五月最後の日 【No.770】 2009年05月31日
庭の《丑寅》の方位に植えられているヤツデの若葉が、五月最後の日の陽光に輝いている。その葉をつぎつぎに切り落とした。道路に覆いかぶさるようになってしまったから、整理するしかない。サッパリさせ過ぎたか。 今年はよく芽の出た夕顔の苗を鉢に移した。朝顔はもう少し時間を置くことにする。あまり勢いのよくないインゲンだが50本ほど摘んだ。ナス、キュウリ、そしてそのインゲンにも肥料をやる。 こんなふうに動いていた私に、6月6日の毎日新聞社での講座に参加したいとKさんから電話。「荷物が多かったらお持ちしますけど」とも。ありがたいこと。 農事日記で確認したら、例年6月1日ころからタケノコを採っている。明日は竹薮に行こう。
ホームページのアドレスが変わりました。
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速い! うまい! 【No.769】 2009年05月30日
10時前、Uさんに電話で原稿をお願いした。すると午後3時にはもう2000字の原稿が届いた。電話では「二三日の内に」と言っていたUさん。「速い! うまい!(どこかの牛丼家のキャッチコピーみたいだ…)」とお礼のメールを書いた。自分だけの感想でなく、周囲の人の声が取り入れられている。「 」が使ってある文になっている。私が講座でよく話すこと。「声を集めなさい。その声を記事の中に取り入れなさい。広報の記事は作文ではない。みんなの声を集め、伝えることだ」と。Uさんの文は、広報づくりで身につけた技が書かせた文だ。一気に書き上げた文は、一気に読ませてしまう文になる。 ここ一週間で30数紙のPTA広報のクリニック。きょうも2紙届いた。夕方、Yさんが訪ねて来て、「先生の『日記』を読むと広報の話ばかりだけど」と言いながら、「江戸時代、この辺は家の床は竹だったのではないか」と質問。久しぶりに『寺山ものがたり』の世界に入った。
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作物に必要なコヤシは足音 【No.768】 2009年05月23日
5月19日 伊勢原・竹園小学校でのPTA広報講座。市P連主催の講座は、参加人数の制限があり、「委員全員参加できなかったので」ということで、単独で招かれた。この日の参加は9人。 いつものように、「ジャンケンで負けて委員になった人?」などと軽口をたたいた私に、「全員が立候補です」との答え。謝った。意欲十分で、質問もたくさん出た。 会のはじめに校長先生から、新型インフルエンザで修学旅行のことを話し合う緊急の校長会に急きょ出席するので、講座に出られないとお詫びの言葉゛かあった。
5月21日 寒川町での講座。秦野からだと渋滞が気になる。それで8時に出た。9時に着く。講座の結びに、「PTA広報づくりでもアラフォーの皆さん、元気よく」と話したら、最前列のお母さんかほっぺたをふくらませ、もちろん笑顔だが「違う・違う」とばかり手ぶりで否定する。終わって質問1校、相談が3校。なかなか会場から離れられなかった私。参加は8校で40名超。
5月23日 気になっていたキュウリの苗に支柱を立て、網を張る。サツマイモの苗も植えた。ナス、トマトも植えてあるが元気がない。コヤシが足りない。「畑の作物にもっとも良い肥料は足音」と言われている。ウチの畑の作物には足音が必要とあらためて実感。里芋の土寄せもし、夏日の一日、畑に《足音』を聞かせた。気分が良い一日。
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気力が高まった今週 【No.767】 2009年05月17日
5月15日 3時15分から本町中学校の生徒会広報委員会の新聞づくり講習会。参加は学校新聞を作る広報委員と各学級からの学級新聞係りで、総勢80人くらいか。PTAの広報委員2名も取材を兼ねての参加。さすが『丹沢の風』! 昨年より集中して聞いてもらえた。 はるか昔に一緒に仕事をした6人の先生と言葉を交わすことができた。特にY先生は、私の控え室を探し当て、「ああ、ここにいらっしゃった」と笑顔を見せに来てくれた。嬉しかった。
5月16日 「ゼロ中野」に着いたのは午後6時15分。中野区での第2日目の講座。土曜の夜、小雨交じりの天候なので参加数を主催者は気にしていたが「予定オーバー」だそうだ。4人の父親の姿も見えた。 今夜の講座のメインは昨年発行された広報紙11紙を、90分かけての「紙面クリニック」。スクリーンに大きく映し出された紙面を、一緒に見てもらいながらの講評。 質問が3つ、いずれも自校の活動を紹介しながらのもの。それぞれの質問が、私の話をさらに高めてくれるものだった。
今週は5回の講座。体力的にはもっともきつい一週間だったが、それが私の気力を高めてくれた日々だった。
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PTA広報講座は続きます 【No.766】 2009年05月14日
5月12日 9時30分から柏市P連の「広報紙の作り方」講座。61校から250名を超える参加者。会場のアミュゼ柏まで車で50分もかかる学校もあるとか。そんなに頑張って参加してくれる委員に応える内容でなければ申し訳ないこと。 スクリーンに広報の紙面を映し出し、話の中身を深める。機器の操作は、今回も新聞教育支援センターのKさんとSさん。 夕方5時に帰着。この夜、次のようなメールが届いた。「こんばんは。柏のSと申します。今日の広報紙研修会は、とても勉強になりました。この研修会も3度目、参加するたびにモチベーションがあがって頑張ろうという気持になります。PTA広報委員になって3年目です。1年目は、広報紙づくりの大変さと楽しさ、充実感を感じることができました。広報の楽しさがわかり始めた2年目は、なぜか広報委員長になってしまい、いろいろな学校の広報紙を参考にしながら、手探りで5号作ってきました。3年目の広報委員として、さらに『A』を高めていけたらと思います。二年間に発行した『A』の紙面クリニックをお願いしたいと思います」。
5月13日 文化会館での、きょうの秦野市P連の「広報技術講習会」参加は、150名弱とか。 昨年度、この講座の主催者だった市Pの情報委員長・石田さんが、今年は単Pから広報副委員長として出席。この3月まで小学校のPTA会長だった武さんの顔が、H中の広報委員たちの中にあった。会場に入ろうとしたら、2年前の全国コンクールにに入賞したS小の広報委員長の多田さんから、「今年もよろしくお願いします」と挨拶された。1年間充電し、「満を持して」の再登板である。 講座は正午までの2時間。その後、会場内で「市P連だより」の企画会議が開かれた。それにアドバイザーとして参加。編集に携わる10人の意見に、発行されるその号に掛ける期待は大きかった。 午後2時からN小に出かけ広報講座。この日、N小は午前中が授業参観だったため、広報講座に出られなかったからだ。この“出前講座”の仕掛け人は、六本木校長先生。独断?で、私に講座を開いて欲しいと依頼なさった。 きょう出会ったいくつかの事から、秦野のPTA広報づくりの充実ぶりを知ることができた。
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再開 広報づくり講座 【No.765】 2009年05月09日
5月7日 「連休明け、雨、午後6時半、PTA広報、こう並ぶと足の進みはそう軽やかではなかったろうと思っています」。こんな前フリで始めたのが、中野区中学校PTA連合会の広報講座。参加者は40名強。 年間3回シリーズで、きょうが第1日。2時間を3回与えてもらっているので、伝えたい事柄は十分話せる。「気力十分」だったので“戦闘モード”に入ってしまった。そのため、少々キツイ言葉を出してしまった。 終わって質問「PTA活動に全く無関心な父親会員をPTAの方に顔を向けさせたい。広報でできることはないか」。「お父さん、出番ですよ」などいう軽い呼びかけではなく、しっかりとした問いかけ、呼びかけをしたいらしい。PTA活動の衰退に危機感を感じているのだ。
5月8日 午後1時30分から伊勢原市P連の広報研修会。雨の中、今日の参加は100人弱。投影機の機能がよいので、見本紙を大きく写すことができた。他校のP広報紙を見ること、特に市外の広報紙を見ることは勉強にになる。 講座が始まるまでの30分間、全国のPTA広報紙に手を触れることができる展示会を開いているのが伊勢原市P連。初心者にとっては《驚異》、経験者にも「目からウロコ」を感じることができる展示会。 講座の後、主催されたP連の役員の皆さんと「コンクールの審査の観点」について意見交換をした。
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大型連休 【No.764】 2009年05月05日
