- 寺 山 だ よ り -

この四日間
【No.1259】 2016年04月22日

4月21日
 午後6時から「まほら秦野みちしるべの会」の28年度の総会。13名の出席で82%の高出席率。総会後に編集が進行中の10周年記念誌に寄せた各人が自分の原稿の最終校正をした。

4月20日
 市P連主催の「PTA広報紙づくり講座」の打ち合わせを情報委員会の正副委員長さん三人と。このお三方は昨日に続いての来訪。「昨日の今日では、大変だろうな」と思った。だが意欲、気力は十分。これに私もしっかり応えなければいけない。

4月19日
 市P連の新旧情報委員会の三役が挨拶にみえた。「道祖神ワンダーワールド」の二校を渡す。三校もお願いした。

4月18日
 海老名市教育委員会の「広報づくり講座」。社会教育団体にも参加の呼びかけがあり、100名を超える出席者。終了後の場内に『余韻』を感じた。主催者の4名が聴いてくれたことは嬉しかった。

私も“シーズン・イン”
【No.1258】 2016年04月15日

4月14日
 広報づくり講座はきょうが今年度のスタート。大井町教委の主催。幼・小・中のPTA広報委員、自治会、福祉の会、子供会など地域の各種団体の広報担当の人たちも出てきてくれる。30数名の出席。質問が3。終わってからも相談が。
 帰りがけに生涯学習課長さんから「大井町の道祖神」というリーフレットをプレゼントされた。発行日は平成28年3月。
 昨年のこの講座で「大井町の道祖神」の話をした。(自治会の広報紙に「どんど焼き」の記事があったので) それを受けて編さんされたのだ。“道祖神大好き”の私にはとても嬉しい出来事。
 6月上梓予定の『道祖神ワンダーワールド』は二校に入っている。この本には、大井町の道祖神も採り入れている。読んでもらわなければ。


4月13日 
 私もシーズンイン。「みちしるべの会」の5人で「大山道」を案内して歩く。
 「古道・大山道を歩く(東地区寺山)」― 路傍の神仏を訪ねて
  主催:秦野市立東公民館  協力:まほら秦野みちしるべの会
  日時:2016年4月13日9時〜15時  参加者:総勢で21名
 コース
 東公民館→ 波多野城址→ 双体道祖神→ 地神塔→ 才戸石碑群→ 双体道祖神→ 大山道道棟→ 松下家(古民家)昼食・ミニ講座→ 武邸の屋敷神→ 道祖神(久奈斗大神)→ 清水湧水池跡碑→ 地神塔→ 大山道道標→ 西の久保偉湧水→ 馬頭観音群→ 度申塔→ 束公民館・まとめの講座
                                  
 私の担当はミニ講座「寺山の地名 ・てふ塚のお婆 ・タコーチ山」
    まとめの講座「金目川は加奈比可波」
      現地説明「地名から波多野城の所在地を探る」「武邸の屋敷神4基」
  
 東地区在住の教え子が二人参加してくれた。きょうがきっけで「秦野の歴史や民俗」に目を向けてくれたらと思い、「一緒に勉強しよう」と声をを掛けた。          

今年度最後の「PTA広報づくり」の仕事
【No.1257】 2016年03月29日

 今年度最後の「PTA広報づくり」の仕事。Z市の広報紙コンクールの審査。審査員は6名で最終責任は私。16紙の参加。オールカラーの業者印刷もあれば自校印刷も。予算も最高20万超から16000円とまさに千差万別。PTA広報紙の使命はかなり意識されたものが多い。全紙、子供の写真の掲載についてはかなり神経を使っている。発行日が学期末に集中しているのは少々残念。

彼岸
【No.1256】 2016年03月21日

3月20日 彼岸の中日。朝は小豆飯。従兄弟のKさんか墓参りに来る。「ずーっと、おじいさんとおじさんに線香を上げに来ていない。それが気になって」と言う。7年ぶりの来秦である。墓前に缶ビールとカップ酒を供えたKさん。「酒飲みの話」に花を咲かせた二人だった。

 芹薺都会にもある故郷の香 
 新聞の「俳壇」で見つけた40年来の新聞教育の仲間・鈴木さんの作品。
 この一年ほど会っていない。それで嬉しくなり電話を入れた。喜んでくれた。だが俳句の話は少しで、今の新聞教育への鈴木さんの思い入れを聞かされた。鈴木さんは新聞づくりの実践家、今も中学校の教室で新聞づくりの講座を持っている。「子供たちが作った新聞によって学校・教室がどう変ったのか。それが検証できないようなこのごろの学校・学級新聞を嘆く。同感!
「今年は200冊読破が目標」と言う。この日も図書館に行ってきたようだ。

3月11日 忘れてはいけない 風化させてはいけない
【No.1255】 2016年03月11日

3月11日
東日本大震災の日から五年が経った。

新聞の「歌壇」に掲載された半杭螢子さんの歌
2010年6月 原発十基立つわがめぐり新幹線も通らぬ町に黙深く住む    
2011年   わが町はチェルノブイリとなり果てし帰るあてなき難民となる
2016年3月 きさらぎの夜空を照らす満月は住民ゼロ町富岡照らすや
      二十年住み慣れし家荒れ果てて原発避難の五年の哀し

きょう発行されたPTA広報『西のいぶき』は『自分の命、守れていますか』の見出しで「今日で五年 東日本大震災」の記事を書いた。

 『ECHO』329号に私なりの「3月11日 忘れてはいけない・風化させてはいけない」を記した。そしてきょう発送。

啓蟄
【No.1254】 2016年03月07日

 3月5日は「啓蟄」。
 裏の畑がが黒土になった。トラクターが褐色の畑を走り回り、黒土が広がっていく。そのトラクターの動きを追うように、あるいは避けながら、カラスが10羽ほど耕された土の上を歩き回っている。掘り返された土から出てくる収穫し忘れた落花生の実を拾っているのだ。白セキレイはどうやら這い出てくる虫を狙っているらしい。
 この日、私の部屋の窓に「カメムシ」が付いているのを発見。そして6日もまた一匹。「啓蟄」である。
 農事暦に「啓蟄・虫が這い出るころ」が取り入れられているのは、単に虫が動き始めるという意味ではない。今朝の新聞のコラム欄に「昆虫がわが国の農業にもたらす利益は4700億円と試算されている」とあった。春になって虫が動き出してくれるから、青虫が蝶になり触媒してくれるから植物の実りは得られるのだ。カメムシは稲作には害虫だが。
 さて、私もそろそろ起き上がり、這い出そう。ウチの畑にはもう緑が敷き詰められている。昨夕の食卓にこの春三回目のフキノトウの味噌和えが登場した。

ダウン
【No.1253】 2016年02月11日

2月9日 
 朝から悪寒。JAの一泊二日の研修の日だったのに、残念。このところ10年くらいは体調不良での“ダウン”はなかった。
 昨日の新聞俳壇の「死ぬときの言葉を思う日向ぼこ 石原美枝子」に惹かれていたいたので、何もしないで「日向ぼこ」。句の心を私なりに理解した。
 午後は床の中。それでいて夕食のときビールを飲む。(イジキタナイ!)。苦い ― これは体調不良のサイン。

2月11日
 第65回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果が新聞発表された。秦野市関係の入賞は
・中学校学校新聞の部 
  優秀賞・全国新聞教育研究協議会賞  東中学校
・PTA広報の部 
 優秀賞・毎日新聞社賞      渋沢中学校PTA   
   優秀賞・全国新聞教育研究協議会賞 西小学校PTA

 お棚納め  豆撒き
【No.1252】 2016年02月04日

1月31日
 きょうは「お棚納め」の日。夕方、神棚、仏壇に灯明を灯し、温かい白いご飯を供える。
 明日2月1日の朝、物置、車庫、耕耘機、ガスボンベ、水道の蛇口、はた織り機など20カ所あまりに飾られたお正月のしめ飾りをすべて取り外す。
 たまたま帰ってきた長男が「きょうはばあちゃんの立ち日だよね」と言った。

2月3日
 インフルエンザの予防接種で、掛かりつけの医院に行った。
 血圧を測ってくれるいつもの看護師さんが、「先生、広報でいろいろお世話になりました」と突然言った。話してみたら、お隣の市の中学校のPTAの広報委員さん。春と秋の講座に出席したとのこと。「12月に出した号を作りました。広報づくりって大変だけど、やってみるとけっこう楽しいですね」と笑顔。
 風邪の患者が多く3時間かかってようやく病院を退出。帰宅は7時過ぎ。きょうは「節分」。大急ぎで豆撒き。神棚に灯明を上げ、五合枡に大豆と落花生を盛り、小声で「福は内 病気は外」。「恵方巻き」はわが家にはなじまない。秦野には「恵方巻き」という風習などなかった。

