃんの一組も。母親の姿はちらほら。先頭のグループはキャンピングテーブルを囲んで、どうやら前夜祭をしたようだ。私の姿を見て「武先生じゃんか」と手を振ってくれた教え子たち。「こうして並ぶのも子どものため」と彼らは笑っていた。東小運動会の風物詩「校庭の場所取り行列」。

9月の終わりの日
【No.300】 2004年09月30日

 庭の桜の梢が透けて見えるようになった。タコーチ山の色がほんの少しだけ変わり始めた。ゴルフ場の取り付け道路のガードレールの白がはっきり見る。だが、これは台風のせいだけではない。今日で9月は終わり。たしかに秋の気配が感じられる。
 今日は台風が持ち込んだ30度の気温。午前中は入浴サービス。イチローのバッティングを昼休みに観た。午後は往診の日。木曜日はバアちゃんで一日が終わる。
 『HP・エコー』のアップ。印刷版『エコー』を受け取ったが、封筒に切手を貼っただけ。封入は明日から。前から気になっていたの食堂の蛍光灯のシェードの汚れ。急にその気になって洗った。秋灯下、読書でもするのならいいが、晩酌をするとすぐ眠くなる。テレビも観るものはない。今夜だって、ドラゴンズが優勝するかもしれないのに放映はされない。ヤクルトはフジテレビ系ではないか。放映したっていいだろうに。優勝が決まったら、明日のスポーツ紙は全種類買う。

『広報はだの』の取材で丹沢へ
【No.299】 2004年09月26日

  25日の午後、『広報はだの』の取材で丹沢ホームに中村道也さんを訪ねた。その一行は9名で、「丹沢と秦野の名水」をメインテーマにした4面を担当する鎮西、野中、相原、高橋、浦田、谷津さんの6編集委員、そして私と中学生新聞の記者のSさん。車2台なので野中さんのお父さんにドライバーとして協力してもらった。記者Sさんの同行は「野中、相原、高橋、浦田の4中学生記者の取材活動」を取材するため。
 森と水の話をたくさん聞かせてもらった。「川をキレイにする活動はもちろんして欲しい。だけど若い皆さんにもっともして欲しいことは、森と水のことを正しく勉強することです」という中村さんの言葉が私たちの心に強くひびいた。 
 帰り道、中村さんに教えてもらった湧水を見に回った。山肌から湧き出す湧水は滝のようだった。傍らにある橋の名は「清滝橋」だった。

足長きのこ
【No.298】 2004年09月22日

 金木犀の花は突然咲く。昨夜その香りはかすかだったが、今朝はもうこの部屋にまでさわやかな風に乗って流れ込んでくる。「ある日突然自己主張をはじめる花」(『花おりおり』)とある。金木犀が香ると、その傍らにある椿の木の下にミョウガが紫色の芽を出し始める。
 昨日、教え子のKさんが『足長きのこ』をたくさん持ってきてくれた。富士の裾野まで採りに行ったのだそうな。このあたりの山でも『足長』は生えるのだが、特定の人しか採ることはできない。毎年出る場所は同じなので、その場所は他人には教えないからだ。『足長』の季節になると「利一っあんは『足長』の出る場所を教えねえで逝っちゃったよな」と残念がるのが清水庭の年配者たち(私くらいの年齢の者)。  
 そういうわけで、夕飯は急きょ『足長』の「きのこそば」になった。台所に立ったのは私。「そば」のときは私の出番。『足長』をナスと玉ねぎと一緒に油で炒める。それをそばつゆに入れる。ミョウガも刻んで使った。水煮の『足長』は売っているが、天然物は我が家には10年ぶりくらいか。うまかった。Kさんに心から感謝。みのりの秋だ。

 ◇「お弁当の思い出」 投稿がありました。
 お弁当といえば、鮮明に浮かんでくるのは小学校四年の頃の手作り「いなり寿司」。母が2週間ほど東京に出かけて留守中、妹の校外学習(太宰府辺りに遠足)に当り、じゃあ、いなり寿司でもと、初めての試み。四角いアゲを対角線上に切り、薄味でよく煮こんで、味はなかなか。寿司飯もまあまあの味。さて、ご飯を詰め始めたところ、どんどん入りなかなかしっかりまとまらない。かなり大きくなってやっとまとまり、これを2個作り深みのある箱に紅生姜やパセリ、蜜柑の輪切り等で綺麗に飾り詰めた。しかし、その大きさたるや我ながら驚いた。 その日、妹が帰ってきて「お姉ちゃん、あんまり大きいので恥ずかしいから隠れて食べたよ!」とのこと。もっと小さいアゲを買えばよかったのに、その時大きいのしかなかったのか、一辺が14cm位の四角いアゲを三角に二つに切っただけ。ご飯は五合炊いたのにかなり減っていた。料理の本を見てやるわけでもなく、いい加減な私を物語っています。この時以来一度も「いなり」を作ってない私です。
 
