グランドフィナーレ 【No.331】 2005年01月09日
『広報はだの』が完成。昨夜、その反省会を開いた。反省会といっても事実上は解散会。一人ひとりが編集委員としての思いを発表した。誰の言葉も成就感を感じさせた。 「市制100周年記念の『広報はだの』を作りたい」と中学生たちが言ってくれた。30代の委員も「100周年記念号にはがんばって編集顧問で参加したい」と笑いながら話してくれた。現実味のある話。私も「あと50年後、このメンバーで『広報はだの』の記念号を作りたい。それまで秦野をもっと好きになるように『まちづくり』をしよう」と話した。 二次会はカラオケ。中学生たちがうまかった。彼女たちが歌った曲は、 “Forever memories” “No way to say” “sign” “Moments”“VALENTI” “雪の華” “真夏の夜の夢” “真夏の果実” まだあったけど取材しきれなかった。 私は、私のテーマソング「よせばいいのに」。「『新聞づくり、もうよせばいいのに』と周りの人に言われているのに」です。そして「また逢う日まで」でグランドフィナーレ。
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七草がゆ 【No.330】 2005年01月07日
昨日久しぶりに本屋に行った。なぜか辞書が買いたくなったからだ。それでそのコーナーに行ったら、全面改訂の第六版の国語辞典が目に入った。奥付を見たら2005年1月10日第1刷発行になっている。ちよっと嬉しくなった。それで買ってしまった。記者に「夢」を聞かれて答えられなかった私。この買い物が「夢」につながればいい。。『野仏の見方』も買う。 「タウンニュース」紙の『人物風土記』、もったいないくらいていねいな記事。礼状を書いた。 7日、今朝は「七草がゆ」。三が日の雑煮の餅、そして今朝の七草粥の中の鏡餅。餅が好きなバアちゃん、家族の心配をよそに完食。 春のような暖かさ。私の畑の食用の菜花、背丈は低いのに、もう黄色い花を咲かせている。
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普通の生活が始まった 【No.329】 2005年01月04日
2日 お年始。それぞれの家庭で子どもたちが独立していくので来客は5人。それでもいつもの通り太巻き寿司を1升巻く。Sさんが車を置いてきたので少し飲んだ。ゼネコン勤務のSさんは「3回目のリストラがまもなく始まる。今回は危ないかな」と笑う。3時過ぎ、一斉に引き上げていく。宴の後は寂しい。
3日 いつもの通り教え子のMさんが来てくれる。「主人と下の二人の子は駅伝の応援。長女は今日から予備校」とMさん。ヘルパーの仕事をしている彼女の言。「先生 元気で死ななければダメ」。ほんとうにそう思う。 夜「五木寛之と五木ひろし」のテレビを観る。五木寛之が五木ひろしの名付け親とか。番組の終わりに五木寛之が、今の自分が在るのは本当にたくさんの人に助けられたからだと話した。。「一人で生きてきた」みたいに尊大な武勝美には、身にしみる言葉だった
4日 今朝から味噌汁が飲める生活に戻った。バアちゃんの入浴が終わってから、25日の『「寺山ものがたり」を歩こう』の説明ポイントの現状を見に行く。荒れた竹やぶの中「こんなところを案内しても」と思うが、大事な場所だからやはり見てもらうことにする。準備した年賀状が切れたので、午後郵便局に行った。混んでる。普通の生活が始まった。暖かい一日だった。
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何となく今年は良いことあるごとし 【No.328】 2005年01月01日
昨夜は3時間ほどかけて夕食。ビール2本と冷酒を3合ほど飲んだ。「『曙』かわいそうだね。相撲は格闘技じゃないのが分からないのかネエ」なんて話しかけながら飲んでいるから、みんなに嫌われる。
「紅白」、もう私が観るプログラムではない。歌謡曲・演歌と共にそれぞれの時代を生きてきた私、それは遠い過去になった。「アカシヤの雨がやむとき…」は60年安保。「息で曇る窓のガラス拭いてみたけど…」と石川さゆりが歌っていたころ、教組の役員で主任制の闘争をしていた。
足元が悪かった、危なかったので初参りには出かけなかった。
今朝は快晴。だが胃は不快。初日の出を二階から拝む。9時ごろからHP用の原稿を急いで書く。10時半にアップ。年賀状が届いた。十数人が『広報はだの』のことを書いてきてくれた。午後、返事を書き始める。30通ほど書き、あとは夜に。4時過ぎ、ちらちらと小雪が舞い始めた。南の空に雪雲。そしてまもなく西は青空が広がった。昨日の朝から今日の夕方までの天候の変わりようが、今年一年の予感とならなければよいのだが。
何となく今年は良いことあるごとし元日の朝晴れて風なし 石川啄木
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明日からお正月の仕度 【No.327】 2004年12月27日
昨日の日曜日、高校駅伝をテレビで観戦。母校・秦野高校が女子で15年ぶり、三回目の出場。結果は26位だったが、1、2年生のチームだから「大健闘」と言えよう。今日秦野の商店街を通ったら「秦野高校女子陸上部 感動をありがとう」という手作りの看板が立っていた。
今日は9時から教育研究所で開かれる研究員会議に参加した。2年かけて研究が進められてきた『秦野の新聞教育』が、明年3月に出版される。その出稿が年明けということで、最後の助言をする会議。
太平洋戦争が終わった直後の1947年に、秦野の中学校にも学校新聞が誕生している。この研究は、そのころの新聞を見つけ出すことからスタートした。研究員は現役の先生、全員年齢は50歳未満、新聞教育に深い思いを抱いていらっしゃるわけでもない。まさに“試行錯誤”でここまでたどり着いたようだ。そのご苦労は察して余りある。 2004年の12月に発行されたPTA広報まで、おおよそ60年間に発行された新聞が集められた。「学校新聞も又、時代を反映している」ことがわかる貴重な資料である。 まもなく冊子になるこの研究収録は、新聞教育にかかわってきた私にとってもったいない、嬉しい贈り物になる。
今日のこの会議で今年の私の活動は終わり。明日からはお正月の準備。例年ほど寒くないので、今のところ体調は良好。まずはお雑煮に使う里芋掘り。
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出張校正 【No.326】 2004年12月23日
12月22日
『広報はだの』の出張校正で小田原へ。「出張校正」という懐かしい言葉、そしてその仕事。広聴室のIさんの案内で5人で出向く。
新聞の出張校正に初めて行ったのは沼津の日興印刷という会社だった。「東中新聞」の校正で昭和39年だった。東海道線に乗り、丹那トンネルを抜けて沼津まで出かけた。。先輩の井沢先生と一緒だったので、なんとなく旅行気分だった。活字を一本一本拾って組版をする時代だった。担当の加藤さんがとても親切だったので、そのころはここに印刷を頼む学校が神奈川県でも多かった。それだけ学校新聞づくりが盛んだったともいえる。伊東市の東海美術印刷にも校正で出かけたこともあった。 小田原のS社に印刷を頼んだ年、担当のTさんと意気投合し、午前2時まで飲み歩いて帰ったら、「今、警察に捜索願を出そうと思っていた」と真顔の妻が玄関に仁王立ち。「更生施設」に送られるところだった。
今日は10時から5時までで、4回見ることができた。カラー印刷なので色校正は後日に。4ページ、レイアウトは見事に収まった。空き行は一つもなし。今日の段階では「満点」。17人の力の結集の結果だ。市の車での往復。車体に記されている文字は「秦野市議会」。
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ユズ 【No.325】 2004年12月21日
火曜日はバアちゃんの入浴の日。「もし差し障りなければユズを使いたいが」とお世話してくれる人に聞いてみた。「どうぞ、どうぞ。私たちもユズの入浴剤を今日はもってきましたので」。それでバアちゃんはきのうもらったユズを握り、ユズの香りの風呂に入った。入っている時間がいつもより長かった。たぶん、介護の皆さんが気を使ってくれたのだろう。 今日は冬至・ユズ湯。午後、湯河原から届いたみかんの箱にユズが入っていた。「今夜のお風呂に間に合うように」という手紙が添えられていた。
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もらひたる柚にも峡の日のぬくみ 木下夕爾 【No.324】 2004年12月20日
食卓の私の定位置から隣の畑のユズの実が見えていた。12月に入ったころからその黄色く輝く実は、濃い緑の葉影から浮かびあがってくる。今日の昼食のとき、テーブルに着こうとしていつものように窓の外に視線を送った。多分数十はあっただろうユズがすべて消えていた。黄色の背景を作っていた緑が煤けたような色に見えた。 ほどなくして玄関のチャイムが鳴った。出てみるとユズの木の持ち主のMさんだった。「こっちのほうはユズ湯に。それと、これは落としちゃったので、よかったら食べてみてよ」。割れたユズの香りがたちまち家中に広がった。暦を見たら明日は冬至。 「煮大根にユズを添える」とこの間の新聞に出ていた。それで畑から大根を一本引き抜いてきた。今夜は「熱燗」にしよう。
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今年の冬 【No.323】 2004年12月13日
私の中ある秦野の季節感が、この冬にはまったく当てはまらない。庭に出ると水仙の香りが強く流れてくる。もう我が家の水仙は満開。庭続きの畑に蒔いた絹サヤが今年は元気がよい。例年なら今頃から霜にいじめられ、成長が止まってしまうのに、生き生きとした緑の葉をもう数枚つけている。まだ里芋は掘りあげなくてもよさそうだ。タカフチ山の色合いも黄や茶色など暖色のまま。きょうは一日かけて柿の木の剪定をした。この作業も例年なら鼻水を垂らして、なのだが。その柿の木、一年経っても幹が太っとは感じないが、背丈は確実に伸びている。脚立に乗っかる姿勢が危なっかしくなっている。 二学期末になった。この秋に発行されたPTA広報が続々送られてくる。きょうまでに17校。数年前までは二学期号は、運動会や文化祭の写真特集が多かった。今届いている広報は『子どもの安全』『PTA祭りってなんのためにやるの』『親子で読書を』『他にないの委員の選出方法』など、かなり骨っぽい特集が組まれている。頼もしい。