まとめのとき
【No.1251】 2016年01月30日

1月28日 
 「JAはだの」の組合員講座の閉講式に列席。年間6回の研修を終え、修了証を受けた組合員は70余名。私はこの講座の一コマ{秦野の民俗・大山道と盆地の暮らし」を担当している。

1月26日
 全国新聞コンクール・PTA広報の部の入選7紙の講評を書き終えた。1紙に800字の評を7本書く。講評は作品集に掲載されるので、似たような内容・文にならないように書くのだが、なにしろコンクール上位入賞の各紙だから、これはけっこう大変なこと。この講評書きも今回で9年。「私のPTA広報論」が、これら入賞紙の紙面に見えることは「講評が読まれていること」と思い、今年も精一杯がんばって書いた、つもりだが。

1月21日
『道祖神ワンダーワールド』の原稿を片桐さんに渡す。「人生のまとめの一つ」と思っている。上梓は4月の予定。手にできるその日を楽しみに待とう。

 ワンダーワールド
【No.1250】 2016年01月21日

1月19日
 市内22小・中学校のPTA情報委員会の研修会。きょうは「秦野の民俗・ダンゴ焼き」の話をする。この会も今回で7年目。一時間の話のあと質疑。秦野市外出身の数人から、それぞれのふるさとの「どんど焼き」の話をきかせてもらった。

1 市内八沢に住むAさんの今年のダンゴ焼きの話。
「ちょっとしたオムスビくらいの大きさのダンゴを“取替えダンゴ”で食べた。一個でも食べきれないのに、二人と取り替えたので、それは大変。でも、がんばって食べた。楽しかった」

2 ご主人の実家が山北町のBさん「道祖神祭りの日はにぎやか。花車が出る。ドンドン焼きと言っているみたい。主人はその日は必ず実家に帰る。そして花車の引き子をする」

3 Cさん「私は高崎の出身。倉渕町の近く。ウチの方でも『ドンドン焼き』と言っている。大きな斉灯を立てて燃やした」

4 実家が栃木県益子町のDさん「“サヤド”というところで生まれた。『道祖土』と書いて『サヤド』と読んでいる。どうしてそんなふうに読めるのでしょうか。きょう、話を聞いて思い出しました。実家の前に道祖神がある。たしか双体・お坊さんのだと思う。ドンド焼きもやっていると思う。母にメールして写真を撮ってもらい送ってもらう。先生に上げます」
 私の答え「『道祖土』を「サイド」と読んでいるところがある。さいたま市緑区道祖土(サイド)。道祖神のことをサイノカミと呼ぶところもある。そこから『道祖土=(サイド)』が生まれたのだろう。〈サイ〉がなまって(転訛して)〈サヤ〉になったのではないか」T

 今年の年賀状の中に「昨年、先生から聞いた“目一つ小僧”のお話を、今年は園児にしてあげようと思います」があった。差出人は前年度情報委員Kさん。


1月20日
 「まほらの会」のYさん来訪。昨夏転居した峠地区のダンゴ焼きに参加した話を聞かせてくれた。
「お団子を刺した木を三本もって、三カ所の道祖神さんに供えにいった。子供たちが神主さんを務めているのでお賽銭を上げる。『〇〇円が相場』だってご近所の方が言われたのでポチ袋で用意して行った。年配の方から昔のダンゴ焼きの話をきかせてもらった。ダンゴを刺す木は、庭にある梅・樫・柳などいろいろだった。ダンゴ焼きを知らせる太鼓の音は“テコテコ松っあん テコ松っあん”言われればそう聞えたけど、意味が分からない」。

 私にとって道祖神は“ワンダーワールド”。

道祖神
【No.1249】 2016年01月16日

1月13日
 大根公民館の「大根地区史跡散策」の案内を「まほらの会」で担当。私は「秦野の道祖神祭り・トッケダンゴ」について話す。この日の参加者は20名。興味深く聴いてもらえた。
 夜ダンゴ作り。コナラの枝に刺し神棚、荒神さんに飾る。他家は14日にダンゴ作りをするが我が家は13日。ずっとそうだ。
 
1月14日 
 午後3時ごろ、竹が燃えて爆ぜる音が聞えてきた。ダンゴ焼きの始まり。自治会の役員や年配の男性10数名が火床を作っている。薬缶の日本酒で「お清め」をする。3時半頃になると女性や子供たちがダンゴを持って集まってくる。火が燃え盛る中、お汁粉、甘酒がふるまわれる。アマチュアカメラマンがそんな光景にカメラを向けていた。
 4時半、地域の集会所「あずま荘」に行く。今年も清水・東の原子供会の母子30数人に「トッケダンゴ」の話をする。道祖神についての民話「目一つ小僧」の紙芝居は、今年は子供会の役員が上演してくれた。これで確かに道祖神祭りは次代に引き継がれていく。嬉しいことだ。「さようなら」の挨拶をし、玄関で靴を履いていたら、一人の女の子が出て来て「お忙しい中、お話に来てくださってありがとうございました」とお礼をいう。どう見ても低学年の子、その言葉は嬉しかった。それにしても今の子供っておもしろい。

1月15日
 「きょうが最後の取材」、そう言って西地区と上地区の道祖神の写真を撮りに行く。堀山下、堀西、菖蒲の4ポイント。ところが堀山下の八幡宮は社殿改修のため道祖神に近づけなかった。昨日ダンゴ焼きを行った形跡が二カ所で見られた。 
 道祖神が一カ所に集められることは、保存という点からは良いことと思うが、「オラホーの庭の道祖神」という意識が薄れてしまうのではないか。埃まみれ、苔まみれの道祖神が幾体か見られた。 

苦境
【No.1248】 2016年01月12日

1月11日 
 午後1時から記念誌編集委員会。予定しているすべての原稿がそろったわけではないが(締め切り日に全員が原稿を書き上げるなどというのは奇跡に近い)、校閲を始めることにした。
 編集中の記念誌は、記念というより研究発表の書なので、そこで使われている用語は正確で、統一されたものでなければいけない。たとえば「坂本通り」なのか、それとも「坂本通」と書くのか、そうしたことの統一性から始めた。
 読者をあまり意識せず、執筆者の強い思いいれで書かれてしまう解説文は再考してもらうことにした。「まほら秦野」を次世代に引き継ぐという願いの書であることを十分意識し原稿を読み進めた。
 この種の書の編集作業は大変な作業であると知った。「編集作業は佳境にさしかかっている」などという表現は完全に誤り。はじめから「苦境」である。

年の初めの一週間
【No.1247】 2016年01月07日

1月2日
 テレビで駅伝を見ながら年賀状の返事を書く。
 年末の新聞の投書欄に「届いた年賀状を手に考え込むようになってきた。ほとんどを印刷にして、とりあえず一言を添えたようなもの。子どもや家族の写真と、自分の近況だけを知らせる文章……ちっともうれしくない。出すのが慣習だから書いているんだろうなと感じられるものが多くなった。」という年賀状論があった。
 私は思う、一言だけの添え書き、家族の写真、近況報告、いいじゃない、どれも嬉しい。いただくだけで嬉しい。どんな賀状でも、そこにはその人の生活が記されている。生きているよ、って近況報告してくれるのは私のことを心に留めていてくれる証し。
この年齢になれば、私の存在を認めてくれる人がいることはとってもありがたいこと。

1月3日
 箱根駅伝の観戦。いつもの場所、二宮町山西の三叉路。そこには道祖神が四基立っている。今年は赤と黄色の「センリョウ」が飾られていた。私はその道祖神さんと同じ位置・石組みの壇の上から声援。他の応援・観戦者とは違う高さに立つ。
 帰りに平塚市上吉沢の道祖神も訪ねる。四基の双体道祖神、いずれも剥落が著しい。簪を挿している女神はどんなお顔なのだろう、“残念!”。

1月4日 
 「今年の正月のカレンダーは最悪」と言われている。今日4日が月曜日、第一週から“フル稼動”なのだから。私も“フル”、9時15分から歯の治療。なにしろ元旦に歯科の休日診療所に行ったのだから。なんとしてもしっかり治療してもらいたいのだが。年齢なので完治は望めそうもない。今年も〈週一〉で通う。 

1月5日
 暮れに送られてきたPTA広報紙の講評を書く。今日は5紙。まだ10紙ほど残っている。普段の生活に戻らなければいけないのだが。

1月6日 
 初詣は厚木の長谷寺・飯山観音。ここは妻の佐藤家の菩提寺。境内の一角に佐藤家の墓がある。その墓地の背後の桜がもう開花していた。それも一輪、二輪ではない、昨年の今日は見られなかった。

1月7日
 春光や今は裏路地道の神
 暖かい日差し。「七草粥」を神仏(神棚、大年神、恵比寿・大黒、荒神さん、仏壇)に供える。10周年記念誌の原稿の最終の手入れ。その原稿を午後Iさんに届ける。帰りに平沢の道祖神・秦野で二番目に古い(1683年)・に会いに行く。