「夕食時のビール」は、40年間変わることない生活スタイル。大瓶一本とl缶が定量、これが毎晩。一年・365日中で飲まないのは、体調不良で飲みたくない夜、おおよそ5日くらいか。銘柄も変わらず、サッポロとアサヒ。「よく飽きないね」と、呆れ顔の息子。 だが、このごろ、その質と量に変化の兆し。ビールがときどき焼酎になった。焼酎を初めて口に含んだのは(飲めなかった!)、「向丘遊園」でアルバイトをしていたときだった。当時の焼酎は芋、あの香りはどうしてもなじめなかった。それ以来、焼酎は徹底的に避けた。それが今《麦》をロックで飲む。 眠るのに体力が必要―これは《真実》である。焼酎のアルコール度の力を借り、その夜は長時間眠る。《爆睡》―この日本語、あまり好きではないが…、そんな表現がぴったりのような眠り(Aさんの言)だそうだ。 この連休中、庭の草むしり、畑仕事に精を出した。きょうは「午後から雨」との予報だったので、8時過ぎに竹薮に行き、野菜用の支柱にする竹を30本ほど切り出し持ち帰った。2時頃から本降り。その雨に洗い清められたキヌサヤを、今年初めて摘む。先ずは仏壇に備え、今夜のつまみにしてもらおう。 少しばかりでも野良仕事をすると、すぐに横になりたくなる。こんな俳句が昨日の新聞に出ていた。 浴衣かけて農夫の午睡死のごとし 能村登四郎
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五月 【No.763】 2009年05月01日
ホームページ5月の更新に入った。ところが途中でストップ。容量が足りなくなったのだ。他愛もないことを“書き過ぎ”ということ。「今年だから」ということで『新聞教育50年』の連載を始めた。 きょう、H小の広報委員3人来訪。伊勢原市P連の近藤さん、8日の講座の資料を取りにみえる。
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新しい年度は確実に動いている 【No.762】 2009年04月30日
4月30日 大井町での「広報づくり研修会」。PTAの広報委員が主たる参加者だが、町の各種団体の広報担当者も出席されるので、技術論に力点を置いた。午後、中学生4人が「学童集団疎開」の話を聞きに来る。先ず資料・文献を集めることを勧めた。H中のPTA広報委員が年度第1号を持って来訪。紙面の合評会を開く。今年の委員も意欲満々。 隣りの朋子さんが岩手に嫁ぐと挨拶に来た。来年の新聞大会は岩手で開かれるとか。それなら向こうで会えるかもしれない。
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支えられ、後押しされて、 【No.761】 2009年04月29日
4月27日 3時45分から1時間、東中学校での「新聞づくり講習会」。1年生の各クラス代表20人と生徒会広報委員会の21人が参加。校長先生をはじめ4先生も参加。毎年続けられるこの講座が、東中の新聞づくりの伝統を支えている。『東中新聞』は新年度になって既に3回発行され、間もなく通巻900号を数えるらしい。広報委員長のHさんの終りの言葉に、校長先生が真っ先に拍手をおくられたことがうれしかった。
4月28日 荒川区教委とP連の共催の「PTA広報研修会」。会場はサンパール荒川。参加は125名との報告。開会前からやる気十分のO小のお母さんたちに後押しされ、自分としては納得の講座が持てた(と思っているのだが)。都電の荒川線に乗ることが出来るこの講座も今年で6年目。
4月29日 東京からYさん来訪。6月6日、毎日新聞社で開かれる私のPTA広報講座を紹介するリーフレットのゲラを持ってきてくれたのだ。都内の小学校の新聞関係の先生方にこのリーフレットを配ってくださるらしい。千葉のSさんも大勢の人に声を掛けてくれている。市P連のAさんは、小5の娘さんと参加すると連絡をくれた。本当にありがたい。申し訳ない。なんとしても充実した講座にしなければ。
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ブログ 【No.760】 2009年04月23日
21日 湯河原町・真鶴町教委共催の「PTA広報づくり講座」は、今年で5年目。第1部の講座が1時間半。第2部は学校別に「編集会議」が開かれる。時間は1 時間。その会議を巡回し、求められるアドバイスに対応する。第3部として「まとめ」を10分で行なった。 07、08年度と、連続で全国小・中学校・PTA新聞コンクールに『そよかぜ』が入賞したように、この講座に集る広報委員には活気を感じる。既に年度第1号を発行したのが『そよかぜ』と『けやき』の2紙。どちらも「総会にはこの号を持って参加を」と呼びかけている。 まとめの中で「この二町のPTA広報紙は饒舌過ぎる」と少し辛評をしたのは、今年一年の変化、進歩が期待できるからだ。 「この日の講座の感想がブログに書かれている」と、町教委のSさんからメールが入った。読ませてもらった。ヤル気に満ちた楽しい内容だった。
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広報委員の意気込みに応えなければ 【No.759】 2009年04月21日
17日 松田町教委の生涯学習指導者講座「広報づくり研修会」。父親の参加を頼もしく思った。町の「子ども館」の広報担当者2人も参加。講座のあと、急きょ委員会をその場で開く学校もあった。 18日 文京区の講座の参加者からメールで相談。その回答をメールで送る。こうした反応は嬉しい。 20日 中井町教委「広報づくり教室」。教育長さんが開会の挨拶で、今まで届いたPTA広報を受講者に示しながら「今の学校のようすが分る。現役の頃の自分や当時の学校のことを思い出す。広報を読むことを楽しみにしている。」と励ます。こうした具体的な励ましは参加者に元気を与える。講座が終わって「企画の変更をしようと思う」「表紙のレイアウトはこれでどうか」「発行は六月。入学式の写真は《旬》ではないが」などの相談。
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いい一日だった 【No.758】 2009年04月17日
16日 文京区のシビックセンターで「PTA広報研修会」。6時35分のバスで出発。南北線の後楽園駅で出口を間違えた。今回が4回目だから、間違えるはずはないのに。どの会場にも30分前に着くのがわたしの流儀なりのだが…。9時45分につく。参加は60名ほどか。この会場は毎年ノリがいい。 18時から趣味の会の歓迎会。今年新たに3名を迎えた。会員は30名を超えた。歓談中、会員の一人のTさんか「武さん、毎日新聞の「PTA広報講座」を社告を読んだよ」と、酒を注ぎに来てくれた。帰宅は9時過ぎ。妻から、イチロー選手の記録―しかも満塁ホームラン―のことを聞かされた。いい一日だった。
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シーズン・イン 【No.757】 2009年04月15日
下は、今朝の毎日新聞の社告です。
◇PTA広報紙の講習参加者募集◇ ◎ 6月6日に毎日ホールで PTAの広報委員と教師を対象に、無料講習会「初歩から始めるPTA広報紙づくり」を6月6日(土)、毎日新聞東京本社地下1階・毎日ホール(東京都千代田区一ツ橋1)で開催します。 第59回(09年度)全国小・中学校・PTA新聞コンクール(毎日新聞社など主催)の関連イベント。 講師は同コンクール審査員で、元中学校長の武勝美さんです。参加者には、資料として第58回入賞作品集を無料配布します。学校新聞とPTA広報紙作りの参考書、入門書として最適です。 【日時】6月6日午前11時〜午後0時半 【会場】毎日ホール(地下鉄東西線竹橋駅直結) 【申し込み】ファクスで毎日新聞社こども環境・文化研究所(03・3212・2592)へ。住所と氏名を明記。 【問い合わせ】同研究所(03・3212・0267)へ 首都圏のPTA広報委員を対象にした「広報づくり講座」です。参加をお待ちいたしております。 明日・16日、文京区教委の主催の「PTA広報研修会」がわたしのシーズン・インです。
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桜花 4 【No.756】 2009年04月12日
きのうの朝、お隣のTさんが三歳の娘さんを連れ「いとまごい」に来た。少し風か出てきた庭は花吹雪。そのさまを見て「きれい、きれい」と言いながら、花屑を小さな両手で受け止めようと走り回る女の子。この子も私もこの光景に再び出会うことはない。 ライトアップは昨夜で終わる。こうして今年の桜は去っていく。 、
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桜花 3 【No.755】 2009年04月11日
昨夜6時半、灯りを点けたら、その光の中を桜の花びらが静かに流れていく様が見えた。 中空にとまらんとする落花かな 中村 汀女 散ってゆく桜花を惜しむ、これもまた花見。 『ギャラリーのページ』にわが家の桜をアップした。この日記を読んでくださった方、どうぞ「わが家の桜」を見てください。
今朝は9時から寺山の氏神・鹿島神社の御輿の捩り掛け(飾りつけ)に出かける。明日は寺山のお祭り。
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桜花2 【No.754】 2009年04月07日
風吹けば風にかがやき朝桜 喜多村萬城 今ごろの、日の出前の外気は身を引き締める。朝の桜花は清浄。淡いピンクの桜花は、その背景の春の空の青に溶け込んでいる。 咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜 虚子 きのう、きょうとわが家の桜を見に来る人がいる。「桜の花だけが下を向いて咲く。だから花の下から見てやりたい」と言ったのは桜守の佐野藤右衛門さん。