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すごい一日 【No.322】 2004年12月08日
12月7日の私の生活 9:00 バアちゃんの入浴サービスが始まる。 9:15 私の歯の治療。 10:00前 Mさん家族新聞を持ってみえる。 11:00 バアちゃんの歯の治療(往診) 13:00過ぎ 「エコー」を届けに南公民館と東公民館へ。 15:30ころ T議員突然の来訪、1時間ほど学校教育の論議。(お願いした写真を届けにM先生、加えて教え子のTさんも来訪。T議員と重なってしまい、二人には申し訳ないことになってしまった。) 18:00過ぎ 学校からの帰りにO先生「エコー」の原稿を持ってきてくださる。
・茨城から名産が送られてきた。すぐに礼状を書く。 ・研究所のSさんから「明日会いたい」との電話。 ・旅行の請求書がファックスで来る。明細を植木さんに電話し、支払いの準備をしてもらう。 ・M先生と「広報はだの」の写真の件で打ち合わせの電話。
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そんなに気にしたって、あなた 【No.321】 2004年12月06日
『広報はだの』12月1日号の反響。 その1、鶴巻中時代の教え子からメールが届いた。 その2、同じく鶴巻中時代のPTA広報委員さんからもメール。 「相変わらず頑張っておられますね☆ 髪がちょっと…? 他は少しも変わらずとても懐かしかったです! 私も元気にしています。切り取っておきます。これからもお元気でご活躍下さい(^o^)/~」 そう、自分でも紙面を見て「もう少し整えておけばよかった…」。そんな反省をしていたら、12月4日の朝日新聞の夕刊に「見た目 そんなに気にしたって、あなた」という山口文憲さんのエッセイに出会う。けっこう納得! このページの他のエッセイ「焼酎」、「ほろ苦」、「二枚目」、そして「法政学館」もおもしろかった。エッセイといえば神奈川新聞日曜日の「風ひかる」欄の馬場あき子さんのエッセイも好きだ。
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秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は養老渓谷でした 【No.320】 2004年12月04日
所属する秦野園芸愛好会の今年の研修旅行は12月2・3日に行われた。今年房総の養老渓谷の紅葉がメイン。1日目、筑波宇宙センターを見学する予定が渋滞に巻き込まれやむなくパス。というのは那珂湊港で握りずしの昼食が待っているから。午後は鹿島神宮で今年の納めの参拝をする。午後3時近かったので境内は森閑としていた。奥宮に続く参道が気に入った。泊まりは犬吠埼。二日目は灯台に登り地球の丸いのを確認。銚子市内の見学をして九十九里沿いに下る。一宮で太平洋を眺めながらの魚三昧の昼食。刺身がとろけるように甘い。昨日今日と、かなりのボリュームの昼食だが、キレイに平らげる自分に驚く。周りに釣られてかもしれないが、とにかくおいしいから食べられるのだ。腹ごなしに養老渓谷では川沿いに約3キロメートルを歩く。例年のごとくサロンバスを使った。全員オーバー・シックスティだが、よく飲み、よくしゃべり、よく食べ、元気よく歩いた研修。 夜の懇親会の席で、会長から「会員が死亡したときには花輪で弔意を表したい」と提案。多分この提案が励みになって(?)、ますます元気に会になることだろう。大拍手で承認。会員22名のうち16名の参加は過去4回の旅行と比べ最高。来年はどこで紅葉狩りが出来るのだろうか。
『マンスリーエッセイ』のページに写真をアップしています。
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イノ・シカ・チョウとの戦い 【No.319】 2004年12月01日
「丹沢大山総合調査」を神奈川県から委嘱されている日本大学の日暮先生にお会いした。「秦野地方は『水と生活』が調査のテーマになる」ということで会いたいとのこと。それで湧水についての資料を提供することになった。 東田原の横掘り井戸、寺山・西の久保の天水場、清水湧水池跡記念碑、横畑の松下家のわさび田を案内して回った。 松下家では運良く当主の雅雄さんに会えた。農学が専門の日暮先生と「JAはだの」組合長である松下さんとの会話では農業に話が行き着くのは当然。その内容は大変興味深いものだった。 「農家は今、イノ・シカ・チョウの戦いわしてる。チョウは蝶じゃなく、鳥害だけど」と笑う松下さん。松下家は屋敷続きに竹やぶがあるのに、この春は一本も竹の子を取ることができなかった。竹の子がまだ地中にあるときに猪に食べられてしまうのからだ。 「鹿も鳥も同じ、実る前にすべて食べてしまう。堆肥を撒いて土を肥やし、野菜を作っても、種を蒔いた時点で畑はすべてひっくり返されてししまう。地中のミミスを食べるからだ。有機野菜など作れない。最初はネットを張り巡らして防いだ。次は匂いの強い化学肥料を撒いた。人声を聞かせるのがよいと教えられラジオを畑で鳴らすことも試みた。すぐに慣れられてしまった。爆竹も使った。カーバイトを使った脅し銃も鳴らしたが、どれもその瞬間だけ。最後の手段として、建築工事の現場を囲う鉄板、2メートルもある高さの、を張り巡らした。さすがに猪も鹿も越えてられない。今は朝、穏やかな気分で家の周囲を歩ける」と松下さん。奥さんが話を継ぐ。「朝、荒らされてしまった畑や藪を見ると、辛くて。悔しいより、寂しい。このお百姓の心が分かりますか。今はほんとにホッとしている」。そして「いつまで“勝って”いられるのか。それと工事費を考えると…。でも畑や山は荒らせない…」
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歯の治療 あの音 【No.318】 2004年11月24日
バアちゃんの唯一の楽しみである食事、その食事のとき顔がゆがむ。入れ歯が合わなくなったらしい。私のかかり付けのSさんに往診を頼んだ。 きょうで4回目、本格的に治療ということで入れ歯を削ることになった。 入れ歯だから削るにしても外せばいいわけだが、年齢が年齢、そして耳が遠いのだから治療はたいへん。立ち会っていなければいけないので、あのグラインダーの音を側で聞くはめになった。自分の治療ではないのに、歯が浮き、神経がうずく。 ベッドに横たわっているバアちゃん、聞こえるはずはないのに、この音は聞こえるのだろうか。それとも響いて伝わるのだるうか。それとも、30数年前の治療を思い浮かべているのか、作業中のお医者さんに顔を向ける。まもなく呼吸が荒くなり、目じりに涙が…。入れたり外したりの動作中も涙。こうして、1時間かけ治療が終わった。 昼食を摂る様子を眺めていたら落ち着いていた。だが、歯の治療はそんなにたやすく終わるものではない。生きてることはたいへん。
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新米届く 【No.317】 2004年11月22日
きのうの午後、宅配便のお兄さんが元気よく我が家に入ってきた。福島から新米が届いたのだった。送り主は教え子のTさん。 玄関に置かれたその箱を持ち上げようとしたが、そう簡単には動かなかった。なんと30キロのお米。
今朝、食事の前に目を通していた朝刊の俳句欄に 「ずつしりと新米届き動かせぬ 渡辺あや子」 という一句を見つけた。 長谷川櫂の選評「新米というと軽やかな感じがするが、実際には水分が多いので重い。軽やかにして重たい新米の喜び」 今朝、その新米は、甘く、しっとりと炊き上がった。 きょうは「小雪」とか。この冬は、身も心も温まるご飯を毎朝いただける。
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11月18日 満ち足りた一日 【No.316】 2004年11月19日
もうお正月の準備だ。お隣に植木屋さんが入った。それで庭での枯葉焚きを午前中は遠慮した。 小さな耕運機(ホントは管理機というのだ)で畑を耕し、そのあとに玉ねぎの苗200本を植えた。昼食を食べていたらポツポツと雨。あわてて庭に飛び出し、桜の落ち葉の山に火をつけた。真っ白な煙が小学校の校庭の方に流れるのを気にしながら、絹さやエンドウを蒔く。雨脚が強くなったが、雨樋の掃除もした。これできょう予定していたことは全部終わった。満ち足りた心。 夕方、留守電を入れておいた谷津さんから電話。『広報はだの』の4ページを制作するこれからの手順を話し合った。中学生の手書きによる紙面なので、出稿してしまったら校正はほとんど不可能。出稿までが勝負。22日の作業の後、谷津さんが原稿を届けてくれることになった。夜10時近く、4面のリーダーの鎮西さんから電話。22日に集まって本格的に作業を始めるとの報告。谷津さんが出向くから、と伝えたら喜んだ。
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市民が作る『広報はだの』 最後の編集会議 【No.315】 2004年11月18日
市制50周年記念の『広報はだの』の編集会議は昨夜で最終回。担当した面の取材や編集会議を含めれば、各人が10数回がんばったことになる。 11月末には出稿。今夜は各記事を全員で読み、記事を完成させるのだが、取材担当者は、自分の記事に対する思い入れもあるようで、なかなか訂正に応じない。自分らしさを記事の中に表したいようだが、「市の広報」という枠があることで納得してもらう。編集の責任者として、一人でも多くの市民に読んでもらう紙面づくりを再度お願いした。小学生でも読める平易な文、魅力的な見出し、この二つの作業に集中してもらった。 4面は中学生の手書きのページ。その中に4コママンガが入ることになっている。担当は中1のUさん。今までに10回以上描き直してもらっている。吹きだしの中の言葉にもかなりダメを出した。だがUさんはめげない、ふてくさらない、ひるまない。彼女の若さ、しなやかさがうらやましい。