今年最後の講演は東中で
【No.1246】 2015年12月17日

12月16日 
市P連情報委員会に出席。11月に発行された「P連だより」第106号の反省会。「言葉・文字で思いを伝えることの難しさを実感」「見出しで記事を読ませる、ということを知った」「『いじめ』の特集を組んだがプライバシーも気になり、取材がむずかしかった。」「発行部数一万という数に、編集者としての責任の重さを感じた。怖いと思った」「苦しんだけどみんなで話し合うことでそれを乗り越えた」「充実した時間を過ごせた。新聞づくりは楽しかった」。

12月15日
 東中学校一学年の「総合的な学習の時間」で授業。年三回の最終回は「秦野の民俗行事・ダンゴ焼き」。地域の方の聴講も呼びかけてあり数名の参加があった。この日は学区内の道祖神を映像で紹介もした。
 寒村に暮らす人たちは路傍の神仏にすがるしかなかった、という江戸時代の生活ぶりについて話した。
 今日の授業で今年の私の講座は終了。

二神降臨型の道祖神が群馬に
【No.1245】 2015年12月14日

12月10・11日
 「道祖神の里めぐり」に出かける。訪れたのは茨城県結城市、群馬県板倉町。第二日目は群馬県太田市、高崎市箕郷町。箕郷町(みさとまち)にはサルタヒコとアメノウズメ像の道祖神(二神降臨型)が三基在った。この型は伯耆地方独特のものと思っていたので〈新たな発見〉である。
結城紬の工房、渡良瀬遊水地、蔵の街・栃木市、さがみ湖イルミリオンも訪れた。

悼む 高橋一郎君
【No.1244】 2015年12月05日

 教師になって初めて送り出した卒業生の一人が高橋一郎君だった。
 日本経済新聞の記者になったときにくれた手紙の内容を私は忘れない。「新聞記者を仕事として選んだことを先生は喜んでくれると思う」と書いてきた。
 新採用で赴任した玉川中学校には学校新聞がなかった。それで一郎君たちと「玉中新聞」を創刊した。
 彼の力で「日経」に私の著書「新聞づくりは仲間づくり」を紹介してもらったこともあった。(1992年1月13日 付け『BOOKS』欄)
 退職後は玉川に戻り農業に勤しんでいた一郎君は、時々早朝七時ごろ我が家に現れた。手には小田原の魚市場に上がったばかりの魚があった。
 新聞記者の宿命なのだろうか、彼もまた酒には強かった。酌み交わす酒の中で、彼は地元に介護施設をつくるという夢を語っていた。
 高橋一郎氏(たかはしいちろう=日本経済新聞社社友、元東京本社制作局写真情報部長)11月30日、虚血性心不全のため死去、68歳。

“ふるさと散策”は雨で中止になったけど
【No.1243】 2015年11月15日

11月14日
 西公民館を拠点に活動している「異年齢女性交流会」から「まほらの会」に「ふるさと散策」の案内をしてほしいと頼まれた。
だが生憎の雨、それで“地図上のウオーク”に変更。会の横山会長が歩く予定のコースの野仏や社寺の紹介をした。私は「路傍の神仏・馬頭観音碑、道祖神碑、庚申塔」の話。
 30代から60代のお母さんたち12名の会。この会は月に一の集まりの日に“おばあちゃんの手料理”を一緒につくりながら「子育て」のアドバイスももらうという会で、この日は年に一度の外に出る活動の日だった。 若いお母さんの4人はPTA広報委員のOG・懐かしい顔だった。
 年配のお母さんMさんから「今も庚申講をやっている」との話。そして夜、今日のウオークを企画したAさんから電話があった。帰って実家の親に馬頭観音の話をしたら「近くに特別な馬頭観音が在る。そこは昔草競馬が行われた場所で、その記念の馬頭観音さんだ」と教えてくれたとのこと。「それでその情報を先生にお知らせします」とAさん。雨で座学になってしまったが、興味深い話が聞けてよかった。

大山の本拠地で「大山道」の講演をするとは
【No.1242】 2015年11月14日

11月13日
 伊勢原市立大山公民館の「郷土の歴史講座」で「大山古道・富士道を歩く(秦野市東地区)」の講師を務めた。もらった時間100分で話したこと。@「富士下向」矢倉沢往還から富士道、A羽根尾道から坂本通 B紙芝居「目ひとつ小僧」の上演。
 20名の定員。「まほらの会」がいろいろお世話になっている「阿夫利睦会」の磯崎会長と会員も聴いてくれた。「まほらの会」からも5人が応援に来てくれた。
「大山」の本家・本元、地元で「大山」のことを話すのは怖かったが、秦野サイドからの大山ということに徹して話した。終わって質問が三つでたが、その中で「大山寺」についての新たな情報をいただくことができた。私にとっては充実した時間だった。

社会科の先生の前で
【No.1241】 2015年11月12日

11月11日
 秦野市中学校社会科部会に招かれ「まほら秦野」の講演を東中で。講演の中身は@大山と盆地の暮らし、A秦野の地名、B秦野の道祖神祭り・ダンゴ焼き、と私の引き出しをすべて空にした感じの2時間。かつての同僚、佐藤さん、谷さん、津田さんの顔も見えた。「来てくれたのだ」と心が熱くなった。
 専門の先生方の前で話せと言われたとき、光栄と思ったが、躊躇の気持ちのほうが強かった。だが「次の世代に伝えたいものが私にもにもある」なら、その一つでも先生方が拾ってくれたらと壇上に立ったのだ。

感謝状をいただく
【No.1240】 2015年11月11日


11月7日
 中野区立中学校PTA連絡会の「広報講座」。今回でこの講座の講師を降りることになった。
 2008年から8年間、20回「中野ゼロ」に出かけた。 はじめの三年間は夜の開催。午後6時半から9時という結構ハードなものだった。
 「体力的・時間的にも無理」と講師の辞退を申し出たら、四年目から「土曜日の午後1時半開会で」と変更になり、継続することになった。
 それからはロマンスカーの先頭車両の最前列に席をとり、おにぎりをほおばりながら大山など車窓から景色を愛でる小さな旅になった。
 この日の講座が終わり、会長の井戸田さんが閉会の挨拶をされたが、その途中で思いがけないことが起こった。私への感謝状の贈呈式になったのだ。現・前・元のP連役員19名の寄せ書きも添えられた。気がつけば10名ほどのお父さんが会場の後部に立っていた。
 驚きと感激。土地柄というのだろうか、いつの講座でも、受講者の反応は良く、言いたい事を言わせてもった。このセレモニーがその“象徴”。

二大プロジェクトに苦闘
【No.1239】 2015年11月05日

11月4日
 「エコー」のHP今朝更新。今 二つの大きなプロジェクトを抱え苦闘している。一つは「まほらの会」の10周年記念誌。今まで見てきた道標や野仏など再確認の作業を全会員で行っている。写真もすべて撮りなおし。会員はそれぞれ自分の学んだことをエッセイにまとめることになっている。原稿の締め切りは12月末日。
 PTA広報講座を7日に中野区で持つ。これが今年最後の講座。

記念誌づくり 佳境に
【No.1238】 2015年10月15日

10月14日
 かわじ荘のデイサービスで「まほら秦野」の話をさせてもらう。上地区の地名や苗字の由来 道祖神について話す。地名「三廻部」は「ニクルベ」の転訛、秦野の道祖神の特徴は僧形合掌像、など。紹介した各地の道祖神の写真は好評だった。30数名の出席。上地区の暮らしについて、こちらも学ばせてもらった。

10月13日
 7名による記念誌編集会議は8回目。この日から写真の選定に入る。1枚のイラストマップに20地点の説明写真を載せる。その選考。今日は3枚のマップの60枚を選んだ。正味3時間の会議。
 
10月10日
 「まほらの会」の10周年記念誌の全体編集会議を開く。全員が執筆するので基本的な事項を確認する会。「総決起集会にしよう。だから乾杯をしながらの会に」と提案した。それで会場は小料理店。料理を前にしてなので説明・連絡で終わると思ったが《意見百出》で、なかなか乾杯にはならなかった。良いモノを作ろうとする意気込みが感じられた。

シルバーウイーク
【No.1237】 2015年09月25日

9月25日
 昨夜から雨、肌寒い一日。東公民館の「大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて」は中止。昼食後「江戸時代の庶民の旅」について1時間ほど話をすることになっていた。
 酒井大岳師から頂いた「かがやく山河」を読む。作句をなさる師がこの書の最後に置かれた句は「母の墓木の実蒐めてゐるごとし」