残されし人の見ている桜かな 前田美智子 三日前から桜をライトアップしている。始めたのは7年前から。ベッドの母に見させるためだった。 桜花は一瞬の中に永遠の時間を創り出す。 一生のひと日を花と過しけり 楠 茂 落花飛花に遊ぶ集団下校の児 勝 美
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4月3日 31人で大山道を歩く 【No.753】 2009年04月04日
3回シリーズでおこなう東公民館主催の『古道 大山道を歩く』。その第1回は4月3日。 今回のテーマは「大山道と里人の暮らし」で、蓑毛道と坂本道を歩きながら、江戸時代から今に連なる里人の生活を見て歩いた。同行者は30名。横浜から参加された二人は、このホームページの『秦野のおはなし』を通じてだった。 絶好のハイキング日和、しかも桜の開花もかなり進んだので、皆さんの出足はよく集合時刻前に全員揃った。古事記の「国生み」「天孫降臨」「国譲り」、そして十王経の「葬頭河と奪衣婆」の話を、蓑毛や寺山の地名に結び付けて話した。これは好評だった。 わが家の五部咲きの桜の下に坐ってもらい、『お花見』を話を聞いてもらった。今回は、私だけでなく「まほらの会」の横山さんと小泉さん、それにお隣の洋造さんにも解説をしてもらった。 歩くことを楽しむ人には《ただ歩く》だけで良いのかもしれない。しかし、今回のように、歩く楽しさに加え、地名や風景、さらには人間の営みなどを知ることで、いっそう歩く楽しみは増すと思う。 9時から6時間30分ほどのウオーク。76歳の女性お二人も元気に完歩。解散時に第2回を期待する声をたくさんもらった。私にとっても充実した一日だった。
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桜花 【No.752】 2009年04月01日
3月31日 葬送の式の最後に喪主であるM先生が挨拶をされた。「今朝午前2時ごろ、この部屋で家内と最期の話をしました。そして二人で『ご苦労さまでした。ありがとう』と言葉を交わし別れました」そして絶句。 先生の奥様は30年におよぶ闘病生活だつた。17年前に定年退職されたM先生は、その後一人で自宅で看護をされてきた。 導師を務めた身延山樋沢坊の房主は、M先生の実兄。そのお兄さんが通夜の席で話された。「連絡を受けて身延山を出たとき、久遠寺のしだれ桜は散り始めていました。こちらに来て、貴美子さんと結婚して生活を始めた地が『桜町』と聞かされました」。 贈られた戒名は「春光院妙桜日貴大姉」でした。 桜の花の華やぎは瞬時とも言える。だが、だからこそ永遠なのだ。
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三月の終りに 【No.751】 2009年03月26日
7時半頃からひとしきり本格的な雪、あまり記憶にないこと。しかし9時前にはすっかり春の陽射し。 ここ数日、市内22校のPTA広報全紙を読ことに集中している。30日締め切りで、1校あたり600文字程度の感想を書かなければいけないのだ。この講評は冊子になり、全校に届けられる。 1ページずつ目を通していくと、それぞれの広報委員会が持てる力を出し切って作っていることが分る。それだけに、こちらもまた精一杯の講評を書くことで、広報委員のがんばりに応えたい。 もう20回書いているが、この「講評書き」が私のPTA広報論の大きな支えになっている。 WBCにとりつかれた。生産組合長の引継ぎ、退職校長会の会計監査など年度末の仕事をした。一方では4月3日に行なう「大山道を歩く」の準備を進めている。里芋を植えないといけない。今夜がんばり、『エコー』の出稿は明日したい。 桜は「待つ花」ともいわれている。3月は「去る」だが、今の私は「待つ心」。
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市PTA広報紙コンクール 今回は部門賞を設定 【No.750】 2009年03月19日
18日 秦野市PTA広報紙コンクールの審査。審査員はP連会長、教員代表の校長先生、P連だよりを編集してきた情報委員7人、それに私。 午前10から午後4時まで、22校が発行した100余の広報を全紙読む。今のPTA広報はA4班が主流。12ページ建てという力作もあるので、総ページ数は400を超えているだろう。昼休みの時間もほとんど取らないで紙面に向った。こうしてまとめて読むと、充実した内容のものが多い。それで、自然に紙面の隅々まで目を通すことになる。 秦野のPTA広報の力量は全国でもトップレベル。全国PTA広報コンクールにあって、ここ8年間上位の5賞に8回入賞している。だから「市のコンクールに入賞するのは大変」と言われているようだ。それで、今回が20回という節目のコンクールでもあるので、上位表彰以外に部門賞「企画」「記事」「レイアウト」「写真」の4賞を設けた。 これ等の特別賞は、「第〇〇号の△△ページに対しての賞」と明示することにした。この部門賞は、関わった委員に大きな自信と喜びになったと思う。また、次年度の広報委員に参考になるだろう(既に次年度第1号に取り組んでいるところもある)。 きょうから24日まで、本町公民館で全応募紙の展示会が開かれている。
19日 菜の花が満開の隣りを耕す。そうしたらミツバチに唇を刺された。春だ。もう遅いのかもしれないがジャガイモの種を植える。足も腰もガタガタ。 小学校は卒業式。校庭に鼓笛隊の「蛍の光」が流れた。春です。
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ふるさと 【No.749】 2009年03月16日
15・16日に東中学校の同窓会。参加は34人。数年前から毎年の開催になった。万年幹事だから、定宿になった箱根湯本『Y』に4時に入る。受付けのテーブルに背中を向けて、会の進行のプログラムを作っていたら、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。 「勝美さん、来ていられる?」、振り返って声の主を確かめた。なんと、わが家の隣りのTさんである。「Tさんじゃない、何 きょうは」と私。 聞いてみると、中学時代の仲間10人ほどで、毎年1回集っているとのこと。 宿の「ご宿泊」のボードの「東中学校第5回卒業生同窓会様」を見て、私がいると思ったのだそうだ。Tさんもまた、新制中学の第5回卒業生だからである。その夜の宴会の席も隣同士だった。 「好きになった人」で私が前座を務め、全員がステージに立ち「星影のワルツ」で別れを惜しみ、東地区に生まれ育った仲間であることを喜び「故郷」を合唱した。
東公民館の地域講座『大山道を歩く』の参加者募集が3月15日付けの「広報はだの」に出た。きょう・16日の朝10時に担当のIさんから電話が入り《即日満員》とのこと。 今回は「寺山の里の暮らし」をサブタイトルにして、お花見を兼ねたウオーキング。わが家の桜もコースの中に入れた。 “桜の見ごろ”を予想し、4月3日をその日に設定したのだが、ここ数日の天候から開花がかなり気になる。きょうはすっかり春、蕾のふくらみがひときわ進んだように思える。
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第62回東中学校卒業式 【No.748】 2009年03月10日
やがてその姿を消す定めにある旧体育館が竣工したのは1965年4月だった。竣工式の前だったが、教委の計らいで3月15日に未完成の育館で卒業式を行なった。その体育館での記念すべき第1回の卒業式に、私は担任として卒業生を送り出した。式が終わって体育館を出たら小雪が舞っていた。 昨年・2008年3月11日、その体育館での最後の卒業式に招かれて列席した。送辞の中で「新聞作り」が語られた卒業式だった。 きょう、2009年3月10日、2月に竣工したばかりの新しい体育館で第62回卒業式が行なわれた。並んで建つ古い体育館の二倍の広さの会場に、卒業生が歌う『青葉の歌』が柔らかに流れた。
きらめけ青葉よ/さわやかにそよげ心よ いつかきっとそんなふうに/明るい日ざしのような愛で 世界中をつなぐ日が/きっときっとやってくる
きらめけ青葉よ/さわやかにそよげ心よ きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を いつかきっとこんなふうに/光が声になって燃えたち 世界中のみんなの手を/もっともっとかたく結ぶ きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を
世界中をつなぐ日が/きっときっとやってくる きらめけ青葉よ/手をのべてつかめ心を 心を 心を 心を 心を
体育館の外は、彼らの旅立ちを祝う陽光でいっぱいだった。
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全力投球 全力疾走 【No.747】 2009年03月05日