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桐生好幸君 【No.314】 2004年11月17日
11月6日に開かれた同窓会に出席していた桐生好幸君が、交通事故に遭い、亡くなってしまった。15日の朝、信号待ちしていた彼の車に大型トラックが突っ込んだ。前の二台も大型車だった。 同窓会の夜、私が席に着くとすぐに声をかけてきたのが桐生君だった。「お久しぶりです。お元気ですか」と彼。「なんとか元気。やせたんじゃない? 元気なの」「この通り、大丈夫です。けっこう仕事が忙しいんです」。こんな言葉を交わしたことを思い出す。 49歳、4人の子の父。彼の霊に捧げる言葉が見つからない。
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県学校新聞コンクール 【No.313】 2004年11月09日
第54回神奈川県中学校・高等学校新聞コンクールの結果が今朝発表になった。中学校・学校新聞の部では最優秀賞が秦野・大根中学校で、これは4年連続の栄冠の快挙。ほかに秦野市からの入賞は優良賞・東中学校、佳作・北中学校、努力賞・鶴巻中学校だった。学級新聞は川崎市が圧倒。最優秀から佳作まで7つを独占。秦野は努力賞に鶴巻中の1年生のクラスが入った。 応募数や入賞校の地域をみると、中学校が新聞づくりが出来る環境でなくなってきているように思える。こんな今だからこそ、新聞が果たす役割を先生たちに理解して欲しいのだが。 今年の新聞週間の「新聞広告を広告する」コンテストのキャッチコピーは『世界を前より平和にしたぜ』だった。新聞広告だけでなく、新聞そのものがこんな自信をもってくれたら、学校での新聞づくりも復興すると思う。
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今年は都大路を走る秦野高校 【No.312】 2004年11月08日
駅伝のシーズンになった。暮に京都で行われる全国高校駅伝、新春の箱根駅伝、そして同じく京都を走る都道府県対抗女子駅伝と楽しみが続く。 その高校駅伝の県の予選会が6日に行われた。そしてなんと女子の部で秦野高校が15年ぶりに優勝した。5連覇中の白鴎女子にわずか1秒の差で勝った。見事というしかない。男子の部でも秦野高校は6位、こっちも7着の横浜高校と同タイム。上位6校は関東大会に出場できるのだから、横浜とは天国と地獄の差。秦野高校の陸上部から1500bの石井隆士選手、女子マラソンの小幡選手が出ている。 その秦野高校の全校マラソンは私の在学のころから行われていた。当時は土屋橋往復の1万メートル。まだはるか彼方が折り返し点というところで、トップ集団の陸上部の海老茶色のランニングシャツに出会う三年間だった。
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小田原経由鶴巻・陣屋行き 【No.311】 2004年11月07日
昨日午後、小田原駅前の八小堂書店で「『夢の本』フェア」を開いている夢工房の片桐さんを訪ねた。秦野で小さな出版社を15年前に興した片桐さん。丹沢山麓や箱根、小田原などの生活文化や自然に力点を置いた出版活動を続けているのが「夢工房」の特色。今までに400冊も刊行してきている。私の本も4冊並べられていた。そして鶴巻中がお願いした創立10周年誌と研究集録も置かれていた。 そして5時から鶴巻・陣屋での同窓会に出席。ちょうど50歳になった彼ら。小惑星を6個発見した天文家、今話題の品川・Pホテルの調理部の課長、前田夕暮研究をしている大学の先生、ゴルフ場の支配人、歯科医、幼稚園長、消防署員、学校の先生、介護士、JA勤務、農業、教員など顔ぶれは多彩。そろそろ親の介護が始まる年代、何人かの女性からそんな話をきかされた。男性は「リストラ年代」を強く意識している。子どもが外国で学んでいるという報告が二人からあった。そんな時代でもあるが今。 余興の餅つきに興じた。小室さんと私をまぜて41名全員が二次会に出た。11時過ぎまで飲んだがカラオケは回ってこなかった。
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浦佐からの便り 【No.310】 2004年11月04日
きょう、10月25日の日記に記した浦佐のOさんから便りが届いた。
お電話ありがとうございました。「中越地震」には、本当にこわい思いをしました。22日に退院をしてきて、23日に地震にあつてしまいました。車椅子に移ることも出来ず、部屋に二人で、じっとしていました。幸い怪我もなく、ここが一番安全だと思えます。 ここ数年、いろいろ病気になりまして、現在はベットにいます。電話での会話も出来ないので失礼しました。 今年は、新潟に来てもらえると楽しみにしていましたが、残念なことでした。浦佐は「湯沢−長岡」の中間の震源地の近くということで、きついゆれが幾日も続きました。さすがの新幹線も、地震には勝てませんでした。今日もまだ余震があります。 皆さんにご心配をおかけしましたが、もう大丈夫、落ち着きました。訪問往診も、看護師さん、ヘルパーさんも、みなさん予定どおり来てくださいます。地震が落ち着きましたら、どうぞ新潟にお越しください。お会いしたいと思います。 平成16年11月2日
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きょうは『十三夜』 【No.309】 2004年10月26日
昨夜出かけたある会で、知人のAさんから「明日の晩楽しんでください」とプレゼントされたものがあった。帰ってきて開けてみたら『秋の宵』というラベルの日本酒が入っていた。 そう、きょうは『十三夜』なのだ。昼過ぎ、雨の中を月見まんじゅうを買いに出た。いつもの和菓子屋さんに行く。この店は店先にススキをバケツに入れて置いている。それが「きょうは十五夜だよ」「十三夜のマンジュウがあるよ」という知らせになっている。「ススキを取りに行けないから」と言ってススキとフジバカマをもらった。女主人が店内の月見飾りのシュウメイギクを一本付けてくれた。 我が家の月見飾りには庭の柿も一個供えた。お豆腐を買うのを忘れたけど、『秋の宵』があるから、お月さんは許してくれるだろう。さて「今宵は」残念ながら雨。
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浦佐・小千谷 【No.308】 2004年10月25日
今週の27・28日、大学時代の仲間のひとりOさんを新潟の浦佐に訪ねることになっていた。10年ぶりになるのだが、四国・今治からKさん、山形・尾花沢のSさん、東京のNさん、そして私の4人が体を不自由にしているOさんを見舞うことにしたのだった。 27日は4人で湯沢温泉の「雪国」の高半ホテルに泊まり、旧交を温めることになっていた。紅葉も見ごろかもしれない、と楽しみにしていた。ところが小千谷を中心にして起こった大震災。 Nさんはその小千谷で育ったのだ。学生のころNさんの家に泊まり初めてスキーをした。浦佐のスキー場はOさんに連れて行ってもらった。その小千谷と浦佐に行けることになっていたのに。Nさんと話し「来春に」ということにした。きょう22日の消印のはがきが尾花沢から来た。「27日に逢えるのを楽しみにしています」とあった。 昨日のテレビに、村田防災担当大臣(だったと思うが)が新潟県知事と会っている画面が出た。二人とも防災服だった。この大臣を迎え握手をした人たちが数人いた。その人たちは背広だった。そして襟元にバッジが。 どこの局だったか、被災地の現場から背広ネクタイでその状況を報告しているレポーターがいた。
浦佐にようやく電話が通じ奥さんと話が出来た。Oさんは22日に退院したところだとのこと。「二人がいる部屋だけは何とか動けるように整理が出来た。他の部屋は今は手をつけない。当分ほっときます」と比較的明るい声。「二人だけの生活だが、余震が続く中でも、看護師さんが見回ってくれる。みんなに助けられていますから安心です」とも。Oさんは3度目の脳梗塞を起こし、言葉を口に出せない。私の声だけは聞いてもらえたようだ。がんばって欲しい。
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〇×クイズ 【No.307】 2004年10月21日
秋は学校祭のシーズン。先週の土曜日、お隣の東中学校では校庭で、保護者も加わっての「〇×クイズ」が行われたようだ。(司会者の声がスピーカーを通して我が家にも届いた。) クイズの第1問は「東中学校が出来たのは昭和20年より前だった」。そして校歌の作詞者が問われたり、一番若い先生が尋ねられたり。 そんな問題が3つ続いた後(多分4問目だと思う)「東中新聞ができたのは昭和30年より後である」という問題が出された。 東中の卒業生であり、東中新聞をつくってきた私は「へー、スゴイじゃない。やるじゃない!」という言葉が思わず口を突いて出た。学校新聞が全校生徒が答えるクイズとして出題される東中学校。『東中新聞』は学校生活の中で当たり前に生きているということだ。 新聞づくりをしている中学校はたくさんあるだろうが、学校新聞の活動がクイズになるというのは、稀だと思う。 『東中新聞』は9月30日で発行号数758を数えた。
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ジョウビタキがもう帰ってきた 【No.306】 2004年10月16日
高校の先生から手紙をもらう。「学校の改編が進みます。そうでなくても雑務ばかり増え、生徒と係わっているヒマ(おかしいですよねこの言い方、でも現実はそんな感じなのです)もありません。雑務の合間に授業に行っているという感じです。本校も三年後なのですが、状況によっては早まるかも知れず、先が見えない毎日です」。「来月、大山にフィールトワークに出かけれので」とのお誘い。ありがたいこと。 教え子が進路相談?に来た。中学校は中間試験が終え、「あと一と月後に期末。ぴりぴりしている」らしい。「親子で浮き足立ってしまうのはいけないと思って」と2時間ほど話していった。 きょうの予報はまったくはずれ。秋日和のはずなのに、寒い。バアちゃんは寒がり、というより、右足に金属が入っているので血行がよくない。足先が冷たい。それで電気毛布にした。 こんな気候だからなのか、裏のしげみから「ヒッヒッ」とジョウビタキの声。もう帰ってきたのだ。