9月24日
 秦野市P連の広報づくり講座。紙面クリニックの第二日目。この日は小学校7紙と「市P連だより」の講評。小学校7紙のうち3紙が一学期中に二回の発行。このがんばりを褒めた。終わってからの相談が5件。
 午後「P連だより」のBグループの編集会議。《いじめ》の特集に精力的に取り組んでいるが、いじめが解消できた具体例の取材が「個人情報の開示になるのでは」という声も出て意見百出。私なりの考えは述べた。いずれにしても、このような論議がなされることは頼もしいし、重要で必要なことだと思う。

9月23日
「中の中日あずき飯」。
 シルバーウイークの真ん中。来週の東中での授業の資料づくり。PPTのリニューアル。昨年よりは良い授業にしたい。明日の広報クリニックの最終チェック。東公民館から24日の参加者は20数名と報告が来た。

9月22日
 午前中草刈、午後草むしり。いずれも庭続きの畑と母屋の周り。野良仕事はあまり苦にならない。は無心になれるから。もっとも重労働はしないから。充実した一日。

9月21日
 別棟に向かう私にモクセイの香りが届いてきた。ミヨウガが芽を出す頃と思い椿の根元を探しだ。三つ見つかった。去年はたくさん採れたのに。

9月20日
彼岸の入り。掃除をかねての墓参り。墓地にはすでに数組の参拝者が。いずれも地元の人たちなので言葉を交わした。

9月17日
 茅ヶ崎市教委とP連主催の広報講座。前夜から雨。普通なら1時間で着くのだが30分ほど超過。参加校は20校ほどか。一学期に発行された全号の紙面クリニック。「H」「M」の2紙は毎年他紙のお手本となるような作品になるので、それを意識してさらにきついコメントを“差し上げ”た。たぶん“お怒り”だろうなと思ったが、あえてそうした。講座か終わって2紙が挨拶と質問に来た。全員がにこやかだった。私の心配は“杞憂”だった。
 この二紙は、発行すると直ち評を求めてめ送付してくるので、今日の会場での私の言葉はある程度予測できたのだろう。次号に向けての意気込みを表し帰っていった。頼もしい、たくましい、しなやかなお母さんたち。


朝から晩まで
【No.1236】 2015年09月16日

9月15日
 東公民館で秦野市P連の広報講座。一学期に発行された全号の紙面クリニック。この日は9校。「見出し」つくりの実習も。午後も同館で「P連だより」の企画会議。
 午後3時過ぎに本町幼稚園に出かける。夏休みに親子でつくった壁新聞がホールに掲示されている。それを見せてもらった。先生の作品も含め70数紙。どれも力いっぱい頑張った―とくに親が―。次の編集後記がそれを物語っている「もう肩はゴリゴリ、新聞はコリゴリ」。なんと余裕があるお母さん!
「大変だったけど楽しかった。来年もつくりたい。そのとき子どもがどれくらい成長いるかと思うと、今から楽しみ」という編集後記もあった。
 全先生方と一緒に一紙ずつ読んで回った。提出された全紙に感想を書いてほしいとお願いした。

新聞行脚 再開
【No.1235】 2015年09月09日

9月3日
 神奈川県大井町の広報紙づくり講座。始まる前にこの町に住む『エコー』の読者Iさんが赤ちゃんを抱っこして現れた。「本当は聴きたいのだけど、この子が騒ぎそうなので」と『激励』の差し入れをしてくれた。
 この日の講座には幼・小・中のPTA広報、体育協会、子ども会、青少年指導員会、文化団体、自治会など16団体の広報担当者が参加してくれた。
9月4日
 伊勢原市P蓮の「広報紙クリニック講座」。6校ずつ2グループに分かれての講座。1グループ1時間なので、1校に割り当てられる時間は9分。制限時間を超えるとそれを知らせるチャイムが鳴らされる。「聞えたけどもう少ししゃべらせて」と私。とたんに会場が和やかな雰囲気に。
9月8日
 神奈川県松田町教育委員会主催の「広報づくり講座」。この講座も一学期に発行された広報紙のクリニック。一学期に三回発行(総ページ数22)、二回発行(20ページ)という2校のがんばり。私の辛口評もにこにこと受け止めてくれるのは自信があるから。
9月9日 
 本町幼稚園の園長先生からメール「夏休みの壁新聞が出揃いました。ぜひ見てください」。行かなくてはならない!
 明日は中井町に行く。

秦野、茅ヶ崎でのかべ新聞づくり 
【No.1234】 2015年08月21日

8月20日
この日は秦野市立東公民館でのかべ新聞づくり講座。
 第一日・7月30日に発表した新聞の内容を変更したので、紙面にはほとんど文字がない5年生の女の子がいた。聞いてみると戦争についての新聞にしたいとのこと。その理由は「戦争が終わって70年だから。戦争の被害を調べたい。ヒロシマとナガサキの原爆のことも書きたい。テレビや新聞で戦争の話がたくさんされているので。ひいおじいちゃんが戦争のことを書いているので」ということ。戦争についての新聞を制作中の6年生の男の子もいた。
 水生生物の調査結果を新聞にした子は「金目川の水生生物は清流に生きるものばかりだった。金目川はきれいな川」と書いている。
 参加者全員がステージに上がり自作を発表した。どの子も「大変だったけど来年も新聞づくりをしたい」と言った。
 「紙面が埋まっていく、そして出来上がったときの充実感が何ともいえない。良い体験数できた。楽しかった」がお母さんたちの感想。今日は20紙が完成。あと15紙は最後の追い込み。

8月19日
 茅ヶ崎市香川公民館での壁新聞づくり講座。9紙が完成。内容も色合いも豊かなものばかり。この四月に着任された館長さんが、閉校式の中で「親子で新聞つくる姿、そして出来上がった新聞を見て感激しました」と挨拶された。

8月15日に
【No.1233】 2015年08月15日

 私にとっての『知覧』
                  
 HPを見ておりましたら、『学校講話集』の8月の「知覧」を発見しました。
 主人は鹿児島の出身なのです。そして私の祖父(母方)の弟が特攻で亡くなっているのです。このことは、大学生くらいの時期に知りましたが、それほどの哀感もありませんでした。他の話のついでにサラっと言われたことが残っていた程度のものです。
 その後主人と結婚して何年か経った頃、県内観光で知覧に行きました。あの多くの写真の前で「そういえば…」と思い出し、名前を探しましたが見つかりませんでした。思い違いだったのかと、祖母に確認したら、「そうだよ」とのこと。しかし、そのことはそのままになっていました。
 ところが、昨年主人の会社の上司が特攻兵の話の絵本を出しました。『ピアノは知っている 月光の夏』です。子どもたちは、その本の絵のすばらしさに感動し、特攻のことに興味を持ったようでした。そして、身内に特攻兵がいたことにも…。そこで今年5月、ゴールデンウィークに鹿児島に行った折、再度知覧を訪ねたのです。やはり写真はありませんでしたが、パソコンで検索できるようになっていました。それで調べたところ、母の旧姓と同じ大叔父の名を見つけたのです。そして海軍の所属で、出発基地が知覧ではなく、鹿屋だったということも分かりました。このデータを土産にしようと、プリントしてもらいました。
 主人の実家に帰ると、義母が「そうそう、鹿屋にも記念館があって、以前行ったことがある」というので、さっそく行ってみることになりました。義父の運転する車で2時間かけ、着いた記念館は自衛隊鹿屋基地の敷地内にありました。「慰霊」「可哀そう」を前面に出した知覧のそれとは少し趣が違いましたが、作戦の様子がよく分かる展示になっていました。
 特攻作戦が決められた様子。最初の特攻が延期になったこと。《今行ったら犬死になってしまう》司令官の気落ち。戦闘機の隊列の様子や交わされた通信。各機には役割があったが、予定どおりにはいかなかった様子。大叔父とは違う隊のようでしたが、彼が「作戦」に参加していたという思いを強くしました。乗っていた飛行機の名前も一覧でありました。そして、ついに遺影を見つけました。祖父に似ているような気もする目元、少し眩しそうに顔をしかめた写真でした。第一昭和隊、彼の属した隊です。23歳、4月14日に発ったことは知覧のデータで判っていました。矢田部の訓練所○期。周囲の写真から同期の人を探し、きっとこの人たちと、いつも行動を共にしていたのだろうと思いを馳せたりもしました。出身県の違う人たちとどんな話をしたのか、先に発つ友をどんな気持ちで見送ったのか。展示してあった他の隊員への寄せ書きの中に彼の名前を見つけました。サラッとしたきれいな字を書く人だということを知りました。
 それまで存在しか知らなかった人が、急に生きた人となって私の中に入ってきたのです。十数人もいる祖父の兄弟の中で最も親しい人になってしまったのです。母に電話した際、叔父の写真を見つけてきたことを伝えました。海軍の所属だったため知覧では見つけられずに鹿屋まで行ったこと。義父と義母が連れて行ってくれたこと。私が彼の存在を知っていたことを驚きながら、「泳ぎの得意な人だったから海軍だったんでしょうね。中学の時に出した県の記録がかなり長い間残っていたんだよ」とも教えてくれました。とても優秀な人だったとも。享年23歳ですから、昭和10年生まれの母は何度か会っていたのでしょうか。この夏、私は寒河江に帰られなかったので、遊びに行った長女に彼の写真を託しました。
 知覧は前回行った時とずいぶん変わっていました。展示室も増え、室内の飛行機の前ではボランティアの方が写真パネルを手に出陣の様子を話し、多くの人が聞き入っていました。
 遺書の中で長くて立派なものは何日も前に書かれたもので、いよいよ明日という時には何も書けないこと。威勢のいいことを言っていた人ほど、いざという時になって取り乱していたと。中には、飛び立ったものの整備不良と言って6度戻ってきた人もいた。それに対して整備士たちは「命をかけて乗る機を我々も命をかけて整備しているのだから、不良などということは絶対にない」と言って送り出したこと。当時の物資状況や他の話からすると、真偽は分かりませんが、その人は7度目に帰らぬ人となったそうです。
 知覧の遺書の中で私がいつも涙するのは、コリント遊びをする約束を果たせなかったことを妹に詫びる一通です。私たちは、あの太平洋戦争をそれぞれの思いで受け入れ、封じ込めているのです。
  8月の暑い日に    麗 子