きょうもまたPTA広報の年度最終号が3紙届いた。既に10数紙読ませてもらっているが、送られてきたそれらの全てが“その気”で作られている。 この時期に発行されるP広報紙は「あいさつ特集」で“お茶を濁す”のが普通だが、いただいたどの紙も全力投球」「全力疾走」である。 S中のIさんは、こんな手紙をつけて、講評を求めてきた。 「いつものパターンの紙面になってしまいました。そのことを指摘されるのは辛いですが、また講評をお願いします」。 そのIさん、来年度は小学校で広報を作るとのこと。「どうせ委員をやるのなら広報を」と立候補したのだそうだ。そのわけは、「広報委員が楽しく活動をすることで、PTA活動に対するイメージを変えたいと思ったから」だ。 昨日、お隣の東中の広報委員の4人が、最後の号を持って訪ねて来た。彼女たちが底抜けに明るかったのは、解放感だけでなく、最高のものを作ったという自負があるからだった。 H小のMさんがきょう最終号を持ってきた。6年間、広報に関わってきたとのこと。その160号は、まさに「有終の美」にという言葉がふさわしいほとの出来だった。 広報づくりに楽しさを見出し、そして今は達成感に浸っているお母さんたちに心からの拍手を送りたい。
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きょうは「ひな祭り」 【No.746】 2009年03月03日
パソコンで3000字ほどの文を書いていた。母屋から昼飯のコールが子機に入る。それで「保存」をクリックし、立ち上がりながらデスクトップを見た。ない! 「保存」が出来なかった。 あわてた。悲しくなった。『検索』ポチ君が尻尾をふりふり、鼻を利かせて探してくれたが、「検索を完了しましたが、何も見つかりませんでした」が答え。この間、再三再四のコール。それを無視したら、今度は母屋の方が《無視》ということになった。 30分も過ぎて食卓に着いたら、妻からキツイ言葉。用意された昼食は、餅が入った本格的なお汁粉。すっかり延びた餅がおわんの底にへばりついていた。きょうは「ひな祭り」だった。
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角谷戸のフキノトウ 【No.745】 2009年02月26日
診察室を出た。次の患者は谷口さんだった。「おはようございます」と挨拶を交わす。ちょっと間を置いて谷口さんが「これ、食べるけ?」と手元にあった紙袋からポリ袋を取り出す。袋一杯のフキノトウだった。 「エッ、フキノトウ! 食べる 食べる! こんなに! いいの? 貰って」とわたしはすっかり興奮。谷口さんはもう一袋取り出して見せて、「(歯の)先生の分はあるから、よかったら持っていってよ」とはにかみ笑い。「ウチの回りにいっぱい出てね、今年は早い」。 谷口さんは寺山の住人、住んでいる所は「角谷戸」で、寺山地区の奥まった集落である。「寺山」は「テーラヤマ」が語源。『テーラ』とは「平(タイラ)」。「寺山」は「照る山・陽が差し込む山」という解釈もある。 なだらかな寺山・角谷戸の台地に、早春の陽光が差し込みフキノトウは豊かに育った。いち早く、わたしは春をいただいたのだった。 晩酌のつまみにと茹でてもらった。甘味噌でいただいた萌葱いろのフキノトウには、かすかな香りが残り、しっかりとした苦みあった。酒は「東魁盛」、寺山のフキノトウにぴったりの銘である。
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みちしるべの会で屈掛不動尊を訪ねる 【No.744】 2009年02月23日
昨22日、「まほら秦野みちしるべの会」の2月の活動として、千村地区の実地踏査を行なった。 『矢倉沢往還』の西からの秦野の入口に祀られている「屈掛不動尊」を訪れのがこの日の目的。千村の小野さんに案内をお願いした。以前尋ねたときには見つからなかった泉蔵寺にあるはずの大山道の道標を2基を確認できた。これは大きな収穫。 参加者は16人。暖かな陽射しに恵まれ、1万2千歩のウオークも楽しんだ一日だった。
『ライブカメラ』の整備をしました。アクセス機能は充実!! 松田町の河津桜など眺めてください。もちろん、本家河津町の河津桜も見られます。
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第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果(09/2/20発表) 【No.743】 2009年02月21日
第58回全国小・中学校・PTA新聞コンクールの結果(秦野市関係) 09/2/20発表 主催 毎日新聞・全国新聞教育研究協議会など
☆学校新聞の部 優秀賞・DNP賞 『東中新聞』 東中学校 新友会パピルス賞 『東中新聞』 東中学校 ・『東中新聞』はダブル受賞。
☆学級新聞の部 佳 作 東中学校2年2組 南が丘中学校3年2組 奨励賞 東中学校1年3組 東中学校2年4組
☆学習新聞の部 全国新聞教育研究協議会賞 東中学校1学年 奨励賞 東中学校2学年
☆PTA広報の部 最優秀賞 本町中学校PTA 佳 作 渋沢中学校PTA ・本町中学校PTA『丹沢の風』は二年連続の最優秀賞です。
◎東中学校は、学校・学級・学習の三部門で入賞。 ◎今回も秦野市はP広報の部を含め、全部門で入賞を果しました。
表彰式は2月28日、毎日新聞東京本社でおこなわれます。『東中新聞』、学習新聞の東中1学年、それに本町中Pの『丹沢の風』の編集者が招かれています。
このコンクールの全ての結果は、『エコー』のホームページのリンク集 の「全国新聞教育研究協議会」にアクセスすればご覧になれます。
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民・児協広報部会の研修会 【No.742】 2009年02月19日
秦野市の民生・児童委員協議会広報部会から、機関紙づくりの講座の講師に招かれた。13人の編集委員さんは、午前中はわたしの講座、そして午後は4月1日発行号の編集作業と、きょうは一日の活動。「機関紙は文字通り、会の機関車・活動の原動力」と、先ず訴えた。「民」という文字の字源を最後に紹介し、委員さんの活動にお礼を申し上げた。 講座のあと、発行権、肖像権などの質問を受けた。意欲的な声もいくつか聞くことができた。地域で委員としての本務の活動をしながらの機関紙発行のご苦労に、あらためて感謝の言葉を申しのべ退室した。
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今 朝 【No.741】 2009年02月18日
「早寝早起き」を心がけているわけではない。いつの間にか、就寝9時、起床4時半になっている毎日。こうして、間もなく““昼夜逆転”の生活に入るのだろう。 今朝も5時にテレビを点け、『知るを楽しむ』の再放送を観る。水曜日は「人生の歩き方」で、今月はシンクロの井村雅代さんの登場。今朝の話は、中学校の教師からシンクロ専任コーチに転進するきっかけの話だった。 荒れた学校での生徒指導に全力投球をしていた井村さんは、コーチの話がきたとき同僚に相談した。するとその同僚が「あなたしか出来ない方をとりなさい。学校は、あなたがいなくなって困るかもしれないが、代わりはいる。あなたと同じような生徒指導はできないかもしれないが、わたしたちのやり方であなたの代わりをする」と言ったという。
5時半からは同じチャンネルで『NHK俳句』。今週の担当は正木ゆう子さん。番組の中の「ビギナーズコーナー」で、正木さんが紹介した一句。 冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬遷子 ガンに侵された医師である相馬さんが亡くなる10日ほど前の作品で、辞世の句とのこと。
井村さんに「わたしたち流であなたの代わりをする」と言った先生の言葉、そしてこの一句が異常なまでにわたしの心をゆさぶった今朝。
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春一番 【No.740】 2009年02月14日
2月13日 『春一番』が寺山にも吹いた。 お隣の東小学校の5、6年生から音楽会に招かれた。昨年6月、6年生に東地区の文化や歴史について話をした、そのお礼とのこと。 5年が3、6年が4の全7クラスが、それぞれ器楽の演奏を披露してくれた。保護者もたくさん聴きに来ていて、会場の体育館は満杯状態。 子供たちの選曲なので、プログラムは変化に富んだものだった。楽器を奏でるその姿は緊張感一杯。10数種類の楽器が使われていた。私の現役の頃には、中学校でも全く見られなかったステージだ。 出番が終り自席に戻る時の子供たち私の前を通る。どの子の顔も満足感・成就感でさわやかな笑みに満ちていた。担任の先生とハイタッチする男子がその象徴のように思えた。 6年生の全員合唱「旅立ちの日に」は、男子の声がよく響いてきた。少しジーンとした。嬉しい1時間半だった。 『春一番』とは、海が荒れることを警告する気象用語だが、きょうの音楽会は、子供たち、保護者、そしてわたしにとっても「春が来たよ」と呼びかける『春一番』だった。
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初午 白笹稲荷のお祭りの日 【No.739】 2009年02月07日
わが家は2月1日が『お棚納め』の日。この日の朝、神棚などに白米のご飯を上げ、お灯明を点ける。そして1月中、ずっと飾られていたお注連などの正月飾りを下ろす。 今日は初午、秦野の白笹稲荷のお祭りは、今日初午の日に行なわれる。この祭りに合わせ、わが家では正月飾りを畑で『お焚き上げ』する。 『稲荷さん』は、その文字が表しているように「稲を背負ってくる」神さまだから、豊作の神さま、農業の守り神である。元旦、「この一年わが家に福をもたらすように」と迎えた年神さまを、今朝の『お焚き上げ』で山にお送りし、豊作の神・稲荷さまと交替してもらうのだ。 霜柱の立っている朝の畑で注連飾りは勢いよく燃えた。かすかに藁の匂いのする煙が細く立ち昇った。午後、耕運機を始動させ、今年初めての農作業の真似ごとをした。 夜、教員OB会の新年懇親会。30数名の参加。加齢と共に世間とのかかわりが減る、体力、気力も弱まっていく。それが現実だからこそ、こういう会は嬉しい。懐かしい顔が元気であれば、いっそう楽しい語らいができる。今の学校教育について論じなどすれば、明日への活力になる。午後5時開会で2時間の宴は『歳相応』の宴だった。