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昨夜の我が家のできごと 【No.305】 2004年10月13日
バアちゃんの部屋から声が聞える。駆けつけてみると、ベッドの上に起き上がりテレビを見ている。イヤホンを着けているし、視界がたいへん狭くなっているので、私たちがそばにいることに気が付かない。 「一生懸命生きている」。バアちゃんのしっかりとした言葉が口から出た。「ああ、また何か言いたいのだな」と思った。 3か月くらい前だったろうか。「私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と、ベッドで天井を見据えて発した怒声。介護の仕方が気に入らないとも取れるこの言葉に、二人はうろたえた。悲しかった。 今夜もまた何か言いたいのだろう、と耳元に口を近づけようとしたら、バアちゃんの口から続きの言葉が…。「あなたの姿が道しるべ」。 テレビには歌っている川中美幸の姿。そしてその歌詞がテロップで画面の下を流れている。それを大声で読んでいたのだ。妻とうなづきあった。 「バアちゃん 歌を歌ってたのか」と聞いた。「そう、この歌 知ってるから歌った」。 どうヒイキめに聞いても、それは歌にはなっていなかった。バアちゃんの愛唱歌は「りんご村から」(三橋美智也)と「星影のワルツ」(千昌)。川中美幸の歌なんか知らないはず。それとも、ライフプラザで覚えたのだろうか。 昨夜の我が家のできごとでした。
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台風22号 【No.304】 2004年10月11日
台風22号の我が家の被害。建物はなんとか無事。実は「屋根が飛ぶ」のではないかと恐れていたのだった。築35年の日本建築、まだ持つとは思っているのだが。近所の土地が分譲住宅になり、風除けの立ち木が全部切り倒された。だから我が家は南西の風の通り道。 その風に何とか耐えた二階家に代わり、庭の藤棚がひっくり返った。甘夏の成木も3本倒れた。5メートルくらいのハナミズキが傾いた。庭続きの畑の大根や菜っ葉類は吹きちぎられ、影も形も無い。庭の隅々、軒下に大量の木の葉が吹き寄せられている。どうする? 乾くまでガマン。 今日は藤棚をつくり直し。スチールのパイプを全部組みなおした。絡ませる藤の枝を思い切り切詰め妻に叱られる。この春、枝垂桜の枝打ちをして、枯らしてしまったからだ。「桜切るバカ」だったのだ。この藤は5年前に植え替えたのだが、動かすのに大変なので、直径10センチほどの根を、地中30センチほどのところで切って移植した。それでも見事に根付き、紫の房を数十垂らした。バカみたいな話だが「この藤は根を切られたことを知らないんだ」と、そのとき思った。 延び延びの幼稚園の運動会が11時ごろから始まった。何とかきょう終えたいのだろう。音楽が流れてくる。ソーラン節が踊られているらしい。隣の小学校も、裏の中学校もソーラン節を踊った。はっぴ姿の踊りになぜか惹かれる。のぞきに行った。退場の音楽が「ねぶた」のお囃子。津軽は22号の影響は少なかっただろうか。
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「エコー」のHPは4年目に入りました 【No.303】 2004年10月08日
ホームページをアップして昨日で丸三年が経ちました。おかげさまでアクセスは3万を超えています。数字だけを意識しているわけではありませんが、カウンターの数字が変わることは確かに励みになります。 アクセス数を稼げる内容ではない「ECHO」。でも、その編集姿勢だけは一貫したものでありたいと願っています。
これからも時々お寄りいただければ幸甚です。そして、ご声援をいただければいっそう嬉しくなります。
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日本全国日刊新聞盛衰順序番附 【No.302】 2004年10月05日
3日、さいたま市で開かれる「関東パピルス」の総会に出かけた。午後3時集合なので、うらわ美術館でおこなわれている『創刊号のパノラマ』という展覧会をのぞいた。雑誌類の創刊号が2900点あまりが岩波書店で保管されているのだそうで、その中から「表紙の美しいもの、目をひくレイアウト、時代を映すカットや挿入写真に着目」して1500冊がここで展示されたようだ。 昭和34年、私は『新しい青年』(文化堂出版)という雑誌の創刊にかかわった。もしかしたら『新しい青年』に会えるかもしれないと思ったのだったが。慶応3年から昭和31年までのものしか展示されなかった。 会場の人影はまばら。ゆっくり眺めることができた。閲覧用の雑誌もあったので何冊が広げてみた。その中の一冊に宮武外骨が昭和6年に創刊した『面白半分』があった。奇人とも言われているこの人の雑誌である。パラパラとめくっているうちに「度胸満点」、私には興味津々の「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」という特集が載っていた。それでノートを取り出し、それを写し始めた。すると監視の女性がおずおずと近づいて来て「ペンをお使いになるのはご遠慮ください」「すみません、それじゃあコピー…、もちろんだめですね」「はい、受付にいらっしゃれば鉛筆と紙はご用意いたしますが」とてうわけで、その番附表を彼女の視線を浴びながら書き写したのでした。展覧会や展示会で座り込んでメモを取ったのはこれが初めて。 「パピルス」の会は新聞教育の会。その会に出かける途中でよい取材ができた。雨もなんのその、けっこう心は弾ずみ会場に到着。「動かなければ…」です。 「日本全国日刊新聞盛衰順序番附」とは新聞のランク付け。外骨氏のこの評価は、後日ホームページに載せます。乞うご期待!
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イチローくん 【No.301】 2004年10月02日
去年ひそかに思った。生きているうちにドラゴンズの優勝は見られないな、と。だから昨夜優勝が決まったことに喜びを感じなければいけないのに、そうにはならなかった。とにかくテレビ中継が観られなかった。パ・リーグのプレイオフと巨人・ヤクルト戦、たしかにヤクルトが負ければドラゴンズの優勝が決まるのだから、アナウンサーが興奮してしゃべったように「世紀の戦い」の放映なのだろうが。 テレビ中継なし、しかも負けたのだからドラゴンズフアンとしては、喜びは中途半端。ビールかけは見る気がしなかった。それでも、今朝スポーツ紙を買いに走った。それは『報知』が何をトップに置くかに興味があったから。『報知』、『ニッカン』、『スポニチ』などスポーツ紙全紙が「ドラゴンズの優勝」がトップだった。つまらなくなった。昔の『報知』は、こうではなかった。 2001年10月1日、「高橋尚子がベルリンマラソンで世界最高タイムで優勝」したことを「報知」以外の全スポーツ紙はトップにした。だが『報知』は「長嶋監督引退」で1面全ページを埋めた。これが『報知』だったのに。
イチローをここ数日追いかけていた。今日は11時20分まで庭で草取りをして、家に上がってテレビを見たら、イチローの登場、そこでヒット。運がよかった。その瞬間が見られた。258本目のヒットのとき、イチローが穏やかな笑顔を見せ、フアンにあいさつした。ジーンときた。 イチローといえば秦野にもイチローがいる。行列のできるラーメン店『なんっ亭』の古谷一郎さん。西中で彼に英語を教えた。その、彼の店が売り出している即席めんを今日の昼に食べた。店の看板に「うまいぜベイビー」とあるが、けっこういける。だが、まだ店に行ったことはない。1時間も並ぶ我慢が私にはできない。
「並ぶ」と言えば、お隣の小学校は今日は運動会。朝6時半の開場を待って午前2時ごろから行列ができたようだ。それを確かめに朝5時半ころ、正門まで見に行ってきた。(野次馬根性ではなく新聞記者魂からなのです)50人以上が並んでいた。おじいちゃんおばあちゃんの一組も。母親の姿はちらほら。先頭のグループはキャンピングテーブルを囲んで、どうやら前夜祭をしたようだ。私の姿を見て「武先生じゃんか」と手を振ってくれた教え子たち。「こうして並ぶのも子どものため」と彼らは笑っていた。東小運動会の風物詩「校庭の場所取り行列」。
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9月の終わりの日 【No.300】 2004年09月30日
庭の桜の梢が透けて見えるようになった。タコーチ山の色がほんの少しだけ変わり始めた。ゴルフ場の取り付け道路のガードレールの白がはっきり見る。だが、これは台風のせいだけではない。今日で9月は終わり。たしかに秋の気配が感じられる。 今日は台風が持ち込んだ30度の気温。午前中は入浴サービス。イチローのバッティングを昼休みに観た。午後は往診の日。木曜日はバアちゃんで一日が終わる。 『HP・エコー』のアップ。印刷版『エコー』を受け取ったが、封筒に切手を貼っただけ。封入は明日から。前から気になっていたの食堂の蛍光灯のシェードの汚れ。急にその気になって洗った。秋灯下、読書でもするのならいいが、晩酌をするとすぐ眠くなる。テレビも観るものはない。今夜だって、ドラゴンズが優勝するかもしれないのに放映はされない。ヤクルトはフジテレビ系ではないか。放映したっていいだろうに。優勝が決まったら、明日のスポーツ紙は全種類買う。
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『広報はだの』の取材で丹沢へ 【No.299】 2004年09月26日