活動再開
【No.1232】 2015年08月11日

8月10日 
 JAはだの組合員基礎講座で講演。演題は「大山と盆地の暮らし」。
 まもなく「お盆」なので、始めに秦野地方のお盆の風習《ツジ》について話す。以降 @大山信仰」にも結びつく鶴巻落幡地区の《大山灯籠》。本題はA秦野市蓑毛など地名の由来。B大山と富士山を結ぶ信仰の道・富士道。C秦野の農村料理「へらへらダンゴ」まで。
 話材が身近なものだったので聴いてもらえた。質問が5つ出たのはその証明、と思っている。

8月11日
 きょうから「新聞づくり行脚」の再開。
 松田町の「親子壁新聞づくり講座・第2日」を町民文化センターで9時半から12時まで。子供7人、父親ひとり、母親3人の講座。5人はこの日で完成。「やったー!」と歓声。未完成の6年生二人は「歴史新聞」の大作だが90lまで漕ぎ着けた。
 閉講式では参加者全員が新聞を手にカメラに収まった。町役場と私の名前で「新聞づくり名人」の認定証を子供たちに授与した。2〜6年生の集まりだったが、新聞づくりをしながら交流は進んだようでなかなか部屋を出ない。
 出来上がった新聞や会場の雰囲気を見たとき、今年の松田の講座は成功だったと思えた。

夏休み
【No.1231】 2015年08月07日

8月7日
 去年の夏も書いた「異常な夏」と。天候を含め《異常・異様な夏》である。
7/31から8/9まで《夏休み》、毎日が休日なのに、である。
一昨日「ECHO」323号の出稿。昨日は「まほらの会」の懇親会。濃い緑に囲まれたアトリエである横山信子会長宅でバーベキューを楽しむ。今日はHPの更新をしたが、なぜか一部がアップできない。パソコンも「夏休み」なのだろう。

秦野 茅ヶ崎でもカベ新聞づくり
【No.1230】 2015年07月31日

7月30日
 秦野市立東公民館事業の「夏休みの思い出を親子でカベ新聞に」の講座。24組・35人(小1〜6)が参加。4年連続参加の家族が2組など7組がリピーター。父娘というペアの姿も一組。
 この講座は今年で14年目。市P連情報委員会の協力もあり毎年盛況。初めてこの講座を担当した公民館のMさんが「人数の多さ、会場の雰囲気に圧倒された。感動的です」と感想を述べた。
 参加者全員がどんな新聞を作りたいかを発表した。「大涌谷」「去年はヒロシマ平和新聞だったので、今年はナガサキに行きます」「丹沢の自然と鹿」「金目川の水生生物」「ゆるキャラ新聞」「ドラえもん新聞」「お金新聞」「おばあちゃんの家に行った新聞」「家族旅行新聞」「ウチに来る猿の被害新聞」などなど、企画のテーマは興味あるものばかり。
 「本やネットからの情報だけでつくる新聞は新聞ではない。歩いて回って、自分の目で見て、そのことについていろいろな人に聞いて、それを載せるのが新聞」と話した。終わってから相談に来た子もいた。
 35人の参加だったが、カベ新聞用紙は46枚出た。完成は8月20日の予定。発表会は壮観だろう。


7月29日
 今日も暑い一日。10時から茅ヶ崎市立香川公民館で「親子壁新聞作り講座」の第一日目。8組の親子が参加。今年で三年目のこの講座だが、二年連続の参加者が二組。「茅ヶ崎の魚」「富士山の噴火」「住んでいる町(円蔵地区)の歴史や文化」「日本の通貨の種類の研究」などが新聞のテーマ。話をよく聞いてくれた会場だった。

夏を楽しむ 夏に鍛える 
【No.1229】 2015年07月25日

7月24日
 松田町文化センターで「壁新聞づくり」。小1から6年生まで5人、プラス代理のお母さん1で合計6人が集まる。
 主催する「子どもの館」の担当者が事前に指導してくれたらしく、新聞のテーマを持って来ている子が多かった。「富士山の噴火と松田町」「百人一首」「日本の城」「富士山の長さ・高さではない」「加藤清正」「眼鏡紛失事件」など。この日の講座を5W-1Hとインタビューで書いてみた。どの子も集中してくれた。8月11日に第二日を持つが《期待大》。

7月23日 東幼・小の先生の「地域学習研修会」
 東幼・東小の先生方の「地域学習研修会」の講師を「まほらの会」で務めた。今年で三回目。先生方26名、「まほら」からは6名。蓑毛の「御師の宿」を9時半に出発し、「富士道」を東田原まで歩く。幾たびが驟雨に遭ったが「シャワーみたいで気持ちいい!」と先生たち。11時からは私の「富士道を歩く」の講座。
 終わってから、三年生の担任から、児童向けに「道祖神祭り・ダンゴ焼き」の話をして欲しいと頼まれた。

ちょっと雨風は強かったが、良い講座だった、と思っている
【No.1228】 2015年07月17日

7月16日 
 台風11号の余波を気にしながら、茅ヶ崎市のPTA広報講座に出かける。先月の18日に続く第二日目である。
 この日の講座は実務編ということで、直ぐにでも役立つことを話す。
 
1取材の方法
 @インタビュー A依頼記事 Bアンケート調査 C座談会 D投書
2記事の書き方 ・見て書く・聞いて書く・調べて書く
 When(いつ)、Where(どこで)、Who(だれが)で始まる文は日記。 What(何を) Why(なぜ)で書き出すのが記事。
 意見記事の書き方はYesterday Today Tomorrowで
3文の書き方 ―スッキリ、サッパリ―
 正確(correct)平易(clear) 簡潔(concise) 
 ・だれがどうしたのかをはっきり書く ・短い文で区切る ・10行くらいで段落を 聞いてわかる言葉で書く
4写真を撮るとき ― 学校に行くときは、いつもカメラを ―
@人物を入れる A表情・動きのあるもの B正面から(かがみこんだり、一歩前に出たり)
5写真を掲載するときは ・キャプションを。キャッチコピーはいっそう記事と写真の訴える力を強める。

 講座の後半は昨年度発行された他市のPTA広報紙を見てもらった。「百聞は」だから。
 最後に「夏休み中に『家族新聞』を作ろう」と呼びかけた。

幼稚園の親子壁新聞作り ― 本町幼稚園
【No.1227】 2015年07月11日

 本町幼稚園の年長さんの保護者を対象に「家族新聞(壁新聞)づくり」の講座。
 私の感覚で言うなら、小・中学校時代に新聞づくりの経験はあまりしていない年代の母親。それで、小学校1・2年生の親子がつくった壁新聞「夏休みの思い出を壁新聞に」を見てもらい、それを見本にするような話をした。
 本町幼稚園は今年創立100周年を迎えた。それでその式典に壁新聞を展示したいという園長先生の言葉も刺激になったようだ。終わってから質問がたくさんでた。「発行日とは」「記事が用紙に書ききれない場合はどうするのか」「先に写真や記事の割り振り(ラフレイアウトのこと)をしてもいいか」「一つのことで紙面全部を使つてもいいか」「まだ字が十分書けない。私か書いていいですか」など。「小学生もいるので、夏休みの課題に壁新聞を作らせたい。用紙が欲しい」という申し出が10名ほど。母親たちにとって、壁新聞づくりは新鮮で楽しいものに思えたらしく、会場は高揚感に満ちていた。完成が楽しみ。