  S.Sさん、ありがとうございました。

 

彼岸入り
【No.297】 2004年09月19日

 朝から秋空に百舌の声が鋭くひびきわたっている。
 彼岸の入り、墓参りに行く。いつものとおり、隣近所の家の墓にも線香をあげて回る。あらためて各家の墓碑を読んだ。Tさん享年59歳、Rさん61歳、Mさん62歳、Sさん64歳、Yさん68歳。みなさん同じ組内で、朝夕言葉を交わし、道普請など一緒にした人たち。私も鬼籍に入っておかしくない年齢。 
 昨夜NHKの「最長片道切符の旅」を見た。
 「遠回り、遠回りをしても、結局終着駅はあるのだ。旅の途中で出会った人と再び会うことはない。人生は旅」そんなことを思った。

お弁当と言えば
【No.296】 2004年09月18日

 この四月から、市内の4つの中学校で注文弁当システムが取り入れられた。そんなこともあって、ある中学校のPTA広報が、先生たちに「お弁当といえば」という題で書いてもらっている。それぞれ思いいれがある言葉で興味深い。そのいくつかを紹介すると
 「母はいつも朝早くから畑仕事に出ていましたので、祖母がお弁当を作ってくれました。母に『たまにはお母さんのお弁当がたべたい』と無理を言ったことを思い出します」
 「今のように食生活が豊かでなかった時代のお弁当。鯨カツ、魚肉ソーセージが思いでのおかず」
 「お弁当と言えば、私は揚げ玉子。中学生のとき、一度好きといって以来、毎日続いた一品。『もう勘弁!』と思っていたのに、今は食べると涙が」
 「週に一度、部活の仲間とお弁当のおかずを取替えて食べた。友達の好きなおかずをわざわざ作ってもらった」
 「お弁当一面にノリがあるとうれしかった。それに煮カツがおかず、最高でした」
 「腐ったもの以外残したことはありませんでした。大好物は玉子焼きでした」
 「テニスの大会のために朝5時に起きて作ったお弁当。それなのに試合場で会った娘は『おかあさん、お弁当落とした!』」
 「子どものお弁当作りを14年間も続けなければいけないと気づいたとき、ため息がでちゃいました」
 「私にとってのお弁当は、結婚以来欠かせない毎朝のお仕事。2個から6個、そして3個、我が家の歴史を語る数です。心を込めて『愛の宅急便』
を…、でもあと何年続くのでしょう」
 「できるかぎり手作り弁当を心がけています。お弁当を開いたとき、作った私を思い出すように心をこめて。でも子どもたちはたまにあげるお弁当代の方がうれしいようです。悲しい」
 さて私の「お弁当といえば」は、
 小学校の校庭の通用口まで10メートルだった我が家。だからお弁当は作ってもらえなかった。お昼の時間になると「弁当食べに行ってきます」と先生に断って家に帰った。正月明けの昼ご飯は朝の雑煮を温め直したもの。我が家では、焼きざましの水餅を二月中ごろまで食べていた。そんな食生活を思い出します。
 あなたのお弁当の話を聞かせてください。

30000
【No.295】 2004年09月14日

笠井さんからこんなメールが入りました。

「29999番目の来訪者でした。記念すべき30000番目はどなたでしょうか?現在1名来訪中。一度抜けてまたアクセスすれば、私がなれるかも。」
30000番の方、よろしかったらお声をください。

私の心は揺さぶられる
【No.294】 2004年09月14日

 10日に大井町で行った広報クリニック、その参加者からのメールをもらった。
「今日は有り難うございました。久々に広報の事を思い出して、とても楽しい2時間を過ごさせて頂きました。また今回は2年前と違って、余裕をもって他校の作品を見ることが出来、また違った観点を発見する事が出来ました。それにしても、先生の飽く無き広報への情熱は、素晴らしいものですね。人との出会い、文章に込められた人の思い、沢山の家族のエピソード、声、そして沢山の人たちの広報に対する思い、情熱が、先生のパワーの源なのだなと強く感じました。私も今日の経験を今後の広報活動に生かせるよう、頑張っていきたいと思います」
 