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PTA役員をやってみたら 【No.738】 2009年02月02日
その理由には触れないが、「小学生のころから、ずっと先生をさめた目でみてきた」と言うTさん。子供が小学校に通うようになり、授業参観に出かけても、いつも距離を置いて先生を見ていたとも話す。 「でも、広報委員になって、頻繁に学校に行くようになり、先生の見方が変わりました。授業参観とは違う、先生や子供の普段の姿が見え、先生方がこんなにがんばっているんだ、と思うことをたくさん目にすることができたからです」。 一保護者としては、そのハードルは高いが、PTA役員・委員としてなら比較的楽に学校に足を踏み入れることは可能かもしれない。Tさんのような経験は貴重だ。この時期、PTAは次年度の役員・委員の選出がすすめられているのだろう。親としても成長できるそのチャンスを逃す手はない。
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千昌夫とナガヌキ 【No.737】 2009年01月30日
演歌大好き人間のわたし。終戦後はやり始めた青年会活動での歌謡舞踊で聴いた田端義夫から始まり、春日八郎、女性歌手では、八代亜紀、都はるみ、昨夏は甲府での吉幾三コンサートに出かけた。―ああ、なんと“ド演歌”! でも阿久悠の詞は好きです。ジュセッペ・ディ・ステファーノの「カタリ」が歌えるわたしです。
昨日、JAはだの主催の「千昌夫ショー」に出かけた。貯金・共済事業45周年記念ということで昨日と今日の2日間の4回興行で5千人を集めるとの挨拶があった。 千の知られている歌の一つに「味噌汁の詩」がある。昨日も二曲目に登場。「へぇーそおか おまえさんも東北の生まれか」というセリフが入る歌。この「東北」という部分を『ナガヌキ』と入れ替えた千に会場が沸く。 このステージに招かれた東地区の中の一地名である『ナガヌキ』は、「名古木」と表示される地名の読み方・呼び方で、難読地名で有名?なのである。「東北」を、その興行先の地名に置き換えるなら「秦野」くらいだろうに、『ナガヌキ』。こんなところに彼の芸人の心意気、年輪を感じた。 『北国の春』を会場に唱和を求めた千に、ナガヌキの人たちを含め秦野人は大合唱で応えたのだった。 ステージ終了後、千が立つCD売り場のヒートアップぶりは、『ナガヌキ』効果か。 昨夜と今日の残り3ステージで、千はどの地名を使ったのだろうか。興味深い。
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Kさんからのたより「北野天満宮に行ってきました」 【No.736】 2009年01月28日
一昨日・26日の『辻の天神さん』に応えて? Kさんから次のようなメールが届いた。
超メジャー所、北野天満宮に行ってきました。 24日、金閣寺に向かうバスを途中下車し参道を歩いていると、屋台の準備をするお兄さん達やシートに覆われた屋台に、「あ、明日が初天神か」。さすがにこの時期、受験生らしき親子連れも多く、お参りの列に並んでいると、前にいたおばあさん同士の会話。「孫が受験なんだけどね、どこを受けるか分からないから、お願いの仕様がないわよね」「そんなの、『高校受験合格』ってお願いしておけばいいのよ」。ちょっと距離を置いて心配しているおばあさんの気持ち、きっとお孫さんに伝わるでしょうね。年末年始、京都に残った娘のために救援物資を送ってくれた実家の母を思いました。 丑年の今年、歳男の夫のために牛の置物を。おみくじは小吉なれど、「限りなき恩涯(おんがい)止足(しそく)を知る――限りないご恩を授かるけれど欲張ることなく止まる処と満ち足りることを知れとのお諭しのお詩です。ともすれば我意を通し高慢になる心を捨て去り、誠と謙譲の心で事に当たれば遠からず気運は上昇します」。お守りにと持ち帰りました。 強い北風に雪がちらつき、京都の人でも「今日は寒いですね」という中、一人で気ままに巡って、「わら天神」と「八坂の庚申堂」は思わぬ発見でした。天満宮の宝物殿、金閣寺の方丈、東寺の五重塔の内部、東寺観智院の上段の間、高台寺の開山堂。冬は特別公開の季節らしいです。 それにしても、ボランティア(?多分)ガイドの方たちの知識の深さに感激しました。そうそう、観智院でひいた愛染明王のおみくじ(ちりめんの小袋入り)には大きく「聞く」の文字。「なんでこんなに私にドンピシャなの」と、これも持ち帰りました。
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親方 六道 天神さん 【No.735】 2009年01月26日
24日 清水生産組合の総会。次期の役員の改選と懇親会。4年間務めた生産組合長の任期も間もなく終わり。あまりよい組合長ではなかった、とお詫びする。 後任は40代の雅博さんに決まる。父親の一夫さんが「そろそろウチの順番だろうから、息子にやらせる。農業の方も頑張ってもらわなければいけないから」と名乗り出てくれた。63人の組合員の中で米作農家は5軒。その内の一軒が一夫さん。雅博さんは会社勤めだが、休みの日に田畑でその姿をよく見る。田畑を管理・維持するのはたいへんなこと。良い組合長が決まった。 懇親会の席、一夫さんに「親方が先ず歌わなきゃあ」と言われ、“親方”のわたしはマイクを持った。歌ったのは、いろいろな反省を込めて「よせばいいのに」。この歌はわたしのテーマソングである。
25日 母の三回忌の法要を行なう。この世の人は、死後初七日から三回忌まで10回の裁判を経て、最終的に六道と呼ばれている地獄など六つの世界のどこかの世界に行くかが決まるのだそうだ。 この日、法要に集った親族・縁者の話をまとめると、「ばあちゃんは10回の裁判なんて受けていないよ。第1回の裁判を受ける前に『わたしの行く所は極楽!』と言って、さっさと極楽に行っているはずだ」ということになった。そうであって欲しい。 25日は天神様の祭りの日。朝のうちに「辻の天神さん」にお参りに行ってきた。「辻の天神さん」は60年ほど前までは、東中学校の校庭にそびえる大公孫樹の下にあった。武完さんの個人持ちのお宮だが、その頃は清水の子供たちが神主役を務めた。東地区の人たちがお参りにみえ、けっこうにぎわった。今は、東秦野郵便局の前、幼稚園の駐車場の入口に遷宮されている。 昔と変わらぬ幟が立っていた。当主の完さんから「天満天神御璽」のお札を頂いた。 今日26日、完さんに参詣者の数を聞いたら「数人だけ」と、寂しそうだった。湯島や鎌倉の天神さんはにぎやかだったようだ。今の世、メジャーにばかり関心がいってしまう。近くにある天神さんこそ、ご利益があると思うのだが…。
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お上りさん 【No.734】 2009年01月19日
車内を見回し、「やっぱりわたしが最年長のようだ」とつぶやく。特にラッシュ時に電車に乗ると、必ず生じるわたしの所作、そして心に浮かぶ言葉。 「今ここで倒れたら“恥”だなあ。いい歳して、って笑われるだろうな」という怖さみたいなものも感じている。ビジネススーツで装っているわけではないが、手にするバッグはビジネスマン用。バッグを背負うときは、若向きのコートを羽織る。こうして、外観から元気づけ、心を高め、東京に乗り込むわたし。今月は三回東京に行く。 会場には30分早く着く主義。都内の地下鉄の乗り換えも今のところ苦にはならない。まだ“お上りさん”ではない、と思っている。特に新聞のことで上京するときは、まだ現役であることを少し誇らしく思う。
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1月13日はこんな日 【No.733】 2009年01月14日
十数年来、正月の三日にわが家を訪ねてくれる教え子のMさんが、今年は今日来てくれた。介護の仕事なので日程から今日になってしまった。 Mさんがこの仕事に就いたのは数年前、昨年秋にケアマネージャーの資格を取った。仕事のようすを聞くと「大変なこともあるけど、わたしはこの仕事が好きなんです」と言う。「わたし、人が好きなんです。このお仕事はいろいろな方に会えます。皆さんから、いろいろなことを学べます。それが嬉しい」とも。年齢は50歳、末っ子の高校受験も心配なMさんだが、明るい笑顔で帰っていった。 夕食後、明日の「ダンゴ焼き」のダンゴづくり。老夫婦二人の生活だが、わが家の年中行事は、元気なうちは続けていく。同級生のKさんが届けてくれたお米の粉で、赤白二色のダンゴを蒸かす。茹でる方法もあるのが、ウチは蒸かす。妻が少し多めに食紅を使ったので、今年の赤は見事? 12日に伐っておいたコナラの枝にダンゴを刺す。 14日に作る家がほとんどだが、わが家は13日。神棚、仏壇、荒神さん、およべっさん(恵比寿・大黒天)に飾り、お灯明をあげる。明日、焼きに持っていくダンゴも針金に通し、竹に吊るす。わたしの仕事部屋にも一枝飾った。