 7月6日 七夕の前夜祭
【No.1226】 2015年07月07日

 昨日、伊勢原市PTAの情報委員二人の来訪。9月に行う「広報紙クリニック」の最終打ち合わせ。伊勢原市では五月に講座を持った。その折、「気仙沼小のPTA広報」に載った「子供たちの作文」を紹介した。その作文を「きちんと読みたいのですが」と来訪者の一人が申し出た。私の《願い》は伝わった、と思った。

よる6時から「市制50周年記念『市民が作る広報はだの』」のメンバーの懇親会。毎年7月6日に集まっている。今年で10年目。編集委員だった中学生が、今は市役所に勤めている。それぞれの近況報告に、今の生活の充実ぶりを感じた。

 
 1週間遅れだが、きょう『ECHO』のホームページを更新。

 言 葉
【No.1225】 2015年07月04日

 過去にもここに記したことがあるが、新聞の俳壇からさらに秀句を選び出しノートに書き写し、季節の移り変わりやそれへの情感を作者と共有できる喜びを味わっている。
 この俳壇によく登場する(選ばれる)作者の一人に秦野の熊坂淑さんがいる。私が惹かれた熊坂さんの一句は「冬の陽の今日あたためし人や街」(2010年2月6日掲載)

 7月3日の午後、市内の幼稚園を訪れた。10日に行う「親子新聞づくり」の打ち合わせのためである。東中学校時代に担任した生徒が園長先生。教頭先生は西中に勤務しているとき授業を受けたという。
 打ち合わせが終わり、当時の中学校生活の思い出話をしばらくした。その話の中で、教頭先生のお父さんが熊坂さんであることが分かった。
 嬉しくなった私は「応援しています。ファンですから、と伝えてください」と言ってしまった。でもこの言葉の持つニュアンスは、私の思いを的確に表しているとは思えない。心を言葉で表すのは難しい。だから言葉を大切にしたい。

武姓のルーツを探る
【No.1224】 2015年06月19日

6月15日
 「まほらの会」の10周年記念誌編集会議を東公民館で。写真担当の健さん、嘉さん、そして記事入力の隆さんの三人は確実に仕事を進めている。それに対して、資料集めさえ始まっていないのが私。7月に入ったら必要な写真を二人から提供してもらいラフ・レイアウトだけでもやりたい。

6月17日
 武姓のルーツをたどっている武さん(千葉在住)の来訪。小書「寺山ものがたり」を読んでくださり繋がりができたのは7年前。
 その武さんと共に「実朝公御首」と深いかかわりがある三浦の武将・武常晴を祖とする武真幸先生宅を訪ねた。(「まほらの会」会員二人も同道させてまもらった)。そこで武氏の家系図を見ながら、さまざまな事柄について学ばせてもらった。3時間を超える長い時間、楽しく興味深い話を尽きることなく話して下さった真幸先生のご好意に、私達は満ち足りた心で辞した。

6月18日
 茅ヶ崎市のPTA広報講座は今年で三年目になる。講座は3回シリーズで、この日が第一日。昨年の県PTA広報コンクールで市内の2校が最優秀賞と優良賞を受賞。受講者の広報づくりへの関心は上昇気流に乗っていると見た。12時閉講だったが、質問・相談を受けたので会場を出たのは12時40分。ゲリラ豪雨に出遭ったが、気分としては爽快だった。 

湘南の汀をドライブ 
【No.1223】 2015年06月12日

6月9日 
 横須賀市Pの広報委員研修会。東名高速道が事故渋滞ということで湘南の海沿いを走る。この日の参加は160名超。明るい雰囲気の中で講座が持てた。質問・相談が10件ほど。
 自己紹介で三浦の武将・武常晴(武姓)と源実朝公の御首塚のことを話した。講座が終わって「ウチのおばあちゃんは秦野の寺山から嫁いて来ました。武クラといいます。親戚付き合いは途絶えてしまいましたが。」と話しかけてきた人がいた。我が家から1分ほどのところにあるお宅がクラさんの実家だった。
 帰りもまた東名は事故渋滞。それで朝の道を帰る。往復でおおよそ3時間、海を眺めながらのドライブとなったこの日の講座。 

オオルリと「ミサゴ」
【No.1222】 2015年06月07日

 オオルリは「ピリーリー、ポィヒーリー、ピールリ、ピールリ」と鳴くと図鑑にはあるが、その鳴き声をオノマトペで表すのは至難。
今年も我が家にオオルリが戻ってきた。昨年までは裏の茂みから聞えた囀りが、今年は庭の桜の梢など、ぐっと近くに寄ってきて鳴き、その姿もたびだび見ている。だが用心深い鳥なので、オオルリ色は確かめることは出来ていない。
 昨日午後1時半ころ、庭続きの畑で農作業をしていた私の上に轟音が響機わたった。隊列を整えた猛禽類の「ミサゴ」が三機、20分くらいの間に往復した。これが横田基地に配備された「ミサゴ」と思った。
 我が家の上は飛行機の航路になっいて、秋から冬の晴れた日は、多くの旅客機が富士山を見せるために飛ぶ。「ミサゴ」もまた航路とするのだろうか。
 「日本三鳴鳥」の一つであるオオルリの囀りと「ミサゴ」の轟音。

まだ続きます《新聞行脚》
【No.1221】 2015年06月06日

6月1日
 足柄下郡(湯河原町、箱根町、真鶴町)3町合同のPTA広報づくり講座。会場は湯河原町。箱根町からは9名が参加。頭が下がる思い。
会場は吉浜文化福祉会館。サーフィンを朝から楽しむ姿が目の前で眺められた。講座が終わってから「レイアウトが一番難しい」からということで、持って行った他校の広報紙をスマホに収める人が続出。この会場でも委員の《意欲》を感じることが出来た。

6月4日
 本町中学校での新聞講習会。広報委員会の委員長Tさんが校長室で待機している私をまで迎えに来てくれた。会場に向かって歩いているとき、「母が東中で先生に新聞づくりの指導を受けたそうです」とTさん。旧姓Oさんがそのお母さんだった。

5月最後のこの講座は
【No.1220】 2015年05月31日

5月24・25日 
 湯河原温泉で同窓会。泊まりで行うこの会はもう十数年続いている。同室の5人で昭和20年前後の学校生活の思い出話。思いがけない人の思いがけないイタズラの告白。他は「病気」の報告。

5月26日 
 寒川町教育委員会のPTA役員研修会広報部会。

5月27日 
 座間市教育委員会の「PTA役員研修会・広報部会」の第2日。講座の後、相談に来たグループの一人が「秦野で小・中学生時代時代を過ごした。中学校で学級新聞を作った」と話してくれた。

5月30日
 藤沢市教育委員会のPTA広報紙づくりの講座。この会場では2時間半をもらったので、個人的には納得できた講座。終わってから10数名の参加者に囲まれた。講座で見せた他校紙をもう一度見たいというグループ。その紙面をスマホで撮る者。紙面に載せる児童の写真の相談。昨年の発行紙のクリニック。私の写真を紙面に掲載したいので一緒に写真を撮りたいとの申し出も複数など、40分ほど講座が続いた。5月最後のこの講座は、参加者の意欲がストレートに伝わってくる締めくくりとなった。

 《行脚》は続く
【No.1219】 2015年05月24日

5月15日 
 秦野市P連の広報技術講習会  参加者は220名ほどとか。前年度の単P広報委員、情報委員など10数名が応援・激励に来てくれた。お父さん委員が会場で質問に立ってくれた。嬉しいこと。

5月18日 
 「まほら秦野みちしるべの会」の10周年記念誌の第2回編集委員会。記事に使う写真を選ぶ作業。

5月19日 今年度第1号の「秦野P連だより」の企画・編集会議でアドバイス。

5月20日 「ECHO」321号発行。この号で31年目に突入。

5月21日
 座間市教育委員会の「PTA役員研修会・広報部会」で講義。座間市の講座は初めて。3回シリーズで26日がその2。じっくり聞いてもらえた、と思っている。午後1時〜3時は座間高校のPTA広報委員会の指導。こちらは小・中でのP広報経験者がほとんどなので〈ヤル気」十分と見た。それでこちらも少し高度な注文を付けた。

5月23日 
 中野区のPTA広報講座へ。出がけ、バスの時刻表を見間違えタクシーを呼ぶことになってしまった。秦野からはロマンスカーで。先頭車両の最前列の席に坐り、おにぎりを食べながら旅を楽しむ。
 暑い日、会場に入る前に20分ほど汗を乾かす。講座のまとめで主催者の区P連の役員が「昨年の広報紙は見ないでください。いま皆さんが思っていることを紙面に表してください。私たちはそれを待っています。11月のクリニックでは武先生をうならせましょう。期待しています」とまとめてくれた
 この日の神奈川新聞が「気仙沼での講座」のことを報じてくれた。