25日の午後、『広報はだの』の取材で丹沢ホームに中村道也さんを訪ねた。その一行は9名で、「丹沢と秦野の名水」をメインテーマにした4面を担当する鎮西、野中、相原、高橋、浦田、谷津さんの6編集委員、そして私と中学生新聞の記者のSさん。車2台なので野中さんのお父さんにドライバーとして協力してもらった。記者Sさんの同行は「野中、相原、高橋、浦田の4中学生記者の取材活動」を取材するため。 森と水の話をたくさん聞かせてもらった。「川をキレイにする活動はもちろんして欲しい。だけど若い皆さんにもっともして欲しいことは、森と水のことを正しく勉強することです」という中村さんの言葉が私たちの心に強くひびいた。 帰り道、中村さんに教えてもらった湧水を見に回った。山肌から湧き出す湧水は滝のようだった。傍らにある橋の名は「清滝橋」だった。
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足長きのこ 【No.298】 2004年09月22日
金木犀の花は突然咲く。昨夜その香りはかすかだったが、今朝はもうこの部屋にまでさわやかな風に乗って流れ込んでくる。「ある日突然自己主張をはじめる花」(『花おりおり』)とある。金木犀が香ると、その傍らにある椿の木の下にミョウガが紫色の芽を出し始める。 昨日、教え子のKさんが『足長きのこ』をたくさん持ってきてくれた。富士の裾野まで採りに行ったのだそうな。このあたりの山でも『足長』は生えるのだが、特定の人しか採ることはできない。毎年出る場所は同じなので、その場所は他人には教えないからだ。『足長』の季節になると「利一っあんは『足長』の出る場所を教えねえで逝っちゃったよな」と残念がるのが清水庭の年配者たち(私くらいの年齢の者)。 そういうわけで、夕飯は急きょ『足長』の「きのこそば」になった。台所に立ったのは私。「そば」のときは私の出番。『足長』をナスと玉ねぎと一緒に油で炒める。それをそばつゆに入れる。ミョウガも刻んで使った。水煮の『足長』は売っているが、天然物は我が家には10年ぶりくらいか。うまかった。Kさんに心から感謝。みのりの秋だ。
◇「お弁当の思い出」 投稿がありました。 お弁当といえば、鮮明に浮かんでくるのは小学校四年の頃の手作り「いなり寿司」。母が2週間ほど東京に出かけて留守中、妹の校外学習(太宰府辺りに遠足)に当り、じゃあ、いなり寿司でもと、初めての試み。四角いアゲを対角線上に切り、薄味でよく煮こんで、味はなかなか。寿司飯もまあまあの味。さて、ご飯を詰め始めたところ、どんどん入りなかなかしっかりまとまらない。かなり大きくなってやっとまとまり、これを2個作り深みのある箱に紅生姜やパセリ、蜜柑の輪切り等で綺麗に飾り詰めた。しかし、その大きさたるや我ながら驚いた。 その日、妹が帰ってきて「お姉ちゃん、あんまり大きいので恥ずかしいから隠れて食べたよ!」とのこと。もっと小さいアゲを買えばよかったのに、その時大きいのしかなかったのか、一辺が14cm位の四角いアゲを三角に二つに切っただけ。ご飯は五合炊いたのにかなり減っていた。料理の本を見てやるわけでもなく、いい加減な私を物語っています。この時以来一度も「いなり」を作ってない私です。 S.Sさん、ありがとうございました。
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彼岸入り 【No.297】 2004年09月19日
朝から秋空に百舌の声が鋭くひびきわたっている。 彼岸の入り、墓参りに行く。いつものとおり、隣近所の家の墓にも線香をあげて回る。あらためて各家の墓碑を読んだ。Tさん享年59歳、Rさん61歳、Mさん62歳、Sさん64歳、Yさん68歳。みなさん同じ組内で、朝夕言葉を交わし、道普請など一緒にした人たち。私も鬼籍に入っておかしくない年齢。 昨夜NHKの「最長片道切符の旅」を見た。 「遠回り、遠回りをしても、結局終着駅はあるのだ。旅の途中で出会った人と再び会うことはない。人生は旅」そんなことを思った。
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お弁当と言えば 【No.296】 2004年09月18日
この四月から、市内の4つの中学校で注文弁当システムが取り入れられた。そんなこともあって、ある中学校のPTA広報が、先生たちに「お弁当といえば」という題で書いてもらっている。それぞれ思いいれがある言葉で興味深い。そのいくつかを紹介すると 「母はいつも朝早くから畑仕事に出ていましたので、祖母がお弁当を作ってくれました。母に『たまにはお母さんのお弁当がたべたい』と無理を言ったことを思い出します」 「今のように食生活が豊かでなかった時代のお弁当。鯨カツ、魚肉ソーセージが思いでのおかず」 「お弁当と言えば、私は揚げ玉子。中学生のとき、一度好きといって以来、毎日続いた一品。『もう勘弁!』と思っていたのに、今は食べると涙が」 「週に一度、部活の仲間とお弁当のおかずを取替えて食べた。友達の好きなおかずをわざわざ作ってもらった」 「お弁当一面にノリがあるとうれしかった。それに煮カツがおかず、最高でした」 「腐ったもの以外残したことはありませんでした。大好物は玉子焼きでした」 「テニスの大会のために朝5時に起きて作ったお弁当。それなのに試合場で会った娘は『おかあさん、お弁当落とした!』」 「子どものお弁当作りを14年間も続けなければいけないと気づいたとき、ため息がでちゃいました」 「私にとってのお弁当は、結婚以来欠かせない毎朝のお仕事。2個から6個、そして3個、我が家の歴史を語る数です。心を込めて『愛の宅急便』 を…、でもあと何年続くのでしょう」 「できるかぎり手作り弁当を心がけています。お弁当を開いたとき、作った私を思い出すように心をこめて。でも子どもたちはたまにあげるお弁当代の方がうれしいようです。悲しい」 さて私の「お弁当といえば」は、 小学校の校庭の通用口まで10メートルだった我が家。だからお弁当は作ってもらえなかった。お昼の時間になると「弁当食べに行ってきます」と先生に断って家に帰った。正月明けの昼ご飯は朝の雑煮を温め直したもの。我が家では、焼きざましの水餅を二月中ごろまで食べていた。そんな食生活を思い出します。 あなたのお弁当の話を聞かせてください。
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30000 【No.295】 2004年09月14日
笠井さんからこんなメールが入りました。
「29999番目の来訪者でした。記念すべき30000番目はどなたでしょうか?現在1名来訪中。一度抜けてまたアクセスすれば、私がなれるかも。」 30000番の方、よろしかったらお声をください。
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私の心は揺さぶられる 【No.294】 2004年09月14日
10日に大井町で行った広報クリニック、その参加者からのメールをもらった。 「今日は有り難うございました。久々に広報の事を思い出して、とても楽しい2時間を過ごさせて頂きました。また今回は2年前と違って、余裕をもって他校の作品を見ることが出来、また違った観点を発見する事が出来ました。それにしても、先生の飽く無き広報への情熱は、素晴らしいものですね。人との出会い、文章に込められた人の思い、沢山の家族のエピソード、声、そして沢山の人たちの広報に対する思い、情熱が、先生のパワーの源なのだなと強く感じました。私も今日の経験を今後の広報活動に生かせるよう、頑張っていきたいと思います」 前教育長さんから碑建立のお祝いの手紙をいただいた。『高清水』のSさんから「219号を大切にします」とメール。Oさんから『地名から歴史を読む方法』という新刊のプレゼント。 Nさんから自宅近くにある大山道の道標についての情報がメールで届く。この道標には地名「金目」を「かない」と、ひらがなで書いてある貴重な 資料の道標。しかも地元のお年寄りはその「かない」を「かねえ」と発音するという、そんな内容のメールだった。 「碑で一段落」という『寺山ものがたり』への私の心は、皆さんのこうしたご厚意で揺さぶれら、高められていく。
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幼稚園のお母さんたちのPTA広報発行にかける思い 【No.293】 2004年09月07日
明日は秦野、金曜日は大井町での広報クリニックの準備ため、昨日今日でPTA広報を36紙を読んだ。年度第1号の発行には、苦しみや戸惑いはあったのかもしれないが、どの紙面も委員の一生懸命さが伝わってくる。既に2回の発行を終えているところも4PTAあった。その中の一紙、『なかよし』という幼稚園の広報紙の編集後記にこんなことが書かれていた。 「広報委員の仕事も内容もわからず始まった『なかよし』の準備。どんな内容にしようかと、今まで発行された55号の『なかよし』を読み返してみた。第1号から半分くらいまでは、先生が書いて発行。それ以降は、父母に原稿依頼したりして広報委員が先生に替わり発行するようになったようだ。ここ数年の『なかよし』は、広報紙から離れ文集のようなものになってきていると思った。このまま流されていいのか。広報委員は、毎年広報づくりの研修会に参加し、広報の意義を教わった。今年はその教えに沿った広報づくりをしようと思う。父母のみなさん、職員のみなさん、ご理解とご協力のほどよろしくお願いします」 そして、6月1日に40ページの文集形式のものが、7月1日には10ページの号外が発行された。
昨日の神奈川新聞の『自由の声』欄に私の投稿「湧水の地をしのぶ記念碑建立」が掲載された。8人から反応があった。
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9月4日 ちはるさんの結婚式 【No.292】 2004年09月05日
「エコー」219号を今朝投函。8月の後半は記念碑のことがあって、編集作業は大幅に遅れた。 10時10分、ちはるさんの結婚式のために横浜に向けて出発。東名・横横・首都高と走るので時間の余裕をみて出かけた。ところが「みなとみらい」まで50分強で行ってしまった。1時から挙式。このホテルは一階ロビーをキリスト教式の結婚式場にしている。だから、ホテルに出入りする人は誰でもその式が眺められる。式の最中、吹き抜けの階を見あげたら100名くらいのギャラリー。同じフロアにはオープンカフェもあり、お茶を飲みながらの見物人もいた。眺めているのは、老いも若きも、ほとんど女性。なんとなくうなづける。31階のレストランで食事をとるのだろう団体さん数十名の好奇心もそそったようだ。ちはるさんも新郎も見栄え十分だったのでここで式を挙げたかったのだろう。それにしても、こんなに衆目に晒される中で式を挙げるなんてリッパ。そして、そして「親は大変だ」と思った。