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『ぬくてえ』心になれる政を 【No.732】 2009年01月09日
高山市に「のくとい館」という建物がある、ときょうの朝日新聞が書いている。飛騨地方の方言で「温かい」という意味を表す「“のくとい”館」は、豪雪地帯のこの地方のお年寄りが冬場だけ一緒に暮らすファミリーホームのこととある。 信州から甲州、そして相模の西北部で使われている方言には、似たものがかなりある。わたしの子供の頃、お年寄りが「温かい日」だと、きょうは『ぬくてえ』なあ」と挨拶を交わしていた。 「のくとい」は、たぶん「のくてえ」を文字化したから出たていねい語だろう。秦野の『ぬくてえ』と同じ言葉だ。
わが国の総理が「配られる給付金に自分のお金を足して盛大に使ってください。今の景気を回復させるきっかけになりますから」と一生懸命説いている。でも、ご自分はパッと使うとはおっしゃらない。税金を給付金として配る政策なのだから、国のトップは“率先垂範”、「わたしも盛大に使います」と言えばいいのに。 ある大臣のように「うまいものを食べるよ」と笑えるような、そんな世の中ではないから、総理ご自身は「バッと使う」と言えないのだろうが…。 誰もが『ぬくてえ』心になれる手立てを講じることが政治ではないのか。 みぞれ交じりの雨の日に思ったことです。
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新しい年 動き出す 【No.731】 2009年01月06日
厚木の長谷寺・飯山観音に初詣。ここには妻の実家・佐藤家の墓所があるので、墓参も兼ねて結婚以来毎年松の内に出かけている。5日ということで、参詣客はそれほど多くない。帰りにいつもの中華料理店でラーメン。いつもの一杯が食べきれない。 午後、原稿を書く準備。資料として使いたい新聞類をあちこちから探しだす。このごろ強く感じることだが、大切な資料ほどどこにあるのか分からなくなってきている。全て目の前に置かなければいけないような、記憶力の減退。三時過ぎ、Kさんが「新年のご挨拶に」ということで来訪。彼女の今年の夢、たぶん実現可だろう夢の話をうらやましく聞く。H先生が、頼んでおいた資料を持ってきてくれた。
全国新聞教育研究協議会の事務局からファックス。きょう届いた年賀状の中に新聞形式のものが三通あった。吉成さん、香山さん、武藤さんのお三方からで、いずれも新聞教育の優れた指導者。見事な出来だった。
わたしにもあたらしい年が動き始めた。今朝の朝日歌壇の一首。 過ぎし日を記すにあらず明日へのふりだしとして日記書きをり 田浦 将
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続 箱根駅伝 【No.730】 2009年01月05日
1月3日 「お願い:大学はスタート・ゴール地点での集団(応援指導部含む)による応援及びコース全区間での手旗・横断幕・職等、東洋大学名の入った道具を使用しての応援は行わないことを決定しました。つきましては、卒業生の皆様におかれましても事情ご賢察の上、明年の第85回東京箱根間往復大学駅伝競走においては、集団での応援、手旗等を使った応援は控えていただきたく、ご理解の程よろしくお願いいたします。 平成20年12月 東洋大学」
テレビが、まもなく東洋大学の総合優勝が決まるというときを映していた。アンカーが入ってくるのを待つ部員たちが校歌を歌っている。だが、それは校歌ではく、「東洋大学」という校歌の一節を繰り返していてるだけだった。 優勝のテープを切る前、高見選手は肩に掛けた襷の校名の部分を握りしめゆすった。そしてテープを切り小さくガッツポーズ。あるはずの歓喜の胴上げはなかった。その代わりに彼らがしたことは、部員全員で走ってきたコースに向って頭を下げたことだった。新聞によれば「10分前に話し合って胴上げはしない。みんなで一礼しよう」と決めたのだそうだ。「お願い」をしっかり履行した部員たちだった。心技体の総合優勝だった。
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箱根駅伝 【No.729】 2009年01月04日
2日は“お年始”。二組の妹夫婦などを迎えちょっとした祝宴を開くのがわが家のお正月の慣わし。その仕度で朝から台所は活気に満ちていた。 今年は一升の太巻き寿司を巻いたわたし。妻は筑前煮を大鍋で炊いているのだが、落ち着かない様子。その台所に、朝から箱根駅伝の実況放送が響いていた。 妻に届いた年賀状の中に「お正月、二日・三日は文化放送で箱根駅伝・戸塚中継所の実況を担当します」という添え書きがある一枚があった。教え子のフリーアナウンサー槙嶋範彦さんからのものだった。 花の二区は今年もモグス、ダニエルの快走、そして、竹沢や佐藤など各校のエースが揃った三区への引継ぎ点が戸塚中継所。だから彼の実況も若々しく、情熱的で圧倒的だった。完全に手を休め聞き入っていた妻は「よかった」「凄い」を連発し、すぐに彼の実家に電話を入れ、これまた興奮気味にその喜びを伝えていた。
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『寺山ものがたり』の締めくくり 【No.728】 2008年12月31日
30日 今年最後の生産組合の仕事で集金に回った。向原家は庭で餅つきをしていた。臼と杵を使い家族総出で楽しそうだった。懐かしさと同時にうらやましさを感じた。時間の余裕があればひと臼搗かせてもらいたいと思った。集金を終え帰ろうとしたら「ひと臼もっていきなよ」とご主人の光ちゃんが伸し餅を一枚くれた。 搗きたての餅をおし戴くような形で県道を300bほど歩いて帰った。今年の『寺山ものがたり』を締めくくるのにもっともふさわしい光景だと思った。
29日 午前中は玄関の掃除。掲げてある「松倉絵馬」を正月用の「津軽凧絵」に掛け替える。そして信楽の倉田さんから贈られた干支の「丑」の焼き物を飾る。倉田さんは『エコー』の最初からの読者。毎年、信楽焼きの干支をプレゼントしてくださっている。床の間に飾ってある過去に頂いた干支は数えて23。
28日 暮の大掃除で最大の難所は応接室。ここには昔集めた郷土玩具が300点ほどある。それを全て拭き掃除して並べ替える。土人形、グイノミなどの壊れ物がかなりあるし、張子類も時を経ているのでもろくなっている。二人がかりで半日は必要。「わたしがいなくなったら、どうするのだろう」などと余計なことを考えながら、手にした一つずつの思い出をたぐりよせていた。
26日 夕方Hさんが訪ねて来た。東中新聞の委員長だった娘さんのUさんの進学先が決まったことの報告にみえたのだ。あの難関のC大学の法学部だという。部活はダンス部で、全国大会まで出場するようなガンバリっ子。我がことのように喜んだ。 今年、教員になったCさん(彼女も東中新聞の委員長だった)から「お久しぶりです」とメール。「周りの先生方に迷惑をかけ、助けていただいて、ようやく今年が終わりました。去年まで暮はバイトで大忙しだったのに、今年は。話をしたいです。」と書いてあった。
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東中生が選ぶ今年の一字 【No.727】 2008年12月26日
きのう届いた『東中新聞』877号(208/12/24)に「どんな年だった?2008年」という記事があった。
学校の年度はまだ続きますが、今年2008年はもうすぐ終わります。どんな年だったでしょうか。年末恒例の「今年の漢字」には『変』という字が選ばれました。そこで、「東中生が選ぶ今年の一字」をアンケートしました。 三位は『笑』、笑顔あふれるクラスっていいですね。二位は『疲』、行事に勉強に忙しかった! そして一位は、ダントツで『楽』でした。皆さん楽しく過ごせたようですね。一年生は、中学生になり『初』も多かったです。 2009年も楽しく、良い徒しにしましょう。よいお年を…。
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ナバナ 【No.726】 2008年12月24日
冬至の日・21日の「NHK俳句」で第一席に選ばれた句 どの枝も冬芽豊かに大桜 大坂 正
庭の桜はまさにこの一句のとおりだ。蒼い冬空の下、びっしりと冬芽をつけた枝を四方八方に伸ばしている。畑のネギが冬の陽光を求め、全ての株が南に向けてその青く太い葉を輝かせている。 『一陽来復』、もう春を待っている自然界。太陽の力は冬至の日まで徐々に弱まり日射しは弱くなり、日の照る時間も短くなる。そして冬至を境にその陽光は再び力を持ち始める。 10月に蒔いたナバナを摘み、おひたしにした。
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自治会のあゆみ『てらやま』の発刊 【No.725】 2008年12月22日
寺山自治連合会が、自治会のあゆみをまとめ『てらやま』という冊子を発行した。手づくり・64ページから、寺山のさまざまな生活を読み取ることができるが、とりわけゴルフ場の開設や東電の幹線の通過、さらに県道、市道の整備などに苦心された先輩諸氏の話には深く感じるものがある。 「次への礎になれば」とあとがきにあるように、この冊子は寺山に住む者にとって大切な資料であり、指針てある。 良い仕事をなされた今期の自治会長さんの皆さんに、心からお礼を申しあげたい。