遅い!
【No.1218】 2015年05月13日

5月 8日 
 伊勢原市PTA連絡協議会PTA広報紙づくり講座。参加は150名超とか。伊勢原はこのところヤル気十分。
5月 9日
 「秦野ゆとりの会」の例会。菊づくりの情報交換。箱根大涌谷の蒸気爆発の可能性について勉強。
5月10日
 「まほら秦野みちしるべの会」の年次総会。10周年記念誌の発行に向けて執筆担当など決める。
5月11日 
 ようやく畑仕事。里芋の播種。
5月12日
 松田町教育委員会の広報紙づくり技術講習会。
5月13日
ユウガオとアサガオの播種。遅い!  ゆとりの会の新会員歓迎会。

 気仙沼行
【No.1217】 2015年05月04日

4/28〜5/1 気仙沼への旅(同行2名)

4月28日
 秦野→ 秋田空港→ 北上展勝地→ 一関・金烏神社(道祖神)→ 気仙沼・三陸新報社へ→ 市内が一望できる安波山展望台(渡邉専務さんの案内)→ フカヒレの加工場→ 朝倉社長、渡邉専務さんによる「ウエルカムパーティー」・『大政寿司』(逸品・フカヒレのにぎり、日本酒は地酒『蒼天伝』)

4月29日
 道祖神社、羽黒神社で道祖神に会う→ リアス・アーク美術館→ 三陸新報社でPTA広報紙講座(13:30〜16:00) → 焼き魚の『福よし』で「打ち上げ」と「フェアウェルパーティー」(逸品・キンキの焼き物、ホヤ、日本酒は地酒『水鳥物語』)。

4月30日
魚市場→ 寶鏡寺→ 大仙市の人形道祖神めぐり(4基)→ 角館・武家屋敷→ 角館・広久内の道祖神(1基)→ たざわこ芸術村  

5月 1日
田沢湖→ 大仙市の道祖神めぐり(5基)→ 秋田空港→ 秦野

この一週間
【No.1216】 2015年04月25日

4月20日
 海老名市教育委員会に招かれて「PTA等広報編集研修会」。海老名市は初めて。終わってから相談がいくつかあった。私なりの力は出し切ったと思っている。

4月21日 
 中井町教委主催の「広報紙づくり教室」。お父さんの広報委員も出席してくれた。「カメラなら、と思って立候補したが、実際に学校やPTAの行事を撮るとなると難しい」と話してくれた。
 講座担当のUさんからお礼のメールが届いた。「今日はありがとうございました。先生が帰宅された後もみなさん熱心に打ち合わせをしていました。9月の第二回広報づくり教室もどうぞよろしくお願いいたします。余談にはなりますが、私の母もK小学校の広報委員をした折り、武先生にお世話になったと言っていました。わたしが小学生の時なのでだいぶ前の話ではあります…。『武先生まだ現役で活躍されているんだね、すごい』と話していました。これからもお身体に気をつけてください、とのことです」。

4月23日
 伊勢原市の日向薬師・宝城坊本堂の解体修理の現場に入らせてもらう。修理が進められている本堂は国の重要文化財。昨年2月27日にも見学させてもらった。茅葺の作業が始まっていた。竹で組まれた下地を目の当りにし、気の遠くなるような作業をする職人の心意気を感じずにはいられなかった。

4月24日
 東中学校での「新聞講習会」。閉会の前に3年生の三名がこの講座での印象に残ったことを述べた。Tさん「個人名がたくさん紙面に載る新聞が良い新聞。それは大勢の声を集めた新聞だから、という先生の話」。Hさん「今よりもっと良い学校にするために、いやな事でも記事にしたい。見て見ぬふりはしない」。Iさん「なんとなく記事を書いていた。東中新聞が発行されている意味を学んだのでこれからしっかりとした記事を書きたい」。

4月25日 父の27回忌の法要。そして来週28日は気仙沼に向かう。

「新聞づくりは仲間づくり」の行脚始まる
【No.1215】 2015年04月17日

16日 晴れ。
 今年度の「新聞づくりは仲間づくり」の行脚が始まった。大井町での「広報づくり研修会」。この町の講座は幼・小・中のPTA広報委員だけでなく、子ども会育成会、自治会、体育協会、青少年指導員協議会、文化団体協議会、さらに広報づくりに興味のある人など、いろいろな分野からの参加があるのが特長。
この日の40名ほどが来場されたが、その3分の1はPTA広報委員以外の方だった。皆さん、熱心に聴いてくださり質問も出た。
 帰りは上山田から篠窪を抜けた。これは大井町の道祖神を探すため。4塔をカメラに収める。
 元気に動いただけに“疲れた”。

観桜会
【No.1214】 2015年04月07日

「春に三日の晴れ無し」。今年もやはり「花に嵐」。ところが昨日は“晴れ”。
 「ゆとりの会」の9人で観桜会。山北町に住む会員のNさんTさんの案内で山北駅周辺の桜並木の下をゆっくり歩く。そのウオークの途中で二基の道祖神に会えた。おいしいと評判のパン屋に寄りお土産にアンパンも買った。
 1時間ほど歩き駅前の日帰り温泉「さくらの湯」で元気を取り戻す。そして「桜まつり」のお祭り広場で食事会。風はなく陽光は熱いくらい。風呂上り、満開の桜を眺めながらビールで乾杯。Nさんが地元の造り酒屋さんに走り日本酒「丹沢山」を求めてきてくれた。おいしい酒なのであっという間に空。再度、酒屋に走ったNさんが、帰ってきて「この一本がこのシーズンの最後のもの。もう無いから」と言われたと笑う。
 9人で清酒2升、缶ビールは数知れず。気がつけば、広場で盛り上がっているのはこのテーブルだけ(でも眉をひそめられるようなことはしなかった、つもり)。そして、気が付けば、乗るはずたった列車を逃がしていた。
 「ゆとり」と名を持つ会にふさわしい、ゆったりとした春の一日を持つことが出来た。8人に感謝したい。

心を引き締めて
【No.1213】 2015年04月04日

 4月1日付けの『三陸新報』の「四月のこよみ」欄に、気仙沼で29日に行う「PTA広報紙づくり」の講座が取り上げられていた。この
 講座について言えばこんなメールも届いている。「4月の気仙沼の講座、受講される方にとっても武先生にとっても良い時間になるといいですね」。鶴巻中学校時代の教え子のHさんからだ。Hさんの言葉にあるようにように、受講された方にとって良い時間になるように心を引き締めその日を迎えたい。

4月1日
【No.1212】 2015年04月01日

 今日から高校生の隣のUさんがお母さんと一緒にお赤飯を持ってきてくれた。宿題は、と聞いたら「もう全部終えています。高校生活、今からもうワクワク」と笑顔。
20数年前、野球部だったO君の突然の訪問。乗ってきた車には印刷会社のロゴが。「先生、顔が穏やかになりましたね。あの頃は、もう」と笑う。社長に「広報の作り方を教わってこい」と言われたとのこと。その社長Kさんは妻が部長をしていた時代のI高校の野球部員。
 
 ウチの桜はほぼ満開。たった三日で鶯は「法、法華経」とさえずるようになった。我が家の新しい一年のスタートは“上々”なのだが、朝のくしゃみには…。

 寺山ウオークのお誘い
【No.1211】 2015年03月30日

ご案内

  古道・大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて NO1
 「東地区の大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く」
  ・日時 4月3日(金) 午前9時〜午後3時 
  寺山の七つの道祖神や青面金剛像など拝観します。桜も見ごろです。
 「まほら秦野みちしるべの会」がご案内いたします。
  まだ間に合います。参加ご希望の方は東公民館へ。電話 0463-82-3232

いよいよ春
【No.1210】 2015年03月29日

 きのう3月28日、ウチの桜も開花。そして今朝、裏の潅木の茂みから鶯の初音を聞く。「今年も訪ねてきてくれた」と妻と喜ぶ。だが、そのさえずりはヘタクソで《ホー》がまったく伸びない。それでも午後になるともうかなり上達。
 4月3日は「古道・大山道を歩く」の新年度第1回で、寺山地区を案内する。そのウオークで昼食をとらせてもらうM家、青面金剛の庚申塔などの屋敷神を見せてもらうT家を訪ね、そのことをお願いをした。いよいよ春。