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これでいいの 新聞社のみなさん 【No.291】 2004年09月03日
PTA広報クリニックで松田町へ。幼稚園から中学校まで5つのPTA広報委員会が参加。1学期に発行された広報の全ページについて診断した。「広報は初めての経験」という委員たちが一生懸命作っていることは十分読み取れる。でも「もっといいものに」という思いから、知らず知らずのうちに辛口になってしまった。それが次号につながってくれることを願うのみ。 ある幼稚園の広報はイラストいっぱいの楽しい紙面だった。こういう特技をもっている人たちが広報づくりに興味を持ってくれると、あたらしい形の広報が生まれそうだ。これから、に期待していいのだろう。 今年の新聞週間の標語は「一面から 読むようになった 十五の夏」。「新聞は? そこから始まる 家族の会話」が新聞配達標語。 NIEそのもの標語だと思う。新聞の使命感などいまさら言う必要はないのでしょうか、新聞社のみなさん。
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宝蓮寺三十三世慶雲明和尚禅師 【No.290】 2004年08月30日
東島光明師の津送がきょう行われた。平成元年、東島さんが秦野市PTA連絡協議会の会長に就いたとき、事務局を私が担当した。東島会長のこの年の市P連は、秦野市PTA連絡協議会に新しい風を起こした。各PTAの委員の交流を図る委員研修会を年2回開いた。市PTA広報コンクールを始めたのも東島会長の年だった。このときの本部役員10名は今も年2回集まって、交流を続けている。今年で16年になる。「寺山ものがたり」の発行の折にも「ちょうづかのお婆」のことで教えを乞うた。 檀家総代が捧げた弔辞の中で、東島さんの仏道に帰依する心を知った。すでに数年前から重い病を患っていた師だった。この7月退院されたとき「200年後の本堂の建て直し」のためにと、100本の欅を植樹されたという。宝蓮寺三十三世慶雲明和尚禅師 合掌
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8月28日のこと 【No.289】 2004年08月29日
5月に手入れをして以来、放っておいた栗畑に草刈りに行った。例年9月の1週あたりから落ち始めるので、その前に拾いやすくするために草を刈る。畑に近づいて「こりゃ大変だ」と思った。1メートル以上も伸びているカラムシの群落、ヤブガラシの広がりもカゴイ。「今日は一日の仕事だ」と覚悟をして畑に入る。栗の木の下に鎌を入れると、栗の実が続々と顔を出す。普段の私の畑仕事は11時には家に戻っている。それなのに、今日は12時のチャイムを畑で聞いた。10キロ強の収穫、草刈は樹下だけで終わる。 夜、私を鶴巻中から送りだしてくれた当時のPTAの役員さんたちの会。毎年この時期に集まる。今年は鶴巻駅前の寿司屋さんが会場。8人が集まる。Iさんが「この9月で会社を辞めることにした」と話す。今52歳、「走りすぎた。自分の時間が欲しいから」と言う。みんな同感なのだが、その決断に驚くばかり。新しい名刺をくれた。肩書きの部分が大きく空白になっている。「ここにどんな文字が入るのかな」と私。「そのうち何か入るかもしれません。今は空欄」とIさん。 二次会をスナックで。Iさんがトップバッターで「酒よ」を歌う。「今度退職祝いの会を開こうよ」という声に「今夜がそれでいいですよ。次は復活祭にしましょう」とIさん。多分Iさんの退職の影響なのだろう、セリフ入りの歌を2曲も歌った私。
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オリンピック 【No.288】 2004年08月24日
今日までで金メダルは15個。「東京オリンピック」と同じ史上最高の16目を取るのは野球か、シンクロか。そう期待される両者は大変だ。 ほとんど毎夜、夜中に起きてテレビの前に座っている。私でさえこうなのだから、熱心なフアンや地元の人たちの燃えようはスゴイのだろう。 NHKにもファックスでの応援がたくさん寄せられているようだ。 入賞者のイラストは見事な出来だと感心する。だけどメッセージが「感動をありがとう」では“興ざめ”、「感動した」ことが伝わらない。「それじゃあお前、何と言うの」と聞かれても、答えに窮するのだが…。 「感動をありがとう」では、野口みずきのがんばりは表せないと思う。「逃げろ、逃げろ、危ない」「逃げきった、よかった」と応援したのが私。 その野口選手のレース後の言葉 「スタジアムに入って歓声が聞こえました。全員が私を応援してくれていると思いました。すごく幸せでした。」 レスリングの浜口選手が準決勝で敗れたとき、お父さんが判定に抗議して騒いだら「もういい、おとうさん、静かにして。五輪で負けても、うちの家族は幸せなんだから。」 この二人の言葉を聞くと「金メダルの数」を気にする私が恥ずかしい。
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もう秋です 【No.287】 2004年08月20日
柔道の井上選手が負けた。敗者復活戦でも完敗。井上選手にとって、敗者復活戦は残酷な試合だ。常に勝者でなければにらなかった彼に、そして『金』しかなかった彼に、『銅』を獲りに行けというのはかわいそう。棄権すれはよかったのに。それができないのがオリンピックか。 アーチェリーの山本選手の言葉「『銅』から20年かかって『銀』、20年後は『金』かな」41歳の見事な生き方。 日刊スポーツ(8/18)が26、27ページの両面を横断して付けた見出し。トップが「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」。脇見出しが「体操実況も金メタルNHK刈屋富士雄アナ」。体操の冨田選手がフィニッシュに入ろうと鉄棒を勢いよく回っているとき、その着地を待ちきれないように刈屋アナが発した言葉が「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」。 小田原出身のタレント・柳沢慎吾の言葉(朝日新聞)「応援している学校が負けるとさみしいなあ。勝った駒大苫小牧は立派。優勝してほしい。でも、僕の夏はもう終わった」 毎年、神奈川の高校を応援して、途中で負けると、私にはそのときから秋が始まる。この夏の甲子園には秦野出身のレギュラーが3人出場した。 涌井投手について思うこと。テレビの画面からは、彼の表情に感情の大きな動きは見えなかった。「横浜高校の野球」が彼の姿勢に見えた。負けても「横浜は強い」。
台風が青森の深浦町あたりに上陸した。リンゴや稲に被害が大きくなければいいが。10年前のちょうど今頃、五能線を旅したことがあった。川部から板柳町あたりになると沿線はリンゴ畑が広がっていた。そのリンゴ畑に夏の陽を射るものがあった。アルミ箔が広けられている。リンゴの色着きが均等になるように、夏の陽光を下から反射させていた。板柳町は、あの高見盛のふるさとだ。 五能線の駅名は魅力的なものが多い。「驫木・トドロキ」は「馬が三頭で木を運ぶ」とき音がトドロク。ウチの近くは「車が三台」で「トドロク・轟」とあらわす「轟坂」という地名がある。ここは矢倉沢往還につながる坂道。 五能線でもっとも魅かれる駅名は「風合瀬」。二つの風が合わさって静かな瀬を作るので「風合瀬」。「カソセ」というやさしい言葉の響き。その「風合瀬」に暴風雨が吹き荒れているのか。
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涙腺 【No.286】 2004年08月17日
Kさんから次のようなこんな「エコー」が返ってきた。
昨日の寺山日記に登場のAさんの話に昨年の事を思い出しました。私の故郷山形でも42歳の同窓会は決まり事で、友達とは2年も前から「絶対に出るんだぞ!」と年賀状で約束していました。子どもたちのスケジュールの合間を縫って無理やり都合を付けての帰省でした。中学の頃さんざん反抗した先生もいて、挨拶を聞きながら、昔と変わらない話し口に「あ、やっぱり私とは合わない」と感じました。子どもなりに正しい判断だったのか、私が成長していないのか…。好きだった先生は担任を持ってなかったのでいらっしゃってなく、ちょっと淋しかったな。まぁ、そんなものですよね。体が丈夫な方ではなかったので、お元気なのか気になっていたのですが…。
ここ数日は未明のテレビにかじりついている。(おかげで明け明星が昇ってくるのを見ることができる。) アテネは14年前の1990年8月の下旬に旅した。アクロポリスの丘が画面に映しだされると「あそこに立ったのだ」と懐かしく思う。当時はアテネは1992年の第25回がオリンピックの開催地に立候補していた。だからナショナルフラッグの「オリンピック航空」が日本にも定期航路を持っていた。機体に五輪をつけたそのオリンピック航空を往復使った。機内のテレビでは「アテネで100年目のオリンピックを」とその招致の映像が何回も放映された。近代オリンピック発祥の地アテネが100年を記念してオリンピックを開催するのはふさわしいと思った。ところが、25回の開催地はバルセロナになった。オリンピック航空は、今は日本の期航路から撤退している。
大事なことへの感情移入(典型的なことで言えば『8月15日という日』)はあまりないのに、他人の涙を見ると、たちまち私の目は涙があふれる。オリンピックの柔道の勝者敗者、どちらの表情からも私の炉緯線は緩みっぱなし。横浜高校の野球を観ても同じだ。