昨日、京都で行なわれた全国高校駅伝の女子の部に母校・秦野高校が出た。5回目の今回は神奈川の代表ではなく、関東地区の代表で出場。17位だったが、関東地区からの参加校8校の中で3番目の成績。3年生一人というメンバーだから、来年・再来年が楽しみ。
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小坂顕太郎詩集『五月闇』」 【No.724】 2008年12月19日
12月18日 『ECHO』の読者である岡山のKさんから「小坂顕太郎詩集『五月闇』」をいただいた。巻頭から「あとがき」に至るまで、全ページから言葉の持つ力が伝わってくる。当然のことだが、詩人は繊細、しかも饒舌。私はこの詩人の心を受け止めようと必死。 山北町に住むNさんが、わざわざ「道祖神祭り」の資料集5冊を持ってきてくださった。「山北町の道祖神祭りは山車が出る」、そのことにとても興味があったので在住のNさんに尋ねたことが、きょうのようなご迷惑をかけることになった。申し訳なかった。さっそく読ませてもらった。
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新聞づくりは仲間づくり 【No.723】 2008年12月16日
新聞の仲間のYさんはとは30年以上のお付き合いがある。そのYさんが秦野で飲み会をしたいという。Yさんは常磐線沿線に住んでいるから、秦野で飲めばそう簡単には帰れない。それなのに、「秦野で」と言うのだ Yさんが「秦野で」と言うわけはいくつかある。一つは、3年前の全国新聞教育研究大会・秦野大会で秦野を訪れ、秦野の新聞づくりの実力を知ったこと、加えて街の真ん中を川が流れる景色が気に入ったこと。二つ目のわけは、数年前から秦野に移り住んだ従兄弟を訪問するため。そして、三つ目、これが最大の理由であるのだが、秦野でPTA広報作りで頑張っているKさんが同郷人であるということ。 私は、KさんとYさんは山形の左沢線沿線の生まれであることを知り、秦野大会の全国交流会で二人を引き合わせた。(まるで仲人みたいだ)この二人は、11月の私の講演会の後の懇親会でさらに親しくなった。そして、なんとYさんの従兄弟はKさんと同じ町内に住んでいることが判明したのだ。 あまりの愛縁・奇縁、いや宿縁? 「武さん、秦野で飲み会をやろう。秦野で新聞の話をしよう。Kさんに幹事をやってもらって」と、Yさんは騒いだのだった。 昨夜6時に秦野駅前を流れる水無川のほとりの居酒屋に集ったのは、遠来千葉からのYさん・古希の人、KさんとSさん―秦野大会の速報作りに大活躍したお母さん、そして私。3時間ほどの宴だったが、「NIEを大人の世界に」などという新聞教育の未来について話に熱が入ったのも場所が秦野だからだろう。
店を出た。居酒屋の上は学習塾なので、勉強が終わった中学生が数人と一緒になった。私を覗き込んだ女生徒が「こんばんわ」と明るく声を掛けてくれた。私が新聞づくりの指導に出かけている東中の生徒たちだった。「いい子たちだろう。これが秦野なんだよ」と、自分にも言い聞かせながら、Yさんに向って高らかに声を発した。
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広報から新聞へ 頑張った情報委員会 【No.722】 2008年12月14日
昨夜8時過ぎ、市P連の情報委員長の石田さんが『情報委員会だより』を持ってみえた。午前中に校正をして、午後から印刷に入り、今作業が終わったところ、とのこと。新聞ソフトを使っての手作り、もちろん、印刷も学校の印刷機を借りて、である。 A3判の2ヘージ、発行部数は1万部。昨日は土曜日、印刷機をの使用を許可してくれた学校、そして一日、その印刷に関わった情報委員の皆さんのがんばりが凄い。留守番をしていた子供たち、家族にも頭が下がる。 「家に子供を置いといて、何がPTA活動だ」という声をときに聞くことがある。だが、情報委員は各単Pの代表者だから、「出たからにはその務めは果たしたい」と思っている皆さんなのだ。 「伝えるだけの紙面(広報)から、考えてもらう内容(新聞)を意識したこの号の制作は大変」だったらしい。 今号の特集は「帰りたいお家」、そして市内9中学校の校歌、校旗、校章の紹介。見出し、記事、そしてレイアウトと、全てに十分に時間をかけた、読みたくなる『たより』だった。
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葉牡丹 【No.721】 2008年12月07日
「マンスリーエッセイ」の11月号に書いた『父は野良歌人 桐生雄』の長男・正彦さんが訪ねて来た。正彦さん手づくりの「雄さんの歌集」を「神奈川新聞に送ったら」と勧めていたのだった。それで「届けたらコラムで取り上げられた」との報告にみえたのだ。新聞社に書いた手紙と掲載紙、それにヒラタケ、ナメコ、シイタケ、葉牡丹の寄せ植えをいただいた。 「父が栽培していたキノコを引き継いでいます。葉牡丹は種から私が育てたものです」という言葉が嬉しかった。
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12月です 【No.720】 2008年12月03日
実りの秋を締めくくる11月の最終週はホームページ「ECHO最新号」に書いたとおりの充実した日々だった。それにしても、この「寺山だより」の空白は…。
12月に入っての生活 1日 市P連情報委員会A班の編集会議に参加。発行予定は今月中旬。忙しい12月に会わせての追い込み。 2日 同B班の企画会議に参加。こちらは来年2月の発行。きょうから庭師が入る。グタグタした生活を見せたら申し訳ない。COVENTRYへ“クリスマスのご挨拶”を送る。 3日 30日の「大山道を歩く」で講師を務めた山口さんが来る。タコーチ山の“錦秋”は、陽が傾くにしたがっていっそう映える。
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秋深まる寺山 【No.719】 2008年11月21日
「ルノアール」での講演会に行ってくれた相原明美さんが、講演のすべてを収めたDVDを作って持ってきてくれた。二枚あるので希望者に貸し出しをしようか。深謝。 きのうのこと、出かけようと車のエンジンを始動させた。まったく回らない。バッテリーが上がっていた。ガソリンの値上げが激しくなった頃から乗用車は週に1回、ジャスコまで食料の買出しに行く以外は乗っていない。走行距離は5キロくらいだからほとんど充電されない。加えてここ二、三日の急激な寒さ。それでこの事態になった。 診てもらったら「耐用年数からすればその時期」らしい。2万円強の急な出費。ちょっと苦しい。
お隣の東中学校の学校新聞が県の新聞コンクールで『最優秀』。きょう横浜で表彰式。拍手。
『遊塵』という冊子が贈られてきた。創設された秦野歌談会の会誌である。お贈りいただいたのは寺尾登志子さん。こんな添え書きが付けられていた。「東中、秦高時代の次男坊・恵仁がご指導いただきました。地元で生まれた小誌、お目通しいただければ幸いです」。『東中新聞』の編集者だった恵仁さんは、その後演劇の世界で活躍している。「創刊にあたって」を書いた山田吉郎さんは、東中時代の教え子。題字は石井泰山さん、その奥さん一子さんの名前もあった。うれしく読んだ。
寺山の景色に深まる秋。今朝、タマネギの苗を150本植えた。そんなに植えてどうするの。
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「大山道道標の地図」完成・まほら秦野みちしるべの会 【No.718】 2008年11月11日
冷たい雨が降った8・9日の二日間、東公民館祭りに参加した。今年は『菊・福助づくり》を展示する「秦野ゆとりの会」の会員としてだけでなく、「まほらの会」の一員としても参加した。 「まほらの会」は、昨年の8月に発足した「大山道の道標を調べ、それを地図にする」会。その一年間の活動で、三枚(三地区)の地図が完成した。会員の二人がイラストと説明文を手書きしてくれた。実際はA3判だが、今回展示したのはÅ0判の大きさ。これは(株)湘南の協力で作ることができた。この拡大版に会員の撮った写真も付けられた。自画自賛だが立派である。 5日に神奈川新聞が紹介してくれたこともあり、大山の本家本元である伊勢原市の教育委員会の方や市民の方が8名も来て下さった。遠くは海老名からも。地図を指でなぞりながら自分の知識を披瀝している地元・東地区の長老姿もあった。会としては、今回の展示で自信がもてた。 展示した地図を含めた資料は、今東中学校で生徒たちに見てもらっている。
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『河童物語』 水は命・河童は心 【No.717】 2008年11月07日
『エコー』を読んでもらっている相原美智子さんから『河童物語』という本をいただいた。 『河童物語』はこんな前書きから始まっている。 「私は、河童に出会ったことがありません。なのにずっと河童に惹かれてきたのです。メモ紙の片隅に、コメントの余白に、手紙のあとに河童を描いてきました。時間があれば、胸に手を合わせている河童、踊っている河童、懇談をしている河童と赴くままに焼き物で表現してみました。河童を描いたり作ったりしているときのイメージは、頭の上にお皿のようなへこみがあり、背には甲羅をもち手足は長く愛らしく悪戯好きだけれど情深い生き物だと思いながらでした。今もほとんど違わないのですが、今、河童がいるともいないとも言えません。でも、私の心の中にはいつも生きているのです。」