七分咲き
【No.1209】 2015年03月23日

10年前、秦野市市制50周年記念事業の『市民が作る広報はだの」を17名で作った。その編集委員の一人に中学一年生の浦田友里さんがいた。友里さんのお母さんの江里子さんも編集に加わった。
 今、東京芸大の大学院で三弦を学んでいる友里さんが、3月21日東公民館で『春の七分咲きコンサート』を開いた。中学の同級生である柳沢さんと二人のミニコンサート。柳沢さんのマリンバ、友里さんは琴。「この和・洋楽器(マリンバはアフリカ生まれの打楽器)のコラボは全く珍しい」と二人は笑う。プログラムの「初鶯」に琴本手が友里さん、江里子さんが琴替手で共演。ここで友里さんは琴歌「初鶯 作詞・大和田建樹」を歌う。悠々たる、そして堂々とした歌唱に目を見張るばかりだった。
 昨日「友里が、一緒に弾こうと言ってくれて、思いがけず二人で地元で演奏できるなんて、夢のようでした。お稽古は続けているものの、今や友里の本業は別の世界にあるので、人前で(ましてや二人で)お箏を弾くことはもうないだろうと思っていました」と、その喜びをお母さんはメールで伝えてきた。
「今日は《七分咲き》だったのかも知れませんが、お二人にまもなく満開の日がきます。その日を楽しみにしています」とお礼を伝えた。

 一年のまとめの時 
【No.1208】 2015年03月18日

 3月も旬日を残すのみ。26年度のまとめの時である。
 PTA広報紙の年度最終号が続々と送られてくる。そして活動についてこんなこ感想も。「初めは大変! だったけど、結果としては楽しかった。なにより友達が出来たことがよかった。『新聞づくりは仲間づくり』ってホント。チャンスがあれば又広報を作りたい」

 昨日の夕方、Mさんが末っ子を連れて来訪。「今日が卒園式でした。お赤飯 食べてください」。

こんなまとめも
 平成26年度秦野市小・中学校PTA広報紙展示会
  主 催  秦野市PTA連絡協議会
  日 時  3月17日〜3月31日 午前9時より午後4時30分
  会 場  秦野市立本町公民館ロビー(イオンさんの隣り)
  内 容  市内小・中学校22PTAの発行した全広報紙を展示
       平成26年度広報紙コンクールの結果の発表

 今、市内22PTAの広報紙の講評を書いている。締め切り日まであと一週間。
 今日は彼岸入り、お墓の掃除に行かなければいけない。

秦野市PTA広報紙コンクール審査会に出席
【No.1207】 2015年03月11日

3月10日
渋沢小学校で秦野市P連の平成26年度広報紙コンクールの審査会。審査員はP連会長、副会長(教職員代表・校長先生)、P連・情報委員5人、それに私。午前10時から午後3時半まで。今年度発行の全号を読む。学校教育や子育ての課題がこれらのPTA広報紙からも浮かび上がってきている。

 参加した22単位PTAの広報紙を数字で見てみる。

小学校 13
@ 年間の発行回数 ・平均3.5回 ・年間発行回数 最高6回 1校
A 1号のページ数 ・平均4.7ページ ・最もページの多い号は8ページ
B 発行回数の最も多い広報紙とページ数の関係 6回で32ページ
C 広報活動費(今年度の決算額) 最高336,500円 最低68,480円

中学校 9
@ 年間の発行回数 ・平均 4回 ・最高発行回数 5回 4校
A 1号のページ数 ・平均5.3ページ ・最もページの多い号は8ページ
B 発行回数とページ数の最高は 5回で40ページ
C 広報活動費(今年度の決算額) 最高360,000円 最低77,428円

久しぶりのウオーク
【No.1206】 2015年03月05日

3月4日
 東公民館の事業「富士道を歩く・路傍の神仏を訪ねて 毛大日堂境内〜渋沢・國栄稲荷神社」に「まほらの会」の会員6人が案内人として参加。この日のコースは「富士道」を示す道標などの石造物を8基、当時は宿だった建物なども見て歩いた。
 朝のうちは曇りだったが午後は晴れ、暖かい天候に恵まれ楽しいウオークになった。同行者18人の感想はおおむね好評。私個人としても、5カ所で道祖神の写真を撮れたので良いウオークだった。
 次回は4月3日。「大山道を歩く・路傍の神仏を訪ねて・寺山地区」。我が家の桜もコースの中に入っている。

まねきにあひて 埼玉行
【No.1205】 2015年02月26日

「道祖神のまねきにあひて」
 24・25 日の両日、埼玉の川越市・越生町・寄居町・深谷市・熊谷市・滑川町の道祖神さんを探して走る。川越市立博物館で「川越には道祖神は一基しかない」と聞かされる。しかも摩滅が著しいらしい。それであきらめる。
 武州(埼玉県)は富士講や大山講なとが盛んな地だった。川越市内の富士浅間神社に参拝。この社は富士塚を模した丘(古墳だそうだ)の上に建っている。拝殿の裏に火山岩で覆われた神殿があった。
 境内に二基の富士講の祈念碑が建っていた。一つは富士講の創始者「藤仏(長谷川角行)」と、その教えを普及させた「食行身禄(じきぎょうみろく)」の二人に信仰の誠を捧げる碑である。もう一基は「富士山登頂」を66回と「外八海内八海」の修行を成し遂げた講中の造立。碑文を興味深く、楽しく読んだ。

新聞コンクールの結果
【No.1204】 2015年02月11日

 毎日新聞・毎日小学生新聞・全国新聞教育研究協議会主催の第64回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果が昨日2月10日に発表された。
 秦野からは学校・学級・学習・PTA新聞の4部門で16紙が入賞。“新聞づくりの秦野”は今年も《健在》。
 詳しく知りたい方は、私のホームページのリンク集から「全国新聞教育研究協議会」のホームページに入ってください。全入賞紙の一覧がアップされています。

どんどの火
【No.1203】 2015年02月09日

 きょう9日は新聞休刊日。それで昨日の2紙の「歌壇・俳壇」をゆっくり味合う。今ごろは「どんど焼き」を詠んだものにも出合える。

 左義長と他所で言ふらしどんど焼き遠い故郷の竹爆ぜる音   横浜市 古川 紘一

 村の子の願ひを空へどんど焼く  兵 庫・太子町  一寸木詩郷
 海風に負けぬどんどの火の勢ひ  神奈川・葉山町  中島さやか
 亡夫愛しどんどん焼きの夜ならば     平塚市  岩崎 玲子
 雪の中の炎祈りのかたちかな   山 形・白鷹町  新野 祐子

 午後訃報届く。寺山は三時過ぎまで小雪舞う。
  どんどの火ことしも点けて友逝けり  勝美
 

三種の新聞に出合った日
【No.1202】 2015年02月07日

2月6日
 午前中「秦野市ボランティアコーディネーターの会」の会報づくりの指導。「市民に会の活動の様子を積極的に知らせることをメインに」と話した。「作文(記事を書く)なんて何年ぶり?」と戸惑っていてる委員が多い。それで「たくさんの声を集め、その声で組み立てるのが記事。取材とは声を集めること」と説明した。
 3時過ぎ「東中新聞」1023号(2月5日発行)を持って三人が来る。前号1022号は1月27日に出た。その活動振りを賞賛。トップ記事は縦見出しで『なぜ着ない? 長いジャージ』。「日本語・日本の文字は縦書き用につくられたもの。『東中新聞』は縦書きでつくられているから主見出しは縦」と、ずっと指導している。それが定着しそうだ。
 4時頃、発行されたばかりのPTA広報を持って広報委員の二人が来訪。「子どもの生活」のアンケート調査が掲載されているので、「学級懇談会の話題の一つになったらいいね」と感想を述べた。すると「3月に懇談会があるので学校と会長さんにお願いしてみます」と元気よく帰って行った。

節分・豆撒き
【No.1201】 2015年02月03日

 秦野の節分祭・豆撒きは出雲大社秦野分祠が、毎年大勢の善男善女を集める。今年も横綱・日馬富士、安美錦、宝富士など大相撲の伊勢ケ浜部屋の力士が来ているのでにぎわっているだろう。
 日馬富士の名付け親はここの草山宮司さん。モンゴルで彼を発掘したのも秦野のKさん。その縁で、節分祭と一月三日の福迎祭には秦野に来てくれる。
 ウチでは、夕方神棚に灯明をあげ、私がささやかに「福はうち」と撒く。豆の入れ物は戦前から使っている「五合枡」。良寛さんの{五合庵}にちなんで? 快晴、風もない一日。

「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」
【No.1200】 2015年01月19日

1月18日 
 秦野市制施行60周年記念事業としての「まほら秦野みちしるべの会」のイラストマップ展示会が、18日で終わった。
 来場者のトータルは400名超。講座の出席者はおおよそ130名。盛況だった。
 ミニ講座を担当した14名の会員はそれぞれ個性的な説明をした。それだけに「テーマの一貫性」を欠いてしまい来場者には申し訳なかった。反省会で、さらに研修を深めなければいけないことを確認した。
「秦野をより広く、深く知ることで、秦野がいっそう好きになる。大好きな秦野のまちを育て、次代に引き継ごう」―これがこの展示会を開催した私たちの願いである。
 「ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる」

過去の日記へ123456789|10|1112131415161718192021222324252627282930   [管理]


-- トップページに戻る --