 前教育長さんから碑建立のお祝いの手紙をいただいた。『高清水』のSさんから「219号を大切にします」とメール。Oさんから『地名から歴史を読む方法』という新刊のプレゼント。
 Nさんから自宅近くにある大山道の道標についての情報がメールで届く。この道標には地名「金目」を「かない」と、ひらがなで書いてある貴重な
資料の道標。しかも地元のお年寄りはその「かない」を「かねえ」と発音するという、そんな内容のメールだった。
 「碑で一段落」という『寺山ものがたり』への私の心は、皆さんのこうしたご厚意で揺さぶれら、高められていく。

幼稚園のお母さんたちのPTA広報発行にかける思い
【No.293】 2004年09月07日

 明日は秦野、金曜日は大井町での広報クリニックの準備ため、昨日今日でPTA広報を36紙を読んだ。年度第1号の発行には、苦しみや戸惑いはあったのかもしれないが、どの紙面も委員の一生懸命さが伝わってくる。既に2回の発行を終えているところも4PTAあった。その中の一紙、『なかよし』という幼稚園の広報紙の編集後記にこんなことが書かれていた。
 「広報委員の仕事も内容もわからず始まった『なかよし』の準備。どんな内容にしようかと、今まで発行された55号の『なかよし』を読み返してみた。第1号から半分くらいまでは、先生が書いて発行。それ以降は、父母に原稿依頼したりして広報委員が先生に替わり発行するようになったようだ。ここ数年の『なかよし』は、広報紙から離れ文集のようなものになってきていると思った。このまま流されていいのか。広報委員は、毎年広報づくりの研修会に参加し、広報の意義を教わった。今年はその教えに沿った広報づくりをしようと思う。父母のみなさん、職員のみなさん、ご理解とご協力のほどよろしくお願いします」
 そして、6月1日に40ページの文集形式のものが、7月1日には10ページの号外が発行された。

 昨日の神奈川新聞の『自由の声』欄に私の投稿「湧水の地をしのぶ記念碑建立」が掲載された。8人から反応があった。

9月4日 ちはるさんの結婚式
【No.292】 2004年09月05日

 「エコー」219号を今朝投函。8月の後半は記念碑のことがあって、編集作業は大幅に遅れた。
 10時10分、ちはるさんの結婚式のために横浜に向けて出発。東名・横横・首都高と走るので時間の余裕をみて出かけた。ところが「みなとみらい」まで50分強で行ってしまった。1時から挙式。このホテルは一階ロビーをキリスト教式の結婚式場にしている。だから、ホテルに出入りする人は誰でもその式が眺められる。式の最中、吹き抜けの階を見あげたら100名くらいのギャラリー。同じフロアにはオープンカフェもあり、お茶を飲みながらの見物人もいた。眺めているのは、老いも若きも、ほとんど女性。なんとなくうなづける。31階のレストランで食事をとるのだろう団体さん数十名の好奇心もそそったようだ。ちはるさんも新郎も見栄え十分だったのでここで式を挙げたかったのだろう。それにしても、こんなに衆目に晒される中で式を挙げるなんてリッパ。そして、そして「親は大変だ」と思った。

これでいいの 新聞社のみなさん
【No.291】 2004年09月03日

 PTA広報クリニックで松田町へ。幼稚園から中学校まで5つのPTA広報委員会が参加。1学期に発行された広報の全ページについて診断した。「広報は初めての経験」という委員たちが一生懸命作っていることは十分読み取れる。でも「もっといいものに」という思いから、知らず知らずのうちに辛口になってしまった。それが次号につながってくれることを願うのみ。
ある幼稚園の広報はイラストいっぱいの楽しい紙面だった。こういう特技をもっている人たちが広報づくりに興味を持ってくれると、あたらしい形の広報が生まれそうだ。これから、に期待していいのだろう。
 今年の新聞週間の標語は「一面から 読むようになった 十五の夏」。「新聞は? そこから始まる 家族の会話」が新聞配達標語。
 NIEそのもの標語だと思う。新聞の使命感などいまさら言う必要はないのでしょうか、新聞社のみなさん。

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