相原さんは教職を定年まで務め、河童探しをライフワークにしたのです。 河童の話があるところを訪ね歩き、そこで得た河童のイメージを焼き物にしています。その文と焼き物の河童で構成されているのが『河童物語』です。 いただいた本にこんな手紙が添えられていました。「武先生 河童堂が出来ました。中井町にいらした時お寄り下さい。」 河童堂には相原さんが焼いた作品が350体ほど納まっている。
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歌舞伎町「ルノアール」に電報 【No.716】 2008年11月03日
11月1日 新宿・歌舞伎町喫茶室『ルノアール』で、新聞教育支援センター主催の特別講演会。歌舞伎町に足を踏み入れたのは40年ぶりかもしれない。そのときも新聞の先生たちと一緒だった。 地図を持っているのにかなり迷った。やっと会場にたどり着くと、私宛に電報が届いていた。今日のわたしを激励するのものだった。じつは、きょうは50歳になった秦野東中の教え子たちの同窓会が秦野で開かれていた。 わたしは講演会が先きに決まったので、講演会のチラシを添え欠席を伝えた。それで、電報を打ってくれたのだ。 98文字の電文を読み終える前に文字が滲んでしまった。(電文は11月更新の「『エコー』最新号のページ」)「75名の子たちの力をもらった。きょうは大丈夫!」、落ち着いて開会を待った。 演題は「―きのう、きょう、そして明日― 新聞づくりは仲間づくり」。新聞教育に燃えているベテランの先生、現役の校長先生、新採用の先生、企業人、フリージャーナリスト、今も新聞教育に関わっている元教員、卒論のテーマの勉強にと大学生も。 特筆されるべきは、秦野のPTAのお母さんたち6名の参加。Y先生から「武さんの親衛隊ですね」と聞かれ、「いいえ、介助・支援隊です」と答えるような元気な皆さん。 上映したビデオに30年前の私が登場すると、会場から「若いねー」と嘆声と笑い、そしてわたしを覗き込むお母さんたち。2時から3時間、「新聞教育」について思いのたけを話させてもらった。 会場を新宿駅西口に移し懇親会。16名の参加。楽しい会だった。6人の親衛隊に守られ8時の特急で帰秦。車中で思った。「今日は生前葬だった」と。
11月2日 寺山自治会と婦人会共催の文化講演会に講師を務めた。300戸ほどの自治会が独自に文化講演会を持つ、しかも今年で14年目。この活動を一会員として誇りに思う。 夜の7時から8時半までの時間。『寺山の地名のルーツを探る』をテーマにして話させてもらった。参加者は30名超か。過日「さわやかウオーク」で東・西田原の民俗や歴史を歩いくれた婦人会の会員4名も顔を見せてくれたのが嬉しかった。質問や意見交換も活発だった。新しい資料や情報が得られ、わたしにとってもとても良い時間を持つことができた。
秋の天皇賞、枠連で勝った。本命だから当然?
というわけで、ホームページの更新は遅れています。
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みのりの秋 【No.715】 2008年10月28日
25日 東中学校昭和43度卒業性の同窓会。48人の出席。年齢を考えなければと、帰ってきて猛省。(11月1日更新の『にっきの木』のページ参照)
26日 公民館祭りに出す菊が間に合いそうもない。昨年は自分としては納得したものができた。それで「今年は」と意気込んだのだが、昨年を越えるのは無理なようだ。Nさんに預けておいた《ざる菊》をもらいに行く。「これは《わたしの作品》とは誰も思わない」というくらい見事なものになっていた。 27日 東公民館が企画した女性交流会に出席。東婦人会と東幼稚園PTAとの交流。大ベテランの母親7人に、若いお母さん7人が料理を教わる。そのあと一緒に食事をしながら、館長の進行で子育てのことなど話し合う。こうした交流をきっかけに地域の力を高めるのがねらい。中学生のお母さん二人も飛び入りで参加。オブザーバーは園長先生、自治会長さん、そしてわたし。総勢20名の会。参加者全員にとって楽しく、充実したひと時だった。
28日 市P情報委員会の編集会議。企画「帰りたいお家」は興味深いテーマ。 11月1日の「特別講演会」の資料を会場の『ルノアール』へ送る。秦野からは6人が参加してくれる。嬉しいこと、ありがたいこと。それに応えることはたいへんなこと。
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赤き実のなる木 【No.714】 2008年10月23日
10/22 秋の一日を歩く東婦人会の行事の「さわやかウオーク」の案内役。今回は、東田原、西田原の歴史や民俗を歩いて訪ねるコース。9時から昼食を挟んで5時間半、万歩計は1万2千を超えた。「歩く」ということで、参加者は健脚ぞろいの11名だから、おしゃべりと笑いが絶えない。神社をのぞき、庚申搭や道祖神など路傍の神仏を見て歩いた。 取入れが終わった明るい谷戸田を囲むように点在する家々の庭に、色づいた柿が鈴なり。実りの秋たけなわという景色。「赤き実のなる木」だから「赤木・アカキ」で「カキ・柿」。「稲」は「飯・イヒ」と「米・ヨネ」をつないで「イネ・稲」と呼ばれるようになった。こんな話をしながら歩いた。 ソバの名店『東雲』で昼食。「皆さん、大丈夫ですか」と聞いた私に、「先生が歩けるんだから、私たちは大丈夫!」と元気な声。地元を知るというきょうのウオークは好評のようだった。
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ある講演会で思ったこと 【No.713】 2008年10月18日
興味あるテーマが掲げられた講演会に出かけた。参加は60名ほどで、女性が半数近くの席を占めていた。 動員が掛けられた講演会ではないのだが、始まって30分くらい経つと居眠りをする人が出てきた。パワーポイントを使うなど、工夫されているのだが、専門用語がかなりちりばめられた内容は少々学術的。 終わって質問の時間。二人が発言した。一人は、講演の内容とは直接関係の無いことについての質問だった。講師は、その質問にきちんと対応された。「もしかしたら聞かれるかもしれない」と、準備してきた模範的な答えだった。 もう一人は、講演の中のかなり細かい部分についての質問だった。質問者は、専門用語を駆使し講師に劣らないほどの知識を披瀝した。二人のやり取りは、私には難しかった。きょうのようなテーマの話で質問する人は、講師と同等、いやそれ以上の実力が無ければいけないと思った。 学校で開かれる研究発表会のことを思い出した。公開授業、研究発表、そして質疑の時間、ところが質問はほとんど出ない。参会者が一人も発言しないということは、その研究が無視されたことになる。そう思うと、気の弱い私は恐る恐る手を挙げるのだった。そして、「質問ではなく感想を」と切り出し、感想ではなくお礼を述べたのだった。
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きょう お別れ 【No.712】 2008年10月14日
秦野教育懇談会、市制50周年記念「市民が作る広報はだの」編集委員会、市制50周年記念「ふるさと秦野 景観100選」選定実行委員会などでご一緒した横溝保さんが亡くなった。 リタイアするまでは互いにその存在を知らない二人だった。だが、教育懇談会で初めて顔を合わせからは、たぶん30を超える回数でお会いしてきた。 二宮尊徳の教えの実践家である安居院庄七(秦野出身)の研究者であり、信奉者だった。今、地元で安居院庄七の業績が見直され始めたのは、横溝さんの力によると言えよう。 「市民が作る広報はだの」の編集委員会では、「先輩、先輩」と、いつも私を立ててくれたことが忘れられない。 享年67歳
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タヌキ 【No.711】 2008年10月12日
午後4時ごろだった。この部屋でパソコンに向っていた。右側のガラス戸の擦りガラスの部分に何かの影か動いていた。素通しの部分から見下ろしたら、鼻を地面に押し付け、辺りをを嗅ぎ回っている動物がいる。わずか1b弱の近いところに。体長は30aほどでこげ茶色。口先がとがってる。タヌキだった。野生のタヌキに初めて「ご対面」。今は「ご対面」などと書いているが、その瞬間は“驚き”だけだった。私と視線が合った(だろう)彼はさっと軽トラの下に駆け込んでいた。 数日前から庭続きの畑のサツマイモを掘り出している。その畑の隣りはちょっとした茂みになっている。たぶんそこが住処なのだろう。東小学校の校庭続きのわが家へのタヌキくんの訪問だった。 40年ほど前に、月とタヌキの絵を描いたことがあった。それを取り出し眺めた。「これと同じ姿、いや、違う、もう少し痩せていたな」と思った。私の描いたタヌキくんは丸々と肥えている。 10日ほど前から、蓑毛橋、名古木の玉伝寺の裏、そして弘法山の裾の畑で熊が見られている、とのこと。蓑毛橋は表丹沢の縦走口で、秦野駅からのバスで30分の終点のすぐ近く。わが家から車で5分とかからない。
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