《1990年8月20日の日記》 イラクの一挙手一投足に世界中が緊張感をたかめている中、私は今度の旅行に出掛けた。族の意義は『日常性からの脱却』にある、とばかり普段はよく目を通す新聞も、旅に出ると読む心を持たないことにしている私。今度の族は『外つ団』、外国語を通して情報を得ようとするような、そんな積極的な姿勢を持たない私にとっては、中近東のようすは日本を発った時に得ていたものだけ。まして、それ以降の日本の動きなど全く分からない。まさにタイムスリッアをした、のんぴりとした時を持ったのだが…、だが否応無しに目に入ってくる『今の世界』があった。 アテネのエリニコン空港の西ターミナルは、ギリシャのオリンピック航空専用のターミナルである。私たちが今度の族行に使ったのは、そのオリンピック航空だった。日本に帰る日、タタシーを降りると、目の前に装甲車が止まっている。傍らには自動小銃を構えた兵士が立っている。この国の要人の出発でもあるのかと思った。空港ロビーに入ると、搭乗手続きをするカウンターの近くに、陸軍と空軍の二人の兵士が同じように、銃を手に警戒している。気をつけて見ると、ロビーのバーのあたり、トイレの近くにも兵士の姿があった。 私たちの便の前の二便は、カイロとテルアビブに向かうものだった。搭乗手続きの放送が入り、この中近東行き・二便の乗客のためにロビーの中央に特設されたカウンターで荷物の倹査が始まった。成田でもロンドンでも、そこで目撃きれるような厳しい出国の検査はされなかった。私の遇去の、わずか数カ国の経験でも無い調べ方である。 先程の、自動小銃をもった兵士二人による徹底的なチェック。小さなバッグの隅までひっくり返して調べている。テルアビブに向かう乗客の中に20歳前後の青年のグループがあった。リュックサックから見ればテントをホテルとする旅行者だろう。彼らの一人がオレンジと缶詰を持っていた。両方とも直ちに、しかも無言で没収きれた。抗議の声を出せるような雰囲気ではなかった。グルーフの青年たちは、次々に自ら没収きれるべき物を提出して通過していった。 私たち乗るOA447便はアラビア半島を縦断する。一触触発の地域の上を飛ぶのだ。私の目の前で進められている搭乗チェックに、その緊張感・緊迫感を感ぜざるを得なかった。
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お盆です 【No.285】 2004年08月11日
きのう来訪してくれたAさん。家族3人は秦野に残して、13日にいなかに帰ると言う。中学校の同窓会が開かれるからだ。 「厄年の33歳、41歳、42歳、43歳と同窓会を開く約束なんです。今年は男子が42歳だから本厄。それで女子が幹事。すごい同窓会なんです、開会が午前10時半。まず神事で厄払いをして懇親会が始まる。午後4時ごろまで宴会。その後、会場をわざわざ母校近くの料理屋に移してまた飲むんです。終わりは多分夜中。この日のために、町を出た同級生がみんな戻ってくる。秦野もお盆だから13日に準備をして、午後にいなかに向かいます。新幹線を使っても6時間くらいかかります。秋田なのに新庄で新幹線を降りて、後は在来線。だから駅についたら弟に迎えに来てもらいます」。 『エコー』に岩井さんが、ふるさとを秋田の山の中と書いていたけど、私の方がもっと不便なところです」と話す彼女のふるさとは、西馬音内盆踊りの町、秋田県羽後町だった。 「あの盆踊りの町の…。それじゃあ秦野の商店街で踊ったら…、阿波踊りもいいけど、西馬音内盆踊りの方が今の秦野には似合いそうだから」と私。「高校を終えたら羽後を出てしまっから、教えるほど踊ってないです。あれ“幽霊踊り”っていうんですよ」とAさん。「町にも合併の話があって、一時は『小町市』に、とか言っていたけど、話は消えたみたい」とホッとしたようす。 今年の西馬音内盆踊りは16〜18日。「風の盆」と、この「西馬音内盆踊り」は見てみたい。Aさんが、その踊りの中に入るかどうかは聞かなかった。
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8月8日 健康的な一日 【No.284】 2004年08月09日
寺山の戸数は420あまり。その寺山自治連合会主催のソフトボール大会がきのう開かれた。数年前は私も出場した。(チームには60歳以上か女性が1名入らなければならなかったから)。 軽装で応援に中学校の校庭に行ってみた。清水自治会のベンチに行くと「長老、長老 こちらへ」とデッキチェアーをTさんが私に勧める。そう、現役の自治会員では、私は三番目の高齢者。 清水自治会は67戸の会員でできている。この日集まった人は2チームを超える人数。加えて女子の参加者が7名。そのうち女子高生2人と中学生男子一人が選手として出場してくれた。親・子・孫三代の参加もあった。 会員数70を超える自治会がチームが組めず棄権、3自治会でやっと混成チームを編成など、難しさが現れてきているこの自治会行事。そんな中、清水自治会は「来年は2チーム出よう」という元気。 大会の後、1000円会費で恒例の懇親会もあった。こちらも今年は女性、子どもの参加もあって40人を超えた。さらに近くのスナックに流れての二次会。ここは男子だけで15名。この地に終の棲家を求めた人たちの参加が多くなっている。30、40代の参加も増えている。はうれしいこと。 「碑の建立」から、地域への関心が高まったと思っていが“手前味噌”かなあ。22日の除幕式にも大勢出席してくれるだろう。 開会式は8時30分、そしてスナックで三本締めをしたのが午後7時だった。健康的な一日。
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HPの書き換え ギャラリーに「葵祭」をアップ 【No.283】 2004年08月05日
8月4日 きょう、川崎市立小学校社会科教育研究会の臨地研修会が秦野で開かれた。「自然条件を生かした秦野の人々のくらし」が主題。JA・はだの「じばさんず」で秦野の野菜を買い、カーネーション栽培の農園を見学。昼食後「秦野の地下水について」市の職員の講演を聴き、東田原地区の井戸水で生活をしている家を訪問。最後に東公民館で「水と人々のくらし」という私の話を聞いてもらった。強い日差しの中を歩いての研修だったが、皆さん元気で明るかった。この研修を担当されたU先生は、この日までに8回来秦、我が家にも3回来ていただいた。そうしたご苦労が今日の参加人数に表れたと思う。自費による研修らしいが定員100名のところに110名の参加。市制50周年を迎える秦野の私たちにとって、このように大勢の先生方が秦野について知ってくださることはうれしいことだ。
8月5日 全国新聞教育研究大会・水戸大会について、吉成先生からメールをもらった。私の思うところ、感じたこととまったく同じ。子どもたちがつくる新聞は「集団生活の向上を目指す」ものだと私は思っている。交流会でイイ機嫌になっている写真も添付されていた。あの交流会の後、Yさんと久しぶりに「新聞教育」を語りあった。就寝は12時ちょっと前だった。現場を離れた二人の話は、もはや「老いの繰言」でしかないのだが。
不具合だったインターネットがようやく平常にもどった。それで今日HPの書き換え。H先生からお借りした『葵祭』の写真をギャラリーにアップした。
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市民が作る「広報はだの」第2回企画委員会 【No.282】 2004年07月22日
「広報はだの」の二回目の集まり。16名がそれぞれ企画を持ち寄ることになっていた。「夢いっぱい 出会い・ふれあい 秦野(まち)みらい」が市制50周年事業のメインテーマ。たくさんの企画が出された。「写真がたくさんあるとて読んでもらえる。50年前の写真の特集を組んだら」「小学生も関心をもって読める紙面に」「読者に行動を起こせるような記事を」「大勢の人を紙面に登場させたい」「ずっと秦野を支えてきた人を取り上げたい」「秦野は葉タバコによって育ったまち。そのことを検証したい」など。市民にアンケートをしよう、という壮大な案も出された。これでは1〜4面を通してのテーマを作らなければ企画は決まらない。それで、「50 元気 水」をその基本テーマに、と提案した。 司会役の私が力不足なので、3時間近く話し合ったが第1面のテーマが決まらなかった。記念号となればそれらしい表情を1面では見せたい。私たちがつくる『広報はだの』は「市勢要覧」や「秦野の観光パンフレット」とは違う、ということを確認した。 企画小委員会をつくり、次回までに素案(企画とレイアウト)をつくることで解散。
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生涯で最高の出来ごと 【No.281】 2004年07月20日
「石のカワサキ」庭先で、夏の朝日を浴びて『清水湧水池跡』の碑が私を待っていた。『寺山ものがたり』がこんな形で清水自治会の皆さんに受けとめていただけるとは思ってもみなかった。東小・中の校歌の発祥地を記録にとどめておきたい、という思いは確かにあった。その思いを、自治会長の敏明さん、先輩の完さんや洋造さんが受け止めてくれた。俊さんの応援も大きな力になった。 四国産の石だそうで、青みを帯びているので背面が白い壁なので引き立つ。重さは約1トン。裏面に私が書いたこの碑のいわれが刻まれている。まったく言うことなし。8月に披露の式を行う。この日記を読んだ人だけでもぜひ見てもらいたい。私の生涯で最高の出来ごとにちがいない。
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19日に記念碑の据えつけ 【No.280】 2004年07月18日
7時から清水自治会の集会。議題は(1)寺山の納涼大会の準備の件、今年の清水の担当は「フランクフルト売り」で、わが家は売り子の役。(2)8月に開かれるソフトボール大会の選手の選出。清水は「三年連続優勝を狙う」。 (3)とうとう「清水湧水池跡」の記念碑が建つときが来た。19日に記念碑を中井町までとりに行き、みんなの手で据え付けることになった。「経費削減」からでもあるが、自分達で最後までやり遂げたいという思いが強いからだ。 除幕式は8月15日に行うことになった。その日までもう一カ月もない。それで式典と祝賀会の計画を実行委員7名で立てることになった。「これから席を変えて話し合おう」ということになり、9時ごろに『花小路』に。ところが、カラオケの会の例会日とかで、喉自慢が入れ替わり立ち代り…。とても話など無理。結局こちらの会は単なる二次会になってしまった。11時過ぎにご帰還のわれわれ。 きょうは東地区の納涼大会が小学校の校庭で。東田原の朝日神社の宵宮で祭り太鼓が聞こえてくる。そして三連休。すっかり夏休みの気分。
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浅からぬ因縁 【No.279】 2004年07月17日
今年が創立80周年の大秦野高校。その同窓会が記念誌を発行するので助言が欲しいと招かれた。会長さん宅で夜6時半からの会議。前身が女学校だったので、集まった企画委員3名は女性。 80年という膨大な時の流れをどのように収めるかが難題。その80年の歴史の会の会長さんが、現在で4代目とか。まず年表をつくること。勤続年数が長かった先生から教え子の現在の動向を聞き出すことが次の作業。その二つができたところで、全体の構想を考えることにする。 会員でもない、PTA会員でもなかった、もちろん勤務したこともない私に、声が掛かったのは、多分次のような因縁からだろう。 会長Tさんの弟さんは私と大学の同期。彼は58歳の現役新聞記者で病魔に襲われ他界した。彼への弔辞を読ませてもらった。10年まえのことだ。 30年も昔、PTA広報づくりでお目にかかったのが副会長Eさん。Eさんのご主人とは「秦野市P連だより」を創刊した。 そして書記のMさん。彼女はボランティア団体の広報発行の責任者としての知り合い。「最後までお付き合いください」と頼まれた。
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7月13日 お盆です 【No.278】 2004年07月14日
お盆の支度をした一日。お墓の掃除。帰って盆棚を飾り、辻を作る。ことしの辻は美しくできた。5時前に迎え火を焚く。6軒の辻にお線香を上げに回る。 浦田さん母子が家族新聞ができたと持ってきた。4年生の夏子さんが清書している。公民館に展示してもいい、と夏子さん。「学期に1回は出したい」とも。 東中のF先生が先月の授業『東地区の歴史と文化』の生徒の感想文集を持ってきてくれた。印象に残ったことを書いてくれた。聞いてもらえてよかった。 高校野球の予選が始まった。その結果を報じている神奈川新聞のスポーツ欄に記者の署名入りのコラムがある。そのコラムを担当する記者の一人が「小林剛」さん。鶴巻中での教え子。剛さんはこの4月に入社した新人記者。お母さんは「エコー」の読者。だから「エコー」から生まれた新聞記者だと思っている私。
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園芸愛好会で揚げたてのキスのてんぷら 【No.277】 2004年07月10日
東公民館を拠点に16名で活動している「秦野園芸愛好会」。きょうは14人の参加で久保寺さんの「菊の挿し芽」の実習。そのあと守屋さんが、きのう東京湾で釣ってきたメゴチとキスを目の前でてんぷらに揚げ、食べさせてくれた。とろけるような柔らかさと甘さ。ビールがないを誰もが残念がる。後片付けになると皿洗いの手つきがイイ中川さんが目だった。「この会の人はホントにみんな多才だね」と植木さん。そう言った植木さんから「暑気払い」の計画が発表された。 本日の出席者 望月、久保寺、守屋、稲毛、矢野恒、矢野直、高橋宣、横尾、尾上、高橋庄、植木、古木、中川、武。
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畑の雑草 【No.276】 2004年07月09日
「今日までの暑さ」とのこと。この四日間、待ち望んでいた?畑仕事をした。もちろんがんばっても午前中だけ。露のあるうちは蚊がまとわりつくので蚊取り線香を腰に下げる。烈日を背追いながらの草取り。 四月から放ってあった畑。30センチも伸びているのがアキメヒシバ。カヤツリグサもそろそろ茎が太り始めている。ハキダメギクは2センチたらずのものでも花をつけている。だからたちまち畑中に広がってしまう。ツユクサは天日に数日当てておいても一雨降れば生き返るという厄介な代物。 畑はあと三日くらい。そのあと垣根の刈り込み。そして庭の草取りと体力勝負の日が続く。それが終わるころ「お盆」になる。今夜もビールがうまく飲めるだろう。
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秦野だからこそこの記念事業 「市民が作る広報はだの」 【No.275】 2004年07月07日
「エコー」の印刷版 きょう発送。少し忙しかったので遅れた。
秦野市の市制50周年記念の事業のの第1回編集委員会が6日の夜、本町公民館で開かれた。二宮市長も出席して編集委員の委嘱式なるものが行われた。思いがけないことで全員緊張気味。 委員は16名で中学1年生から私の年代まで。男性5名とやや寂しい。私は一応全員面識がある。中学生の4名のうち3人は公民館の「家族新聞講座」の出席者。他の一人は東中学校の学校新聞の委員長。大学生が一人、彼女は停滞気味の高校新聞を再生させた。他の女性・いずれもお母さんだが・は全員PTA広報づくりを楽しんだ人たち。異色は現役の中学校教師。住まいは市外だが、あえて参加してきた。編集委員長に推された。 1月15日に発行のこの記念号。「新聞教育の秦野」でなければ浮かびあがらない企画だ、と思っている。 市長も市の広報広聴室も「企画・編集について特別な条件はありません。市民の発想で自由に作って欲しい」とのこと。「楽しんで作らなければ、読んでもらえない」を確認した。 2回目の集まりは今月中旬。それぞれが企画を持って来ることを宿題にして解散。散会後、中学生が「務まるかなあ」と心配げに話し合っていた。
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二つの新聞講座 【No.274】 2004年06月25日
6月23日 1:30pmから保健福祉センターで広報作りの講座。秦野市民生委員児童委員協議会の広報部会から招かれた。協議会が発行している『はだの民児協だより』が4月に50号に到達したのをを契機に、紙面の充実を図りたいということ。編集委員は12名で、お見受けしたところ40代から70歳台までいらっしゃるようだ。その内女性が5名。「部内報」とはいえ800部刷られているとなると、この紙が果たす役割は大きいはず。企画の視点をどこに置くかがたいへん難しい。活発な論議。2時間でも終わらなかった。12月発行号の企画会議に顔を出させてもらうことになった。10数年前、PTA広報講座で私の話を聞いたというFさんががんばっていた。
6月24日 秦野市中学校新聞研究部会の研究会で講演。 29年前に行った、実態調査「学級新聞活動による生徒の変容」と市内全学級担任への意識調査「学級新聞は学級に必要か」について説明をした。 今、さまざまな条件から中学校での子どもたちの活動はジリ貧状態になっている。学級新聞づくりのような「労多くして実り少ない(絶対、そんなことはない!)」活動に取り組む教師は少ない。学級新聞活動は「実り多い活動」であることを数的評価で示し、きょう集まった先生達の勇気付けをしたいと思ったからだ。 研究討議で。 「子どもたちの書く力の低落が著しい。一人で書くのではなく数人が集まって記事を書くことは、書くことへの抵抗を和らげると思う。だから学級新聞をつくらせたい」はT先生の言葉。 「教育的効果は見えない」からと新聞活動を頭から否定する先生がいるらしい。「これに対応する言葉がありますか」と尋ねられた。私の答え「『教育の効果は今日明日にでるものではない。』といって他からのその責めを逃れる先生がいらっしゃる。一方では「教育的効果が見えないからやらない」とも言う。どちらも実践の苦労を避ける口実。子どもと一緒にやろうとする労を惜しんでいる。今日のプリントをその先生によんでもらってください 「老いの繰言」「前世紀の遺物」「単なるノスタルジア」こんな意識をしながら、今日は話をさせてもらった。
「広報はだの」の市民編集委員の募集の結果。募集定員は満たされたようだ。
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今回は母子で参加の浦田家 【No.273】 2004年06月21日
6月19日 午前中は東公民館で「親子で楽しく新聞づくり」の講座。参加者名簿に浦田さんが載っていた。2年前のこの講座に、お父さんと小5の娘さんが参加。そして今回はお母さんと下の娘さんが来てくれた。新聞づくりの楽しさを少しわかってもらえた、と思った。 今年で三回目になるこの「家族新聞づくり講座」。5つの家庭から月刊の家族新聞が送られて来ている。今年の受講者の中からも家族新聞が生まれたらうれしい。 午後4時に集合がかかっている「教育を考える会」。会場の湯河原温泉に急いだ。群馬、茨城、千葉、東京、静岡、神奈川から9人が集まった。総勢10名の会だからすごい出席率。男性5女性4で、ジャーナリスト、教育財団の事務局長、学校長、教諭、教師OB・OGという顔ぶれ。寝床に入ったのは午前に近かった。
6月21日 Kさんからハガキ。市制50周年記念の「広報はだの」の編集委員に立候補したとの連絡。「広報づくり 楽しそう、うれしい」とあった。Kさんも家族新聞講座の卒業生。
遠い台風なのに風が強い。激しい雨で雨どいがあふれている。
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「広報は耕報 【No.272】 2004年06月18日
午後、わが家で「市P連だより」の編集会議。市内全22校を対象にアンケート調査を行ったそのガンバリ。編集委員たちはかなり燃えている。集まったデータをどのように紙面に載せるのかを論議。6人のだれもが広報づくりにおもしろさを感じ始めているようだ。私の注文も受け入れてくれた。 夕方、弾んだ声が玄関に響く。H中PTAの広報委員の二人の来訪。年度の第1号がきょう発行できたので、それを届けにみえた。うれしくてうれしくて仕方ない、そんな雰囲気の二人。広報づくりは全くの初体験とのこと。それだけに、刷り上ってきた広報を眺めての喜びが、表情や言葉・声に表れている。一つのことをやり遂げる、形あるものを生み出す、その苦労と成就感をPTA広報づくりで味わった委員さんたち。新しいレイアウトへの挑戦が目を引いた。私の率直な感想で、その喜びがいっそう増したようだ。
「広報は耕報」であることを確かめ合えた一日。
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